頬を撫でる風に才人は起こされた。
不快ではない、新緑のにおいを感じさせる穏やかな風だ。
起き上がってみると、そこは草原だった。
「はい?」
目をしぱしぱさせて、ごしごしこすって、一度深呼吸をしてみても変わらない。
かなり遠くに黒い山が見える、ひたすらに開けた草原だった。
――なんで?
会議に出て、ハーフエルフの少女とキスをかわし、最後の記憶は心臓の痛み。
あんな美人とキスしたんだな、とちょっぴり頬を赤らめながら立ち上がってみる。
――夢、かな。
視点が少し高くなってもよくわからない。
現代日本では絶対に見ることができないような、広々という言葉では足りないくらい大きな大草原。
さほど出歩くことがなかったため、ハルケギニアでもこんな光景を目にしたことはなかった。
心当たりがあるとすれば地球にいたころ、海外の写真やテレビで見たくらいだったが、そんな記憶も頭の中にない。
――モンゴルとか、それっぽい。
相撲取りが馬に乗りながらドスコイドスコイやってそうだ、なんて変なことを想像しながら、ぐるっとあたりを見回す。
ちょうど才人の後方十メイルほどに、大きな大きな樹があった。
大人十人が手をつないでやっと囲めるくらいの大樹だ。
何かをするアテもなかった才人は、とりあえずそこに歩いていく。
「でっかいな~」
感心半分呆れ半分の呟きをこぼす。
手を当ててみれば、生命の脈動が聞こえてきそうな気がする。
木陰になっていて日差しの当たる草原よりは涼しかった。
風が一際強く吹き抜ける。
ざわざわ囁く木の葉が何枚か虚空に躍り出た。
才人は大樹に背をあずけて、めいっぱい息を吸い込んだ。
――夢っぽくない。
身体を撫でる風も、ざわめく木の葉も、今背にしている樹皮の感触も、すべてがリアルだ。
ためしにほっぺをつねってみる。
ちゃんと痛みがあった。
はて、と少し頭をひねってみる。
心当たりはまったくなかった。
――目覚めたら知らないところ、かぁ。
異世界召喚などというトンデモない事態を経験した才人は、あっさりと納得した。
服装が気絶する前にカッターシャツにスラックスということが、より現実感を与えてくれる。
とはいえ、納得しても今後の方針がたてられるわけではない。
「どうすっかなー」
樹に預けていた背中がずり落ちて、ぺたんとしりもちをついた。
ほふぅと力のないため息を一つ、それから首をぐるっと回して、視界の端にナニかが映った。
「え?」
気づけば、白いモノが隣にあった。
才人との距離は約一メイル、今まで目に入らなかったのが不思議なくらい近い。
真っ白なそれは、うずくまっている人間のように見えた。
――不思議なことがあるもんだな。
才人は物事をあまり深く考えない。
召喚された時も最初は「異世界なんて!」と思ったもののすぐに適応してしまった。
今回も、目が覚めたら知らないところでも、どこからともなく現れた白いのに対しても、警戒することはなかった。
観察すると、白いのは長い髪の毛と服のように見える。
全体を十秒ほど眺めて、これは真っ白な子どもがうずくまっているのだと才人は気づいた。
じくりと心臓が痛む。
アルビオンで別れた少女を、人でなくなった彼女のことを思い出した。
耳にこだまするあの時の咆哮が、彼女の慟哭のように聞こえたのは果たして才人だけだったのか。
木の葉のさざめきは相変わらず優しい。
これ以上ぼんやりしていてもらちが明かないので、才人は思い切って声をかけることにした。
「どうしたの?」
返事はない。
伏せられた顔があがることもなかった。
ただ、才人は子どもの肩が震えて、嗚咽を漏らしているのに気付いた。
――泣いてる。
泣く子をあやす術など彼は知らない。
ルイズの時とは事情が違う。
何もできず葉っぱ越しに晴れ空を見上げる。
