稜線の向こうに陽は沈み、空は、だんだんと薄暗さを増していった。青から黒へグラデーションする天空で、夕焼けの残響だけがほのかに赤い。地上では涼しい風が吹き抜けて、秋の匂いが漂いだした。どこかで犬が鳴いている。
人気のない寂れた広場に佇みながら、アルベルトとフランクリンは新たに増えた気配の方向を見つめていた。数は四つ。多いが、じきに少なくなるだろう。
「ごめんね、遅くなって」
「おう、戻ってきたか」
まず現れたのはシズクだった。いつも通りのパンツルックで、大きな眼鏡をかけている。手には、恐らく三人分の買い物だろう、左右それぞれ数個の紙袋を下げて歩いてきた。一つ一つは大きくはないが、合計である程度の量にはなっていた。だが、華奢な体つきの彼女がそれらを苦もなく持ち運び、芯をふらつきもさせずにやってくる。もし一般人が目撃したら、若干の違和感を得たかもしれない。そして、後ろからはマチが続いてきた。こちらはいつもの装束とは印象の異なる、カジュアルなトレーニングウェアに身を包み、髪をナチュラルに下ろしていた。彼女は買い物袋を下げてないが、その代わり両肩に人間を担いでいた。男と女が一人ずつ、どちらも未だに生きていた。
「で、この二人は?」
どさりと落とされた男女を前に、アルベルトが彼女たちに質問する。彼が尋ねたのは正体ではなく、ここに連れてきた理由であった。ただの襲撃者であったなら、その場で殺していたはずである。運んでくる理由は何もなく、生かしておく理由は尚更なかった。
「見覚えないのかい? こいつら、アンタの名前を呟いてたから、一応拾ってきたんだけど」
「ああ、なるほど。どれ?」
女性陣の近くまで彼は進み、苦痛に身悶えている男女の様子を観察する。眉間にわずかに皺が寄り、何かを考え込んでいる様子であった。それを後ろから眺めながら、マチに対してフランクリンが聞いた。
「ん? キャロルの奴はいねぇのか」
「アイツは獲物を狩りに行ったよ。団長の許可も得たようだし、別にいいだろ」
「そりゃそうだが、よかったのか、一人で行かせて」
「今回はきっと大丈夫さ。勘だけどね」
数十秒ほど無言でいた後に、アルベルトはマチが担いできた二人の片割れ、小柄な男に語りかけた。ターバンのような帽子が特徴的な、小動物じみた人物だった。その帽子をアルベルトは手の甲で乱暴に弾き飛ばし、厳然たる様子で頭を無理やり上げさせた。
「それで、君は?」
「ア、アルベルトっ……! お前、やっぱりっ!」
「そうだけど」
髪を掴まれ、殴打された痕の残る顔を持ち上げられて、男は苦悶の表情で彼を見上げた。血の滲む唇を小さく神経質に震わせて、両手を必死に握っていた。それは屈辱か死の恐怖か、体が引きつったように震えている。驚愕、混乱、不信、悔恨、憎悪。彼の顔に浮かぶ百面相は、傍目に観賞する分には滑稽だった。しかしアルベルトは不機嫌さを一層強く表して、男の頭部を路面に叩きつけるように投げ捨てた。
「……ああ、思い出した。ハンター試験の時の、脱落した」
「知り合い?」
「一応ね。何でこんなところに居るのかは分からないけど」
シズクが隣から覗き込む。アルベルトは頷き、冷たい瞳で続きを促す。どうしてこの場所に現れたのか、説明を無言で求めたのだ。オーラの流れが彼に向けられ、無造作に撒き散らされていた凶暴な気配が、ポックルの周囲をぞろりと舐めた。リスのように震え上がった彼に向かって、アルベルトは緩やかに右手を指向させた。欠片も力のこもらぬ手の平に、大砲の如き迫力がある。穏やかなアーチを描く五指の奥に、底知れぬ殺意が垣間見えた。
「答えたくないなら、それでもいい。……さよならだ」
「やめなさいっ!」
女の叫びが悲痛に響いた。ポンズだった。帽子はない。未だ起き上がることができないまま、上半身だけをどうにか腕で持ち上げて、必死で声を張り上げている。顔を真っ赤に上気させて、野良犬の如く牙を剥いて、盛んに怒りを外部に示している。旅団員が一斉に彼女を見た。芥としか認識していなかった人物に対して、好奇心の視線が集中したのだ。誰かが気まぐれを起こしたら、次の瞬間、彼女は血と肉の無残な混合物になっていただろう。それでも、彼女は声帯を震わせるのをやめなかった。圧倒的な実力差と絶望を体に刻み付けられていてなおも、声だけは痛みを決して感じさせない。
