馴染みのハチに導かれて、ポックルは路地を歩いていた。オーラを纏った複眼は夜目も効く。本来の活動時間から外れていても、彼らは主のために飛び続ける。本能の域を超えた献身だった。ポックルはその理由を知っていた。間近でずっと見ていたからだ。彼女が念を学ぶ全ての過程を。重ねられていく信頼の軌跡を。
「お待たせ。お、ハンゾーはまだか」
「もうすぐ着くって。そっちの様子はどうだった?」
「大混乱だ。間違いなく何かが起こってる」
セメタリービルに程近い地区の路地裏で、ポックルとポンズは合流した。周囲には嫌な緊張感が流れていて、堅気でない男達がうろついている。一般の観光客が気付かないだけで、ヨークシンは戦場と化していた。全世界の裏社会を支配する巨大組織、マフィアンコミュニティーに喧嘩を売った命知らずがいるのである。
「ただ、こんなこと調べても落札に結びつくかは不明なのよね」
「この街には競売品も金もわんさとあるんだぜ。情報を集めようって考えは間違いじゃないさ」
「そうかもしれないけど……」
どこか不満そうな、いや、不安そうな表情のポンズの肩に、ポックルはそっと片手を置いた。この半年間の修行のおかげて、彼らは見違えるほど強くなった。それでも、まだまだ弱すぎる。非凡な才能をもって生まれてしまったが故に、周囲との差を自覚せずにはいられないのだ。だが、自分達のペースを常に守り、こなせる範囲の無茶しかするまい。それが、二人の暗黙の了解だった。
「そういえば聞いたか? レオリオの奴すごいぜ。半日で800万以上儲けたってよ」
「え? まさかあの腕相撲でじゃないでしょうね」
雰囲気を切り替えるために振った話題に、彼女は目を白黒させて驚いた。くつくつと喉の奥で笑いながら、彼は事のあらましを説明する。
「時間をかけて、何回も場所を変えて頑張ったらしいぜ。街中に噂が流れてたよ。さっきオレも耳にしたけど、ゴリラに育てられたサル人間だとか、某国が開発した生体兵器とか色々な」
「へえ……」
ゴンとキルアも頑張ったよな、とポックルは愉快げに呟いた。ポンズは素直に感心していたが、しかし納得はできないようだった。
「凄いわ。凄いけど、目標の1%にも満たないじゃない。あのコ達に精一杯努力したって充実感だけ与えておいて、結局は諦めさせるつもりならそれでいいのかもしれないけど」
「レオリオは器の小さい男じゃない。あいつの事だから何か考えがあるんだろう」
「……そうね」
その時、ハンゾーが夜空から降ってきた。音もなく着地する体術とバネに、二人はそろって目を見開く。敵であったなら死んでいた。ハチたちの自律迎撃が開始されようとしたところで、ポンズが慌てて中止を命じた。
「わりぃわりぃ。ホテルでひと騒動あったのを調べてたら遅くなったぜ」
陽気な忍者がからりと笑った。黒い装束を着ているのに、なぜか闇夜で目立っていた。お調子者で慌て者だが、この男の実力は本物である。
「そっちでも何かあったっていうの?」
「まぁな。詳しくは帰ってからにするが、ひどかったぜ」
市街地の中心方面を担当していたハンゾーは、見聞きしたものを簡単に話した。まさに凄惨の一言だった。現場に守備よく忍び込み、惨状を直接目にしたために具体性も高い。セメタリービルの戦いが素人から隔離されたものであることに対して、こちらは一般人までもが巻き込まれていた。老若男女、乳児であっても容赦はなかった。闇の住人である彼でさえ、眉をひそめる殺戮だった。
「くっ……! なんだってんだそいつらは!」
「ひどい! 人間のしていい所行じゃないわ!」
