マフィアとは、フィクションを売り物にする商売である。彼らは裏社会を力によって率いている。が、彼らが保有する戦力と、彼らが保有すると思わせたがっている戦力には、大きな隔たりがあるのである。当然だった。彼らは税金で養われている軍隊ではない。私的な営利集団である以上、収支に気を配る必要がある。また、そうであるからこそ、次のような事実が彼らの双肩にのしかかっている。つまり、金喰い虫である戦力の獲得と維持にリソースを割けば割くほどに、業務のコストパフォーマンスは悪化の一途を辿るしかないというものである。故に当然、実力よりイメージに固執するようになっていく。もし仮に、マフィア強しという共同幻想を完全かつ永久に浸透させることに成功したら、彼らは戦力の放棄すら考えるだろう。
だからこそ、彼らは舐められることを嫌うのだ。マフィアにとってのプライドとは、商売道具の別名だった。幻想の刀身で他者を切りたいと欲するからこそ、刀の手入れは欠かさない。万が一、それを偽物だとあざ笑う者が現れたなら、そいつはどんな手段を講じても、実際に切り捨てて見せる必要があった。
そんな事情があったからこそ、その手配書はヨークシンの各所へ向け、全力をもって配布された。あるときは命令という形を取り、あるときは競売という手段を模し、九月二日の午前中から、ありとあらゆる場所へと徹底的な周知が試みられた。目標は合計十三名。ビルとホテルに設置されていた監視カメラの映像から、それぞれ抽出された画像だった。
彼女は宗教家ではなかったが、暮らしていた地域の関係上、鱗のない魚介類を食べた経験はなかった。市場に出回る量が少なく、高値が付けられていた為である。故に、運ばれてきた小海老のサラダを目にしたとき、口に入れることには抵抗があった。が、いざ食べてみると意外といける。口いっぱいに広がる細やかな旨みは、やや生臭いが味わい深い。オリーブの効いたヨーグルトドレッシングとの取り合わせは、エメラルドグリーンの香りがした。
「おいしいわ。なんにでも挑戦してみるものね」
「そりゃよかった。どんどん注文していいからな」
正面に座るレオリオが笑った。自分はフライの盛り合わせを齧りながら、パスタの到着を待っている。新鮮な魚介に卵白を泡立てた衣をつけて、パセリを効かせて揚げたものだ。ゴンとキルアはといえば、少女の左右で、忙しそうに料理を次々と平らげている最中だった。落ち着くまで、もう少し時間がかかりそうである。男の子ねと、ビリーは微笑ましく思いながら見守った。
テラスに張り出した日よけの下、白いクロスの丸テーブルが輝く特等席は、昼食を求める多くの観光客で賑わっていた。曰く、移民が経営している店らしい。せっかくヨークシンに来たのに難儀なことね、と、彼女は周りの客たちを見渡していた。家族連れやカップルで賑わっている。その間を、このエリア担当の青年給仕が忙しくも軽やかに飛び回りながら、人好きのする二枚目半の笑顔を惜しげもなく陽気に振り撒いていた。
九月の正午の気温は高い。黒い液体の入ったガラスのコップが、結露で汗をかいている。手にとって回せば、氷がカラカラと音を立てる。アイスコーヒーを一口飲んで、ビリーは苦さに辟易した。後味の酸味も眉間に来る。それでも、彼女はこれを愛飲していた。苦味は心底嫌いだったが、なんとなく存在が好きだったのだ。もう一口飲んでも、やっぱり苦い。だけど、これでいいと彼女は思った。どうせこれ以外の味なんて、少女は知りはしないのだから。
「しっかしなぁ……。結局釣れたのはこの一件だけか。なんなんだろうな、これ」
