平賀才人は今日も空に挑む。
――これで九回目か。今日もよく飛んでるなぁ。
金髪のくせっ毛が特徴的なギーシュ・ド・グラモンは窓の外で空高く舞い上がる黒髪の少年を眺めていた。
いつものパーカーではなく、アルビオン水兵用の、もっと言えばセーラー服と黒いスラックスは新緑に染まった大地でよく目立つ。
二限目はギトー教諭が行う風の授業で、話は逸れまくっていたから聞く必要はないと思っている。
相変わらず風系統の自慢話、擬音語が多すぎてワケのわからないそれは一部学生から人気を博している。
が、ギーシュはその一部学生に入らないのであまり好きではなかった。
自慢話はかなり長時間続いていて、もうすぐ二十分たちそうだ。
――あ、十回目。
よくもまあポンポンと飛ぶものだ、と変に感心してしまう。
昨日から強制的に空を飛ばされている少年、平賀才人のことをギーシュは少しだけ知っている。
彼が決闘を吹っかけ、負けた相手だ。
錬金した剣に手をかけた瞬間、ボロボロだった少年はメイジ殺しに変貌した。
そこからはあっという間、成す術なくワルキューレを一刀両断され、降参を迫られた。
その少年が今度はこてんぱんにやられ、二分に一回という驚異的なペースで吹っ飛ばされるとは。
世の中の広さをギーシュは実感していた。
――おお、十一回目だ。
魔法学院から少し離れた森の中に広場がある。
切り株をベンチ代わりにできる、雰囲気のある樹木に包まれた休憩所だ。
だが、きっとそこはもう使えないだろう。
先ほどからその場所から土煙がもうもうと立ち込め少年が飛ばされているのだから。
――土煙が立つってことは、下草はもうないんだろうなぁ。
幾度かデートに使ったこともある広場の惨状を想像して嘆息したギーシュの視界では、才人が十二回目の飛行に挑戦させられていた。
森林の樹高は五メイルくらい、彼はその倍近くの高さまで飛翔している。
一体どんな訓練をすればああなるのか。
グラモン家の四男としてそれなりの鍛錬を積まされてきたギーシュにもわからない。
ここ数日姿を見せず、昨日ノルズリの広場へ現れた巨大なマンティコアから降りてきた少女、ルイズに目をやる。
彼女は窓の外を必死で気にしないようにしていた。
心なしか冷や汗をかいているようにも見える。
――アレほど彼の世話を焼いていたのに、どうしたんだろう?
ルイズの才人に対する態度は、平民へのそれとは明確に異なっていた。
使い魔召喚で平民が召喚されたら、普通の貴族は絶望するしかない。
ギーシュとの決闘で三日間も昏睡状態にあった彼を看病している様は見ていて激しく胸が痛んだ。
――喧嘩、とかかな。
僕とモンモランシーみたいに、と肩を落とした。
例の二股発覚があって約一ヶ月、まだ彼女に許してもらっていない。
そしてそれに関連して、彼の心に重い影を落としている事件もある。
嘆いているギーシュをよそに、聖堂の鐘が鳴り響いた。
「む、もうこんな時間か。今日の授業はこれまで。次週は風魔法を駆使した究極の体術『アルビオン落とし』について講義する」
ギトーは風のように颯爽と教室を出て行った。
学生たちは解放感から思い思いに動き出した。
集まってのんびりと食堂に向かう者、机に集まりお喋りに興じる者、そそくさと教室を抜け出そうとする桃髪の少女を捕まえる者。
「ルイズ、あなたここ数日なんで休んでたのよ」
「も、モンモランシー。あとで話すから、あとで、今は急いでるの」
「今もあとも変わらないでしょ。ほら、聞きたがってる子もいるんだから」
「ちょ、いや、急がないとサイトが……」
「ひょっとして、アレ?」
モンモランシーが指した先で、ボロ雑巾のような少年が十三回目の空中遊泳に勤しんでいた。
遠くてよくわからないが、多分火の塔より高い。
「母さまやりすぎよぉーっ!!」
