夜の荒野を雨が叩く。地面はぬかるみ、幾筋もの流れが土地の起伏に沿って生まれていく。視界は悪い。闇の中、誘導灯の赤い光が規則的に動き、装甲車両のヘッドランプが辺りを白く染めていた。アルベルトが見守る目の前で、三個小隊十二両の戦闘車両は、静かに、迅速に、厳かに、二列横隊を完成させた。
空挺戦闘車。飛行艦による迅速な展開を前提に開発されたため、わずか八トン強の軽い車体に機関砲と機関銃、および対戦車誘導弾を搭載している。また後部に兵員を五名搭載する能力を持ち、歩兵戦にも対応していた。その役割から空挺戦車の名で呼ばれる事もあるのだが、単体で見れば武装も装甲も貧弱な歩兵戦闘車の亜種でしかない。だが、陸軍の誇る精鋭部隊、空挺師団が使えば話は代わる。
彼らは猛者の中の猛者だった。火力に頼れないが故に体を鍛え、装甲に頼れないが故に体を鍛えた。空挺師団の練度は他師団の平均を遥かに上回り、他部隊の者達からは揶揄を半分、畏怖を半分にこう評される。即ち、狂っている、と。
この十二両、三個小隊十二個分隊は、そんな精鋭の中から決死隊を募り、厳選に厳選を重ねた最精鋭である。至高の中の至高。益荒男の中の益荒男。それをもってあの街に楔を撃ち込むのが、アルベルトの打ち出した方針だった。
「師団長、アルベルトです。こちらは準備が出来ました。いつでも行けます」
「了解です。お好きなタイミングで出撃して下さい。しかし、よろしかったのですか? 戦闘飛行艇も抽出できましたが」
「ええ、この気象条件では、さすがに運用は厳しいでしょう。戦闘を行うには、何よりも視界が悪すぎます」
「それはパイロット達も覚悟の上です。その上で皆が志願してきます。いえ、実のところは抗議に近い。なぜこの局面で我々を投入してくれないのか、とね」
「お見事です。しかしその覚悟は、包囲網の維持と、事件終息後にこそ役立てて下さい」
通信を終えて息を吐く。
撹乱され尽くした憲兵隊を、アルベルトは戦力的に見限っていた。だが、空挺師団にも、本当は何も期待してないのに等しいのである。あの街の包囲と、ついでに火力支援でもしてくれれば十分だった。決死隊もただの脚と見なしており、速度と体力温存以外の存在意義をろくに認めていない。
士気が上がる気持ちは分かる。だが、アルベルトの中に潜む非人間的な演算装置は、理を捨ててまで余人の情熱に報いる選択を示さないのだ。ただ一つ、彼の義妹が関わるケースを除いては。
故に、包囲部隊から最小限の精鋭戦力を抽出し、それを捨て駒とするつもりだった。何かあればすぐに自害しろ。犯人の言葉に踊らされないよう、これ以上クーデター騒ぎを起こさないよう、事前にそんな指示をも与えてある。徹頭徹尾、合理的で冷たい思考だった。
——アルベルトは優しいわ。わたしなんかより、ずっと、ずっと。
いつだったか、エリスが口にした事がある。しかし、これが現実だ。自分達の判断ミスにより追い詰めた手配犯を取り逃がし、国家憲兵隊を撤退させず時間稼ぎの為だけに崩壊を阻止し、あげく、さらに捨て駒を切り込ませる。だから、アルベルトはこう考える。もし仮に、彼に優しさがあるとしたら、それはエリスの影響をうけてのことなのだ、と。
目を伏せ、アルベルトは一つ思いに沈んだ。もし仮に、全く冷徹な機械と化してしまったらどうだろうか。それはきっと寂しいだろう。そして、それを自覚する事すらできないのだ。
今はまだ、寂しいと思う事ができている。
「失礼します。師団長より緊急の報告です」
若い将校が声をかけてきた。眼鏡をかけた、理知的なまなざしの大尉だった。
「西側に幻影旅団と思しき勢力が接触してきました。人数は四名。手はず通り、遠距離からの火力投射に専念し、遅滞と被害の極限に努めています」