「あなたねっ、こんな外道に落ちたの、あの子は知ってるっていうのっ!?」
「君にはまだ聞いてないよ」
彼女の腹部に、アルベルトの蹴りが穿たれた。一挙動で移動し、一拍子で放たれた強烈な一撃。それはポンズの体を軽々と遠く吹き飛ばし、反対側の建物の壁に激突させた。広場の隅にゴミが増えた。
「念は覚えたようだけど、まだまだ戦うには弱すぎる。ま、一応基礎だけはできているね」
彼は一言感想を述べた。極めて事務的な口調だった。ポンズはかろうじて生きていたのだ。纏を維持できていたおかげだった。蹴られたショックでほどけていたら、彼女の肉体の強度では、内臓が破裂し背骨が折れていたであろう。しかしそれもどうでもいいと、アルベルトは再びポックルに振り向いた。だが、傍観していたマチが言った。
「今、あの子って言ってたね」
「さあ、心当たりはないけれど、気になるなら彼女から先に尋ねてみようか」
言って、アルベルトはポンズを眺めたが、ふと、思い出したように言葉を紡いだ。
「そういえば、彼女、帽子をかぶってなかったかな?」
「ああ、あの蜂かい? 潰したよ、全部」
なるほど、とアルベルトは納得した。ポンズの操る蜂の個体数と毒はある程度厄介かもしれなかったが、何のことはない、手数で上回ってしまえばいいのである。おそらく、攻めてくる順から一匹一匹丁寧に潰していったのだろう。マチの素早さと器用さなら容易いことだ。そして、最後には帽子そのものが破壊された。彼女の両手が汚れていないことを鑑みると、蜂の体液や残骸はシズクが吸い取りでもしたのだろうか。
「や、やめろ……。やるなら、オレからやってくれ。頼む」
ぼろぼろの体を引きずって、ポックルがアルベルトの膝に抱きついていた。俯いた顔は見えないが、体は恐怖に震えていた。時間稼ぎと呼ぶにも馬鹿馬鹿しい、妨害にもならない行為だった。アルベルトは簡単に振りほどき、鉄のように硬い無表情で、つまらなそうに彼に殺意を向けた。一応周りに確認の視線をやったのだが、誰一人それ以上用件はないようで、一様に頷きを返された。しかしそのとき、濃紺に染まった西の空に、黒い点がぽつんと増えた。
「あれ、殺やらないの?」
シズクが疑問を呈したが、アルベルトは空の点を顎で指した。黒点は見る間に大きくなり、数瞬後、新たな人物となって広場の地面を強かに揺らした。墜落とも形容できようかという速度である。剃髪で、黒衣に身を包んだ男だった。四肢は長く、メリハリのはっきりした筋肉が猫科の猛獣を思わせた。
「誰だおめぇ」
フランクリンが怪訝に問うが、男は完全に無視している。アルベルトをしばらく眺めたあと、冷たい口調で言葉を発した。
「よう、変わったな」
「おかげさまで。さすがに君のことは憶えてるよ、ハンゾー」
「そうかい。ま、なんでもいいがよ。そいつらは返してくんねぇか」
アルベルトは穏やかに笑っている。ハンゾーは針のように佇んでいた。禍々しいオーラが闇にたゆたい、静かに磨かれた忍びのオーラが、正面からそれと対峙している。ただ、無言。しかし長くは続かなかった。
「返せねぇなら力ずくだ」
ハンゾーの周辺の空気から、微かだが、硬質な殺気が出現した。ごくごく微量の風切音。ちらちらと、夜の風景に瞬きが見える。その正体が何なのか、アルベルトが推察した時には遅かった。
「はっ!」
気合一閃。ハンゾーが踏み込みと共に手刀を薙いだ。相変わらずの卓越したバネ。だが、アルベルトも見切って後ろへ退いた。お互いに様子見の小手調べ、だった、はずだった。さざ波の立った心に従い、アルベルトは横へと跳んでいた。直後、得体の知れぬ物体が、高速でいくつも飛来した。彼がもといた空間を、視認できぬ何かが切り裂いていく。ささやかな風が吹き抜けた。
ハンゾーは隙を見逃さなかった。着地直後のアルベルトへ、俊敏な肉体が接近していた。低い位置から手刀が貫く。ただの徒手であろうはずがなく、不可視の刃が添えられていた。アルベルトは紙一重で辛うじて回避し、腕を取って路面へと投げようとした。だが、それすらも中断して後ろへ跳んだ。脚の筋肉を無理に酷使し、強引に地面を蹴って逃げおおせたのだ。路面に十センチほどの裂傷が穿たれていた。
