「ふ、ふつつかものですけどよろしくお願いしますっ!」
――え、マジでいいの?
才人はそんな思いを口には出せなかった。
目の前のちょっぴり耳のとんがった女の子はとんでもなく可愛い。
彼のご主人様であるルイズ・フランソワーズとタメをはるか、人によっては彼女を勝者とみなすだろう。
腰くらいまであるさらっさらの金髪にうるるんと濡れる瞳、艶やかな唇に才人は目をうばわれた。
上目遣いの威力に彼は血反吐をはきそうなダメージを受ける。
胸中では緊張しているに違いないのに、王族だからと少しがんばっている様子なんてもうたまらない。
そしてなによりも、その胸。
『それは胸というにはあまりにも大きすぎた』
そんなフレーズが才人の脳裏をよぎる。
服で隠していてもわかるそのサイズ、圧倒的質量。
ルイズが美少女であることは疑いの余地がない、しかし胸という評価を加えれば大差がついてしまう。
世の中特殊な趣味の人もいるらしいが才人は巨乳派だ。
知らず生唾を飲んでしまう。
――マジで、マジでいいんだよな? これはご褒美に違いない、きっとそうだ。
ありがとう神様、なんて信じてもいない妄想上の人物に感謝してから、自然に手が伸びてしまっていることに気付いた。
――な、なんて魔力だ……!
才人は戦慄した。
色々と張りつめていたものがガラガラと崩壊して彼を一人の高校生に戻す。
いつものパーカーとジーンズではなく、着慣れないハルケギニアのカッターシャツとスラックス姿だが関係ない。
今の彼は、ただの男だった。
おっぱいによって、平賀才人はありとあらゆる葛藤を薙ぎ払われ、一介の男児に戻るのだ。
一方彼のことを良く知らないハーフエルフの少女、ティファニアは「んっ」と唇を突き出した。
彼女はただ一途に自分の使命を果たそうとしている。
才人にキスをする、もっと言えばコントラクト・サーヴァントを完遂すること。
それしか考えていないので彼の邪念を察知することは、残念ながらできなかった。
しかし、彼女に感じ取れなくても他に人がいれば話は別だ。
知らず手をわきわきさせていた才人は強大な威圧感に包まれた。
思わず違う意味で生唾を飲んでしまう。
――だ、誰だ俺の野望を邪魔するのはっ!
ばっと才人は部屋の中を見回す。
まずティファニア越しに目についたのは、中性的な顔立ちをしていて最上位の法衣に身を包んだ男性、ブリミル教の頂点に立つ教皇、聖エイジス32世。
彼は円卓についたままたおやかに微笑むばかりで、むしろ才人とティファニアの口づけを待ち望んでいるようにも見えた。
その傍らに佇んでいる鮮やかな金髪に鳶色と碧色の月目、才人に言わせれば「イケメン」の一言で済むジュリオ・チェザーレも同じだ。
彼は教皇ほど純粋な微笑みではなく、野次馬的なニヤリとした笑みを浮かべている。
いかにも下町っ子といったその表情はキザったらしい笑顔を崩さないジュリオには意外なものだと才人は思った。
――違うな。
視線を左にずらす。
腕組みしながらむっつりと黙り込んでいるのは、青色の髪と髭がタバサそっくりな若々しく見える大国ガリアの王様だ。
ふわふわの白いファーがド派手な武農王ジョゼフ一世は静寂、とかく才人をじっと観察している。
だが害意を発しているわけではない、彼はシロだ。
彼のそばを離れない黒いピッチリした服装の秘書風黒髪美女、シェフィールドもクールな素振りで感情の揺らぎを見せない。
さらに左にはタバサを成長させればこうなるだろうという貴婦人、青いドレスのオルレアン公夫人が控えている。
彼女は目を閉じて静かに座っていた。
さらにはエルフと呼ばれる種族の、ビダーシャルという男も同様に腕組みをしていた。
――こっちも違う。
才人はそれ以上視線を動かしたくなかった。
でも見ないわけにはいかない。
右へギギギと顔を向ければ視界に入ったひくひく震えている唇、多分色々な感情のせいだ。
そのひきつった顔を戻せるのなら値千金の価値がある、と熱狂的なファンがつきそうな顔立ち。
右眉は怒り、左眉は困り、と器用に顔面の左右で表情を使い分けている、外見どころか中身まで立派な皇太子、ウェールズ・テューダー。
「彼は英雄だが、しかし従姉妹であるティファニアを、だが第四のルーンは……うぬぬ」なんてことを考えている。
その感情は至極真っ当なもので威圧感を伴うはずがない。
――残るのは……。
無意識下でスルーしたいと願っていたトリステイン勢とゲルマニア代表。
アンリエッタ王女は瞳をキラキラ輝かせて見入っている。
こちらはむしろ「早く早く!」と急き立てそうなほどだ。
かなり老け込んで見えるマザリーニ枢機卿は無関心に近い、どちらかと言えば祝福しているのではないか。
マリアンヌ太后は娘に任せるとし、今回の諸国会議には来ていない。
いかにも面白くなさそうな顔で腕組みしながら指をトントン動かしているのは帝政ゲルマニアを統べるアルブレヒト三世だ。
そして、彼のご主人であるルイズは……。
――笑ってる。
綺麗な笑顔だった。
彼女は笑わない、日常的に笑みを浮かべるタイプではない。
だというのに才人とティファニアを見守りながら穏やかな笑顔を咲かせている。
それがたまらなく奇妙で、才人の恐怖心をあおる。
そんな平常でない彼女から放たれる威圧感が才人の手を止めた。
――動いたらやられる。
何を、とかはわからない。
とにかくヤバい、それだけが大事だ。
才人はそろそろと手を下ろしてティファニアに向き直った。
瑞々しい果実のような唇に再び目をうばわれる。
――合意も理由もあるから問題ない、よな?
