メアリー・スーに讃美歌を
よお、俺の名前はメアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール。
トリステイン王国のロシュフォール伯爵家長女だ。
神様の力で皆おなじみ「ゼロの使い魔」の世界に転生した元男、現女の子なんだ。
今の俺は見た目アルビノだから、黒い服を着るとキュッと引き締まるんだよ。
白いローブとか身に纏えばマジ雪ん子。
いや、その場合藁のかぶるヤツ、蓑だっけ? アレの方がそれっぽいな。
日本の雪山に出てきそうな感じ。
ま、いいや。
最近“遍在”を習得したぜ。だけどもうこれが難しくて、一体維持するのでいっぱいいっぱい。
それ考えるとワルドパネェ、髭ロリコンのくせに。
カリン様なんてヤバすぎ、あの人たちホントは神様から能力もらってるんじゃね?
それにしても、なんか全く同じ顔の人間が存在するのは変な感じだな。
いや、しかしアレだ。鏡なんかで見るより俺超絶美少女!
ルイズにも勝てるんじゃねコレ?
*
みんな、大変だ。
すんごい大変なんだ。
具体的に言うとアルビオン行きが決まった。
むしろ決められたというか。
そろそろ起きるか―って感じですぅっと意識が覚醒しそうな瞬間あるだろ?
丁度その時ノックの音でぴくっと目が覚めたんだよ。
誰だよこんな時間に、と思ったら髭ロリコンことワルドさん。
え、姫さま来訪してないじゃん。
それに俺ナニかしたっけ? と思ってたらとっとと旅支度を整えろとのこと。
意味わかんないけど大急ぎで準備して外に出れば「いざ、アルビオン!」だって。
なんでさ!?
まあ原作に介入するかどうか悩んでたから丁度いいと言えばいいんだろうけど。
不思議なことにギーシュがいなくてフーケさんがいる。
そんなこんなで朝もやの中馬に乗って出発!
でもルイズと髭ロリはグリフォンでした。
くそぅ、見下しやがって。
てか髭ロリだとロリっこに髭が生えてるみたいだな。
髭コンだ、ワルドのことはこれから髭コンと呼んでやる。
*
もう何匹目の馬だよ、って感じ。
あんま俺動物に好かれないからそのたび大変なんだよね。
しばらく乗っていれば大人しくなるからいいんだけど。
で、がんばってラ・ロシェールまでやってきました。
もう一日でこんな遠乗りしないぞ、俺はインドア派なんだ。ケツが痛くて痛くて。
……もう、お尻がいたくなっちゃったわ。
うん、やっぱ俺は精神的には完全に男だな。無理無理。
でも弓矢部隊の襲撃はなかった。
楽だったからいいけど、対人戦の練習をしたかったんだけどなあ。
*
才人カワイソス。
原作じゃギーシュがいたけどこの一行にはいないんだよ。だから彼だけ一人部屋。
あれ、むしろ気楽で喜んでるのか?
でもワルドとルイズが同室になる時はすんごい複雑そうな顔してた。
俺はフーケさんと同じ部屋さ。その綺麗な身体を舐め回すように観察してやるぜ!
と思ったら早々に布団にくるまっちまった。
……俺は今、泣いていい!
*
うーん、ここにきて原作通りの流れになったな。
朝起きたらワルドvs才人のイベント。
勿論才人は負けちまった。
くっそ、髭コンめ。俺にもっと力があればてめーなんざぎったぎたにしてやるのに……。
いや、これも更なるニヤニヤ展開のためだ。
今は歯を食いしばって耐えるんだ、俺。
この分だとワルドはレコン・キスタ? まー良くわからん組織確定だなー。
やけに俺に優しくしてくるけど、珍しい風のスクウェアを引き込もうとしてるっぽいな。逆上して殺されないよう気をつけねば。
フーケさんは一匹狼で探してもいませんでした。
あ、そういえばドンを学院に置いてきたまんまだった。
悪さしてないといいけど……。
*
うむ、やっぱり原作通り。
道中の襲撃はなかったけど傭兵部隊による夜襲が来たぜ。相手は人数が多い、しかし所詮平民。さらにフーケさんもこちらにはいるんだ。
髭コンが陽動を提案する前に一人躍り出て魔法をお見舞いしまくってやったぜ。
なんていうの?
