「避難船出港しました!」
「急げ、門に到達するぞ!」
「配置に着け!」
一歩一歩、ゆっくりと大地を犯すかのように踏みしめ、黒髪のメアリーはニューカッスル城を目指す。
彼女の傍には誰もいない。つい十分ほど前、城門前の大平原には一万にもなる黒衣の兵士が勝利を目前とした宴を行っていたはずだ。
それが今では誰もいない、何もいない。人影どころか、野営用のテント、おざなりな馬守柵、糧食、一切合財存在しない。
さらにはところどころに植わっていた樹木や、大地を覆う草までが消え、荒涼たる平原がそこには広がっていた。
それらがどこにいったのか、ニューカッスル城にいる兵士たちは誰も知らない。考えることすらできない。彼らに残された時間はすべて、ただひたすらに城の防備を固めることにあてられた。
ジェームズ一世は一人玉座の間に残っている。万一城門が破られ敵が入り込んだなら、仕掛けられた大量の火の秘薬をもって差し違える覚悟だ。
「火はすべて城壁から火砲に徹せよ! 土は城門内からゴーレムで平民とともに門を抑えろ!」
「水と風は城門内で待機、城門が破られたのち魔法の斉射を行え! 間違っても視線をあわせるな!」
平民に退避令を出したが、一部の平民兵士は城内に残っていた。この命を費やしてもアルビオンという国を守りたい、と申し出たのだ。
ウェールズは確実に死ぬであろう城門の抑えに彼らを配置した。平民兵は笑ってそれを受け入れた。
――相手がどんなものか、まったく得体がしれない。
ウェールズは唇を噛む。
姿形はトリステイン王国から来たメアリー・スーそのものだ。
純白の髪は月の出ない夜闇よりもなお昏くなっていたが、王族という仕事柄彼は人の顔を見間違えるということを滅多にしない。
――たかがスクウェアメイジ一人、だといいのだが。
ウェールズはワルドからメアリーの実力を聞いている。
スクウェアではあるものの戦闘には慣れていないようだと。
しかし、城外の始祖の所業とは思えぬおぞましい魔法のようなナニカを見ては楽観はできない。下手をすれば彼女は、一万の兵よりも強大なのかもしれない。
とにかく城壁からの集中砲火で片が付けばそれでよし。いかに風のスクウェアと言えどトライアングルを五名、スクウェアを一名擁しているアルビオン王党軍の集中砲火には耐えられないだろう。
「距離五十! 詠唱開始!」
「フレイム・ボール放て!!」
そう、ウェールズは見誤っていた。
「ば、バカな……」
「ありえん! もう一度だ!!」
敵の強大さを。
二十名の火メイジ集団の“フレイム・ボール”斉射は月明かりよりもかがり火よりも輝き、あたりは昼間のような明るさに包まれた。
それを単一の目標に向けてぶつける。
戦場でも攻城ゴーレムなどを破壊するときくらいしか行わない戦術だ。当然、得体の知れない相手だとしてもこれで終わりだ、と大半のメイジは確信していたのだ。
「距離三十、斉射!」
再び“フレイム・ボール”が放たれる。
轟音をあげて迫る炎を前にしてもメアリーは眉ひとつ動かさない。ただゆっくりと、着実に歩を進めるだけ。
火メイジたちの魔法は城門前の平原を赤に染め上げ、彼女はどのような生き物であれ生存できない劫火に包まれた。特にスクウェアの“炎球”は大地すら融かし、ニューカッスル城前は火竜山脈のような溶岩地帯へと様変わりした。
どろりと流れる大地だったものは、見るものによっては神聖さを感じさせるような強い光を放つ。あまりに眩い光源で常人ならば目が焼け失明するに違いない。
だが、それでも。
「距離十、まだ近づいてきます!」
それはもはや報告ではなく悲鳴だった。
例え火竜であろうとも一撃で倒せるレベルの砲撃だ。しかも相手は、内実はどうあれ見た目はか弱い女性に過ぎない。
城壁の火メイジたちは恐慌状態に陥りかけた。
「静まれ! 城壁から退避、門を破ったところで全メイジによる斉射だ!」
それをウェールズの叱咤が抑えた。
火メイジ隊は次々に城壁から飛び降り城門から十メイル、百名近くの全メイジが控える場所に陣取った。
城門と城との距離は三十メイルほど、ここを抜かれれば後がない。
ごくり、と誰かが生唾を飲む。
見えていたものが見えなくなるというのは不安を伴う。ましてや敵はその強大さの片鱗を見せつけている。緊張しないはずがなかった。
城外からはまだ溶岩が冷えて固まっていく音しかしない。
「来ます、近づいています」
聴覚に優れた風メイジにしか敵の接近は感知できない。彼は敵の城門からの距離を指で示す。
五、四、三、二、一。
二秒ごとに折られていく指に皆杖を強く握る。
城門は分厚く、攻城ゴーレムを使えない少女が突破するのに骨が折れるに違いない。スクウェアがブレイドを使おうと貫くことすらできない代物だ。
風のスクウェアということだから、“ウィンド・ブレイク”と“エア・ハンマー”の併用で打ち抜こうとするだろう。
だが内側から抑えられている城門をそう易々とは突破できない。
“カッター・トルネード”を使うにも詠唱には時間がかかる。“フライ”や“レビテーション”で突破しようものならその瞬間撃ち落とせばいい。
きっとあの環境下で生き延びれたのも未知の魔法によるものに違いない。だから魔法の併用が困難な飛行中ならば仕留められる。
そう、大多数のメイジは信じたがっていた。
とうとう風メイジの開かれていた掌が握り拳になる。
一秒、二秒、三秒、嫌な緊張感を孕んだまま進む時間に誰かの汗が地面に落ちた。
「案外もう帰ったとか」
「はは、ガキだったしな」
十秒ほどたって軽口をたたくメイジもいる。耳に全神経を集中させている風メイジがしっと指を立てた。
それから三十秒ほどたっても何もない。全兵士の力が少し抜けた。
ウェールズも相手の動いていない以上、次の手を打つべきかと考えを巡らせ始めた。
「……え?」
「どうした?」
「いや、あれ、少し待ってください」
二十歳と若いながらもトライアングルに達しているメイジはそういって再び集中する。
五秒ほどたって、さっと顔が青ざめた。
「いません、風の吹き抜け方が変わりました、城門前には敵がいません!」
「バカな!?」
この若い貴族、ロバート・ハートはウェールズが信頼する親衛隊の一人だ。
彼が全神経を集中させれば虫の足音すら聞き分ける、と誇張気味の噂が立つほどの男。それが敵を見失うはずがない。
ざわ、と周囲のメイジたちも落ち着きを失う。
「落ち着け。ロバート、もう一度探れ」
「はっ」
ウェールズにはカリスマがあった。
彼さえいれば何とかなるという不思議な確信をもたせる、王になるべくして生まれた男だ。
