「サイト殿。アルビオンの一件、改めてお礼を言わせてもらいますわ。ありがとうございます」
「え、はあ、どうも」
リュティスからトリスタニアへ向かう竜篭の中、アンリエッタは才人にお礼を言った。
これといった流れもなく、唐突なものだったので彼は呆けて、隣に座るルイズに肘でつつかれて気のない返事をしてしまう。
「えっと、恐悦至極に存じます?」
「なんで疑問形なのよ」
ルイズは「もっと礼儀作法を教えておくべきだったわ」と後悔したものの、アンリエッタは気にする様子も見せなかった。
楽しそうに、幸せそうに微笑む。
「そんなにかしこまらなくてもかまいません。あなたはハルケギニアで最も重要な存在なのですから」
「その通りです。本来なら教皇と対等の地位を設けるべきなのですが、時期尚早でしょうな」
アンリエッタとマザリーニは、ルイズにとってとんでもないことを、才人にはよくわからないことをのたまった。
ぽっと出の平民、それも出自のよくわからない異星人に与えていい地位ではない。
しかし平賀才人はアルビオン王家を救った英雄であり、今やハルケギニアの対邪神最終兵器とも言える。
彼なくしてハルケギニアの明日はない。
と言っても、アンリエッタもマザリーニも才人に政治をやらせるつもりはこれっぽっちもなかった。
あくまでお飾りの権力で、それを駆使して戦の準備を整えるのだ。
教皇と対等の地位、これはハルケギニア最高の権力者であることを示す。
邪神に対抗できるのは始祖ブリミル以外にありえない。
ブリミル教から破門されるということは、すなわち狂気に怯えながら暮さねばならないことでもある。
したがって、その教えを守り、伝えていくブリミル教の僧は大きな力を持っている。
地球で言う、中世ヨーロッパはハインリヒ四世の時代と同等の力を有していると考えれば良いだろう。
万一破門の憂き目に会えば、国家のため、人民のためガリア王ジョゼフですら教皇に膝をつかねばならない。
だがロマリアは同時に、貴族の武力なくして邪神に抗えないことも知っている。
緻密なバランスの上で貴族と僧は手を取り合っていた。
「ロシュフォール伯が上手くやればそこの問題は追々片付くでしょう。それより他の問題を考えないと、時間は有限なのだから」
「わたしは“爆発”と“解除”の習得、サイトは神剣に慣れながら引き続き鍛錬ですね」
ルイズは始祖の祈祷書をきつく抱きしめた。
トリステインの国宝である古びた本は、虚無の担い手にしか読むことができない。
当初は担い手が各王家に伝わるルビーを嵌めねば文字が浮き上がらなかったが、制約が厳しすぎると判断した五千年前のロマリア教皇が“解除”によって魔法を部分的に改変したのだ。
始祖の秘宝にかけられた魔法は非常に強力であるにも関わらず、そのような条件変更を行うことができた当時の教皇の凄まじさがうかがえる。
それほどの使い手も邪神との戦いで命を落としてしまったのだが。
「サイト殿とルイズは魔法学院に配置します。巫女がいた場所ですから、邪教徒も潜んでいることでしょう」
「姫さま、アニエスは呼び戻されるのですか?」
「……トリスタニアの防備に不安が出るのは好ましくないわね。ロシュフォール領にヒポグリフ隊から人員を可能な限り配備、首都は銃士隊と……」
「軍事についてはグラモン元帥やポワチエ将軍に話してから決断するのはいかがでしょうか?」
「そう、そうね。人は道によって賢しという言葉もあるくらいですし」
アンリエッタは先ほどとは違って、力ない笑みをルイズたちに見せた。
「予想外のことが起きすぎて困っちゃうわね」
「……邪神の行動など誰にも予測できませぬ」
「マザリーニは固いわ。もうやることが多すぎてイヤになっちゃう。去年の今頃に戻りたいわ!」
「去年の姫さまですか。王宮に行くたび「退屈退屈!」って叫んでたような気が……」
「そんな事実はないわ」
ルイズの突っ込みにしれっとアンリエッタは返す。
才人は友だちの友だちの家しかも女子に遊びに行ったときのような疎外感を味わっていた。
アンリエッタの隣にマザリーニが座っているのが、なおさらその感覚を加速させる。
あまり似ていないが、彼はアンリエッタの父親みたいだ。
今は穏やかな表情をしているけれど、その内くわっと目を見開いて「どこの馬の骨とも知れん奴に私のアンはやらん!」とか叫びだしそうだった。