俺TSUEEEEEE!!
ここにきて転生チート大活躍。
まあ遍在は使わなかったけど、エア・ハンマー、ウィンド・ブレイクでぽっこぽこモグラたたきみたく近寄ってきた奴らをブッ飛ばす。
あんまりうっとうしいヤツにはエア・カッターで片腕とおさらばしてもらったぜ。
才人は時代補正のせいか、顔青ざめさせながら必死についてきてた。
あー俺もなんかハルケギニアに染まっちまったのかね? 首チョンパは無理でも腕くらいならふつーに切断できるわ。
ま、ちっとキツいんだがな。
途中現れた白仮面こと髭コンも四人の協力プレイで一蹴さ!
いかにスクウェアと言えどガンダとスクウェア二人、トライアングル一人の前では雑魚その一に過ぎないぜ。
というわけで俺無双のおかげで無事に船到着。
髭コンが風石かわりしてめでたしめでたしさ。
*
うん、やっぱ原作だ。嬉しい限りだぜ。空賊の茶番劇はニヤニヤできるぜ。
ルイズ強気だけど、若干涙目なのよ。
少し違うな、と思ったのはウェールズ皇太子がワリとすぐ変装を解いたところかな。
硫黄もちゃんとお金で買うって。
そうだよな、滅びゆく王城に金あってもしゃーないしな。
商人は王族相手だからうへぇ~って土下座してた。
レコン・キスタじゃなくてアレ、なんだっけ?
そうそう、「ニャル様とホップを愛でる会」だ、それになった影響かもしんないね。
まー拘束されることもなく優雅な空の旅としゃれ込みますか。
*
最後の晩餐ってのは夕焼けに通じる寂しさがあるもんだな。
もう笑うしかない、みんな笑うしかないんだよ。それがカラ元気なのがありありとわかって、な。
ルイズは早々に泣き出して才人と一緒に出ていっちゃった。
俺も踊る気になんてなれないし、壁の花に徹する。
すると髭コンが話しかけてきたんだ。明日の朝結婚式やるってさ。
あーもう、こいつ完全クロだな。
でもここで才人覚醒イベントをこなしておかないと後々ヤバい気がする。ここはスルーして陰ながら才人を手助けするくらいだな。
とりあえず俺は朝一の船で脱出するから出ない、とは言っておいたさ。
こっそり城内に潜んで何とかいい方向にもっていこう。
その気になればフライでアルビオンから脱出! ……できるかなあ?
*****
アルビオンに鎮魂を
――なんか変だな……身体が引き寄せられるっていうか、奇妙な感じだ。
城内に人の気配はほとんど感じられない。
僅かに耳へ届く金属音は歩哨のものばかりで、ニューカッスル城は深い眠りについていた。
そんな中メアリーは歩き続ける。
何かに引き寄せられるように、芳香に誘われるように。
「あれ、ドン?」
彼女を突き動かすのは得体のしれない勘だけではなかった。どこからか染み出るように現れた使い魔も、いつの間にやら彼女を先導するように歩いている。
魔法学院に置いてきたはずなのに、という疑問はメアリーの脳裏によぎりもしなかった。
相変わらずの悪臭、そしていつもより機嫌よさそうに揺れる尻尾。トコトコと微かな足音は地球の犬とほとんど変わらなかった。
――中庭か。
ドンは廊下を歩き続け、ついにはある中庭にやってきた。
メアリーは唐突に月を見上げたくなる。昨日はスヴェルの月夜、今日から徐々に双子の月が離れていくだろう。
彼女は月見が好きだ。
ロシュフォール領にいたときは、よく寝室へ差し込む月明かりを、見上げた月に映る影を、姿を変える夜の雲をワイン片手に楽しんだものだ。
――高いところだしさぞ月も大きく見えるだろうなあ。
月光がさらさらと花壇を照らしている。
どこか幻想的な中庭に、メアリーは足を踏み入れた。
「すご……」
大きさは期待したほど変わらなかった。