ゆっくりと顔を近づけていく。
――まつ毛長いんだな。
どうでもいいことを考えながら唇を寄せていく。。
ティファニアは動かない、ただ静かに才人の口づけを待っている。
互いの吐息がかかりそうなくらいの距離、威圧感が大きくなった。
――またかよ!?
今度は見なくてもわかる、ルイズだ。
それでも密かに視線を向けて確認すると、笑顔のまま、額に青筋が走っているような気がした。
うっすらと開かれた瞳は冷たい。
――笑ってるけど、わ、笑ってない。
いわゆる『目が笑っていない』というヤツだ。
思わずキスまで五サントというところでかたまってしまう。
「どうした、早くしないかガンダールヴ」
それまで沈黙を保っていたジョゼフが平坦な声をかける。
彼はルイズを見て。
「主人が見ていてはやりにくいと言うなら退室してもらうが」
唇の端を釣り上げて挑発した。
――お、おっさん余計なコト言うな!
「サイトさん?」
ゴホン、と才人は咳払いをしてティファニアに向き直った。
できるだけ安心させるように彼より背の低い少女の肩に手を置く。
威圧感は、今度は来なかった。
不安げな瞳の少女はそれで察したのか再び目を閉じて、少しだけおとがいをあげた。
「スペルを忘れていますよ」
欠片の嫌味も感じないヴィットーリオの涼やかな声に、二人はハッと距離をあけた。
「そ、そのすいません!」
「いえそんな」
お互い頭を下げてしまう。
アルブレヒト三世は忌々しげに舌打ちした。
「我が名はティファニア・モード、五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」
そうして、二人は若い恋人たちがファーストキスをするように、触れるだけの口づけを交わす。
かすかな接触だが、触れ合っている時間は長かった。
ルイズは胸の奥の小さな痛みを自覚し、これも使命のためだと蓋をした。
ティファニアはそっと才人から離れる。
才人は左胸に、彼の心臓に手を当てて。
「っ!」
激しい痛みに意識を手放した。
彼は暗闇で夢を見る。
今日一日の夢を。
――誓約の口づけを――
昨夜、イザベラの部屋から去った才人は、またしても迷った。
はじめての場所で、知り合いもいない状況、さして方向音痴でなくとも仕方のないことだろう。
さらに間の悪いことに夕食も近いので周囲にはメイドの一人もいなかったのだ。
イザベラの部屋に戻って道を訊くのもはばかられたので、そのままうろうろして、結局使用人に声をかけて連れて行ってもらった。
その際、怪訝な顔をされたのは言うまでもない。
タバサの部屋についたのは、プチ・トロワについてから実に二時間近くがたっていた。
当然彼女の話は終わっていて、遅れたからもう一回とも言えず、才人はタバサの謎を知ることなく夜を迎える。
賓客用の広く豪華な部屋をあてがわれ、久々の一人部屋は寂しさすら覚えた。
――少し、怖いな。
ニューカッスル城の夜以降、この時間帯になると色々な考えが才人の頭に浮かんでは消える。
それは故郷のことであったり、ガンダールヴの秘密であったり、共に戦い今はもう会えぬ人々のことであったり。
以前は寝つきの良かった彼が、眠りに落ちるのに少なくない時間を必要とする。
孤独な暗闇は確実に才人の精神を蝕んでいく。
才人にとって、朝の光は一日のはじまりだけでなく、深みに落ちていく心の救済を思わせるものになっていた。
*
「それで、諸国会議って何を話すんだ?」
朝食後、若干の暇があったので才人はルイズの客室を訪れていた。
「そうね……」
ルイズはじっと才人の顔を見る。
そして大きなため息をついた。
「なんとなく釈然としないけど、仕方ないわよね……」
「?」
才人には何のことやらわからない。
「議題のうち、二つは予想がつくわ」
「なにそれ?」
渋い顔をしながらルイズは紅茶に口をつけた。
その仕草は洗練されていて、彼女が大貴族のお嬢さまであることを才人に思い出させた。
「一つはサイトの処遇についてよ」
「俺の処遇……どうするかってことか」
「そう、良くも悪くもあなたは活躍しすぎたの」
「どういうこと?」
音もなくティーカップをソーサーの上に置いた。