「あ、ちょっと!」
はしたなくスカートを翻して走り出したルイズを、少女の群れは追いかけて行った。
「モンモランシー……」
ため息しか出ない。
そんな時、肩を叩かれた。
「……」
マリコルヌがすごくいい顔で頷いている。
その表情から内心を察するに「友よ!」といったところだろう。
否定するのもめんどくさいのでため息で答えた。
「昼食に行こうかフレンド」
ギーシュはもう一度わざとらしくため息をついた。
風の塔から食堂へ向かう道すがら、二人はメイドに呼び止められた。
「ミスタ・グラモン、ミスタ・グランドプレ。お手紙を預かっております」
「ああ、ありがとう」
例え平民であってもレディーとして扱う、それがギーシュなりの美学だ。
如才なく礼を言って手紙を受け取った。
「珍しいな、父上からだ」
「ぼくもだ、何かあったのかな」
「ま、食事の後でじっくり読もう」
「そうだね。奇妙なことが続くよなまったく」
ひらひらと手紙を揺らしてからマリコルヌは懐に仕舞った。
「……どうなっちゃうんだろうな」
「……わかんないや」
マリコルヌが言う奇妙なこととは、二日前から魔法学院で二十名近くの学生が失踪していることだ。
前触れもなく唐突に彼らは姿を消した。
馬を使った形跡もなく、隣室の者が言うには争うような物音もなかったという。
静かに、影に沈み込むかのように彼らはいなくなった。
授業は午前中のみに短縮され、すべての教員が懸命に捜索している。
オールド・オスマンも一切隠蔽せず、各学生の実家に梟を送った。
留学生のタバサとキュルケもルイズと同じ日から見かけなくなり、そこからまだ帰ってきていない。
さらに、ギーシュが一度ラ・ロシェールの森まで遠乗りに行った年下の少女も、ケティ・ド・ラ・ロッタも姿を消している。
ニューカッスル陥落の知らせは魔法学院にも届いている。
この世界が不吉な何かに覆われているような、不気味な雰囲気を二人は感じ取っていた。
それはさておき若い二人はお腹もすく。
アルヴィーズ食堂で始祖に祈りを捧げ、つつがなく昼食をとった。
少し土埃で靴が汚れていたルイズはそわそわと終始落ちつかない様子だった。
食事を終え、食堂を出た二人は意外な人物を見た。
「キュルケ! タバサ!」
「ハァイ、お久しぶりね」
けろっとした様子のキュルケと相変わらず本を読んでいるタバサがいたのだ。
「……キュルケ、つかぬことを聞いていいかい?」
「あら、トリステインの男はレディーに無用な詮索をするの?」
「無用の詮索っていうか……」
「それ、なに?」
キュルケの右でふよふよ浮いている青くて白くて黒くてやや赤い物体。
「サイトに決まってるじゃない。ああ、ルイズの使い魔ね」
どこからどう見ても平賀才人だった。
完全に気を失っているようで、身動ぎ一つしない。
ボロ雑巾をさらに酷使してもこうはならないだろう。
「学院の正門近くに転がってたから連れてきたの。何があったのかしらね」
「何があったか、ね……」
ギーシュとマリコルヌは顔を見合わせた。
具体的に説明できる者はこの場にいない。
「さ、サイト! ツェルプストーあんたナニやってんのよ!!」
ルイズが現れたのはその時だ。
食堂の出入り口から一直線、猛牛みたいに才人へ走り寄る。
「サイトサイトサイト! 生きてる死んでる大丈夫!?」
がくがく才人をゆすっているが、彼の口からは魂っぽいナニかが見えていた。
「何をやったらああなるんだろうね……」
「ああ、ぼくなら決して係わらないだろうな」
戦慄しながら二人はひそひそ声をかわす。
無論、積極的に係わりたくない出来事が向こうから近づいて来ているなどとは、想像もしていない。
自分たちの中に湧きあがる何かを誤魔化すように、懐に手をやる。
「そ、そういえば、手紙を読んでなかったね」