「各貴族にも正式な通知を送らないと。教皇聖下とジョゼフ陛下、ウェールズ様の書面もどっさり手にいれましたし」
「まず公爵家に布告、次いで侯爵、伯爵に、子爵と男爵は王宮に集めて一斉にといった次第ですかな」
「その順番が妥当でしょうね。ラ・ヴァリエールにはルイズが直接いけばすむことですし」
「え……それはちょっと」
「なんにしろ邪神についてわかりやすく、信頼できる文章をつくらねばなりませんな」
「なんだってご先祖様たちは邪神の記憶を消しちゃうのかしら。理由はわかるけど、めんどうだわ」
よくわからない話が竜篭の中を飛び交って、すごいなぁと半ば放心していた才人は気になる言葉を拾った。
このまま謎話を右から左に聞き流すよりもマシかと思いながら質問してみることにする。
「記憶を消すって、どういうことですか?」
才人がわからないのはそこだ。
邪神とやらがしばしばやってくるのなら記憶を消さずとも良いではないか。
みんなで備えてえいやとやっつければいいと思った。
忘れることで得することなんか、才人には考えつかない。
「サイトにも説明しておいたほうがいいみたいね」
「待たれよ」
「うぉっ!?」
「その疑問には某が答えようか」
才人が背負っていた神剣が渋い声でしゃしゃり出てきた。
いきなり耳元でおっさんボイスが響いた才人は飛び上がって驚き、三人の視線が突き刺さっていることが恥ずかしくなって腰を落とした。
「トリステインでは邪神戦役後“忘却”を用いているのだな」
「ええ神剣殿。消極的と言わざるを得ませんが」
「それが悪いとは言わぬ、選択肢の一つなのだから。それと、某のことはデルフリンガー、もしくはデル公でかまわん。四千年ほど前のガリア王に公爵位を授けられたのでな。ああ、相棒はデルフと呼んでくれ。歴代の使い手からはそう呼ばれていたのだ」
とにかくこの剣、よく喋る。
一つ口を開けばとにかく言葉が重なって出てくる。
話をする機能が主で、斬るという剣本来の仕事はオマケなのかもしれないと思わせるほどだ。
ルイズもアンリエッタも「うわぁ……」という顔で才人を、もっと言えば才人が背負っている柄を見ている。
デルフリンガーは領地など持っていないが家格としては最高位、一振りの剣にすぎないくせ、ヴァリエール家と変わらない。
その気になれば魔法学院のひよっ子を顎でこき使える身分だ。
「さて、記憶を消す手段と何故そうするかだったな」
「あ、うん」
「消す手段は虚無の魔法だ。“忘却”という、任意の記憶を消去する魔法がある。他にも使い方はあるのだが、今はいいだろう」
「ふむふむ」
才人は分かった風に相槌を打ってみる。
任意の記憶を消す魔法、この恐ろしさを彼は理解していない。
戦闘中に魔法関連の記憶を消されたら、敵対者に不利な記憶を消されたら。
応用の幅は非常に広いが、ルーン詠唱が長いという欠点を併せ持つ虚無のスペル。
それが“忘却”だ。
「では何故記憶を消去する必要があるか。わかるか?」
「わかんねーから聞いてるんだろ」
「相棒はもう少し頭を鍛えるべきだな。邪神は狡猾で残虐な存在だ。流されるままに剣を振るっているだけでは決して勝てぬ。たゆまぬ鍛錬と常に冷静さを保ち、思考を続けることによってはじめて活路を見いだせるのであって」
「ああもう! 説教はあとで聞くから!!」
「これは説教ではない。あくまで相棒のためを思っての、いわば忠告だ。某自身、人に何かを教え導くほど立派な人生、あいや、剣生を歩んでおらぬ」
「いやわかったから」
「む、仕方あるまい。何故記憶を消去するか、だったな」
「そ」
――デルフと喋ってたら日が暮れても話が終わらない。
これは青いおっさんの遠回しな嫌がらせでは、と才人は思ったが口には出さなかった。
聞かれたら最後、再びマシンガントークがはじまりそうだったからだ。
マザリーニは若干渋い表情、美少女二人は顔をひきつらせている。
デルフリンガーはする必要もないのに咳払いを一つして、真実を語る。
「簡単だ。邪神の存在を知れば発狂する」
「は……?」
「名前、姿形、あるいは存在するという事実。どれでもかまわん。それが狂気の入り口となる。普通の者ならば一年と正気を保てぬ」
「嘘、だろ?」
にわかには理解できぬ話だった。
邪神を知覚するだけで狂ってしまうなんて、才人には信じられない。
――それがホントだとすれば、それは、どうしようもないじゃないか。
