薄暗い路地裏の奥深く、ある建物の半地下倉庫へ続く階段に、ビリーは憂鬱そうに佇んでいた。キャップを目深にかぶり、ズボンのポケットに手を突っ込み、俯いて壁に寄りかかっている。ややボサボサになった銀色の髪を、紐で無造作に縛っていた。赤褐色の目はどんよりとしていて、何もない暗がりを飽きもせずに睨んでいた。
カビ臭く湿った場所だった。壁は煉瓦で、段差はタイルで造られており、倉庫への入り口は脂で真っ黒に汚れた木製の扉が固く閉ざしていた。いくつかの樽が積まれていたが、中身は空のようだった。
「あんたが悪たれのビリーか。背、低いな」
面倒くさそうにビリーは見上げた。階段の上には、いかにもストリートを治めているという風体の十二、三ぐらいの少年が、手下らしき子供たちを連れて仁王立ちしていた。顔にはにきびが多く目立ち、真っ赤な髪の毛は縮れていた。彼女はポケットに手を突っ込んだまま、陰気そうに片頬で笑って見せた。
「困るんだよなぁ、分かるだろ。この街でオレを通さずガキどもを動かしてもらっちゃさぁ」
ニヤニヤと少年は降りてくる。彼が示した右手の上には、何枚かの五十ジェニー硬貨が乗せられていた。思ったより早く釣れたなと、ビリーはキャップの日除けの奥で考えていた。
「……可哀想に」
それほど同情してはなかったが、儀礼的に彼女は呟いておいた。前金を奪われた子供たちは、頬を腫らした程度で済んだだろうか。あるいはよくある程度にリンチされたか。どちらでも、余人が口を挟むような道理はない。悪いのは要領が悪かった当人なのだ。それがここでの公平さだった。昨日までずっとそうだった。明日からもずっとだろう。もしも、今日だけ他所のルールを押し付けるなら、それは傲慢と呼ばれる行為である。
「よその街で鳴らしたそうだが、ここじゃオレの顔を立ててくれよ、な?」
抱きつくような距離まで近づいてきて、赤毛の少年はいやらしく笑った。体をワザと斜めにかがめ、下から覗くように見上げてくる。あと少しでキスさえできそうだった。息が臭い。体が汚い。ドブ川のように濁った目。全て、少女は嫌というほど慣れていた。
「聞こえてるぅ? 小さい兄ちゃん、ビビッちゃったぁ?」
無言のビリーに肩をすくめて、少年は馴れ馴れしく肩を組んできた。それから得意げに地上を見上げ、それを見た取り巻きからキャハハと甲高い笑いが上がった。階段の壁で反響し、鼠の鳴き声のように波立って聞こえる。
自分の優位を確信して、少年はビリーのズボンのポケットを探ろうとしてきた。探しているのは財布だろう。他の街では、最初に殴っておくのがセオリーだったが、ここの流儀は違うのだろうか。それとも、ビリーのばら撒きが過ぎたために、欲が先立ってしまったのだろうか。どちらでもいいが、鬱陶しかった。
「触るんじゃねぇよ」
纏でオーラを留めた体のまま、ビリーは赤毛の少年を軽く押した。予想しなかったであろう強い力に、彼の体がぐらりと揺れて尻餅をつく。しばし呆然と見上げていたが、そこは流石にこのあたりの頭だ。すぐに考えを切り替えて、立ち上がりながら右手でさっと合図を送った。取り巻きのうちから何人か、側近らしき少年たちが駆け下りてくる。残りは階段の出入り口に壁を作り、逃げられないように封鎖した。リーダー直属というだけのことはあるのだろう。指示も早ければ手際もいい。相手が普通のチンピラ程度なら、軽くあしらうことができるぐらいに。
「……さて、どうしようかな」
「あぁ! なんだってぇ?」
赤毛の少年が荒々しくがなった。唾が何滴か飛んでくる。そんな暴力的な態度さえも、今ではどこか可愛らしく感じた。反則技で一方的に優位にいるので、少なくとも喧嘩の範疇なら、ビリーに負けはないためだった。これがなければ、彼女は三秒で完敗できるが。