さらに頭も回る。ここで必要なことは何か、ということを瞬時に判断できる。
しかし、それも相手のことを良く知っていてこそはじめて生きる。
「な」
ぞぶりと、心臓が貫かれたかのような悪寒に襲われた。
そして彼は見た。
城門を抑えるゴーレムの間に立つ、全き暗黒を凝集した少女を。
「総員詠唱ー!!」
ウェールズの叫びに、まずバリーが反応した。
彼の生涯最高速度の詠唱、最強の魔法。
烈風カリンの出現までは風メイジ最強とまで言われた彼は平民もゴーレムにも、自分たちにもかまわずその力を解き放つ。
「カッター・トルネード!」
風のスクウェア・スペル、竜巻は城壁を巻き込みながら天を貫くほどに巨大化し、周囲の物までも切り裂く。
城門を抑えていた平民は血煙となって天に昇り、ゴーレムを形作っていた岩石や城壁は轟く風の激流に巻き込まれ凄まじい破壊をもたらす。
被害を裂けて城門から大きく距離をとったメイジたちは、全員各々の魔法を詠唱しはじめた。
個人に対する攻撃力ではない、完全なオーバー・キルだ。
真空を巻き込むそれすら時間稼ぎにもならないと判断した土のスクウェアメイジが巨大な鋼のゴーレムを生み出す。
火のスクウェアは己の全精神力を込めた人の頭ほどの白炎を生み出し、“カッター・トルネード”が切れるのを待つ。
水のトライアングルもいつでもアイス・ストームを発動できるよう詠唱を終えた。
彼らに及ばないまでもライン、ドットなりに己が扱える最強の魔法を、生涯最高の集中力で詠唱する。
ウェールズも杖が折れそうなほど強く握りしめながら、“ライトニング・クラウド”を詠唱した。
始祖ブリミルの血を引くメイジとして、必ずここでコレを倒す。
全員が断固たる決意に満ちていた。
やがて竜巻は勢いを弱め、完全に途切れた。
城壁は荒廃した城を思わせるほど崩れ、城門もどこかへ飛んで行ったのか、しばらくすれば地に響くような音が数回響いた。
だがしかし。
メアリー・スーはそこにいた。
傷一つ負わず、髪を黒く染めた姿でそこにいた。
ぼんやりとした無気力そうな表情で、すべての人類に絶望を与えるために。
彼女は再び歩き出す。
「放てッ!」
炎、氷、雷、風、土、水。
すべての魔法がこの世ならざる少女を絶命させんと襲い掛かる。連続した弾着で凄まじい土煙があがり、視界は完全に奪われた。
そこにとどめと言わんばかりに二十メイルもの鋼のゴーレムが巨大な拳を叩きつける。
一撃では物足りぬ、と続けざまに拳の乱打を見えない敵にあびせまくる。ニューカッスル城を揺るがすほどの勢いでアルビオンの怒りを喰らわせた。
五十発も振り下ろしただろうか、土のスクウェアはようやくゴーレムの動きを止める。
土煙が濃すぎて何も見えない。温度変化に敏感な火メイジにすらなにもわからなかった。
みなじりじりと城の方へと後ずさる。
「……音、ありません」
ロバートの報告におお、とメイジたちはどよめいた。
ウェールズは恐怖を振り払うように“ウインド”を詠唱する。
これで仕留められなければどうすればいいのか、彼には見当もつかない。
「ラナ・ウィンデ!」
ざあっと天空大陸らしい爽やかな風が吹く。
土煙が晴れた先には果たして、メアリーはいなかった。
途轍もない安心感が貴族たちを包んだ。
「まだ油断するな!」
だがウェールズは鋭く言い放つ。
彼女が立っていた大地は原型をとどめていない。空から大岩が何発も落ちてきたかのようにボコボコだ。
炎の魔法のせいで周囲は熱く、アルビオンに似つかわしくないほど皆汗をかいている。白炎の影響か、ガラス化している大地もあった。
月明かりとかがり火を頼りに注意深く観察しても、闇の残滓は見当たらなかった。
ふぅ、とため息をつく。
強敵との対戦はありえないほどに精神力を削る。ましてや邪神に連なるであろうものの相手だ。
ウェールズのため息とともに、皆張りつめていた肩を楽にした。
「アルビオン万歳!」
『アルビオン万歳! 始祖ブリミル万歳』
バリー老の掛け声に皆歓喜の声をあげた。
事の経緯は不明だが一万の敵兵も片付いたのだ。
これから戦後処理がはじまる。
今までナイアルラトホテップ教団に洗脳されていた貴族もこれで正気を取り戻すだろう。
ウェールズの頭の中で様々な事柄が駆け巡る。
――まずは休もう、だがクロムウェルを捕らえるまでは油断ならんな。
先走ったロバートが城の蔵から上等な白ワイン樽を持ち出してきた。
だがウェールズに咎める気はない。あれらの相手は正気を削る。今はただこの安心感と勝利に酔っていたかった。
「ロバート、私にも頼む」
「はっ、殿下」
「陛下に知らせてきましょう」
バリーは玉座の間に向かって飛んでいく。
ナイアルラトホテップ教団の手にかかったものは少なくない。
今夜だってバリーの渾身の“カッター・トルネード”で罪なき平民を巻き込んでしまった。
だが勝利だ。
勝ったことを祝わねば先に進めない、彼らに顔向けできない。彼らの献身には今後の治世をもってこたえる。それが王族の務めだ。
ウェールズは“錬金”で造られた青銅のワイングラス片手に、地上を冴え冴えと照らす双月に誓った。
***
「陛下!」
バリーは玉座の間に繋がる扉を勢いよく開いた。
普段ならば衛兵もおり、格式通りにこの扉を通ったであろうが今は違う。アルビオンを襲っていた脅威は去ったのだ。これほどの慶びはない。一秒も早く己の主に伝えたかった。
ジェームズ一世は玉座に最後にバリーが入ってきたとき同様に腰を下ろしたままだ。
飛び込んできたバリーを見ても杖は下ろさない。
「殿下が勝利をおさめましたぞ!」
「知っておる。鬨の声がここまで聞こえたわ」
ニヤリと親しい者にしか見せない笑みをジェームズはこぼした。
「だが気を緩めすぎではないか、バリーよ」
「ですが、凄まじい戦いでした。すぐ緩めねば兵に影響を与えるでしょう」
「そうであったか。凄まじい魔法の応酬だったように聞こえたが、如何な敵であった?」
「この世のものとは思えぬ敵、としか説明できませぬ」
バリーは先ほどの少女を思い出す。
最後の晩餐を楽しんでいた時は、幽玄なる雰囲気を醸し出していたものの、ただの少女にしか見えなかった。
彼女に何が起きたのか、まったく予想もつかない。
「ただトリステイン大使に紛れていたミス・ロシュフォール、彼女でした」
「……一人に対してあのような大規模魔法をたたみかけたのか?」
「いえ、彼女は既に人ではありませんでした。もっと、名状し難い何かでしょうな」
少なくとも、彼女はアルビオンの処女雪よりも白い髪の女性だった。