故に彼らは確信した。この街の裏で蠢いてるのは、おぞましくも超越した存在であると。全世界のマフィアと戦う狂気に加え、無関係の人間をゴミ同然に踏みにじる人倫の欠如。数多の銃火器を相手に回して、仲間の死体一つ残さない異常な戦力。そして恐らく少数精鋭。高度な統率、高すぎる結束。あまりに異色すぎる在り方は、異端すぎるが故に鮮烈だった。それを可能とするような集団など、そう多くの心当たりはなかったが。
知らず、口数の少なくなった帰り道、三人の靴音が単調な響きを奏でていた。電飾の明るい大通りでは、何も知らない人々が、色とりどりの笑顔を浮かべている。その光景も、彼らには盲目の羊の群れにしか見えなかった。彼と彼女は押し黙り、ハンゾーも、胸くそが悪そうに歩いていた。そこでふと、ポックルが思い出した様に言及した。
「そうそう。忘れてたけどエリスを見たぜ」
「エリス? あのコ、今回は欠席なんじゃなかったの?」
「だけど、あれは確かに彼女だった。見かけたのは相当の遠目だったし、一瞬だったが間違いない。……でも、随分とやつれた印象だったな」
今年始めの試験で知り合った友人がヨークシンに来てるらしいという情報に、ポンズが顔をしかめて疑問を呈した。
「あなたの視力は信じてるけど、見間違いってことはないかしら? だって、ポックルの調べていた区域ってことは、セメタリービルの直近でしょ? 彼女、地下競売にもマフィアと誰かの争いにも、自分から首を突っ込みそうな性格じゃないわ」
少なくとも私の知ってる限りでは、とポンズはいう。確かに、とポックルもその考えに同意した。エリスの行動指針は基本的に受け身だ。身の回りに兄と共にすごせるだけの平穏があれば、それだけで充足できるたちに見えた。だがしかし、だからこそ、その平和を乱す者がいたらどうだろうか。伝え聞くところによると最終試験で、あの娘はヒソカに単身で挑んでいるのである。そこまで思考を進めたポックルに、ハンゾーが横から口を挟んだ。
「あのお嬢ちゃんがいたっていうなら、アルベルトの方はどうしてる? 見たか?」
「いや。……だが、そうか。たしかに彼女が本物なら」
この街に彼がいないはずがない。三人は言葉にせずとも確信した。
暗黒がヨークシンを染める時分、一人の金髪の青年が、静かにその部屋の扉を開けた。眼球の周りは落ちくぼみ、肌は不自然に蒼白い。体の動きは堅く錆び付き、足取りは年老いたロバのように重かった。体表からはオーラが強く吹き出していたが、それもまた息切れに似た不安定な蠢動を繰り返し、そこかしこムラだらけで朧げだった。唯一、緑の虹彩に囲まれた瞳孔だけが、強い輝きを放っている。
扉を閉めるに伴って、古びた蝶番が悲鳴を上げた。室内は古く汚れている。否、そこは既に廃虚だった。ガラクタがいくつも積み重なり、埃をかぶって朽ちていた。壁は汚れで黒ずんでいて、天井の電灯は割れていた。宛てがわれた仮宿の一室は、ただ空間が区切られているだけで上等な、雨風を防ぐだけの場所だった。分け与えられた蝋燭をいくつか灯すと、暗い闇の中を、柔らかな橙色が染め上げた。
翡翠のネックレスを首から外す。ハンカチで丁寧に包んでから、瓦礫の上に大切に置いた。そのそばに座って、アルベルトは痛む体から力を抜いた。冷や汗がどっと吹き出した。ようやく、やっと、どうにか一人になれたのだ。決して息を乱してはいけない。絶対に苦痛を悟られてはいけない。それが、蜘蛛として振る舞うために最低限必要な演技だった。故に、この部屋でもこれ以上は気を抜けない。
割れた窓から流れこむ夜風に、微かな談笑が乗っている。気楽な飲みが続いているのだろう。かくいう彼も先ほどまで、ヨークシン風の軽く辛い口当たりの缶ビールを片手に持って、団員たちの雑談につきあっていた。喉で味わう麦酒は初めてだった。彼の故郷の習慣では、もっと控えめに冷やしたものを、口と舌で味わって飲むのが定番だった。