渡された名刺をかざしながら、レオリオはしげしげとそれに見入っていた。そこには期待が見て取れる。キルアも頬いっぱいに料理を詰め込みながら、悪戯っぽい視線をキラキラさせて、横目でそれを眺めていた。普段なら、ビリーは口出しはしなかっただろう。あるいは、形だけでも乗っただろう。どうせこんな出会いは一期一会だ。不用意に機嫌を損ねるより、適当に調子をあわせておくのが利口だろう。だが、どうしたことか。彼らの無邪気な様子を観察すればするほどに、自分自身の目先の利より、がっかりさせたくないと言う欲求の方がじわじわと強くなってくるのだった。ええい、畜生。心中でわりと汚く罵ってから、苛つきはじめた自分を見捨てて、余計なお節介のために口をはさんだ。
「腕力に注目されて呼ばれたんだから、所詮、腕力さえあれば許容できる程度の用件でしょう。あまり入れ込まない方が気が楽よ」
被っていたキャップをはずして結わえをほどく。肩よりも少し長めに伸びた髪の毛が、風に乗って銀色の光を振りまいた。手櫛ですいて癖を直せば、気持ちも少し落ち着いた。
「これ自体はな。肝心なのは、この名刺がどこに繋がっているかって、そこよ」
「なるほどね。でも、あと二、三日しかないんでしょう?」
名刺の先にいるのはどうせ下っ端なのだろうが、問題は、どこに属する下っ端かということらしい。こればかりは運で左右される問題だったが、しかし仮に結果が上々でも、上の方まで食い込む時間などあるのだろうか。
「やっぱ間に合わねーと思うか、オメーも」
「その質問に正直に答えて、あなたに追い討ちをかけたくないわ」
レオリオが情けない唸り声を上げる。ゴンがきょとんと見つめていた。そして、キルア。彼はさっきよりさらに面白そうに、愉快なおもちゃを見る目でビリーを見ていた。小憎らしい印象を受けもしたが、きっとこの少年はこうなのだ。そう思っていれば微笑みもこぼれる。
心地がいい、と少女は思った。胸が熱くならない関係とは、子宮を焦がさないですむ好意というのは、……こんなにも目新しくてさわやかなのか。
「じゃ、お前はなんかアイディアないの?」
口の中の食べ物を飲み込んでキルアが尋ねる。挑発を含んだ無邪気な意地悪。それに彼女は首を振って、降参の白旗を素直に掲げた。だいたい、聞く相手がそもそも違うのだ。九十億以上の大金など、ビリーには想像さえもできなかった。彼女が知っている世界の感覚では、一万ジェニーもあれば一ヶ月は暮らしていけたりするのだから。路地裏での隣人との付き合い方、正しい寝床の定め方、噴水で体を洗う際の注意。そういった類の知識なら、いくらでも教えることができたのだが。
もっとも、ここにいる男たちも、そう貴族的な暮らしを営んでるようには見えないのだ。どう見ても一般庶民と呼ばれる階級の風貌なのに、ふざけたテレビゲームの落札を、いとも簡単に目指してみせる。空恐ろしくなるほど豊かなバイタリティーだった。
こんな時、あの人ならばどうするかと、ビリーは思いをめぐらせて見た。もしそのゲームソフトが必要なら、きっとだらだらと引き伸ばして、期限ぎりぎりになったらいかにも面倒くさそうにどこかへ向かって出かけるだろう。その光景がありありとリアルに想像できて、少女は淋しく微笑んだ。そして、結局は手に入れて帰ってくるのだ。だがそのとき、彼がとるだろう手段とは、真面目に金を稼ぐというものだろうか。……絶対にないなと、彼女は心の中で断言した。天地がひっくり返ってもありえなかった。
「思うんだけどね、きっとお金を稼ぐより、ゲームソフトを手に入れるほうが簡単だと思うのよ」
彼女はあの煙草臭い笑いを脳裏に浮かべて、彼のやりそうな裏技を考えてみた。ゲームの持ち主のところに訪問して、何分かで交渉を終わらせる。お互いに十分満足して、にこやかに握手で別れる際にはもう、品物は彼の手の中にあることだろう。相手がほくほく顔で交換したのは、きっとくだらないガラクタに違いない。
「どういうこと?」
