曇り空の、暗い夜。サーチライトで照らされた駐機場に、準備の整った飛行艦が浮かんでいた。流線形に成型された、風を切り裂くための巨大な気嚢。鋭い先端。鈍い銀色。クジラの如く壮大。空中衝角艦サンダーチャイルド。彼女は今、全身にともづなを纏わせたまま、エンジンの作動音を当たり一帯に響かせている。
下ろされたランプを登って搭乗すると、艦長さんが迎えてくれた。いよいよだった。防空指揮所に通されて、離陸の時をいまかと待つ。わたしだけが詰めるこの空間はとても静かで、オープンにしてもらった艦内通信から流れる慌ただしさが、遠い世界の出来事のような隔絶を覚えた。
緊張している。握りしめた掌がしっとりしていた。
半球形の強化アクリルガラスの天蓋の向こうには、雲に覆われた夜空があった。半透明のわたしの姿が、そこに重なって映っている。薄緑のシンプルなパーティードレス。銀の鎖で翡翠を吊るした、母の形見の首飾り。編み上げた髪。外見だけはどうにか恰好がついてるけど、内実は万全からは遠かった。
わたしの中に残ってるオーラの量は、満タンの七割ぐらいしかないと思う。実際に使える量は二割ほど。それ以上オーラを消耗すれば、暴走はきっと抑えきれない。休息はできる限りとったけど、あの時の噴火のような攻撃は、重い負担になってのしかかっていた。
雨が、降りそうだった。
ともづなが解かれた。飛行場を飛び立ったサンダーチャイルドは仰角をとって上昇し、雲間目掛けて飛び込んでいく。加速がきつい。雨雲の中に突入すると、ガラスに水滴が流れていく。気流が乱れて猛烈に揺れる。だけど些事は歯牙にもかけず、あっという間に突き抜けていった。
雲の上には海があった。果てしなく広がる雲海だった。静かで、とても綺麗な世界だった。月の光が白く照らして、地上とは逆にほのかに明るい。飛行艦の上昇は止まらなかった。エンジンがさらに勇猛に唸る。艦首を一杯に持ち上げたまま、星々を目指して上がっていく。
「25000ft、予定高度に到達しました」
「よーし。アップゼロ、進路12時、最大連続推力」
スピーカーから航海艦橋の様子が流れてくる。艦長さんのオーダーでスロットルが調整され、時間制限のある離陸推力からこの高度で持続可能な最大値まで出力を絞った。水平飛行に移行して、あとは目的地まで一気に飛翔していくだけだった。
そう、だった、はずなのに。
わずか十分後、艦内を強烈な衝撃が飲み干した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
十年前、この国は混沌の渦に呑まれていた。
長く続き、何から何まで腐敗しきった内乱の時代は大国の介入により集結した。腐敗しきった独裁政権は崩壊し、腐敗しきった反政府ゲリラの上層部もまた、多くが国外へと亡命した。国内には困惑と歓声が満ちあふれ、治安は悪化し秩序は混乱へと変換された。同じ街で同じ時間に、政治犯の釈放とリンチや略奪が平行して行われていたのである。
希望はあった。街には失業者が溢れ、問題は山と積まれていたが、根拠のない希望だけは辛うじて燃え尽きていなかったのだ。例え二度目だとしても。宗主国から独立した後の経緯がまだ深く刻まれていたとしてもである。流出していた人材も、着々と祖国へ舞い戻り始めていた。
空爆で煤けた瓦礫の上に、新しい国作りが始まった。
彼は運がよかった。生まれつき体格に恵まれていて、三男であったが故に跡を継ぐ心配もしなくてよかったのだ。むしろ、早々に独立して食い扶持を減らしてやる必要があった。だから国軍新設の噂を聞いたとき、迷う事なく志願を決意したのだった。それまで働いていた国営の小さな紡績工場は政権転覆と同時に工場長が逃亡し、設備は略奪の果てに消えていた。
当時、年齢は十九歳。気力も体力も十分だった。性格も実直で通っており、部族の長老も志願センターの担当官も、君ならいい兵士になれると太鼓判を押してくれた。
新設国軍は大国の指導という名の全面投資の元に創設されており、給料は国際通貨ジェニーで支払われた。これがとてもありがたかった。以前の通貨が正真正銘のゴミと化していた為に、その頃の経済は物々交換の様相を見せていたのである。トイレットペーパーの一箱、ストッキングの一つで隣人の一晩が買えた時代だった。
