ソファーの上で、目覚める直前の何ともいえない至福の時間を楽しんでいる俺の鼻に、いい香りが入ってくる。
最近続いている暴力的な朝とは正反対の、快適な目覚めを久しぶりに味わった。
そのまま、しばらくまどろんでいたが、隣のキッチンから漂ってくる味噌汁の香りだと気づいた瞬間、俺は跳ね起きていた。
「あ、お早う。起こしちゃったかな?静かに準備してたつもりだったんだけど」
花柄のエプロンをしたカナが、ナスの浅漬けを切る手を休めて振り返る。
テーブルの上には、アジの開きと玉子焼き、それに小鉢に入ったワカメとキュウリの酢の物が並んでいる。
「朝食って、こんな感じでいいのかな?ずっと見てて道具の使い方は大体わかったんだけど、味付けはまだ自信ないから。ちょっと食べてみて」
そう言いながら、カナは玉子焼きが一切れ載った小皿を手に取る。
いや、十分すぎるくらいです。
俺は心の中で両手を合わせてカナを拝んでいた。
味見をしようと小皿へ手を伸ばすよりも先に、カナが菜箸で玉子焼きをつまんで俺の口元へ持ってくる。
「どう?美味しい?」
お袋の味って、こういうのを言うんだろうな。
母親の手料理の味を知らない俺にとっては、想像するしかないのだが。
「あっ、ずるいぞ、お前だけ先に食べて!」
いつの間にかキッチンに入ってきたヒナタが非難の声を上げる。
「味見してただけだろ」
「私もアーンする」
どっちが子供なんだか。
カナが苦笑しながらナスの浅漬けを一切れ、ヒナタの口に放り込んだ。
「ねえねえ、これからは私がご飯作ることにしてもいい?」
鍋をかけたコンロを弱火にしながら、カナが言う。
異論のあるはずがない。
「そうしてくれると俺も助かるなあ」
「カナの料理は最高だからな。まあ、お前もそこそこ上手だけど、味噌汁が薄いし、あと、ご飯が柔らかい」
とても居候とは思えない上から目線のセリフだが、一向に気にする様子はない。
「みんなを起こしてくるぞ」
ヒナタはキッチンを飛び出していった。
皿に盛り付けた漬物をテーブルに置くと、カナは人数分の箸を並べ始める。
「手伝うよ」
「いいから、座ってて」
ピシャリと言うと、カナは鍋の前へ戻った。
小皿で味噌汁の味見をするカナの後姿を見ていると、記憶に残っているはずのない母親を見ているような、そんな気がしてきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私達も外へ出たいのです、ヒナタのように」
朝食の席でツキコさんが言い出したことは、他の者の意見でもあるのだろう、複数の顔が頷いている。
「ヒナタだけ出てもいいというのは、不公平です」
「いや、それは、出ていいと言った訳じゃなく……」
俺の言葉はそこで遮られた。
「私達もそろそろ実地調査をする段階にきているのです」
ツキコさんもヒナタと同じことを言う。
何事もテキパキとこなす、きちんとした性格のツキコさんに断定口調で言われると、どうしても押され気味になってしまうが、疑問は疑問として訊いてみる。
「調査って、いったい何なんですか?」
「調査とは事の詳細を調べることです。私、言葉を間違って使ってますか?」
結局、同じところに戻ってくるのか……。
俺は半ばあきらめの気持ちになっていた。
「外出しないと、有効な調査が出来ないのです」
左手でさりげなく眼鏡を直しながら、視線は俺から離れない。
「……わかりました」
結果として押し切られてしまったが、仕方がないとも思う。
確かに、一日中家に閉じこもっていろというのも酷な話だ。
監禁しているわけじゃないのだし。
だが、一つだけ言っておかなければいけないことがある。
「ただし、出入りするときは、なるべく近所の人に見られないようにお願いします」
「なんでですか?」
「いや、そこはそれ、色々と噂になってもいけないし……」
一人暮らしをしているはずの家に、入れ替わり立ち代り女の子が出入りしていたら、やっぱりまずいだろう。
「わかりました。わからないように出入りすればいいんですね」
不思議そうな顔をしながら、ツキコさんは一応頷いていた。
俺の言いたいことを100%理解して、納得してくれたかどうかは疑問が残るが……。
いずれにしても、これで留守中の心配の種が増えてしまった。
これはいよいよ本腰入れて考えないといけない。
この7人が何を考えて、何をしようとしているのか、きっちりと話し合いをしよう。
はぐらかされないように、しっかりと。
しかし、今は時間が許してくれない。
全ては学校から帰ってきてからだ。
「なあ、今日、学校が終わった後、時間あるか?話があるんだが」
珍しく玄関までついてきたヒナタが俺に聞いてきた。
丁度いい。
「ああ、わかった。早く帰ってくるようにする」
「よし、きっとだぞ」
その声に見送られて家を出たが、この胸騒ぎは何だろう?
何故だか不安になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
遊びの誘いをすり抜けて、俺はいつもより若干早く帰宅した。
家の前には、腕組みをしたヒナタが仁王立ちになって俺の帰りを待っていた。
俺は思わず天を仰いだ。
「遅い!」
「遅いじゃねーよ!なにやってんだよ!そんなとこに立ってたら近所の人にバレるじゃねーか!」
「家から出るところを見られなければいいんだろ?それは気を付けてたから大丈夫だ、心配すんな」
ああ、案の定、俺の言いたかったことは伝わっていない。
噂が立ってからでは遅い。
どうやって説明したら、他のみんなも理解してくれるのか。
「よし、じゃあ行こうか」
色々と考えをめぐらす俺をよそに、ヒナタが言った。
「行く?どこへ?」
「話があるっていっただろ?話をする場所へ行くんだ」
そう言って一人でスタスタと歩き始めたので、俺はよくわからないまま、あわてて後を追う。
向かった先は、神社。
そう、ヒナタたち7人が降ってきた、あの神社だ。
ヒナタを先頭に、二人は石段を無言で登っていく。
登り切った先には、社殿がある。
その前の広場に、人影が見えた。
俺達の気配に気付いてこちらを振り向いた顔に、驚きと困惑の表情が広がるのがわかった。
それは、俺も同じだった。
おい、ちょっと待て。
これは、どういうことだ?
そこには、俺と同じく事態を飲み込めていない若槻健吾の姿があった。