「事実です。十四年前、彼奴らの存在を知ったワルド子爵の母君はそれで亡くなられました」
「ワルドさまの……」
「彼女は地の底に眠る風石の研究を行っていたようです。その過程で、何かに気づいたと。アカデミーは閉鎖的なところもありまして、我々が気づいたときには手遅れでした」
マザリーニは心底悔いているようで、その顔は暗く重かった。
「よっぽど精神的に強い者しか抗えぬ。例外は信仰に篤いロマリアの高僧か、色濃くブリミルの血をひいているもの、もしくは虚無の使い魔か」
「トリステインではデルフリンガー殿が仰ったように、極一部の者しか知りません。公爵家であっても邪神について知らいないでしょう。もっとも、具体的でない家伝にまでは手を出していませんが。アルビオンはどこからか、邪神の情報が洩れてしまったようですわね。クロムウェルが染められ、そこから一気に広まったと」
程度の差こそあれど、各王家は邪神情報の機密保全に力を入れている。
どこでクロムウェルが邪神のことを知ったのか、謎は尽きない。
「彼も、元は敬虔なブリミル教徒であったというのに……始祖の血をひいていなかったために、こんなことに」
クロムウェルのことを、マザリーニはほんの少し知っていた。
平民出身とは思えぬほどの教養を身に着けていた。
聖職者だというのにワインが好きで、酔うといらぬことを喋ってしまう男だった。
朝夕の礼拝以外にも、始祖ブリミルの像に祈っていることが多かった。
彼が知っているのはたったそれだけ。
たったそれだけでも、彼が本質的に善人であると、マザリーニはわかっていた。
「結局全部、ナイアルラトホテップってヤツが悪いってことだよな」
その名を口にするだけで、才人の心臓が強く脈打つ。
この地上から排除せねばならぬと咆哮している。
「倒さなきゃ……」
「その通りだ、あの存在にこれ以上この星を蹂躙させてはならぬ」
才人の呟きに、デルフリンガーが力強く肯定した。
それっきり、竜篭の中は静かになる。
トリスタニアはもうすぐそこだった。
―――公爵の杯を―――
翌日、ルイズは才人を連れてヴァリエール領に帰った。
懐にはアンリエッタが認めた手紙を携え、これまでのことを、これからのことを報告するために。
トリスタニアを早朝に発ち、朝食後のお茶の時間に滑り込むことができた。
連絡を一切いれずの帰宅だったので、使用人一同は驚き、そして公爵たちの下にルイズを案内した。
突如現れた娘に、公爵は相好を崩し、公爵夫人は眉をひそめた。
「ルイズ、学院はどうしたのです」
「オールド・オスマンには許可をとっていますわ。理由もきちんとあります」
夫人は、ルイズのはきはきとした態度に疑問を覚えた。
彼女が何より規律を重んじるということを、彼女の娘はよくよく承知しているはずだ。
だというのに一切後ろ暗さは感じさせない。
何か重大なことがあったというのだろうか、と心中で口にする。
一方の公爵は、純粋に娘の帰郷を喜んでいた。
「おおルイズ、よく帰ってきた。何かあったのかね?」
娘を抱き寄せ頬に口づける。
父親の親愛の情に、ルイズは少しくすぐったそうにした。
「父さまと母さまにお話があります」
「いいとも、丁度昨日いい茶葉が入ったのだ。ルイズもかけなさい」
進められるままにルイズは腰掛け、差し出された紅茶に口をつける。
ほのかなマスカットの薫りが口中に残り、思わずため息をついてしまう。
が、すぐに己の使命を思い返し、話を切りだした。
「父さま。アンリエッタ姫殿下から、いえ、教皇聖下、ジョゼフ陛下、ウェールズ皇太子の連名で書状を預かっています」
「……なに?」
ルイズが並べた名前は、始祖ブリミルの代にはじまり、六千年もの間ハルケギニアを支配してきた四国の代表者だ。
それらすべてが係わる書の重要性は計り知れない。
娘が差し出した手紙を、公爵は無言で受け取り印璽を確認する。
彼ですら数えるほどしか見たことのない、教皇印だった。
何事か、と思いながら開封して黙読する。
四枚の紙を一通り読み、もう一度最初から終いまで読み返した。
「そうか……」
ラ・ヴァリエール公爵は椅子に深くもたれかかった。
「にわかには信じられぬことだが……各国首脳が連名で認可しているならば、手の込んだ悪戯というわけでもないのだろう」
その顔色は優れない。
手紙の内容がよほど堪えたのか、半ば放心しているようにも見える。
