「また始まったか」
セメタリービルの地下ホールで、クロロは天井を見上げて呟いた。忘れもしない気配だった。
「あの女だ、間違いねぇ。……戦ってやがる」
頭上で蠢く禍々しい力の存在の懐かしさに、ノブナガは刀の柄を嬉しそうに撫でながら首肯した。
「で、オレらはどうすりゃいいんだ、団長」
ウボォーギンが問い掛けた。彼ら三人と相対すのは、立ちふさがる二つの人影である。シルバとゼノ。彼らこそあの、名高きゾルディック家の暗殺者だった。
「突破するか?」
「やめておけ。これだけの気配だ。他の奴らが好きにするさ」
「まぁ、そうか」
自分たちも戦いに行きたかったのだろう。やや落胆したようにウボォーギンが言うが、クロロはそんな彼を愛でるように、不敵に笑って命令を下した。
「それよりもそっちの大男だが、お前ら二人で好きにしろ。オレはこっちの爺さんをやる」
彼らが喜色に染まるのを横目で見てから、クロロも、オーラを闘いに臨んでどす黒く揺らした。
「ずいぶんと大それた余裕じゃのう。シルバの力は知っておろうに」
ゼノは狐のように凶悪に笑った。ノブナガとウボォーギンは遊びのように、コインで順番を決めている。しかしそれは余裕ではなかった。彼らは戦闘が好きなのだ。戦闘狂ぞろいの蜘蛛の中でも、あの二人はとりわけそうであった。決して勝てぬ、実力の絶した相手であっても、彼らは一対一を欲するだろう。クロロの立場から見れば難点でもあったが、その愚直さが好ましかった。
「かまわないさ。死んだら、それまでだ」
「まったく、ふざけた奴らじゃわい」
言葉を残してゼノが消えた。後ろだった。クロロは高速で振り向きながら、右手を思い切り打ちつける。老人はそれを余裕で防いだ。壁面まで殴り飛ばすつもりの一撃だったが、小柄な体が恐ろしく重い。そのまま、拳打の応酬が始まった。機関銃の如き攻防が炸裂し、オーラの火花が撒き散らされる。パワーは相手が上だった。
身体強化の具合から見て、相手は強化に近い系統だろう。このまま続けるのは上手くない。クロロはそのように判断して、腕を振るいながらタイミングを見た。そして、迫り来るゼノの拳に自分の力を相乗させて、後ろへと鋭い跳躍に転じた。しかし、着地を待つどころか次の瞬間、追撃の念弾が放出される。空中のクロロに回避はできず、痛みと共に、軽々と彼は吹き飛ばされた。
追って、低い姿勢でゼノが駆ける。彼の右手にはオーラがあった。異常なほどの密度であり、貫かれれば命はない。クロロは床にこすりつけられるように着地しながら、腰から毒を塗ったナイフを抜いた。呼吸する間もなく跳躍し、ステップを踏みながらゼノの体に一閃をくれた。
浅いものの手ごたえはあった。が、相手は気にもしていない。頬についた切り傷の存在などは気にもせず、クロロに右手が掲げられる。そこには、龍頭の形を取ったオーラがあった。生きてると見間違えるほど生々しく、獰猛に牙をむいている。形状変化。間違いなく変化系に属する発である。先ほどの念弾の威力を思って、クロロは知らず冷や汗をかいた。今や、お互い抱きつけるほどの至近にいる。避けられない。ありえざる龍の咆哮を確かに聞いた。
白光が爆ぜる。クロロは既に駆け出していた。ゼノの存在にも構わずに、敵の横を通って駆け抜けていった。爆風に背中を押されながら、なりふり構わず逃げ出した。無論、敵も後ろを追ってくる。クロロは足にオーラを集めて高く跳び、天井を蹴って壁を蹴った。
闘いは高速機動の様相に変わった。毒ナイフにもはや意味はなく、彼はあっさりと投げ捨てた。広い地下ホールの空間を、縦横無尽に飛び回る。すれ違いざまに攻撃し、軌道を計算して回り込みをかけようと駆け引きをしあった。シルバとウボォーギンの闘いの衝撃までをも利用して、空中を駆ける速度を競う。壁際で見てたノブナガが、迷惑そうに場所を移した。
