念を修めてからというもの、世界が広がったことを実感しない日は一日もない。森の中で座禅を組んで心を澄ませば、溢れる命の気配に敬虔な驚きを与えられた。美術館にて歴史的な傑作を目の当たりにすれば、古の巨匠の息遣いに感銘を受けた。復讐に身を焦がす我が身なれど、この世の奥深さには限り無い敬意を払いたくなる。
それでも、こんな驚きは初めてだった。
乾いた山岳地帯に車を走らせること数時間、山を越え、谷を越えて、指定された地点が見えてきた。空気は冷えて、地味は悪く、埃っぽい痩せた地肌が露出している、お世辞にも豊かとはいいがたい土地柄だった。だが、纏をして集中すればそこかしこに小さな生命が息づいているのが把握できた。苔や草のような植物から、昆虫や爬虫類のような動物まで。どこかの岩影を覗いてみれば、小さなネズミが潜んでいるのも分かるのだろう。
それが、途絶えた。
そこは空白の地帯だった。生き物の気配が全くない。見た目はほとんど変わらないが、これまでの荒れ地とは命の量の多寡で決定的に違っていた。枯れて乾涸びた草木の僅かな残骸だけが、かつて生命の存在していたことを証明する痕跡だった。
だが、生命力だけは濃厚だった。岩から、土から、小石から、オーラが陽炎のように昇っている。それは指向性を持ったエネルギーだった。無垢で透明な力ではなく、生けるものを苛みつづける毒だった。その効果はとりわけ、人に対して覿面だろう。私という人間に対し、一途なほど執拗に牙をむく圧力と比べれば、生態系が消失した範囲は非常に狭い。恐らくは、ほんの些細な余波を受けての事なのだ。纏を使えない人間がいたならば、瞬く間に体調を崩すに違いなかった。
熟練の念能力者と敵対した際のような圧迫感に、私とて愉快な気持ちにはなれなかった。知らぬ間に手の中に汗を握っていた。落ち着くために息を吐く。右手に巻き付けたままの鎖の束が、ジャラリと微かな音を鳴らした。
復讐を旨とする私には分かった。肌を焼き、首筋を焦がすこの感覚の正体は、積もり積もった怒りではない。憎悪も、悲哀も、絶望も、混ざり物の一つにすぎなかった。
以前、書物で読んだ記憶がある。ある地域に伝わる呪法の一つに、蟲毒というものがあるらしい。密閉した容器に毒をもつ生物を充満させ、殺しあわせる古代の外法。数多の負の感情を凝縮させたこのオーラは、さながら、その呪いの結実を想起させた。
核となるのは憎しみではない。どす黒く濁った混沌の渦を束ねるものは、純然たる人類への害意だった。
これは、結界だ。人の世と異界を隔てる境界だ。
念を知った今でさえ、想像できない高みというのは存在してる。あのハンター試験の最中において、私達はそれを幾つも体験した。最終試験でアルベルトが見せた体捌きも、ヒソカやイルミの拍子すら見えない攻撃も、ヒソカとエリスの戦いでホテル全体を揺らした破壊の規模も、どれほどの修練を積めば到達できるのかさえ分からない領域だった。あるいは、なにかトリックがあるのかもしれないが。
だが、これはそれらとも別物だった。性質が違う、と直感した。
物体をオーラで強化する技術があるという。天才的な芸術家が、無意識のうちに作品にオーラを込めた事例も多いと聞く。恐らくはこれも、それと全く同じ現象だろう。何処より流出した強いオーラが、この土地の物質に吸着された。原理としては単純明快。だからこそ、私は恐ろしくてならなかった。
わずか五ヶ月、一人の人物が住んだだけで、このような異境が生まれた事に。
目的のログハウスはまだ遠い。私がいる場所からあそこまで、優に千メートル以上は離れていた。
いらっしゃい、と、エリスは人恋しそうな笑顔で私を迎えた。
「ごめんなさいね、クラピカ。こんな辺鄙な場所まで呼び出してしまって」
「いや、問題ない。私としても、一度直接会って話したかった」
