この宇宙に漂う泡状構造は、無数の微細な粒子の集合から成立している。空洞の淵に群れをなし、低エントロピー分布のほとんどを担うそれを、とある知性は銀河と呼んだ。
ある、一つの銀河の片隅に、一つの惑星系が存在している。そのさらに局所、小さな惑星の表面に、ある種の生物群が付着していた。彼等は自らの小ささを自覚すれど、社会を作り、幻想を共同し、万物の霊長を自認している。
その社会は、数多の脅威に撹乱され、傲慢と暴虐に蝕まれながら、それでも、システムを辛うじて保っていた。
コッペリアの電脳 第二章最終話「ラストバトル・ハイ」
if 1999
巨大なクレーターが乱造され、建物が次々と薙ぎ倒され、地方都市が丸ごと、破砕に揺れる。緑色の光がなぎ払われ、その度に、周囲の空気がおぞましく冷える。
ビルの谷間を男は飛ぶ。体が重い。傷は深い。動く度に左胸が痛い。だがそれでも、かろうじて命は繋がっている。黒コートの人物の乱入によって始まった三つ巴の戦いの結末は、男が離脱する糸口を見つけた事により訪れていた。だが、もしも乱入者が男を庇うような動きを見せていなかったら、到底逃げ延びてはいないだろう。
また一つ、大通りで摩天楼が倒壊した。あれに巻き込まれていたならば、少女はとうに儚くなっているだろう。その考えが、男を余計に焦らせる。スライムからは今の所、死者の念らしき気配はしない。だがそれも、あくまで今の所でしかないのだった。
追跡を気にしながら男は急ぐ。道標にするのはスライムの群れだ。憲兵達の遺体に集るそれらの分布を、濃度の微かなグラデーションを頼りに男は駆ける。
しかし、何故だろう。スライムの数が妙に多い。活動も不自然に活発だった。少女が健啖である証なら問題ないが、男は嫌な予感を感じていた。むしろ逆に、それだけ多くの生命力を、欲せざるを得ない事態に陥ったのではないかと危惧したのだ。
心中で焦りが火勢を増す。そうなれば余計に不安は増して、スライムの原始的な蠢きさえ、どことなく焦っている様に見えてくる。嫌な傾向だ。自分の胸の内で繰り広げられる悪循環を、男は苦々しく思いながらも放置した。言霊で強引に断ち切る事はできた。しかし今はそれよりも、残り少ないオーラの方が惜しかった。
雨の中、沈みゆく街並を疾駆する。緑色の光線が闇を照らした。破砕音が連鎖している。折り重なる躯は何も言わない。がらんどうの瞳で何一つ文句をいわないまま、波打つ水塊に喰われていた。
それは終末の光景だった。人の世が終わり、文明が絶え、この星が緩やかに傾いていく有り様だった。
走りながら、懐を探って煙草を出した。煙でも吸わないとやってられない。しかし、男は直後に舌打ちした。制服と同時に調達した紙巻きは、わずか二本しか残っていない。けちがついた気分でイラっときたが、今現在、補充する暇などあるはずもなかった。一本を咥えて火を吸い込み、最後の一本を懐に戻す。安っぽい風味が肺を満たし、紫煙が雨の中に消えていった。
どれほど走っていただろう。乏しい手がかりを頼りに駆けずり回って、男はようやく辿り着いた。
そこは水の花園だった。夜中に、水塊の絨毯が咲いていた。ビルの陰で、透明なベッドに横たわる少女がいた。スライム達の大群に、彼女は優しく抱かれていた。雨の中でしか生きられない偽りの生命たちは、創造主に対し懸命な奉仕を捧げている。集めてきた生命力をかりそめの命ごと主に還して、弱った少女の糧としていた。
彼は、少女の頬に手をあてた。ひんやりした体温にぎくりとする。が、首筋を触れば拍動があって、口元に耳を寄せれば呼吸があった。安堵し、男の肩から力が抜けた。気を失っているだけだった。
少女に意識はない。だが、大きな外傷も見あたらず、外見上は命に別状はなさそうだった。よく見れば、胸が微かに上下している。男はほっとして微笑みを浮かべた。少女の頬を軽く撫でると、くすぐったそうに顔を顰めた。
そうして、思考に余裕が出てきてから、男は自分の異状に気がついた。この小さな存在にここまで拘泥していたなど、彼にとって、意外極まりない事だった。
始まりはただの偶然だった。気まぐれで飼って、知らないうちに愛着を覚え、困惑とともに捨てようともした。それが、どうしてだろう。いつの間にか、何よりも大切になったらしい。彼自身、未だに実感は乏しかったが、能力が、無意識がそうだと言っていた。否定する材料も持ってなかった。
いや、失いかけた今だからこそ断言できる。男にとって、少女は確かに大切だった。亡くしたくない宝だった。永遠の愛などに興味はないが、少なくとも今、彼は彼女を必要としている。なら、飽きてから捨てようと男は思った。飽きるまでそばに置こうという決意だった。その結論に達した時、男の中で燻っていたわだかまりは、綺麗さっぱりと雲散した。
彼はスライムの群を書き分けて、腕を差しいれて少女を抱えた。感傷にひたるのは後からでもできる。こうしているうちにも追っ手はすぐそこまで差し迫り、あるいは、今にも襲ってくるかもしれないのだ。
踏み込みは深く、鋭く、速かった。二人の拳が衝突し、暗闇の中に閃光が爆ぜた。黒いコートが爆風にはためく。強いなと、カイトは相手の実力を認識した。深く玲瓏に輝く双眼はどこまでも冷静で冷徹だったが、同時に、少年のように無邪気に輝いても見える。
大降りの裏拳が肉薄する。カイトはそれを、右腕を振り上げてガードした。打撃は素手ながらひどく重く、巨大な鈍器のように芯に響いた。体重移動が的確で、攻防力の移動が異様に速い。一手受け損なえば生死の向こう側へ吹き飛ばされる事が必定の、達人の域を越えた体術だった。だが、それでも。
敵の腕が伸びきった瞬間を見極めて、カイトは手刀を首筋へ放つ。躊躇などない。頸動脈を切断すべく、刃の如く研ぎ澄まされたオーラを纏わせた突きである。並の強化系能力者を軽く凌駕する一撃だった。しかし相手も並ではない。裏拳の勢いのままに体軸を回し、紙一重で辛うじて躱したのだ。今度は、相手から突きが放たれる番だった。
刹那、攻防は嵐の如く交錯した。次々と絶技が応酬され、弾け飛ぶオーラは火花と咲いて散り急ぐ。拳を打ち出し、いなし、防ぎ、虚実を混ぜて貫き躱す。お互いに素手のままとはいえ、威力は凡百の武器より遥かに高い。それが、急所の至近をかすめていく。命の灯火を揺らがせる。両者、いつ絶命してもおかしくない、極限を超えた極限だった。
人類の思考が追い付く領域の速さではなく、雑念がはびこる余裕はない。頭脳が漂泊されていく。空も、大地も、地平線の彼方まで純白に染まった無我の中、殺意だけが赤かった。そんな世界に己が全身を沈めながら、カイトは冷静に俯瞰していた。百戦錬磨の希代の経験を礎として、更なる高みを知るが故の慧眼を持って看破する。眼前の相手は、戦技、肉体、眼力全てにおいて極上だった。しかし、上手く隠していてもカイトには分かる。彼より、身体強化効率が一段低い。すなわち、敵は特質系に他ならない。
それは、決して有利な事項ではなかった。真逆である。相手はどう見ても戦闘系の能力者。ならば、能力を使わせる前に畳み掛けるのが至上だった。
敵の掌底をあえて躱さず、最小限より微かに少ないオーラで防いだ。ダメージと引き換えに手に入る、極小ながらも確かな余力。それを脚運びに費やして、ほんの少し有利な要素だけで、わずか半歩だけ間合いを開けた。これは一つの賭けだったが、勝算が高いと踏んだ勝負だった。事実、それは当たり、間隙が生まれて笑うピエロが出現する。神業と呼ぶにふさわしい、素早く正確な能力発動だった。所要時間は打撃一つ分にも及ばない。しかし、カイトの能力には強制的なタイムラグがある。スロットの数字が決定するまでの間、具現化から武器の選択まで、数秒という長すぎる間隔が必要なのだ。怒濤の攻防が飛び交う中、永久にも等しい時間であった。
だが、それが不利になる必然はない。他者は知らず、カイトほどの領域に達していれば、その性質すらメリットに変わる。具現化されたスロットを完全に無視して、カイトは攻撃に専念する。反して敵は注視する。当然である。当然を越えて必然だった。戦闘中、ここぞと出された発である。無駄だらけの、自我を持ってさえ見える道化の異形。注意しなければおかしいのだ。念に通じれば通じるほど、発の怖さを知るほどに、この能力の異質さに幻惑される。その間、全自動でスロットが回る間、カイトは完全にフリーになる。