それがどのような光をも吸い込む漆黒に染まろうとは、神でなくては不可能なようにも思えた。
「しかしニューカッスル城の前に駐屯していた不浄な輩はすべて消え去りました」
「おお、まことか」
「ええ、まるでミス・ロシュフォールがすべての邪悪の中心であったかのように」
「それはめでたい。明日は一日かけて勝利を祝わねばな」
ふと、バリーは自分の言葉が気にかかった。
―――すべての邪悪の中心―――
なにか心がざわめく。いや、久々にスクウェアスペルを行使したせいだろう、と思い込んだ。
そうしたかった。
「おや、そんなめでたい話なら我々も加えていただきたいですな」
物音ひとつしなかった。
今宵は風メイジの耳を誤魔化すような事態が多すぎる、とバリーは内心舌打ちした。
ついさっき彼が潜り抜けた扉の傍に、まるで影から染み出たように佇む二人の男。
腰に下げた杖をバリーは瞬時に抜いた。すでに大技を使っているため精神力は心もとない。
「何奴!」
「ナイアルラトホテップ教団大司祭、オリヴァ―・クロムウェルですよ」
「同じく、『閃光』のワルド」
――“伝声”を使うべきか。
だが相手はその隙を与えてくれないだろう。
クロムウェルはおぞましい装飾品を多数身に着けているが、メイジではないただの人間であるようにも見える。
一歩後ろに控える青年は違う。
『閃光』のワルド。オールド・オスマン、『烈風』カリン、ド・ゼッサールなど強力なメイジを多数抱えるトリステイン王国でも五本の指に入る使い手。
若い世代ではカリスマ性もあり、将来を熱望されていたメイジだった。
――洗脳されていたか。
ワルドの瞳は昏い。
思えば戦場で結婚式を、と言い出すあたり違和感を覚えてはいたのだ。バリーは決定的な確信をもてなかった自分を恥じた。
ワルドが一歩前に出て、軍杖をすらりと抜き放った。
その姿は堂々たるもので一分の隙も見当たらない。
単純な魔法合戦ならバリーにも勝機は見いだせただろう。
しかしワルドは体術にも秀でる麒麟児とも呼ぶべき逸材だ。後ろにジェームズ一世を庇った老メイジでは万に一つも勝ち目はない。
――どうすればいいのだ。
バリーの苦悩をよそにクロムウェルは朗々と語りだす。
「あなたたちは聖母様を倒し、一安心と思っているでしょう」
両手を広げて一歩踏み出す。ワルドもクロムウェルを人質に取られぬよう背中に庇いながら一歩踏み出す。
城内の燭台は十分な灯りと言えなかったが、クロムウェルの嬉々とした表情がわかる程度には明るい。
「しかし、非常に残念です。私がいる限り教団は何度でも蘇ります」
『閃光』が奔った。
「その一言が聴きたかった」
ぼとりと、クロムウェルの首が落ちた。その眼は開き切り、自分の死を理解していないようだった。
音もなく彼の背後から現れた白い仮面の男は変装を解く。
「ワルド子爵」
「陛下、無礼をお許しください」
片膝をついた青年の瞳は、狂気になど染められていない。立ち振る舞いは洗練されており、貴族として如何に彼が努力を重ねてきたかが伺える。
クロムウェルがこの上ないほど油断したところで遍在による暗殺。
その早業はまさに『閃光』の二つ名に恥じないものだった。
「玉座の間を汚したことと陛下を欺いていたことを我が罪をお許しください。彼奴めが教団の核であることを確信するまで動くわけにはいかなかったのです」
「いいとも子爵、アルビオン国王として許そう」
ジェームズは鷹揚に頷いたが、杖からは手を離さなかった。視線は猛禽類のように鋭くワルドを貫く。心中をはかることができたのか、ようやく玉座から腰を上げた。
バリーも杖を構えながらクロムウェルの首に近づく。不思議なことに、胴体からも首からも赤黒い液体は流れ出ない。
これはいよいよ人ではなかったか、とバリーは更に近づこうとした。
―――はははははははは――――
玉座の間に冒涜めいた嘲笑が響き渡る。
瞬時に三人は動いた。
ワルドはクロムウェルの体へ、バリーはワルドへ、ジェームズはクロムウェルの首へ杖を向ける。そのままじりじりと互いの間を詰める。
ワルドから殺気を感じられないことからバリーはクロムウェルの首に注視する。先ほどは開き切っていた瞳が穏やかなものに変わっている。
あっと叫び声をあげそうになった。
「子爵、君は重大な勘違いをしている。そもそも私は君の裏切りに気づいていたのだよ」
「……っ」
身体から分かたれたはずのクロムウェルの口が動いている。
どのような手段をもってかはわからないが、確かに彼は喋っている。ワルドは喉元が詰まるような、言い知れないおぞましさを覚えていた。
クロムウェルはなおも続ける。
「様々な証拠があった。特に決定的なのは君が正気を保っていたことだ」
「なぜ見逃した」
「意味がないからだよ。たとえ手心加えたライトニング・クラウドでガンダールヴを生き延びさせようとね」
ごくりと男三人は生唾を飲む。
首だけで無様にも生き続ける男を前に具体的行動にうつれない。
「確かに教団は私がいなければ終わりだ、皆解散してしまうだろう」
「……ならば、我々始祖の血統が勝利したということだな」
ジェームズ一世はクロムウェルの目を睨んだ。
「ええ、そうでしょうね。ナイアルラトホテップ教団には勝利しました」
背筋が凍るような、ぞわりと気味の悪い感触が三人を襲った。
途轍もなく巨大な存在に、深淵から覗き込まれているような感覚。
「聖母様は別ですが」
「何を言うか!」
「母のペンダントは確かに貴様から最も強い邪神の気配を感じていた。ミス・ロシュフォールなど小娘にすぎん」
くつくつと不気味な笑いをクロムウェルはこぼす。
「それは模造品の輝くトラペゾヘドロンのせいでしょうね。我らの望みは聖母様の降臨、その一点に尽きる」
だがそのメアリーはすでに倒されたはずだ。
バリーの耳は確かに魔法斉射が直撃したことを聞き取っていた。如何な魔物であろうともあれほどの攻撃を前に生き延びることは不可能。さらに土煙が晴れた後、あの大地に一かけらの闇も存在しないことを確認した。
あの状態ではどうあっても……。
「偏在か!?」
メアリーは元々風のスクウェアだ。
始祖ブリミルの加護を受けているとは思えない相手が、まさか“偏在”という高位の風スペルを扱うとは予想もしなかった。
だが、クロムウェルは首だけの姿でため息をついた。
「莫迦にしてくれるな」
瞳には怒り。地獄の底で燃え盛るような黒々とした憤怒が浮かんでいる。
その迫力に三人は一歩後ろにたじろいた。