「アルビオン王家を救うため、各国はできる限りの努力をしたわ」
外交、密偵、武力介入、始祖の血統を絶やさぬため合法非合法を問わずあらゆる手段がとられた。
しかし、それらの行動は一切実を結ばなかった。
アルビオンに跋扈するナイアルラトホテップ教団は、規模こそさして大きくなかったが、あやしげな術を使った。
彼らの邪魔をする者は消され、あるいは内部にとりこまれたのだ。
トリステインが秘密裏に送った小隊も、ガリアが公的に送った両用艦隊の一部ですら消息を絶った。
さらにその異常なまでの侵攻速度が、教団の名が表面化してから二ヶ月もたたないうちにアルビオン王家を窮地へ追い込んだ。
影のようにあらわれた五千の軍勢で、三万の兵を擁したモード大公軍を、陣を整える間もなく殲滅したのは記憶に新しい。
他にも王家の血が濃く、裏切るはずもない侯爵をはじめ、諸侯の唐突な寝返りも多かった。
そこまで話して、ルイズは肩を落とした。
「そのナイアルラトホテップってすげーやばいって皆知ってたんだろ?」
「ここ数百年比較的大人しかったから、その間にわたしたちも強くなったと思いあがっていたから、そして相手は人間だったから。この三つで油断していたのが敗因ね。最初から全力で潰していれば……」
ルイズは少し悔しそうに言う。
彼女の脳裏には燃え盛るニューカッスル城が映っていた。
「とにかく」
その一言で彼女は落ち込んでいた気分を振り払う。
「サイトは滅びに瀕した王家を救った、いわば英雄なの。きっとあなたがいなかったらウェールズ皇太子は」
「やめてくれ」
才人はルイズの口を遮った。
その眼に浮かぶのは後悔の念。
「俺は英雄なんかじゃない」
それは悲劇に酔った男の自嘲ではなく全くの本心だった。
――俺が英雄だったら。
誰も死なせなかった。死なせたくなかった。
その言葉は才人の心の中でだけ、静かにこだまする。
――アニエスさんやコルベール先生との鍛錬をもっと真面目にやっておけば。
眠れぬ夜、いつも思い返したことまで浮かんでは沈む。
少年らしい傲慢さと、才人がもつある程度の責任感が自身を締め付けた。
「……話を続けるわ」
ルイズはその思いの一端を垣間見たが、やはり何も言えなかった。
「処遇に関してだけど、三つの予測がつくわ」
「……」
「一つ、ガリアでわたしごと受け入れる。トリステインは決して弱国ではない。とはいえ、このガリアには層の厚さで劣るわ。ここでわたしもサイトも保護という名の軟禁状態におきながら決戦までひたすら鍛え続ける」
トリステインには強力なメイジが多い。
しかし、その一方で弱いメイジが大半をしめる。
そのためどうしても広範囲の警備網に穴が開いてしまう。
それだけでなく、トリステインはアルビオンに近い。
教団の残党がはびこる今、虚無の主従を護るには適していない国なのだ。
「二つ、現状維持。強い戦力で魔法学院の警備をひたすら固めて、わたしたちを囮に邪教を叩く」
昨日の一件でもわかったが、ナイアルラトホテップ教団は完全には壊滅していない。
どこに狂信者が潜んでいるのか今はまったくわからない状況である。
虚無の主従を、特にアルビオンで一騎当千の活躍を見せた才人を餌にした消極的攻勢の策。
相手が才人のことを知っているかは不鮮明だが、理解の外にある術を使う集団だ。
なんらかの手段でその事実をつかんでいる可能性は高い。
「三つ……」
ルイズは唐突に口をつぐんだ。
「なんだよ」
「想像はつくの。けど言いたくない」
才人が見ると、ルイズの顔色は悪い。
肩もかすかに震えていて、何か良くない予想がついているようだ。
「言ってくれ。その方が心の準備ができる」
強く、こぶしを握りしめた。
「……サイトの処刑」
すっと顔の血が引いたような感覚、才人は息をのんだ。
「なんで」
「あなたが違う星から来た、それが問題になるの。タバサの、シャルロットの父、オルレアン公のことはイザベラ殿下から聞いたかしら?」
才人は無言で頷く。
「わたしたちにとって、この惑星以外のことはほとんどわからないわ。だからあの一件で異なる星から来た者はすべて排斥すべきだ、という意見もロマリアの一部からは出ているの」
「だからって」