右腕の皮膚が微かに痛む。触れると、指先に血液が付着した。傷口は恐ろしいほどに鋭利だった。至近距離からの誘導攻撃。最後の手刀と同時の刃は、かわしても気配が消えなかった。そしてアルベルトは理解した。気付かなければ死んでいた、と。
強い。アルベルトは実感を伴って認識した。今年の一月に試験を終え、その後に念に触れただろうにこの練度。禍々しいオーラにも小揺るぎもせず、元より命を奪うのに躊躇がない。そして、能力もシンプルで強力だった。
「大気の操作、か。便利そうだ」
アルベルトは、そして傍観していた団員達も能力の正体を悟っていた。風の念弾、圧縮された空気の円盤。彼の故郷に伝わる手裏剣という名の武器にも似た、変化自在の軌道の刃。接近すれば小太刀にもなり、防御に徹すれば小楯にもなろう。……が。
「へぇ、やるじゃないか。体術だけならかなりのもんだね」
「うん。念の方は初心者みたいだけど」
女性二人が即座に見切った。ハンゾーは発こそ習得していたのだが、オーラの流れが硬すぎた。堅も流も、未だに行なう気配はない。念能力者同士の戦いでは、それは致命的に不利だった。しかし、弱点を補って余りあるほど、輝かしい才能を秘めている。能力もいやらしいタイプではなく、戦って楽しめる獲物だろう。
ふと、アルベルトが何かを感じ取り、地面を鋭く蹴って跳躍した。瀑布の如き念弾が、射線上の仲間も気にせず掃射される。生命力の濁流がハンゾーを飲み込み、向かい側の建物に大穴を開けた。余波でコンクリートが粉砕され、粉塵が辺りに巻き上がった。
「……つくづく、見下げ果てた奴らだな」
土煙の中から、ハンゾーの声が聞こえてきた。多数の気流の円盤が、半球上に彼を取り巻いて守っていた。わずかな反射率の違いだけが、微かに瞬くきらめきだけが、本来は肉眼で認識可能な全てであろう。しかし、今は粉塵が巻き込まれており、無色透明の円盤が、刹那的に姿を晒していた。それは十センチほどの円形で、厚みは無いに等しかった。
「好機と見れば仲間ごとかよ。ええ?」
ハンゾーは怒りをあらわにした。が、アルベルトは微塵も気にしていなかった。この程度、幻影旅団の認識では、ほんのささやかな稚気であった。もとより彼らはその多くが、一対一を最も好んでいる。だからこそ、余計な手出しは滅多にしない。今回のフランクリンの攻撃も、それだけ手を抜いていたのである。
「ははっ、おもしれぇ。おいアルベルト、こいつは譲ってくれねぇか」
だが、同じく念弾を使う者として思うところがあったのか、フランクリンが珍しくもそんな要求をした。獰猛な、血の匂いのする笑みを浮かべている。拒むことはできたであろう。暗黙の了解でしかなかったが、獲物は早い者勝ちが基本だからだ。しかし、アルベルトは数秒ほど考えに沈んでから、やがて、仕方がないなと苦笑して見せた。とても明るい笑顔だった。
「団長には上手く言っておくよ、フランクリン」
「わりぃな、こいつは貸しってことにしてくれていいぜ」
上機嫌に肩を揺らしてフランクリンが言う。彼はそれに頷いて、マチとシズクの様子を見た。男たちのやり取りの傍らで、彼女たちは既に帰り支度を始めている。買ってきた荷物を一纏めに縛って、シズクが扱いやすくしていたのだ。手伝う余地はなさそうである。
「なら、そうだね」
手の空いたアルベルトは独語して、転がったままのポックルの近くへ歩み寄った。未だに満足に立ち上がれず、憎憎しげに彼を見上げてくる。アルベルトはポックルに微笑んだ。羽がもげ、体も半分潰れて死にかけている羽虫に向けるのと同質の、ひどく優しく透明で、興味の見えない表情だった。殺すのだと、周囲の誰もがそう思った。しかし彼はそうしなかった。寝転んでいる羽虫に右足をそっと差し出して、何度か派手に踏みつけた。大きな音が鳴り響き、地面と靴裏の間でポックルの体が幾度か弾んだ。面白いように弾んでいた。ハンゾーの眼差しがさらに凍えた。