三ヶ月間の初期訓練を終え、最初の休暇をもらった時の記憶は未だ鮮明に思い出せる。窓口に並ぶ行列は誰も彼もがにやついていた。もちろん、彼自身も頬が緩むのが止まらなかった。じわりじわりと前へ進む時間さえもが楽しくて、何もかも嬉しいひと時だった。差し出した書類に受領印を押してくれた小太りの男が、優しく笑って封筒を渡した。六万ジェニーしか入っていないはずの封筒が、とても厚くて重く感じた。
三ヶ月間、毎日汗だくになって訓練して六万ジェニー。月給に換算すれば二万ジェニー。今ならば薄給すぎる条件だろうが、当時は破格の待遇だった。正規レートで現地の旧通貨に交換すれば六百八十二ベンド三十四フェスになるのだろうが、無論、そんな馬鹿な真似をする人間は一人もいなかった。
彼はさっそく友人達と合流し、訓練所の売店で十ジェニーのアイスバーを一つ買った。砂糖水に色を付けて凍らせただけの商品だったが、午前の訓練を終えた昼休憩の時、これを食べるのが楽しみだった。
故郷への土産はなにがいいだろうか。煙草、酒、小麦はもちろん、トウモロコシの粉もいい。綺麗な柄の布も女達がさぞかし喜ぶだろう。冷たいアイスを齧りながら、彼らはそんな話題で盛り上がった。
あれから、まだ、十年しか時は流れていない。
高層ビル地階のエントランスホールの真ん中で、彼は降りしきる雨音を聴いていた。ガラス張りだった壁面は無惨に破れ、大理石の床に血液の池が広がっている。部下だった遺体が六つ、虚ろな瞳で転がっていた。操縦手と車載機関銃手の遺体はここにはない。彼らの傍らで炎上中の、装甲兵員輸送車の中だろう。夜闇の中、赤い炎が彼の顔を照らしていた。
「曹長殿、参りましたね」
背中を預ける一等兵がぽつりと言った。黒い国家憲兵の制服を着こなした、二十歳頃の男だった。彼には馴染みのない顔だったが、確か、この混乱で落伍していた所を拾ったという事情だったはずである。飲み込みが早く目端が利く、よそ者ながら邪魔にならない兵だった。原隊では、きっと重宝されていた事だろう。今では、彼ら二人しか残っていない。
「俺なんてな、来月娘が産まれるんだぜ。三人目だ」
「やめましょうや。そういう話は」
その二人を、数多の水塊が囲んでいる。幾百か、あるいは幾千も万もあるだろうか。拳大ほどの小さな怪異。透明な体表をふるふると震わせ、部下達の遺体に縋り付いてはちっぽけな体を嬉しそうに波立たせる。死体に群がる性質があるのか、あるいは何かを摂取しているのか。どこか可愛らしいその仕種は、そうであるが故にかえって無気味でおぞましかった。
ずるり、ずるり。ゆっくりと這いずり距離を詰めてくる怪物たち。グリップを握る手が汗をかいている。弾倉は既に最後の一つだ。後ろの一等兵に至ってはとうに全弾を使い果たし、今では軍用シャベルを構えている。先端をよく研いだそれは土と言わず人体と言わずに突き刺さる上、胸を衝けば肋骨に邪魔されず引き抜けて、振り下ろせば鈍器にも使える優れものだった。だが、このスライム相手では気休めに近い。
近付いてきた箇所に、ぱらぱらと小銃撃ってみる。正確な狙いは必要なかった。水の塊は広いエントランスホールを埋め尽くし、めくら撃ちでも外すのが難しい。連中の柔らかい体が着弾に耐えきれるはずもなく、貫かれ、砕かれ、水滴を散らして沈黙する。殺せたのか。そう安堵することはできなかった。
砕かれた破片がうぞうぞと動いた。貫かれた穴が塞がった。分散されたものは再び一つの塊に結集し、あるいは他の個体に吸収されて一部となる。やはり、効いていない。ろくなダメージを与えられない。この、怪奇な雨水の集合体には、少々の打撃では時間稼ぎにしかならなかった。
「とにかくどこかへ合流しましょう。せめて情報を上に渡さないと死ぬに死ねませんや」
一等兵が言った。無駄死にはごめんだ。そういうことだろう。彼自身、それには心の底から同意する。散々抵抗した苦労のためにも、ここで倒れた部下達のためにも、何でもいいから成果が欲しい。しかし光明は見つからず、今こうしている間にも、敵達はじりじりと寄ってくる。