言い募ろうとしたが、ルイズの顔色を見て止まった。
才人が見てすぐにわかるほど彼女の顔は青くなっていた。
――ルイズに言っても仕方ないだろ、落ち着けよ俺。
ルイズがもし強気な少女だったら才人は噛みついただろう。
だがここにいる桃髪の少女は、普通の女の子だ。
虚無なんてものに選ばれてしまったから、その使命感に押しつぶされそうになっている女の子だ。
「ごめん」
素っ気ない一言をかけて才人は自己に埋没する。
――なんで違う星から来ただけで処刑になるんだ。
才人にはその思考がわからない。
人の評価を鵜呑みにしない、己の見たままを信じる彼には理解できない。
ゲルマニアはハルケギニアにおいて成り上がりの国とされている。
それは事実だ、だがすべてではない。
それでも詳細を知らない者が聞けばゲルマニアすべての印象が悪くなる。
一部には貴族主義者もいれば、古くからの血統も存在することに気づかず。
地球でも『日本人はこういう性格だ』と偏見を持たれている部分がある。
つまり、才人が直面しているのはそういうことだった。
悪しき存在が異なる星から来たものだから。
きっと他の星に住むものはすべて危ないに違いない。
そんなどこか硬直しているが、民衆を護るため少しでも危険を減らすという観点からは正しくもある、極一部の枢機卿たちの、しかし声の大きい意見だった。
才人は答えを見つけることなく考えを打ち切った。
「それでもう一つの議題っていうのは?」
その言葉は同時にルイズの震えを止めた。
青かった顔色は、回復するどころか少し赤くなっているように見える。
それも羞恥ではない、怒りのせいだ。
「知らないわよ」
「へ?」
泣いた子が笑った、ではなく震えていた子が怒った。
「な、なんで怒ってるのか知らないけど教えてくれよ」
「やだ」
「そんなこと言わずにさ……」
「だって、やだもん」
――なんで唐突にまた。
才人にはその思考がわからない。
「悪いこと、じゃないよな……」
ルイズの様子から自分の命にかかわることはなさそうだ、と才人は判断した。
「むしろサイトは喜びそうね」
ぶすっとむくれながら、そして彼を心配しながらルイズは言う。
彼女は知っている。才人の処遇で三つ目の選択が消えれば、この会議は契約を行うことが主になることを。
今後の対アルビオン、対邪神の方針検討はオマケに過ぎないことを。
そしてその『コントラクト・サーヴァント』にはキスを伴うことも重々承知している。
しかし彼女にも知らないことがある。最後のルーン、リーヴスラシルの効果だ。
ロマリアが完全に秘匿しているため、彼女にもどのような効果があるか、想像できない。
それが才人を心配する理由の一つにもなる。
彼女は才人に恋心を抱いているわけではない。
だが彼をこの星に呼んだのは自分だというかすかな誇りと、多大な罪悪感を覚えていた。
ほのかな慕情とも呼べない、子どもじみた感情をルイズ自身もてあましている。
「喜びそうなことか……」
なんだろう、と腕組みしたはいいものの全く思い当たらない。
そうこうしている内に時間になり、才人は疑問をもちながら会議に挑むしかなかった。
*
教皇ヴィットーリオが議長を務める会議は、まず『コントラクト・サーヴァント』について言及した。
とかく、この場で契約を結べという満場一致の意見。
ルイズの想像とは逆に、才人の処遇については一切話し合われなかった。
――どういうことかしら。
考えを巡らすものの、彼女は沈黙を保っているジョゼフと、にこやかなヴィットーリオの胸裏をのぞくことはできない。
当の才人は慌てふためいた。
「なんでしなきゃいけないんですか!?」
彼にしてみれば嬉しい、嬉しいが恥ずかしがっているハーフエルフの少女と、彼のご主人を前に露骨な態度を出したくなかった。
言葉だけの反論にヴィットーリオは穏やかに微笑んで返した。
「ガンダールヴ、いえ、サイト殿と呼ばせてもらっても?」
「あ、はい」
「ではサイト殿、あなたの星に始祖の教えはないのですね」
「ないです」
「わたくしからサイト殿に始祖の偉大さを説く時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