ゴンが率直に尋ねてくる。レオリオは出来上がったばかりのパスタを前にして、喉を水で潤していた。唐辛子たっぷりの真っ赤なソースが、ペンネにたっぷりとかけられている。
「要はゲームより何かが欲しい人がいて、何かよりゲームが欲しい人がいる。お金っていうのはみんなが欲しがるものだから、たぶん、九十億ジェニー稼ぐには正味九十億ジェニー分の無茶が必要になるわ」
「なるほど。物々交換とかの条件なら、運さえよければこっちが払える対価で済む可能性もあるわけか」
「まさにその通りなんだけど、すごい自信ね、キルア」
ビリーはアイスコーヒーを口に含んで、苦味で自分にブレーキをかけた。軽く上気していた少女の頬が、冷たい液体で冷やされていく。外見では冷静さを装っていたが、彼女は若干舞い上がっていたのである。そのことを正確に自覚していた。
「そうか? 別にこれくらい普通だろ」
「……きっとお金じゃ解決できない無理難題を突きつけられるわ。お金で解決できる目的の持ち主なら、ゲームを売ればいいのだもの。それとも、まさか相手は純粋にゲームを楽しむためにそれを所有したとでも思うのかしら」
「えっ、違うの?」
「あら?」
ビリーは目を真ん丸にして驚いた。
「ゴン、お前なぁ」
キルアが、そしてレオリオも呆れるが、ゴンは何か別のことに思い至ったかのように、うつむいて考えに没頭しだした。テーブルには沈黙が流れたが、そうしているうちにビリーの注文したジャガイモの冷製スープが到着して、空気は一度切り替えられた。
型崩れ寸前まで柔らかく煮込んだジャガイモとポロネギ、そしてたっぷり注いだ冷たい牛乳の涼しさが、暑い日中に食欲をそそる。喉越しはひんやりと優しかった。山の風の匂いのする、家庭的な夏のレシピ。口の中に広がったほのかな甘味は、きっと生クリームなのだろう。それはとてもアットホームな、優しい母親の味だった。パンを一口千切りながら、少女は少し後悔した。こんな雰囲気は苦手なのだ。稚拙な感傷にすぎないと、理性では理解しているのだけど。
「……ま、自信のことについてなら、オレら全員プロハンターだし」
手元からパンがこぼれて落ちた。スープの中に落下して、雫が何滴か飛び散った。言ってなかったっけ、とわざとらしく笑う猫のような少年をまじまじと見つめる。嘘はついてなさそうだ、と少女の観察眼が告げていた。できれば嘘の方がありがたかった。
「プロ、ハンター? 三人とも?」
「ああ。ライセンスだって持ってるぜ。見るか?」
「ねえゴン。ほんとに?」
「うん、本当だよ。オレもキルアも、レオリオだって」
「まー。信じられねーのも無理ねぇだろうな」
ゴンに続いてレオリオまで頷き、ビリーの思考が真っ白になった。ハンターと聞いて思い出すのは、収容施設を預かっていたスケベで傲慢な小男ではなく、豪雨の戦場で出会った二人の男女の姿であった。……そして何よりもう一人、箪笥の中から盗み見た、無機質な瞳の機械的な青年。彼女は思わず身を乗り出して、もう一度、三人の顔をまじまじと見る。心臓が激しく鳴っている。だが、注意してじっくり観察しても、あのように化け物じみた気配はなかった。透明でガラス質の眼球ではない、感情のこもった普通の瞳。
ビリーの体から力が抜けた。プロハンターは嘘ではないかもしれないが、この三人はちゃんとまっとうな人間だ。安心して肺から息を吐き出すと、知らず浮いていた腰が椅子に落ちる。手の中に汗をかいていた。
「……信じるわ。でも、心臓に悪いことはやめて頂戴」
少女が放った一瞬の殺意に、気が付かなかった者はいないだろう。が、皆が素知らぬそぶりをしてくれた。さりげなくレオリオが会話をつなげ、なんでもない雑談へと興じてくれる。それに参加して気を紛らわせながら、いい人たちだな、と、彼女は思った。
ふと、レオリオの懐から着信音が流れてきた。ずんぐりと大きな、カブトムシに似せた携帯電話が取り出される。ハンゾーからだ、そう呟きながら応対した。