隣に座る公爵夫人に力なく、手紙を渡した。
目を通した彼女もその内容に驚愕している。
「これは、確かに凄まじいことですわ」
夫人もアルビオンの顛末、これから起きる内容に顔をしかめている。
穏やかな太陽の下、親子三人でお茶をしているというのに空気は重い。
手紙の内容は大きく三つ。
一つ、邪神ナイアルラトホテップと教団について。
一つ、それに付随して今後予測される事態について。
そして最後に。
「いや、それよりもルイズ」
虚偽を許さぬ射抜くような眼で彼の娘を見つめる。
「魔法が、使えるのだな」
「はい、父さま」
「……伝説の、虚無の系統だというのだな」
「……はい」
老公爵は、厳めしい顔をほころばせた。
「おめでとう、私の小さいルイズ」
娘に対する心からの祝福がこもったその言葉に、ルイズは思わずハンカチで口元を抑えた。
堪えようと思っても涙が止まらない。
彼女は、ずっとゼロだった。
虚無の系統であると知られたのはおおよそ六年前、アンリエッタとの会話が枢機卿に伝わったとき。
マザリーニは彼女に己の系統を、そして誰であろうとそれを教えてはならぬと固く約束させた。
始祖の御前で誓約をさせたのだ。
幼いながらも彼女はその誓いを、決して破らなかった。
口さがない使用人が囁こうとも、家庭教師にさじを投げられても、父母から蔑みの目で見られているような錯覚を感じても。
本当は叫びたかった。
『わたしはゼロじゃない! 魔法が使える! 虚無の系統なんだ!!』
そう、みんなに言いたかった。誰よりも家族に言いたかった。
だがそれは許されないことだった。
虚無の系統は表面上、強力な魔法に過ぎない。
もし好戦的な貴族に知られれば、人間同士の不毛な戦、その旗印にされただろう。
そして情報というのはどこから漏れるかわからない。たとえ血のつながった家族であろうと、完全ではない。
ルイズは両親にずっと伝えたかったことが言えた。
今この瞬間、彼女は報われたのだ。
歓びに満ちた涙は、静かに頬を流れていく。
公爵は立ち上がり、我が子を優しく抱擁する。
柔らかな日差しが穏やかな時間を包んでいた。
「そうだ、ルイズ。カトレアに顔を見せてきなさい。お前に会いたがっていたようだからな」
「はい、父さま」
「それと」
ルイズは気づかなかったが、公爵の眼は鋭く光っていた。
「お前の使い魔を連れてきなさい。少し話をしたい」
*
応接室のようなところに一人待たされた才人は、のんびりくつろいでいた。
元来小市民なところのある彼は、普通ならこんなゆったりとは過ごせない。
しかしハルケギニアに来てからご主人様の部屋をはじめ、ニューカッスル城やトリステインの王宮、果てはグラン・トロワまで様々なところを渡り歩いてきているので、流石にもう慣れてしまった。
今も「紅茶って案外うめー」とぐだーとしていた。
そこにルイズがやってきて、父親が呼んでいる旨を伝えた。
粗相をしたら斬首かもね、といつもなら言わないような冗談を飛ばしてルイズは軽やかに去って行った。
嫌な予感をひしひしと覚えつつも、行くという選択肢以外なかった。
「お前がルイズの使い魔か」
「はい、サイト・ヒラガです」
――も、モノクルだ。すげぇ。
現代日本では、漫画の中でしかお目にかかれない紳士アイテムを目にして才人のテンションは一時的に急上昇した。
白髪の目立ち始めたブロンドの髪が、髭が、服装が、なんとも彼のイメージする貴族とマッチする。
これほどのダンディズムを体現した貴族がいるとは、と心中でちょっぴりはしゃいだ。
そしてルイズパパの眼光が鋭すぎることに気づいてテンションは急降下した。
なんというか、視線が殺る気に満ち溢れているような気がする。
「かけなさい」
有無を言わせぬ強制力を孕んだ言葉に、才人は大人しく従った。
ルイズパパの隣に座る、ルイズが性格的にきつくなって成長すればこうなるかな、という容姿のルイズママも厳しい気配をビシビシ送ってくる。
これが普通の貴族相手なら喧嘩を売られていると思ったかもしれない。
だが相手はルイズの両親だ。
――や、やっぱり「お前みたいな馬の骨が娘の唇をッ!」とか言われるのかな。
古典になりつつあるドラマ的展開を妄想して内心ビクビクな才人だった。
「まあ、飲みなさい」
「い、いただきます」
なぜか赤い液体が注がれたワイングラスを公爵は差し出した。
――固めの杯!?