憎たらしいほどに、突き抜けるくらいに青かった。
それから十分か、二十分ほどたっただろうか。
ともすれば葉擦れにかき消されそうな泣き声は止んだ。
才人が目をやると、ごしごしと目をこすっているところだった。
「だいじょうぶ?」
出来る限り優しい声をかける。
それに反応してか、白い子どもが顔を上げ、才人は心臓を鷲掴みにされたような錯覚に襲われた。
長い、櫛を通しても抵抗一つなさそうな純白の髪。
澄み切った晴れ空の下で輝く海を思わせる、青い眼。
そしてその無垢な表情は、顔立ちは、才人が右腕を斬り飛ばした少女と鏡合わせのような、ありえないほど似通っていた。
――え。
思考が、身体が、硬直する。
このありえない出来事はなんだ、と才人は自身に投げかけるが、答えが返ってくるはずもない。
彼をじっと見つめる瞳は、ともすれば吸い込まれそうなほど深く、その一点だけは血のように赤い眼をもつ少女と違っている。
「おにいちゃん、だれ?」
声は、才人が聴いたことのあるものより幼く甘ったるかった。
「……?」
才人の双眸は困惑と後悔、そして若干の恐怖に揺れていた。
無反応の才人を不思議そうに見つめる白い少女から、目を離すことができない。
「だいじょうぶ?」
才人がかけたように、優しい声だった。
「おにいちゃん、つらいことがあったの?」
――違う、ウソだ、夢だ、やめてくれ。斬り捨てた俺を、そんな目で……。
「めありーがきいてあげるよ」
喉と胸を締め付けられるような感覚。
悲鳴をあげることだけはしなかった。
才人の胸中を暴風のように雑多な感情が吹き荒れる。
気づけば、背中は脂汗でびっしょり濡れていた。
メアリーと名乗った少女は興味を失ったのか、草原で駆け回っていた。
走っては転んで、また立ち上がって無邪気に笑っている。
見た目はルイズと変わらないくらいなのに、それはひどく幼く見えた。
大樹にもたれかかったままぼんやりと空を眺める才人の視界を誰かが遮る。
小柄な金髪の、まだ若いが悟りを開いたような、神秘的な雰囲気をもつ男だった。
その瞳には悲痛の色が見てとれた。
才人が声を出そうとする寸前、奇妙な浮遊感に襲われる。
それはいつも夢で感じているような、目覚めの合図だった。
―――泡沫の正夢を―――
刺すような夕日に目を焼かれながら才人は起き上がる。
ヤケに仲良くなっていたルイズとティファニアのことが少し気になったが、それ以上に変な感触が彼を苛ませる。
アレは本当に夢だったのか、そのことがおかしなくらい胸にひっかかっている。
夢でなかったとしたら、あの少女は、あの若者はなんだったのか。
どこか気持ち悪い思いを抱えたまま、二人を置いてふらふらと部屋を出た。
昨日と同じような時間だからか、プチ・トロワの中をさまよっても誰もいない。
なんとなく思い立って庭に歩み出る。
植木に沿って気が向くまま散歩を続ければ、まるい広場の中央にある一つの石像に、そしてその前に佇む人影に足が止まる。
法衣姿の男性がゆったりと振り返った。
「おや、もう大丈夫でしたか」
「おかげさまで」
「身体に差し支えないよう、無理は控えてください」
茜色の日差しにキラリとルビーの指輪が輝く。
ヴィットーリオは杖を持つ白い像を見上げる。
その姿は何故か、親を想う子を才人に連想させた。
「この石像、顔がはっきりしてないんですね」
「ええ、始祖ブリミルは己の顔を残すことを禁じられました。自分に似た人間が崇拝されることや、迫害されることを恐れたのでしょう」
へぇ、と才人が相槌を打って、二人は黙った。
そのまま時間が過ぎていく。
遠くでカラスの鳴き声が聞こえた。
「これも縁ということでしょうか」
「はい?」
「実は、あなたを訪ねようとプチ・トロワに向かう途中だったのです。こうして始祖ブリミルの御前で出会えたのも運命なのでしょう」