せいぜい、全身全霊で警戒すればいい。そんな思いと共に、カイトは腰だめのストレートを打ち抜いた。敵もさるもの。辛うじてガードは間に合ったが、カイトの本命は次にある。渾身の打撃を受けて、硬直し、ピエロとカイトの間で逡巡する隙を見逃す術はない。線の細い肉体がぶれ、長い髪が残像を残した。採魂の大鎌もかくやと鋭き、重い回し蹴りが撃ち落とされる。
しかし、それこそが敵の狙いだった。隙は演技だったのだ。この一撃、決定打を誘うのが思惑だった。コンマ一秒の単位で動きが変わり、瞳の色が塗り変わった。黒いコートが不敵にはためく。大降りの回し蹴りを皮一枚で辛うじて躱して、その男は、窮地の狭間に微か半秒に満たない時間を手に入れたのだ。
右手に書物、次いで左手に短剣が具現化する。付け入る隙は微塵もなく、カイトは苦虫を噛み潰した。どこからか情報を仕入れたのか、それとも垣間見られていたのだろうか。あらかじめ知っていなければできない策だ。乱数を武器とするカイトに対し、自身の命をも囮にし、冷厳な理で拮抗してきた。
敵の短剣は黒かった。艶のない、漆黒の刀身が闇に溶け込む。一方でスロットも数字が決まり、具現化した獲物をカイトは掴んだ。種類は槍。運の悪さに辟易した。この接近戦に長物は向かず、技も好ましいものがない。きちんと使えるかすらも不明だった。しかし、状況に合わぬ武器だからこそ、意外性を発揮するのが常である。そう簡単に負けはしない。それは、挟持であると同時に事実でもあった。
ほんの一瞬、具現化した武器をお互いに携え、戦いが冷たい静寂に満ちる。
睨み合いは刹那に瓦解した。雨の散る夜気が爆轟する。初撃は互角。逆手に握られた短剣が闇を潜って、槍の柄の薙ぎ打ちに相殺される。莫大なエネルギーが衝突し、念で強化した体でなおも、痛烈な余韻に痺れが奔った。だが、敵の初撃には次があった。
肩口に刃が突き刺さっている。カイトの目が、驚愕に大きく見開かれた。鮮血が飛び、神経が加熱されて痛みが生まれた。全く予期できなかった第二の刺突。それは、存在しないはずの軌跡だった。所作も音も光も無く、直感すらも欺かれた。急所から外れたのは偶然だった。ならば、次も外れる保証はない。
突き刺さった何かは短剣ではない。黒い刀身は確かに弾いた。敵の左手に収まる刃にも、血液で濡れた気配がない。しかし、この傷は確かに短剣である。その齟齬を深く噛み締めて、カイトは攻撃を一旦中止した。窮鼠猫を噛むという諺もあれど、自ら鼠に堕ちる謂れはない。無理な深追いは無用である。
チャンスを逃がさず、再び短剣が迫り来る。狙いは顔面。速く、どこまでも自然体な突きだった。朝食のコーヒーカップを持ち上げるが如き、気負いもりきみもありえない無鳴の断命。血河を作り、骨山をなし、万斛の涙を踏みにじり、暗黒を極めた更に果ての、白痴に還った刺突である。きっと、この敵にとって殺人とは、息をするのと同じだろう。
槍の柄の存在を両手の内に確かめながら、カイトは刮目して迎え撃った。集中力が昂り、時間が圧縮された錯覚が広がる。コンマ一秒が緩やかに刻む流れの中、二人の視線が交錯した。
そしてカイトは理解する。槍の柄を振り上げ、短剣の刀身と、関係ない場所を同時に弾く。手ごたえは両方に存在した。黒い刃が溶けて消える。ありえないはずの二つ目の刃の正体は、その瞬間だけ具現化される第二の刀身だったのだ。
一度の突きで二条の軌跡を描く漆黒の短剣。単純至極な必殺の秘技。具現化速度だけを極めに極め、闇を纏いて虚を貫く、暗殺のための能力だった。代償に狙いの精度は甘いのだろうが、その誤差が故に軌道が読めず、本来の刀身の精密無比な攻撃と相乗している。
やっかいだ。カイトは掛け値なしに評価を下した。シンプルで、それでいて絶大な効果の能力だった。見破れなければ致命的だが、知っていてさえ対処がしがたい。防御に回ればなますに刻まれ、攻撃に移れば突き殺される。だが、それも。
三度、敵の攻撃が飛来する。受け損なえば即ち死。反撃の光明はあまりに乏しく、生半可で凌げる窮地ではない。それでも。
左手しか使えないなら話は別だ。
カイトは槍を渾身で振るった。握られた短剣が宙を舞う。所詮は片腕。仕掛けも見切った。なら、力で負けるはずがなかった。しかし敵も焦らない。はじめから想定していたかのように蹴りを放つ。尋常ではない。虎の子であるはずの発を使い捨てにする戦術は、念能力者の根本原理に逆行している。
しかし、それすらもカイトは読んでいた。読んでいた上で誘ったのだ。当然のように蹴りを躱して、石突き代わりの道化を見舞った。それは敵の体に吸い込まれ、重く激しく吹き飛ばした。体の芯を強く揺さぶり、骨にヒビが入った手ごたえがあった。
見破れたのは道理である。確かによくできた発であったが、あれほどの達人があの程度の動力を実現するのに、片手が塞がるのは不自然だった。特質系ともいいがたい。くわえて、これ見よがしに連発してきた暗殺の秘技。愛着を持つ者の戦いではなかった。あれの本来の持ち主なら、徹頭徹尾、一撃必殺に努めるだろう。どうやら、先ほどの能力、いずこより掠め奪ってきたものらしい。
なるほど、とカイトは納得した。まさに特質系の能力である。つまり、敵はまだまだ手をもっているのだ。あの程度、使い捨てにして惜しくないほどの数々の発を。
起き上がった相手が楽しげに笑った。カイトも薄く微笑んで、帽子を深くかぶりなおす。おもしろい。心の底からそう思った。今度は、こちらから攻めるべきだろう。間合いも丁度空いている。槍を構え、細い四肢が引き絞られる。狂ったピエロが笑っている。槍の穂先の狙いは正鵠だった。
この街は既に無人であり、憲兵も全滅に等しかった。ならば、少々瓦礫が増えた所で問題はあるまい。
貯めた力を解き放ち、カイトは音の壁を突破した。
目覚めた時、少女は男に抱かれて揺れていた。景色が高速で流れていく。長い銀の髪がたなびいている。雨が顔を叩いて少し痛い。少女の常識を超えた疾走だった。生身での走りは車とちがい、体感速度が恐ろしく速い。
しかし、少女は恐怖を感じなかった。帰ってきてくれたと、再び会えたという喜びが胸を満たしていた。雨に撃たれて冷えた体に、男の体温が暖かかった。くいくいと制服の襟元を引っ張って、少女へと向けられた顔にそっと触れるだけのキスをした。瞼を閉じて、全身全霊を唇の触覚に集中する。首の後ろに両腕をまわして、一時の至福を満喫した。ずっとこうしていたかった。
終えて、名残り惜しみながらも唇を離すと、男はいつになく優しい目で少女を見下ろしていた。彼女は疲れた上半身を愛しい人の腕に横たえ、逞しい胸板に頬を預けた。そこは暖かく湿っていた。雨水ではない。鉄錆の臭いのする液体だった。少女は泣きそうな気持ちになった。男は、傷口が開くような事をしてきたのだ。
「……無茶だけはしないで下さいって言ったじゃないですか」
瞳を閉じて、静かに少女は呟いた。耳を澄ませて、とくんと鳴る拍動に心を寄せる。心拍に異常はなさそうで、彼女は少しだけ安心する。
「泣かないんだな」
「私も、いろいろありましたから」
少し、悟っちゃいました、と少女は言った。穏やかで、悲しみに染まった声色だった。男は背後を気にしながら、街並を縫う様に駆け抜けていく。ある所で曲がり、引き還し、しばらく隠れてから急に駆け出す。逃げているようだなと少女は思った。少女の五感では分からなかったが、誰かに追われ、捲こうとしているのだろうか。
答えは、すぐに向こうからやってきた。黒い、いつぞやの黒い男だった。白いファーの付いた黒いコートに身を包み、黒い本を片手に持ってた。見覚えのある姿だったが、瞳だけは明らかに違っている。あの無機質な輝きは、金髪の青年のものだったはずだ。
物陰より飛来したその人物は、目にも追えぬ速さで二人へ迫った。男は少女を抱えたまま、振り向き様の回し蹴りで迎撃する。少女の見る景色がぐるんと回った。一瞬の出来事に目を丸くしている間に、衝撃が二人を貫いた。男の腕がぎゅっと絞まる。体が低空を舞っていた。そして、ようやく少女は認識できた。敵が掌底で吹き飛ばしたのだ。男の骨がミシリと鳴って、口からいくらかの血を吐いた。余計な破壊を伴わない、恐ろしくシンプルな破壊だった。やはり少女の存在は、相当に不利な事らしい。