脳裏で上映されているのは、古いドラマから任侠ものになった。
才人はじっとグラスに目を落とす。
ぐびりと唾を飲み込んで、一息に飲み干した。
味なんてわかったもんじゃなかった。
「ありがとうございます」
なんと言えばいいのかわからず、とりあえずお礼を言う。
――学校じゃご主人様の親御さんへのあいさつの仕方なんて教えてくれなかったぞ!
内心ではどうしようどうしようとテンパりながらも表面には出さない。
そんな才人を後目に、公爵はワインクーラーから瓶を引き上げる。
その瞳はラベルを読んでいるようで、どこか遠いところを見ているようだった。
「そのワインはジャン・ジャックが、ワルド子爵が好きだった銘柄だ」
「え……」
「あまり酒を好まぬと言っていたからな、浴びるほど飲ませたことがある」
「あら、そんな楽しいことをしていたのですか」
「一度だけだがな。普段は生真面目なジャン・ジャックもその時ばかりは前後不覚になっておった」
もう手の届かないくらい遠くを、ラ・ヴァリエール公爵は見つめていた。
「婚約は奴の父と酒の席で出た話だった。冷静になると家格が違いすぎるから断ることも考えた。だが、あやつは家格の差を実力で詰めようとしていた。しばしば様子を見に行けば、よくルイズの話をねだられたものだ。そんな気になるなら自分で手紙を書けと言ったのに」
「彼は真面目でしたからね。気恥ずかしかったのでしょう」
「そこがいかん。男たるもの攻めるときは攻めねばならん!」
目の前の会話がまるで異世界の言語であるかのように、耳に入っても意味が通じない。
才人は自身が飲み干したワイングラスを、その底に少しだけ残った赤い液体を食い入るように見つめている。
「サイト・ヒラガと言ったな」
「は、はい!」
公爵の声に、才人は現実に引き戻された。
「教えてくれ、ジャン・ジャックの最期を。手紙ではなく、実際に見届けた男から聞きたい」
才人を見る公爵の瞳には、複雑な輝きがあった。
「子爵さんは……」
――何を言えばいいんだ。戦いの様子? 最期に何を言ったか? 何で、死んだか?
からからになった喉からは掠れた声しか出ない。
「子爵さんは……」
――あれ、良く考えてみれば俺あの人のこと何にも知らない。あんなに勇敢で、命の恩人で。他の人のことも、あっけなく死んで。
ぐるぐると心はマーブル模様を描いてまとまらない。
「落ち着きなさい」
凛とした声が溢れだしそうになる心情を押し留める。
才人は彼自身が気づかぬ間に自分を抱きしめるようにしていた。
身体の震えが止まらなかった。
夫人の鋭い眼光が才人の瞳を射抜く。
「あなた」
「うむ、患っておるようだな」
「な、なにがですか?」
夫人は、カリーヌは『烈風』の二つ名を持つ、トリステイン最強の風メイジだ。
マンティコア隊隊長として数多くの武勲を立て、それゆえ兵の精神状態についても一定の知識を有している。
公爵も若かりし頃は魔法衛士隊に所属しており、さらに水メイジということもあって彼女以上に詳しい。
その二人の見立てでは、 才人の状態は戦友を亡くした新兵と非常によく似ている。
戦友を思い出すと途端に平静を失うが、平時は何事もなかったかのように過ごす。
だが一般的に知られる症状はもっと軽く、才人の様子は二人から見ても重症だ。
「まさか、ニューカッスルが初陣か?」
「……」
沈黙をもって才人は答える。
同封されていたウェールズの手紙にアルビオンの惨状とジェームズ一世の最期は記されていた。
アルビオンはお国柄、大仰な修飾語を好まない。
直截的な表現が多く、それだけにどれだけ激しく、そして救いがない戦だったというのが生々しく伝わってきた。
そのような戦場で初陣を飾り、真っ向から敵と斬り結ぶなどと、そのような真似ができる戦士を公爵は知らない。
公爵は夫人と頷き合い、若き英雄に話しかける。
「アルビオンで何があった」
安心感を誘う低い声だった。
「人が、人が死んだんです」