「そ、そうそう、忘れちゃいけないよな」
才人の惨状とキュルケとルイズのやり取りを遠い世界のこととして、蝋をぺりぺりとはがして中身をあらためる。
ギーシュの父、ナルシスからの手紙は非常に簡素だった。
『すまん』
「……?」
「なんだこれ」
隣のマリコルヌも首をひねっている。
そっちはもっと意味がわからなかった。
『ご褒美だと思い込め』
二人して首を傾げる。
桃髪の貴婦人に肩を叩かれるまで、あと少し。
―――烈風の調練を―――
ルイズはパタンと始祖の祈祷書を閉じた。
若く頭脳明晰な彼女は必要とされる二つのスペル、“爆発”と“忘却”を覚えてしまっていた。
今もなんとなく“瞬間移動”のルーンを眺めていただけ。
――虚無の系統は凄まじく強力ね。
他の四系統と違って直接的に相手を攻撃する魔法は少ない。
“忘却”も“加速”も“瞬間移動”もすべて補助的な作用を持つ。
四系統の魔法を抜き出して、とことん尖らせたような印象を彼女は受けた。
詠唱時間も長くイマイチ使い勝手が悪いというか、護り手がいることを前提としているようだ。
実際に使ってみたいという欲求もあるが、それはできない。
空撃ちして決戦の時に精神力が足りませんでした、ということは許されないのだ。
アンリエッタからも「精神力の無駄遣いは一切しないでくださいねオホホホホ」と太い釘を王宮で刺されていた。
頬杖をつきながらもう一度祈祷書を開く。
一人で過ごす部屋は、今のルイズには少し広すぎた。
――コンコン――
「どうぞ」
「失礼します、ミス・ヴァリエール。ミスタ・コルベールとオールド・オスマンがお呼びです」
見覚えのある黒髪メイドを、シエスタを引き連れてルイズは廊下を歩いていく。
始祖の祈祷書は手放さない。影はどこにでも存在する。
風呂やトイレなどの時は才人かカリーヌに預け、睡眠中ですらしっかりと薄い胸に抱きかかえている。
ふと、このメイドが才人と過ごしていたことを思い出した。
「あなた、確かサイトの知り合いよね」
「はい、サイトさ……いえ、ミス・ヴァリエールの従者の方には良くしてもらっています」
思わず口にこぼした才人の名前をシエスタは訂正した。
学院の一メイドと公爵家三女の使い魔兼従者、地位の差は明白だ。
立場を弁えろと、普通の貴族相手なら叱責は免れない。
その辺の感覚が多少ゆるいルイズであっても普段ならばたしなめたに違いない。
「いつも通りでいいわよ。あなた、名前は?」
が、母親が魔法学院にやってきから三日。
才人とあまり話せないどころか、自分までも厳しく見張られているようで気が休まらなかったルイズはあっさり許した。
それどころかメイドの名前まで聞いた。
「タルブ村のシエスタです」
「シエスタ、ね。覚えておくわ」
「ありがとうございます」
「ところで、その黒髪サイトと似てるわね」
はきはきと答えたシエスタは、続くルイズの言葉に少し照れを見せた。
「曾祖父から受け継いだものです」
「そうなの、どこ出身の人かしら」
「東の不毛地帯から飛んできたと聞きました……魔法がない国から来たとも」
ピクリと階段を降りるルイズの肩が揺れる。
平民には知らされていないが、ロバ・アル・カリイエ以東人が住める土地は存在しない。
六千年前に起きた大戦ですべて何か邪悪な物で汚染されている。
「魔法がない国ね。どんな田舎なのかしら」
ほんの少し声が掠れていたのにシエスタは気づかなかった。
「魔法どころか貴族様もおられない、月も一つしかないという話でした。王様みたいな人はいたらしいですけれども。変わり者としてタルブ村に伝わっています」
――そっくりだわ。
シエスタの曾祖父は才人と同じ世界から来た可能性が高い、とルイズは判断した。
夜空に瞬く星の中、どれほどの数に人が住んでいるか彼女は知らない。