「同感だが、こいつらをどうかしない限り無理な話だ。良い案があるのか?」
ここを突破できない限り離脱はできず、無線も混乱が激しくろくな情報が送れない。悔しくてもそれが実情だった。
「あれですよ」
一等兵が指し示したのは、未だ炎上する装甲兵員輸送車だった。ガラスを破って突入させ、即興の簡易トーチカとして使用したものである。一時は車載された機関銃で奮闘したとはいえ、この状態ではさすがに役立たない。
「あいつが、どうした?」
「ええ。うちは自動車化されてますから、装甲車は基本、各分隊一両ずつあるわけです。そんなに沢山の車両があるんでしたら、誰も使ってない、無傷のままのやつってのも見つかるんじゃありませんか?」
「なるほどな。だがそれからどうする? 戦ってもさっきの二の舞になるだけだぞ」
「戦いません。逃げます。大通りを一目散に突っ切って、この街を包囲している空挺師団の元まで駆け込みます。そこからなら、情報を上げるルートもあるでしょうよ」
曹長は頷いた。目端の効く奴だと思っていたが、この窮地で冷静に逃げる事を考えられるとは、なかなかできる事ではなかった。ここで殺していい若者ではない。殺したくない。彼はそんな思いを抱き始めた。
「いいアイディアだ。だが、一つ欠陥があるな。この包囲をどうやって突破するかだ」
「人間、死ぬ気でやれば意外と何でもできるもんですよ」
「頼もしいな」
もう時間がない。今はじりじりと這っているが、いざ間合いに入れば、こいつらは意外なほどの瞬発力で飛び掛かってくるだろう。一匹二匹といった単位ではなく、全体が、怒濤の如き勢いで。
「お前、手榴弾は残ってるか」
「ええ、一つだけ」
「上出来だ。よこせ」
「……それは、曹長殿」
背中合わせに手榴弾を渡しながら、低い声で男が尋ねた。
「ここで殉じられるんで?」
「ああ、それしかないだろう。行け。俺が時間を稼いでやる」
右手に小銃。左手にたったひとつの手榴弾。それしかない。だが、それだけでいい。彼が軍隊で禄を食んだ十年間は、決して伊達ではないのである。死ぬ気でやればなんでもできるのであれば、知り合ったばかりの一等兵を生かすため、ここで果てるのも面白い。
「……よろしいので?」
「くどいぞ。俺はここで部下達と眠る。お前は好きなように命を使え」
あの雨の中へ飛び出す勇気を持つ若者に、彼は最大限の賛辞を秘めて促した。だが、しかし。
「……ったく。これだから真面目な連中は」
「なに?」
ざくりと、シャベルが何かを突き刺す音がした。それが自分の後頭部だという事に彼は気付かず、痛みすら感じないまま地面へ落ちた。大理石にぶつかり、頭が微かにバウンドする。冷えていく意識の中、見上げた一等兵の表情は、異常なまでの自然体を保っていた。
「本当は俺の銃でちゃんと打ち抜いてやりたかったが、わりぃがオーラを節約したいもんでな。しっかし、あのガキ。人がせっかく食い込んだ部隊を潰しやがって」
あいつとのタイマンに持ち込むための手駒にしたかったんだがな、など、訳の分からぬ言葉を呟いている。彼の体は、既に指一つ動かない。視界が暗くなってきた。それでも、あの怪異が這って来るのが気配で分かる。
「ん? 意思があるのか。一緒に来るか?」
微かに見えたスライムが、その言葉に全身を震わせた。それが、喜びの仕種に見えたのは何故だろうか。
「じゃあな。ほんの一瞬の付き合いだったが、あんたの事は嫌いじゃなかったぜ」
彼が最後に目にした光景は、迫り来るシャベルの先端だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
轟音を越えた空気の津波。床が消失したかの様な振動。サンダーチャイルドの巨体が比喩を抜きに波打ち、それが爆発だという事を一瞬遅れて理解した。唐突な、完全な不意打ちに思考が消える。本能的に爆発源を探して振り向くと、艦体の後方、航海艦橋のさらに向こうから、紅蓮の炎が輝いていた。黒い煙が後方に流れる。いえ、それよりも、その前に。
「ダメージコントロール! 何があった!」
艦長さんの叫びは悲鳴に近い。応える人も訓練通りの条件反射で、コンソールの情報を読み上げているも同然だった。