ヴィットーリオは涼やかな声で会議に集まった面々に問いかけた。
反対の声はあがらなかった。
「ティファニア殿」
「は、はい!」
「エイジス聖歌、四の僕の章を覚えていますか」
「もちろんです」
「ここで披露してください」
ティファニアは少し緊張した顔で立ち上がり、朗々と歌いはじめた。
―――神の左手ガンダールヴ。勇猛果敢な神の盾。左に握った大剣と、右に掴んだ長槍で、導きし我を守りきる―――
―――神の右手がヴィンダールヴ。心優しき神の笛。あらゆる獣を操りて、導きし我を運ぶは地海空―――
―――神の頭脳はミョズニトニルン。知恵のかたまり神の本。あらゆる知識を溜め込みて、導きし我に助言を呈す―――
―――そして最後にもう一つ。記すことさえはばかれる―――
―――三人の僕を従えて、我はこの地にやってきた―――
美しく、感動すら誘う歌声だった。
歌い終えたティファニアはほうと息を吐いて、腰を下ろした。
「素晴らしい」
ガリア代表以外は心底から聞き入っていたようで、みな口々にため息をついた。
「どうでした?」
「いや、すごい綺麗でしたけど……」
――なんでいきなり歌?
才人にはハルケギニアの感覚がわからない。
ティファニアは、彼の率直な褒め言葉に顔を赤らめた。
「四の僕の章には重大な秘密が隠され、またある真実が伏せられています」
皆の目を見ながら、どこかもったいぶるようなヴィットーリオの言葉に、才人の表情は硬くなる。
「始祖が創られた使い魔の順序が示され、四つ目のルーンについて記されていないのです」
――四つ目のルーン。
きっとこれがキモになる、と才人は唾を飲み込む。
「神の心臓リーヴスラシル。心臓とはすなわち、勇気の象徴。そのルーンが持つ効果は……」
ヴィットーリオは左胸に手を当て、才人の瞳を見据えた。
「周囲五リーグの狂気緩和。平民であろうと、正気を失うことなく邪神の眷属を直視できるでしょう」
心臓が高鳴るのを感じた。
「そ、それは真か!?」
アルブレヒトが信じられぬという形相で立ち上がった。
ガリア勢は相変わらず黙り込んでいたが、それ以外の諸国代表は、マザリーニを除いて驚きに目を見開いていた。
リーヴスラシルの効果を知らなかったルイズも例外ではない。
これはロマリアが口を閉ざしていた秘中の秘だ。
枢機卿にのみ口伝で教えられ、例えどれほどの金銀を積もうとこれを話す者はいなかった。
このルーンはそれほど規格外で、この事実が外に知られれば人同士の醜い争いがはじまることを予期していたからだ。
邪神は、直接相対していなくとも人の正気を削り取る。
それは抵抗する術を持たない平民に限った話ではない。
始祖の血をひくメイジも例外ではないのだ。
ただの発狂ならばまだマシで、染められてしまえば家、領地、国の内部崩壊は避けられない。
いつ闇が侵食するか、余人にははかりしれず、ことを知るものにとってその恐怖は耐えがたいものがある。
たった一人の人間を配置するだけでそれが回避できるとなれば、戦争を起こしてでも欲しがる貴族は多い。
邪神との戦いが終われば、この記憶を消すためだけにロマリアの虚無は各国を訪問するのだ。
皇帝の言葉が耳に入らなかったかのように、ヴィットーリオは謳うように語る。
「まず始祖は一のルーン、ガンダールヴを創られました。初代ガンダールヴは聖者アヌビスとしても伝わっています。
はじめ始祖は聖者アヌビスを連れて邪神に挑みました。しかし、いかに始祖の魔法が強力であろうと、邪神になんら痛苦を与えることができませんでした」
ヴィットーリオは遠く、遥か過去に思いをはせながら言葉を紡ぐ。
「次に始祖は二のルーン、ヴィンダールヴを創られました。動物が邪神に対して有効であることを見つけられたのです。
そして始祖は二人を連れて邪神に挑みました。しかし、ここでもまた邪神に対抗できなかったのです」
その時の光景を想像しているのか、視線は虚空に定められている。
ジュリオが右手のルーンを抑えた。
「さらに始祖は三のルーン、ミョズニトニルンを創られました。魔道具ならば狂気に犯されることがないと気づかれたのです。
そして始祖は三人を連れて邪神に挑みました。それでも、始祖は邪神を打倒できなかったのです」