アルコールの酩酊感がアルベルトを浮かせる。これには未だ慣れていない。体質的に分解酵素に乏しい方では決してなく、むしろ大酒飲みの家系らしいが、今まではマリオネットプログラムで制御していた。そのため、酔おうと思えばいつでも酔えたし、醒めようと思えばその場で醒めるのが当然だった。だが、普通の人間の肉体は、そのように便利ではないらしい。微かな歯痒さを憶えながら、アルベルトは焼き干した肉のスティックを噛み千切った。口中に獣臭さが広がった。
蒸留した雨水を飲みながら、彼はいくつかの食物を食べていった。食事というよりも作業に近い。パズルのように淡々と、胃の腑に食料を詰め込んでいった。ブドウ糖の粉末をそのまま飲み込み、熊の睾丸を咀嚼する。サンショウウオの黒焼きは、食感が炭素に近かった。食べ進めるごとに目眩がひどく、頭痛が進行していった。時折吐き気が込み上げる。しかしそれでも体の中に、ドロリした粘性の熱が沸き上がった。芯から力が沸き上がり、体温が数度も上がっている。
瓦礫に寄り掛かって瞑目した。体を流れる血流が熱い。心臓の鼓動が痛いほど強い。呼吸は先ほどよりもずっと深く、細胞が活力を得て蠢いている。脳の働きは無意味に加速し、宙を舞う微粒子が視界に満ちた。大音響を奏でるノイズが聴覚を満たし、触覚は血管の疼きをクリアに感じる。なにより、今にも嘔吐しそうなほど辛かった。だが、ここまでしても足りなかった。所詮はこの程度だ。感覚の変化が派手なだけで、体力は万全からは程遠かった。オーラは今も頼りなく吹き出し、変則的にゆらいでいる。
日付けは変わり、トリタテンの期限が切れて三日目になる。大量に撒き散らし続けた生命力の目減りは極めて早く、既に底が見え始めていた。このままでは、遠からず動けなくなるだろう。最初から分かり切っていた事態であった。
やむをえない。アルベルトは忸怩たる想いで判断を下した。出し惜しみに興じて立ち回れるほど、敵は生温くはなかったのだ。彼が懐から取り出したのは、頑丈な金属製のケースである。中にいくつも入っていたのは、軍用の特殊な注射器だった。柔らかいプラスティック製の薬嚢に針が直接付けられていて、片手で扱いやすく工夫してある。あらかじめ薬剤が封入してあって、すぐにでも使えるようになっていた。左腕を止血し、それを一つ取り上げて、アルベルトは自分の静脈に注射した。薬はやがて神経を侵し、体がすっと冷たくなった。
彼はじっと座っていた。心が静かに暴走していく。集中力が異常に高まり、思考速度が空回りし、無性に走り出したくなる気分だった。あれだけあった疲労感が、幻の様に消えていた。眠気もない。五感を更に注意深く探ってみると、食欲という概念までもが消え失せている。細胞という細胞が活性化して、なけなしの貯蓄だった命の欠片を、あらん限りに浪費していた。常識という枷が解き放たれ、人としての枠組みさえも打ち砕く、そんな効果の薬だった。それは、一般には覚醒剤と呼ばれている。
アルベルトの体から吹き出すオーラが、万全の状態にまで回復した。精神は胡乱な状態だが、戦力はなんとか盛り返し、外見の不審さも消えただろう。精神は明らかに平常ではないが、気力でカバーする心算である。とりあえず今はこれでいいと、これから待ち受ける地獄のスパイラルに憂鬱な思いを馳せながら、それでも彼は肯定した。破滅に至る覚悟など、はじめからずっと持っていた。
そうして、しばらく呼吸を落ち着けていると、いくつかの靴音が響いてきた。まだだいぶ距離がある。階段を登っているらしい。少し意識を振り向けると、足音の重さからマチとキャロルで、この部屋に向かっているらしい事が理解できた。これもまた、薬物による異常な集中力の効果だった。
「ちょっと、いいかい?」
「どうぞ。開いてるよ」
翡翠のネックレスを首に掛けて、努めて平静にアルベルトは答えた。だが、努めすぎてもいけないのだ。与えてしまった違和感を挽回する事に固執すると、相手の不信感は降り積もる。嘘つきが嘘を見破られる際の、典型的なパターンがそれだった。