「しばらく動けない程度に痛めつけておいた。そいつ、逃げ足は見るからに速そうだから、逃げれば殺すとでも脅せばいいんじゃないかな」
苦痛にあえぐ知人をわざとポンズにぶつかるように蹴り捨ててから、アルベルトはフランクリンへさわやかな親愛の表情を向けて言った。どこからから二人分のうめき声が風に乗って流れてきたが、顧みる者は一人もいない。大きな左手が軽く上がって、了解の合図が送られた。
「おい、待てよ」
底冷えする声色でハンゾーが言うが、アルベルトは意にも介さない。フランクリンとの戦いは、火蓋が切られる寸前である。他に害を為せるほどの余力など、彼にはあるはずがないと分かっていたのだ。
「ねえ、マチがもう行くよって」
「ああ、了解」
シズクに従って追って広場を出た、後ろでは爆音が轟きだす。楽しそうに笑うフランクリンの声が、祭の街に溶け込んでいった。それにしても、運がいい。女性陣と共に歩きながら、アルベルトは密かに彼らに感謝していた。
クラピカは、限りなく冷静に激昂していた。瞳の奥が熱かった。また、視界が赤くなっている。そのつど戻すのがひと仕事だった。ノストラード名義で借りたホテルの部屋が、一面、炎に包まれているようにも見えている。目を閉じればあの日の絶望が、怨嗟と慟哭が聞こえてくる。空っぽの眼窩の同胞たちが、血液が土と混ざった泥の中を、眼球を捜して蠢いていた。自分の、我が子の、友人たちの眼球を、泣きながら探して這いずっていた。彼らを癒す手立てはない。どんなに腕を伸ばしても、死者には決して届かないから。
やり切れぬ無念に苛まれながら、クラピカは千の夜を超えてきた。もう、これ以上は一夜も待てなかった。既に十分耐えたのだ。今回の機会を逃したとしたら、次は何年後になるか分からなかった。命も、人生の時間も惜しくはなかった。しかし、復讐が日常の一部にうずもれて、いつしか朽ちてしまうのが恐ろしかった。彼は、癒されたくはなかったのだ。
渇いてきた喉を潤すため、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出そうとした時に携帯が鳴った。また一件、ノストラードファミリー所有の拠点が潰されたという旨の報告だった。受話器の向こうのセンリツに、彼は端的に例を言う。手の平にまた少し汗が滲んでいた。喉が熱く、よりいっそう水が欲しくなった。ボスと護衛団の面々は、既に別所に逃がしてある。マフィアとは何の接点も無い女性が借りた部屋であれば、そう簡単には見つかるまい。だが、たとえ暴力を生業とする裏の世界の住民たちが被害者でも、一方的な虐殺というものは業腹だった。旅団の仕業であれば尚更だ。
「残る候補地はそう多くはない。いつ来てもおかしくないはずだ。覚悟は、できたか?」
今現在、この部屋にいる唯一の他者に向けてクラピカは尋ねた。彼女は応接用のソファーに深く体を沈めたまま、静かに瞼を閉じている。ともすれば眠っているようにも見えようが、彼はそれが正しくないと知っていた。
「できるわけないわ。できるわけが、ないじゃない」
熱っぽく気だるげに瞼を開け、弱弱しく首を振りながらエリスは言った。身に纏うのは黒いドレス。長いスカート、長い袖に絹の手袋、首までしっかり覆うレースの襟元。フォーマルに近い、ドレスコードのあるオークションへ赴くかのような出で立ちだった。そして、この体勢では背もたれに隠れて見えないが、全体的に肌を見せないデザインの中、唯一、背中だけが眩しく開いている。あのハンター試験の時と同じように、これは彼女にとって戦に臨む装束だった。
だが、華美な衣装とは裏腹に、顔色は病的に青白かった。化粧で誤魔化してはいるのだが、頬に紅をさそうとも、生気のなさは瞭然だった。眼光だけは相変わらず美しく燃えていたが、それすらも、どこか疲れを帯びていた。彼女は腰の辺りに指を触れて、ポシェットが無いことに気付いて寂しそうに両手を太腿に乗せた。クラピカの記憶が確かならば、それは以前、兄からの贈り物だったと嬉しそうに語っていたはずの物である。
「分かっているだろうが、私はここに来る蜘蛛を、悪戯に一般人を殺戮して回っている人物を殺すつもりだ。例えそれが、あのアルベルトであったとしても。覚悟は、無理にでもしておいてくれ」