「なんだってオイ! そりゃ一体どういうことだよ!?」
突然の怒声にビリーが固まる。昼時の喧騒も掻き消えて、周囲の注目を集めていた。しかしそんな些事は気にせずに、レオリオは大声で会話を続けて、その後で一方的に切断された。
「なんだったの?」
ゴンが尋ねる。レオリオは腹立たしそうに早口で答えた。
「わからねぇ。だが、尋常な様子じゃなかったぜ。とんでもねぇ情報を入手したから、今すぐ戻ってこいだとよ」
残っていたパスタをかきこんで、口を拭きながら彼は言った。怒りもあるが、その原因はもっぱら心配が中心となって占められている。喉に水を流してから、テーブルの上に出しっぱなしだった例の名刺に気付いて舌打ちした。
「ったく。これじゃコイツも諦めるしかねえな」
乱雑にポケットにつっこまれそうだった寸前で、隣からのびた手が止めた。キルアだった。
「待ちなよ。その情報とやらを聞くために、全員でぞろぞろ戻る必要はないだろ。オレが行くよ。オレなら一人で大丈夫さ。なあゴン、お前もそっちの方がいいだろう?」
オレ一人で動く前提なら、どこへでも行けるし帰ってこれる。そんな絶対の自信を滲ませて、彼は鋭い目つきで提案した。二人も異論を挟まない。キルアの保有する技量には、誰一人文句はないらしい。ビリーには程度が見えなかったが、隔絶する実力のせいだろうか。
「どうする、ゴン」
レオリオはゴンに確認する。年長者の立場も関係なく、彼らは対等な付き合いに見えた。
「うん、キルアにならオレも任せられる。お願い」
「決まりだな。こっちが終わったら電話するからさ」
「よしっ、わりぃがそっちは任せたぜ」
目の前でまとまっていく今後の動きを見つめながら、ビリーは話に割り込みたい衝動が沸き起こっていくのを感じていた。惜しいと思ったのだ。彼らとここで別れたくない。もう少し成り行きを見守りたいと、もっと観察を続けたいと、理不尽とも思える欲求が、胸の内から湧き出てくるのを感じていた。
「私も同行してもいいかしら。食事の借りも返したいし、キルアだけじゃ少し不安だわ」
思いつくままに言葉を紡ぐ。だが、とっさに口に出した適当な理由は、思いのほか状況にマッチしていた。
「おいおい、譲ちゃん」
「ビリーと呼んでくださる? レオリオさん。この名前、とても気に入っているのよ。私の唯一の宝なの」
「じゃ、オレもレオリオでいいぜ。しかしな、ビリー。こんな昼飯ひとつでお前さんが借りなんて考える必要はねぇし、これから行くところは明らかに堅気の現場じゃねぇんだぞ」
お前もあの二人組みを見てただろとレオリオが言った。彼女は素直に頷いた。だが、そこに割って入ったのはキルアだった。言い草が気に入らなかったのだろう。ビリーに対して、むっとした様子で問い掛けてくる。
「つーか、オレだけで不安な理由ってなんだよ」
「だってあなた、簡単に騙されそうなんだもの。とても綺麗な顔してるわ。だから、きっと清潔な場所で育ってきたんでしょうね」
「はぁ? なんだよそれ。関係ねーだろ」
「あるに決まってるわ。ねえ、キルア。あなた、腐った泥の中で暮らす人たちと接した経験はおありかしら? 彼らの苛立ちを身に受けたことは? どうしようもなく卑劣で哀れな人たちの、腹の中の不満を一晩中続けて聞かされたことは? あなたが知ってる常識と、あの人たちの怖さは違うのよ」
だが、それだって本当に悲しい人たちの姿ではなかった。あの宿に飼われていた時代、少女が最も恐れたのは、さらに貧しい層であった。一世一代と思い切ったのか、彼らにとっての大金をはたいて、一夜を買われた経験が何度かあった。総じて小鳥のように臆病で卑屈だったが、万乗国の王のごとく自尊心が高く、抑制を知らぬため感情が頻繁に切り替わる。何より真っ正直で善良で、見ていて、辛い。