「後部気嚢反応なし! 中央第二気嚢内圧低下! 艦体後部にて自動消火装置作動中! 浮心、前方限界を超えています!」
そして、意味を理解して、自分達の言葉に驚愕する。一度認識してしまえば、事態は誰の眼にも明らかだった。銀に輝く巨大な気嚢の、お尻が、ない。
「エンジン、全機オールグリーン! アクチュエータシステム正常です!」
「こ、後部気嚢および尾翼、消失しています! 艦尾観測室、連絡とれません!」
「隔壁作動箇所全確認。与圧は維持されています!」
「バラスト移送ポンプ、反応しません! バルブの破損を確認!」
何人もの報告が通信を埋める。良い情報に悪い情報。その間にも、艦体はゆっくりと頭を上げていく。さっきまでの上昇の如き勇ましい姿ではなく、儚くも地上へ引きずり落とされる予兆だった。
「後部バラスト緊急投棄!」
「アイサー! 後部緊急バラストバッグ、後部バラスト水、後部各タンク燃料、全投棄!」
「爆心推定できました。……そんな! 艦尾第二倉庫? 営倉ですよこの区画!」
隔離室、つまりは牢屋のことだろう。火気のあるような場所ではなかった。人気のある場所でもない。考えられるとすれば、それは……。
「艦長、電測です。うちの部下が爆発の寸前に艦尾から燃料が噴霧されたのを観測しています。しかしこれは」
「いや、いい。細かい事は後からだ。皆には周りに不審な動きしてる奴がいればぶん殴っておけとだけ伝えておけ」
「了解しましたっ!」
オペレーターさんに命じてから、艦長さんの通信がわたしを向いた。頼りがいのある男の人の声で呼び掛けられて、芽生え始めた孤独と不安が緩和される。
「無事ですか?」
「わたしは平気です。それより、この艦こそ大丈夫ですか? もし航続が不可能でしたら、わたしはここから飛びますが」
わたしの飛行速度は、所詮は鳥の羽ばたきの擬態でしかない。高度もこんなにとれないから、もっと空気の濃い場所を飛ぶことになる。だから、遷音速巡航ができるこの飛行艦とは比べるまでもないほど遅いけど、それでも、わたしはアルベルトを助けに行かないと。
「いえ、しばしお待ちを。できる限り近くまでお届けしますので」
言って、艦長さんは通信を他所に切り替えた。不可能な大言をする人ではない。気が付けば仰角もさっきより減っていた。流れてくる情報に耳を傾けると、前部の気嚢からガスを抜いて、浮力を減らしてトリムを調節したのだと理解できた。そんな事をすれば、全体の浮力は増々減ってしまうだろうけど。
「スロットル、最大戦闘推力まで開け! 全艦に通達する。いいか! 機関員はエンジンから絶対に目を離すな! 他の連中は全力で応急作業! 手が空いたら目についた重量物を片っ端から投下しろ! ぐずぐずしてるとそいつから外に放り出すぞ!」
艦長さんの下命で気合いが入って、艦内が慌ただしく動き出した。アクチュエータが轟音でがなり立てる。猛烈な勢いの噴流が、艦体と干渉して鼓膜を揺らす。やる事が見つかったからだろうか。みんなの声だけじゃなくて、そんな騒音までもがどこか明るい。
「上申! こちら対地観測! 全武装の投棄を提案します! 現在雲下に市街地なし」
「よしやれ!」
「アイ、サー!」
防空指揮所のモニタの一つに、ウエポンベイが全開した様子が映されている。眼下にたゆたう雲海目掛けて、ぱらぱらとミサイルや爆弾が散っていく。一緒に、フレアやチャフからロッカーのような用具まで、あらゆるものが捨てられていった。それでも、高度はジリジリと下がっている。
「偏流でかなり流されてるな。操舵手、13時の方向へ回せるか?」
「尾翼を損失しましたから、操縦舵面がまるで足りません。今は直進だけで精一杯です」
「そうか、分かった。可能なときに少しずつ針路を修正してくれ」
「了解しました」
以前、あれだけの腕を誇っていた操舵手さんでも旋回できない。いえ、違う。直進できてる事だけでもすごいんだ。普通なら、とっくに迷走していておかしくない。それだけ深刻な損傷だった。
「艦長、中央第二気嚢の内圧低下が止まりません。損傷部、充填材による補修限界を超えています」
「ネットで保持できないか?」
「既に試したそうですが、この高度の気圧では」