そして、正面から二人は激突した。拳と拳が空中でぶつかる。お互いに渾身の硬である。轟音がホール全体を激しく散らし、二人の体がはじかれた。クロロは靴底で床を激しく削りながら、好敵手に心を躍らせていた。
正面にはゼノが佇んでいる。息切れはなく、オーラの流れにも淀みはなく、曲がり始めた小さな背中を、悠然と背負って彼はいた。傲慢なほどの平常心で、彼はそこに立っていた。
「おぬし、本気じゃないのう」
ゼノは言った。
「おぬし、ワシの能力も盗むつもりか」
やりづらいな、とクロロは思った。心を読まれてるような気がしてくる。喋れば喋るだけ見透かされて、黙れば黙るだけ窮地に陥る。そんな妄想に近い危惧すら生まれた。恐らく、生半可な駆け引きに意味はあるまい。
「舐められたものじゃ」
出し惜しみの効く相手ではなかった。故に、極力殺したくない類の敵ながら、クロロは盗賊の極意を具現化した。使用する発は決めていた。彼は注意深くゼノを見つめながら、そのページを開いて実行した。
はじめにイメージが展開された。前頭葉の奥、小さな球体が出現する。それは幻の機械であった。実体を持たない中枢だった。そこから幾重にも糸が伸びて、無数に枝分かれしつつ神経細胞を支配していく。そして、神経系から全身に更なる幻の糸が伸ばされていき、今、あらゆる細胞が尽く完全に掌握された。
視神経が操作される。彼にしか見えない浮遊ウィンドウに滝のように情報が羅列され、基幹プログラムが立ち上がった。思考が速く、曖昧さが消える。体が精密に制御され、世界がデジタルに変質し、オーラの流れが神域に至った。
マリオネットプログラム、起動。
要した時間は刹那もなく、クロロは床を蹴って横に跳んだ。ゼノも即座に追従してくる。だが、拙い。鮮麗なはずの達人の流が、現状のクロロにとっては児戯にも近い。オーラの歪みが分析にかけられ、相手の意図が尽く手中に収められる。積年の研鑚の果ての稀代の技術が、二進法の前に覆された。
心身を完全に操作する、空前絶後の念能力。クロロはその演算に己の体をゆだねながら、ほんの一瞬の空隙だけで、左の人差し指に超高密度の念弾をいとも容易く形成した。
喧騒から外れた静まった路上で、ハンゾーとポンズ、そしてレオリオの三人は、周囲の様子を窺っていった。怒号と銃声がどこかで聞こえて、人体の焦げる匂いが漂ってくる。
粉雪のようなオーラの光が、ポンズの周りに渦巻いていた。それはキラキラと虹のような乳白色に輝きながら、一つ一つが、独自の意志を持つかのように思い思いの方向へ向かって跳んでいた。しかし、全体を見れば調和の取れた渦であった。光の正体は球形のオーラの塊である。すなわち、無数の小さな念弾が、社会性の生き物のように規律の取れたダンスを踊りながら飛び続けているのだった。まるで、再会を喜んでいるかのようだった。
「見つけたそうよ!」
突然走り出しながらポンズは言った。彼女の顔の正面で、一群をなした念弾が、独特の八の字ダンスで知りえた情報を報告していた。
「こっちよ! 例のビルにすごいスピードで向かってる。来て! 私たちの位置なら追いつける!」
レオリオとハンゾーも追走する。
「旅団だと思うか!」
「当たり前でしょ!」
確認してくるレオリオに、ポンズは迷いもせずに叫びつけた。彼女を取り巻き、時にオーラに出入りする小さな念弾の群れまでもが、ジージーと大顎で威嚇するかのように唸っている。
「すごいオーラと身のこなしだって! この子達、みんな揃って怯えている! そんな化け物、そうそう転がっててたまるもんですか! だいたい、なんであの子達だけ行かせたのよ!」
先ほど、セメタリービルの屋上にオーラの炎が灯った時、ゴンたちは飛び出していったのである。あの時、追いかけようとしたポンズをレオリオが止めた。今更だったが、彼女は文句の一つも言ってやらないと気が済まなくなった。