「はぁ……」
ヴィットーリオが才人に向き直る。
「ジュリオ、人払いを」
「はっ」
「うわ! いたのか」
音もなくジュリオが現れ、また去っていく。
忍者みたいだなあ、と呑気に考えながら才人はその背を見送った。
「サイト殿は、夢を見ますか?」
「夢ですか。そりゃ見ますけど」
才人の脳裏には先ほどの草原と少女がフラッシュバックした。
だが、あれが夢だとはとても思えなかった。
「夢の中では様々な人があらわれ、また出来事があります。死者と出会うこともあるでしょう」
「そうですね」
「しかし、こう考えたことはありませんか? こうして我々が生きているのも、誰かの夢の中だと」
「……ない、です」
「それが真実だとすれば、あなたはどう思いますか」
想像もできないことだった。
こうして自分が息をしているのも誰かの夢だとしたら。
あのニューカッスル城での夜も誰かの夢だとしたら。
人が何かのために戦うのも、誰かの夢だとしたら。
その誰かが目覚めたら泡沫のように消えてしまうとしたら。
それは救いがあるようで、とてつもなく恐ろしいことだ。
「すごく、怖いと思います」
ヴィットーリオは寂しげな微笑を見せた。
「わたくしもそう思います」
才人には彼が内心何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
二十歳ほどにしては老成しているように感じる。
夢のようなナニかで出会った男の人に似ていると、才人は思った。
二人して石像を見上げ、場に沈黙が訪れる。
気まずいものではなく、声を出すことなく語り合っているような、不思議な静けさだった。
「母は」
教皇が再び言葉を紡いだのは、それから数分たってからのことだった。
「母は邪神に憑かれ、殺されました。そしてトリステインのダングルテールで始祖の炎に裁かれたのです」
彼が目を向けているのは北の方、見たこともないダングルテールを睨んでいた。
「それを為した人物を憎いと思ったことはありません。わたくしの知る母はすでに死んでいたのですから」
左手の中指に、そこにある指輪に目を落とした。
「ただ、愛する母の遺骸を玩んだ邪神が憎い。始祖の教えを広めることに腐心した母の遺骸を、邪教布教のため辱めた邪神が憎い。できることなら消し去ってやりたい。そう思うほどに」
「……」
「わたくしの持つ使命感、人類への愛は何よりも重いと思っていましたが、憎悪に身を焦がしてしまうとは……。教皇として、虚無の担い手として失格ですね」
「少しだけ、ほんの少しだけわかります」
それがヴィットーリオの秘めた激情に及ぶとは到底思えないが、才人も邪神に対して怒りを覚えている。
邪神さえかかわらなければ、世界はもっと平和だったはずだ。
ちょっと変なだけの女の子が犠牲になることもなかったはずだ。
才人の戦友が命を落とすことも、なかったはずだ。
ジョゼフの語った通り、遥かに存在規模が違う相手だとしても一発殴ってやりたい。
「あなたに、伝えねばならないことがあります」
澄んだ眼には憎悪と、人類への愛が秘められている。
何か大事なことを言おうとしているのがわかった。
ヴィットーリオは口を開き、しかし閉ざした。
静謐な空間を裂く喋り声が聞こえたのだ。
「これはこれは教皇聖下! こんなところでどうしたというのだ! ああ、始祖ブリミルの前で祈りを捧げていたのか。まこと信心深いな、あなたは!」
青髪の偉丈夫、ジョゼフ1世がシェフィールドを従えてやってきた。
その少し後ろでジュリオが苦りきった顔をしている。
「ジョゼフ殿」
対する中性的な教皇は、一切不快感をあらわにしなかった。
――すげぇ、俺なら露骨に舌打ちするのに。