「殴り合いは一番早いんだけど、ね」
ただし、加減は意外に難しかった。脅しが強すぎると彼らは逃げる。蜘蛛の子を散らすように一目散に。かといって、ささやかすぎればその場限りの効果しかなく、別れて十分もしないうちに刻み込んだ上下関係を忘れるだろう。時間を掛ければなんとかなるが、ところがその時、彼女は一昨日の早朝の出来事を思い出した。たった二日しか経ってないのに、もうずいぶんと懐かしく感じるその記憶。ビリーは少年たちの様子を眺め、古樽を見、気だるい調子でそっけなく告げた。
「じゃぁさ、腕相撲をしようぜ。オレに勝った奴に全財産やるよ」
突然提案された勝負事に、少年たちは色めき立った。最初にリーダーが鼻息も荒く挑みかかって、十秒後に愕然としながら敗北した。それから何人も何人も相手にし、全員三戦は回った頃には、ビリーはヒーローになっていた。
「すげぇな! アンタすげーよ、一番だよ!」
ストリートの少年たちは歓声を上げ、彼女の周囲にまとわりついた。憧れのスターを取り囲むように、彼らはビリーを称えあう。キャップを脱いで彼女は言った。
「悪いけど、頼まれてほしいことがあるんだ」
何だってする! 言ってくれ! そんなコールが合唱される。ビリーはポケットから百ジェニー硬貨を何枚も出して、赤毛のリーダーに手渡した。そして、全ての少年に聞こえるように言った。
「オレが欲しいのは情報だ。この街に余所者が入り込んで、大きな顔してるのは知ってるだろう? 昨日までマフィアの連中が探していた」
「死んだんだろう! 知ってるぜ!」
ビリーは重々しく頷いた。既に噂は広まっていた。全員分ではないものの死体が見つかり、電脳ページ上で晒し者にされたと。が、ビリーはそれを信じてない。ヒソカとかいう男がゴンたちに話しているのを聞いていたのだ。物体を複製できる能力者が、流星街の出身者を選び、肉体を偽造して放置したと。そちらのほうがよほど信憑性があった。マフィアの銃撃程度で死ぬ連中なら、軍隊を相手にした時点で死んでないとおかしい。なにより、彼女は信じたくはなかったのだ。仇は自分の手で取りたかった。
「そいつは嘘だ。他のエリアの連中にも声を掛けてる。金はたっぷり持ってるけど、競争だぜ」
「でもよ、懸賞金もなくなったんだろ」
赤毛の少年が尋ねてきた。さすが頭、とビリーは感心して頷いた。電脳端末にもさわれないのに、耳が早くて正確だった。競売の都市では情報こそ最も貴重な商品である。公開非公開を問わずして、諸々のニュースが囁き合われる。そのような環境で暮らすからか、彼らの情報意識は驚くほど高いようだった。
「問題ねぇ。オレが探してる理由は別口だからよ。ああ、それと、一番上手くやったチームにはご褒美に、サッカーボールを買ってやるって約束なんだぜ。ピッカピカの新品をさ」
少年たちがはしゃぎまわった。リーダーも隠そうと努力しているようだったが、頬が緩んでくるのが押さえきれない。皆が皆、走り出したくてたまらなそうだ。ビリーは彼ら一同に簡単な説明を済ませてから、思うがままに街に散らせた。
空は暗く陽はかげり、だんだんと灰色の雲が増えてきた。夏を終えた街路樹が、移ろう季節に向けて準備をしている。パンの耳からこぼれた欠片を、土鳩たちが摘んでいた。遅めの昼食をとった後、ビリーは髪を櫛で整えて、一人で繁華街へと歩いていった。陰気な顔をしすぎたせいか、眉間の筋肉がこっている。
今から宿に帰ったなら、誰か残っているだろうか。あの人を殺す機会はあるだろうか。そんな事を考えながら、彼女は人込みの中を進んでいく。
「分かってるのよ。悪いのは私たち二人の方だって。だって、犯罪者だったんですもの。それも、平然と殺人を犯す凶悪犯。でも、でもね」