クラピカは二つのグラスに氷を入れ、ミネラルウォーターを丁寧に注いだ。氷が冷たく音を奏でる。そして、うち一つを彼女の前のガラステーブルにそっと置いた。誤魔化すこともできた。土壇場まで先伸ばすこともできただろう。しかし、クラピカはそれをよしとしなかった。正直さが今の彼女を傷つけようとも、それこそが誠意だと信じていたのだ。彼女は昨日まで仲間だった。できれば、明日からも仲間でいたかった。左手でグラスを持ち上げて、冷たい水を口に含んだ。
コミュニティーが総力を持って回した手配書は、今朝方遅く、彼の手の届く範囲にも届いていた。その内容を目にしたとき、クラピカは己が正気を疑った。すぐさま協力者に対して連絡を入れが、そこの頃にはもう、瞳は紅になっていた。電話の向こうで話したエリスは、あっと小さく叫びを上げて、それっきり無言で聞き入っていた。
始まりの日だった。あれほど渇望した開幕の日だった。まず、一人目。今夜、少なくとも一人を殺そうと心に決めた。鎖の巻きついた右手をきつく、きつく握り締めながら喉を潤す。沸騰寸前の水のように、纏うオーラが静かに泡立つ。
「今、会ってしまえば、アルベルトを憎まないではいられないでしょうね。こんなことを言えば、クラピカ、あなたはきっと怒るでしょうけど、もし誰かの犠牲が必要だったら、わたしが旅団に入りたかった」
絶をしたまま彼女は話した。喋るのも考えるのも辛そうに、一言一言をゆっくりと語る。それは、クラピカには許容できない願望だった。
「私の前で、それを言うのか」
向かい側のソファーに腰かけて、エリスをじっと見ながら彼は尋ねた。彼女と仲違いしたくはなかったが、必要なら躊躇するつもりもなかったのだ。だから、見極めようと彼は思った。
「ごめんなさい。だけど、わたしを恨んでほしかったの。アルベルトを憎む、全ての人から恨まれたいわ。この身に罪という罪を全部集めて、丸ごと地獄へ持っていきたい。あんな人たちの仲間にならなきゃいけないなんて、考えただけでも嫌だけど、それがアルベルトのためだったら、喜んで体に刺青を彫ったのに」
熱に浮かされ、かすれた声でエリスは言う。まるで子守唄を唄ように、ここにはいない誰かのために、祈りを捧げるように彼女は続けた。
「アルベルト、きっととても苦しんでいるわ。だって、とても優しい人だから。苦しまずにいられない人だから」
罪人の個人的心理に限定すれば、罪とは過去の事象にすぎないのだ。それを忌むのは、自身の心に他ならない。彼にまだ心はあるだろうかと、クラピカは冷徹に思案した。少なくとも入手できる限りの情報では、旅団に良心はありそうもないが。
「だけど、今はとても嬉しいの。醜い女ね、ほんとうに」
忸怩たる思いでエリスが明かした。協力者に嘘をつきたくないのだろう。そのせいで、例え道が分かれたとしても。苦悩に垣間見えた彼女の誠意が、クラピカにはほのかに嬉しかった。
アルベルトに会ったら、まずは理由を聞き出そう。それが可能な状況ならば。クラピカは密かにそう決めた。エリスの件は抜きにしても、そうでなければ気がすまなかった。例えどんな事情があったとしても、仮初めでも旅団と馴れ合い加担した者を、許せる自信はなかったが。
「ところで、話は変わるのだが」
突然の話題の転換に、エリスが軽く首をかしげた。クラピカが気になったのはポシェットだった。あのハンター試験の最中に、彼女はずっと着けていた。大切にしているのは誰にでも分かった。あれを今になって外した訳を、彼はエリスに尋ねたのだ。それが彼女の戦力評価に関わるなら、あらかじめ把握しておきたかった。
「戦う力には関係ないわ。つまりね、わたしがあれを置いてきたのは、とても単純な理由なの。汚したくないって、それだけよ」
くすりと笑ってエリスは答えた。
「戦いの際に湧き出るオーラは、日常の発作とは段違いよ。まして、練をしてしまえばなおさらね。もしも、わたしがその時お守りみたいに、心の支えとして頼みにする品、思い入れのある品を携えたとしたら、果たしてそれはどうなると思う?」