だが、明るさが違う。
地表に届くまでの距離が違うせいか、夜だというのにかなりくっきりとした影が見える。
今この瞬間妖精がワルツを踊っていても何の違和感もない、不思議な空間。
メアリーはつい嬉しくなってその場でくるりと回ってみた。
――スカートの翻りまでばっちりだな。
この月明かりに魅せられたのか、彼女は実に楽しげに歩き出す。
両手は後ろ手に組んで、月の祝福を受けた花々の香を時折嗅いで庭をゆっくりと歩いて回る。
月光を一身に浴びた白い少女を見守るのはおぞましい姿の忠実な使い魔だけ。
この光景を絵画に閉じ込めたなら如何ほどの値がつくかわからない。
ただこの世ならざる美しさと、儚さが混在した情景だった。
「あれ、ここ」
メアリーは足を止める。
目の前には大きな門、石造りの壁、やさしい夜の光に包まれてすらはっきりとわかる白い建物。
――ワルドが裏切る礼拝堂か。
原作と今はまったく状況が違いすぎる。
正直な話、メアリーはどうすればいいのかわからなかった。
今までは原作には触れないよう動いてきた。しかし、自分の存在が大きく変化をもたらしているような気もして、積極的に介入したほうがいいのではないか、という疑問を抱くようになっている。
今回のアルビオンだってワルドの行動に流されるまま従った結果に過ぎない。
才人の手助けをしよう、とは思ったもののそれが正しいのかどうかもわからない。
とりあえずの判断を彼女は下す。
――明日結婚式らしいし、一応下見しておくか。
ワルド自身が言っていたことだ。
ここはきっと原作通り戦場になるだろう。地形を把握するなり仕掛けを施すなりしておいた方が生存率は高くなる。
―――ぎぎぃぃぃいいいい―――
古臭い教会の扉は、城内にまで響くほどの音を立てて開いた。
あまりの大きさに彼女は少し冷や汗をかいたほどだ。
「こりゃまた……」
ステンドグラスから差し込む月光がすべての祭具を柔らかく包んでいる。
入り口から祭壇へ向かう赤い絨毯は明日の結婚式のため敷かれたものだろうか。教会のあちこちにかけられている銀鏡がその光を反射し、天井までもがはっきりと見える。夜のミサを行うとしても蝋燭一つ必要ないほどの、しかし昼間とは違う明るさだ。
その神秘的な雰囲気にメアリーは息をのんだ。
一歩一歩、石床を踏みしめながら長椅子の間を進んでいく。
椅子の背を伝わらせている右手に埃が積もったような嫌な感触はないし、銀鏡の前で立ち止まってじっくりと眺めてみても曇りひとつ見当たらない。
管理人が律儀で信仰心の篤い人なんだろうな、とメアリーは感じた。
――ロシュフォールに戻ったら聖堂をもっときっちりしようかな。
現代日本の高校生らしい感覚が残っているため、敬虔なブリミル教徒とは言えない彼女ですらそう考えるほどだ。
ここが戦火に包まれてしまうことが無性に惜しかった。
――隅々まで観察してパクれるところはパクってしまおう。
トコトコとドンは祭壇に近づいていく。
使い魔は好きにさせて、こっちもこっちで自由にやろうとメアリーは教会のあちらこちらを観察し始めた。
ステンドグラスは最後に時間をかけて見よう、と決めてまずは壁画を眺める。
白くレンガには始祖ブリミルらしき人物、そして三人の騎士がそれを守るように構えている。
それぞれ額、右手、左手に輝きを示すかのような模様、さらに左手が輝く騎士は左胸にルーンらしきものが刻まれている。
近づいて目を細めても何が書いているかはわからない、壁に元々あった傷のようにも見える。
諦めて、少し距離をとって壁画を眺めると、三騎士の視線の先には黒く奇妙な模様があった。
――なんだこりゃ?