視界の隅で、レオリオが真剣に見つめていた。それは男としての顔だった。厳しい無表情に優しい瞳。ビリーの生きてきた境遇に、大人として心当たりがあったのだろう。しかし、彼女はあえて丁寧に無視して、キルアの目だけを眺めていた。
「キルア、仕方ないよ。オレも一緒に行ってもらったほうがいい気がしてきたし」
「……あーあー。分かったよ。怪我しても知らねーからな。マジで!」
「もちろん。私を見捨てたいと思ったら、即座にそうしてもらって結構よ。大丈夫。化けて出たりはしないから」
ほどいた髪の毛はそのままに、キャップを被ってビリーは言った。精一杯の虚勢だったが、同時に、力になれそうな役割に、不思議と胸が躍ってくる。心のどこかにこびりついた好意という名の執着は、今の彼女にとって、一種投げやりな力の源にさえなっていた。
「行きましょう。ゴンたちを待つのは急ぎの用件でしょうし、私も、早く恩を返したいわ。だってこんなに美味しい食事をいただけたの、本当に久しぶりのことなんですもの」
立ち上がりながらビリーは言う。それは彼女の本心だった。だが、いかに上等な食物でも、あの日食べた何かより美味くはなかった。何か、そう、何かだ。それが何なのかは思い出せない。形も味も材料さえも。ただ、あの人と一緒に市場へ行って、二人一緒に選んで買って、捌いて煮込んで味付けた、名前も思い出せない何かだった。
だんだんと傾き始めた太陽の下で、アルベルトは夢を眺めていた。彼は眠ってなどいなかったが、それは確かに夢だった。白昼夢というべきものであろうか。いや、ただの幻覚かもしれないと彼は思った。携帯電話で電脳ページをめくりながらも、思考は自然とそちらへ向かう。危うい幻を見そうな条件は、嫌というほど揃っていた。まずなによりもオーラの噴出。これは、真剣に命を削る行為であった。その上、彼はここ数日というもの眠っておらず、片時も気が抜けぬ緊張状態を自らの心身に強いている。それらの消耗に加えて薬物の乱用。つい先ほど一人になれた隙を見計らって、二本目を注射したばかりだった。これほど異常なハイペースは、体に耐性のできてしまった常習者であってもまず見られない。
建物の狭間、コンクリートだらけの現実の視界と重なって、砂丘の続く砂漠が見える。砂の一粒一粒が、黄金色に燃えていた。別の惑星めいた暑さだった。空はひとかけらの雲とて見当たらない、宇宙まで抜けるような蒼である。天頂に、真っ白い太陽が輝いている。ぽつり、ぽつりと瞬く点は、真昼に浮かぶ星々だろうか。
その世界で、アルベルトの視点は浮いていた。砂を踏みしめる感触はない。奇妙な浮遊感を伴って移動しつつ、永遠の砂漠を徒歩と思しき速度でずっとさまよっていた。そして、どれほどの時が過ぎただろうか。夢の中特有の時間感覚の混乱の果て、彼は、一つのオアシスを発見した。いつの間にか目の前に現れていて、気が付けば存在を認めていたのだ。ふちには黄緑色の草木が茂り、柔らかそうな苔が生え、真ん中に、空と同じ蒼さを湛える池があった。直径はほんの八メートルたらずだが、水深は深く、冷たい水がこんこんと湧き出ているのが水上からでもよく分かった。
砂っぽく熱い風に吹かれながら、アルベルトの喉が期待に弾んだ。無性にそれが欲しかったのだ。冷たく流れる水の味が、空想の体を潤すだろう。アスファルトとコンクリートの現実世界でも同時に唾を飲み込みつつ、彼はゆっくりと水面へ降りていった。全霊で潤いを渇望していた。夢はそこで掻き消えた。
「どうした?」
フランクリンの大きな顔が覗き込んだ。彼は努めて平静に、平静に見えそうな様子を取り繕った。手元の携帯電話に視線を戻し、キャロルへとデータを送信する。頼まれていた件についての情報だった。もちろん、好ましい形に加工してある。
「いや、なんでもないよ。そう、なんでもないんだ」