大切だからこそ汚したくない。害意あるオーラに晒したくない。エリスは寂しそうにそう言った。支えにしたいのに頼れない。それは、果たして品物だけの問題だろうか。クラピカが懸念に沈んだ時、ノックの音が部屋に響いた。軽く優しい音だった。
マチとシズク、そしてアルベルトの三人は、人目の少ないルートを選び、アジトへ向かって駆けていた。常人が目を見張るであろうスピードも、旅団員にとっては小走りにすぎない。路地を、空き地を、ビルの屋上を彼らは走った。あまり飛ばさず、時には談笑しながら走っていた。わざわざ素人の目を避けたのは良心ではない。別段、誰の目についても構わなかったが、どちらかといえば今は、その方が面倒だっただけである。
「見られてるよね」
確認するようにシズクが言った。無論、他の二人も気付いている。細い車道を飛び越えながら、マチがいぶかしんで周りを見渡す。
「妙だね。ねっとりとこびりつくのは分かるけど、甘ったるい匂いのする視線だ。ヒソカじゃないのかい、これ」
「ヒソカならこんなに下手じゃないさ」
「そうなんだけどね。なんだか、わざと悟らせてるような感じがしないかい?」
この場にいない奇術師の存在を思い出して、マチは違和感に顔をしかめる。怪しいとまではいかないが、今ひとつすっきりとしない様子だった。アルベルトはシズクと顔を見合わせたが、お互いに言えそうなことは何もなかった。
「勘?」
シズクが尋ねマチが頷く。根拠のある考えではないようだ。とはいえ、軽軽しく無下にできるものでもない。このような時、マチの直感は尋常な思考の一歩上を軽く行く。
一行は川岸に差し掛かった。河口が近いこの場所では、流れは幅広く緩やかになり、広大な空間が開けている。夜を照らすヨークシンの街の千の光が、流れる水の向こうで星々のように灯っていた。
「よし、一回止まろう」
アルベルトの提案で彼らは止まった。柔らかい草の生える川岸に、三人分の靴底が急停止する。地面に溝が刻まれて、潰された草の汁の新しい匂いが、夜の茂みに立ち昇った。ネオンの輝く大都市で、川面は意外なほどに静かだった。
「どうするの?」
「僕が残ろう。二人は迂回して先に帰ってくれ。この川沿いに絶で走れば、そう簡単には見つからないさ」
「いいのかい」
「女性の前だし、少しは格好つけないとね。それに、ほら、僕は一番目立つから」
やや自嘲気味に彼は言った。確かに、絶で尾行を撒くことは、アルベルトにだけは不可能だろう。彼の発案した対処法は、至極真っ当なように傍目には思えた。
「悪いね」
「あ、一つだけ、団長に電話してくれないか。僕とフランクリンが遅れるって、なるべく早めに報告しておいて欲しいんだ」
「ああ、それぐらいならお安い御用さ」
マチが了解するのを確認して、アルベルトは心からの安堵に微笑んだ。さばさばした性格の彼女であれば、拒絶するはずがないと分かっていた。だがそれでも、ありがたい事この上なかった。
「ねえ、アルベルト」
すぐ隣、今にも肩が触れそうな至近距離で、彼を見上げてシズクが言った。
「いま、すごく優しい顔してた」
「……そうかな」
「うん」
アルベルトは自分の頬に手をあてた。表情を崩した自覚はなかったが、触れれば少し緩んでいた。楽しいのか、嬉しいのか、愛しいのか。理由は彼には分からなかった。童顔なシズクの眼鏡の奥、混じりけのない純粋な瞳の透明さに、とほうもない寂寥を与えられた。それが、無性に悔しくて悲しかった。
「気をつけてね」
「無茶するんじゃないよ」
去り際、何気なくかけられた一言が、彼の胸中に残響している。それでも、立ち止まるわけにはいかないのだ。胸元の翡翠を握りながら、彼は二人が遠くへ立ち去るのを厳かに待った。祈るような神妙さで、銀の鎖の冷たさを感じていた。風が涼しく、夜空は暗く、草原から虫たちの営みが聞こえてくる。やがて、辺りの気配を慎重に探り、一人きりである事を確認した後、アルベルトは首飾りを取り外して、ハンカチで大切に包み込んだ。