「わかった。突破されても構わないから、深追いは厳に慎んでほしいと伝えてくれ。水塊だけは絶対に逃がさないように、とも」
「了解しました」
アルベルトはそう指示を出した。現段階で、旅団を排除する有望な手段は彼らにはない。ならば、まずは事件の犯人を処理するという基本方針を、土壇場で変えるのは無益だった。まして、交戦中の空挺師団への救援など、ろくな処理時間も割かずに却下された。
準備を整えた突入部隊を見渡した。彼らは皆、無言のうちに不思議な熱気に包まれている。アルベルト自身の体調も良好だった。オーバークロック2を使用した際に脳への物理的反動は検出されず、身体の損傷箇所も一通り修復が終わっている。ただ、仮に連戦を考えるなら、オーラの残量が今一つ心許ないのが懸念された。
切り札には、今しばらく切り札でいてもらう必要がありそうだった。
アスファルトに溜まった雨水を、履帯が盛大にかき分ける。装甲が風を切って雨粒を蹴散らす。勇猛な突進。新市街の中心、セントラルビルへと続く大通りを駆け抜けるのは、空挺師団突入部隊の二列縦隊だった。
先頭車両の上面装甲にはアルベルト自身が跨上している。望遠モードで強化された眼球から周囲の情報が高精度で取得され、右目にかぶせたセンサーからは生存してる憲兵部隊の配置と各報告が、消息を絶った部隊の最終位置と壊滅時刻が、データベースを介してリアルタイムでやり取りされる。その有り様は、自走する指令室に近かった。通常の念能力者が得意とする自然と一体化する探索こそ不可能だったものの、このようなデジタルな捜索は、至極、上手い。
車列を疾走させながら、的確に、迅速に、痕跡を辿りつつ被害の新しい方向へと進んで行く。奇妙な点があった。スライムの被害が段々と、一箇所に集中しつつある。なにか誘因する材料があったのか、それとも、近くに能力者がいるのだろうか。
疑念を抱き、アルベルトが警戒を高めた時だった。常駐する自動防衛管制が反応し、全力での跳躍を作動させた。ほぼ同時に、跨上していた空挺戦闘車が狙撃された。上面装甲に空いた小さな穴は内部の構造を打ち砕き、飛び回る破片が乗員をズタズタに損傷させた。弾薬が破裂し、エアロゾルと化した燃料の軽油に引火し、車体は炎上しながらもスピードを上げる。後続車両は怯まない。もし自分達が撃たれていたら、きっとそうすると分かっていたのだ。
アルベルトは空中で姿勢を整え、空気抵抗を調節して別の車両に降り立った。燃え盛る車両は全速のまま、ハンドルを切って傍らのビルに突っ込んだ。壁が砕ける音がする。全ては、縦隊を乱さないためだった。
「全車両、目標、セントラルビル屋上周辺。行間射撃!」
マリオネットプログラムが着弾から弾道を算出し、合成音声が部隊に命じる。前方の高層ビルの屋上に、直線距離およそ1000メートルの彼方から、拳銃でありえない長距離狙撃を成し遂げた人影があった。アルベルトと目が合い、その男は驚いたように息を呑んだ。間違いない。
機関砲の着弾が折り重なり、屋上にあった人影が消える。仕留められた可能性は皆無だった。アルベルトは車列に加速を命じた。所詮は弾幕にすぎない命中精度の行間射撃を続けるよりは、一刻も早く駆け付けた方がましだった。
しかし、それを阻むものがいた。
雨水が河を作る路面から、数多のスライムが湧出した。群体で壁となって前を遮る。それは静止した大波だった。粘性の高い防壁だった。突入すれば命はない。そう理解するだけの威圧があった。
