「罪人、サイト・ヒラガ。罪状はロッタ子爵家長女ケティ・ド・ラ・ロッタに対する強姦」
「ちょ、強姦って」
才人の言葉は夫人の振るった鞭で打ち消された。
「罪人に発言は許されません。以降注意するように」
「……」
カリーヌが借りている魔法学院一階の部屋は決して広いものではない。
五人もいれば少し窮屈に感じられた。
才人は石造りの床に正座させられ、本気で怯えている。
井戸にかけられていたタオルで体を拭ったあと、厨房でもさもさと食事をとった才人は夫人にこの場へ連行されていた。
ここは略式裁判所、才人のケティに対する行為についてカリーヌが公正な裁きを下さねばならない、ということで至急ひらかれた場だ。
真犯人であるはずのデルフリンガーは一切声をあげない。
しばらく傍観する腹積もりのようだった。
「裁判官は簡易裁判権を用いてわたくし、カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールが務めます。目撃者ギーシュ・ド・グラモン、以上の点に間違いはありませんか」
「は、サイト、いえ罪人が被害者に無理やり抱きつき、口づけを迫ったように見えました。しかし罪人の日常を知るぼくとしては」
「見たままをこたえなさい。私見は必要ありません」
「……見たままというなら、以上です」
「目撃者ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール、以上の点に間違いはありませんか」
「ありません。ですが彼は」
「弁護は結構です。彼が何をして、それに対してどう罰するか。王国法で決まっています」
ギーシュ、ルイズが才人を弁護しようとするも、カリーヌは切って捨てた。
鋼鉄の規律を擬人化したような、凄まじい圧力を才人は感じている。
その視線は訓練の時よりもずっと厳しい。
「トリステイン王国法には『平民が貴族に対して暴行をはじめ肉体的、精神的損傷を伴う行為をとった際は死刑とする。罪状の程度によって引き回しの上、斬首、火刑、磔刑を行う』とあります。今回の件はこれに従う必要があります」
「母さま!」
「黙りなさい」
――し、死刑だって!?
無理やりとは言え、のっぴきならない事情があったにも関わらずキスしただけで死刑。
現代日本とは全く違う価値観に才人は目を剥いた。
ハルケギニアにおいて平民の命は軽い、それと同時に貴族の命と血は重い。
才人がしたように口づけだけならば鞭打ち百回か単純な死罪にとどまるが、実際に行為に及んだ場合は市中引き回しの上、一家もろとも磔刑に処される。
貴族女性の平民との不義密通も、相手の男性は死罪、貴族女性は最低一年以上の幽閉刑に処される。
貴族は血をもって尊しとなす。
古くからガリアに伝わるこの言葉は、これは戦場で真っ先に血を流すのが貴族だという意味にとどまらない。
限りなくブリミルに近い血を保たねば、この世界は滅びる。
純血を護るためならば数十の平民など捨て置くべきだという考えが根底にあった。
「あの……いいでしょうか」
青ざめる才人をちらちら横目でうかがいながら、ケティが小さく手をあげた。
そして驚くべき発言をした。
「わたしは、その、無理やりだとは思ってません」
『え?』
「へ?」
ほんのりと上気した顔をそっと伏せての言葉だった。
室内は凍る。
カリーヌは目をみはり、ギーシュは口をあんぐりと開け、ルイズは青筋を走らせた。
才人もぽかんとしたままケティをじっと見る。
「そ、そんな見ないでください……」
「ぅ、あ、っとごめん」
伏し目がちに視線を投げたままのケティが抗議した。
嫌だからという空気は一切感じない、少女らしい恥じらいがあった。
「どういうことですか」
いち早く立ち直ったカリーヌが額に手をやりながら、先ほどよりは明らかに弱々しい口調でケティに問う。
「わたし、真っ暗な中にいたんです。そこでうずくまっていて、どんどん沈んでいって。ああ、もうダメなんだなって」
思い出してのことか、染まりかけていた頬は蒼白になり、少女は身震いする自身を抱きしめた。
ギーシュは慰めの言葉をかけようとしたが、何も言えない。
「その時、誰かが、きっとこの人が、一サント先も見えない闇からひきずり上げてくれたんです」
夢見がちな少女の表情はどこか遠くを見つめている。