口の中だけで独語する。あの男への想いは未だに消えない。それどころか、日増しに深まるばかりだった。顔を忘れてしまうのがひたすら怖くて、思い出すたびに泣いてしまいそうになりながら、脳裏で声を反芻した。忘れるべきだと考えるたびに、忘れられないことを思い知った。体が熱く、涙腺が緩く、胸が苦しくなっていった。
「なのに、なんで……」
憎悪を糧に、錆び付いた心を動かしてきた。この街で思わぬ幸運を得て、復讐の対象にめぐり合えた。そして、絶好の機会が訪れたのに、昨夜の彼女は諦めてしまった。自分の無力が悔しかった。
知っていたくせに。いかにヒソカという男が強くても、旅団も同じぐらい強いのだと。
あれだけのチャンスで引き下がってしまうなら、どう足掻いても成就などできまい。愛した男の未練を晴らせず、無機質な眼光をこの世から消せない。しかし、彼女の戦力は脆弱すぎた。あの場で我を張って粘ってたら、きっと無駄死にしていただろう。
そして、もう一つだけ懸念があった。目の前で彼を殺したら、あの女性はとても悲しむだろう。ほとんど会話はなかったけれど、一緒に戦い、あの人を殺さないでいてくれた人。少女のことを、憶えていてくれた人。
「それは……、ちょっと、胸が痛いな」
それでも、あの男の末期の想いを叶えないと、いや、そういう目的を設定しないと、少女は生きていけないのだ。もう、一人はあまりに寂しすぎた。煙草の香りが恋しかった。死んで想い人に会えるなら、彼女はためらいもしなかった。
もしも、このまま何もできなかったら、この世から消えてしまいたかった。
瓦礫の山のあちこちから、灰色の細い煙が立ち昇り、風に流されて消えていく。崩れた廃墟群は焼け爛れ、秋空の下、黒ずんだ姿を転がしていた。
放棄された区画をクラピカは歩く。人々の気配は感じられない。小石が未だに暖かく、炭素と化した木材の欠片が、体重に負けて砕け散った。遠くでスクワラが口笛を吹いた。彼の周りに犬が集まり、次の指示を受けて散っていった。風が冷たくなってきた。
「あっちも無人ね。心音の一つも聞こえなかったわ」
いつの間にか近寄っていたセンリツが言った。灰色になってしまった光景を見つめながら、クラピカは、彼女の言葉に頷いた。
「ここからはヨークシン市街がよく見える。どんな気持ちだったのだろうな、奴らは」
スクワラがレオリオと連れ立って、犬たちを従えて戻ってくる。手掛かりは見つからなかった様子であるが、その点はクラピカもセンリツも同じであり、今更失意は抱いていない。
「そうね、あたしなら、新しい曲でも浮かびそうだけど」
ピアノが欲しくなるわねとセンリツは言って、片目をつむって柔和に笑った。クラピカも同じように笑い返して、向こうから歩いてくる二人を待つ。昨夜、生死の境をさまよってから、不思議と焦りが消えていた。
略奪品が傷つくことを恐れたのか、旅団は拠点をどこかに移していた。街に溶け込んでいるのだろうか。あるいは荒野に潜んでいるのか。現段階では未だに分からない。
いささか、確認が慎重すぎたかもしれないな、と、クラピカは冷静に反省していた。総戦力では劣るとはいえ、一対一で負ける心配はしてなかった。毒という搦め手では不覚を取ったが、何度も同じ手を食らうつもりもなかった。
しかし、慎重でもいいと思い直した。彼らを失うよりはずっと良かった。
「次はどうするんだ」
目の前まで来てスクワラが尋ねた。クラピカはその問いかけに頷いて、自分の考えを述べ始めた。
「私なりに旅団の動機を推測してみたが、奴らの動きは、差し迫った窮地が現れない限り、明らかに競売品の強奪に偏っている。それ以外の目的に、裏切り者の抹殺ととある女性の始末が考えられるが、どちらも全力の対応をしているとは思えない。裏切り者への報復にこだわるなら、この場所に待ち伏せ要員を置いても不思議ではないのだからな」