「あの程度で我らが聖母様を討ち果たしたとは、猟犬に頭の中身を啜り取られたとしか思えませんな」
城門から叫び声が聞こえる。
それはさっきから変わらなかったが、違う。
さっきまでは確かに笑い声が、歌声が聞こえていたのだ。
それが明らかに悲鳴に変わっている。圧倒的な絶望と魂からの恐怖の絶叫に変質している。
「バリー殿!」
「陛下、この身は殿下の杖へ」
「うむ、この城が朕の墓標じゃ」
バリーとジェームズ一世は視線で長い付き合いをの別れを惜しんだ。
「陛下、お達者で」
「ウェールズを頼む」
「陛下、失礼します」
バリーとワルドは一礼すると窓から飛び降りて行った。
「さて……」
亡国の王は玉座に腰掛ける。王杖を強く握りしめた。
クロムウェルの首はそれを見てただ嘲り笑っていた。
***
目覚めは決して心地よいものではなかった。
「つぁ……」
才人は城を揺るがすような轟音で無理やり意識を覚醒させられた。続く地響き、起き抜けの頭には何が何やらわからない。
ともあれ固い地面の上、お月様が見下ろす中庭で才人は目を覚ました。
「つぅ~、なにが……」
その瞬間思い出した。得体のしれない聖職者風の男を、裏切ったルイズの婚約者を。そして自分を貫いたであろう雷撃の白い光を。
「あの髭野郎ッ!」
同時に考える。
――あれ、俺なんで生きてるんだ?
ワルドが本当に裏切り者なら才人を生かしておく理由はない。むしろ百害あって一利なしだ。
熟達した風メイジは離れた相手の心音をも聞き取る、とはルイズの付き添いで出たギトー先生の魔法の授業で学んでいる。
才人の主観で、ワルド子爵はいけすかない髭だったが風のスクウェアと言っていた。
――なら俺が生きていたことに気付いてたんじゃ?
ぶるんぶるんと頭を振る。
――いや、あの髭のことだから慢心してたに違いない。アイツはきっと敵だ。
とりあえず才人は先入観でそう決めつけた。ひどい損傷もないパーカーについた草を払ってから立ち上がる。
さてどうするんだっけ、と悩んだときワッと鬨の声が上がった。
『アルビオン万歳! 始祖ブリミル万歳!』
――なんだかよくわかんないけどめでたそうだ。
この時ようやく才人は避難港を目指す、という目標を思い出した。
ワルドの裏切りに続き雷撃を受けて気絶と精神的ショックを受けることが多すぎてつい忘れてしまったのだ。
「とりあえず行けばいいか」
――歓声があがっているなら人もたくさんいるに違いない。
それに喜んでそうだから危なくもないだろうし、誰かに髭野郎の裏切りを伝えないと。
詳しい道順は解らないが、才人は歩き出した。
未だニューカッスル城では多くのかがり火が灯されていたが、それが逆に強い陰影を生み出し不気味な印象を与える。月明かりだけならばいっそ神々しく感じられただろう。
才人は柱の陰から幽霊でも出るのではないか、と若干身構えながら笑い声の方へ向かう。
ここで剣の一本でもあればもう少し彼も堂々と歩けたかもしれない。
ルイズは才人に武器を買い与えなかった。
彼はアニエスやコルベールと理由も知らされず修行に励んでいるが、すべて木剣で行っている。
『その内あなたにしか扱えないものを授けるわ』
なんてルイズの言葉に、それなら仕方ない、と深く考えずに頷いた。
自分専用、なんと心に響く単語だろうか。どんな漫画だって専用というのは大体強い。
才人はすごい装飾がついていて、一振りすれば風やら炎が飛び散るような剣を想像してみたが、ありえないなと否定した。
何より使いにくそうだ。
そんな彼女とのやり取りを思い返しながら心は明るく、実際には暗い城内をひたひたと歩く。
才人は気づいていない。
いくら笑い声を頼りにしているとはいえニューカッスル城は複雑だ。まっすぐ城門に出ることは、客人には難しい。だというのに迷うことなくぐんぐん城門へ近づいている。
避難港を探して中庭に出てしまった時と同じように、自分の感覚を信じてひたすらに足を進めていく。
角を曲がると長いトンネルの出口のように、外への通路が視界に入ってきた。
笑い声はそこから聞こえる。やっとマトモな人に会えると安心感から先ほどまでの様子とは一転、スキップさえしそうなくらい上機嫌で才人は歩き出した。
城内の燭台なんかよりもかなり強い光が外から差し込んでいる。踊るように外へ出た才人が見たのは、大きな焚火だった。
「おや、君はラ・ヴァリエール嬢の」
「何があったんですか?」
最後の晩餐の時に見た悲壮感は誰の顔にも浮かんでいない。
むしろ場末の居酒屋で喜んでいるようなおっさんばかりのようだ、と才人は感じた。
それもそのはず、城の前にいた敵は軒並み消え失せて、新たにやってきた有り得ないほど強大な敵を仕留めることに成功した。一瞬でも気を抜けば正気を失いかねないほどの戦いを終え、今は生き延びた歓びを分かち合っていたのだ。
そこかしこで笑い声が飛び、アルビオンを讃える歌声が聞こえる。
「来た、見た、勝ったというヤツさ異国の客人よ!」
来たのは向こうからだったがな、と酒で顔を真っ赤にしたメイジは笑う。
――この人、確か晩飯の時今にも死にそうな顔してたよな。
普段は気弱なロバート・ハートも白ワインをがぶがぶ飲んでひたすらに喚いている。現代日本でもこれほどたちの悪い酔っ払いは見たことがない。なるべくならお近づきになりたくない部類の人だ。
そんな才人の顔色を悟ったのか、金属製のワイングラスを片手に持つウェールズが部下のフォローを入れた。
「彼は限界まで集中していたのだ、許してやってくれ」
「そんな、とんでもないです」
慌てたように右手を顔の前で振ると、ウェールズはふっと笑った。サマになる笑顔だ。
顔を見合わせているのも変だと思い才人は周囲に目をやった。
焚火を中心に手をもにょもにょさせて踊っているものを筆頭に、みんなに笑顔が溢れている。
「アルビオンの危機は去ったということさ」
才人が目を留めたのは、抉れに抉れた地面だった。
何をすればこんな風になるのか、彼には分らない。一部の地面が焚火の灯りと月明かりでキラキラと光を反射し、土中のケイ素が溶融したことを示していた。
そのすぐ傍には大きな大きなゴーレム。光沢と色合いから青銅ではなく鉄、もしくは鋼のようで、ギーシュの戦乙女とは桁が違う。高さだって二十メイル近くはありそうだ。
「すごい戦いだったんですね」
「ああ、だがこれからが本当の戦いだよ」
ウェールズははぁ、とわざとらしくため息をついて見せたが表情は嬉しそうだ。
心底安堵しているに違いない。
ふと、ゴーレムを見上げていた才人の視界の端に何か映った。
――あれ?