「捕まってろ! 喋るなよっ、舌を噛むぞ!」
地面との猛烈な接触を幾度ものバク転で回避しながら、今更ながらに男が叫ぶ。少女は必死で従った。視界の高速回転に付いていけず、それでも、目を閉じて暗闇に逃げるだけの勇気もない。ただ、嵐がすぎるのだけを願っていた。そんな彼女の目の前で、男の喉にオーラが集まる。頼もしさに少女の胸が高鳴った。
「お前は転ぶ!」
しかし言霊は全く効かず、虚しく闇に吸い込まれた。それは不可解な現象だった。以前邂逅したときは、男の術中にはまったはずだ。だが、男はこの結果を予想していたのか、苦々しく舌打ちしただけで驚いてはない。
「しがみついてろ! 撃つぞ!」
「はいっ!」
片腕で彼女を抱えたまま、愛銃を取り出して振り向き様に撃ち放った。いつになく必死な、明々と燃える男の瞳が、見上げた少女には怖かった。
「くそっ! やっぱりあいつと同じ特性かよ!」
「……うそ」
そして少女は愕然とした。追跡者は完全に冷徹だったのだ。念弾を躱そうとするのではない。弾道を予知するかの如く正確に見切り、発射前にミリ単位で空間からどいている。その様子は、弾丸が外れた場所を勝手に通過していくとしか思えない。銃撃は、追跡者の足留めにすらならなかったのだ。
「切り札はどうしたんですか! あるっていったじゃないですか!」
「ああ、あるさ! おまけに今なら使い放題だ! だがなぁ!」
悲痛で無意味な叫び合いは、敵を利するだけの茶番だった。体力を削るだけの愚行だった。だが、それでも。
「お前が生きてる限り使う気はねぇよ!」
左腕で少女をひときわ強く抱きしめて、男はギラギラ燃える眼で敵を睨んだ。相手は、未だ涼やかに笑っている。しつこく迫り痛烈に嬲るという行為とは対照的に、残虐さの欠片も見えない無機質な眼光。それが気に食わない、と男は瞳で語っていた。嫌な予感が少女を襲った。
そして、一発の念弾が放たれた。
「なんて、馬鹿な真似を……!」
追跡者に念弾が命中した。疾走中にバランスを崩して、体が地面に打ち付けられる。だが、そんな些事はどうでもよかった。少女は目を見開いて、呆然と起こった事を眺めていた。男の腹には、小さな穴が開いていた。
「うるせえ、致命的な場所は避けた。ほら、逃げるぞ」
男は自分の腹部を撃ち、貫通させた弾丸を当てたのだ。
自らの胴体で銃身を隠して、弾道の予測と発射のタイミングを隠匿した。拳銃という、取り回しのいい銃器に熟練したからこそ出来た芸当だった。直感で狙えるまでに馴染んでいたからこその直撃だった。達人なればこそできた、相手の先入観を裏切る妙手だった。しかし、少女は讃える気にはなれなかった。
それからの逃走劇は血まみれだった。男の脚は明らかに鈍り、無茶な自己暗示の重ねがけで辛うじて走り続けた有り様だった。幸い、再び補足される事はなかったが、そこに余裕は全くなかった。心臓が潰れそうな不安と恐怖に、少女はひたすら耐えていた。
そして、男はどこかの路地で脚を止めた。
ザアザアと雨が降り続いている。男の呼吸が荒かった。汗ばんだ全身は白い湯気を造り出し、熱い体温が少女の心を苛んでいる。濃厚な血の臭いに抱かれながら、彼女は小さく震えていた。
男の短い金髪は水気を含み、額も繭も濡れている。目に入ってしまわないよう、少女は手を伸ばしてそれを拭った。にやりと釣り上がった唇は、きっとお礼の言葉の代わりだろう。不適な態度は崩さずとも、呼吸を整えるまでいくらかの時間が必要だったのだ。
「あぁ、こっちの傷も、また……」
胸板を見つめて少女は呟く。直接触る事はできなかった。触っても癒せるはずもなく、なによりあまりに痛そうで、臭いの滲んだ黒い制服をただ見つめていた。張り裂けそうな思いだった。そんな彼女の心配に対し、男は端的に、ああ、と返した。
「ここで待ってろ。動くなよ。生きてりゃ迎えにきてやるから」
少女を降ろし、拳銃に念弾を装填しながら男は言った。ぽんと、頭を撫でて言い聞かせてくる。いつものような、乱暴に掻き回すやり方ではない。優しいがどこか弱々しい、遠慮したような撫で方だった。少女が恐る恐る見上げると、大人びた微笑みの男がいた。それがとても不吉に思えて、少女は遮二無二しがみついた。邪魔をして逆鱗に触れようと、殺されようともどうでも良かった。それほど、いまの男は儚かった。
「私、もう嫌です!」
男に抱きついて縋りながら、少女は必死に引き止めた。
「もう、一人じゃ生きていけそうにないんです。あなたと出会う前は、生きていて楽しい事なんて、一つもありませんでした。初めてなんですよ。娼館を抜けて、あなたと暮らして、初めて、幸せという言葉の意味を知ったんです!」
それはダムの決壊だった。ただのわがままだとは分かっていた。適うはずのない願いだと知っていた。表に出しても男の負担になるだけで、最悪、邪魔だと殺されてしまうかもしれない。それでも、抑えようともとどめようのない切なる思いが、支離滅裂で稚拙な願望が、小さな口から流れていく。
「だから、あなたに生きて欲しかったから、これでも頑張ってみたんですよ! なのに、足りない力を補おうとすればするほどに、どんどん、楽しかった思い出が消えていってっ!」
男にとっては遊び以下でも、少女には本気の愛だった。彼女の最初の執着だった。この危機を無事に抜け、二人で旅を続けられたら、どんなにか幸せな人生だろうか。その一心を礎に、自ら危険に飛び込みさえした。しかし、そこは化け物の闊歩する地獄だった。
「幸せだった事は覚えているのに、何が幸せだったのか思い出せないっ。このままじゃ私、あなたの全部を忘れてしまいそうで。なのにあなたは全然言うこと聞いてくれなくてっ! このままじゃ、どうしてくれるんですか。私、私っ!」
これから先、どれほどの記憶を失わなければならないのか。いつまで男は無茶を続けるのか。いつになったら、切り裂かれるような心配から解放してくれるのか。少女は嗚咽とともに言葉を紡ぐ。そして最後に残ったのは、たったひとつの呟きだった。
「お願いだから、死なないで……」
膝を付き、傅くようにしゃがんで少女は洩らした。結局はそれが全てだった。彼女の唯一の渇望だった。彼女の身を焦がした焦燥の、そして絶望の根源だった。男が生きていてくれるなら、記憶も命も惜しくはない。少女は心からそう思った。
だというのに、上から降ってきたのは笑いだった。喉の奥からこぼれてくる、愉快でたまらないという声だった。
「……なんで、笑っているんですか」
「やっぱり、ガキだなって思ってよ。俺も、お前も、お互いにな」
男はそう言って微笑んで、しゃがんでいた少女に手を差し伸べた。どこか少年めいた輝きの、幼稚で悪戯っぽい笑顔だった。少女が苦手な、年下のような笑みだった。
「悪かったな。今まで、悪かった」
気が付いたとき、少女の唇は奪われていた。触れるだけの一瞬の口付け。理解は全く追い付かず、少女はばちばちと瞬きする。
「え……?」
目を白黒させる少女を眺めて、男は面白そうに笑い続けた。
「ほんとは俺、もうちょっと育ったのが好みだったはずなんだがなぁ」
ぽんぽんと頭を叩きながら、そんなとんでもない独白をする。かつてはいつも通りだった馬鹿話に、少女にも余裕が戻ってきた。今、この微かな時間だけ、失われた日常が戻った気がした。それが錯覚だと分かっていても、胸が暖かくなってきた。
「こう、ボンキュッボンってよ。分かるだろ?」
「……今、それを言いますか。だいたい、赤ちゃんみたいにしゃぶり付いたくせに」
「ははっ。ま、お前じゃ十年後だな。いや、育つとしてな」
あれほど貪っておいて悪びれもせず、飄々と残酷に告げられた。もっと甘いムードにできないのかと、少女は男を睨み付ける。だが、堪えた様子は微塵もない。
「だから、あと十年は一緒にいろ」
少女を抱き上げながら男は言った。いつも通りに飄々とした、なんでもない、雑談の中のような一言だった。それでも、彼女がどれほどそれを望んでいたか。感情の奔流が沸き上がり、何一つ喋る事ができなかった。情けない女だと自覚したが、舌が震えて動かせない。失神してないのが奇跡だった。