デルフリンガーがハバキをかちゃりと鳴らした。
「待てラ・ロッタ嬢、ひきずり上げられたと、そう言ったな」
「はい、闇の中でわたしを抱きしめてくれたのを覚えています。その……口づけの感触も。草原も」
「草原……まさか、いや、ルーンと直接触れ合ったせいか。もしそうならば」
デルフリンガーは自分に言い聞かせるよう呟いた後、良く通る声で言った。
「この裁判、ガリア王国のデルフリンガー・トロワ公爵があずかる。良いな」
「しかし、規律は守らねば他の者に示しがつきません」
静かにカリーヌは反論する。
彼女とて才人を罰したいがために裁判を行ったのではなく、別の思惑があった。
「合意もあると言うのだ。これ以上は当人同士の問題で野暮というものだ。年月を重ねたものが若人の話に口をはさむのも問題を悪化させる一因と聞くぞ」
「……サイト・ヒラガとケティ・ド・ラ・ロッタに姦通罪が適用されます」
「既婚女性ならばいざ知らず、未婚女性と平民の接吻程度で姦通罪の適用など、この六千年された事例がないな。それに簡易裁判権を持つ夫人よりも天領である魔法学院一体を仕切るアンリエッタ王女に話を持っていくべきだ」
「……わかりました」
「ではこれにて閉廷とする。相棒とラ・ロッタ嬢にのみ話がある。夫人、すまぬがサイレントと人払いを頼めるか」
彼女は杖を振りサイレントをかけてから部屋を出て行った。
ギーシュも振り返りながらそのあとをついていく。
ルイズは何か言いたげに口を開き、しかし何も言うことなく部屋を後にした。
「ルイズ」
「母さま」
ドアをくぐってすぐ、彼女は夫人に止められた。
その顔に少しだけ不信感があることをカリーヌは見抜いていた。
「彼は確かに、虚無の使い魔でしょう。あれほどの成長速度をもつ人物をわたくしも見たことがありません」
「では何故、死刑などと!」
平賀才人なくしてハルケギニアに未来はない。
そのことを理解しながら、カリーヌがあのような裁判を強行した理由が幼いルイズにはわからなかった。
「法は守らねばなりません。それが強大な力を持つ者ならばなおのことです」
急に力を持った者、例えば魔法を習いはじめた貴族の子どもは尊大になることが知られている。
それまで大人しかった子どもですら使用人に向けて魔法を放ったり、兄弟姉妹に対して強気に出たりと枚挙にいとまがない。
そしてそれを抑えるのは親として、貴族として当然の仕事だ。
ガンダールヴとリーヴスラシルなどという伝説の使い魔が同列に語れるか、カリーヌには判断しきれなかったが、万一の事態もある。
いかに大きな力を持っていようと身勝手な振る舞いは許されないということを、彼女は自ら悪者になってまで才人に教えようとしたのだ。
しかし、才人を死罪に処すことはどうあってもできない。
そこでカリーヌは使い魔の行いは主人の責任ということでルイズにある程度の罰を科そうと考えていたのだ。
才人には彼の行いが主人に類を及ぼすことを知らしめるため、ルイズには使い魔の手綱を握らねば彼の命が危ないということを教えるために。
それもデルフリンガーの発言によってうやむやになってしまったが。
「それは、わかります……」
ルイズは暗愚でも聞き分けのない子どもではない。
母の意図を完全には読み切れなかったが、一応の納得を見せた。
表情は不満たらたらではあったが。
「わかったなら部屋に戻りなさい」
これ以上語ることはない、とカリーヌは我が子に帰室をうながす。
ルイズはもう一度だけドアに目をやって、階段をのぼっていった。
―――開戦の狼煙火を―――
一方、死罪を回避した才人は一息ついていた。
――これからはもうちょっと考えてから行動しよう。というかデルフに体はなるべく貸さないようにしないと。
こいつは常識がない、と真犯人をじろっと睨む。
デルフリンガーはケティの話を、剣だけに真剣に聞いていた。
床に座ることを強制されていた才人もギーシュが腰掛けていた椅子にうつる。
壁に立てかけられた剣を相手にする少年少女というのは、少し奇妙な格好だった。
「それでケティ嬢、草原で何を見た」
「確か……大きな樹と、金髪の、少し背の低い人」
ひとつひとつ、思い出すようにして少女は神剣の問いにこたえる。
同じだ、と才人は思った。