先刻まで彼らの最大の懸念だった事柄を挙げると、三人は同時に頷いた。
「とりわけ、レオリオから又聞きしたゴンたちの証言によるならば、彼女は明らかに優先順位が低いのだろう。いや、歯牙にもかけられていないというべきか。邪魔になれば対処する。個々の団員の心情はともかく、旅団全体としてはその程度の方針なのだろうな」
エリスについて必要以上の情報を洩らさないよう、ある程度ぼかしてクラピカは話した。この場にいたのがレオリオだけなら、もう少し踏み込んでもよかったのだが。
「これまでの行動から考えるに、恐らく旅団という組織の戦闘指針は、基本的に自衛を旨としているはずだ。ブラックリストハンターたちへの対処でも、自分たち自身をおとりにし、襲い掛かった者達を返り討ちにしていた。だからこその蜘蛛なのだろうな。罠を張り、ただ、眼前の行為のみを排除する。奴らは、他者からの感情に恐ろしく無頓着で独善的だ。盗みに入る際の殺戮など、戦闘とすら認識していまい」
個人的な心情の違いはあるかもしれないが、具体的で信憑性のある脅威が示されない限り、組織として能動的に攻撃はしないと、クラピカは手を固く握り締めながら平坦に語った。焦燥が消えても、憎悪は欠片も減っていない。センリツが彼の手を悲しそうに眺めた。
「すなわち、個人の団員の趣味としてはともかく、裏切り者二名を組織だって探す可能性は低い。であれば蜘蛛の目的は、後一日分の競売品に絞られる。今夜の競売がどうなるのか、恐らくはまだ上層部の決定さえされてないのだろうが、開催か、延期か、あるいは中止とされるのか、旅団が着目しているのはそこだろう」
スクワラとセンリツが同意した。コミュニティーからの通達はリンセンが逐一連絡してくる手はずだったが、地下競売についての沙汰はなかった。だが、今の時間になっても決まらないなら、開催は至極難しいと言えた。
「以上が私の考えだ。群盲、象を評すに近しいが」
個別の証拠から全体像を割り出すのは難しい。象という正答を知らなければ、ある者はごつごつした手触りの岩であると、他の者は巨大な化石だと、あるいは凄まじい大蛇だと叫ぶだろう。それらは全て一理あるのだ。たとえ九十九パーセント正確な分析ができたとしても、わずかに視点をずらすだけで、別の九十九パーセント確からしい推測ができる。だからこそ、別の経路から結論の欠片を入手できるとありがたい。分析材料の入手ではなく、数多くある分析の方向性の決定。通常、スパイの最大の役割はそこにあるといわれている。クラピカは、今更ながらアルベルトのいた立場が少し羨ましくなった。そう感じた自分に殺意を抱いた。思い浮かんだだけとはいえど、あまりに卑劣だと考えたのだ。
「じゃあよ、旅団はどこかに隠れてマフィアの決定を待ってるって事か?」
レオリオがしてきた確認に、クラピカは表層だけは平静に頷いた。センリツが耳を帽子で隠し、スクワラの犬たちが半歩下がった。あえて普段どおりに接してくれる一人の男に、彼は感謝の念を抱いていた。
「ああ、私はそうだと考えている」
「ならよ」
レオリオは街を眺めていた。雨雲の下、薄暗くなり始めたヨークシンでは、ヘッドライトを点灯させる車が増え始めている。その光線がこちらまで届き、時折、きらめくように輝くのだ。
「市街地と荒野、どっちだと思う?」
クラピカは俯いて考えに沈んだ。街に近ければ拠点が得やすくアクセスにも勝り、荒野にいれば隠密性が高く思う存分暴れられる。双方にメリットは存在したが、彼にはもう一つ懸念があった。
「どちらにせよ、網を張るなら街中だろう」
今にも雨が降りそうな空の下で、彼は静かに決断した。彼らのチームは、荒野での探索に力を発揮できる布陣ではない。スクワラの犬、センリツの聴覚、どちらも人々の営みに紛れ込める場所で最大の効果を期待できる。故に、受身の姿勢で待ち受けると決めた。それは一つの賭けであった。