メアリーは目を凝らして再び顔を近づける。
瞬間、影が広がった。
「な!?」
彼女は咄嗟に壁から距離をとった。すぐに懐からタクト状の杖を取り出す。
唱えるスペルは“ブレイド”、室内で十分な距離はとれないと考え近接戦闘で挑む。
「ドン!」
己の使い魔にも呼びかける。
影は壁に張り付いたまま、白い紙に墨汁を垂らしたように広がっていく。
メアリーを直接襲う気配はない。同時に、彼女の使い魔が動く気配もない。
「ドン松!!」
再び叫ぶ。
しかし動かない。
彼女が呼べばいつだって駆け寄ってきた使い魔は、この時に限って言えば何の反応も示さなかった。
「どういう……!」
思わず祭壇の方に目をやった。
「は……」
メアリーは目を疑った。
次に自分の正気を疑った。そこには人がいたのだ。
それがただの人ならば、時間帯がおかしいとはいえここまで混乱することはなかった。
「く、クロムウェル……」
「おや、聖母様は我が名をご存知でしたか。光栄の極みですな」
原作におけるレコン・キスタの盟主、この世界ではナイアルラトホテップ教団の大司祭、オリヴァー・クロムウェル。
この場にいるはずもない人物の登場に、メアリーは思わず一歩後ずさった。
思考がまったく追いつかない。頭を埋め尽くすのは「なぜ?」という疑問ばかりだ。
「実に良い使い魔ですな、聖母様にふさわしい」
クロムウェルは片膝をついて猟犬の頭を撫でている。
襲い掛かることもなく、彼女の使い魔はされるがままになっていた。むしろ尻尾さえ振って嬉しそうにしている。
メアリーにとって、これはまさに悪夢だった。手からは力が抜けきり、音を立てて杖が石床に落ちた
「では、はじめましょうか」
クロムウェルが立ち上がり、何かを宣言する。
するとどこに潜んでいたのか、顔さえも見えない黒いローブを身にまとった者どもが教会の壁際に立ち並んだ。
大きな扉はすでに閉ざされており、そこにも妖しい人物が佇んでいる。
――う、嘘だ。ありえねえ、音なんて何もしなかった!!
風のスクウェアメイジであるメアリー・スーの聴覚をもってしても異変は感じ取れなかった。
一介の司祭に過ぎなかったはずのクロムウェルの接近。五十人近い謎の黒衣の集団。
一切感知できなかったことが信じられない。
これらはすべて壁の黒い影から染み出してきた、それ以外彼女には思いつかなかった。
さらに信じられないのはすでに扉が閉じていること。
あれほどの軋みを立てて開いたものがどうして音もなく閉ざせようか。
クロムウェルが右手をかかげたのと合図に、黒衣は一斉に声をあげた。
―――彼の日こそが目覚めの日―――
奈落の果てから響いてきたような歌声。
―――永劫の闇へと帰せしめん―――
およそ人間に出せるものではない、聞いているだけで正気が失われる。
―――告げる神やがて来りまして―――
だというのになぜだろう。
―――あまねく生命は絶え果てん―――
メアリーは狂気に落ちることもできない、むしろ心地よさすら感じている。
―――死を経た全てのものの上に―――
一歩一歩近づいてくるクロムウェルを前にようやく気付く。
―――妙なるフルートの音色にて―――
メアリーは、自分がとっくに狂っていたということを。
―――人みな暗黒へ落ち包まれん―――
「祭壇の前へ、聖母様」
歌声は止み、メアリー・スーは歩き出す。
微かに残っている意志に反して祭壇へと近づいていく。
後ろを歩くクロムウェルを振り返ることもなく、待ち続ける使い魔にも目をくれず。
――いやだいやだいやだ、やめてくれ俺は近づきたくない!!
全力で足をとめようとしても動かない。
踵を返して駆けだそうとしても意味がない。
彼女の体は、今や彼女の物ではなくなっていた。
―――歓びを―――
あれだけの合唱にも城内から兵が駆けつけてくる様子はない。
この教会内は、現世との繋がりが閉ざされていた。
――なんだって俺がこんな目に合わなきゃいけないんだよ!!?
ヴァージンロードを音も立てず歩いていく。
―――寿ぎを―――
やがて祭壇の前に着き、ゆっくりと教会内へ振り返る。
クロムウェルは片膝をついた。
――助けて! 助けて神様!! 誰でもいいから助けてくれ!!!
彼が懐から取り出したのは、金属製の小箱。
なんとも表現し難い歪な形状のそれをメアリー・スーに差し出す。
「模造品にすぎませんが、輝くトラペゾヘドロンにございます」
――やめてくれぇぇえええええええ!!!!!
―――祝福を―――
受け取った瞬間、世界が揺れた。
*****
―――神様ぁああアアア!!!! どうして、どうして!!
「え、むしろ人間の流儀に従ったんだけど」
―――なん、なんだよ! それ!!
「等価交換だっけ、そんなのはじめて聞いたからびっくりしたよ」
―――やめて! 消えたくない!!