アルベルトは両腕を真っすぐ伸ばし、肩よりやや高い位置で大きく開いた。手信号である。二列縦隊はたちまちのうちに変形し、走行しながら逆楔の陣型を形作った。彼が何をするつもりなのか、既に全分隊が悟っている。合成音声が命じると同時、ブレーキがアスファルトを激しく削った。けたたましい音が一斉に鳴る。装甲車が急停車を果たした直後、すでに準備を終えていた対戦車誘導弾が一点目掛けて斉射された。
炸裂する弾頭。炎と破片と水蒸気が爆ぜる。もうもと上がる湯気の中心を目掛けて、猛スピードで突き進む車両があった。無論、アルベルトの跨上する一両である。
突入部隊の攻撃で空いた穴を一心に目指し、装甲車は全速で突入した。スライムの補充は間に合わない。生き延びた僅かな水塊はアルベルトが機械的に正確な念弾で処理していく。阻まれる道理がなかった。何者かの、行かせないという強い意志を感じるオーラは儚くも蹴散らされ、一両は水の壁の向こうへ消えていった。
決死の支援は成功した。突入部隊の役目はここで終わり、あとは離脱すればそれでよかった。
大量のスライムが蠢いている。壁状になっての阻止から一転、両翼を延ばし包囲しようと動き出した。しかし彼らは車上である。道を完全に塞がれなければ、速力に任せて逃げられるだろう。
逃げられたはずだった。
絞り出す様に小さな体を捻らせて、少女はえずきを繰り返している。吐き気がした。頭痛がした。悪寒がした。だがもう、胃液もろくに出てこない。涙と涎だけが止めどなく体から滲み出て、ぽたぽたと地面に垂れていった。あきらかに、やりすぎた能力強化の反動だった。
彼女は、大量のスライムに埋もれていた。
主である少女を心配そうに、プルプルと震えながら取り巻いていた。体表を流れる冷たい水は、体に貼り付く濡れた衣服は、体力を際限なく奪っていった。その水からも、ぽこぽこと新しい個体が生まれてくる。
しかし、オーラが尽きそうな気配がない。
栄養を補食してきたのだろう。帰ってきたスライムの一団から少女にオーラが供給された。体の芯が熱くなる。だけど、こんなものより、少女は腹を満たす食事が摂りたかった。疲れより空腹を癒したかった。たとえばそう、奮発して買った、二人で作った、美味しくできた、暖かい……。
……暖かい、何を、食べたんだっけ?
はは、と少女は力なく笑いをこぼしていた。思い出せなかったのだ。何も。改心の出来映えの何かの味も、日常的に食べた何かの味も。ぽそぽそした、味気ない固形の何かの味も。それらにまつわる思い出さえも。
例えばそう、二人並んで楽しく笑って、予想だにしなかったハプニングがあった、はずなのに。
「ふふっ、ははは……。そうね。そうだったものね」
一筋の涙が新たに零れる。これは代償だ。過ぎた力を得るために、精一杯手を伸ばした咎だった。身の程を知らぬ愚者のために、天が授けた枷だった。彼女が用いる念の報いは、あまりに痛く辛かった。犯されたくない時に犯されねばならず、失いたくないものを失わないといけない。しかし、それをしなければ、彼女には何一つ力がないのである。
カランと、胸元からこぼれ落ちたものがある。古びた銀製のスキットル。あの男から最後に渡された、気にかけてもらえた証だった。数少ない心の支えだった。
はっとして、少女はそれを胸にかき抱く。なくしたりしたら大変だ。どこにでもあるはずの銀の肌が、優しく柔らかく暖かかった。ポチャリと鳴ったウィスキーの残りも、頼りがいのある音色に聞こえた。物品には執着できない性だったが、これだけはどうしても手放したくない。そう、少女は心から願いを込めた。男から授かった赤子にも等しく、愛しく思えてきたのである。
雨に打たれながら、少女はじっとそうしていた。体の不調の波が引くまではと、スキットルを抱き締めて耐えていた。深くゆっくりと息を吐き、吸い、時間が経つのを待っていた。