繁華街を抜け、裏道に入り、少女は奥へと進んでいった。子供の肩幅ぐらいしかないコンクリートの谷間を抜けていく。途中、いくつもの腐乱死体をまたぎながら、彼女は躊躇もせずに歩いていた。
汚い風俗店が密集している地域の更に裏側、少年たちから聞き出した、ヨークシン最悪の無法地帯がここであった。公園で生活するのとは訳が違う。路上でスリを働く程度可愛いものだ。ここは、終わりきった人間たちの住む墓場であった。ストリートチルドレンも立ち入らない、マフィアすら見捨てた都会の姥捨て。ごく狭い地域でありながら、素人が迷い込めば五分もせず行方不明になるという。
少女は衣服を身に着けていない。透明なレインコートだけを一枚羽織り、靴もはかず、キャップもつけず、髪も結ばずに歩いていた。淡い褐色のうなじの上に、銀色の髪がさらさらと流れた。数十秒後、彼女の後頭部を鉄パイプが襲った。問答無用のフルスイングで、渾身の力を込めて振りぬかれた。少女は倒れながら後ろに目をやる。犯人は裸の上半身を晒している、肋骨の浮き出た痩せ男だった。
受身も取れず、少女は路面に衝突した。悲鳴さえも上がらない。そんな彼女を仰向けにし、男は焦った手つきでジーパンを脱ぎ、逸物を取り出してレインコートをめくった。そしてそれをあてがって、口の端からよだれを垂らしながら、滑稽なほど激しく腰を振った。一刻も早く終わらせなければ、彼の命はないかのように。その様子を、少女は無垢な瞳で見上げていた。痩せ男に唇を貪られても、抵抗も従属もしないまま、人形のように動かないでいた。
ぽたりと、コンクリートに染みが広がる。
やがて、痩せ男が最初の欲望を彼女の最奥に叩きつけたころ、物音を聞きつけ、ワラワラと男たちが集まってきた。皆、濁った目でのっそりと動いている。集団が彼女を殴った痩せ男に取り付き、持ち上げ、乱闘しながら叫び声を上げる。お互いに噛み付き引っ掻きあって、あっという間に流血沙汰まで発展した。
少女の体は取り合いされ、道具としても真っ当に扱われない。一言の声もあげないまま、彼女は男たちの渦の中にいた。入れられた瞬間に注がれ、あるいはその前に体にかけられる。穴という穴に区別はなく、誰も他人に興味はなかった。何人かは、興奮を抑えられなくなった衝動のままに、手近な男を犯し始めた。それを、彼女は寂しい瞳で眺めていた。
ぽつぽつと雨が降り出した。
ビリーが路地から通りに出た時、赤毛の少年が駆け寄ってきた。探したぜ、と元気よく叫ぶ彼に対して、彼女はキャップの奥で寂しげに笑った。後ろで結わいた銀色の髪は、ほんのわずかに乱れていた。
「朗報かい?」
「ああ、やっと見つけたぜ! こいつぁ確かな情報だ!」
そのまま二人は通りを歩き、手ごろな小道へと折れていった。ストリートの少年たちが掘り出したのは、今朝方早く、まだ日も明ける前に起こった出来事だった。よくもまあ聞き出すことができたものだ、とビリーは感心して続きを促す。
「荒野を貫くハイウェイを、徒歩でだぜ! まだ暗い時間だってのに、九人もずらずらとまとまって! しかも、それがまた変な格好の奴らだったってんだからさ!」
情報をまとめるとこうだった。大陸内部に向けてヨークシン市街から伸びる長距離道路。そこへ向かって、日の出前に歩く異形たちを見た人物がいたらしい。先頭の男は大きなファーの目立つ黒いコートで、右手は書物をずっと開いていたそうだ。その他、各人の特徴も全て手配写真のものと同一だった。少年たちに渡してないはずの情報までも一致しており、報酬欲しさに嘘をついているにしては出来すぎていた。