ぽつりと、才人は胸中に溜め込んでいた言葉を吐き出した。
「そうだ、人が死んだんだ。いっぱい死んだ。なのに、なんで、なんで俺、何も感じなかったんだよ」
一度噴き出した感情は逃げ場を求めて胸の中を暴れ狂う。
ハルケギニアで生を受けた二人には、才人はまるで異質なものに見えた。
この世界で人死には珍しくない。
病気、オーク鬼、貴族の無礼討ち、寿命、事故。
それだけにとどまらないが、平民の命などさほど高くない買い物だ。
平民だろうが貴族だろうが死体を見ても強烈なショックを受けない。
だが、才人は違う。
平賀才人は地球の、さらに平和な日本で生まれ育った。
親戚の不幸もなく、交通事故や殺人現場に出くわすこともなく、至って平穏無事に過ごしてきた。
人の死など彼にとって仮想世界か、遠い場所での話にすぎない。
そんな普通の少年が突然異世界に放り込まれ、さらにはこの世ならざる戦争に巻き込まれてしまう。
ありえない体験の連続にルーンの精神強化も限度を迎えつつあった。
脳裏にニューカッスルの夜が蘇る。
一人二人ならいざ知らず、目の前で蹂躙された百もの命が暴れ狂う。
壁に叩きつけられた貴族も、名状しがたい獣に踏みつぶされたメイジも、まぶたの裏で鮮明になる。
最後に見たワルドの優しげな微笑みも。
「覚えてた。血を吐きながら死んだ人も闇に呑まれた人も覚えてたのに、おかしいよな。なんで、なんでなんで!?」
「いかん!」
才人の身体は激しく痙攣していた。
公爵は素早くスリープ・クラウドを唱え、彼を眠りに誘う。
意識を失う寸前、才人は考える。
――俺、何になっちまったんだろ。
***
「というわけでちいねえさま、わたしは虚無の系統だったのです!」
「あらあら、すごいじゃない」
ばんざーいとピンク姉妹が両手をあげれば周りの動物も追随してくれた。
それから魔法学院で美味しい料理、ルイズの使い魔のこと、プチ・トロワの美しさなど、他愛もない話を彼女は姉にする。
ルイズの姉、カトレアは妹の話を楽しそうに頷きながら聞く。
夫人がルイズの苛烈な成長を遂げた姿ならば、カトレアは穏やかに、豊かに育った容姿の持ち主だった。
カトレアは体が弱い。
魔法を使えば大きな負担がかかるし、幼少のころからラ・ヴァリエール領から足を踏み出したことがない。
そんな彼女を想って、ルイズは外で起きた様々な出来事を話すようにしていた。
しかし、楽しい時間はすぐに終わる。
どこか硬質な音が二人の会話を中断させた。
「どうぞ」
「失礼します。ルイズお嬢さま、旦那さまが部屋でお呼びです」
背筋をしゃんと伸ばしたメイドが率直に用件を述べる。
「なにかしら。ちいねえさま、行ってまいりますわ」
「いってらっしゃい」
折角いいところだったのに、とぼやきながらルイズは部屋を出た。
メイドを従えヴァリエールの広い屋敷を急ぐでもなく歩く。
久しぶりの帰宅だったが、花瓶の花や飾られた絵画が新調されているくらいで、大きな変化はない。
ほんのちょっぴりの懐かしさを感じながら父親の執務室に着く。
「旦那さま、ルイズお嬢さまがお見えになりました」
「はいりなさい」
メイドが開けたドアをくぐると、意外すぎるものが目に入った。
「サイト!?」
来客用ソファーに彼女の使い魔が横たわっていたのだ。
「どういうことですか父さま!」
それを見るなりルイズは公爵に突っかかった。
彼は娘の様子に一瞬目を見開き、すぐに渋みのある声で諭す。
「精神面からくる発作に襲われたので眠らせた。ルイズ、話というのは他でもない彼のことだ」
才人をよく見ると、顔色こそ悪いものの外傷はない。
早とちりした自分を恥じたのかルイズは俯いてしまう。
公爵は愛娘に空いているソファーに座るよう促した。
「彼は、何者だ?」
「何者というのはどういうことですか?」
「ワルドの話を聞こうとした。その時に発作を起こしたのだが、これほど酷い症状は聞いたこともない」
困惑した様子が表情からうかがえた。
これがただの平民なら公爵もここまで気遣わなかっただろう。
