そこから見上げた空は……限りなく狭かった。
代わりに、視界の大半を占めるのは、二百メートル程の高さを持つ崖。二つの崖に挟まれるようにして、わずかな空が『道』のように見えているのだ。だが空が見えているうちは、まだ良いほうである。普段なら大抵、崖のあいだに濃厚な霧がかかっており、それらが太陽の光を遮る。崖の上―――すなわち地上だ。地上の人間が下にいる人間を見つけられないのも、それが原因だろうと考えられる。
「というより、それ以前に誰もここの上を通りかかる事なんてないよね。誰も通らないんだから、誰も私を見つけてくれない……当然だよね」
彼女は寂しげに、独り言を口にした。
この谷に落ちたのが3年前。当時は崖下の川が増水し、溢れ返っていたから死なずに済んだ。
神に―――アペリスに感謝した。
後日―――アペリスを死ぬほど恨んだ。呪ったと言っても良いほどに……。
地上に帰る道など、当然ながら無い。これだけ険しい崖を、ロッククライミングする勇気なども無い。誰が見ても『不可能』という単語にしか辿り着かない。
絶望しているが、生きている以上、自殺するつもりは無いし、まだそこまで絶望していない。
誰にも会えない日が続き、そのためか独り言が自然と増えていった。
「私……いつまで生きられるのかな?」
悲しげに……を通り越し、虚無感すら感じる声で、彼女は呟いた。
いつまで生きられるか―――と言っても、彼女は病気でもなければ大怪我もしていない。健康である。何度も何度も着たり洗濯したりしすぎたせいで薄く透き通る布になってしまった服から見える身体のライン。タンクトップにも似た服から露出した、艶めかしい肩や腕。同じようにスカートから見える脚。そのどれもが健康であり、そして美しい。
そして何より、彼女は美人だった。
肩を越えるくらいの金髪に、晴天を思わせるような蒼い瞳。かなり整った顔立ち。
今の彼女の目は、まだ死んではいない。しかし悲しく、そして悔しさの色を呈したまま、空の道を瞳に映していた。
「……ここから出たい。自由になりたい。あの空の向こうへ飛びたい」
声に出してから、涙が溢れてきた。最後の『空を飛びたい』というのは、この谷から出られないことに絶望したときから、寝ても覚めても妄想し続けてきたことだ。
―――飛べなくてもいい。せめて自由が欲しい。そして誰かの温もりが欲しい。
何千、あるいは何万回もした妄想。
―――分かってる。さんざん外に出る方法は試したのだ。それでもダメだから―――
「あたし……っ、もう……ここから出られない……っ」
彼女はしばらく肩を震わせ、嗚咽を堪えて泣き続けた。
「アペリス―――か。神様は一体、何をしているのかな?」
答えは返って来なかった。
おそらく自分はここで果てるのだろう。
無心論者という言葉があるが、生まれたときから神を信じて生きてきた以上、今さら神を否定はしない。代わりに怨嗟の言葉を吐くだけだ。同時に、自分の身が滅びるときを待つだけだ。
満身創痍のエアードラゴンの上で、同じく満身創痍の青年は辺りを見渡した。
何人もの部下―――いや、仲間たちが死んだが、それでも半数くらいは逃がすことができた。
青年の上に影が落ちた。見上げれば、自分達の『疾風』部隊を全滅させた三人が、自分を見下していた。一人は敵国であるシーハーツで有名なネル・ゼルファー。あとの二人は、アーリグリフに落ちた謎の物体に乗っていた二人の男だ。
(まったく……こいつらには度肝を抜かされる……)
エアー・ドラゴン―――このゲート大陸の生態系ピラミッドで、上から数えて指折りの位置にいる存在だ。……まだまだ『上』の存在もあるかもしれないが、今のところそういった存在は聞いたことは無かった。
とにかく、そんなドラゴンに跨り、空を駆ける飛竜騎士団『疾風』は、老若男女を問わずに憧れる存在だ。その強さもさることながら、人類が幼少の頃から憧れる『人が空を飛べる』という唯一の方法でもあるからだ。
自分が空を飛ぶことに憧れ、一般的な騎士になるまでは『貴族』という肩書きと親の七光りであっさりとなれたが、『疾風』になるには実力と、そしてエアー・ドラゴンと契約するという命がけの儀式が必要だった。
修業をした。
一言で言うなら、それだけの事だ。当然ながら、その苦労は並大抵のものではない。
それらを走馬灯のように思い浮かべながら、彼はエアー・ドラゴンに跨り―――しかし地面に這いつくばりながら、目の前に立つ女を睨み上げた。
その視線を、ネル・ゼルファーは気にした様子も無く、挑発的な口調で言った。
「どうしたんだい? この二人がアンタの言うこと聞かないと、アタシ達3人はここで死ぬことになるんじゃなかったのかい?」
彼女たちと開戦する寸前、跨った竜の上から青年は、彼女達を見下すつもりでそう言った。相手がどれだけ腕に自信があろうとも、所詮(しょせん)は歩兵が3人。それに対してこちらは竜騎士が5人。負けるはずの無い戦いで、思ったよりも早くに敗れたのだ。どうやら相手は、歩兵でありながら人間離れした実力の持ち主だったようだ。3人とも。
青年は悔しげな顔をした。もっとも、全身を包んでいる鎧のおかげで、その顔が三人に見られることはない。青年は『せめて嫌がらせだけでも……』と思い、
「だがな……国同士の戦では、我々が勝つのだ。弱者は所詮、強者の奴隷でしかない……」
嫌味をたっぷりと込めて言ってやった。そう、相手のシーハーツ国は大国であり、しかも『施術』という魔法じみた力を有する国家だ。だが自分達が属するアーリグリフ国は、その数倍の国土・軍勢と、何よりも竜騎士『疾風』がある。この戦力差を覆せる賢者など居ない。
苦し紛れに吐いた嫌味に、ネル・ゼルファーが怒ったのかどうかは、彼女の表情からはうかがえない。彼女はただ一言、
「アンタ……うるさいよ」
ポンと、無造作に放たれた彼女の蹴りは、エアードラゴンと、その上にまたがる青年を奈落の底へと突き飛ばした。
「うわあああああああぁぁぁぁッ!!!」
重力の影響で、全身が自由落下を始める。
彼の人生は、そこで終わるはずだった。
今までに何度も死線を潜り抜けてきた猛者ではあったが、この時だけは死を覚悟していた。
こみ上げる恐怖を感じつつ、青年―――『疾風』副団長は意識を失った。
代わりに、それまで意識を失っていた飛竜が身をよじらせ、グライダーのように空気抵抗を受ける体勢をとった。命の終わりを感じつつも、己の相棒(主ではなく、彼らは相棒と解釈している)を死なせないために。
崖の下に閉じ込められた彼女と、そこに降ってきた彼。
これは誰かが世界の命運をかけた戦いの道を歩んでいる時、誰も見てないところで起こった物語である。