「やはりブリミルの座か。ルーンの力を借りたとしてもそこにたどり着くとは……何か異変が起きているのか。引き寄せやすくなっている、いや早計だな」
六千年もの時を生きる剣は一人で完結しているように呟いている。
ケティと才人は何を言っているのかまったくわからず、視線を交差させる。
少女は恥ずかしがってすぐにうつむいて、もう一度顔をあげた。
「あの」
「ん?」
「お名前を、うかがってもよろしいですか?」
胸元でこぶしをぎゅっと握って、少し懸命な感じがした。
「サイト、サイト・ヒラガ」
「サイトさま、ですね」
「さ、さまとかつけなくていいよ」
ケティの瞳はきらきら輝いている。
尊敬を通り越して崇敬すら抱いてそうな、そんな眼差し。
人からそんな目でみられることに慣れていない才人は、そっぽを向いてぶっきらぼうに言った。
「サイトさまはわたしの恩人ですから」
それでも年下の少女は首を横に振って強く言い切った。
――そのうち幻滅して適当な呼び方になるか。
「えっと、君の名前は?」
「ケティ・ド・ラ・ロッタと申します。ケティとお呼びください」
「ケティね、まあ、その、なんというかよろしく」
「はい、末永くよろしくお願いします」
才人が考えているのと違う意味合いだったように感じたが、気にしないことにした。
うん、大丈夫と自分に言い聞かせてデルフリンガーに目をやる。
神剣はいまだにぶつくさ呟いていた。
頭をかきながら、何かをごまかすように才人は相棒に声をかける。
「あ~、デルフ。正直さっぱりなんだけど、俺もそこに行ったことあるんだよ」
「なに……? そんな大事なことを何故早く言わないのだ」
普段は老人のようにしみじみと語る神剣が、思いもよらぬほど語勢を荒げた。
「いや、そんなこと言われても。デルフもらう前だったし」
「まあ良い。相棒はそこで何を見た」
「ケティと同じような風景と金髪の人。あと、ロシュフォールさんってわかるか?」
「ああ、話は聞いている。例の娘だな」
「そっか。その子を見た。目が青くなってたけど」
「わたしもロシュフォール先輩を見ました!」
二人の会話に乗り遅れまいと、ケティが才人の言葉に乗った。
そして、気になることを言った。
「それと、サイトさまみたいに黒髪の人を」
「黒髪の?」
ハルケギニアにおいて黒髪は珍しい。
桃、赤、金、青など色のバリエーションは多いくせ、日本人のような真っ黒な髪の毛をもつ人を才人はほとんど見たことがなかった。
例外はシエスタやコルベールくらいで、他は色素が薄かったり、どこか違うのだ。
「俺の時はそんな人いなかったけどな……」
「膝を抱えて座ってました。それを見下ろすようにして金髪の男性がいて」
そのまま、二人と一振りの間に沈黙が落ちる。
座とはなんなのか、あの金髪の人は、メアリーそっくりの少女は、そして黒髪の人物とは。
才人の頭にぐるぐるととりとめもない考えが浮かんでは沈み、ケティがいるこの場で聞いてもいいものかわからずデルフリンガーにたずねることもできなかった。
「うむ、これ以上考えても答えは出ないだろう。今日はこの程度にしておこうか。感謝するぞラ・ロッタ嬢」
かなり長い時間考え込んでいたデルフリンガーが会話を、議題を打ち切った。
謎はむしろ増えたように感じられる。
だというのに才人は、なんとかなるか、と生来の気楽さで軽く考えることにした。
デルフリンガーをきっちり鞘に納め、背中の定位置にひっさげる。
「じゃ、隊長に言って俺たちも戻ろう。部屋まで送るよ」
「あ、ありがとうございます」
がちゃりとドアを開けると、そこには夫人の後ろ姿があった。
才人は思わず後ずさる。
振り向いて、そんな彼をじろりと睨んでから彼女は部屋に入っていった。
――ま、マジで調子のったら粛清されかねん。
落としどころは違ったものの、カリーヌの意図通りに才人は意識したようだった。
ケティを伴って女子寮の階段を上っていく。
夫人からすれば、才人が女子寮に泊まることも許しがたい。止めさせるべきことである。
そう思って実際に進言もした。
しかしルイズと学院長をはじめ、邪神を知る者が強行に反対し、珍しいことに彼女は折れざるを得なかった。
「あ、わたし三階です。ところでサイトさま、クッキーはお好きですか?」
――さっきも末永くとか言ってたけど、ひょっとして俺フラグたてちゃった? やっちゃった? いやっほぅ!