だが、平賀才人は虚無の使い魔で、亡国の皇太子を救い、ロマリア教皇までもが認めた平民なのだ。
感情面では折り合いのつかないところもあるが、今はそれを抜きにして考えねばならない。
ルイズはこの一週間のことを思い返す。
当然ながら才人がアルビオンの話題を出すことはなかった。
最初の三日はふさぎ込んでいたように見えた。
リュティスに行く直前からは元々の明るさを取り戻しつつあるようだと、ルイズは感じていた。
そこで彼女は気づく。
「サイトは、サイトの星は平和だって、争いなんかなかったって」
「争いがない……? いや、彼の星とはどういう意味だね」
「違う星から、わたしは彼を召喚しました。魔法もない、貴族もいない、オーク鬼みたいな危険な生き物もいない星から」
「それは……」
ハルケギニアで五十年も生きている公爵に、そんな星は空想すらできなかった。
ロバ・アル・カリイエ以東に広がる不毛な大地を想像してしまう。
「人が死ぬことなんて滅多にないと、言っていました。サイトの国では大体八十歳までは生きられるとも」
「……始祖の御座のような世界だな」
ルイズの言葉に、思わずこぼした。
貴族という統治者がいないのに政治はどうしているのか。
魔法もないのに何故人死にが少なく、齢八十まで生きられるのか。
オーク鬼に苦しめられることがない人々はどれほど幸せなのか。
公爵の疑問は尽きないが、話を聞いてわかったこともある。
「環境の差異から来るものかもしれん」
身の回りが急激に変化すると、身体と精神の両方に失調をきたすことは、ハルケギニアでも知られている。
そしてそれを解消するのは個人差もあるが、周りの人間であることが多いということも。
「ルイズ」
「はい」
「ニューカッスルの件はお前の使い魔の心をひどく蝕んでいるようだ。お前は主人として心の支えにならねばならん。それが彼のためであり、お前のためであり、またハルケギニアのためでもある」
娘と目を合わせて公爵は説く。
ルイズは真剣な表情で頷いてみせた。
「わかったなら良い。カトレアの部屋に戻りなさい」
「わかりましたわ」
言うとルイズは才人に近寄り、お姫さまだっこのような格好で持ち上げようとした。
これには公爵が仰天した。
「なにをやっているのだ!」
「だって、サイトも、ちいねえさまに、紹介しないと」
公爵はこめかみをもみほぐしながら幼い娘を諭す。
「あとで使用人に運ばせよう。淑女がそんな真似をしてはならん!」
「……はい」
父親のお叱りにちょっぴりむくれながらルイズは部屋を出て行った。
同時に、カーテンの後ろに隠れていた夫人が姿を現す。
「カリーヌ、どう思う」
「あなたがルイズに厳しいのはいつも表面だけですね」
「そ、そっちじゃない!」
公爵が少し慌てて弁明する。
夫人は素っ気ない態度で話を元に戻した。
「立場が違いすぎて推測すらできませんわね」
「そうか、そうだな。わしも同じだ。しかし、いかに武に長けていようと精神が弱ければ話にならん」
「王家に任せっぱなしというわけにはいかないでしょうね」
「その通りだ。平民というのが多少気に食わんが、公爵家として支援せねば」
「……彼を鍛える必要がありますわね」
ぎらりと夫人の双眸が輝く。
その煌めきは『烈風』として名をはせた時代のものだった。
*****
「急げ急げ食料と最低限の衣類以外は置いてけ」
アルビオン南部、軍港ロサイスは慌ただしい喧騒に包まれていた。
響き渡る声は活気よりも必死さを感じさせる。
悲壮感を顔に張りつけた市民が列を作り軍艦にぞろぞろと乗り込んでいく。
これからトリステインに亡命する大衆は、生まれ育った地に戻れるのかという不安をぬぐえない。
「スワロー号、出港準備整いました」
「よし、残るはピジョン号だけだな」
白髭をたくわえたホーキンスは書状に目を通しながら部下の報告を聞いていた。
整理された机の右側にウェールズからの手紙が置かれている。