だが、平民と同じ姿で、魔法がなくて、月も一つしかなくて、貴族もいない。
唯一、王がいるというところだけが一致しないが、国が違うのかもしれない。
「そう、どうやって来たんでしょうね」
「“竜の羽衣”というマジックアイテムに乗ってきたと言っていました。でも魔法じゃなくて“がそりん”っていう油が必要らしいです」
ルイズの貴族にあるまじき気安い雰囲気につられてか、シエスタはどんどん言葉が崩れていく。
そんな彼女を注意することなく、「竜の羽衣、がそりん」という言葉を心にしっかりと書きとめた。
「ここまででいいわ。あなたは仕事に戻りなさい」
「はい、では失礼します」
五角形のど真ん中、本塔に入る直前でルイズはシエスタと別れた。
夕陽が草原を照らし出していた。
そのまま階段をずんずん駆け上る。
学院長室に着くころにはうっすら汗をかいていた。
ハンカチでこめかみを伝う雫を拭ってから立派な扉を叩いた。
「入りなさい」
「失礼します」
滅多に入る機会がない学院長室には四人の人物がいた。
一人は重厚な執務机にひじをついた、ハルケギニア最高のメイジと名高い白ひげをたくわえたオールド・オスマン。
その左に控えるのは過酷な修練のせいで頭部が薄くなっている『炎蛇』ジャン・コルベール。
義娘だからそんな父親とはまったく似ていない凛々しい女性アニエス・シュヴァリエ・ド・コルベール・ド・ダングルテール。
そして最後の一人、獰猛な顔つきの、瞳に光を宿していない男。
一瞬視線が留まり、それに気づかれて微笑み返された。
獰猛な獣が牙を剥いたような笑顔だった。
「彼を知っているかね?」
「いえ、知りません」
オスマンの質問に対してルイズは簡潔に答える。
「メンヌヴィル君、自己紹介を」
「はじめましてミス・ヴァリエール。アカデミー実験小隊隊長、メンルヴィルです。以降よろしく」
にかっと笑う様は気のいい飲み屋の親父のようにも見える。
しかし、その身から立ち込める戦場の気配は隠し切れるものではなかった。
「今日からミス・ヴァリエールとサイトくんの特別講師になる男です」
「……特別講師?」
「ええ、彼は二十年もの間ヤツらとの戦いに従事し、生き延びてきました」
「雑魚相手な上、一度乗っ取られたこともありますがね」
「そこも含め、メンヌヴィル君が適任だと判断したのじゃ。本の情報だけではどうしても楽観視してしまうからの」
ほほ、とオスマンは笑い声をあげて背を向けた。
学院長室の窓、そこからは敷地が一望できる。
「問題は、サイト君の体力がもつか、じゃな」
オスマン老の視線は宙を舞う五人に向いている。
この三日間、才人は空に挑み続けていた。
最近ではギーシュとマリコルヌも昼過ぎ、授業終了後からその調練を受けている。
今日はレイナール、ギムリの二名までも引き摺りこまれていた。
これはカリーヌが虐待に歓びを覚えるから、というわけでは断じてない。
一対一の訓練では、どれほど崇高な使命があろうと意欲がもたない。
意欲が薄くなれば効果もだんだん落ちていく、最後には悪循環の螺旋となってしまうだろう。
恐怖で抑えつけることもできるが、カリーヌはそれを選ばなかった。
平賀才人の精神的失調が気にかかったのだ。
代わりに魔法衛士隊に所属していた時、親交があったグラモン家とグランドプレ家の子息を、授業に差し障りのない範囲で調練に加えた。
魔法の腕はあがるし、翌日にはギリギリ疲れがとれるけれど、二人は理不尽を嘆いた。
そして興味深そうに訓練を覗き込んでいた二人を抱え込んだ。
厳密には「彼らも隊長の教練を受けたいとのことです!」と同級生を売った。
訓練の密度は何ら変わらなかったが、精神的には少しマシになったとか。
意図があって加えたカリーヌと、子どもらしい考えで抱き込んだギーシュとマリコルヌ。