「人間の寿命の半分くらいあげたんだし、別にいいじゃん。そんな辛いことでもないし」
―――死にた、くなぃ…………なん……で…………
「なんで、って。なんとなくかなあ」
―――…………。
「あ、もう聞こえないか」
どこか神々しくも感じる、褐色の肌の子供はフルートを構え、一言。
「ていうかアレ誰だっけ」
*****
空中大陸アルビオンを襲った大地震。
あり得るはずもないその現象に、ニューカッスル城は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「何が起きたってんだ!?」
「わかりません!!」
かがり火が焚かれ城中を衛士が駆けまわる。
厨房はじめ燭台が倒れて起きた小火を消して回るもの。上級士官や大使の無事を確認するもの。城壁の損害箇所を月明かりを頼りに修復するもの。
上を下への大混乱だった。
やがて、物見の兵がある事実に気付く。
「あれ、おかしくないですか」
「んだよこんな忙しいときに」
新兵が指さしたのは城門前の大平原。ナイアルラトホテップ教団の軍勢が控えていた場所だ。ただの暗闇が広がっている。
老兵はちらと眼をやり、すぐに顔を落として城壁の損害箇所を探す作業に戻る。
「夜だから暗いだけだろ、何言ってんだ」
「……暗いからおかしいんじゃないですか。それにさっきまで聞こえてた歌みたいなのも聞こえません」
その言葉に老兵は一瞬考え、勢いよく顔をあげて目を見張った。
暗い。暗闇しかそこにはない。
先ほどまではかがり火が燃えていたにも係わらず、城壁が見えるほどの月明かりがあるにも係わらずだ。
さらに耳を済ませても城内からの喧騒が聞こえるだけで虫の声一つ聞こえない。焚火を囲んで何か歌い踊っていたヤツらもいたはずだったのに。
「こりゃ、何が起きたんだ……!?」
「殿下に知らせてきます!」
「急げ! ヤバイ雰囲気がしやがる」
新兵は矢のように駆けて行った。
老兵が凝視しても一万の兵が野営していた場所には何も見えない。
光のささない深淵を覗き込むような、あるいはアルビオンから大地を見下ろすような感覚だ。
じっと目を凝らしていると、闇がざわざわと蠢いているような気にもなってきた。
「違う!」
老兵は強い否定の言葉を自身に投げかけた。
実際に闇が動いている。冥闇の中心部、そこにある何かへと収束するようにその姿を縮めていく。
その時新兵がウェールズと衛兵を連れて戻ってきた。
「何があったセント・ジョン」
「殿下、蠢く闇でございます。闇が集まっていくのです」
這いずりまわるように暗黒の絨毯はじわりじわりとまとまっていく。
見張り台に立つ五人の男は固唾をのんで見守るしかない。
月光すら吸い込みかねないその限りない黒さをもったナニかは時に盛り上がり、時に広がりながら中心部に収束していく。
その動きはハルケギニアに存在するどのような生物にも該当しない、していいはずがない。全き光の届かぬ夜すらを超越した、人智の及ばぬ冥府からの使者のように彼らは感じた。
この世に地獄があるとするなら、まさにあの幽々たる実体化している暗闇がそうなのだろう。
五分ほど時間がたって、漆黒のあった場所に人ほどの大きさの影がポツンと佇んでいた。
ウェールズは持参した望遠鏡に目を当てる。息をのんだ。
「なんてことだ……」
「殿下、いかがなされたのですか」
老兵は目を細めて影を見つめ。
「ッ!? ぁぁああああああああ!!!」
絶叫した。
その表情は尋常のものではなく、底など計り知れぬ恐怖と狂気が混在している。
頭を抱えながら星空を仰ぎ、意味をなさない単語の羅列を口から吐き出す。眼はぐるんと裏返り頭をかきむしる爪先には微かに赤黒い液体が付着していた。
「いかん!」
ウェールズは腰に下げていた杖を一瞬で抜き放ち。
「ブレイド!」
セント・ジョンの首をはねた。
「アレを見てはならん! 平民が見れば発狂するぞ! 鐘を鳴らしメイジのみ戦闘配置へ!」
「殿下!?」
「セント・ジョンを焼いてやれ」
ウェールズは一人の火メイジを残して見張り台から降りた。
新兵は何も言わずに鐘を鳴らしに走り、残る三名はウェールズに詰め寄った。
「急げ、発狂したものは残らず首をはね死体を焼け」
「アレはなんだというのです!!」
ウェールズは一瞬足を止めた。
「ミス・ロシュフォールだ」
白かった髪を夜闇に染め上げメアリー・スーが一人、ニューカッスル城へと歩み出した。