そんな内心をおくびにも出すまいと、才人はできる限り爽やかに言ってのける。
「美味しいものだったらなんでも好きダヨ」
「じゃあ、わたし今度作っていきますね」
イマイチなり切れていなかったが、あまり恋愛経験を積んでいない少女には十分なようだった。
やばいキタよコレきちゃった、とルンルンしながら、見た目はなるべくキリリとしながら才人は歩みを進める。
「ここです」
二人はとある一室の前で立ち止まる。
ペコリと一礼してケティは改めて感謝の言葉を口にした。
「今日は、本当にありがとうございました。サイトさまがいなければ、今頃わたしがどうなってたか。想像もできません」
浮ついた感情はなく、心の底から染み出たような声は、才人の心をじんわりと暖かく染めた。
誰かを救ったという実感が徐々にこみ上げ、知らず穏やかな笑みを浮かべていた。
「サイトさま?」
「ああいや、ごめん。次は気をつけて」
「はい!」
どう気をつければいいかなんて二人ともわからない。
ただ言葉の繋がりだけが大事だった。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
そう言って、パタンとケティはドアを閉じた。
才人はしばらく閉められた扉を見てから踵を返してルイズの部屋に向かう。
顔はかすかに緩んでいた。
「デルフ」
「なんだ相棒」
「俺、人を助けられたんだよな」
「そうだな。相棒がいなければあの娘はきっと闇の中だ」
デルフリンガーも彼の言葉を否定しなかった。
階段を上りながら、才人の心も少しだけ前進した。
ニューカッスルの夜、生き残った罪悪感は薄れている。
心が軽く、今なら空だって飛べそうだ。
「なあデルフ。ひょっとしてあの子、俺に惚れてたりする?」
「……相棒はもっと気にしなければならないことが多いと思うんだがな」
「でもさ、明らかに俺を見る目が熱っぽい気がするんだよ」
自然、普段は言わないようなことも口をついて出る。
神剣の苦言もなんのそのといった具合だ。
「フラグ……か。あえて言わせてもらおうか相棒」
「ん、そんな風に断りを入れるなんて珍しいな」
ごほんとする必要もない咳払いをしてから、デルフリンガーは言い放った。
「莫迦め、恋愛フラグは死んだわ!」
才人は思わず立ち止まった。
「……」
「……」
長々と続いた重苦しい沈黙を破って一言。
「それは、なんか違うと思う」
「いや、すまない。何故か言っておかねばならない気がしてな」
「なんだろうな、世界は不思議でいっぱいだ」
才人は遠く、どうあっても見れないはずの地球を思う。
ハバキをかちゃりと鳴らしてデルフリンガーはとりとめもない話を続けた。
「そうだな、この戦が終わった後はトリステイン不思議観光の旅にでも連れて行ってもらうか」
「うわなんだそれ。俺も行きてーよ」
「何を言っている。相棒が某を運ぶのだ。知識は豊富にあるから解説も問題なくできるぞ」
「……うるさそうだな」
「何か言ったか?」
「んにゃ、なんでも」
部屋に戻ったあと、ルイズから口づけについて糾弾されるまで、才人は幸せに浸っていた。
*****
ここ、ガリア王国にはヴェルサルテイル宮殿に存在する花壇にちなんだ騎士団が存在する。
そして、花壇がないはずの北にあてはめられた北花壇騎士団。
南百合騎士団をはじめ、北を除く三つの方角にある花壇、そこに植えられた花の名を冠した騎士団はガリアの光ならば北花壇騎士団はガリアの闇だ。
ここまでなら事情通の貴族で耳に挟んだことがある、という者を王宮でごくまれに見ることができる。
しかし、光に明るさがあるように、闇にも深さがある。
ガリアの闇のさらに深く、書類上は存在しないガリア王直属の部隊、オルレアン機関はそういうところだ。
ただ父を、夫を、弟を取り戻すためにと新設された、人としての情に溢れた闇の機関だ。
ヴェルサルテイル宮殿はグラン・トロワ、オルレアン機関にあてられた一室でシェフィールドは魔道具を整備していた。
いずれも小さいものばかりなのでそこまで場所はとらず、部屋の一角を占めているだけではあったが、戦闘の補助に用いるアルヴィーをはじめ、“伝声”に近い魔法が込められた通信具であるコンヴェイ、トリッキーな使い方もできるスキルニルなど様々なものが雑多に並べられている。
魔道具は簡単に壊れるものもあれば、非常に頑丈なものまでピンキリだ。