ログハウスの中はがらんとしていた。テーブルと簡易なキッチンと幾つかの椅子、そして手洗いへの入り口であろうドアだけが眼に映る。壁には申し訳程度に小さな額縁が飾られているものの、生活臭は全くない。先ほど、外に地下室への入口らしきものが見受けられたが、恐らく、普段はそこで暮らしているのだろう。どれほど深いのかまでは分からないが、地上に広がっている影響は、ほんの一部のものらしい。
「どうぞ、おかけになって」
「ああ。失礼する」
木製のシンプルなテーブルには、白地に薄いピンクの花々が描かれた真新しいクロスが掛けられていた。清潔だが、それ以上に使った形跡がほとんどない。切り花なども飾られておらず、感心よりも先に寂寥を訪問者に与えている。
「ゴン達からは、連絡は来たか?」
「ええ。わたしはレオリオさんからだったけど。困ったわ。よりにもよってヨークシンでしょ? あれ」
「だが、ヨークシンといっても広い。こちらの事情を伝えれば放っておいてくれる連中でもなし、今しばらく様子をみるのが賢明だろうな」
「それしかないのかしらね」
腰掛けながら、世間話に近いやり取りをする。彼らは皆、相応の戦闘力はもっている。直接関わってしまったならともかく、余波の火の粉なら振り払える実力があると信じていた。
「お茶をどうぞといいたい所だけど、ごめんなさい、普通の人が口にできそうなものは生憎とここには置いてないの。保存食ばかりで、汚染されちゃってて。念が使えれば実害はないと思うけど、気分がいいものじゃないでしょう?」
聞いて、私は表の様相を思い出した。あれはまさしく異常だった。常識が通用しない異世界に近く、常人が踏み込めるような環境ではない。しかし、その原因となったはずのエリスはどうだ。こうして対峙していても、彼女の纏から溢れるオーラは非常に少ない。だがそれは逆に、漏れるときは大量に噴出する事を示唆しているのではないだろうか。どうやら、彼女の抱えている症状は、想像よりさらに深刻なものらしい。
「いや、気を遣う必要はない。それより、早速だがこれを見てくれないか」
懐から小箱を取り出してテーブルに置いた。中には、私がつい最近探し出した物品が入れてある。
「名女優セーラの毛髪、DNA鑑定書付きだ」
「まあ!」
エリスは瞳を輝かせ、それをしげしげと観察した。やはり、それなりに興味はあるらしい。自分の髪と見比べているのは、女性としてのさがだろうか。人体収集という下衆な趣味も、この程度であれば可愛いものだ。
「じゃあ、これで?」
「ああ、クリアだ。提出すれば採用まで持っていけるだろう」
「おめでとう。さすがね。そして、ありがとう」
投げかけられた微笑みに頷いて、祝福と謝辞を受け入れた。穏やかな空気が流れている。この調子で終止したならば、久しぶりに会った友人同士の会話だろうが、これからが私達にとっての本題だった。
「ヒソカは、あれから何か言ってきたか?」
「ええ。一つ提案をしてきたわ」
「提案?」
「そもそもヒソカは旅団の団長、クロロって名前らしいけど、その人と戦いたくて入団したふりをしたんですって。だから、彼の希望は団長との対決。わたしへの報酬は団長の殺害。そのために利用しあう関係にならないか、って。返事は、まだしてないわ」
エリスは淑やかに笑っている。成長した、と肌で感じた。ハンター試験で会ったときは、アルベルトの背に庇われたままの小娘といった印象だったが、これで中々、彼女にも様々な出来事があったらしい。駆け出しの雌狐ぐらいにはなったのだろうか。しかし、世慣れし始めた自称中級者ほど転びやすいのも事実だった。
「乗るのか?」
「あら、クラピカは乗るつもりなの?」
エリスは意外だったらしく驚いた。だが、その選択は腑に落ちない。団長の殺害。それは、是非とも私自身の手で成し遂げたい事柄だ。あんな奴の趣味などのために、譲ってやりたいとは思えない。しかし、それは彼女とは無縁の理由なのだ。