ものすごく大切なことを語ろうとしていたのを邪魔されて、不機嫌にならないほど才人は大人じゃない。
会議の時はあまり喋らなかったのでわからなかったが、今ここで彼は理解する。
――コイツは、性格が悪い。
昨日彼が話したイザベラはまだ優しさが、ほんのちょっぴり見えた。
才人から見たジョゼフは性格の悪さしか目につかない。
今だってジュリオがきっと足止めしていたのにそれを振り切って来たに違いない。
何より、ジョゼフは才人の方を一切見ようとしていない。
それが少年の心をひどく苛立たせた。
ジョゼフは才人の目の前で、彼からすればどうでもいいことを教皇に語りかけている。
――やっぱ貴族は性格悪いヤツが多いな。
話が終わる気配もないので、そんな失望感を抱いていい加減部屋に戻ろうとした矢先。
「ガンダールヴ」
青い王様が話しかけてきた。
「俺はガンダールヴなんて名前じゃない。平賀才人だ」
無視してもいいと才人は思っていたが、返事はした。
彼の娘に対するのと同じだった。
「そのような些事はどうでもよい」
深く、冷たい視線が才人を射抜く。
平賀才人という人間の心底を暴くような、遠慮の欠片も感じられない視線。
昨日のいじわる王女さまとは全く異質なそれは、ジョゼフという人間のいびつさを示しているようだった。
「おれはおまえが嫌いだ」
「俺だって、あんたみたいなヤツは嫌いだ」
「だろうな」
不敬だとかそういうことにはかまわず、才人は食ってかかった。
ジョゼフは口元を釣り上げて鼻で笑い、すぐに真面目な顔に戻る。
「だが、それとこれとは話が別だ。おまえに渡すものがある」
「ジョゼフ殿、それは」
「始祖ブリミルの御前で、教皇もこの場にいる。かまわんだろう」
ティファニアとキスした時のルイズとは違う、凄まじい威圧感にと晒された才人は、腹に力を込めて耐えきった。
「ほう、始祖の血をひかぬなら膝をつくかと思ったが」
「……なめんな」
「それでこそ虚無の使い魔。癪だがこの剣を託す」
ジョゼフはマントを翻し、その下から一振りの長剣を抜き払った。
一メイル以上ある片刃は夕日を反射して黄金に煌めき、刀剣類に詳しくない才人の目からも素晴らしい逸品だということがわかる。
護拳はなく鍔もハバキも至ってシンプル、絢爛な装飾は一切なく無骨な印象を与える。
だというのに才人はこの剣に目を奪われ、魂が惹かれるような感覚を覚えた。
「神剣デルフリンガー、かつて聖者アヌビスの故郷で鍛えられ、始祖の血を啜り、歴代ガンダールヴとともに星を護る戦いに身を捧げた忌まわしくも聖なる剣」
腰元から鞘を抜き、刃を納める。
両手でジョゼフが差し出すそれを、才人は恐る恐る受け取った。
「使い手よ、よろしく頼む」
「喋った!?」
「デルフリンガーには六千年蓄積した知識がある。教えを乞い、来る日に備えよ」
「ちょっ、待てよ!」
「これ以上おまえと話すことはない。そうする気もない」
来たとき同様、ガリアの武農王はシェフィールドを従えこの場を去る。
――な、なんて自分勝手なヤツなんだ。
あんな大人にはなりたくない、と思いながら才人はデルフリンガーに目を落とす。
鞘にも派手派手しい飾りはなく、刀身が見えていなければ一山いくらのカゴに放り込んであっても違和感がない。
神剣という仰々しい肩書持ちのくせに、全体的に地味な印象を受けた。
「あの、教皇さま?」
「ヴィットーリオでかまいません」
「じゃあヴィットーリオさん。さっき言いかけてたのは……」
才人の言葉に、ヴィットーリオは少し俯いて考え込み、やがて顔を上げた。
「やめておきましょう」
「へ?」
「ここにジョゼフ殿が現れたのも始祖の思し召しということでしょう。まだあなたが知るには早すぎる、と」
「……」
「また会うとき、その時に必ず話しましょう」
――き、気になる!