そうして、ようやく落ち着いてきた頃だった。後ろから近付いてくる気配を感じた少女は、誰だろうと慌てて立ち上がり振り返った。あわよくば想い人であればいいとも期待したが、すげなく裏切られることになった。彼女は身を固くする。驚きと、生存本能が鳴らした警報のために。
ただ、巨大だった。
筋骨隆々とした逞しい巨躯に、野性味溢れる毛皮を直に羽織っている。巨大な骨格に巨大な筋肉、巨大なオーラを纏わせていた。ヒトの形をした暴力の塊。そしてなにより魂が巨大だ。少女と目の前の人間は、単純に、存在の基本となる格が違っている。
「なんだ。まだほんのガキじゃねーか」
つまらなそうに野人は言った。濡れた蓬髪をかきあげて、無造作に後ろに流しながら。
「見つける事は見つけたがよ。これじゃァ運がよかったとは言えねぇな」
失望を隠そうともしないまま、屈強な男が近付いてくる。肉体は臨戦態勢からは程遠く、オーラを滾らせもしていない。だというのに、少女の脚はガタガタと震えて止まらなかった。当然である。百獣の王と哀れなウサギ。狩る側と狩られる側の明確すぎる関係は、どうあがいても、逆転させようがなかったのだ。
「ひっ!」
悲鳴が漏れた。主の危機に反応したのか、スライム達が大男に襲いかかる。水から成る全身の弾力で、口を目掛けて恐るべき速さで飛び掛かった。相手は、腕をひとなぎしただけだった。風が乱れ、大きく重い音がする。その風圧だけで、スライムは一つ残らず打ち払われた。
別の集団が染み込むように路面から湧き出て、太い足に取り付いた。群れ全体が粘性を極端に上昇させて、ガラスの様に、否、それ以上に硬質化して拘束する。少女の記憶を代償に、増強されていた知能の成果だった。だが直後、バリンと割れて水へと還った。敵は気合いを入れて砕いたのではない。当たり前の様に歩き、当たり前の様に壊したのだ。
周囲の建物の壁面から、屋上から、数多のスライムが崩れ落ちた。なだれ込み、巨躯を押しつぶそうと殺到する。たちまちに全身を覆い尽くし、それでも足りぬと集っていく。口と鼻を塞ぐだけでは飽き足らない。圧縮していく。何もかも潰してしまおうと。全身を水塊に包まれて、大男は莫大な加圧を受けた。強靭な骨格がミシリと歪む。地上にいながら、深海魚の心地を味わっていた。
それが、ただの練で弾け飛んだ。たった一瞬のオーラの増幅。いかにスライムが物理的ダメージに強くても、水を操作するオーラを消し飛ばしてしまえば雨水へ還る。それは確かに道理だったが、これだけの規模の水塊をいとも容易く殲滅してしまえるなど、人知を越えた強さだった。
歩いてくる。あれだけやって、かすり傷の一つも与えてない。大男は未だ、堅という技さえしていない。臨戦態勢ですら、なかったのだ。
「駄目だな。ちっとも楽しくねぇや。おいガキ、こんだけか?」
少女は歯の根も合わず震えていた。銀のスキットルを抱いていた。死ぬのが怖かったからではない。自分の死すら忘れるほど、圧倒的な恐怖だった。眼前のこれは人間なのか。それとも、彼女が人間ではなかったのか。生物学的に同じ種族に属するなど、夢にも思えない隔絶だった。
「ま、死んどけや」
野人の姿がぶれる。気が付くと、少女の体は飛んでいた。彼女では判別できなかったが、彼のモーションはとても遅い。いっそ優しささえ感じるほど、なおざりに放たれた蹴りだった。力を込める必要もないと言わんばかりで、真実それは正しかった。だから、少女は運がよかったのだ。
「え……?」
空を、飛んでいた。
スライムの群れが、少女の体を突き飛ばしていた。彼らの献身のおかげで小さな肉体は粉砕されず、滑稽に宙を滑って地面に落ちる。堅いアスファルトは痛かったが、それでもまだ、生きている。生きている事だけは確かだった。