「なぜだ。性格や嗜好はともかく、戦力としては一級だろう。それに、内通者というポジションも魅力的なはずだが」
「いえ。わたしは自分の経験不足をよく知ってるもの。あんな気まぐれの道化なんて、制御できるはずがないじゃない。味方に付けるなら、常識的があって信頼できる人が一番でしょ? クラピカは頭も切れるのだし」
ふむ、と私は頷いた。確かに、あれを頼るのは最小限に押さえたい。それは理にかなった判断だろう。加えて私自身の感情を添えるなら、奴は是非ともこの手で殺したい一人だった。仮に緋の眼に関わってはないとしても、あんな集団に好き好んで加入した時点で復讐の対象にするに余りある。
「了解した。ところで、アルベルトの状態はどうだ」
「落ち着いているけど、大事を取って安静にしてるそうよ。ヨークシンの件は手を出さないから、エリスの好きにすればいい、ですって。……わたしが信じると思っているのかしら?」
心底困ったというように、エリスが頬に手を当てて息を吐いた。優しい憂いの滲む顔には、婚約者に対する慈愛がある。左手の薬指に指輪はない。オーラに汚染されてしまわぬよう、実家に預かってもらったそうだ。
「来ると思うか」
「間違いなく。だってそれがアルベルトだもの」
エリスは自信を持って断言する。確かに、それが正しい答えだろう。彼女より圧倒的に付き合いの短い私でも、彼が動かず、妹に全て任せきりにするとは考えがたい。
「本当に、ヒソカの奴が言う通り、団長を殺せば戻ってくるといいのだがな」
アルベルトの発、それさえ取り戻せたのなら、いくつもの問題が解決し、あるいは好転へ向かうだろう。それは私の望みでもあった。エリスの体質は、アルベルトが側にいたからといって、都合よく収まるようなものではないのだろう。彼女の挑戦は無駄かもしれない。だが、どうせ破滅する運命なら、最後は本人達が満足できる形で終わる事ができればいいと私は思った。
「ええ、本当ね。だけど、アルベルトに聞いたらね、それが合理的な推測なんですって」
エリスの瞳がぎらりと光った。強烈な希望と願望が、入り交じって輝いた光だった。
「ほう。何故だ」
「ここから先はアルベルトからの受け売りだから、細かい疑問までは答えられないかもしれないけどいいかしら」
「ああ、問題ない。話してくれ」
「えっとね、最初に整理すると、あのとき起こった現象は三つよ。アルベルトが発を一つ使えなくなって、旅団の団長がアルベルトを見逃して、その後、その人がアルベルトと同系統の能力を習得したと思しき動きをしたのが目撃されてる。前二つはアルベルト自身が体験してて、最後のは保護された女の子が証言したの。彼女はね、数日前にもその男と別の街で邂逅していて、その時はそんな能力が使える徴候はなかったとも言ってるわ」
列挙されて違和感を感じる。いや、明確に異質な項目が混じっているのに気が付いた。恐らくは、アルベルトもその疑問点から考えを巡らせたのだろう。
「ここで不自然なのは二つ目よ。なぜ、相手はアルベルトを殺さなかったのかしら。自分の発の情報は、能力者にとってとても重要な秘密なのに」
「それが能力の成立に必須だったからだろう」
「ええ、そうでしょうね。だから、団長の能力が『相手の発を喪失させる』ものである可能性はほぼ消えるわ。発を消す代償に敵を殺せないという誓約は能力そのものを無意味にするもの。まして戦闘に長けた能力者で、一人で戦いに挑んできたなら尚更よ」
至極道理だ。実現すれば強力な補助系の能力になるだろうが、とどめを刺せなければ意味はない。アルベルトと対峙したから能力が使えなくなった時点で決着が付きはしたものの、他の術者であれば勝敗は容易に裏返るだろう。
「『相手の発を喪失させる代償に相手と同じ発を修得する』というケースも考えづらいわ。なぜ、『相手の発を喪失させる』なんて余計な機能を組み込む必要があったのかしら。」
「たしかに、ついでにしては重すぎるな」