「仕方ねーだろ! 子供でもオレらよりは強いんだぜ! それに、ハンゾーは遊撃にうってつけだ! 索敵のお前と揃っていてこそ意味がある!」
「女の子までついて行ったじゃない! っていうか、さすがにあの子よりは強い自信あるわよ私!」
「ビリーは一人にすると勝手に敵のど真ん中まで行っちまう奴だ!」
「ああもうっ! わかったからっ!」
髪の毛を振り乱しながらポンズは叫んだ。頭部の軽さが不安だった。帽子がないと落ち着かない。が、そのとき、ハンゾーがありえない俊足で二人を軽々と抜き去っていった。
「先に行くぜ! お前らは見つからないように後から来いよ!」
忍者が一人で駆けていった。残されたポンズはレオリオをみて、とにかく、と前置きしてから端的に言った。
「いつでも絶をできる心構えだけはしておきましょう!」
「ちょっ、おい、オレ絶なんてできねーって!」
「なんですって!」
思わずレオリオの首根っこをひっつかみ、急停止してからポンズは怒鳴る。苦しそうな声が聞こえたが、彼女は完全に無視をした。
「だったら早く隠れなさいよ! 全く! ほんとにもう!」
「お前だって今は似たようなもんだろうが!」
言われて、彼女は自分の状態を改めて見た。纏からは絶えず小さな念弾が出入りしては、彼女の制御を離れて飛び交っている。念的に操作する方法はない。が、動きのパターンは見慣れたもので、慣熟さえすれば、全て統制できる確信はあった。しかし、今の段階では五分と五分だ。知らず背筋が冷えていた。
二人は顔を見合わせた後、声をひそめ、充分な距離を開けてハンゾーを追う方針を確認し合った。
大通りに隣接する細長い緑地の暗い影に、沈殿した臓物の暖かい臭気が、霧のように重く淑やかに漂っていた。その中を、二人は泳ぐように駆け抜けていく。道すがら、野良犬や野良猫の気配はなく、虫たちは奥まったところで震えていた。植物はゆっくりと弱っていった。
「どう? フランクリン」
シャルナークは横を行く相方へと問い掛けた。
「間違えようがねぇ。本物だ」
「やっぱり。なら、急ごう」
言って、彼は走る速さを上げようとしたが、直前に、意外な気配が近づいてくるのを発見した。
「おや♦ これは二人とも奇遇じゃないか♦」
「ヒソカ!」
ヒソカとコルトピ。そのペアが、同じく件の高層ビルへと向かっていた。長身と短躯のコントラストは、夜間に出会うと案外不気味で笑いを誘う。
「珍しいな、ヒソカが真っ先に駆けつけるなんて」
「言い出したのはボクじゃないよ、彼さ」
「コルが?」
「うん」
コルトピが走りながら頷いた。普段、自己主張が控えめな彼であったが、仮にも旅団の一員である。奇人揃いの面々に劣らず、言うべき時はかなり積極的な一面も見せるのは知っていった。
「あれ、ボクの力と相性がいいから」
シャルナークは確かにと頷いた。大規模な物質の具現化において、コルトピを超える存在を彼は知らない。光線への対策についてなら、これ以上ない人材だろう。そして、ヒソカ。彼がすぐそばにいるのであれば、貴重な後方要員をそうやすやすとは失うまい。仲間内の信用に欠けることにおいては他の追従を許さぬこと甚だしいこの奇術師だったが、頭の回転は一級である。これほどあからさまな状況で、組んだ相手に不利益を与える愚行はしないと考えていいだろう。シャルナークは思考を高速で巡らせて、そのような結論に辿り着いた。
「急いで。たぶん、あのビルには団長が到着している」
シャルナークは言った。セメタリービルのオーラは激しく揺れて動いていた。十中八九、旅団級の能力者を敵にして戦っている。相手が誰かはわからなかったが、複数を敵に回しているような様子ではない。だが、普通の強敵程度ならともかく、あの女に限っては団長から特別の命令があるのだ。春に発せられたその指示は、未だに蜘蛛の内部で生きている。それを破るということは、不測の窮地に陥ったか、あるいは、命令に束縛されない立場にあるかのどちらかだ。