「どうした? 嫌か?」
「……誤摩化されませんからね。今回の分の思い出はちゃんと埋め合わせして下さいよ」
回ってない頭はろくな言葉を用意してくれず、少女はそっぽを向いて誤摩化した。本当は、埋め合わせなんてどうでも良かったのだ。もしも二人が共に生き残れるなら、その後はただ、生きていくだけで幸福だろう。一緒に生活できれば、それだけで。
「ま、仕方ねぇか。憶えてたらな」
わしゃわしゃと強く頭を撫でて、男は楽しげに約束した。濡れた髪の毛が乱れてしまい、少女は困ったような顔をした。事実、彼女は心底困っていた。ともすれば、嬉しすぎてこの場で死にそうだった。
「じゃ、まずはとりあえず、二人でこの街から脱出するか」
いとも気軽に大言を吐いた男の顔は、悪戯っぽい笑みで一杯だった。
アルベルトの体は熱かった。冷たい外気が肌を焦がした。ビルの外を、アルベルトは熱に浮かされながら歩いていた。這いずるようにゆっくりと動き、夢遊病のごとくどこかへ向かう。
鉄の塊を肩に担ぐ。十キロを優に超えるほど重く、体力を余計に奪っていく。約一メートルという長い銃身をもつそれは、対物ライフルと呼ばれる銃器である。発射速度と威力は高いが取り回しは悪く、反動はきつく、その上露見性まで高い武器だ。その威力も、屈強な念能力者にはどこまで効くか。憲兵部隊の遺体の側には他にも対戦車ロケットが落ちていたが、あれは初速が遅すぎた。
撃てて、ただ一発。その弾丸を撃つために、ささやかな一助を為すために、アルベルトは歩みを続けている。その一発で何を撃つのか、妹か、敵か、それは本人にも分からなかった。
たった一人の地獄の行進。葬送はない。全身、雨でびっしょりと濡れていたが、喉はからからに渇いていた。気が狂いそうな暑さだった。体から温もりがすっかり奪われていて、春の雨さえ火の粉に思える。体と心に狂いがあった。肉体は高熱を発していたが、精神は怖気に震えていた。
灼熱に病める豪雨の中、路面は河の様に流れている。しゃがめばいくらでも乾きは癒せた。座り込みたいという欲望が、彼の心を乱していった。しかし、それは不可能だったのだ。一度しゃがんでしまったら、立ち上がる体力は残ってない。彼はそこまで消耗していた。生きていることさえ苦痛だった。スライムだらけの街の中、いつ襲われてもおかしくない現状で、今のアルベルトはあまりに弱い。足を踏み出すだけでも辛かった。体中が苦しく、だるく、気力が根こそぎ奪われていく。
それでも、アルベルトは未だに歩いている。それは惰性の産物だった。今のアルベルトにとって、止まるという決断さえもが心を削ぐ大仕事に等しかった。歩くか止まるか、生きるか止まるか、そんな些事に振り分ける思考の余地は、完全に残されていなかった。端的に言えば、彼にはどうでもよかったのだ。
アルベルトの頭を占めるのは、唯一、エリスの顔と声だけだ。マリオネットプログラムが消えた為、データベースにはアクセスできない。それは、管理していた対人情報が完全に失われたことを意味していた。現在、アルベルトが思い描けるのは中枢人格が保持していた記憶だけだ。つまり、彼が経てきた人生において、特に印象深かったものである。しかも、熱の影響だろうか、それすらおぼろげに霞がかっているように感じている。こぼれ落ちそうな記憶の欠片を、アルベルトは幾度も列挙し、反芻し、もう一度脳に刻んでいく。貴重となってしまった思い出を、欠片も失いたくはなかったのだ。それは、鬼気迫る執念の固執だった。
全身から噴出するオーラの勢いは、刻一刻と弱まっていく。生産されたそばから、次々と生命力が抜けていく。かつて、初めてこの状態になった時は、一週間以上も死なずにいられた。だが、それは安静にした上でのことである。この先、戦闘に臨んだなら、どうなるかは本人にも分からなかった。
それでも、エリスを見捨てる道はない。彼女を、全身全霊で抱き締めたい。そのためなら苦痛などなんでもなかった。そのためなら死んでも本望だった。否、恋という感情を得た代償と思うなら、苦しみは盛大な讃歌だった。
破壊の中心、目指す目的地が強い光で照らされる。瀑布の如き念弾が爆ぜて、流れ弾がビルを揺るがせた。緑の光線が空を貫く。見慣れた姿が宙に踊った。翼を背負った女性である。その時、アスファルトの体を雷鳴が襲った。ちらりと見えた彼女は確かに、ポシェットを身につけていなかった。それは仕込まれた貧者の薔薇を、最後の保険を手放してしまった事を意味していた。
重い銃把をきつく握り、アルベルトは強く奥歯を噛み締めた。もはや、エリスが一線を越えたとしても、究極の義務を果たしてやれない。この世界は今、確実に滅亡の危機に瀕していた。
もしもあの時、アルベルトが真実を告げていたら、エリスを信じ、偽りなく薔薇のままに渡していたら、この結末は訪れなかったのではないだろうか。しかしその仮定は成り立たなかった。真実を告げる勇気がなかったのではない。あまりに酷な現実を、知らさずに済ませてやりたかったのだ。
そもそも、死ねば良かったのだ。真に正道をいくのであれば、エリスと二人、自害して果てればそれで良かった。それがこの世のためだろう。最も悲劇を生み出さない、最良の選択肢がそれだった。だが、それでも、アルベルトはエリスに生きていてほしかった。ずっと笑っていてほしかった。人は甘えというかもしれない。だが、甘えで結構。彼の意思は揺るがなかった。女を一人、許容もできずになんのための世界か。
アルベルトの体が、心が、更に加熱した。オーラが更に噴出する。口中で鉄錆の味がして、喉の渇きが加速した。嘔吐寸前の悪寒の中で、魂の凶暴性が鎌首をもたげる。
気付けば、水塊の一群に囲まれている。格好の獲物と見たのだろう。逃げ道を塞ぎ、じわじわと間合いを詰めてくる。絶体絶命の危機だった。今のアルベルトはオーラをろくに制御できず、肉体もいつ倒れてもおかしくない。ならば、餌として貪り食われるのが常道である。
もし、常道であったなら。
先陣を切り、一体のスライムが飛び掛かった。弾性をバネに、自身を豪速球に変えて飛来する。対して、アルベルトの腕が無造作に伸びた。結末は完結で残酷である。分かりきった勝負の結果は記すまでもなく、あっさりと鷲掴んだ水塊を、アルベルトは果実のように齧って飲んだ。かりそめの命は雲散し、乾きが微かに癒された。
アルベルトの体内は荒れ果てている。彼自身の内臓をも痛めつけるオーラの噴流。渦巻く嵐に放り込まれて、スライムが無事でいられるはずがなかった。
丁度いい。手中のスライムを握り砕いて、アルベルトは眼前の光景に微笑んだ。それは獰猛な笑みだった。ぼろぼろの体を引きずりながら、瞳には狂気にも似た熱がある。およそ、今までの彼とは似つかない、猛禽の如き微笑みだった。
アルベルトには消耗が足りなかった。残存する生命力が多すぎた。今の彼には絶ができない。ならば、当然。闇に紛れ、あの場所まで目立たず進むには、死の淵へさらに近付かなくてはならないのだ。
ただ、一発のために。
水塊が群れで襲いかかり、アルベルトの体が冷たく燃える。肩に担いだ鉄塊を握り、烈震の踏み込みで万象を揺らして、暴風の如き横薙ぎを放った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
はじまりの枷は三つ。
太古、群れで暮らした動物がいた。
独りは、とても儚かった。だから。
緑色の翼を羽ばたかせる。両腕に緑光を纏わせる。付与ではなく収奪のための閃光を。脊髄がひび割れる幻痛がする。爪がめくれ上がる幻覚に溺れる。痛い。
この世界の大地はとても広い。この世界の風はとても寂しい。この世界の夜はとても暗い。ヒトは強い生き物ではなかった。隣に誰もいなければ、わたし達はそれを不安と感じる。群れからはぐれた臆病な猿が、悲鳴のような鳴き声を上げた。自分を抱いて震えていた。それは原初の執着だった。
求不得苦。欲しいものほど得られない。今際の際、猿は幻覚を見るだろう。それが幻だと知りながら、孤独な命は手を伸ばす。わたしはそれに手を重ねて、寂寥の遺産を追想する。