当たりを引いた、とビリーは思った。彼らは今、荒野にいると見て間違いない。それも、ハイウェイの道筋から大体の方向までもが推測できる。あとはただ、物量に任せて探せばいい。
「どうだ! 俺らが一番か? なあ、そうだろ!」
「もちろんさ! ここから一番近いスポーツショップに連れてってくれよ!」
赤毛の少年は跳び上がった。後をつけてたらしい子分たちも、隠れるのを忘れて踊っている。勢いのまま、彼らは一群となって店へ向かった。雨の中、傘も差さず路上でお祭り騒ぎをする少年たちに、すれ違う人々が何事かと見た。
らっしゃい、と禿げ頭で太鼓腹の店主が言った。しかし、彼は店に入ってきたストリートチルドレンの集団を見て、露骨に顔をしかめて警戒した。磨いていたゴルフクラブを片手に強く握り締める。ただそれも、ビリーが財布を取り出し中身をさりげなく見せたことで安堵へ変わった。
「坊主、なにが欲しいんだい?」
サッカーボール! と彼女の後ろで合唱が起きる。店主はビリーに視線で尋ね、頷きを確認して笑顔で応えた。子供たちがはしゃぎまわった。一番いいやつね、と少女は小声で付け足した。禿げた中年男のウインクは、それはそれは似合わなかった。包装さえも我慢できずに、傷一つないボールを囲んで、子分たちは店の外へと駆け出していった。ビリーと赤毛のリーダーは、苦笑してその後に続いていった。
「本当にありがとうね、これ、残りの分の報酬よ」
「へへ、どういたしまして」
鼻の下をこすって彼は照れるが、手渡されたものを見て固まった。そこにあったのは財布であった。何枚もの札が丁寧に折りたたまれて入っており、中には一万ジェニー札でさえ数枚といえど見受けられる。ビリーは狼狽するリーダーを見て、全部あげると気軽に言った。
閨事を除いて、彼女は特別な職能をもっていない。しかし念能力さえあったなら、この程度の収入は子供でも容易い。むしろささやかすぎる方であった。まして、少女は一万ジェニーあれば一家が一ヶ月は食べていける界隈の、とりわけ抑圧された環境の出身である。我慢も節制も身についていて、貯蓄に全く苦労はなかった。
「あ……、お前、これっ!」
「あなた達の正当な報酬よ。それだけの働きはしてくれたわ」
むしろ少なすぎるかもしれないと、ゆっくり歩きながらビリーは言った。キャップを取り、髪の毛をほどいて彼女は微笑む。赤褐色の目が少年と合った。
「アンタ……、まさか、女?」
「あら、今更なの?」
少女は悪戯っぽく微笑をこぼした。呆然と彼は立ちすくんだ。合わせて彼女も立ち止まった。彼らは公園へと差し掛かっていた。暗い雨雲に覆われて、雨中の街は薄暗かった。ビリーの足元が揺れ動いていたが、赤毛の少年は気付いていない。
「さあ、もう寝床に帰ってしまいなさい。これから先は、お化けがでるような時間だから」
少女は笑って手を広げた。その時、緑地の暗い木陰から、花壇の中から、ベンチの下から、這いずりいずる物体があった。それはテニスボール大の水塊で、どう見ても生物には見ないのに、意志をもつかのように蠢いていた。彼女は愛しげに目を細めた。
「いいこと? 決して、安全な場所から出てはダメよ」
まるで、何かをたっぷり食べてきたように、水塊たちは満足げに震えてゆっくりと近寄る。赤毛の少年が狼狽して、よろよろと何歩か後退した。ほんの軽く押しただけで、容易く尻餅をついたであろう。彼女はじゃれてくるスライム達をあやしながら、懐かしいあの日を思い起こした。それは、最後に抱かれた夜の記憶。忘れられなくなるように、体に刻んでもらった大切な思い出。
記憶を代償に水塊が猛り、少女の頬を、一筋の涙が流れ落ちた。
「おい! アンタ!」
「まだいたの、あなた。帰りなさいと言ったでしょう」
「いやだ! アンタが何かも知らねぇが、オレも一緒について行くぜ!」