ちらと才人はジョゼフの傍らに控える人物、シェフィールドを見た。
彼女の額のルーンこそミョズニトニルンの証、昨日襲撃から救ってくれた人だとタバサから聞いている。
微かに頭を下げると、彼女は薄い笑みで返した。
「最後に始祖は四のルーン、リーヴスラシルを創られました。狂気緩和によって人々をも戦えるようにしたのです。
始祖はこのルーンを聖者アヌビスに刻みました。最前線に出る彼女にこそ必要だと考えられたのです。
そして始祖は四人とたくさんの兵を連れて邪神に挑みました。とうとう邪神を破ることができたのです」
――え、じゃあそれでハッピーエンドなんじゃ。
才人の疑問をあらかじめ知っていたかのようにヴィットーリオは言葉を連ねる。
「しかし、それは“はじまり”でしかなかったのです」
若き教皇は、その中性的な顔立ちを歪めながらも語ることをやめない。
「始祖が死力を尽くして打ち破った邪神は、その一端にすぎなかったのです。
それが打倒されたことで逆にこの星は目をつけられてしまった。
本体が乗り込んでくることこそなかったものの、同じような一端を度々送り込むようになりました」
「ちょっといいですか」
たまらず才人は口をはさんだ。
理解できないことが多すぎる。
「その、邪神の一端っていうのはなんのためにハルケギニアに来るんですか?」
「ガンダールヴ」
それまで一言も喋らなかったジョゼフが才人に声をかけた。
「お前は子どもの頃、アリの巣を潰したことがあるか?」
「……何度かはあります」
「明確な目的や意味をもって行ったことか?」
「いえ、確かなんとなくやっただけで」
「それと同じことだ」
――そんな。
「アリと人間とじゃ違いすぎる!」
「おれに怒鳴るな、では聞こう」
ジョゼフは天井を、天上を指さし言った。
「お前に太陽が斬れるか?」
――何ほざいてんだこのおっさん。
「無理に決まってるじゃないですか」
「邪神には、ナイアルラトホテップには斬れる。それどころか消し飛ばすことすら可能だろう」
「は?」
「そんな存在規模からすれば、おれたちなど塵芥にすぎんだろうな」
この世全てを嘲るような笑みに、才人は真実を感じた。
――そんなの神様にしか……。
そこまで考えてからハッと気がついた。
邪神とは、まさに邪悪な神なのだ。
才人が日本にいたころ、ゲームに出てきたような倒せるボスじゃない。
多神教における、時に英雄が打ち破る神でもない。
一神教の絶対神、宇宙の創造を司るようなそれを相手にしているのだ。
しかし、それは正しくもあり、間違ってもいる。
邪悪な神とはあくまで人間からの視点であって、彼らはそのように定義づけられる存在ではないのだ。
その事実は才人をはじめこの場にいる者は誰も知らない、知る由もない。
「よく御存じですね、ジョゼフ殿」
「隠しごとの得意なロマリアにはかなわんよ」
ジョゼフ以外が気づかないほどの一瞬、ヴィットーリオの表情が凍りついた。
「とにかく、リーヴスラシルは我々の切り札となりうるのです」
彼は刹那の硬直を感じさせず話を続けた。
そして。
「このルーンさえあれば、アルビオンでの悲劇を防げたかもしれませんね」
――え……。
「それは我らアルビオン王家の対応を侮辱しているのか」
「いえ、もしもの話をしただけです」
ヴィットーリオの刃は、才人の心臓を貫いた。
ウェールズの言葉が、才人にはどこか遠くで話されているように感じられた。
「やります」
「リーヴスラシルのルーンが刻まれた瞬間から、あなたは国家を超越した人物に、ハルケギニアの存亡を担う存在になります。それでもかまわないですか?」
「いいです。正直大げさなことはよくわからないけど、あんなことが防げるなら」
ガンダールヴのルーンがほのかに輝いていたことに気づく者はいない。
才人は心中で誓いを立てる。この星のため命を賭けるという誓約を。
どこまでが彼の本心なのか、知る者はこの場にいなかった。
そうして、彼は口づけを交わす。
疼くような胸の痛みが気持ち悪かった。
***
倒れた才人の胸元をあらため、教皇はリーヴスラシルのルーンが刻まれたことを確認した。
この瞬間をもって、平賀才人はハルケギニアの存亡を左右する男になった。