「明日の朝の事だけど、団長に確認とってきたよ。午後六時集合を厳守すれば、それまでは各自が自由に行動してもいいってさ」
「そう。で、結局どうする事になった?」
「フランクリンとシズクも来るそうよ。大所帯になったわねえ」
上品な老婦人が口を挟んだ。見ない格好だねと彼がいうと、捨てる前に着てみたと彼女は返した。古風な緑のドレスを着て、レースのストールを掛けている。今時はほとんど見かけない、丁寧な手編みの逸品だった。
「そういうことだから、待ち合わせの時間に遅れるんじゃないよ」
「了解。でも本当にいいのかな。僕が行って、邪魔じゃない?」
ともすれば大きく、早口になりそうな声を落ち着かせて、冷静に、いつも通りにと考えて喋る。しかし彼は気が付いた。自己を観察することに嵌っていると。声色を調整するのにのめり込みすぎて、脈拍を数えるのに熱中して、いつの間にか過剰に没頭していた。動き出すことしか考えない肉体の狂気と、止めることしか考えない精神の狂気がぶつかりあう。それは、パニック寸前の状態だった。凍死寸前の熱病だった。
「なんだい水臭いね。邪魔と感じたらはっきり言うよ」
「ええ、そうね。それに便利ですもの。陽動にも人避けにも使えるわ。情報処理も得意でしょう?」
「情報ならシャルもいるじゃないか」
「面倒だって。取りつく島もなかったよ」
なるほど、と彼は納得した。詳しく聞くと、仮宿でクロロと待機するつもりらしい。居残りデートよとキャロルが茶化す。他の面々も残ったりぶらついたりまちまちだそうが、ヒソカだけは、今から街に繰り出すそうだ。あら、あら、あら、腕白でとても可愛い子ねと、老いた貴婦人は優しく笑った。外見相応の振る舞いである。マチが隣で眉を顰めた。
「じゃ、アタシはこれで。おやすみ。キャロル、あんたは?」
「私はもう少しここにいていい?」
「もちろん。おやすみ、マチ」
頷いて去っていく後ろ姿を見送りながら、アルベルトは唐突に訪れたチャンスの内容を吟味していた。焦ってはならない。だが、薬で胡乱な頭は回転を続ける。この状況の意味、罠の可能性、最初の一人の予定のずれ。あらゆる事項に思い当たりつつ、しかし、脳髄は夢の中のように拙く朧げな分析しか出さない。それでも、彼は此岸の理に齧り付うて、辛うじて正常だった部分の欠片を拾い集めて判断を下した。即ち、結末が不自然すぎるという結論である。このタイミングで、アジトでの異変が起きれば怪しすぎた。
「ところで、それはいったい何かしら」
キャロルが興味を示したのは、数本残っていた干し肉だった。頭を回しすぎたためか、穏やかな女性の声が脳に痛い。ガリガリと神経繊維が削れていく。今すぐ立ち去ってほしかったが、不快感を表に出さないように、アルベルトは気のいい笑みを演じてみせた。
「食べる? ちょっと癖はあるけどね」
差し出されたスティックを受け取って、老婦人がありがとうと微笑んだ。とても上品な仕種だった。
「あなた達って、ソーセージとキャベツの酢漬けばかり食べてると思ったわ。それから、タマネギと茹でたジャガイモと黒いビール。違う?」
彼は座っているはずなのに、飛んでいるのか、泳いでいるのか、ふわふわと心が泳いでいる。自分は本当に笑えているのか、話せているのか、生きているのか、それすらもアルベルトには分からなかった。いっそ頭蓋骨をこじ開けて、花火でも突っ込めばすっきりするのか。目の前でさえずる老婆の頭を、すり潰したくてたまらなかった。だが、ここで個人の欲望を満たしてしまえば、残されたエリスはどうなるのか。
「半分ぐらいは正しいかもね。でも、君達だっていつも紅茶ばかり飲んでるわけでもないだろう?」