ヴィットーリオは自己完結した様子で、ジュリオを従えてグラン・トロワの方に向かった。
呆然とその後ろ姿を見送るしか才人にはできなかった。
「どうした使い手」
「いや……大人って勝手だなって」
「歳をとればとるほど人は若き日々を忘れ、傲慢な身勝手さを身に着けるものよ。某の六千年の人生、あいや、剣生で学んだことだ」
「はぁ」
「使い手も大人になればわかることだ。そなたは未だ齢十七、まだまだ人生はこれから、学ぶべきところはたくさんあるだろう。しかして、臆することはない。なぜなら若さとは……」
いきなりこんこんと説教しだした神剣に、なんと返せばいいのか。
しかも相手は悪気がない。純粋に自分のためを思って諭していると、才人は感じた。
とりあえず最近よく言うセリフを吐いてみる。
「使い手じゃなくて平賀才人っす」
「ふむ、異星出身だけあってなかなか珍妙不可思議な名だな。相棒と呼ばせてもらおう」
「あーいや、まぁ、それでいいや」
完全に毒気を抜かれた才人は、新たに得た相棒とともに部屋に戻った。
これからは一人の夜も怖くないか、と気楽に考えながら。
部屋に帰るとすぐ、ルイズが呼びに来てトリステインに舞い戻ることになる。
嵐に翻弄される木の葉のように、平賀才人は戦場に身を投じる。
*****
「はぁっ、はぁ、っつ!」
泥まみれになりながらジャネットは暗い森の中、倒れ込んでしまった。
あたりには生物の気配がない、虫の声一つ聞こえなかった。
ただ暗闇で彼女の吐息がこだまする。
――こんなはずじゃ、なかった。
彼女の思考を占めるのはそれだけ。
どうしてこうなったのか、彼女には一切わからなかった。
ただ相手が強すぎた。否、そんな生易しい表現で済むものではない。
今まで仕留めてきたどのようなメイジよりも、どのような化け物よりも得体のしれない相手。
ヒトが原始的恐怖を抱く、夜の漆黒を相手にしているようだった。
『今回は少し危険だが、儲けは大きいぞ。情報収集だけで倒す必要もないそうだ』
そう言って笑った元素の兄弟の長男、ダミアンも、もういない。
標的の、メアリー・スーの纏う冥闇に呑まれ、この世を去ってしまった。
他の兄、ジャックも、ドゥドゥーも、同じ末路を辿った。
ジャネットは逃げた、この情報を持ち帰るため、強かった兄がまるで相手にならなかった敵が怖かったから。
他の手段をとろうとは考え付かなかった。
彼女は兄の死に際を思い返す。
はじめに堕ちたのはドゥドゥーだった。
好戦的な笑みを浮かべ、唱えたのはブレイド。
ニューカッスル城での戦いで、ブレイドは一定の効果を上げていたことを彼らも聞いていた。
彼らは、並みのメイジとは比べ物にならないほど魔力量が多い。
それもそのはず、彼らの正体はハルケギニア六千年の歴史が造り上げた、対邪神用の戦闘特化メイジだ。
最強の竜種、水竜を相手取ろうと四人でかかれば五分で片づけられるほどの腕前を持っている。
マンティコアなど並みの怪物相手ならば群れで襲われても難なく対処するだろう。
当然、彼らの扱うブレイドも通常の、杖を包むような形状ではない。
巨木ほどの太さがあろうかという、青白い巨大な鞭になるのだ。
見た目はか弱い少女にすぎないメアリーに声をかけることもせず、ドゥドゥーは一気に長さ二十メイルのブレイドを振り下ろした。
次の瞬間に元素の兄弟が見たのは、夜であってもなおわかる名状しがたい黒い光、あるいは発光する闇だった。
彼女の纏う闇の衣に触れた一瞬で、どこか神聖さすらあったブレイドの光を犯し、元々自分が扱っていたかのように振るう。
ドゥドゥーは、青白いブレイドを振るっていたはずのメイジは、漆黒の閃光に呑まれた。
それからは刹那の出来事だった。
ジャックとダミアンが間合いをとる間もなく、闇色に輝く触腕は二人を絡め取り、喰らった。
一人距離が遠かったジャネットは幸いにも、あるいは不幸にもそれを見ることになる。
光の届かぬ深海に蠢く、見るもおぞましい生物のような動きに、彼女は生理的な嫌悪感とともに心底から湧き出す恐怖に包まれた。