「クロロならいくらでもどうにかするさ♥」
ここにいない誰かを愛でるように、恍惚に目を細めながらヒソカは言う。彼の趣味は不愉快だったが、実力の評価については同意だった。が、シャルナークは万が一のことを心配したのだ。せずにはおれない性分だった。
「とにかく、行けってば!」
「クッククッ。じゃあ、後ろの彼についてはまかせていいかい?」
「……後ろ?」
「つけられてるよ♠」
はっとする動作を辛うじて飲み込み、シャルナークとフランクリンは注意深く、意識だけで後方の様子をつぶさに探った。無論、他者のオーラの気配はない。余計な物音などもしなかった。だが、微細な違和感が確かにあった。まるで、壮大な雪原に一つまみの塩を混ぜたような、人知を超えた極細の齟齬。
「……いるな。相当尾行慣れしてやがる」
フランクリンが感嘆した。絶の達人というだけではない。体の動かし方だけの問題でもない。天賦のしなやかな筋肉とバネ、それらを十分以上に活かしきった、己が才能に裏打ちされた歴戦の極意。
「よく見つけたな。円も使わずによ」
「ボク、いまビンビンだから♦」
ある一点を指差してヒソカが言った。シャルナークとフランクリンは顔を見合わせ、二人で呆れて肩をすくめた。まあ、ヒソカだし。彼は内心で呟きつつ、相変わらずの変態性と化け物ぶりに、どこかで和んだ自分を見つけた。
「じゃ、ボクらはお先に失礼しようか♦ 乗りなよ♠」
「うん」
差し出された肩にコルトピが飛び乗り、圧倒的なスピードで彼らは去った。いつの間にか、案外息が合っている。あれでなかなかいいコンビじゃないかと、シャルナークは急停止して後ろを振り向きながら考えていた。追跡者の居場所を包み込むように、フランクリンの両手が豪雨の如き念弾を放つ。敵に隙ができ、瞬間的に気配が洩れる。その間に、彼は謎の人物の背後へ全速をもって回り込んだ。
「……ちっ、しくったか」
逃げ場をなくした追跡者は、黒装束を着込んだ男だった。頭を丸く剃っていて、力強い眉が印象的だ。いつだったか文献で見たことのある、忍者という特務集団の特徴に似ていた。
「なんだてめぇか。こそこそしやがって水臭せぇな。再戦ならいつでも受け付けたぜ」
「うっせーな。オレは奥ゆかしさが売りの国出身だぜ。人見知りすんに決まってんだろ」
「あれ? フランクリン知り合い?」
「話したろ? この片耳はこいつのおかげだ」
かつて彼が自慢にしていた、耳飾のついた長い耳朶。今ではそれは片方しかない。右側は、半分ほど垂れたところで切れている。その傷を与えたのがこの男だと、ぎらぎらした眼光が語っていた。
「ところでよ、おめぇ……。あの時オレたちと一緒にいた女二人の行方に、なにか心当たりがあるんじゃねぇか?」
「はぁ? あるわけねぇだろ。いや、つーかお前ら、はぐれたのかよ」
「……だろうな。お前並みの奴が何人かいてもあいつら相手じゃ勝ち切れねぇし、まして、あの二人程度の雑魚なら百人いようがシズク一人だってやれはしねぇ」
フランクリンは怒りながらも冷静に断じた。彼は短気な面も確かにあるったが、懐は広く頭も切れる。定型の回答をはじき出すのに長けたシャルナークとはやや違い、蜘蛛という指針に沿って大まかで大局的な視点に立つのが得意だった。
「が、シャルナーク、そのへんにいるはずの仲間を頼む。ないだろうが、一応、念のため拷問しておいて損はねぇだろ」
「ん、オッケー。たしかにまだ気配がいくつか動いてるしね。適当にそれっぽいのいたら捕まえておくよ」
黒装束の男が怒りを見せるが、彼らには関係のない出来事である。シャルナークはこの場をフランクリンにゆだねると決めた後、暗闇の中へと駆け込んだ。