温度差は非常に激しいものの、五人の鍛錬はおおむね成功している。
「今は何体じゃったかの?」
「神剣持ちで二体、なしではまだというところです」
髭をしごきながら漏らしたオスマンに、アニエスが言う。
何体か、というのは勿論偏在の数だ。
最終的にはカリーヌを含めた、幻獣騎乗済み魔法衛士隊百名相手に勝つことが目的らしい。
その道のりはロバ・アル・カリイエより遠そうだ。
「ま、とにかく今は顔合わせだけじゃ。夜にコルベール君の部屋で講義を行うので覚えておくように」
「はい」
夜が近づいていた。
***
息も絶え絶えな五人がお互い肩を貸しあって魔法学院の正門をくぐり抜けた。
精も根も尽き果てたようで、ばたんと芝生の上に倒れ込む。
どれほど疲れていようと石畳に崩れ落ちると痛いだけじゃすまなさそうなので、芝生まではなんとか耐えたようだ。
「も……無理……」
セーラー服姿の才人はデルフリンガーを投げ出してごろんと仰向けになった。
うっすらと宵闇が世界を染めはじめている。
遠く山際には夕のオレンジと夜の群青がまじりあう白い領域が残っていた。
昼と夜の境目、日本では逢魔が時と呼ぶ。
「今日は、きつかった」
「二人、道づ、れでも、かわらな、いか」
土や草キレが全身に塗れていて、エレガントさの欠片も残っていないギーシュ。
顔どころか服まで汗まみれ、カッターシャツを絞れば桶に溜めれそうなマリコルヌ。
「なんで、僕ら、まで」
「きい、てないぜ」
一番きつそうなのがずり落ちかけたメガネをなおす気力もないレイナール。
マシそうに見えて、それでも立ち上がることもできずに倒れたままのギムリ。
五人して息を整えることに終始する。
三分もたてば落ち着いて、それでも動く気にはまだなれなかった。
カリーヌは五人をほったらかして湯あみに行ってしまった。
だがそれは面倒だからだとか、そういう理由ではない。
「君はこんな訓練を毎日?」
「ああ、まぁ諸事情によりってヤツで三日前から。朝食前にアニエスさんと型の稽古して、あとはずっと隊長と実戦」
「いや、お前は本当に大したヤツだ。あれを朝からだろ? 貴族だとか平民だとかそんな区別がバカらしくなっちまう」
「なんたってサイトはぼくを倒した男だからね」
「ギーシュ、瞬殺されてただろ。そのサイトすら歯が立たない隊長って……」
レイナールの質問を皮切りに五人は口々に喋り出す。
それは才人が長い間飢えていた友だちとの会話で、隊長として締めるカリーヌがいる状態では絶対にできないことだった。
訓練の時、仲間がいれば愚痴を言いあい、酒を飲みかわし、戦闘力以外の何かが育っていく。
そして、その仲間を護るためという非常に身近な動機ができる。
衛士隊で様々な経験を積んだ公爵夫人はこういったことまで織り込んで二人の生贄を求め、ここぞと献上された子羊も訓練に組み込んだのだ。
地べたに寝転がったまま男たちは「アレがきつい」だとか「マジ無理」だとか好き勝手言い放っている。
――運動部に入ってたらこんな感じだったのかな。
ちらと日本の生活が脳裏をよぎるが、不思議とそこまで気にならなかった。
ちなみに『烈風』式訓練を日本の高校運動部に取り入れれば体罰で翌日には教育委員会まで話がいくだろう。
「とにかく、井戸まで行こうぜ」
よっと体を起こして才人が言う。
残る四人もやれやれといった感じで立ち上がった。
みんな平等に汚れている。
このままアルヴィーズの食堂や厨房に入るわけにはいかない。
「おっと、ぼくはタオルをとってくるよ」
今日は一際激しい訓練だったので、身体を拭くタオルまでどろどろだ。
「んなもんマリコルヌが乾かせるだろ」
「今日はもう無理……」
夏も近い。風ドットのマリコルヌが風を吹かせば充分事足りる、が、マリコルヌの精神力が尽きかけていた。