「そうか。分かった。追って指示する」
「了解しました」
状況はかなり悪かった。沈降を止める手段がない。それは、サンダーチャイルドに乗ってる乗組員の命が危ない事を示していた。下方には雨雲が群れている。上昇するときに乗り越えた乱気流は、今度はこの艦の命脈を絶つだろう。雲上からのパラシュート降下は論外だ。少しでも彼らが生き残る確率を上げるためには、任務をすぐに切り上げて穏やかに不時着できる場所を探すしかない。
「艦長さん、わたしに何かできることはありますか?」
忙しいとこに邪魔になるかもしれないけど、少しでも何かをしたくて通信を入れた。彼らがこうしてわたしを送る事に専念すればした分だけ、命を削るに等しいって分かってたから。
「いえ、大丈夫です。ここは一つプロに任せて、じっくり休んでてくださいや」
「でも……」
「艦長! 中央第二気嚢の応急処置、完了したとのことです!」
「なにっ?」
「報告入りました! ブラウン大尉以下三名、外壁を伝って損傷部位に保持ネットを展開、充填材の足掛かり確保に成功しました。完全に塞ぐには至りませんでしたが、沈降速度は緩和されます!」
全力航行中の飛行艦の外壁を、零下50度の極寒の空で!? そんなこと、念能力者だって出来はしない!
「あいつらめ……。ははっ、あいつらめ! あの、馬鹿共めっ!」
艦長さんが笑い出した。とても楽しそうな笑いだった。息子さんが試験で満点を取った時のような、徒競走で一番になった時のような、幸せそうな泣き笑いだった。
「あいつらめ、俺に黙って。よしっ! よくやった! 帰ったら好きなだけ奢ってやると伝えておけ! 最高の店に連れてってやるぞ!」
「わたしが迎えに行きます! わたしなら風を防げますし、飛べますから!」
思わず叫んだ。念の秘匿なんて関係ない。どうせこの艦の人達には、朝の戦いのおかげで暗黙の了解以上のものになっているんだ。小さな事情にこだわっているより、今は救うべき命を救いたい。例え高高度の寒空だって、わたしならきっと耐えられる。いいえ、そうじゃない。その人達のためにも、絶対に耐えてみせないと、
「おお! お願いできますか?」
「……いえ、できません。艦長、ミス・エリス」
「なんだと?」
「続報が入りました。彼らは最後までネットの保持に全力を尽くした後、全員、力付きて落下しました。全員、です」
「そう、か……」
浮かれていた空気が凍ってしまった。艦長さんが肩を落とした、航海艦橋に佇むその姿は、可哀想なほど小さく見えた。俯き、両手を堅く握りしめて、掌から血の雫がポタリと垂れた。だけど、それもほんの十秒ほどで、再び上げた顔は、何か強烈な意思に燃えていた。
「そうか、よくやった! 全艦に通達する。回線開け!」
血の滴る左手でマイクをギュッと握りしめて、右手を拳に、艦長さんが事の経緯を簡単に話した。艦内の気配がしんと静まる。そして。
「総員に告ぐ! 俺達の到着を待ってる奴らがいる! あいつらだけにいい格好はさせるな! 本艦はこれより墜落を前提に行動する! スロットル全開! こんな状態だ! 機関を惜しむような間抜けはするな! 進むぞ1」
数秒の沈黙。艦長さんが息を吸った。右手が上がって、振り下ろされる。
「前進一杯!」
返事は歓呼にとって代わられた。いえ、歓呼の様な、応諾だった。怒号の如き正義だった。死地へと向かう覚悟だった。見えない位置でも気配で分かった。飛行艦中の命という命が鮮烈なオーラを噴出させて、全身に紅蓮の熱気を充満させてる。念。それが生命の意思を原動力にする異能なら、この人達の滾らせる魂は、限り無くそれに近かった。
ギアが、噛み合った。
目の前で起こったあまりの変異に、わたしは自分の正気を疑った。
空中衝角艦サンダーチャイルド。銀色の巨体は今、真に生命として力を受けた。艦体そのものをオーラが包み、ひとつの個として咆哮を上げる。流れる血潮はジェット燃料。秘めた骨格はジェラルミン。チタン補強の衝角を備えた、史上最大最速のクジラだった。
それは、念能力者にしか分からない命の在り方。本人達は気付いてないだろう。劇的な変化もありはしない。この飛行艦の運命は尚も変わらず、いずれ墜落する定めだった。それでも。