ショッピングモール近くの通りの隅に、わずかに開けた広場があった。周囲を古びたビルに囲まれており、たまたま、この一角だけ人通りが少なく淋しげだった。その場所で荷物の番に従事しながら、大男のフランクリンと二人きりで、アルベルトは時間を潰していた。無論、禍々しいオーラによる人払いで、近くに他人は一人もいない。あんな幻を見たせいか、ひどく喉が渇いていた。
「それにしても遅いね。女性陣は」
「なに、女の買い物なんていつもこんなもんさ」
慣れた様子で、諦めたように肩をすくめてフランクリンは言った。重厚な上半身が緩やかに動き、傷だらけの顔が微苦笑した。
「いつもなのかい?」
「まあな。今日だってきっと、お前が来てなきゃオレ一人だ」
助かったぜと感謝された。確かに、と彼は旅団のメンバーを思い出す。少しの用事程度ならともかくとして、気ままなショッピングまで付き合ってくれそうな人物など、フランクリンを除いていそうになかった。あるいは彼が知らないというだけで、他の団員達にも、意外な一面が隠されているのかもしれないが。
しかし、とアルベルトは一つ疑問に思った。エリスと買い物に出かけた経験は多々あったが、これほど長々と感じた憶えは一度もなかった。むしろ当時の彼でさえ、その行為を楽しんでいたのである。
エリスは余計なものを買わなかったが、時には、なんでもない小物や装飾に無邪気な興味を示しもした。それの購入を提案するのは、常にアルベルトの役目だった。だが、エリスが了解したことは一度もない。彼もことさら勧めなかった。言葉を交わさずとも理解していたのだ。それが彼女の本心だと。今思えば、あれは二人そろって逡巡そのものを楽しんでいたのか。不思議なものだと彼は思った。
そのように考えを巡らせていると、また、この広場に気配が一つ進入した。今日で何度目のことだろうか。いささか辟易しながらも、アルベルトは視線で残骸を数えてみた。もう六つにもなっている。そして、これで七つにも達するのだろう。だんだんと慣れてきた感すらあって、それが最も憂鬱だった。
隣のフランクリンをちらりと見る。無言で先を促してきた。なので、上半身の些細な身じろぎで、アルベルトは大まかな方向を伝達した。別段、慎重になっていたのではなかったが、逃走されて仲間を連れてこられるのだけは避けたかった。大きな右手が気だるげにかざされ、先端が外されたフランクリンの指が、発見した気配を正確に捉えた。相手も異常に気付いたのか。とたんに絶に綻びができる。鍛錬の精度が甘かった。マフィア所属の能力者の一人か、もしくは、たまたまヨークシンに訪れていたプロかアマチュアのハンターか。どちらにせよ、敵として警戒に値するような実力ではない。念弾が何発かやる気なく撃ち出され、隠れていたコンクリートの物陰ごと、いとも容易く吹き飛ばした。血の滲むピンク色の肉塊が、また一つ増産されただけだった。きっと、蝿たちにとっては朗報だろう。
「多いね。それとも何時もこんなものかい?」
「いや、確かに多いな。懸賞金でも懸けられたのかもしれねぇが……。ま、お前のおかげで雑魚の群れを掃討しなくて済むのは楽でいい」
「掃討向きの能力のくせによく言うよ」
この付近に、一般人はまず近寄らない。アルベルトが拡散させている害意あるオーラが、人という種族を拒んでいるのだ。纏を習得してない人間では、ここの空気にはまず耐えられない。自覚して恐慌状態に陥る以前の濃度の距離で、無意識の防衛本能が足を反らせてしまうのだ。だがそれ故、能力者には逆に目印になる。
空は、もうだいぶオレンジに染まってきた。アルベルトは時間を確認したが、女たちは少し遅い。本日の地下競売が中止だという情報こそ独自に入手してはいたのだが、団長からは未だ、六時の集合命令を撤回されてはいなかった。