『あなたは、どこにいますか』
はじまりの枷は三つ。それは、聴覚に由来する孤独の象徴。周囲を、緑の閃光が薙ぎ払った。
「まただ! おいウボォー、どうなってやがる、きりがねぇぞ!」
「なに、纏さえ強めとけば怖くはねぇ! 緩めるなよ! ごっそり喰われるぞ!」
雨粒が光を散乱させる。夜気が更に冷え込んだ。気温が下がっているんじゃない。第六感が寒いと告げている。
「お前ら、どいてろ!」
上半身の大きな男の人が、両手をこちらに向けて攻撃を始めた。洪水のような念弾を翼を盾に防ぎながら、わたしはもう一度光を撃った。念弾の威力が減衰する。さすがに消滅はしないけれど、着弾の衝撃は格段に軽く、捌きやすくなってくれた。
それは、赤の対になる光だった。付与ではなく収奪。命の欠片を奪う力。他者の営みに寄生する力。熟練の念能力者が行う纏との綱引きには勝てなくても、一般人の垂れ流すオーラはもちろん、体から距離が空いた念弾ぐらいなら削り取る事ができる程度の性能があった。光子を媒介しにした生命力の授受。それこそが、わたしたちの家系が代々伝えた、特質系としての性質だった。
だけど、緑の真価はそこではない。
この世界のあまねく生命は、独特のエネルギーを宿している。生き物は日夜生命力を造り出し、活力として消費しながら暮らしている。そして、その場に棲む生物たちが生み出して、使い切らずに垂れ流されるオーラもある。持ち主に消費されずに拡散し、朧げに流れ漂う残留粒子。
古来、人々はそれを精霊と呼んだ。
緑の光は精霊を喰らう。山にあっては山の精を、森にあっては森の精を、街にあっては街の精を、屠り、啜り、貪飲する。これは精霊殺しの念能力。集めたエネルギーを燃やして更に集めて、その連鎖は、理論上、体外顕在の限界までもっていける。
わたしは今、自分のオーラを回復させつつ戦っていた。
「っらあ!」
念弾の嵐で足留めされた隙を狙って、巨大な拳が、莫大な念を凝縮した右ストレートが迫り来る。これが、やばい。尋常じゃない威力はただ防いだだけでは殺しきれず、衝撃で体が吹き飛ばされる。仕方なく、右翼を全力で振り当てて相殺した。眩しいぐらいのオーラが爆ぜて、脊髄がみしみしと軋みをあげる。その硬直を、相手は情け容赦なく狙ってきた。
間合いに、その人はいた。神速の居合が一閃される。莫大なオーラで強化された眼球で、ようやく認識できた不可避の斬撃。幽深に研ぎ澄まされた至高の一芸。瞬間移動とも思える究極の一。それを、がむしゃらに左翼で防ぎきった。
野生の大男から注意が逸れた。あからさまな隙を見逃してくれる人達じゃない。右翼の上から叩き付ける様に、左の拳を上から大きく振り落とす。耐えきれないと悟ったわたしは、あえて逆らわず全身で地面にバウンドした。痛いなんてもんじゃない。纏をしてなければ確実に粉砕されてる。それでも、体が浮いた微かな瞬間、衝撃を利用して翼で上空へと待避できた。死線を強制的に潜らされ、一か八かの賭けが連発している。
「っぱ、堅ってえな!」
悔しそうに、その何倍も嬉しそうに、ちょんまげの男性が口を裂いて笑う。だけど、文句はわたしが言いたかった。左翼の傷は半分ほどまで達してる。修復に使うオーラを計算して泣きそうになった。切るという特性。オーラを局所的に集中させる攻撃の恐ろしさを痛感する。あの人はそんな刃を引っさげて、身軽さを生かして連係の隙間を縦横無尽に埋めて回っていた。
この人達は、強すぎる。オーラの収支が釣り合わない。戦いながら総量を回復しようと試みても、それ以上の支出を強要された。そもそも場の生命力は無限じゃない。雨の中なのもまずかった。雨粒は光を散乱させる。一度や二度、大気中のオーラを吸うには都合がよくても、何度も繰り返せば逆にあだになった。たとえわたし達が戦う最中だろうと、この辺りの枯渇は近かった。
息を吸って、両腕を発光させてオーラを飲んだ。他人の魂で着色された生命の力が、わたしの心身を犯してくる。プチプチと小さな声が大量に弾け、脳髄を幾億の蛆虫が泳ぎ回るリアリティー。だけど、わたし自身のオーラのおぞましさに比べれば、こんな違和感はずっと楽だ。
地上に降り立つ。体内オーラの回復は、その実とっくに諦めている。ジクジクした深部の歌声にも、なんだか慣れてしまってきた。よくない徴候だと分かっていても、今は少しでも時間を稼ぎたかった。四人の男性を睨みながら、わたしは纏をたぎらせる。
唾と一緒に、血の塊を地面に吐いた。手の甲で口の周りを乱雑に拭う。不様だ。はしたない。でも、もうそれでいい。体裁を気にしてる余裕はなかった。辛く、痛く、苦しいけれど、少し楽しくなってきた。
ずっと、こんな窮地に憧れていた。
前に睨むは無双の強敵。庇う背中に誰かの運命。わたしは独り、愛しいあの人はどこにもいない。だから、嬉しい。初めて、この念を祝福された気がしたから。破滅の力を誰かのために活かすのは、それはそれは難しいから。
オーラを燃え盛らせて一歩を進む。軋む背骨が心地よい。張り裂ける鼓膜が音楽を奏でる。瓦礫を踏み締め、拳を握った。夜は暗く、雨は強い。願わくは、アルベルト、あなたに優しい朝が訪れますように。
翼をたたんで、廃虚を走った。防御に専念してるだけでいつまでも生き残っていられるほど、甘い相手ではないのだから。型も、技も、術理も捨てて、オーラの流れに従って体を動かす。それだけでいい。それだけしかできない。それだけでいこう。
上半身裸の大男が、大口を開けて凶悪に笑った。太い脚が地面を蹴る。冗談じみた速度で飛来する筋肉質の巨体。後ろでは居合の剣士が腰だめに構え、念弾が援護射撃でばらまかれて、駆け抜けるそばへと着弾していく。
右手にオーラを強く込めた。凝、なんて上等なものじゃないけれど、ただ一心に集中を重ねる。鋼鉄の如き重量の出鱈目な硬が、大気を貫通して肉薄する。その、豪快な拳の真ん中へ、わたしは迷う事なく拳を重ねた。インパクトの瞬間、二人のオーラが打ち付けられ、濃密な衝撃波の爆発を起こした。
衝突。それは夜中の太陽だった。たった一瞬の新星だった。莫大なパワーが解放されて、巨大な瓦礫が次々と転がり、枯れ葉のように軽々と飛んだ。体の芯が僅かにぶれる。鍛え抜かれた肉体と研ぎ澄まされたオーラの相乗効果は、わたしを紙一重で上回った。
次の刹那、わたしの右手が、極彩色の緑に光った。
オーラが限界まで込められた相手の硬は、纏を緩めてやればたちまち漏れる。吸い尽くす事はできなくても、少しの弱体化ならとても容易い。衝撃をオーラで強引に黙らせて、紙一重の敗北を紙一重の勝利にねじ伏せた。力と力の戦いに、わたしは反則技で打ち勝ったのだ。
右腕を振り抜き、大男を吹き飛ぶに任せて見送った。止めを刺すような余裕はない。収まりきらない爆風の中、再び居合に襲われる前に、わたしは顔に傷のある男性の懐へ飛び込んだ。念弾を主武器とするらしいこの人なら、この状況では確実に殺せる。そして確実に殺すべきだ。まずは、一人目。
「はっ!」
ぞぶりと、右腕が根元までめり込んだ。皮も、骨も、筋肉も、ろくな抵抗を受けなかった。大柄な体に大穴が空いて、大量の血液が飛び散ってくる。おかしい。腕を引きながらいぶかしんだ。強化系ではないとは言え、どう考えても、能力者の肉体の強度じゃない。
「残念だが、フェイクだ」
低い声が後ろから響いた。はめられたと悟る。振り向く事も間に合わず、辛うじて視線を向けたその先には、先端のない十本の指が、無気味なほど静かに照準している。ぞっとするような光景だった。嘲笑うかの様にゆっくりと、雷光の如く迅速に、その指先は、火を噴いた。
滝に呑まれた。瀑布はバリバリと天地を引き裂く轟音を奏で、至近距離からの掃射がわたしの全身を苛んでいく。ただ、必至になって纏をした。外れ弾が、コンクリートとアスファルトの瓦礫をやすやすと貫通して砕いていく。それを横目に、翼で体を包みながらただ耐えた。髷を結った剣士が間合いで構え、念弾の男性との間に目配せがなされるのを眺めながら。
激痛にいたぶられながら理解した。狙われてるのは首だろう。この人達は慎重に、確実に殺すために機を見ている。絶体絶命の危機だった。生きたい。だけど生き延び方が分からない。念弾の檻に捕われながら、全身を砕かれそうな暴力に耐える。