「でしょう? それにアルベルトを殺さなかった説明も苦しいわ。『相手の発を喪失させる』という弱体化の機能を組み込んだなら、弱体化させた相手を放置せざるを得ない誓約を付けるのはおかしいもの」
「その場合も、通常ならとどめ役の随伴がいるな」
「ええ、そうでしょうね」
相手と同じ発を修得するという能力だけで相当な無茶だ。自然、かなりの重荷になるだろう。その上で更に、他者の能力を喪失させる機能を付けるなど、あまりに突飛すぎる想定だった。そして、そこまで話が進めば回答は容易に推察できる。他者とよく似た発を短期間で修得し、その相手を生かしておく必要があるだろう念能力。
「つまり、『相手の発の使用権を強制的に借り続ける』といった念である可能性が高いわけだな。端的にいえば、『誰かの発を盗む』能力だ」
「さすがね。アルベルトはそう考えてるわ。それなら、アルベルトを殺さなかった理由も、その後によく似た能力を使えた理由も説明できるもの。そして恐らくその場合、発としてのパワーの大部分は、奪った発の使用権を握り続けることに割り振られていると考えられる。複数人の発の使用権を奪えるなら、とても強大な念能力よ」
確かに非常に強力だ。だが、それ以上に不愉快だった。念を修得し、発を開発たからこそよく分かる。それは、他人の半生を強奪するに等しい所行であると。
「まさに、盗賊の長らしい能力だな。卑劣で、姑息だ」
「そうね。その通りね。でもね、クラピカ、もしこの推測が当たってるとすると、団長を殺害した場合、使用権はアルベルトにかえってくると考えるのが自然になるわ。万が一、死者の念として盗んだ念に拘泥されたとしても、その時持ってるオーラを使い尽くせば同じこと。一般的に、死者の念は自身で生命力を生み出せないから」
私は大いに納得した。確実に戻るか断言するまではできないが、挑戦するだけの価値はあるだろう。どのみち、彼女はこのまま指を咥えていても仕方ないのだ。何かの解決策を見つけない限り、彼らは二度と直接会う事ができないのだから。
「分かった。ならば、後は実現するだけだな」
そして、それが最も困難だ。だが、実現させなければならない。私は渇望してきた復讐のために。エリスはアルベルトと共に暮らすために。
「ええ、頼りにしてるわ、クラピカ。ヨークシンでは、よろしくね」
「ああ、こちらこそ。よろしく頼むよ、エリス」
細くひんやりした手と握手をした。こちらとしても、旅団相手に実戦経験をもつ仲間がいてくれるのはありがたい。その不安定さから戦力として勘定はできなくても、陽動役としてなら反則的な威力を期待できる。彼女の存在をちらつかせて奴らの計画を掻き回しつつ、一人ずつ捕らえては狩っていく。それこそが、オレ達がとるべき方針だ。
全ては、幻影旅団を滅ぼすために。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それは、予定にはなかった訪問者だった。
「よう、精が出るじゃねえかコラァ!」
樹海の中の一軒家、森に埋もれた丸太小屋を尋ねる客は少ない。いや、今まで二人しか存在してない。その一人が、目の前にいるナックルだった。
「やあ。どうしたんだい?」
鍛練の手を休め、タオルで汗を拭きながら僕は尋ねた。やや柄の悪い口調ながら、楽しそうに張り上げる声は好ましい。彼とは以前からの付き合いだが、これほど自然な親しみを感じたのは、能力を失って以来だった。近頃、風景がキラキラと輝いて見える。
「ちょっと様子を見によ。これからしばらく、師匠についてハントに入るから行き掛けにな。で、どうだ?」
僕は感謝をしながら頷いた。行き掛けでこんな場所まで来てくれる人物も希有だろう。普通なら裏を疑ってもおかしくないが、ナックルは本当に善意だけでここまでしてくれる人なのだ。
「おかげさまで、健やかに毎日を送ってるよ。ありがとう」