「なあ、お前のオーラについてだが、訊いてもいいか」
「どうぞ。でも、答えられるかどうかは分からないよ」
フランクリンはわずかに逡巡した様子を見せたあと、アルベルトに深い視線をやった。
「本来なら団長以外が尋ねるようなもんじゃねえが、お前のオーラには憶えがある。正確には、そのオーラを纏っていた人物にだ。金髪でドレスを着込んだ女だった」
「……」
「もっとも、質も量も向こうが圧倒的に上だったがな」
アルベルトは肝心の質問に黙ったまま、だろうね、とそれだけについて相槌を打った。
「話したくなけりゃ話さなくていい。だが旅団に入った以上は、いざとなれば団長の命令が最優先だ。お前の事情は知らないが、それだけは肝に銘じておけ」
「フィンクスにも同じことを言われたよ」
アルベルトは柔らかく微笑んだ。ひたひたと押し寄せる慢性的な頭痛に耐えながら、平常を装って微笑んでいた。不自然さが、許容地を越えてしまわないように。そうか、とフランクリンも頷いた。
「まあ、ブラックリストハンターなんていくら御託を並べても半分犯罪者みたいな連中だ。中には賞金首と兼業してる奴もいるんだってな。だが、お前は仁義までをも裏切った。何か事情があるんだろうが、そいつはお前と団長だけが知ってりゃそれでいいさ」
穏やかに、瞼を閉じながらフランクリンは言った。アルベルトが合わせて頷くと、左肩にちりりと違和感があった。彼がそちらを眺めると、物陰のむこう、小さな影が微かに見えた。昆虫、恐らくはハチかアブであろう。理論的な思考はそれで安心しようとしたのだが、感性は違和感を発信した。ふと思い至る。なぜ、こんなコンクリートの街中で、濃密な害意あるオーラのそばで、昆虫が一箇所に留まっているのだろうか。
密やかに特徴を観察する。昆虫はシビレヤリバチと同定できた。森林を好むハチであるが、そもそもこの大陸には生息しない。どこかで飼育されていたのだろうか。養蜂には向かない種類のはずなのだが。
ビルの陰に沈んでいく夕日の中、広場に、また、新しい気配が現れていた。
ラリった格好の男性が、マイクを片手に叫んでいた。条件競売はかくれんぼ。報酬は一名につき三十億ジェニー。標的は合計十三名、落札条件は身柄の譲渡。だが、そんな雑音はどうでもよかった。
少女は愛しささえ覚えながら、その紙切れを抱きしめた。目には涙が溢れていた。感謝と慈愛と感動と、灼熱の憎悪が込められていた。信じてもいない神に祈りを捧げた。生きているうちに会えたのだ。生きている意味に会えたのだ。
「やっと会えた。会えましたよ、こんなにも早く。あぁ……、ビリー……。良かった」
再びキャップを目深に被り、男装しているにも関わらず、彼女は周りも気にせず呟いた。ここにはいない愛しい人に、万感の喜びが届くように。
手の中にあるのは一枚の手配書。高額な賞金が懸けられていたが、彼女が注目したのはそこではなかった。隣でキルアが見つめていた。彼は当初、この紙を目にして驚いていたが、そこには感情的な怒りと冷徹な計算が混じっていた。横から覗き込んだビリーが内容に気付き、食い入るようにひったくるまでは。
まるで何らか監視カメラの動画から、静止画を抜き出したかのような俯瞰の画像。デジタル処理で鮮明さを無理に上げた際の、独特の不自然さがそこにあった。十三も並ぶ顔の中から、最初に目に入った男がいた。後ろに流した豊かな髪、豊富なもみあげ、野性的ながら端整な顔。忘れもしない。あの時少女が対峙し逃げた、そして再び邂逅した時、巨礫を投げてきた野人だった。驚愕しながら隅々まで見ると、いくつも記憶にある人物が写っている。そして何よりあの二人、黒いコートを着た黒髪の男と、濃いめの金髪の優男。