だが、手放してしまっていた。少女は手放してしまったのだ。腕の中にあった、スキットルが、ない。
目の前に何かが降ってきた。路面にそれが打ち当たった。硬質な音が無情に響く。スキットルは壊れ、痛々しくも裂けていた。中身のウィスキーがこぼれて流れる。
「あ、ああ……! なんで! なんでなんでなんで!?」
半狂乱になった少女が押さえても、器物が直るはずがなかった。少女を庇って攻撃を受けたスライム達の、さらに余波だけでこうなったのである。
小さな手を、ウィスキーが濡らしていく。降りしきる雨粒と混じり合い、新しいスライムが手元に生まれた。淡い琥珀の色をした、優しく震える塊だった。その誕生は、混乱していた少女の心に、新しい衝撃を突き刺した。
「……なんだ、この程度だったんだ」
少女はスライムを両手で握った。スキットルの残骸が地面に落ちる。赤い瞳が燃えている。褐色の肌からオーラが滾り、白銀の髪が怒りに輝く。奥歯をきつく噛み締めて、件の大男を睨み付けた。恐怖ももはや微塵もない。狂乱と狂乱が打ち消し合い、一蹴回って冷静な思考が戻ったようだった。
「大事だったのか?」
「ええ。そうね。……だけど、もうどうでもいいわ」
涙を拭い、冷えきった頭で少女は憎む。今はただ、目の前の人物を殺したかった。決して殺せないと分かっていても、殺意を抱かずにはいられなかった。
相手は今だ余裕だった。偉そうに腰に手を当てて、堂々と少女を眺めている。軽率な態度とはいえなかった。実力に裏付けられた油断だった。なにかできるならやってみろ。巨大な野人の眼光は、そう、視線だけで語っていた。
「……おいで」
右手に琥珀の水塊を。左手は掌を天へとかざす。そこへ周囲に残っていたスライムが、スライムが、大量の大量のスライムが、怒濤の如くに殺到した。少女に触れた途端に水へと還り、オーラを主に渡して果てていった。小さな褐色の掌から、ざあざあと滝が流れ落ちた。
彼女の潜在量を軽く超える、膨大なオーラが集中していく。充血して視界が赤く染まる。頭痛と目眩が少女を苛み、鼻腔の毛細血管が損傷して、一筋の鼻血が流れ落ちた。相手を睨み柄付けたままの視界には、キラキラした幻覚が踊っていた。
痛い。
集まったオーラを集中させる。琥珀色のスライムに、全てのオーラを与えていく。筋肉とオーラの強靭な鎧を穿つために、彼女の激情を注いでいった。莫大なエネルギーが一箇所に集い、渦を巻いて収束していく。渦を巻いて収束していく。
しかし、試みは上手くいかなかった。漏れていくのだ。念を込めれば込めるほど、辺りに霧散していくのである。
大男は少女を見下している。目には侮蔑と退屈しか宿っていない。当然である。纏とは、念の基本であると同時に奥義でもあった。強大なオーラを留め、圧縮していくのは至難の業だ。極限の密度を実現するには、極限の集中が必要だった。まして、己の器を遥かに越えたオーラの制御など、彼女の技量ではとうていできまい。要求されるは繊細至極。微かな雑念さえ許されない、絶対無音の神域である。
達人の中の達人、ヒトの理を越えた神仙、異常識に生きる異次元生命。少女が為そうとした事は、そんな化け物にしか実現できない、高みの果ての高みだった。
「おい、そろそろ行くぞ」
「待って。もうすぐだから」
焦れた野獣が声をかけて、少女は充血した脳髄で応えを返した。このまま何年続けても、この技は形さえできないだろう。しかし、術がない訳ではなかったのだ。
極地。そこへ至る強固な扉を、彼女は力技でこじ開けた。
拙い模倣で構わない。最低限の威力でいい。だから、お願いと、少女は切に渇望した。頭の中から何かが抜ける。大切だった、思い出である。