「言われてみれば確かにそうね。私も、日に五杯か六杯ほどしか飲まないもの。少ないときだと」
冷静になれ、とアルベルトは念じる。ほんの一瞬の気の迷いだと、慣れない薬のせいだと反芻した。キャロルのつまらない戯れ言は、今はいっそありがたかった。呆れた表情だけを作っておけば、返事をしなくても自然だろう。少し拗ね、干し肉を齧る彼女の様子を、ただぼんやりと眺めていた。
「……パラライズだわ」
橙色に揺れる灯りの中で、キャロルは獣臭さに顔を顰めた。細い眉毛が釣り上がって、皺だらけの顔が恨めしげに歪む。アルベルトはそれに微笑ましそうに、微笑ましげに見えるように応対した。
「なんなのこれは。獣臭いわ」
「犬の肉だよ。カキン周辺の文化圏じゃ、強壮食として定番なんだ」
強い陽の気を持ってるから、病人には逆に食べさせない方がいいって言われるほどのね、と彼は言った。彼女が気に入らなかった事を確認すると、立ち上がり、持ち込んだ荷物の中をしばし漁る。
「口に合わなければこんなのはどうだい? ジャポンって小国から輸入した蒸留酒で、ちょっと珍しいものを漬けてあるんだ」
「あら、なにかしら」
「女の子は聞かない方がいいと思うよ」
「まあ、まあ、まあ。何かの肉ね。棒みたいだけど蛇じゃないし。気になるわ。教えて下さる?」
「熊の陰茎。あの国の伝統的な猟師に伝わる逸品らしいね」
私物から取り出した酒瓶を、なかば強引に手渡した。あわよくば、これで帰ってくれてもいい。そんな下心も伴っていた。しかし、キャロルは中に沈んだ肉片をしげしげと興味深そうに眺めた後、至極冷静に返却した。
「悪いけど、実用的すぎて私の趣味には合いませんわ。例えば人間のペニスなら、それを為す人の意思に多少の興味もわいたでしょうけど」
だがそれさえも、直接叩き付け合う感情ほどの美味ではないと、キャロルは熱っぽい瞳でうっとりと語った。頬にさっと赤が浮かんで、老いた風貌でありながら、その仕種には華があった。
「人の好みに口出しするつもりはないのだけど、もう少しましな物を食べたらいかが?」
「そうだね。考えておくよ」
アルベルトの生返事にむっとしたのか、キャロルの眼光が鋭くなる。はしたないですけどと断ってから、ドレスの袖を捲り上げて、萎びて血管の浮いた左腕を右手で握った。そして、いともたやすく上品に、肘から先をねじ切った。
「お食べなさいな。そんな干し肉よりはましですわ。きっと精もつきましてよ」
二の腕を差し出してキャロルは言う。慈愛に満ちた表情が、蝋燭の光に照らされている。ここが耐え時だとアルベルトは思った。ここで馬脚を現したら、全てが未遂で終わってしまう。礼を言って受け取って、皮をはいで肉を齧った。口の中に入れた時、新鮮な筋繊維がきゅんと絞まった。食欲は麻薬のせいで全くない。いや、食べるという本能そのものが停止していた。だが、不審に思われたくはなかったのだ。租借という動作を強引にして、飲み込むという動作を無理矢理にした。喉から込み上げる強烈な吐き気は、知らない素振りで押し通した。ここさえ耐えれば誤摩化せる。その一心による奇跡であった。
だが、それはあくまでこの場ではだ。オーラで強化された念能力者の肉体は、薬物からの回復は常人より早く、耐性も遥かにつきやすい。たとえ今夜を乗り越えても、薬が切れたらどうなるのか。無論、答えは始めから決まっていた。
「……味が薄いね。それになんだか水っぽい」
「劣化してるの。だから服が欲しかったのに」
「あの後、結局失敗したんだって?」
口の周りについた暖かい血を、何喰わぬ顔で拭うアルベルト。彼のそんな、ひと事のような態度が気に入らなかったのか、恨めしそうな目が睨んでいた。
「ねえ、聞いたわよ、一軒目で随分と暴れたって」
「僕じゃない。意気込んで乗り込んだのはウボォーだよ」