暴風の中にアルベルトはいた。エリスの発する害意ある渦に、真横から殴られるかのように吹かれていた。裸の上半身にオーラが痛い。いるだけで体力が消耗していく。翡翠の首飾りが飛ばないように、既にポケットにしまっていた。彼女は、十歩も離れぬ位置にいた。
エリスは空を飛ばなかった。遠距離から光を放てば勝てるであろう。アルベルトを殺すこともできたであろう。しかし、彼女は頑迷にその選択肢を無視し続け、先ほどからずっと、接近して取り押さえることに固執している。
「まだ続けるのかい?」
「……ええ」
赤い翼を輝かせて、彼女は右手を持ち上げた。次の瞬間、あからさまに牽制の光線が薙いだ。彼が避けたタイミングにあわせて、エリスは猛然と突っ込んでくる。莫大なオーラに物を言わせ、素人に毛の生えた程度の武の心得を絶大に強化し、破壊の権化となって拳を振るった。踏みしめたコンクリートが砂塵に帰り、ただの右ストレートが音速を超える。もしもそれをガードしたら、アルベルトは全身が吹き飛ぶだろう。
故に、容易い。
彼の先読みは正確だった。感じ取ったとおりの動きでもって、感じ取ったとおりの誤差の範囲で、彼女の動きがずらされる。肘、肩、腰、の三点を支柱にして、与える刺激は最小限に、軌道の変更は最大限に。
結果、屋上のヘリポートに大穴があき、粉塵が盛大に吹き上がった。
「こっ、のぉ!」
彼女は果敢に立ち上がった。ドレスと髪に粉がかかり、白く汚れてしまっている。しかし、傷はない。頭からコンクリートに突っ込みながら、体のどこにも外傷はなかった。
「無理だよ。君の体術では僕に勝てない」
何度目だろう。アルベルトは飽きるほど繰り返した言葉を再び告げる。エリスはしばらく無言だった。数秒ほど考えるように沈黙してから、翼を一度羽ばたかせて、感情に染まった瞳で応えた。
「分かってるわ。でも、アルベルトをどうしても止めたいから」
「そうか。なら、仕方ないね」
彼は靴音を響かせて、荒れ狂う害意の中を無造作に進み歩いていく。その顔は完全な無表情で、声色は冷涼と澄み切っていた。体躯から漏れるオーラの量こそ乏しいが、目には透明な力があった。
「少し痛くするよ」
それは断罪の宣言だった。純粋な身体能力のみを使って、アルベルトはエリスの至近に踏み込んだ。速くはない。が、相手の呼吸の間隙に潜る、意識の虚をつく拍子だった。故に、迎撃される心配もなく、彼女の認識は致命的に遅れた。
エリスは驚いて後ろへ跳んだ。空中で翼を羽ばたかせ、空気を打って更に離れる。が、アルベルトは倒れるようにふらりと動いて、次の瞬間、彼は彼女の頭上にいた。オーラの暴風を利用して、自らの体を打ち上げたのだ。
「エリス」
落下しながらアルベルトは囁く。勝敗は既に確定していた。もとより、殺そうとする意志がない限り、彼女に勝てる可能性など、万に一つもなかったのだ。
原因はいくつも挙げられる。体調の不良をおしての参戦。内に秘める泥濘を押さえるため、心身ともに力みながらの格闘戦。個々の動作は高速でも、所詮は運動神経に司られた全体の動き。常識に縛られた戦術の範疇。師を同じくし、教えは浅く、手の内は全て把握している。幼少より幾度も手合わせして、癖も尽く知っている。そしてなにより、なまじ力に溢れるが故、彼と接近する要所要所で、殺したくないという思いが致命的に動きを鈍らせれば……。
これだけ要素が揃ったならば、最初の刹那で全てが読める。
「一緒に落ちよう」
背後に回ってアルベルトは言った。軽く触れるだけで体勢を崩して、更に体軸を揺るがせて、跳躍を墜落へ狂わせた。肩を、腕を、腰を、かつて愛した細い体を、彼は空中で拘束する。皮グローブ越しの体温は、彼の行動を止めなかった。背中の翼に打たれないよう、たったそれだけに気をつけていた。そしてそのまま、着地の瞬間にタイミングを合わせて、コンクリートの表面に正確無比に叩き付けた。骨の折れる手ごたえが確かにあった。