*****
―――カンカンカンカンカン!!―――
『メイジは正門で迎撃しろ!!』
『平民は衛兵含めて避難船に乗せろ! 急げ!!』
急き立てるような鐘の音とともに飛び交う指令と怒声、静かだった城内はあっという間に緊張感あふれる戦場の最前線へと変わった。
「何があったのかしら」
ルイズも叩き起こされ、身支度を整え終えたところだ。
詳しい状況は未だ知らされていない、すぐにでも出立の準備を行うようおざなりに伝えられただけだ。
ただ情勢が変わって急を要する、ということだけが分かった。
「ラ・ヴァリエール嬢!」
「殿下!?」
ノックもなしにウェールズが飛び込んできた。後ろには旅装のティファニアとマチルダを伴っている。
城中を駆け回ってきたのか、息が上がっていた。
「私は極力時間を稼いでから、可能ならばグリフォンかドラゴンでラ・ロシェールへ落ちのびる。テファを頼んだ!」
「何が起きたのですか!?」
空賊姿の時も、最後の晩餐の時も、いつだって冷静さと優雅さを忘れなかったウェールズ。これほど焦っている姿をルイズが見たのははじめてだった。
「敵が攻めてきた。それだけだ」
アルビオンの皇太子は踵を返して駆けて行った。本当に余裕がないということが仕草だけでわかる。
ルイズは残されたマチルダとティファニアに目を向けた。
「避難船に向かいながら話すわ」
「わかったわ、サイトとワルド子爵は?」
「伝令が行っているはずよ」
マチルダの表情は硬く、ティファニアに至っては恐怖までその美しい顔に浮かんでいる。
――あれじゃ死ににいくと公言しているようなものだわ。
先ほどのウェールズの様子は尋常じゃなかった。きっと彼女たちもそれを気にしているのだろう。ティファニアはひどく怯えており、一方マチルダは唇を噛んで何か迸る激情をこらえているようにも見えた。
すぐにマチルダが歩きだし、ティファニアもそれに追随する。
ルイズは一晩もお世話にならなかった寝室を振り返り、二人の後を追いかけた。
ハルケギニアにおいて、王族の血は貴く重い。
貴族には遥か光すら届かない星の海より来る邪悪な化け物からこの惑星を守る義務があるのだ。
当然その貴族を束ねる王はいついかなる時も生き残ることが優先される。本来ならばウェールズ皇太子が残るなど言語道断、拘束してでもトリステインに連れて行かねばならない。
そう、ルイズには言うことができなかった。
彼が亡命している猶予などもはやないということだろう。
「敵が攻めてきた、ってどういうこと? 鬨の声も何も聞こえなかったわ」
「わたくしも詳しくは知りません。夜襲の類ではない、ということしか」
――そもそもメイジだけを迎撃に回すって言うのがおかしいのよ。なんで平民を奥に引っ込めるような……。
ぐるぐると思考を巡らせながらルイズたちは早足で隠し港に向かう。
ぽつりと、ティファニアが呟いた。
「……混沌よ」
「え?」
「這いよる混沌が来たの」
その言葉にルイズは思わず足を止めかけた。
「ティファニア様! ミス・ヴァリエール!」
そこに老メイジのバリーが息せき切って現れる。
彼は軍装束の懐から古びた木箱と指輪を取り出しティファニアに手渡した。
「風のルビーと始祖のオルゴールでございます。お急ぎくだされ!」
「これ、お兄さまが持っていくはずじゃ……」
「……お急ぎくだされ!!」
血を吐くようにバリーは叫んだ。
「マチルダ、後を頼む」
「……バリー師匠、承りましたわ」
それだけ言うとマントを翻してバリーは城門の方に走って行った。
呆然としているティファニアを促しマチルダは歩き出す。
その目じりには涙が浮かんでいた。
***
「……ここどこだよ」
才人は迷っていた。
途中何人もの兵士とすれ違ったからその時に隠し港への道を聞けばよかったのだが、皆鬼気迫る表情だったので声をかけづらかったのだ。
なんとなく自分の勘を信じて、廊下を突き進んだり階段を上がったり下りたりした結果、ようやく自分が迷子であることを認めざるをえない状況にまで追い込まれた。
「しかもここ外じゃねーか」
彼がたどり着いたのはメアリーが月見をしていた中庭だった。城中で月明かりを打ち消すほど多量のかがり火が焚かれているため、先ほどのような美しさは残っていない。
才人は自分の方向音痴さにため息をついた。
――隠し港ってどこだよ……って、あれ?