黒髪の少女だ。
隕石が連続して落ちたかのようなクレーター地帯にいつのまにか佇んでいた。後ろを向いていてその表情はわからず、また身にまとっている真っ黒なローブも見たことがないものだ。
身長はルイズと同じくらい、櫛を通しても抵抗一つなさそうな漆黒の髪は長く腰まである。服装と髪の色こそ違うが、才人は旅に同行した少女に似ていると思った。
ぞわぞわと背筋がざわめく。
例の“許せない気持ち”が湧き上がる。
「どうしたんだい?」
ウェールズが才人の視線を追う。
「は……」
爽やかな笑顔が凍った。
持っていた杯は重力に従い、ワインは空の地へ還った。そこまで大きな音はしなかったが、宴に興じていたメイジはすべてウェールズに目を向けた。
そしてその視線をたどり理解した。アレがいることを。
才人は震えが止まらない。
それは恐怖の震えだ。
人間である以上アレを打倒すことはできない。雲の上よりなお高い場所から見下ろす窮極にして最悪の存在、その片鱗だ。
それは激怒の震えだ。
これ以上アレをハルケギニアに存在させてはならない。自らの命を投げ打ってでも倒さねばならない最悪にして窮極の存在、その片鱗だ。
矛盾を抱えた心は、才人から瞬き以外の一切の行動を奪った。
少女はゆっくりと振り返る。
「ロシュフォールさん……」
力ない才人の無意識下での呟き。
そこに込められていたのは絶望か、憐みか。
振り向いた顔は間違いなく彼女のものだった。
祝福を受けたかのように白い髪を、唾棄すべき常闇に染めた乙女だった。右目は奇怪な毒薬のように青く、左目は人体に流れる血のように赤い。
誰も一言も発せない。
アルビオンの空気が変わった。冷たさを伴いながらもどこか包み込むような優しさに溢れた風は、いまや体から熱を奪うためまとわりつき命を縮めようとしている。
滅びの宴が、今まさにはじまる。
不意に闇の少女が微笑んだ。
才人にはそう認識できた。
「がっ!」
「ば、げふっ!」
それだけで百名もいたメイジの三割が膝をつき、あるいは血を吐き倒れ伏した。白目を剥き痙攣するもの、口から泡を吹き気を失うものまでいる。
尋常の事態ではない。尋常の相手では、ない。
ここでウェールズははじめて自分の体が硬直していたことに気付いた。
頭がくらくらする。それでも薄く息を吸い、生きるために強靭な意志を乗せて叫ぶ。
「総員退避!!」
その声で咄嗟に動けた者はいなかった。
一拍置いてようやく動けた者も才人を含め三十名いなかった。さらに五秒ほど立って残る者が四十名ほどが動き出そうとした。
だが、遅すぎた。
黒の聖母は腕を振る。
蚊柱を払うように、力など一切込めた様子もなく右腕を振った。
それだけで出遅れたすべての貴族が五十メイル近く離れた石造りの城に叩きつけられた。
「なんだと!」
「ありえんッ」
杖も持たず、詠唱もなく七十名もの人間を吹き飛ばす。
先住魔法を使っても優秀なエルフであろうとも不可能な業だ。邪神の所業というに相応しい。
叩きつけられた人間は、全身から赤黒い液体をこぼし、城にめり込んだまま身動ぎひとつしない。
派手な音はしなかった。大半の者は、信じられぬと眼を見開いていた。絶命しているのは傍目にも明らかだ。
冥闇を纏う少女から一定の距離をとることに成功していたものは、幸いにして無傷だった。
腕を振った瞬間感じたのは強い風、時折アルビオンを襲う嵐のように荒々しい風だ。
対処する術などない。
「退避退避退避! 生き延びることだけを考えろ!」
ウェールズが必死に飛ばした号令に、貴族は背を向けず退避をはじめる。
そこに逆走する影があった。
才人だ。
「おおッ!」
彼は転がっていた杖剣を握り、左手のルーンを輝かせながら暗闇を従えた少女に突撃した。
右腕に切りかかるも刃がその肌を傷つけることはない。
一切の衝撃が吸収された、奇妙な感触。漆黒を凝縮したような衣が蠢いていた。
「ちぃっ!」
全力で後ろに跳ぶ。
ガンダールヴのルーンは身体能力向上をもたらす。才人は素早く十メイル近くの距離をとった。
「逃げろ!」
「無理です」
「なぜだ!」
ウェールズの叱責にも才人は冷静に、短く答える。
視線はメアリーから離さない。
それだけでも並みのメイジには不可能な、虚無の使い魔である証左だ。
才人がここに立っているのは完全な自分の意志ではない。ガンダールヴのルーンが間違いなく影響している。
「ここで何とかしなきゃ、この星が」
彼女を包む漆黒の衣が内部で卵が産まれているかのように膨れ上がった。
「危ないじゃないですか!」
間をおかず放たれた幾条もの闇を才人は杖剣で払いのける。物質面での干渉はできるようだ。
黒の触手は数が多い、海底で蠢くグロテスクな魔物のように才人を捕らえんとする。
小刻みに足を動かしながら、触れれば命を奪われるであろう漆黒の間を縫うように回避していく。
平賀才人は深く考えない。
ここで退いたら自分に良くしてくれた気高くあろうとした少女や、優しかった厨房の人たち、少しだけ話した避難船の人々がどうなるか。
ただそれだけを考える。自分が逃げれば彼らがどうなるかだけを考える。
退避命令が出ているにもかかわらず、すべての貴族はその姿から目を離すこともできず立ち尽くす。
父王と同じく、ウェールズは杖が鳴るほど強く握りしめた。
***
平賀才人は剣を振る。
――なにやってんだ俺。
触手の動きは素早く、時にかわしきれないものもある。常人ならかすめただけでも狂気に触れかねないほどの瘴気を孕んでいる。
――異世界来て、ボコられて。
だが才人は正気を保っていた。思考はこれ以上ないほどクリアだ。
――女の子泣かせて、厨房手伝って。
鈍重な意識が研ぎ澄まされていく。
――城に呼ばれて、邪神のこと聞かされて。
身体が軽く、不思議な力に溢れてくる。
――髭にボコられて、変な空飛ぶ大陸に来て。
“ガンダールヴ”の力は今まさに羽化の時を迎えていた。
――一緒に旅した女の子と戦ってさ!