「じゃ、俺のも頼む」
「悪いギーシュ、俺にも貸してくれ……このままじゃルイズの部屋に入れない」
「はいはい」
男子寮に向かうギーシュの後ろで、のんべりと四人がだべりながら井戸へ向かう。
「はぁ、明日もまたか」
「でもマリコルヌ、ちょっと痩せてきてないか?」
「おう、前風呂場で見たときより締まってきてる気がするぜ」
「本当!?」
「マジマジ、顔もほんの少しシュッとしたような」
「……マジってどこの言葉だい?」
三日前までこんなことになるとは思いもしなかった。
『烈風』式調練は厳しい。血反吐をぶちまけるとかそういうことはない。
常にギリギリの線を見極めてカリーヌは鍛えていくのだ。
訓練は苦しく、辛い。
――だけど、悪いことばかりじゃないか。
確実に色々と鍛えられている。
毎日極限までやるせいか、三日しかたっていないのに実感できる。
それに知り合った平賀才人。
彼は強く、常識知らずで、でも楽しい男だ。
今まで平民に持っていた先入観が消し飛ばされてしまうほどに。
ちょっぴりウキウキしながら寮塔に向かう。
精神力は空っぽに近いくせ、気分はよかった。
「ギーシュさま」
声をかけられたのは塔に入る直前。
「……ケティ?」
本塔と寮塔の間、夕闇に紛れて一人の少女が佇んでいた。
二日前に忽然と消えた魔法学院一年生の女子。
『燠火』の二つ名を持つケティ・ド・ラ・ロッタ。
「ケティ! 今までどこに行ってたんだ!」
「あら、ミス・モンモランシーと二股をかけていたギーシュさまがわたしの心配ですか?」
ぞくりとギーシュの背筋が粟立つ。
ケティは、彼が知る栗毛の少女はこんなことを言えるほど気が強くなかった。
こんな、挑発的で妖艶な表情ができる女性ではなかった。
意図せず右足が後ろに退いた。
「逃げるんですか」
――こ、この子は本当にケティなのか!?
制服ではなく黒いローブを纏っているが見間違えるはずもない。
外見は間違いなくケティ・ド・ラ・ロッタのものだ。
お菓子作りの趣味を持った控えめな後輩だ。
だが、ギーシュを嘲り笑う様は別の人物のようだった。
「な、何を言っているんだいぼくのケティ。蝶のように可憐な君が帰って来てくれて本当に嬉しいよ」
最初はつっかえたけれど、あとは詰まることなく言い切れた。
それも普段は「薔薇」しか使ってないことに気づいてから頭をひねって出した「蝶」という新しい褒め言葉だ。
モンモランシーにもまだ言っていないのに、と自分に対する感心と失望が半々。
ケティはどこか影のある笑顔をギーシュに向けた。
「ありがとうございますギーシュさま。ところで、お願いがあるんです」
「ああ、君のお願いならなんだって聞いてみせるさ」
言ってから、口の中が干上がっているのに気づく。
少女が一歩近づいた。
「一緒にアルビオンまで来てください」
「……アルビオン?」
「ええ、聖母様のおわす空中大陸です」
――聖母様ってなんのことだ。大体アルビオンは今……。
「どうしたんですか、ギーシュさま」
「あ、アルビオンに行って何をしようって言うんだい?」
ギーシュにはわからないことだらけだった。
とにかく、ケティが危険だということは直感が囁いている。
「何をするか、ですか。そんなこと決まってますわ」
「……」
「聖母様と、世界をあるべき姿に戻すんです。ギーシュさまはご存知ですか? この世界の成り立ちを!」
無垢な子供のようにケティは笑う。
月明かりが照らし出す時間だというのに、ギーシュにはそれがはっきりと見えた。
そして同時に、それが例えようもなく恐ろしいことに感じられた。
「アルビオンにつけばバザン司教がすべて教えてくれますわ。ギーシュさま、はやくいきましょう」
「ぁ……」
少女が手を伸ばす。
冥府からの誘いのように、白い手を伸ばす。