轟音と振動があたりを揺るがす。赤い羽根が無数に舞った。後ろへ跳んで離脱する時、アルベルトはエリスと目が合った。悲鳴も上げず罵倒もせずに、何も言わずに見つめていた。
また一つ、屋上にクレーターが形成された。エリスは未だに立ち上がらない。破片と粉塵の舞い上がる場所を、彼は無言で見つめていた。彼女が生きていることを知りながら、何一つとして声を掛けず、アルベルトはじっと見つめていた。果たして、やがて閃光で周囲を吹き飛ばして現れたエリスは、背中を丸め、右手をだらんと下げていた。しかし、それもすぐに復元される。
「纏も使わず、自然なオーラの恩恵だけで、三箇所の骨折が一呼吸で治るか。だいぶ外れてしまったね」
機械的な調子で彼は評した。エリスが激昂した徴候は見当たらない。アルベルトはそれを、ほんの少しだけ残念に思った。
「そろそろ、どうして戦いたいと思ったのか、聞いてもいいかな」
彼はようやく切り出した。
「それとも、まだ、殴り合いが足りないかい?」
あまり間を置かずにそう続け、アルベルトは右手を軽く掲げて鉤爪を模した。それは臆病な態度だった。エリスは蒼白な顔色で、乾いた唇を震わせた。
「あなたが、一生懸命目指したなら、たとえ結果は失敗でも、わたしはそれでよかったの」
臨戦態勢を崩さずに、赤い翼を広げたまま、エリスは低い声で語りだした。
「負けた結果は悔しくても、独断するあなたは憎くても、二人一緒に破滅するなら、地獄すら喜びに感じると、……そう、思ってた。後顧の憂いがなくなるのなら、別れ話だって切り出せた! 見捨ててくれても喜んだでしょうね。わたしという重荷が消えることで、アルベルトが自由に戻れるなら、それだけで充分幸せだから。でも、あなたは!」
堰を切ったように涙が流れる。顔をくしゃくしゃに歪めながら、彼女は嗚咽交じりにアルベルトに叫んだ。オーラの圧力が強くなった。
「辛かったんでしょう! やりがいなんてなかったんでしょう! 何一つ、楽しいことなんてなかったんでしょう! いつも帰ってきては話してくれた、いままでの潜入の仕事とは何もかも全然違ったんでしょう! 目的のための努力じゃなくて、何もないところで苦しんでたんでしょう! わかるもの! わかってしまったもの! だってあなた、なんで、自分の死を前提に考えてるの?」
アルベルトの体が小さく揺らいだ。彼は額に手を当てて、慮外の台詞を反芻していた。エリスは一転して静かな声で、今にも駆け寄り、抱きしめたいという顔でゆっくりと言った。
「なんで……、そんな結末を思い描いたの? ずっと考えていたんでしょう? それしか救いがなかったんでしょう? あの時のアルベルト、とてもほっとしてたもの!」
実際には、彼にそのようなつもりはなかった、はずだった。しかし、救いを、逃げ道を探したかったのは事実である。理性では戒めておきながら、その実、無意識に逃避することはなかっただろうか。なかったとはいえない、と、無言のまま、そのときのアルベルトは考えた。彼女の思い込みと断じるには、彼の渇望は深すぎた。
「気付いてないんでしょう? あの言葉を口に出してから、あなた、ずっと泣いてるって」
彼は、殴られたような衝撃をうけた。致命的な隙だと知りながら、指先で目元に触れてみる。触って確認した上でほっとした。が、安心してしまったことを苦々しく思った。
「泣いてなんかないよ」
アルベルトは言った。やや語気が荒くなってしまったかもしれないと、口に出した後で後悔した。何か後から付け足そうとしたが、躊躇して、その方が不自然だと考え直して言葉を飲んだ。
「知らないのね、アルベルト。あの女の人も言ってなかった? 涙なんて、人は、そんなものなくても泣けるのよ」
そこには、若干の哀れみもあったかもしれない。だが、彼女の瞳の奥底には、剥き出しにされたある種の純粋な感情があった。憎悪にも近い感情であった。単一の名前をつけることは、今の彼には戸惑われた。