隣に浮かぶトリタテンを撫でながら、僕は心から礼を言った。これのおかげで、ここ数カ月、僕は命を保っていた。三十日ごとに訪れて能力をかけなおしてくれたナックルは、正真正銘の恩人だった。
「よせやコラ。こちとら金を貰ってやった事だ」
「それでもだ。いや、あえて僕の言い値をそのまま受け取ってくれた事も含めてだよ」
照れるナックルに頭を下げる。彼は師匠のご友人のお弟子さんだった。能力に目をつけ、前々から頼んでいた事とはいえ、連絡を受けてすぐに駆けつけてくれたそうだ。仮に到着が遅ければ、僕は確実に死んでいた。ヒソカの機転でバンジーガムに包まれていたとはいえ、噴出を続けるオーラの流れは、容赦なく余力を奪っていったのだから。
余談だが、その時の縁でナックルもヒソカに言い寄られたらしい。
「……あと半月、だったな」
「そうだね。日程の調節も完璧だ。結局、纏の習得はできなかったけどね」
「本当にこれでよかったのか?」
ナックルが言うのはエリスの事だ。彼は、エリスにもハコワレをかける事で、最後の一ヶ月を共にすごしたらどうかと提案してくれたのだ。もしそれが実現していたならば、この八月は、どんなに幸せな日々だっただろう。
「大切な女なんだろう。今から半月だけでも、男として精一杯いたわってやれよ」
「前に断ったときも言ったけど、それは恐らく、危険すぎる。不可能だ」
気持ちだけ貰っておく事にすると首を振ったが、ナックルは納得してないようだった。無言で、理由を話せと促している。その気迫から逃れる事はできそうにない。しばらく沈黙を続けてから、僕は観念して口を開いた。
「……エリスを絶にしてしまうとかえってまずい」
「どういう意味だ?」
「ここから先は、絶対に秘密にしてくれないか」
もとよりそのつもりだったのだろうが、僕の最後の確認に、ナックルは真剣に頷いた。
「エリスが内在しているオーラには、とある強力な指向性がある。よくある、禍々しいオーラの比ではなくね。そしてそれは、彼女本人にも害を及ぼす。だから、内包する生命力の充実は、あいつに限っては喜ばしくないんだ。現にそれで、何度も体調を崩している」
彼女の能力の発祥経緯に、ぎりぎりまで踏み込んで打ち明けた。ナックルの人柄を信頼しての事とはいえ、彼女の預かり知らないこんな場所では、本来なら開示したくない情報だ。
「ナックルの取り立て、トリタテンによる絶についてもそうだ。他人のオーラを回収するなら、ある程度の浄化機能は備わっているのかもしれないけど、膨大かつ重度の汚染をなんのリスクもなく無効化できるほど出鱈目な性能があると考える事は難しい。というか、そんな都合のいい発の作成は人間の範疇を越えてるだろうね」
「……まあ、だろうな」
そう、仮にオーラに込められた意思を浄化する専門の能力がこの世のどこかにあったとしても、処理力には限界があるはずだ。無限の性能を持つ浄水器の具現化が不可能なように。そして、術者が人間であるのなら、その限界はあくまで人間らしい基準に留まるはずだった。
「どうかな。さすがに、これ以上深くは話せないけど」
「……いや、いい。悪かったな」
ぼかにしにぼかした説明だったけど、一応納得してくれたのだろうか。ナックルは僕の話を遮って、残念そうに瞑目した。
「まっ、事情があるんじゃ仕方がねぇか」
「気持ちはとてもありがたかったんだけど、どうしてもね」
本心を言えば、僕だってエリスと暮らしたくない訳がない。それでも、欲に目が暗んでリスクの大きさに気付かない振りをする事はできなかった。僅かな可能性にかける、というのはこの場合は明らかに違うだろう。
「しゃあねぇ。来いや、詫びの代わりに手合わせしてやらぁ」
オーラを滾らせているのだろう。膨れ上がった存在感でナックルは言った。もちろん、僕は一も二もなく頷いた。とてもありがたい申し出だった。彼の体術の実力は、あのカイトに近いほどに高いのだ。森に篭ってばかりいて、人を相手にした経験に乏しいこの数ヶ月を考えると、感覚の調整が必要だった。