「煽ったのはあなただそうじゃない」
嗄れながらも潤った声が、青年を柔らかに注意する。穏やかな老婦人に見つめられて、アルベルトは肩をすくめて困ってみせた。彼女の左腕から零れる鮮血が、ぽたぽたと床に垂れて滲みていた。埃だらけの部屋の中に、鉄の匂いが広がった。
「それは……、そうだね、君が心配だったからと言う理由じゃ足りないのかい?」
「真心が篭っていませんわ。そんな適当なあしらいじゃ、紳士的な殿方とは呼べませんわよ」
キャロルのひんやりした二つの手が、アルベルトの右手を優しく捕らえた。見上げてくる表情にはっとする。どこまでも深い二つの目は、まるで全てを見透かした様に、青年の瞳を包んでいた。今までの不自然なやり取りは、全て見逃されていたのだろう。キャロルはこちらに合わせている。訳もなくアルベルトはそれを悟った。その深い眼差しに、エリスの印象を重ねた時、アルベルトはどす黒い巨大な衝撃を受けた。意識が一瞬で漂泊された。この冷えた熱病が生み出した、たわいない錯覚と信じたかった。だが、改めて考えを巡らせれば、否定する材料が見つからない。これも薬のせいだろうか。
キャロルの中の歪んだ狂気は、エリスと通じるものがあるのではないか。それとも、女とは全て狂った生き物なのだろうか。その可能性は大いにある、とアルベルトはとっさに考えた。そうであれば都合がよかった。しかし、もし、世界の半分が狂人なら、残り半分の男たちは、はたして正気と言えるのだろうか。全ての人類が狂人の時、狂気こそ正常なのではなかろうか。
彼は女をほとんど知らない。アマチアのブラックリストハンターという職業上、女性経験は豊富にあった。情報源や内通者を取得する際、閨ごとは強力な武器だったからだ。だが、それは、操り人形を通じての戯曲にすぎない。記録から再生した愛の言葉を囁いて、完全に制御された肉体反応で女達が望む一夜を提供してやったにすぎないのだ。いわば、理想の自慰に近かった。
そんな中、アルベルトの機械的な肉体の上から、人格を包み込もうとした女が一人いる。一人だけのはずだった。これからも一人だと安心していた。だがしかし、前提がそもそも違っていた。彼の精神は鎧を失い、こんなにも簡単に包み込まれる。ビジネスライクの付き合いでもなければ、女には誰でも可能だった。それなら、どうしてエリスと愛を交わしたと錯覚したのか。どうしてエリスに惚れたのだろうか。アルベルトは未だ、女と、否、人間とまともに触れあった経験すらも乏しいのか。
「……無理に制御しようと力むのはおやめなさい。手綱を手放し、狂態も自分の姿と受け入れるのよ」
「なにを……」
「あなたの汗、匂いがするもの」
熱病だ。薬のせいだと無理に断じて、妄想を頭の隅へと追いやった。致命的に硬直した数秒間を、キャロルはじっと見つめていた。ただ単に、じっと見つめているだけだった。それは優しさなのだと希望にすがって、彼は何喰わぬ顔で口を開いた。
「……悪かった。お目当てのお洋服の名前ぐらいは分かってるのかい」
「ええ、名前はクラピカ、とても綺麗な男の人よ。金髪で、とっても素敵な目をしてるの。見かけたら教えてくださらない?」
「……クラピカ、ね。了解。それぐらいなら協力するよ」
最後の気力を振り絞り、台本を読むように演技を続けた。キャロルがよくできましたと微笑んでいる。クラピカ、その名前には憶えがあった。
男を騙すのは簡単だった。最低限の演技をすれば、彼らは自分から騙されたがる。女を騙すのも簡単だった。彼女達の嗅覚は鋭いが、注目するようなポイントは、飽き飽きするほどお決まりだった。
九月二日の朝の街を、ビリーは気ままに散策していた。どこもかしこも競売だらけで、誰もが数字を競っている。昨日は物珍しく眺めもしたが、特に面白いという程ではなかった。それでも、暇さえ潰せれば満足だった。