ハンゾーはほぞを噛んでいた。攻防は一進一退が続いている。彼の善戦が故ではない。彼が善戦できるよう、相手にいざなわれているのである。舐められていた。そして、それを許してしまっているのは自分の無力だ。それが、ハンゾーをどうしようもないほど苛つかせた。体術はハンゾーが一枚上、とりわけ俊敏さは格段に上だろうが、念の技量で致命的に敵に劣っていた。フランクリンの能力はシンプルだったが、それ故に堅実で穴がない。
どうにもまずい。おそらく相手は尻上がり。今に、この程度の遊戯では満足できなくなるだろう。が、まだ温まっていないにもかかわらず、あの暴力的な数の念弾は、ハンゾーの念を軽く上回って余りあった。
広場は見るも無残な姿に変わっていた。コンクリートに深い穴が空き、砕け、焼け焦げて異臭が漂っている。建物のガラスは尽く砕け、この一角だけが、さながら滅びた都市の如く、黒い廃墟に囲まれていた。
ゆったりと、淀みなく指先が向けられる。両手に重機関銃を付けてるようだ。フランクリンは単身で兵器に近い。恐らくあれは、軍用の装甲車すら砕くであろう。念という技能と人類の可能性に驚かされる一方で、ハンゾーは世の理不尽に笑いを洩らした。せめて、得意な形で戦えれば。そう悔しがってみたところで、現実の前には無為でしかない。にやりと、敵の頬が釣りあがった。まだいけるだろう? そんな意思が言葉を介さず伝わってくる。そうだ、まだいける。ハンゾーは背中の気配を感じて己を鼓舞した。
黒焦げてしまった世界の中、彼の後ろ、わずかな扇状の領域だけが、薄汚れた灰色を保っている。
指先にオーラが集中される。密度は先ほどよりもさらに色濃い。ハンゾーはそれに対抗すべく、夜風を束ねて盾を造った。まだいける。そう、まだいけるはずだと決めたのだ。本来、彼は命を見切ることに抵抗はないが、手加減された上で見捨てれば男がすたる。舐められることは嫌いだった。
彼が背負うは二人の命。仮初めとはいえ、仲間とも思った男と女。それをどうして、この程度の窮地で捨てられようか。【風盾の術(スカイドライブ)】、そう名付けた能力を回転させる。刃が回り、微細な風切り音が鳴り始める。気流の速度差で生まれた渦の音だ。切れ味は絶世。未だ実戦での活躍は乏しいが、修行では金剛石すら切ってみせた。
フランクリンが念弾を掃射した。雪崩のような物量が迫る。今にも飲み込まれそうになる光景の中に佇みながら、ハンゾーは鋭く目を見開いた。数多の念弾の一つをめがけ、風の手裏剣を打ち込んだ。飛翔する両者は高速で迫り、直後、一つの念弾が二つに裂けた。念弾と念弾が衝突し合い、爆発の連鎖が巻き起こる。オーラの粒子が飛び散って、視界が光で飽和した。だが、ハンゾーはその最中で尚も両目を見開いた。これで終わりなら苦労などない。稼げた時間は一秒に満たず、後から続く念弾が、連鎖そのものを勢いに任せて押し流してくる。そこに彼は二撃目を投じた。轟音が空気を振動させる。三撃目、四撃目、怒涛の念弾に終わりは見えず、彼は全速の体捌きで渾身の風盾を打ち込み続けた。半瞬休めば次はない。一手誤れば確実に死ぬ。集中が切れれば全てが終わる。後ろの二人を守るために、ハンゾーは終わりの見えない悪あがきを続けていた。
どれほど風盾を投げただろう。射出が始まってまだ何秒も経ってないが、打ち出した風盾は五十を超えた。敵のオーラの底は見えず、ハンゾーのスタミナには限りがある。それでも奥歯を噛み締めながら、無謀な抵抗に興じている。そのとき、背中で誰かの気配が動いた。ポックルだと、後ろを見ずとも彼には分かった。ポンズに肩を貸していた。
「大丈夫か?」
戦いながらハンゾーは尋ねた。さっきまでなかったはずの余裕さえも、仲間の無事を知れば湧き出てくる。空間を揺るがす爆音にまぎれて、ああ、と、かすかな肯定を確かに聞いた。きっと生まれたばかりの子鹿のように、脚を震わせているのだろう。それでも、良かった。
「幸い、手足はほとんど痛んでねぇ。ポンズも、……命に別状はないみたいだ」
「そいつぁ良かった。上出来だ。早く行け」
幸運も、二人を一箇所にまとめて捨てたアルベルトの傲慢もあっただろう。しかし彼ら二人の修行の成果が、なによりもこの場に希望をたぐり寄せた要素なのだ。彼は確信を持って考えた。半年は、決して無駄ではなかったのだと。
「十秒。それだけでいい、持たせてくれ」