『ロシュフォール家の長女はかの邪神に連なる可能性が高いです。お気をつけて』
才人はメアリーのことをほとんど知らない。
だが彼は人の評価を、アンリエッタの言葉を鵜呑みにするような人間ではない。
確かに自分の心が叫ぶ“許せない気持ち”はあった。
『彼女は風のスクウェアと聞く。その力は必ず役に立つ、是非同行してもらうべきだ』
実際不気味な笑みを見せたときはシエスタを背にかばったこともある。ワルドが連れてきて「大丈夫か?」と疑いもした。
でもこの旅路で少しだけ話をして、変人だけど悪人であるとは思えなかった。
少なくとも、人の運命で遊ぶような輩に弄ばれる筋合いはないと感じた。
「ふざけんなぁぁあああ!!」
その怒りは誰に向けたものか。
始祖か、ルイズか、不条理な現実か。
どれでもない。
理由もなくハルケギニアを蹂躙しようとする、ただ一人の女の子を玩んだ邪神に対してだ。
才人とガンダールヴの咆哮だ。
左手のルーンがいよいよ輝きを増す。
軌道を逸らすしかできなかったはずの杖剣は、光閉ざされた夜を煮詰めても及ばぬほどの闇を切り裂いた。
暴れ狂う狂気の鞭に、一歩も引かぬと瞳をギラギラ輝かせて才人は杖剣を振るう。それどころかじりじりと歩を進め恐るべき存在を倒そうと近づいていく。
彼我の距離はおおよそ五メイル、達人ならば一息に詰められる間合いだ。
ウェールズは英雄譚となるべき戦闘をこの目にしていると感じた。
しかし才人が鬼神の如き強さを発揮しても手数が違いすぎる。このままではいずれ斃れてしまうだろう。
「デル・ウィンデ!」
その時、一閃の“エア・カッター”が闇を切り裂いた。
ロバートが顔を青ざめさせながら、才人を狙う黒闇を狙い打ったのだ。
「アルビオン万歳!」
若い貴族は叫ぶ。
先ほどの歓びに満ちたものではない。それでも、その場にいたすべてのものに希望を、今なすべきことを思い起こさせる決定的な声だった。
「彼を援護しろ! あの怪物をアルビオンから出してはならん!」
『アイ・サー! アルビオン万歳!!』
ウェールズの命令にすべての兵が声を張り上げる。
城門での再現、数多くの魔法が放たれた。
炎、氷、雷、風、土、水。
密度は比べ物にならないほど薄かったが、今の彼らには圧倒的な恐怖ではなく、微かな希望が見えていた。
一人の英雄がこの世を闇に閉ざそうとする邪神を打倒せんとしている。彼らはその補助に過ぎない。
だが、ともに英雄譚を築き上げようとしているのだ。
鼠の一歩のように小さく、亀の歩みのように遅く。
それでも才人はメアリーに迫っていた。
すでにその距離は三メイル程になっている。
「ッづあ!」
才人の隙を突き一本の太ももを傷つける。それは均衡を崩す一撃であり、才人の退路を塞ぐ一撃でもあった。
動きが鈍る。
触手が殺到する。
――くそッ!
口にする間もなく漆黒は才人を貫くだろう。
ぐっと歯を食いしばって目をつぶる。
予想していた痛みは来なかった。
「やれやれ、間一髪か」
「殿下、お待たせしました」
マントを翻して伊達男が才人の前に立つ。
『閃光』の二つ名を持つ風スクウェア、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。
「てめ!」
「早く立て!」
ワルドは“ブレイド”で迫る暗黒を払っていく。
才人のように切断とまではいかない。
「ふっ」
が、軽く息を吐いて集中すると邪悪の権化が切り落とされる。
体勢を立て直した才人も痛みを忘れたように獅子奮迅の働きを見せる。傷つく前よりもその剣技は冴え、左手のルーンはより強く輝いていた。
その光景をウェールズは信じられぬ思いで見つめていた。
――英雄が二人、勝てぬはずもない。
「たたみかけよ!」
『アルビオン万歳!』
ウェールズ自身もあとのことを考えず、ありったけの精神力を注ぎ込む。民の怒りを、大地の怒りを、始祖の怒りを受けよと全力で魔法を放つ。
才人は不思議な高揚感を覚えていた。
相変わらず歩みは遅い。
だというのに何も心配いらない。
隣に立つこの嫌味ったらしい子爵がこの上なく頼もしい。
二人揃えば何者にも負けない、そんな自信を得られるほどに。
一方のワルドも心地よいリズムに酔っていた。
ガンダールヴはラ・ロシェールで試したときなんかよりもよっぽど強くなっている。
クロムウェルと対峙していたときの不気味さなぞなんのその。
殿下を連れて逃走することも、一秒も早い退避も必要ない。
雨のように降り注ぐ攻撃に一歩も引かず、すべて斬り捌いていく。
二人揃えば恐れるものはない、そんな確信を得られるほどに。
そして演武は唐突に終わりを告げる。
間合いを一メイルにおさめた才人の杖剣はメアリーの右腕を切り飛ばし、ワルドの杖剣は彼女の心臓を貫いた。
「ぁ……」
か細い少女の声に、才人の胸は痛んだ。
ワルドは心臓に突き立てた杖を右に振り切る。
羽が落ちるように音もなく、黒髪の少女は大地に倒れた。
熱狂に満ち満ちていた空間に、しんと静寂が落ちる。
聞こえるのは英雄たちの激しい呼吸音だけ。
一陣の風が吹き抜けた。
「は、はは」
ロバートが笑う。生き残った皆は顔を見合わせた。
ワルドはまだブレイドを解かない。じっと倒れた聖母を見つめている。
才人は自分の手に残った、人の腕を斬った感触に震えていた。
ウェールズが右手を夜空に突き上げた。
「アルビオン万歳! 始祖ブリミル万歳!!」
誰もが答える。
『アルビオン万歳! 始祖ブリミル万歳!!』
ようやくワルドも杖をしまう。
才人はふらふらと歩き、ばったりと背中から倒れ込んだ。
月明かりがヤケに眩しかった。
――右腕とは言え人斬っちまった。てか殺したも同然か……。
自分がもう何か違う存在になってしまったのではないか。
そんな思いが才人の涙腺を刺激した。
仰向けに倒れた才人の隣にどかっとワルドが片膝を立てて座った。
「ライトニング・クラウドの件はすまないね」
「痛かったよ、ぜってーゆるさねぇ」
「杖を並べて戦った戦友だろう? 笑って許すのが礼儀さ」
ははは、とワルドは笑う。
ウェールズもそうだがどうしてこうハルケギニア貴族は軽い笑いが似合うのか、才人は考える。