その誘惑から彼を護ったのは気の抜けた声だった。
「お~い、みんな待ってるぞギーシュ」
「さ、サイト!」
「あっと……お邪魔だったか、わりぃ」
頭の後ろで手を組みながら歩いてきた才人は、ケティとギーシュの様子に勘違いした。
ギーシュが否定しようとする寸前に空気が変わる。
可憐な少女は、今や悪鬼のような顔をしていた。
「あなた……何者」
「ん?」
「違う、あなたはおかしいわ。消さないと」
「この感じ……」
ケティは闇色のローブからタクト状の杖を抜き、才人も背中のデルフリンガーを抜き放った。
「サイト?」
「ギーシュ、隊長とルイズを」
正眼に構え、才人はピクリとも動かない。
さっきまでの疲労が嘘のようだった。
「まさか、きみはケティと」
「はやく!」
「しかし!」
「頼む!」
「……ああもう、後で説明してくれたまえよ!」
才人の剣幕に押され、ギーシュは急いでこの場を離れる。
その間ケティはずっと才人の隙をうかがっていた。
だが、彼女は微塵の揺らぎも見出せない。
この三日、生死の狭間を行き来していた才人は、アルビオンの時とは比べ物にならないほど、また一介の学生程度では相手にならないほど強くなっていた。
一方の才人も攻め込めないでいた。
彼女は敵だ、間違いなくそれは断言できる。
しかし、薄い。ニューカッスルでのメアリーがドラゴンなら、目の前のケティは生まれたての子鹿のような存在だ。
まだ人を保っていると言い換えてもいい。
そして平賀才人は人殺しなんてしたくない。
「デルフ、どうすりゃいい」
「ふむ、相棒はどうしたい」
「殺したくない」
「甘いな」
「甘くていい」
剣と少年が言葉の応酬をしている間も、ケティはじりじりと周囲を回るしかできなかった。
染まり切っていたならば一も二もなく襲い掛かっていただろう。
隙をうかがうなどということをしている時点で、彼女が狂気に落ち切っていないのは明白だ。
「まずは杖を奪うが良い。あとは某がやろう」
「わかった」
頷いてデルフリンガーを右脇に引き寄せ、半身をもって刀身を隠した。
それから息を一つ吐き、平賀才人は跳躍した。
「ッ! ブレイド!」
ケティと才人の距離は五メイル以上も離れていた。
それを一瞬で詰められ、彼女はブレイドで対抗するしかなかった。
振り下ろされるデルフリンガーに、年ごろの少女としては素晴らしい速度で赤く輝いた杖を合わせにいく。
しかし、それは誤りだ。
「うそッ!?」
ブレイドを纏った杖は岩をも両断する。
杖の硬化をはじめ、様々な効果を併せ持つスペルであり、通常の剣ならば打ち合わせてもなんら問題ない。
だが才人が振るのは神剣デルフリンガー。
邪神を祓うために鍛えられたというのに魔法を吸収するというどこか矛盾した力を持つ剣だ。
学生のブレイド程度苦もなく斬り裂く。
ケティが戦い慣れていれば、さらに才人がわかりやすく正眼か上段に構えていれば、デルフリガーが虚空を斬ることがわかっただろう。
それも仮定の話だ。
「借りるぞ!」
「応!」
神剣デルフリンガーの力は一つではない。
吸収した魔法を燃料として、担い手を動かすことができるのだ。
この力を利用してデルフリンガーは歴代の担い手の動きを才人に叩きこんでいた。
今は目の前の少女を救うため、デルフリンガーは才人を動かす。
振り切った姿勢もそのままに右手を自身から離し、ケティに肉薄する。
そしてそのまま右腕で彼女を強く抱きしめた。
――はぁっ!?
才人の疑問もなんのその、デルフリンガーは左胸をきつくケティに押しつける。
少女の柔らかい体に才人はくらくらして、身体がひどく熱くなった。
感覚自体は生きており、一瞬でカタがついたとはいえ、先ほどまで命のやり取りをしていたせいもある。
「む、思ったよりも……」
――って、そうじゃないだろ!