「だったら、わたしはもう黙ってなんていられない。力ずくでも連れて帰って、適切な能力を持つ人を探して、一生絶にしてもらって、無理にでも生き残ってもらうから」
「だめだ、それでは君が救われない」
「どうしてわかってくれないの!」
涙を飛び散らせてエリスは叫んだ。瓦礫が飛び散る。漏れたオーラが衝撃波になって、アルベルトの体にたたらを踏ませた。
「わからなくていいさ。元より、僕は理解しようというつもりもないのかもしれない。そもそも、エリスの言うことは感傷的すぎる。ここで僕が退いたなら、君たちは、内部にろくな伝手もなく旅団を壊滅させるつもりなのかい? 今まで、数多のハンターができなかったのに」
彼女の言に従っては、いつまでも目的は叶わないのだと、アルベルトはどこまでも冷徹な声で切り捨てる。エリスは寂しそうに笑ってから、そうね、と涙交じりの声で頷いた。
「だって、あなたは男で、わたしはどうしょうもなく女だもの」
肯定も否定もできなかった。アルベルトには致命的に経験が足りず、自分の足りない部分に対し、内心で彼女に詫びることしか術がなかった。胸元を握りつぶしたい気分だった。あるいは物語などから拝借した、借り物の言葉であれば返せただろう。しかし、それだけはどうしてもできなかった。
「エリス、聞いてくれ。僕はたぶん、もうすぐ死ぬ」
代わりに彼にできたのは、事実の列挙だけであった。本心を明かすことのみであった。
「このままのペースで消耗したら、明日一杯も無理かもしれない。ここに来る前、少しは回復できたけど、原因を解決しない限り、それだって気休めにしかならないんだ。でもだからこそ、最後に君に言っておきたい。結婚を申し込んだあの言葉、軽率だったと反省している。だからね」
エリスは絶句して固まっていた。もはや、戦闘態勢など跡形もない。だいぶ前から崩れていたが、ここにきて完全に崩壊した。
「早まって、ごめん」
全ての希望が潰えたように、彼女の肩から力が抜けた。翼が力なく地に垂れて、荒れ狂うオーラが鳴動しだす。膝から崩れ落ちてないのが奇跡に見えた。
「本当は黙っているつもりだった。でも、何もかも分からなくなってきたんだ。僕は、まだ、恋愛という概念もろくに理解できてないかもしれない。だけど、その上でこれだけは言っておく。ここでお前に連れ去られても、僕は最後の瞬間まで足掻くだろう。それだけは、誰に頼まれたって譲れない」
「もう、止まれないのね」
子供が泣きじゃくる寸前に似た、歪んだ表情でこらえながら、彼女は、場違いなほど優しい声で静かに言った。
「そういえば、約束してたっけ。その時がきたら、あなたをお兄ちゃんって呼んであげるって。……呼んであげましょうか? なんだってするわ。もし、これが最後になるかもしれないのなら。それしかわたしにできないのなら」
それこそ、彼女なりの諦めの言葉だと、このときのアルベルトは、いつになく明敏に察知していた。
彼はそんな些事よりも、生きてくれと、エリスに対して願おうとした。兄としての想いかもしれないと彼は思った。しかし、それでもいいと考えたのだ。どんな形でも生きてほしいと、心の底から欲していた。例え彼女を傷つけようとも、時間さえあれば解決もしよう。恋破れても問題はあるまい。なにしろ、この世界に男は彼だけではない。それは理論的な正答だった。
だが、このとき、その願いは形にならずに消失した。
アルベルトは何故か言えなかった。喉を震わせることができなくなった。何度も口に出そうとして、そのたびにつかえて沈黙した。エリスはずっと眺めていた。彼に心を委ねて待っていた。今の彼女は、いかなることでも受け入れただろう。それでも、できなかった。