「ティファニア殿。彼をベッドに運んできてくれませんか? おそらく目が覚めるまで半日近くを要するでしょうから」
それに、とヴィットーリオは続ける。
「ここからは少々、退屈な時間になるので」
会議場の空気が小さな軋みを訴えた。
ここまでは、必要であったものの予定調和だ。
ここからが国主として最も気を引き締めねばならない時間になる。
「わかりました」
ティファニアはうつ伏せに倒れた才人を持ち上げようとして、失敗した。
虚無の担い手である彼女に風系統のフライやレビテーションは使えない。
王族ということもあり、普段力仕事を行わない彼女にとって、才人を運ぶのは荷が重い。
ルイズはそわそわと落ち着かない気持ちでそれを見ていた。
「ルイズ殿。できればあなたにもお願いします」
「わ、わかりました」
教皇に言われたからには仕方ない、と大義名分を得てルイズは才人の左側に立つ。
彼の今後に関して、処刑されないという確信が得られた以上彼女がここにいる意味も薄れた。
『せーのっ』
脇の下から腕を差し込んで、二人で息を合わせて才人を持ち上げる。
そのまま足をずるずると引きずりながら会議室を後にした。
「やれやれ、力を保つためとはいえ虚無の担い手を追い出してよいのか?」
「今は仕方ありません。もう少し状況が進行してから語れば良いでしょう」
「虚無の魔法とは不便なものだな」
アルブレヒトが呆れたように言った。
「か弱い少女たちも離れたので本番と参りましょうか」
「あら、それではわたくしもこの部屋から出ないと」
「ご冗談を。あなたには女傑という言葉こそふさわしい」
ころころ笑うアンリエッタは、確かに王者の風格を備えている。
軽いやり取りを終え、部屋の空気が大きく軋んだ。
「改めてウェールズ皇太子から詳細を伺いましょう。あの日、何があったかを」
「承知した」
ウェールズは、己の知る限りを語る。
手紙では情報伝達量に限度があったので、新たにもたらされた情報にアルブレヒトやヴィットーリオは頷き、また唸った。
「しかし、その一万の兵はどこへ消えたのだ」
アルブレヒトの疑問に、誰も答えられるはずがない。
神のみぞ知る、邪神のみが知ることだった。
「影がある限り教団を潰すことはできない、か」
「一網打尽にする必要があるでしょうね」
腕組みしながら呟くビダーシャルにヴィットーリオは返す。
そこでアンリエッタが凛とした声をあげた。
「教団に関しては手を打っています」
「ほう」
「いかような?」
「巫女の父、ロシュフォール伯を旗印に。家の存続を条件に彼は引き受けてくれましたわ」
アンリエッタの笑顔は社交用のにこやかなものではなく、男性陣の背筋を凍らせるような壮絶な笑みだった。
「それはまた……」
アルブレヒトなど言葉も出ない、一時は王家の血を入れるためアンリエッタを迎えようと目論んでいたが、この瞬間その気持ちは完全に消し飛んだ。
「彼が向こう側に着く可能性は?」
「それでもかまいません。まとめて叩き潰しましょう」
「影に対する対処法など確立できていないが」
「トリステインの虚無に土地ごと薙ぎ払わせます」
会議室がしんと静まり返った。
トリステイン王女、幼いころからアンリエッタをよく知るウェールズは彼女の変わり用に驚いた。
例え世界がかかっていようと、犠牲を顧みないような苛烈な性格をしていなかったはずだ。
――これがトリステインに伝わる王家の秘術か。
邪神に対抗するため、各王家には狂気緩和の秘術が伝わっている。
だがそれはすべて違う術式が記録されていた。
異なる魔法を用いることで、一挙に潰される危険を減らすためだ。
アルビオンに伝わるものはウェールズに大きな変化をもたらしはしなかった。
トリステインの秘奥はどのような、と彼は一瞬考えるがすぐにやめた。
今この場に必要なことではない。
「くっくっく」
ガリア王、ジョゼフがおかしそうに笑っている。
誰もそれには触れず、続いてアルビオンの現状について各国の仕入れた情報をすり合わせる。
状況は控えめに言っても、絶望的だった。
「あの巫女はアルビオンを散歩しているようだな。まったく気楽で羨ましくなる」