二日目の祭も初日と変わらず、あまり収穫はなさそうだった。目が覚めてしまったという理由だけで、早朝からごった返す人混みを、流れに逆らわず歩いていった。そして、運命のそれを見つけたのだ。最初は通行の邪魔だと思っただけだが、子供が関わっていると耳に入って興味がわいた。
「ゴリラに育てられたサル人間? 兄さん本当かい?」
「らしいぜ。あいつ、昨日100人以上の腕へし折ったんだとよ。みえねぇけどな」
「へー。あんな子がねぇ」
野次馬の一人と語りながら、テーブルに座る少年を眺めた。ツンツンと逆立つ黒髪が、やや不安そうに佇んでいた。年齢は、ビリーと同じぐらいだろうか。そう大きく違いはしないだろう。
「お、あんた参加するかい? いいぜ、こっち来いよ」
銀髪の少年が声を掛けた。今まで大人しくダイヤを持っていたのが嘘のように、チャシャ猫の笑みで誘っていた。しかし、スーツを着込んだ男が曰く、ゲームの参加料は一万ジェニー。今のビリーにはかなり痛い。300万相当のダイヤとやらも、どうせ手に入りはしないだろうし。
「悪いけど」
「あんた使えるんだろ?」
わざとオーラをさざ波立てて、悪戯っぽく挑発してくる。纏が使える少年が二人、そろってビリーを注視していた。この場の主役にまで見つめられては、目立たずいられるはずがなかった。こっちもガキかと周囲がざわつく。
「応援してるぜ、坊主!」
気の早い誰かが声を上げて、後ろから背中を叩かれた。頑張れ、気を付けろよ、とビリーの意思を無視して盛り上がっている。
「別にオレ、そんなに強くはないんだけどな」
「ま、やってみなよ。おっちゃんたち、悪いけどそいつ通してくんない?」
前にいた野次馬が道を作れば、もはや断る事は難しかった。貴重な札を1枚持って、スーツの男に手渡した。彼のテンションは既に高く、ノリノリで実況する気まんまんである。
「コイツ強いぜ」
銀髪の少年が囁いた。仲のいい友人なのだろう。お気に入りの玩具を自慢するような、男の子らしい茶目っ気が覗いた。
「アンタよりも?」
「……へぇ」
なんとなく空気を感じて尋ねたところ、少年は少し驚いて、とても嬉しそうににやりと笑った。獰猛な、鋭い眼光の微笑みだった。ビリーの嫌いなタイプではない。自分から踏み込むのは得意だが、踏む混まれるのは案外苦手そうだ。素直な子供はあまり嫌いじゃないからね、と心の中で呟いて、黒髪の少年に相対して座った。透明な目。じっと見つめられると、吸い込まれてしまいそうな黒い色だ。
「おーっと、今日は生意気そうな少年が一番乗りだァ!」
「よろしく」
「え?」
ビリーは座ったまま挨拶したが、相手はきょとんと目を見開いた。
「ねえレオリオ、この子、女の子だよ?」
ビリーの動きが凍結した。心を重くし、女として盛られた感情を削ぎ落とせば、致命的な失敗はありえない。それは、彼女の特技だったはずだった。相手の心情に敏感だったが故に身につけた、精一杯の技能だった。護身と、大切なお守りの代わりだった。それが、こんな少年に初見でばれた。男装とすらも思われていない。
「いや、どっからどう見ても男じゃねーか! な、だろ?」
レオリオと呼ばれた男が叫ぶ。銀髪の方の少年も、何事かと様子を見つめている。野次馬達も静まっていた。予期せず訪れた沈黙の中、堰を切ったのはビリーだった。
「ははっ、はははっ! やだっ、もうっ、なんでっ! ははははっ!」
腹を抱えてビリーが笑う。どうして笑っているのかも定かではない。全てが露見してしまったのに、とにもかくにもおかしかった。後から思えば、彼らは、少女の初めての友人だった。この時の出会いがなかったら、友情を知る事はなかっただろう。つまり、少女の最後の友人だった。
次回 第二十六話「蜘蛛という名の墓標」