――これは、違う。
今まで殲滅してきた化け物とは何か、決定的に違う。
兄の仇を取ろうという気も起きず、反転して最高速度で離脱した。
早く、ここから一秒も早く離れなければという思いをもって、全力全開のフライで逃走した。
数リーグは離れた森で今は一人、膝をついている。
しばらくそのまま息を整え、立ち上がって白いフリルのついたドレスの裾を払った。
その程度で汚れが落ち切るとは思えなかったが、精神的に立ち直るために必要な儀式だった。
――アレはなんだったのかしら。
まず、それを考える。
兄の死を悼むのは後でいい、あの光景を見て発狂しなかった幸運を噛み締めつつ、アレを打倒する手段を考察せねばならない。
元素の兄弟は、虚無の使い魔を見本として調整されたメイジだ。
長男ダミアンを中核たるリーヴスラシルと見立て、ジャックをヴィンダールヴ、ドゥドゥーをガンダールヴ、ジャネットをミョズニトニルンとして、それぞれの役割に近い特製を持っている。
神の頭脳を模した彼女は、歩く図書館と言っても差し支えないほどの凄まじい知識量を誇る。
だが、その彼女の優れた頭脳をもってしてもあの現象の説明はつかなかった。
――ありえない、と断じるのは危険ですわ。
二十メイルも離れていれば大丈夫、と決めつけてかかって彼女の兄は死んだ。
なら自分はその教訓を生かさねばならないと、懸命に記憶を探る。
邪神と言えど、人の身体を憑代としてこのハルケギニアに存在する以上、この星の法則にある程度縛られる。
過去に読んだ文献の記憶を片っ端から思い出しては破棄する。
数百冊分の記憶を掘り起こしたところで一つだけ、たった一つだけ心当たりが見つかった。
それに思い当たったと同時、ジャネットは顔を青ざめた。
「まさか、いえ、そんな……」
狼狽しながら否定要素を探す。
見つからない。
一例だけほぼ同じ事象を引き起こせる魔法が存在する。
「スペル・ジャックなんて……」
机上の空論でしかない、という言葉は声にならなかった。
スペル・ジャック。
魔法大国ガリアとエルフが共同研究を行い、対邪神用のスペルを考案していた時、それは偶然生まれた。
簡単に言ってしまえば、相手が唱えた魔法をそのままそっくり自分が乗っ取るスペル。
ゴーレムに使えばゴーレムの使用権は自分に、といった具合でありとあらゆる魔法のコントロールを奪うことのできる究極の魔法だ。
しかしながら、満たさなければならない条件が多すぎ、実用化されることはなかった。
莫大な精神力の消耗、長い詠唱時間、これらは序の口に過ぎない。
先住魔法の反射(カウンター)が扱えること、そして同時に系統魔法が使えること。
この二つの条件を併せ持つことは通常不可能だ。
基本的に、先住魔法はメイジには使えない。カウンターほど強力な先住魔法ならエルフにしか扱えないだろう。
そして精霊は系統魔法を嫌う、優れた行使手ならば系統魔法を学ぶなど間違ってもしない。
スペル・ジャックは約千年前に変わり者のエルフ研究者が扱えたのみで、それ以来使い手のいない忘れられた魔法だった。
そのはずだった。
――巫女は、邪神は精霊をねじ伏せてカウンターを使っているのかしら。
詠唱の気配も感じられなかったことが気にかかる。
この件に関して、今は明確な答えを出せないが、一つの情報は得られた。
さらにもう一つ、考えるべきことがある。
――攻撃するまで一切の反応を示しませんでしたわ。
遠くからとはいえ、進路上に立つ、石を軽く投げつけてみる、など反応を窺うためにも色々と試した。
だがメアリーはそれらに関して一切興味すら示さなかった。
現状、彼女に意志はなく自分の危機を察知して敵を排除しようとすることがわかった。
「まるでガーゴイルのようですわ」
心中のモヤモヤ感を毒として口に出すことで、ジャネットは思考を切り替えた。
考察は終わった、次にとるべき行動を何か。
オルレアン機関へ連絡、さらに帰還しなければならない。
――どうやってアルビオンを出ればいいのかしらね?