大の字になって空を見上げる。森の中の小さな広場の真ん中で、僕は独りで寝そべっていた。疲れきった体が熱かった。ナックルは、もうハントへと旅立っていった。
背中に柔らかい土が敷かれている。青い草の臭いが頬を撫でる。情報ではない感覚は久しぶりだ。この半年間、森の中で暮らしてきたのは、今まで最も苦手だったことに馴染もうと決めたからだった。かつての僕はデジタルで、他の念能力者達の様に、自然と一体化するハントは不可能だった。だからハンター試験の際、僕は感覚ではなく情報を追ってゲレタを探し、そして敗北を喫したのだ。
木々を揺らす風が涼しい。疲労から来る苦しみと、軽い嘔吐感に苛まれている。能力を失う前までは、ただのデータでしかなかった五感の中に埋没している。
だけど、このまま溺れる事はできなかった。一刻も早く、僕はマリオネットプログラムを取り戻し、以前の状態に戻らないといけない。ヨークシンは恐らく、最初で最後の機会だろう。その先の機会をうかがうには、残された時間は少なすぎた。
僕の能力は二つしかなく、実質的には一つしかない。それは、二つの発が、実際には不可分である事を示している。
マリオネットプログラムの真髄は、オーラを操作する事にこそある。念的な手段を用いてのオーラの操作。それこそがあれの本義だった。しかし、オーラそのものを用いてオーラを直接操作するという方法は、本質的にループに陥る。そのため、僕は肉体の完全な掌握という手段を介して、自分自身の統制をもってその問題に臨んだのだ。
だが、ここに一つの難点がある。纏や絶、大雑把な凝程度ならともかくとして、厳密な制御をしようと思ったなら、肉体の繊細な操作に消費するオーラが多くなりすぎる。かといって、精密な処理によりロスを減らす方向に頼りすぎれば、脳に負荷がかかりすぎる。今頃はあの男も痛感している事だろう。マリオネットプログラムとは単体では、特に高度統制を行う際、燃費が悪い能力なのだと。
そこで、僕は生命の危機を乗り越えて落ち着いた後に、ファントム・ブラックという発を開発した。当初、それは体内に神字を書くためだけに編み出した能力だった。そのため、余計な特徴を削ぎ落とし、「黒い塗料であること」という概念以外の性質を持たない物質にした。それを実現できたのは、ひとえに、マリオネットプログラムによる思考制御の恩恵だった。
故に、今、ファントム・ブラックに現実的な色がつく危機が迫っている。
念による具現化の産物には特色がある。よほど明確なイメージを植え付けられない限り、その形態はなかなか変わらず、変わる事ができないのだ。例えば、念獣はそうそう汚れない。仮に汚れが付いたとしても、再度具現化すれば綺麗な状態に戻っている。逆に、強烈な攻撃を受けて破壊のイメージが確定すれば、今度は払拭するまでまともに具現化できなくなる。その回復は、一流の術者が専念しても軽く数カ月はかかると言う。
専念した上で数カ月。だがもう、僕は半年経っている。あと半年、ファントム・ブラックが今の状態を維持する事はできないだろう。いずれ特色は上積みされ、より現実的な性質を持った塗料に変わる。体内に神字を刻むだけならそれでもよかった。だけど。
現実の黒とは全く異なる方向性の、完全黒体よりも「黒い」塗料。誕生した経緯は偶然とはいえ、今の僕には必然があった。保有し続けるという意味。誰にも明かしてない未完の保険。自分のオーラを操作する能力に附随した、とても優しい最終兵器。
いずれ、変わってしまう前に取り戻さねばならないのだ。
念とは、人々の意思による作用のせめぎ合いに他ならない。マリオネットプログラムを使えないのは、僕の意思による作用より、あいつの意思による作用の方が勝っている事の現れだろう。ならば、仮に彼の意思による作用を排除できれば、能力が再び使える可能性は十分ある。