春風の心地よいカフェテラスで飲んだ。シーツに包まれた朝に飲んだ。呪縛が解かれたあの日、男と差し向いで飲んでいた。涼やかだった。暖かかった。おいしかった。少女はそれが大好きで、自由と贅沢の証でもあった。彼女が生涯で最初に知った、それは幸せの味だった。
はじめて飲んだときなど、あまりの甘さに涙が溢れた。
もう、二度と思い出せない。
ただこの一瞬の為だけに、少女は扉の鍵を捏造した。右手には琥珀色のスライムが蠢いている。凝縮された、持ってるだけで火傷しそうな灼熱のオーラ。頭痛が大音響で鳴っている。血が、喉の奥から沸き上がり、吐き気すら感じられないままに流れ落ちた。路面の河に赤が混じる。苦しかった。そんな体の苦痛さえも、どこか遠く愛おしい。
「ごめんなさい。待たせたわね」
「……あのな。まあ、いいや。来いよ」
律儀に待っていた相手は既に呆れ果て、疲れた様に佇んでいる。相変わらず堅をする様子もなく、構えをとろうともしていない。喧嘩は嫌いではなさそうだったが、拙さのあまり興醒めさせたようだった。であれば、これが終われば待っているのは殺戮である。
鼓動が大きい。体が熱い。少女が掌をそっと開くと、スライムはひゅっとそこから消えた。彼女の眼で追える事象ではなかった。爆音が後から轟いた。音の壁を打ち破り、水塊が一直線に飛んでいった。降りしきる雨にトンネルができる。纏で守っていたはずの少女の指が、衝撃波でジンジンと痛んでいた。
それが、受け止められた。大男は特に凝もせず、片手で軽々と受けきった。円錐状に変形していたスライムが、大きな掌に突き刺さっている。微かな血液が滲んでいた。彼女の持てる全てを注いで、それだけが敵に負わせた傷だった。
「ま、その歳でオレに傷を付けただけ大したもんだ」
彼にとって、これは児戯ですらなかったのだ。何を犠牲にしたとしても、付け焼き刃の増強などたかが知れてる。背伸びして星に手が届けば苦労はない。日々研鑽を積み、努力に努力を重ね、才能を実力に換えなければ、真の実力は得られない。基礎がなければ、誓約も覚悟も意味はないのだ。少女には下地が足りなかった。あまりに自明の理であった。
だが、そんな事は、彼女とて百も承知である。
「安い酒だな」
掌を舐めて大男が言った。少女はクスリと微笑みを作る。訝しがられるのも構わずに、唇の血糊を拭い取って、そろそろかな、と呟いた。そろそろでなければ死ぬだけだった。だけども、予想された攻撃はいつまで経ってもこなかった。
巨獣は動かず、初めて本気で少女を見ていた。倒すべき敵と認識され、彼女の胸がゾクリと震えた。
「……てめぇ、何をしやがった」
低く轟く彼は唸った。噛み締めた口から泡を吹き、目を血走らせながらも倒れてない。
「そう、怒らないで下さいな。油断したあなたが悪いのよ」
少女は会心の勝利に酔いながら、悪戯っぽく笑ってみせる。
彼女はあの琥珀色の水塊を、その巨体へと侵入させただけだった。たとえ内側で暴れても、大男の強靭な肉体には堪えまい。しかし脳神経周辺の血中アルコール濃度を直に上げるだけならば、血管に流れ込んでしまえば十分だった。あらかじめあのスライムには、できるだけ頭に、重力に逆らう方向に集まるように頼んであった。
それにしてもこの男は出鱈目だった。常人ならショック死しておかしくない攻撃をまともに喰らって、意識があるのは異常すぎる。雨でも分かる脂汗を垂らしながらも、戦意は決して衰えない。もしも少女が近付いたなら、必ず殺されてしまうだろう。ここまでの猛者なら確実に、彼女のみならず愛しい男にも脅威になる。すぐにでもとどめを刺したかった。
だが、ここまでだ。