光も、翼も、打開はできない。分かっていた。ほんの少し、ちょっとした隙を見せた瞬間、わたしの頚は空を飛ぶと。だから、ただ眺めるだけしかできなかった。筋骨隆々の大男が立ち上がり、小さな長髪の人まで近寄ってくる。状況は刻一刻と悪くなった。抜刀の鞘走りが開始される。それは処刑の瞬間だった。悔しさに歯噛みしながらも、死神の抜刀を待ち受けていた。
そのとき、新しい気配が乱入した。
突然現れた存在は意外なほど近い。わずか百メートル、アスファルトに穿たれた大穴の中から、大きな銃口が覗いている。無機質で、無慈悲で、精密な、アンチマテリアルの近距離狙撃。狙いは剣士。気が付いたときには遅かった。わたしを切ろうと踏み出した隙に絶妙に合わされ、彼は引く事も行く事もできなかった。
千載一遇のチャンスを逃すつもりは全くない。両腕から全力で光を放って、未だに叩き付ける念弾の豪雨をやわらげる。そして、逃げた。渾身のバックステップの直後に翼を打ち下ろし、無我夢中で空中へ離脱した。
ぽんと、放り投げられた様に宙を飛ぶ。その最中、着地までの間にわたしは見た。大穴の中に潜み、今や引き金を引いたアルベルトの姿を。音速を超える弾丸に迫られ、死に瀕して驚愕に染まった男性の顔を。死んだ、と思った。スローモーションで流れる微かな刹那、その巨体は、意外な早さで動いていた。よくコンビを組むのだろうか。おかしいほど庇い慣れていた。
「……ふぅ。ギリギリだったな」
「ウボォー……、お前か」
呆然と、髷を結った剣士は呟いた。大きな掌の真ん中には、焼け爛れた銃弾が未だに回転を続けている。濃密なオーラに強化された分厚い手は、僅かに傷ついただけだった。
それを横目で見届けながら、顔に傷のある男性がアルベルトへ向けて念弾を放つ。破壊の豪雨が荒れ狂う。その威力を少しでもやわらげようと、上空から光を照射した。例え手出ししなくてもアルベルトならという信頼があったけれど、少しでも役に立ちたかったし、なにより感謝の念に堪えなかったから。
だけど、目が合った。そして、わたしは理解した。アルベルトの体から、念能力が抜けている。深い、綺麗な瞳には、懐かしい輝きが戻っていた。穏やかにわたしを見上げながら、あの頃の表情で笑っていた。満足そうな微笑みだった。
念弾が地面ごと抉っていく。穴を更に抉っていく。オーラでの強化もろくにできないアルベルトに、逃れる術は完全にない。手を伸ばしても届かない。奇跡が起きればいいと願った。助けてほしいと誰かに願った。そんな祈りも虚しいままに、わたしが愛したアルベルトの姿は、念弾と土煙に飲み込まれた。もしも、赤い翼を広げていたら、助ける事が出来たのだろうか。
着地する。煙は雨に打たれてすぐに収まり、灰燼に帰したクレーターが見えた。そこには何一つとして残ってなかった。瓦礫も全て粉砕されて、がらんとした穴だけが残っていた。血も、骨も、肉の欠片すら残らずに、アルベルトはこの世から消滅していた。
遺体がないのは、逃げ延びてくれたからだと信じたかった。だけど、どうやって逃げたと言うのだろう。発が消えたアルベルトが、絶とまごうほど消耗した体力で、制御できないオーラを使って、瞬時に動いたと思いたいけど。この空の下、あの人はどこかで生きていると、宛もない人探しの旅に逃げたいけど。
それは、あまりに残酷すぎる夢想だった。
「わりぃ。助かった」
「気にすんな。いつもの事じゃねーか」
あの人達が、言葉を交わす。少し顔をしかめてみたり、陽気に軽くからかってみたり、そんな仲間同士のやり取りは、彼等に取っての日常だろう。今、邪魔者を殺した事だって、蚊を潰したほどにも気にしてない。
アルベルトの最後を胸に宿す。あの人は確かに笑ってくれた。あれは満足の笑みだった。その気持ちは、よく分かった。もし、立場が逆なら、わたしは満足しただろう。全ては、ただ、あの一助のために。決して生還できないと知りながら。一発の弾丸を撃つために、わたしを助けてくれるために、アルベルトは、己が命運を炎にくべた。
おめでとう。心の中で祝福を囁く。自然と、優しい気持ちが沸き上がった。知っていた。ずっとずっと、アルベルトは豊かな感情を欲しがっていたって。だからヒソカみたいな人に憧れもしたし、ゴン君たちに好感も持った。寂しかったんだと思う。悔しかったんだと思う。それは心の底の底で、本人も気付いてなかったかもしれないけど。
ほんとうに、馬鹿なんだから。
優しく笑った。とてもとても悲しいけれど、これからずっと寂しいけれど、涙は後にとっておこう。最後に感情を取り戻したなら、それで満足して逝ったなら、わたしはそれを祝福したい。
だから、おめでとう、アルベルト。頑張ったね。
……そして、許せない。
わたし自身を、許せない。思えば、最後までアルベルトに甘えていた。自分を一番大切にしてね、なんて、そんなお願い、聞き入れてくれる人じゃないって知ってたのに。
幻影旅団を、許せない。わたしの体からオーラが吹き出す。あの人達が警戒した。だけど、そんな事はどうでもいい。フワフワと体が揺れていた。地面を踏み締める脚は喪失したように頼りなくて、わたしという外殻の中身が空っぽになったような空白感。
清き歌声が聞こえてくる。穢れた魂の深淵から、千年前の真摯な祈りが沸き上がる。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
全身の細胞が活性化して、オーラが爆発的に吹き出している。たぶん、これが練という技術だろう。難しいとは聞いてたけど、やってみると、とても体に馴染んでしまう。軽すぎるトリガーが憎らしい。体機能がオーラによって強化されて、視覚は雨雲の先の星を認め、聴覚は千里先の鼠の拍動をたやすく拾った。自然体で吹き出すオーラだけで、都市が丸ごと震えている。
魂の奥底に沈んでいた、始まりの意思が鎌首をもたげる。沈澱していた黒い泥が、オーラの中に舞い上がる。蛹の時代はもうおしまい。羽化が、わたしの開花が始まった。
今さらになって気が付いた。一線を越えてしまったと。あの飛行艦で、絶対に負けないとわたしは告げた。誓いは容易く叶うだろう。アルベルトはわたしを怒るだろうか。向こうで叱ってくれるだろうか。それはとても楽しみだけど、あの人の努力を踏みにじりたくはなかったから。アルベルトはあんなに苦労した。昼夜を問わず捜査に奔走して、自分をコンピュータに直接つないで、部隊を伴って戦場に飛び込んだ。それを、わたしが無駄にしてしまうのだろうか。
なら、せめて、死にたかった。だけど、もう遅い。
四人の蜘蛛が迫ってきた。今のうちに始末する気なんだろうか。幻影旅団は許せないけど、戦う事はできなかった。この力は彼等を始末した後、都合よく止まってくれるものじゃなかったから。
それは前の世紀末。約束の日が来なかった千年前。飽食と程遠い苦しみの時代。ありもしない神の国を待ち望み、人の手でラッパを吹こうとした哀れな背信者が一人いた。世界を憂いて狂った彼女は、自らの慈愛の命ずるまま、血族に使命と呪いを受け継がせた。たったそれだけの話だった。終末願望。この身を蝕む呪いの名だ。
絶滅は優しい。人生は辛い。それは偉大な発明だった。かつて、誰かが思い付いてから幾星霜、何度も訪れ、何度も乗り越え、あるいは、何度も縋り付いて支えとした究極の希望。多分、この世の誰もが思い描いた、全てを無に帰すリセットボタン。
その社会は、数多の脅威に撹乱され、傲慢と暴虐に蝕まれながら、それでも、システムを辛うじて保っていた。
ただし、今日までは。
あまねく人類を滅ぼすため、わたしはこの世に生を受けた。
地面に膝を付いて絶望した。これ以上は抑えられない。体の制御が効かなかった。自分の肩を抱いてガクガクと震えながら、わたしは深淵に埋もれていった。美しい賛美歌の幻聴が聞こえる。幻影旅団が迫ってくる。彼等に殺されるのが先か、彼等を殺すのが先だろうか。それは、あまり意味のない想定だろう。
豪雨に沈む廃虚の底で、わたしは終わりを迎えるのだ。
コッペリアの電脳 第二章最終話「ラストバトル・ハイ」
if 1999
END
But, we are living.