そう考えて、僕は森に寝そべったまま、ポケットから携帯電話を取り出した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
人生は、潤いだ。
陽光が燦々と降り注ぐ青空の下、橙色の荒野を貫くハイウェイを、俺のトラックは走っていた。今の仕事に不満はない。爺さんの代からトラック乗りで、ガキの頃からオヤジの運転を眺めて育ってきた。今年で五つになる俺の息子も、将来の夢は運転手だそうだ。
だが、一人で座り続ける業種だからか、時々は運転席が寂しく感じる。そんなとき、俺はヒッチハイクによく応じた。あいつらはたいてい、陽気で人懐っこい性質だ。そして面白い人生を送ってやがる。だからちょっと耳を傾けて促してやれば、とっておきの体験とやらが溢れ出てくる。俺たちは足を、奴らからは潤いを。そんな持ちつ持たれつの関係だった。
「そいつは残念だったな、坊主。だがよ、この時期、この辺りの物流はヨークシンに向かうばっかりだぜ」
「なんだっけ。ドリームオークションってやつだっけ?」
「それよ。かくいう俺も、この仕事が終わったらあそこで一週間ほどバカンスさ。かみさんとガキと合流してな」
そいつは奇妙なガキだった。身なりからして貧民街出身のハイカーだろうが、にしては妙に小奇麗だった。ズボンもそれなりに新しい。きたねぇケツで助手席のシートを汚すようなら、躊躇せず蹴り出してやるつもりだったが、この歳でも最低限のマナーは心得てやがる。ツラも、よく見れば女のように線が細い。そっちの趣味のオヤジが見れば、さぞかしいい値段をつけそうだ。
「ヨークシン発の物流はそんなに少ねぇの?」
「少ないねえ。なにより、そいつを請け負うのはヒッチハイクにかまうような奴らじゃねえ。つまんねえ小銭のためにあくせくクソ真面目にトラック転がす、七面倒くさい企業勤めのリーマン連中だ。ま、期待するだけ無駄ってもんよ」
「ふーん。運転手の業界にもいろいろあるんだ」
興味なんかないんだろう。頬杖をついて流れる景色を眺めながら、そのガキは生返事を返してきやがった。だがまあ、煩わしい社会のしがらみに首突っ込んでくるよりは可愛げがある。そう思い直して、俺はラジオのスイッチを入れながら会話を続けた。
「悪い事は言わねえ。オークションの期間が終わるまで待つんだな。今度は世界中に向けてヨークシンの人と物資が吐き出される。こいつは壮観だぜ。そりゃあ、渋滞はちっとばかし困るがな」
ラジオがガザリとノイズを鳴らして、陽気なブルースが流れてきた。ギターのリズムに指を乗せて、ハンドルを叩きながら体を揺らす。
「おっさんもオークションに参加するの」
「俺はもっぱら冷やかしだ。隅っこでちっせーオークションハウスやってる馴染みがいてな。そいつらとつるんであっちこっちへぶらりとよ」
奴らとはお互い、家族単位の付き合いをしてる。ブギーのかみさんがこしらえるローストチキンは毎年この季節の楽しみで、エドの奴は密造酒造りが趣味で最近は中々の味に仕上げてくる。ああそういえば、ダムドの野郎、去年の暮れに三度目の結婚をしたって言ってたなぁ。
「お前も値札競売市なんかどうだ。あれはいいぞ。活気があっておもしれぇ。並んでるのがガラクタばかりなのが難点だがな」
「へぇ、にぎやかそうだね」
「おう、そりゃあな! 売り物はほんっとうに、ゴミばかりだがな!」
俺もかかあと子供に一、二品ぐらいは買うだろうが、それも二足三文のくず物に毛が生えた程度のもんでしかない。普通にそこらの店でも買えそうなものを、高い安い騒ぎながらわいわいやる。傍から見れば馬鹿だろう。だが、それでいい。あそこでは夢が最高の付加価値だ。そこで頭良く節約するような連中には、オークションを楽しむ事なんてできやしねえ。
「去年なんかよ、なんとかって大昔の大女優が使ってたって触れ込みの櫛をかみさんに買って帰ったらよ、そいつ中身はプラスチック製でやんの」