すっと中庭の礼拝堂へ入っていったのは見知った顔だった気がする。
出会ってからずっと才人の心を悩ませるワルド子爵だ。
――迷子になった、なんて知られたらまたバカにされそうだな。
才人のワルドに対するイメージはよろしくない、むしろ悪い。
エリート特有の「俺偉いんだぜ?」オーラがぷんぷん出ている、と勝手に決めつけていた。
――あいつも港行くはずだから、こっそり着いていきゃいいか。
抜き足差し足忍び足、と心の中で唱えながらこそこそ教会に近づいていく。さっと扉近くの壁に背中をつけて気分はスニーキングミッション。
扉は開け放たれていて、中から微かな話声が聞こえた。
一人は勿論ワルド、しかしもう一人は知らない声だった。
声から受ける印象は少し年のいった男性、しかし底知れない何かをその平坦な調子の話し方から感じることができる。
「聖母様は降臨されたようですね、クロムウェル閣下」
「無事トラペゾヘドロンを捧げるという大役を果たすことができたよ」
クロムウェル。
その名前を才人は知っている。
かの邪神を信仰するナイアルラトホテップ教団、その大司祭にあたる人物だ。間違いなくアルビオン王国の敵であり、もっと言えばハルケギニア全体の敵。
それがどうしてワルドと話しているのか、ワルドがなぜ彼を閣下と呼ぶのか、トラペゾヘドロンとはなんなのか。
才人の疑問は尽きない。
が、例の“許せない気持ち”と“ここにいてはマズいという気持ち”が彼の思考力を奪うかのようにせめぎ合う。
――よ、よくわかんねえけどルイズに相談だ。
色んな考えを一度破棄して行動指針を決定する。
すっと身をかがめて壁から離れ城の中へと足を進めていく。無論足音をたてるようなヘマはしていない。
していないはずだった。
「その前に、目障りな輩を始末させてもらいましょう」
「っ!?」
ワルドの声とともに突然目の前に白仮面が降ってくる。才人にはそういう風にしか知覚できなかった。
突如姿を現した男はゆっくりとその顔を覆う仮面に手をかけ、外した。
「し、子爵さん……?」
仮面の下にあったのは、ワルドの顔だった。
思わず逃げ出そうと振り向けばそこにもまたワルドと見知らぬ聖職者風の黒衣を身にまとった初老の男性。
「ど、どういうことだよ……それにクロムウェルって敵なんじゃ」
「つまり、そういうことさ。ガンダールヴ」
答えたのは初老の男の隣にいたワルド。
才人にはもう何が何だかわからない。ただ後ずさるしかできない。
「せめてもの情けだ。始祖ブリミルの雷で逝くがいい」
バチンと空気の爆ぜる音がする。
その刹那才人の視界は白光に閉ざされた。
「ッァァアアアアア!!!!!!」
――痛い、なんで、俺、るいず……。
とりとめもない思考を最後に、彼の意識は途絶えた。
膝をつき、前のめりに倒れ込み、それきりピクリとも動かなくなった。
それを見ていたのは無機質な瞳のワルドとクロムウェル、それに中庭を照らす双月だけ。
ワルドは何事もなかったかのようにクロムウェルへ一礼し、話を切り出す。
「では閣下、我らが聖母様の下へ参りましょう」
「とどめは?」
「風メイジたる我が身にとって心音の有無程度たやすく聞き分けられます」
「そうかね、では君を聖母様に引き合わせよう」
ただそれだけの会話。
彼らは無言のまま城門へと向かう。
後には物言わぬ才人が残されるのみだった。
次回序章最終話「メアリー・スーに祝福を」