どれほどの時間そうしていたか。あるいは、現実には数分もなかったかもしれない。が、それだけの隙は、乱入者が現れるには充分すぎた。夢中になりすぎて気付くのが遅れたと、アルベルトが後悔した時には遅かった。
ビルの壁面を駆け抜けてヒソカが跳んだ。圧倒的な脚力で、夜の空へと高く舞った。その肩に、さらに跳躍しようというコルトピがいる。彼はヒソカの掌へと飛び移り、腕力の助けと相乗して、更なる高さへ跳躍した。小さな体が、吸い込まれるように天空へ昇る。
右手は天へ、左手は地へ。
——そして、神の左手が、世界に触れた。
コルトピの念能力が発動する。空間を、大気を、その先を、一つの物体として手中に収め、悪魔の右手が複製する。低く重い音が響いた。空気が弾かれる音だった。通常の具現化過程では、音として認識もされない類の振動である。
アルベルトは空を仰いで震撼した。エリスは言葉なく見つめている。上空に、さかしまのセメタリービルが浮いていた。超高層ビルの壮大な威容が、屋上を下に、地階を上に、九月の夜空に出現していた。
それは、自然災害の領域だった。重力に退かれ、音もなく落下が始まった。現象があまりに巨大が故に、見るものに滑稽な笑いさえも与えかねないような光景であった。
ヒソカとコルトピの体が消えた。あらかじめ張っておいたゴムのオーラで、一瞬で離脱していったのだろう。彼も、そして彼女も、このままでは確実に命がない。アルベルトが思い至った丁度その時、エリスのいた場所から光が爆ぜた。
光がヨークシンの夜を切り裂いた。三色のうちのどれでもなく、全てが混じった白光である。月光の如き白亜の銀色。無垢にして終焉の永遠の象徴。背中の赤い翼の付け根から、新しい二対の翼がまさに生えようとしつつあったのである。アルベルトは残されたオーラを気にせずに、全力でファントム・ブラックを具現化した。
アルベルトは駆けた。だが、さらにも増して彼女からオーラが噴き出して、接近は歯軋りするほど遅かった。人類を滅ぼさんと咆哮する濃密な害意が、彼の魂を直接蝕む。体のあちこちで皮膚は裂け、掌の傷口から血液が噴き出し、ドレスグローブの内側から、液体が一気にこぼれ落ちた。
彼は最初の一歩で悟っていた。決して間に合うことはないであろうと。それでも、止まるという考えは皆無だった。
やがて、ふと、暴れていた圧力が唐突に消えた。エリスは右手を空に掲げて、アルベルトに向かって微笑んでいた。背中には一対の赤い翼。そして、右手から赤い光が漏れ出した。彼女は奥歯を食いしばり、無慈悲に落ちるビルを睨んだ。アルベルトはまだ間に合わない。それなのに、なにをするつもりか理解してしまった。
無茶に無茶を重ねた光の指向。能力が本質的に苦手としている、定められた方向への光の収束。大出力の限定解放。それを、彼女はこの一瞬で成し遂げようとしているのだ。右腕を覆う手袋が裂け、肉が爆ぜ、傷口からいくつもの小さな赤い翼が生えてきた。恐らくは、暴走による奇形的な能力の発現だろう。なにもかも彼女の限界を超えている。例えこの瞬間を乗り越えても、この後、いかなる事態に陥るのか。
具現化した翼が一斉に輝く。アルベルトは届かないと知りつつ手を伸ばした。
最後に、彼女の唇が動いたのが見えた。
さよなら、と、エリスは確かに言い残した。
##################################################
【路上の霊魂(ピー・ビー) 放出系・操作系】
使用者、ポンズ。
自動操縦型の念弾。
無意識にプログラムされた疑似本能にのみ従って動作する。
そのため、発動も行動も能力者本人の操作は一切受け付けない。
もはや寄生に近いトラウマの投影そのものである。
##################################################
次回 第三十三話「終わってしまった舞台の中で」