ところが、少年は意地を張り続けた。ビリーは驚いて目を見開く。そしてつい、彼女は彼に名前を尋ねた。
「ヘンリ、あいにく苗字は覚えてねぇ」
「マカーティよ」
「へ?」
ビリーは思わず即答した。言葉にしてからしまったと後悔はしたのだが、時既に遅く、彼女は勢いのままに最後まで口にしてしまうことにした。心中で、愛しい誰かに謝りながら。
「あなたの姓は、マカーティ。ヘンリという名前の男の子には、マカーティ以上に似合う姓はないの。憶えた?」
「お、おぅ……」
「よかった」
にっこりと微笑み、彼女は細い腕を一度振った。直後、背後に現れた人影が、少年の後頭部を打って気絶させた。彼の体がぐらりと揺れて、力なく地面に崩れ落ちた。
そこにいたのは彼女自身だ。透きとおった水の長い髪。水のワンピースが透明に揺れ、水の肢体の細さが輝く。それは一体の水塊であった。横で、背後で、新たに四ヶ所でスライム達が凝集し、新しい少女が生まれてくる。計、五体。全て、かつての彼女の姿をしていた。
「さよなら、馬鹿な男の子」
言い捨てて、ビリーは少年の体にキャップを乗せた。それから、いつの間にか遠巻きに見ていた彼の配下の少年たちに、持って帰るよう身振りで指示した。
「行きましょう」
スライムの少女達が頷いた。彼女の下に、残りの水塊が集ってくる。スケボーのように彼らに乗って、ビリーは雨の降る街を疾走した。
ポックルの命は尽きようとしていた。残された右手で泥を掴み、這いずるように痛みに耐える。頭を覆うターバンが重い。腹からこぼれる内臓が冷たい。彼の体に下半身はなかった。横隔膜のやや下あたり、しばらく生存できるギリギリの位置を見極められて、上下に分断されていたのである。右腕が残ったのも偶然だった。左は、肘から下が消失している。全身から脂汗を流しながら、彼は、雨中の荒野に転がっていた。
横一文字に走った閃光は、頭で知った後でさえ斬撃と解することができなかった。それを成し遂げた着流しの魔人は、自然体そのままの風情で顎鬚を撫でて見下ろしている。
「もう一人いるんだろ。吐いとけ」
手の平を日本刀で貫かれて、新しい激痛が彼に走る。しかしその時、ポックルの胸中を占めたのは絶望ではなく、ほっとする暖かい安心だった。その時ようやく、離れた位置にいたハンゾーが、うまく逃げていたことを知ったのだ。彼にとって、それは唯一の朗報だった。
旅団の隠れ家は見つけ出した。広大な荒野に人口過密の大都市という二つ隣接した困難な舞台で、目撃情報の一つもないまま、ポックルは己がハントの腕前だけで探したのだ。たとえハンゾーの移動力という手助けがあっても、紛れもなく彼の誇れる勝ち星だった。あとは、あの忍者が仲間の元に届けてくれれば、あるいは悔しいがヒソカなどに伝えてくれれば、この世に残す未練はなかった。
雨で薄められた血溜まりの中、ポックルは微笑を浮かべて冷えていった。
「その必要はないぜ。岩陰に潜んでいやがった」
どさりと、隣に重い物が落とされるまでは。
「おうフィンクス、マチ」
「そいつで仕舞いだろ。他に人らしい振動もなかったしね」
ぼやけた目で見る黒い体は、些細な痙攣さえもしてなかった。胸に大穴が開いていて、じくじくと血液が滲んでくる。ポックルはどうしようもなく悟ってしまった。もう、彼は息絶えているのだと。それでも、ポックルはあまりに信じられず、思わず全霊で凝視した。残されたオーラが目に集まり、自然と、凝を行なった状態になる。
「なんだ、これ……」
彼は呆然と呟いた。岩という岩に繊維が走り、荒野の地面が、かすかな光を放っていた。高度な隠の施された極細の糸。全力の凝を行なって辛うじて見える、壮大すぎる蜘蛛の巣の罠。恐らく、ここからキロ単位の半径で、世界を覆うが如く張り巡らされているのだろう。
「振動ねぇ。まあ、こういう時には便利だよなぁ」