自分がそんな笑いをしても全然似合わないということしかわからなかった。
「死体を焼け、今度こそ影の一欠けらも残すな」
「はっ」
三名のメイジが倒れた彼女に近づいた。
人が火葬される。そんな光景を見たくなくて才人は隣のワルドを見た。
「あんた、裏切ってなかったんだな」
「密偵というヤツさ。それにアレらは母の仇だ」
それも終わったが、と寂しげに呟く。新たに生まれた炎がその横顔を照らした。
パチンと火が爆ぜる。
身体を一刀両断にされたかのような、凄まじい悪寒が才人を襲った。
「逃げろッ!」
何故、どこに、どうやって。
そんな疑問お構いなしに才人は叫びながら杖剣を構える。新たに生まれた焚火、メアリーの体に向かってだ。
ワルドも咄嗟に立ち上がり杖を構える。
彼女を焼いていた三名は反応できなかった。
悲鳴ひとつあげず、突如現れた浄化の炎すらかき消す冥闇に飲み込まれた。
「あ……」
降臨したのは、三メイル程度の不可思議な獣だった。
馬をはじめとし、地上に存在する尋常の生物は偶数本の足を持っている。幻獣や、虫の類であってもそれは例外ではない。
だというのにそれは三本脚だった。
二本の脚に肥大化した尻尾というわけではなく、直線でつなげば三角錐となるような真実三本脚だった。いずれの脚にも蹄らしきものがついている。
大地をあまねく照らす始祖の恩恵をも犯さんとする名状し難い色の体。均質でなく、ありとあらゆる背徳がその肌にひしめいている。
長い腕に指は三本、顔と思しきところは杳として知れず計り知れぬおぞましさのみが立つ。
頭にはメアリーの長髪が固まったような、長い奇妙な生物の触手めいたものを一本ぶら下げていた。
「つ、月に……」
ウェールズは端正な顔を真っ青にした。
彼は知っている。この姿はかの邪神がとる姿だ。
思えばあの少女は一度たりとも積極的攻勢には出なかった。迎撃に徹していた。
つまり、この瞬間まで、彼らは遊ばれていたことになる。
筆舌に尽くせぬ、この世ならざる雄叫びがアルビオンを揺るがした。
***
「おーがんばるなー」
名もなき魂が消えた空間、褐色の肌を持つ少年は感心したようなため息をついた。
「影の影の影くらいだから、千那由多分の一くらい? もっと低いか」
視線には歪んだ空間の先、そこからは激戦を終えたニューカッスル城が見える。
「でもなんであの程度で倒したなんて思えるんだろ」
三本脚の獣が城のそばで生まれた。
「しかし、元人間のくせにブリミルとやらもがんばるなぁ。意味ないのに」
あ、もともと意味なんていらないかと呟いて、再び少年はフルートを吹きはじめる。
***
「ミス・ヴァリエール。いかがなされました?」
「三人がいないの」
避難船が出発してしばらくのこと、ピンクブロンドの髪をなびかせてルイズは早足で隅々まで見て回った。厨房から倉庫まで、何度も同じところを探しまわった。
それでも彼女の求める人たちはいない。
才人、ワルド、メアリーの三名はどこにもいない。
「私は見ていません」
「わ、わたしも知りません」
表面上はいつも通りの顔をしたミス・ロングビルも、うっすらと恐怖しているようなティファニアも彼らを見かけていなかった。
――サイトどこ行ったのよ、まさか乗り遅れて今もニューカッスル城なんてことは……。
グリフォンがいるワルドはまだしも、ガンダールヴとはいえ平民の彼には脱出手段がない。
それに、そのワルドも様子がどこかおかしかった。
さらに言えば、メアリー・スー。彼女の存在が重く影を落としている。
『ロシュフォール家の長女はかの邪神に連なる可能性が高いです。お気をつけて』
どの深度までかかわっているか、という重要な情報がない以上判断しにくい。
だが虚無の担い手見習いとして、ルイズは嫌な予感に包まれていた。
「ティファニア様! “伝声”によるとアルビオン軍が二度にわたり敵を撃破! ウェールズ殿下ジェームズ陛下御健在とのことです!」
「ぇ、よかった……」
駆け寄ってきた伝令の報告にティファニアは安堵の涙をぽろぽろこぼしてしまう。
マチルダはティファニアの肩を抱いて背中をさすってやる。
喜ぶべき勝利の報告だ。だというのにルイズの不安感は消えない。むしろ大きくなっている。
不意にルイズの視界が滲んだ。
涙などではなく、左目の視界がぼやけている。
「あれ」
「ミス・ヴァリエール?」
ルイズはハンカチで瞼をこすった。
何度か瞬きしてみるも変わらない、だんだんはっきりとした視界になっていく。
ワルドの姿が目に入った。ここにいないはずの姿に、ルイズはある意味納得した。感覚共有だ。
同時に浮かぶ疑問、なぜ今なのか。
その時だった。
この世全ての生物を呪わんとする絶叫が轟いたのは。ばたばたと避難船の人々が倒れていく。意識を保っているのはメイジだけだ。
さらにルイズは、信じられない光景を目にした。
「月に吼えるもの……」
無理だ。勝てっこない。今の彼らではどうあがいてもアレを打破できない。
「“伝声”で伝えて、殿下たちに逃げてって伝えて!」
ルイズの泣き叫ぶような声に兵たちは反応できない。
何が起きたのかもわからないのだ。
「はやくして!」
「はっ!」
船の上とはいえトリステイン大使、ましてや公爵家の三女だ。
一瞬悩んだ兵はすぐに詠唱する。
「ダメです、通じません!」
今度の悲鳴じみた声はその兵からだった。
「魔法は発動してます、まるで世界から切り離されたみたいに通じません!」
「なんてこと……」
ぐらりと倒れかけたティファニアをマチルダが支える。
――どうすればいい。どうすればいいのよ!
ルイズは必死に考える。
勝機がない、それこそアリがマンティコアに挑むようなものだ。
ウェールズ、才人、この二人はなんとしてでも救い出さなければならない。
王家の血を色濃く継いだウェールズは、これからのハルケギニアを覆う闇に抗するためなくてはならない存在だ。
それに、才人はルイズが無理やり異なる星から引っ張ってきた客人だ。
巻き込んだ自分が死ぬのはいい。けれど彼が、涙すら包み込んで優しく抱きしめてくれた少年が死ぬのは、ルイズには耐えられない。
――始祖ブリミルよ、天啓を!