ああ、と少女は感嘆した。あの時は顔すら忘れてしまったなんて言ったけど、嘘だ。こうしてみれば瞭然だった。心に雷鳴が轟いた。この二人、少なくともこの二人のうちのどちらかが、あるいはきっと両方が、あの眼差しを持っている。
「繰り返します、報酬は一名につき三十億ジェニー! 十三名全て捕らえると、三百九十億ジェニーもの大盤振舞でございます! 無期限、生死不問、もちろん手段も問いません! 皆様、早い者勝ちでございます!」
地下に設けられた会場の中央、設置されたリングで司会が煽る。聴衆が破格の報酬に湧き上がった。だが、かくれんぼの参加料は五百万ジェニー、彼女に払える金額ではない。手段は選んでいられなかった。
「おい、待てよ」
ためらわず歩き始めたビリーの肩を、後ろからキルアが掴んで止めた。
「離して。私はこれをもらっていくわ」
「どうすんだよ。オレたち金なんて持ってないだろ」
そもそも、無意味だ。この場で払う金などは、あからさまに体面の取り繕いだった。払おうと考えるだけ馬鹿馬鹿しい。おそらくしかるべき方面に当たったなら、こんな紙切れの十枚やそこら、無料で入手できるだろう。人脈か手腕があればの仮定であるが。
「ええ、そうね。でもそれがどうしたの? ここの男たちに身を売ってでも、私はこれを持ち帰ってみせるわ」
「っ! そういう女かよ、お前は」
「ええそうよ。幻滅した? そう、それが利口でしょうね。さよなら、キルア。あなたたちとは友達になりたかったわ。結構、好きだったから」
未練も躊躇も見せず去っていこうとするビリーを再び強引に引き戻して、キルアは力ずくで向き直らせた。彼女は憤怒の相で睨み付けた。
「だから待てって! オレに任せろ。オレだってそいつが必要なんだ!」
眼前で小声で怒鳴る彼に、さしものビリーも硬直した。そして一度冷静になる。しかし、これはどうしても欲しいのだ。少女の目的を達するために。
「……でも、キルア」
「任せろって言ったぜ」
自信に輝く少年の瞳に、少女ははっと息を飲んだ。奥底に除く悪戯っぽさが、冷酷さの混ざった遊び心が、微かに誰かのものに似ていたのだ。本当に、ほんの微かだったのだが。
そして、二人は並んで出口へと歩いた。押し合う客たちで込み合っている。興奮で殺気だった筋者達の行列の中、小さな体格の子供が二人、寄り添うように沈黙していた。
「おっちゃん、オレ達はパスね」
受付に設置されたテーブルで、キルアは投げ捨てるように紙切れを返した。いかにも興味がなさそうに、すたすたと無造作に去っていく。手を繋がれて導かれる隣のビリーは、深く被ったキャップの奥で、悲痛に目を伏せて耐えていた。
途中、何度か他の客とぶつかりそうになりながらも、彼らは早足で地上に出た。外は暗くなっていた。興奮の熱気から開放されて、レンガで鋪装された洒落た通りを、二人は押し黙って進んでいた。
しばらく歩いていただろうか。ふと、少女はキルアの手をぎゅっと握って、道の真ん中で立ち止まった。後ろを歩いていた男性が、迷惑そうに避けていった。キルアも無言で立ち止まり、ややあって後ろを振り向いた。少女は彼の目をじっと見つめたが、気まずさや焦りは見受けられない。知らず、赤褐色の瞳が濡れていた。嗚咽をこらえながら声を出した。
「説明してちょうだい。何か試して、失敗したの?」
「いんや、全然。むしろ簡単すぎてあくびが出たよ。あいつら、懐に無警戒に入れてるんだぜ?」
ズボンのポケットをごそごそとあさり、キルアは何かを取り出した。折りたたまれた数枚の紙片。印刷された内容を目にしたとき、ビリーは信じられない気持ちでいっぱいになった。
「とりあえず五枚。足りなかったか?」
全身から湧き出た感激にまかせて、少女は飛びつくように抱きしめた。恥も外聞も気にせずに、首筋にすがって震えていた。銀髪の少年は驚きながらも、しばらく、彼女のしたいようにさせていた。
次回 第二十七話「スカイドライブ 忍ばざる者」