十秒、地獄のような永劫だった。悪魔のような宣告だった。フランクリンが唇を舐めた。遊びの時間はもう終わった。これからはきっと全力だろう。待っているのは破滅だけだ。すまない、と、ポックルが低く呟いた。
「はっ、楽勝よ」
が、三人を待ち受けていた宿命を、ハンゾーは不敵に笑い飛ばした。たったそれだけでいいのかと、むしろ物足りなさを演じてみせる。ポックルが駆け出した気配があった。聞こえてくるのは、走るともいえない遅い足どり。だが、背骨にひびが入っているにしては脅威の早さだ。気付かないはずがないだろうがと、彼は心の中で低く笑った。遊びの少ない適切な打撃は、きっと仲間の女によるものだろう。
「はっは! お前ら本当におもしれぇなぁ!」
フランクリンが高らかに笑う。纏う気配が決定的に変わった。弾幕が全くの別物に切り替わった。質が、量が、圧倒的に異なる。念弾が風盾を粉砕した。ハンゾーは驚愕に停止した。あの無数のオーラの塊が、その一つ一つの小さな弾が、彼の渾身を凌駕する。悠久を流れる大河のようだと、正面から飲み込まれる刹那の前、ハンゾーは畏敬すら込めて感嘆した。
それでも、彼はここで死ぬわけにはいかないのだ。死ぬなら任務で。生まれた時からの誇りであり、ハンゾーの存在する理由でもある。そう、彼は根っからの忍であった。
そもそも、忍者にとって道具とは、単一の用途のためにはない。一つの道具で万難を切り抜け、万能を誇る道具を生み出す。それこそが忍の極意であり、誰でも知ってる基礎でもあった。当然、彼が編み出した能力も、攻撃や防御には収まらない。鍵を切り裂き、捕らえた敵を拷問し、木々を倒し、土を掘って塀を穿つ。そして、なにより。
念弾の暴雨に飲まれる寸前、ハンゾーは足元の風盾を踏みしめた。風を圧縮した円盤は、彼を乗せて空を跳ぶ。その勢いに乗りながら、更なる一歩を踏み出した。恵まれたバネで風盾を蹴り、即座に次を生成する。全身の筋肉を躍動させ、彼は空へと駆け上がった。一歩のごとに風を踏んで、加速に加速を繰り返す。フランクリンが指を空に向け、ハンゾーを墜とそうと追従してくる。が、彼は縦横無尽に蛇行して、卓越した動きで怒涛の瀑布をかわしてみせた。オーラを放出するだけの飛行能力者では真似できない、飛んでいながら身体性能を無駄にしないが故に可能となる、人智を超えた俊敏性。
夜空は暗く、街は明るく、空気は冷たい。スカイドライブ。彼の編み出した念能力を、足元に踏みしめながら宙を駆ける。念弾を避けながらループを描き、フランクリンの頭上へ向けて急降下した。地面に吸い込まれるように走っていく。二人の視線が交差した。大地からとびきり濃密な雨が昇り、空からは一人の男がまっ逆さまに駆け下りた。
念弾は極太のレーザービームのようだった。異様な連射で途切れがなく、極光を纏って空へと消える。念能力者にだけ見える灯台だった。恐らくハンゾーの防御では、かすっただけで死ぬだろう。機関銃陣地への突撃に近い、自殺同然の攻撃である。だがそれでも、竜巻のような螺旋を描き、全力のダッシュで走っていく。
スピードの乗り切ったハンゾーの動きに、フランクリンの対処が追いつかない。大きな体格が仇になった。低空を駆け抜けながら懐にもぐりこみ、至近から放った断空の一閃。だが、フランクリンは掃射の反動で体をよじった。風盾は敵の長く垂れた耳を一つ切り飛ばし、念弾の瀑布は路面と建物を粉砕する。地面が深くえぐられて、土砂が噴火のように舞い上がった。視力は完全に役に立たない。追撃の念弾ががむしゃらに撃たれ、被害が連鎖的に広がる中、ハンゾーは辛うじて脱出に成功した。
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【風盾の術(スカイドライブ) 放出系・操作系】
使用者、ハンゾー。
大気を局所的に操作して、空中に極薄の円盤を出現させる念能力。
円盤は能力者の意思で自在に操ることができるが、複雑な操作には高度な集中力が必要となる。
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次回 第二十八話「まだ、心の臓が潰えただけ」