「散歩、ですか。我々からすればたまったものではありませんね」
「歩くだけで死をもたらす存在か、ゲルマニアには来ないだろうな」
ニューカッスル城を吹き飛ばすほど強力な火の秘薬もメアリーには効果がなかった。
彼女は魔法学院の生徒が見慣れた姿に戻り、そのままアルビオンをふらふらと歩き回って街々に恐怖と破壊をもたらしている。
日が沈めば影から生まれ落ちたようにあらわれ、日が昇ると同時に影の中に溶け落ちる。
彼女が歩いた跡は、草木一本存在しない。
彼女が訪れた街は、ネズミの一匹も見当たらない。
各国の密偵が見たアルビオンはこの世の地獄だった。
ウェールズは強く唇を噛んだ。
「問題は」
ここまでむっつりと黙り込んでいたオルレアン公夫人が円卓の面々を睨みつけた。
「どうすればあの巫女を倒せるか、いつ巫女が降りてくるかということでしょう」
その瞳には劫火のような憎悪が燃えていた。
――この女傑たちは……。
怖い、あとで愛人に癒してもらおうとアルブレヒトは思った。
「巫女が降りてくるのは、断言はできぬがスヴェルの月夜だろう。目的地はシャイターンの門」
ビダーシャルの言葉に諸国代表の視線が集まる。
双月が重なるスヴェルの月夜の翌朝は、アルビオンとトリステインが最も近くなる。
この朝を狙ってフネで行き来するのが一般的だ。
しかし相手は尋常のモノではない、常識に当てはめるのは危険だった。
「問題は倒し方、か」
「一切の攻撃を受け付けなかったというのが気にかかりますわね。何度か精鋭を差し向ける必要がありそうですわ」
「オルレアン機関からすでに腕利きを送り込みました」
ウェールズとアンリエッタの会話に、オルレアン公夫人が口をはさんだ。
「元素の兄弟、彼らなら有益な情報を持ち帰ってくれるでしょう」
***
才人は、プチ・トロワの彼にあてられた部屋で眠りについていた。
その寝姿はルイズに嫌な想像を喚起させる。
静かに上下する胸をじっと目で追うしかできず、会議室に戻る気にもなれなかった。
「あの、ルイズさん」
「ルイズでいいわよ、ティファニアさん」
「じゃあわたしも、ティファニアって呼んで」
「ええ、ティファニア」
王家に連なる血筋という似たような境遇におかれ、虚無の担い手見習いという対等な立場で、平賀才人という同じ使い魔を得た。
ルイズとティファニアは奇妙な縁を感じていた。
「聞いてもいいかな?」
「なに?」
「サイトさんって、どういう人なの?」
――サイトがどういう人か。
ルイズは彼を召喚してから起きた出来事を思い出す。
ガンダールヴのルーンが刻まれた。
違う星から来たと聞いた。
ギーシュと決闘した。
泣いたわたしを抱きしめてくれた。
ワルドとケンカしてた。
メアリーと話をしてた。
そして、ウェールズを救った。
「サイトは、無鉄砲で、だけど優しいの」
言葉にすればたったそれだけ。
それでもティファニアはそこにルイズの持つたくさんの思いを感じ取った。
「無鉄砲で、でも優しい人かあ」
「うん」
「わたしも、仲良くなれるかな」
「なれるわ、絶対になれる」
二人はじっと才人を見つめる。
その寝顔は、普通の男の子にしか見えなかった。
「これからどうなるんだろう」
「わかんない」
「怖いね」
「うん、でもサイトはもっと怖いと思う」
「そうだね、お兄様を助けてくれたときも」
ティファニアのまぶたの裏には、赤々と燃えるニューカッスル城が映っていた。
「ティファニア」
「なに?」
「わたし、サイトを召喚したこと後悔してるの」
「……なんで?」
「サイトの星は、平和なんだって。戦ったことなんてなかったって。なのにわたしたちの都合に勝手に巻き込んで。死ぬかもしれない戦争に彼を……」
「ルイズ」
ティファニアの声にルイズは彼女を見た。
彼女の穏やかな微笑みは、これ以上ないほどの安心感を与えてくれた。
「悔いるよりも先を見ようよ。サイトさんのために何ができるか、とか」
「なにができるか……何ができるかな?」
「わかんない」
「わたしも」
二人顔を見合わせ、くすりと笑った。
「ありがとう、少し心が軽くなったわ」
「どういたしまして」
「……サイト、いつ起きるかな」
「待とう、二人いっしょに」
「うん」