今の少女には、この怪物を殺す手段がなかったのだ。たとえ口と鼻を塞いだとて、窒息死してくれる前に回復するのがオチだろう。これだけ強化された肉体が誇る肺活量は、いったい幾らになるのだろうか。
両腕で頭を抑えながら、大男は憤怒に駆られている。少女は逃げることを決意した。絶対に適わないと思い知った。それは人間としての判断ではなく、動物としての本能だった。
「さよなら。願わくば、二度と会わずにすみますように」
もしも、その祈りが叶ったなら、はたして、少女は幸せになれたのだろうか。
決死隊は一心に戦っていた。微かでも多い水塊を、僅かでも長く拘束するため、命を賭して戦っていた。弾薬の消費が激しすぎる。30分にも満たない戦闘で、誘導弾も機関砲も打ち尽くした。山ほど用意した携帯式の対戦車ロケット砲ですら、既に幾つも残っていない。
それでも、皆が戦い続けている。
駆けつけた憲兵たちがいた。包囲網の外側から、彼らは射撃と撹乱を繰り返す。少数の散発的な増援などすぐにスライムに駆逐されたが、その間は内側への攻撃が緩んだ。貴重な立て直しの時間だった。
誰もが信じていたのである。じき、ハンターが犯人を倒してくれるだろう、と。粘れば粘るほどアルベルト・レジーナは戦いやすくなり、仲間の損害も減るだろうと。あるいは、噂に聞く増援が間に合うだろうと。
展開した歩兵が小銃を撃つ。装甲車を盾に手榴弾を投げ、徹底的に遅滞を行っている。戦力の温存を第一に、しかし命を惜しまずに。一部が突出してスライムの攻撃を誘引し、その隙にエリアを挽回もした。彼らは戦闘のプロであった。敵が不死身に近い怪異でも、翻弄に徹すれば戦えた。
だが、じりじりと追い詰められていくのは止められない。
残弾が足りない。スライムに白兵戦で立ち向かえる筈がなかった。撃てば撃つだけその時は近付き、撃たなければその場で終わる。
最後の瞬間は近かった。
「おい、あれを!」
最初に気付いたのは誰だったか。叫びを上げたのは誰だったか。
雨の降る夜の闇の中、それは鮮烈な紅だった。それは彼等の人生で、最も美しい光景の一つだった。それは雄大に羽ばたいていた。それは急速に近付いてきた。黒雲の狭間から現れた、それは。
それは、翼だった。
涙が溢れそうだった。誰かが嗚咽を洩らしていた。この街は孤立してはいなかった。戦いは無駄ではなかったのだ。挺身は、結実に至ったのだ。
「投光しろ!」
誰かが命じ、サーチライトが彼の人へ向いた。明滅を与え、意思のある事を強調する。呼応して、翼の光が強くなった。決死隊の士気が爆発する。疲れはもう吹き飛んだ。弾薬の不足などもう知らない。さあ、戦おう。彼等はまだまだ戦えた。スライムの群れが気圧された。
赤色の極光が辺りを薙いだ。水の怪物は粉砕され、路面が大きく陥没した。雨粒さえもが蒸発し、空間に刻まれた軌跡が湯気の白煙を上げていた。わずか一撃。全ての人間が驚愕する。これがプロハンターの一撃か、と。
形勢は容易く逆転した。
兵士達は次々と攻めに攻め、びしょ濡れの体で吶喊する。顔には希望が溢れていた。生き残ったスライムの集団は、面白いように窮地に陥る。それが、ただひたすらに楽しかった。
翼が戦場へと参りる。
正体は美しい女性だった。まだ若い、天使のような少女だった。薄緑のドレスに金の髪、真紅の翼の女神だった。歓声が迎える中に羽ばたき降りて、精悍な表情で辺りを見回す。次の瞬間、両腕から閃光か解き放たれた。コンクリートが砕け、アスファルトが粉塵となって舞い上がり、この場にいたスライムのほとんどが消滅した。爆発的な賞賛が浴びせられた。急に増した威圧感も、気にする者はいなかった。むしろ頼もしいとさえ思われていた。
十秒後に訪れる絶望を、この時は誰も知らなかった。
次回 第二十一話「初恋×初恋」