果たして、祈りは届いた。
唯一の解法をルイズは得る。
「ミス・モード、サモン・サーヴァントをお願いします」
「……え?」
「召喚のゲートなら、うまくすれば生き残りを脱出させられます!」
黒髪の少年、平賀才人はガンダールヴだ。
ならばその前に最後のゲートが現れるのは必然。
一か八かの賭けになる。
始祖が祈りに応えてくれることを願うしかない。
「早く! あなたが殿下を救うのです!」
「!」
ティファニアの長い耳が揺れた。
マチルダは何も言わない、ただ姉のような眼差しで彼女を見守る。
ハーフエルフの少女は一度目を閉じ、深呼吸した。
「わかりました、やります」
開かれた瞳に、もはや怯えはなかった。
***
「なんだよコイツは!」
「僕に、聞くなッ」
双月への咆哮は、ギリギリのところでもちこたえていた人間の正気を軒並み刈り取った。
死ねた者はまだマシで、今も地面の上を無様に悶えている者も多い。
その瞳はもう何も映さない。昏い狂気しかない。
「これで、最後とッ! 願いたいね!」
人知の及ばぬ狂敵と三連戦、すでにウェールズの精神力は限界だった。
立ち上がり、相手に対峙しているのはもう十名しかいない。
三本脚の生き物はメアリーと違い直接的な攻撃しか行わない。
その長い腕を振り回すか、脚で踏み砕くか、はたまは蹴り飛ばすか。
先ほどの常識はずれな手数の多さはなく、回避もまだ容易かった。
にもかかわらず状況は絶望的だった。
「これ、効いてんのか!?」
「本人に、聞いてくれッ」
幾度となく魔法を浴びせても反応ひとつ返さないのだ。
それどころか才人とワルドが斬りかかっても容易く貫通する、だが切断はされない。
相手の攻撃は確かに大地を砕いているのにこちらからは一切干渉できない。
幽霊よりも底知れない相手だ。
――これは、勝てないな。逃がしてもくれなさそうだが。
この場にいるものは、大体がそう考えていた。
才人とワルドは接近戦から十メイル近く距離を取る。
相手は何を思っているのか、顔らしき部分で月を見上げている。
「あのさ、顔っぽいの、あやしいよな」
「そこしか、あるまい」
肩で息をしている二人の勇者はお互いの顔を見ることなく不敵に笑う。
いざ、と踏み出して斬りかかるも手ごたえはない。
この激しい剣舞の中で隙を見つけねばならない。高さ三メイルの的を攻撃できるくらいの刹那を。
だが才人も疲労がたまっている。
攻撃の余波で抉れ飛ぶ岩石にあたり、ごろごろと壁際まで転がってしまう。
そして致命的な隙を、敵に背中を晒してしまう。
――ヤバい!
その時のことだ。
「へ」
音もなく銀のゲートが才人の前に現れた。
表情もわからぬ獣が嘲笑った気がした。
この鏡のような物体が何なのか、わからない程愚鈍なものはこの場に生きていない。
誰かが使い魔を召喚しようとしている、それもガンダールヴを。今ハルケギニアでガンダールヴを召喚できるのは一人しかいない。
最後の虚無、ティファニア・モードだ。
「ゲートを守れぇえええ!!!」
ウェールズは絶叫した。
それに呼応するかのように獣は進撃を開始する。銀のゲートを目指して、虚無の担い手を始末するために。
次々と生き残りの貴族がブレイドを唱えて獣に斬りかかった。
あるものは薙ぎ払われ、またあるものは踏みつぶされた。数合持ちこたえるものもいれば瞬時に蹂躙されるものもいた。
だが誰もが奮い立ち挑みかかっていく。
このゲートはまさにハルケギニアだ。これをくぐらせれば、世界は闇に包まれる。
才人も向き直り杖剣を大上段に構える。
アニエスとコルベールに教わったとは言え、彼は剣術に詳しくない。
ただ大きな相手だからと剣を上に構えただけだ。
「君はそっちだ」
「え……」
トン、と軽く腹を蹴られた。
才人には見せたことのない優しげなワルドの微笑み。
「この星を頼む」
「そんな!」
才人の体はずぶずぶとゲートに吸い込まれていく。
ワルドは素早くペンダントを引きちぎり、ゲートに投げ込んだ。
「御無礼!」
「げはっ!?」
ロバートも追随してウェールズにエア・ハンマーをぶつける。
そして二人を飲み込み、銀のゲートは宙に溶けた。
場に残されたのはロバートとバリー老、そしてワルド。
いずれ劣らぬ風のメイジ、アルビオンの最期を飾るにはふさわしい。
「未来は殿下と少年に託した。逃げる精神力もない」
「往きましょうか」
「ええ、始祖ブリミル万歳!」
三人は笑ってブレイドを唱える。
敵に背を見せない、真の貴族の姿がそこにあった。
***
「さて、終わりが来たようですな」
「ああ、だがアルビオンは滅びぬ。ティファニアがまだいる」
「愚かな。聖母様がおられる限りハルケギニアに未来はない」
「そうでもないさ」
クロムウェルに対して、ジェームズ一世は穏やかに笑う。
「六千年も我らが祖先は凌いできたのだ。これからもできる」
「……希望的観測はとめませんがね」
「では、お別れだ」
「我らが神のみもとで歓迎しましょう」
「断る、朕が向かうのは始祖ブリミルの下よ」
杖を一振り、唱えるは「発火」。
ニューカッスル城は白光に包まれ、轟音と共にこの世界から姿を消した。
***
才人とウェールズは避難船の甲板に重なって倒れ込んだ。
素早く立ち上がろうとしたが二人とも満身創痍で体が言うことを聞かない。特に才人は武器を手放しており、ガンダールヴのルーンが働いていない。
激烈な痛みに絶叫しそうになった。
「お兄様!」
「殿下、ご無事で何よりです」
「ここは」
「避難船の上でございます」
ティファニアがウェールズを助け起こし、ルイズは才人を壁にもたれさせた。
「サイト、ワルド様とメアリーは?」
その言葉に才人は何も返せない。自分が倒れこんだ場所にあったペンダントが目に入る。
その時爆音が轟いた。ニューカッスル城を赤々と炎が包んでいた。
「父上……」
ウェールズの呟きが風にとけた。ティファニアは従兄弟の胸に飛び込み嗚咽を漏らした。
すべてを察したのか、ルイズは唇を強く噛む。
「くっそ、ちくしょう……」
怒りと悲しみと悔しさの入り混じった涙が、少年の頬を濡らした。
この日より、ハルケギニアに月亡き夜よりも昏い時代が訪れる。