今の才人にはデルフリンガーの言葉もアレな意味にしかとれなかった。
ケティは抵抗しない。かなり苦しそうな表情で身をよじっている。
見る人が見れば犯罪真っ最中だ。
しかし、違う。
神剣は至ってマジメだ。相棒の求めに応じて闇に堕ちかけた少女を救おうとしていた。
「人が来たか」
仕方あるまい、と呟きデルフリンガーは才人の唇を噛み切る。
ちくりとした痛みに抗議しようとしたが、黙った。
正確には何も言えなくなった。
デルフリンガーは人の身体を使って少女に口づけをしたのだ。
しかも舌までいれるディープなヤツを。
舌先に感じた鉄の味なんて気にもならなかった。
人の身体を使っているのをいいことに、デルフリンガーは貪るように少女の口を吸う。
その感覚は才人に伝わる。
ぬろりとした熱い口中は未知のもので、凄まじい興奮を才人にもたらした。
――ちょ、これ、やばい。
十秒ほどして、デルフリンガーはようやく少女を解放した。
あわれな一年生は気を失って倒れ込んだ。
神剣が才人に体の支配権を返した瞬間。
「なななナニやってんのよこのバカ犬ぅぅう!!」
聞き覚えのありすぎる声とともに頭へ強い衝撃。
――俺、なんも、やってない……。
疲労のせいもあってそのまま眠るように気絶した。
***
「起きたか相棒」
寝起きの目覚ましは渋い声だった。
「ここ、どこ?」
「男子寮塔の前だ。みな薄情にも相棒を置いていったぞ。少女は無事だから安心せよ」
才人は自分が男子寮塔の前に何故いるのか少し考え込んで、すべてを思い出した。
「デルフ! お前なぁっ!」
「どうした?」
「どうしたもこうしたも、なんでいきなりあんなことをっ」
人生通算三回目のキス、しかも舌まで入れた。
嬉しいやら恥ずかしいやら申し訳ないやら気持ちよかったやら様々な感情がぐつぐつ煮えたぎっている。
が、そんな才人の心情を一切意に介さず、デルフリンガーは至って静かに声を落として言う。
「大事な話だ。今は魔法も人も邪神の気配すらない。落ち着いて聞くがいい」
「……どうした?」
「リーヴスラシルの効果の一つだ。これは誰にも教えてはならぬ」
ただでさえ低い声のデルフリンガーが声をひそめると重々しい雰囲気がある。
事実、彼は重大な話を才人にしようとしていた。
「誰にもって、ルイズにもか?」
「ああ。だが教皇は把握している。ガリア王もひょっとしたら……いや、可能性はいい。今は事実だけ伝えよう。リーヴスラシルのルーン効果を覚えているな」
「そりゃ勿論。狂気の緩和、だろ?」
「そうだ。距離は近ければ近いほどにいい。あの少女を最初抱き寄せたのはそのためだ。そして心臓は勇気の象徴、血液を司るものでもある。おそらくブリミルも予想していなかったのだろう。リーヴスラシルのルーンは、保持者の血液を狂気緩和薬に変える」
「……どういうこと?」
「相棒の血を飲ませれば、狂気に陥ったものもある程度は回復できるということだ。効果は飲ませた量に比例するがな」
――血が風邪薬とか、そういうものになったと考えればいいのか。
才人は軽く想像したが、そんな彼の雰囲気を察してデルフリンガーが警告した。
「この情報を軽んじてはならぬ。五千五百年前にはリーヴスラシルを巡って四国で戦争が起きたこともある」
「え、でも今ある国って始祖ブリミルって人の子孫とか弟子とかなんだろ?」
「人の欲望は血統も教えも、世界の危機すらも時に超越する。例え何があっても、誰に対しても漏らしてはならぬ。ガンダールヴとリーヴスラシルのルーンが現れるのは、担い手を護るためブリミルが後に施した魔法なのだ。偶然の産物がこうなろうとは、この世はわからないものだ」
老若男女関係なく、それも前触れなく発症する死病が存在すればどうなるか。
それに対する特効薬があればどうなるか。
その特効薬が人の血液であればどうなるか。
さらに遺伝しないものであればどうなるか。
想像するのは難しくない。
「本来ならあの少女を救うのも反対だったのだがな」
「んなこと言うなよ。殺したりとか死んだりとか、そんなの俺は嫌だ」
「それが甘いというのだ」
やれやれとデルフリンガーはわざとらしく溜息をついた。
「でも、戦えるようになったんだな、俺」
「ああ、初日とは比べ物にならん」
「勝てるかな」
「今のままではどうあっても無理だ。歴代の担い手の中でも下の上というところか。戦力になるかならぬか際どい線だな」
「うわあ。じゃ、もっとがんばらないとな」
「ああ、応援しているぞ」
――今度こそ。
才人の心は静かな興奮で満ちていた。
――まだ、言えぬな。
対照的にデルフリンガーの心は重かった。
この甘く優しい少年に伝えれば、きっと自滅してしまうだろうから。
双月の光が一人と一振りを優しく包み込んでいた。