「おっと、それはやめとけ」
それは。
「大丈夫だ。あんたはちゃんと抑えられる」
とても、力強い、声でした。
「なんって馬鹿な真似をしてくれるんですか! 脱出するんじゃなかったんですか!? 泣きますよ! ほんとに!」
「脱出するさ。だからこその、この道だ!」
わたしの背後から念弾が連射されて、接近する旅団たちに回避を強いる。ありえないほどの高速念弾。瓦礫をゼリーのように貫く貫通性能。呆然としてるわたしを完全に無視して、女の子を抱きかかえた男性が駆け込んできた。
「一旦力を合わせてあいつらを消して、返す刀で残りを屠る。そうすりゃ包囲網なんてどうにでもなるさ。なあ、おい! お前も一口乗るだろう?」
油断なく女の子を降ろしながら、どこかへ向かってその人は叫んだ。直後、大きな物体が通過していった。後から轟音が鼓膜を揺らす。物凄いスピードで飛んでいったものの正体は、槍を構えたカイトさんだった。
「さがれ! 危ねえ!」
居合が槍を迎撃した。穂先と物打ちが寸分違わず打ち重なって、金属音をたてて拮抗した。奇跡のような精度の競り合い。間髪いれず念弾が双方から掃射されて、野生の大男が助太刀に入る。そんな状況に即座に見切りを付けたのだろう。カイトさんは鋭いバックステップからの疾走で、あっという間にこちらに戻ってきた。
「いいだろう。一時の休戦を受け入れよう」
濡れた長い髪を靡かせて、涼やかに頷く姿が頼もしい。槍の後ろにくっついたピエロの顔が、上機嫌に笑いながらはやしたてる。絶望に瀕していたわたしの気持ちも、おかげで、だいぶ軽くなってくれた気がした。
「よくやってくれたな。大手柄だ、立てるか?」
差し出された手を借りて立ち上がった。オーラは、練はさっきの声のおかげで沈静化していた。
「お前は、大人しく捕まれば減刑嘆願ぐらいは出してやる」
「はっ、ぬかせ。逃げ延びてみせるぜ、俺は。いや、俺達はな」
飄々とした様子で軽口を叩いて、男性は女の子の頭をわしゃわしゃと撫でた。彼女は困った顔で見上げたけど、眼には隠しきれない喜色が混じっていた。きっとこの子は恋しているんだ。そう、直感した。
金髪の男性と銀髪の少女。そんな二人の人相は、映像資料で見た容疑者のものとぴったり重なる。言動からも間違いない。伝え聞く罪状から言うならば、幻影旅団に匹敵する極悪人。いえ、なんの意味もなく殺人を犯す性質からは、邪悪さではさらに上かもしれない。わたし達にとっては紛れもない敵。向こうから見てもそうだろう。
「やるぞ」
「おう、やってやろうぜ」
相争う関係の二陣営が、切迫にまかせて手を組んだ。
それぞれの明日を生きるために。夜明けをその眼で拝むために。死の運命にあらがうために。もう、二度と交わらない定めと知りながら。自分達の日常を取り戻すために。己が信じる正しさのために。
ただ、この窮地を覆すためだけに。彼等は、いえ、わたし達は共に戦う道を選んだのだ。
わたしは、戦う。
それは危険な選択だろう。確実に命を削るだろう。世界を危険にさらすだろう。この地は無人になるだろう。それでも、わたしは戦いたい。ジャッキーさんが命を捧げ、多くの兵隊さんたちが命を散らして、そしてなによりアルベルトが、全てを惜しまず尽力した、わたし達の明日を守りたい。
だから、戦おう。この人達と共に。決して負けないというあの時の誓いを、今こそ、再び本当にするために。
「仕方ないんですから、ほんとにもう。やりますよ。どうせなら徹底的にやりましょうか」
「ええ、やってやりましょう、皆さん、カイトさん」
アルベルトの死を、決して無駄にしないために。
「あのガキ! おいてめぇ、憶えてるぜぇ!」
「あ、おいウボォー!」
大男が青筋を立てて、褐色の少女を指差して激昂した。足下の瓦礫を粉砕しながら、暴力的な質量が突進してくる。機関車のような突撃は、それ自体がもはや無双の兵器だ。冗談じみた衝撃力を止めるためには、念の達人の二人や三人、犠牲になってもおかしくない。
「知り合いか?」
「襲われたので、返り打ちにして逃げました」
「そうかそうか。やるじゃねえか。じゃ、後は任せろ」
だというのに、男性は上機嫌で気楽に請け負った。右腕を伸ばして拳銃を構え、オーラを喉元に集めて大声で叫ぶ。
「デカいの! お前は今すぐ転ぶ!」
暴走はいとも簡単に沈静化した。轟音とともに、新しいクレーターが形成される。頭から地面に突っ込んで、粉塵を巻き上げて大地に埋まる。滑稽を通り越して戦慄的な、笑い話のような能力だった。
「はっはー! 強化系バカには暗示がよく効いて気持ちいいねぇ!」
「んだとコラァ!」
憤怒の様相で起き上がる大男目掛け、男性は、嘲笑うように射撃する。追い討ちをかけながらの挑発に、居合の剣士が怒気を上げた。仲間の危機を救おうというのだろうか。こちらへ駆け寄るその姿は、傍から見れば鴨そのものだ。妙に力強く響く男性の声は、心を深々と刺激する。そんな二人を、瓦礫の大群が虚空から振り落ちて防ぎ隠した。
「二人とも、大丈夫?」
「お前ら、少しは頭を冷やせ。ノブナガ、お前は奴の相手を頼む」
顔に傷のある人が言った。鋭く睨む視線の先には、カイトさんが悠然と佇んでいた。側でルーレットが回っている。決定したのは剣だった。柄頭にピエロが付いてる以外、なんの変哲もない両手持ち両刃のロングソード。
「ほう。今夜のオレは運がいい」
だけど、それを見てカイトさんは頷いたのだ。わたしはゾッと震えを感じた。穏やかで、満足そうで、とても迫力のある凄惨なオーラを纏っていた。
壮絶な睨み合いが始まった。絶対零度の空気が流れる。カイトさんと金髪の男性が獲物を片手に半歩を進み、わたしと女の子が半歩下がる。安易な猪突はできなかった。乱戦になればこちらは弱い。勝敗は、作戦の成否が要だった。
「個々の実力が高い上に警戒慣れして機転も利く。あの四人が固まってる限り正面からの攻略は無理だな」
冷静な分析をカイトさんが告げる。それに応えたのは女の子だった。見た目より落ち着いた雰囲気で静かに頷き、当たり前の回答を当たり前にいった。
「じゃあ、連係さえ崩せばいいんですね」
片手を挙げて、彼女はここにはいない誰かに対して言葉を発した。
「みんな、おいで」
ぞわり、幾多の気配が沸き出した。瓦礫の影から、路地から、遠くからも近くからも、沢山の何かが蠢いてくる。それは拳大の水塊だった。意志を持った様に動くスライムだった。一つ一つはか弱いけれど、数は万をはるかに越えている。
まだ、こんなに。どこに潜んでいたのだろう。
「もう、これで最後です。行って!」
スライム達が飛び掛かった。散乱している瓦礫に隠れて疾走し、死角から多角的に襲いかかる。たぶんあれは自動操縦。その利点を最大に生かして、数に物を言わせた波状攻撃で意識の分散を強要する。それは効率のいい嫌がらせだった。一体一体は大した事ない。だけど、微かな隙、僅かな遅れが致命傷につながる。機に乗じて、カイトさんと男性が地を飛ぶような疾走で攻めかかったから。
カイトさんの剣が振るわれる。ざくりと、大気が明確に断ち切られた。切れ味がおかしい。体の動きのキレがとてもおかしい。髷を結った剣士が居合でそれを迎撃して、念弾の洪水が満ちあふれて閃光が音を切り裂いて、周りに倒れるビルの残骸が上空から現れては崩壊していく。爆発の連鎖が地面を掘った。
もう、あそこは人外の戦場と化していた。
わたしも負けてはいられない。緑の光を両手から放ち、顔に傷のある男の人を集中的に狙って支援する。前線さえ押し上げられていたならば、この力は効果的に回復できる。
「いいですね、それ」
隣で見ていた女の子が言った。手招きし、スライム達を呼び寄せる。破壊の渦から沸き出したそれは、だいぶ数が減っていた。
「どうぞ。オーラを吸えるんでしょう。食べて下さい」
そのほうが効率的でしょうから、と彼女はいう。観察眼がすごい。この歳で、この破滅的な状況で、周りの様子をよく見ている。同性だからこそよく分かる。赤褐色の綺麗な瞳には、女の輝きが宿っていた。
「貰うわ。ありがとう」
「あの人、巻き込まないで下さいね」
「できるだけ、ね。それ以上は、ちょっと約束できないから」
「それで十分ですよ」
スライム達の生命力を全て吸収して、両手を握って確かめる。十全からは遠いけど、オーラは、少しだけ回復して余裕ができた。そして背中の翼を消す。暴走の危険は、少しでも減らしておくにしかなかった。最後に、一度深呼吸をして肩の力を抜いてから、少女に、離れていてねとお願いした。
「あ、あ、あ、ああああああぁぁぁ!!!」
気合いとともにオーラを吹き出す。二度目の練は、やっぱり容易い。身体能力が激増して、高揚感が全身に満ちた。噴火のように吹き出すオーラを、あれほど鍛えた纏で留める。自分が恒星になった錯覚があった。
金髪の男性がにやりと笑った。戦いの最中から離脱して、わたしへ向かって駆けてくる。そして、オーラの篭った声で強く言った。