シャフトが踊る。タービンが唸る。傷付いた体を苦ともせずに、流線形の体で空を泳いだ。クルーのオーラを暴飲して、命と引き換えに一メートルでも前へ進むために。
今宵、彼女はこの空で誕生した。星の下を泳ぎ、眼下の雲海に溺れて死ぬために、ただ一時のために生まれたのだ。
これは既に奇跡ではない。奇跡を越えた必然だった。わたしは今、体が震えて止まらない。畏怖ではなく、恐怖でもなく、ただ、涙がこぼれて止まらなかった。わたしの中の深い所で、恐ろしい何かが鳴動している。
「艦長さん、こちらと艦内全域を通信で繋いで下さい」
長く喋るつもりはなかった。伝えたい事は一つだけ。
「皆さん、多くは求めません。皆さんの命をわたしに下さい。絶対に、負けませんから」
そして、忘れませんと、たったそれだけで通信を終えた。わたしは、彼らの命を飲み込む事を受け入れた。それを知ってもらいたかっただけだった。それ以上は、余計な感傷だろうから。
「聞いた通りだ。お前ら、俺達の国を守るぞ!」
大歓声が艦を揺るがす。彼女自身の纏うオーラも、嬉しそうに震えていた。
彼らは死ぬ。この空で、墜落して全員死ぬだろう。それでもいいと。功績も賞賛もいらないと。ただ、前へと。皆の総意をエネルギーに、クジラは大気を切り裂いて加速していく。纏わる衝撃波を押し返しながら、高度を徐々に下げながら、見る間に皆のオーラを消耗しながら。それもただ、前へと。
何かに似ていると、ふと思った。
そうだ。パクノダさんから聞いたジャッキーさんの最後。それとそっくりだったんだ。
気嚢から流れるガスは止まってない。サンダーチャイルドの高度が下がる。雲がもう、すぐ下に迫っていた。飛距離は大分稼げたけど、この艦の寿命は、すでに幾許も残ってはいなかった。もう、お別れだった。
赤い翼を具現化する。星空へ向かって光を放って、強化アクリルガラスの天蓋に大きな穴を開けた。途端に暴風が流れてくる。冷たくて痛いこの風は、飛行艦の早さの象徴だった。
飛び出す前に振り向いて、航海艦橋を最後に眺めた。にこやかに笑った艦長さんが、さよならと片手を振ってくれた。つられて艦橋の人達が、それぞれに別れの合図をしてくれる。照れくさそうにサムズアップするおじさまから、投げキッスを送って来る若い人まで。わたしも思わず微笑み返して、一度だけ、スカートを摘んで礼をした。
空を睨んで翼を広げる。吹き込んでくる風に乗って、体は外へと投げ出された。全身に強烈な抵抗を受けたまま、わたしは上へと吹き飛ばされた。サンダーチャイルドが前に出る。速度を保ったままの巨大な体が、わたしからは加速したように見えていた。
胸が絞まって、目頭が滲む。凍える風に心が熱い。
翼を強く打ち下ろす。羽ばたきで飛ぶには、この高度の空気はまだまだ薄い。オーラの消費は痛いけど、具現化する規模を大きくした。
最後の時が訪れた。鈍い銀色の艦体が、雲海を鋭く掻き分ける。損傷した尾部が痛々しい。気嚢が、雲の表面で一度僅かにホップして、その直後に左へ横転しだした。傾きながらゆっくりと、黒雲の中に沈んでいく。
雲間から紅蓮の炎が立ち上った。何かが爆発した音がした。エンジンの轟音が小さくなった。そうして、彼女は豪雨の中へと消えていった。きっと、一人も助かりはしないだろう。あの下では、血に濡れた雨が降るのだろうか。
眼をつぶり、開いた。感傷に浸る暇はなかった。ここで翼を休めたらならば、彼らの意思が無駄になる。
急ごう。きっと、わたしを待ってる人がいる。
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【空中衝角艦サンダーチャイルド 全系統】
使用者、同艦乗組員一同。
実在する飛行艦を礎に、一個の独立した疑似生命体を創造し操船する。
創造された疑似生命体の性能はオーラの合計量および各系統の割合によって若干変化する。
厳密には一つの発と呼べるほど確立された念ではなく、才ある人物が知らずのうちに物品にオーラを込める現象の延長である。
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次回 第二十話「無駄ではなかった」