トリステインが避難民の生活を保障するという内容だった。
――平民の暮らしを気遣えるとは、トリステインも中々やるものだな。
実際この知らせを聞いてから避難に踏み切る平民が増えた。
それでも父祖の地を離れられん、と残る住民も少なくない。
彼らにかまけている暇はなく、そういった手合いは放置されている。
時間との勝負だった。
得体の知れない輩はニューカッスルから徐々に南下し、ロンディニウムを超えて数日後にはサウスゴータに到達するだろう。
今は一刻も早くこの大陸を離れなければならない。
ホーキンスも荷物をまとめ、空軍司令部の施設を出た。
その時、地面と空を交互に見つめている兵の姿が目についた。
「何をしている」
「こ、これは将軍閣下」
ぎこちない敬礼で彼が新兵であるとホーキンスにはわかった。
「わたしは何をしていると聞いたのだ」
「はっ! 太陽と影を見ていました」
「太陽と影?」
老将軍も思わず見たが、いつもと変わりないように感じる。
いや、少しだけ違う。
「……何か違和感があるな」
「この時間帯にしては影が長いようです。それと、太陽の位置もおかしいかと」
「ふむ」
空中大陸アルビオンは空を旅している。
新兵の報告から、いつもより東にずれていると思われた。
だが、それはおかしなことだ。
「いや、今は捨て置こう。お前も急げ」
「はっ」
アルビオンは決まった軌道を描いて空を移動する。
僅かなずれすらこの六千年ありえなかった。
大陸は東へ下へ、トリステインに近づいていく。
*****
才人が意識を取り戻すと、空を飛んでいた。
「おわぁっ!?」
心臓が止まりそうになるほどびっくりした。
轟々と唸る風の音がうるさい。
「ちょ、こ、これなんだよ!?」
地面に足がついていないというのが恐怖心を誘う。
ロープで何かにくくりつけられているのか、腕は動かせない。
気分は安全装置のないジェットコースターだ。
タバサの風竜の背に乗った時とは大違いだった。
「母さま! サイトが起きました!」
「魔法学院まであと一時間ほどです。そのままでも問題ないでしょう」
轟音の中聞き覚えのある声がする。
――も、問題大有りじゃねぇかっ!
ジェットコースターをはじめ、スピードや浮遊感を味わうアトラクションが楽しいのは何故か。
非日常の体験というのもあるし、爽快感もあるだろう。
だが、すべては短時間だからこそ楽しめるわけで。
「た、助けてぇぇえええ!!」
アルビオンの英雄は過去に思いを馳せることもできず、情けない悲鳴をあげた。
*
「ひ、ひどいめにあった……」
「大丈夫?」
一時間ぶりの地面は例えようもなく頼もしい。
翼の生えたライオンのような、マンティコアという幻獣の尻尾に縛りつけられていた才人はふらふらと膝とついた。
学院の北側、ノルズリの広場に降り立った立派なマンティコアに興味をひかれたのか、風の塔の窓から身を乗り出して観察する学生の姿が見える。
しかし授業時間なのですぐに少年たちは引っ込んでしまう。
夫人はその様子を厳しい目つきで睨んでいた。
「なんでルイズのお母さんが魔法学院に?」
「わたしも知らない」
ルイズ聞いてよ、いやよサイトが聞いて、とお互い肘でつつきあいながら囁きあう。
「聞こえてます」
『すいませんでした』
ひそひそ話をしても優秀すぎるほど優秀な風メイジである夫人には関係のない話だった。
「さて、ルイズの使い魔、サイト・ヒラガと言いましたね」
「はい」
普段は心持無気力めなのが信じられないほど勢いよく、はきはきと返事をする才人。
そうせざるを得ないオーラを夫人は放っている。
――例えるなら、ヤクザの親分とか。
非常に失礼な感想を思い浮かべた。
「今日から私が鍛えます。以降私のことは隊長と呼ぶように」
「へ?」
「返事はきちんとなさい」
「は、はい!」
「声が小さい」
「はい!!」
「返事は「ウィ、マダム」!!」
「ウィ! マダム!!」
魔法学院に『烈風』来たる。
ルイズはあんぐりと口を開いていた。