「あははははっ。いいねぇ、好きだよそういうの」
ガキはけらけらと笑っている。男にしては幾分長い髪の毛を頭の後ろで一つに結わえて、首の後ろに垂らしていた。それが、笑い声と一緒に揺れている。薄い褐色の肌に銀色の髪が、妙に似合って目を惹いた。奇妙なガキだと俺は思った。
「だいたいよ、何でこの地方に来ようと思ったんだ。ハイカーの間じゃ、この時期はヨークシンシティのドリームオークションに吸い込まれちまう事は常識だろう」
だからだろうか。俺は大人に接する様に、つい、気になった事を尋ねてみた。理路整然とした回答が返ってくるか、子供らしい無思慮な応えが戻ってくるか、俺はどちらもを期待して、内心で楽しみながら答えを待った。
「まあね。すれ違った連中にも忠告はされたよ。だけど」
海を見たかったとそいつは言った。どうしても、海というものを眺めたかったと。
「オレ、今まで見た事なかったからさ。見ておきたいって思ったから」
「ほう。そいつはそいつは。で、どうだった。大きかったか」
「うん。でかかった。めちゃくちゃでっかいんだね。正直いって動揺したよ。ただの塩水の溜まり場なのに。だけど……」
沈黙があった。いつの間にか、ラジオは別の曲に変わっている。俺は片手を伸ばしてスイッチを切り、少年の言葉に聞き入っていた。
「だけど。どうした」
「でかすぎた。なんてかさ、あれは人間が耐えられる大きさじゃないよ。でかくて、広くて、寂しくて、隣が無性に寒くなった。怖いね」
赤褐色の瞳が深く揺れた。ゾクリとした。背骨が震えて、呼吸が止まる。心臓を氷の刃で抉られたような、恐ろしく実感が篭った言葉だった。
「……なんてね」
「はっはっは。そこまで感性があれば詩人になれらぁ! たいしたもんだよ。うちの息子にも見習わせてやりたいぜ」
「ははっ。まっ、慣れの問題だろうけどね。海で生まれた奴なら初めて山に登って怖いと思うかもよ」
「違いねえ。違いねぇが、坊主、その感覚は大切だぜ。人生に必要な潤いってやつだ」
笑いながら、俺は背中から冷や汗が吹き出てるのを感じていた。迫力が違う。ガキとは思えない重みだった。大人としてのプライドでどうにかこうにか誤摩化したが、この坊主、将来は大物になるかもしれん。まるで修羅場を既にくぐったような、芯の通った態度だった。
その先、俺はそいつをガキとして扱わなかった。別に、表面上の態度は変えてない。それでも、内心では対等な男として、少年ながらも大人として、視線を合わせて接していた。そいつも俺の心を察したんだろう。特に突っ込んでは来なかったが、目上に対する遠慮をだいぶ減らしていた。それからの会話は、ガキだと侮っていた時よりも、ずっと楽しいものとなった。
「どうだ。坊主なら帰りも乗せてやるぜ。俺の行き先と合えばだがな」
ヨークシンに着いて別れの時、携帯番号をメモした紙切れを差し出しながら、そんなセリフを俺は吐いた。トラックのドアを開ける所だったそいつは、少し驚いたような顔をした後、にやりと笑って受け取った。
「どうも、考えとくよ」
「そういや、名前を聞いてなかったな」
わざとらしかったかもしれない。だが、大人になるとは厄介な事だ。年端もいかない少年に対して、友達になってくれというのは恥ずかしい。だから俺は、わざわざこのタイミングで尋ねたのだ。
「名前かい? いいよ、教えてあげる。特別だぜ?」
キャップを深めにかぶりながら、悪戯っぽくそいつは笑った。にかっと、よくぞ聞いてくれましたという笑顔だった。赤褐色の瞳が輝いている。子供が、親から貰った玩具を自慢するような、歳相応の煌めきだった。
「人呼んで、悪たれのビリー。ビリー・ザ・キッドとはオレの事さ」
ドアを開け、少年は路面に飛び下りた。排ガスを含んだ都会の風に、銀色の髪がふわりと揺れた。しなやかな猫のような細い四肢は、少女の様にも錯覚した。
次回 第三章プロローグ「闇の中のヨークシン」