フィンクスと呼ばれた男がしみじみと頷き、マチという女が腰に手を当ててなんでもなく言った。
「ま、あたしの糸は木綿程度なら世界一周できるぐらい紡げるし。これくらいなら余裕だよ」
そこに、着流しの男が茶々を入れた。
「でもオメーよ、実際にやってみた訳じゃねーんだろ、ソレ」
「うるさい男だね、アンタは」
そうして彼らは去っていく。意識が遠くなっていくポックルは、完全に眼中にないのだろう。右手で逃げるように遠ざかっても、誰一人振り向くことすらしなかった。
「役に立ってね」
雨に打たれて少女は言った。泥にまみれた荒野の中で、上半身だけの男を抱き上げて、辛うじて命があることを確認してから。
「私の一番大切な思い出を、あなたのために使うのだから」
だから、あと十年は一緒にいろと、少女の脳裏に染み付いた声が言った。喪失感で泣きたくなったが、彼女はそれを飲み込んだ。唇をポックルに押し付けて、小さなスライムを嚥下させる。直後、彼の体の切断面から、ぽこぽこと雨水が湧いてきた。周囲に集った水塊たちも、そこを目掛けて合体していく。その様子を途中まで確認して、ビリーはすぐそばにあった岩棚を見上げた。風化から取り残された砂岩の山は、地層を晒し、平坦な頂上を保ってこの場所に何十何百とそびえている。彼女はスライムの一群に足を乗せて、そこを登るようにお願いした。
上から周囲を見渡せば、いかにも対空警戒というかのように、遠くの岩棚の頂上に、三人ほどの人影があった。ポックル達は彼らの視線を避けるために、岩陰を縫って進んだのだろう。だが、先刻、少女形スライムが報告してきたそのままに、彼女の目当てはそこにいた。向こうかこちらに気付くよう、彼女はあえて練をした。
「お久しぶり」
ビリーは唇を動かした。あまりに遠く、彼女からは輪郭だけしか見えないが、どうせ相手は、視力も化け物に決まっている。
「忘れたの? 都合のいい頭ね」
反応もわからずに挑発した。少女の形のスライムを、一体だけ隣に呼び寄せる。水溜りから涌き出るように現れたそれを認識した直後、向こうでオーラが爆発した。毛皮を羽織った巨大な野人が、暴走する機関車の如く走り出した。
筋肉の塊の野蛮人。あの時、あの人に瓦礫を投げた憎悪の対象。まず、一人目。
ビリーは岩棚から飛び降りる。スライムが岸壁を削りながら、彼女の体を減速させた。水塊の群れに着地して、少女は再びポックルを見る。時間はない。破砕音は急激に近づいてくる。
「気がついた?」
「……ああ、オレは……?」
「なら急いで。一人来るわよ」
「ああ」
どこか朦朧としながらも、今度は彼もはっきりと応えた。ポックルが纏うオーラは禍々しい。人が本能的に恐れるような、原初の恐怖に染まっている。それを死者の念と呼ぶのだと、ビリーは誰に教えられるでもなく知っていた。
水で補完された左腕に、彼岸のオーラが凝集する。彼の無念が集まって、大気をギチギチと歪ませた。ありもしない弓に矢をつがえる動作をする。腕のスライムが変形し、大きな突起となって上下へ伸びる。瞬く間にそれは大弓となり、水の矢を伴って出現した。
彼はようやく力を掴んだ。空想の弓を掴んだのだ。
絶対的な滅びの気配に、少女の背筋が寒くなった。それでも、ポックルは一心に前を見つめている。満月の如く引き絞って、未だ姿の見えぬ敵へと狙いを合わせた。
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【雨色弓箭(レインボウ) 放出系・操作系・死者の念】
使用者、ポックル。
無念をつがえて水の矢を放つ。
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次回 第三十八話「大丈夫だよ、と彼は言った」