アルビオンに向かう際は、竜騎士でもあるジャックが操る風竜に乗ってきた。
現在地はサウスゴーダの近く、精神力が完全にたまればギリギリフライで帰れる距離だ。
異常なまでの魔力量をもつ元素の兄弟ならではの帰還手段だった。
夜が明けるまではメアリーの進路から距離をとり、陽が出れば休む。
夕方にはフライでトリステイン、もしくはガリアに降下しよう、とジャネットは決めた。
「兄さま、仇は必ず」
身を翻して森を出るため一歩踏み出す。
はたと気づくことがあった。
――臭いますわ……。
ジャネットは鼻をつく刺激臭を感知した。
森の外から差し込む月明かりを頼りにして周囲を見渡すと、ある一点に目が留まった。
「アレは」
木々から伸びるいずれかの枝から滴るように煙が染み出している。
暗い中ではっきりとはわからないが、白くはなく、また黒くもない。
何か別の色で染められた不可思議な煙だった。
それは意志があるかのように凝集していく。
ごくりとジャネットは唾を飲み込んだ。
「ティンダロスの猟犬……」
彼女は無論、その冒涜的な獣を知っていた。
ありとあらゆる時空を超越して獲物を追う存在。
一度目をつけられれば逃れる術はない。
遥か昔、アディールで猛威を振るったという記録が残っている。
その時は確か、獲物の死でカタがついたはずだ。
――目をつけられるようなマネは。
猟犬とは、あくまで執拗に獲物を追う様子を比喩した表現に過ぎない。
彼らは臭いではなく、異なる何かを目印に獲物を狙い続けるのだ。
ジャネットは覚悟を決め、右手に杖を、左手にナイフを持つ。
具現化した獣はその長い舌をくねらせ、彼女に踊りかかった。
*****
愛するミレディーへ
何も言わずロマリアに君を置いて出なければならない私を許してくれ。
決して君が嫌になっただとか、そういう理由ではないのだ。
私にしかできぬことを為すため、アルビオンに向かわねばならない。
おそらく、二度と帰ることはないだろう。
何から説明すればいいのだろうか。
何が起きたのか、なぜ君をロマリアに匿わねばならなかったかを説明しよう。
ことの起こりは、私たちの娘に、メアリーに大いなる邪神が憑いたことだ。
私も詳しくは分からない、枢機卿からはじめて聞いたことだ。
この六千年なかった事態で、ハルケギニアが滅亡するかもしれないようだ。
隠された神話ですら起きなかった、とのことだ。
気弱な君はこの時点で失神したかもしれない。
だが、こらえてほしい。
ロシュフォール家からそのような者を出したとあっては、普通取り潰しにあうだろう。
だが幸いにして、姫殿下と枢機卿はロシュフォール家の存続を認めてくださった。
ラ・フェール家から養子をとる手続きも済ませた。
君には苦労をかけるが、ロシュフォール領のことを頼んだ。
執事のバザンは私が連れて行く。
後任にはトレヴィルを指名しておいた、彼ならばうまくやってくれるだろう。
君を置いていったわけは、私がアルビオンに向かう理由でもある。
メアリーを憑代にした邪神はナイアルラトホテップ、君も聞き覚えがあるだろう。
ヤツを崇める「ナイアルラトホテップ教団」というものが今のハルケギニアで暗躍している。
ひとところに固めねば対処できぬ、オーク鬼なんぞと比べ物にならないほど厄介な者たちらしい。
私はメアリーの父として、やつらをまとめねばならない。
トリステインのため、ハルケギニアのためにも教団をまとめて一網打尽にする一助とならねばならない。
それがメアリーの父としてできる最後の仕事で、ロシュフォール家を、君を守る唯一の選択肢だったのだ。
この任務は私の死をもって完遂されるだろう。
その知らせが来るまで、何があってもロマリアから出ないでくれ。
ああ、ミレディー。
愛する君を残して始祖の御座に向かう私を許してくれ。
そして、決して毒盃を煽るような真似はしないでくれ。
私は君の幸せだけを祈っている。
叶うならばもう一度、君とラグドリアン湖に行きたかった。
君の愛したジョン・フェルトン
*
全てを包み込むような優しい月明かりだった。
ベッドに横たわる妻の頬を撫でる男の瞳は、それに勝る慈愛に満ち満ちていた。
音もなくドアを潜り抜けた金髪の男が立ち止まり、白髪の男はゆっくりとベッドから離れる。
「旦那様、よろしいので」
「ああ、行こう」
妻を見ていたときとは全く違う、眼に焔を宿した白髪の男は歩み出した。
その後ろを金髪の男がついていく。
「すまんな」
「かまいません。旦那様と死出の旅に赴くなら至福の極みにございます」
「……感謝する」
「仰せつかったマントをこちらに」
「うむ」
金髪の男、バザンが手渡したサファイヤとルビーをあしらった漆黒のマントを翻し、ジョン・フェルトンはアルビオンを目指す。