「嬢ちゃん、あんたの能力は制御できる! 何があっても耐えきれる! この戦いでは! 絶対に! いいな!」
とてもありがたい助太刀だった。絶対的な自信が心に刻まれるのがよく分かった。頷いて、お礼の代わりに一言を告げる。
「あの子の側に!」
「言われるまでもねぇ!」
二人は駆けた。わたしは敵の元へ、男性は彼女の元へ。能力はかつてないほど安定している。足裏の感覚が地面の底まで理解させて、頭上は雲の上まで把握させた。奥底から聞こえる声が小さい。わたしを苛んだ呪縛が軽い。恍惚する全能感が沸き出てきた。魂が生命力に満たされていた。
「カイトさん、とどめ、お願いします!」
アイコンタクトで了承された。わたしの技術は所詮拙い。だから暴れまわることに専念する。あの人が命を狩ることに専心できれば、それは最強の布陣だろう。
眼前にビルが立ちふさがった。分厚いコンクリートの塊を、何も考えずに殴り倒す。粉砕されて大穴が空いて、噴流の中を突き抜けた。威力に肉体が耐えきれず、過剰なオーラが内部で暴れて、わたしの右腕はずたずただった。皮膚は破れ、筋肉が千切れ、骨は粉々に砕けている。吹き出した血が撒き散らされた。
そして、完治。
着地と同時に、腕に意識を向けただけで治癒された。別に、特殊な発など使ってはない。オーラ任せの身体強化。それで増強された治癒力だけで、時間の巻き戻しにも等しい再生が成った。
「狂ってやがる……」
「うん、そうだね」
「おもしれぇ。化け物だぜ、こいつ」
口々に、旅団のメンバーがわたしを罵り、あるいは好奇の目を隠さず眺めてくる。そんな彼等へ向かってゆっくりと歩く。示威的に、カイトさんが動きやすくなるように。今や、わたしのオーラが、戦場を完全に着色していた。圧倒的に有利な状況だった。
そこに、黒い男性が現れた。
倒壊してないビルの上から、その人は静かに舞い降りた。深く、大きく、無気味な気配を纏っていた。
「団長!」
大男がその人に声をかけた。それで知れた。この人こそが彼等のリーダー、幻影旅団の団長だと。
「お前達、そろそろ時間だ。引くぞ」
指示を下すというよりも、事実を告げるに近い厳然たる態度。傲慢ながらも鋭敏な、隷下を心酔させるであろう絶対存在。わたしは思わず納得した。この人ほどの器なら、旅団を率いて余りあると。
「やれ」
女の子を指差し、端的に告げる。命令は即座に実行された。筋骨隆々の大男が、二メートル近くあるかという巨大な瓦礫を片手で持ち上げ、渾身の力で投合した。なんて常識はずれの豪速球。カイトさんは動けない。居合の剣士が間合いに迫り、静止した戦いに興じていた。わたしもすぐには動けない。顔に傷のある男性と小柄な長髪の男性が、命を賭しても妨害しようと構えている。少女の命を奪おうと、大質量が唸りを上げて飛んでいく。
「危ねえっ!」
「きゃっ!」
だけど、彼女の隣にいた男性は、的確に弾道を予測した。女の子を抱えて跳躍して、余裕を持って回避する。それを見てわたしは安堵した。あの人がそばにいる限り、あんなこれ見よがしの攻撃が、彼女を傷つけることはないだろう。
そう、思っていた。
空中を走る瓦礫が消えた。いえ、ずれた。瞬間移動。その、たったひとつの要素だけで、見え見えの投合が必殺の不意打ちに激変した。宙に浮く男性は躱せない。腕の中の少女を目掛け、瓦礫は容赦なく差し迫った。
「っかはっ……!」
強烈な衝撃に貫かれて、金髪の男性が血を吐いた。だけど少女は無事だった。抱えた彼女を放り投げて、あの人は自分一人で喰らったのだ。
「なんて無茶するんですか!」
「うるせえっ! 惚れた女一人守れずして、なんのための男の命だ!」
両者、したたかに地面に打ち据えられ、転がりながら怒鳴り合う。ひとつ息を吐きながら、心の中で、仲のいい二人を無事を祝った。例えこの後戦う凶悪犯でも、目の前で殺されるのは気分が悪い。微笑ましいカップルならば尚更だった。
「ナイスだ。よくやったウボォー」
女の子は未だに無事なのに、彼等の長は頷いた。いつの間にか手にしていた書物をぽんと閉じ、それをいずこかへと消失させる。黒い眼は自信に満ちたままで、諦めたようには見えないけれど。
内心に疑問を抱えたそのとき、一台の装甲車が旅団の背後から迫ってきた。
「当初の目的は全て達した。引き上げるぞ。シャルナークからも連絡がきてる。外の包囲網が、著しく強化されてるそうだ」
「逃がすと思うの?」
わたしは尋ねる。逃がすつもりはさらさらない。だというのに、その人はまるでわたしの存在に初めて気付いたかのように、見下しに見下して鼻を鳴らした。
「逃げるさ。それがオレ達だ」
「そう」
莫大なオーラを滾らせたまま、無造作に一歩一歩先へ進んだ。間合いも攻撃もどうでもいい。ただ進んで、ただ倒す。それだけのために前へと歩いた。
「エリス、止まれ」
「カイトさん?」
「深追いは無用だ。今の状態で無理はするな。念能力者同士の戦闘は、オーラの量が絶対の基準じゃない」
鋭い視線で射抜かれて、わたしは自分の増長を自覚した。
たしかに、彼等は達人の中の達人だ。磨いた技術と言う一点では、わたしが及びもしない高みにいる。それぞれに特色のある発もあるのなら、例え今のわたしでも、殺しきる術があるかもしれない。後ろの二人は負傷していて、人数も彼等のほうが圧倒している。それでも、アルベルトの命を奪った怨敵を目の前にして、このまま逃がすのは嫌だった。
「……でも」
「それにな、これは極秘だったんだが、秘匿名称『第五の段階』はとうの昔に放棄されている。全軍は今や完全に自由だ。各師団が逐次、この都市の郊外に集結している。オレの命令があるか、バイタルセンサーが一定時間反応をやめれば、その時点の全力で殲滅作戦を実行する予定だった」
カイトさんが説明してくれる。本当に最後の、極秘中の極秘の保険。それをわたしに明かしてまで、深追いを思いとどまらせようとしてくれた。
「文字通り、この街ごと灰燼に帰すための作戦だ。短距離弾道弾まで投入した、な。ワルスカが手段があると言っていただろう。それが、これだ」
退路には地獄が待ち受けていると言うのだろう。だけど、相手はあの旅団だ。今も、不敵に笑みを浮かべている。絶望的な罠へと飛び込んでも、噛み破って逃げ出しそうな予感があった。たとえ遠距離からの火力戦でも、圧倒的な威力の兵器にものを言わせても、確実に仕留められるかは不安だった。それは、カイトさんも重々承知だろうに。
だけど、胸がじくりと痛んだから。
時間切れを自覚した。練が持たない。暴走の危険が迫っていた。あれはもう、嫌だ。それだけは本当に嫌だった。カイトさんが止めた理由も、これにあると分かってしまった。本当にいつも冷静で、嫌になるぐらいこの人は正しい。わたしの練がこけおどしになったと知れたなら、蜘蛛は即座に牙を剥くに決まっていた。それは最悪の展開だった。
「お待たせ。準備はいい?」
「ああ、出てくれ。フィンクスとマチはどうした?」
「指示通り、外の連中に紛れてるよ。呼応して撹乱してくれるはず」
「よし、それでいい。それからウボォーにあれを」
「ん、了解」
やってきた装甲車に乗り込みながら、旅団は平然と会話を続けている。爽やかな金髪の青年が、針状のものを大男に渡した。緊張感のないやり取りだった。それをみて、わたしは怒りを胸に刻んだ。いつか、機会があるまでは、決して忘れる事はないだろう。
「なんだこれかよ。こいつは記憶が飛ぶから面白くねぇ」
「我慢しろって。すげーのは確かなんだからよ」
談笑しながら撤退していく。地獄と絶望へ向かいながら、傲慢なほどの自然体で、彼らはそのまま去っていった。
姿が見えなくなってから練を解いた。カイトさんが労ってくれる。勝ち得たものは多かった。連続死事件も解決だろう。この国に降る春の雨は、再び恵みの象徴へと変わったのだ。幻影旅団も追い払った。軍の力を大きく借りたこととはいえ、たった五人、最後は三人のハンターで、これだけできれば上出来なんじゃないだろうか。
もうすぐ、夜が明ける。昨日は違う、希望の朝がやってくる。
だけど、勝ち得たものは多かったけど、アルベルトは隣にいなかった。
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【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】
使用者、エリス・エレナ・レジーナ。
赤の光翼 悠久の渇望;愛別離苦 具現化した光に生命力を付与する。
緑の光翼 千古の妄執;求不得苦 具現化した光で生命力を収奪する。
青の光翼 原始の大罪;五蘊盛苦 具現化した翼に生命力を溜め■■■■■■■■■■■■。
長い世代をかけて鍛えられた、人の手で終末を招くための能力の失敗作。
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次回 第二章エピローグ「恵みの雨に濡れながら」