彼女が扱うのは魔法大国ガリアの、それもジョゼフ直属の女官兼虚無の使い魔にと一流の魔道具職人が作った、さらにその中から選りすぐられた逸品である。
ちょっとしたことで壊れるようなものではない。
が、万一の事態に備えて整備するのは彼女が元々几帳面だから、というだけではなく、万一の事態が起きたときには彼女が敬愛するジョゼフ王までもが被害にあう可能性が高いからだろう。
その眼は真剣そのものだった。
すぐ近くの重厚な机ではオルレアン公夫人が執務についている。
目を通しているのはアルビオンの件をはじめ、ハルケギニア各地で起こる変異についての上申書。
些細なことすら見逃さず夫人は要確認、至急対応、問題なしと三つに分けて書類を整理していく。
その山は問題なしが圧倒的に高く、要確認は十枚程度、至急確認に至っては二枚しかない。
おおよその書類を分類し終えた夫人は、至急対応に分けられた一枚を手に取った。
その手紙はアルビオン王国所属の将軍、ホーキンスから送られたものだ。
軍港ロサイスで確認した太陽の位置の異変。
書かれている内容が正しいとすれば、空中大陸アルビオンが東進、下降しトリステイン方面に近づいていることになる。
この六千年一度もなかった現象が何故今起きるのか。
答えは一つしかない。
「邪神め……」
凄まじく低い声にシェフィールドは思わず肩を震わせた。復讐を型に入れて焼き固めたような、壮絶さを思わせる声だった。
夫人の情念が漏れたのは一瞬ですぐ部屋の温度は戻る。
ほっと肩の力を抜いたシェフィールドには目もくれず、夫人は残る一枚に目を移す。
『討滅予定:二週間後、ウルの月三十日。集結は二日前に。『五大』のオスマン出陣』
簡素にそれだけが書かれていた。
トリステインから来た、騎乗者がいない竜の宅急便はジョゼフ王宛とオルレアン機関宛の、たった二通の書状だけを携えていた。
敵がどこにいるのかわからない以上、梟便は使いにくい。野生の竜に偽装させた苦肉の策だ。
夫人は口元を隠しながら考えに耽る。
オールド・オスマンをこの戦場に投入するとは、トリステインはこれ以上なく本気だ。
それも後に続く邪神との戦に集中するためだろう。先に教団を潰して後顧の憂いを完全になくすつもりか、と彼女は軽く頷いた。
彼が出陣する以上負けは考えにくい。
だが考えにくいというだけで、絶対ではない。
武農王ジョゼフも様々な考えを巡らせているだろうが、オルレアン機関としても方針を練らねばならない。
――いえ、教団はこの際捨て置きましょう。
邪教に対して苛烈なアンリエッタのことだ、出し惜しみは一切ないはずだ。
おそらく『五大』とあわせて『烈風』、『白炎』など名だたるメイジをぶつけるに違いない。
流石に虚無は温存するだろうが、状況によってはアルビオン勢が使うかもしれない。
いかに得体のしれない奴らと言えど、一度壊滅してしまった残党を、これも染まり切れているかもわからない伯爵がまとめあげているだけだ。
本気になった彼らを、特に『五大』を相手にはできないだろう。
ならばその二日後、スヴェルの月夜に降りてくるであろう巫女の対策をオルレアン機関はとるべきだ。
彼女がなすべきは邪神の憑代となった巫女の討伐。
二週間以内に何ができるか。
それには何をおいても相手の情報が必要だ。
「シェフィールド、元素の兄弟から連絡は」
「まだありません」
彼らがアルビオンに発ってからすでに一週間以上がたつ。
これほど長期間連絡がないのは不自然だ。
――あるいは、すでに。
夫人の脳裏をよぎる不穏な思考を打消し、決断を下す。
「コンヴェイを使いなさい」
夫人の視線は両端の太さが違う長さ三十サントほどの、筒状の魔道具に固定されていた。
「あと二回しか使用できません」
「かまいません」
シェフィールドの言葉を夫人は意に留めない。
“伝声”の魔法は元々アルビオン艦隊が開発したスペルだ。
その原理は至極明快で声を風にのせるだけ。指向性を持たせるという点が難しく、風のライン・スペルとして知られている。
また、相手が“伝声”の到達点にいなければまったく意味がなく、速度差がある艦隊間の連絡を“伝声”で取り次げるようになって一人前とも言われる。
その到達半径は距離に比例して拡大する。指向性をもたせるといっても限度があるのだ。そのため、あまりに長距離の“伝声”は通常不可能だ。
さらに大きな問題点として、盗聴が容易であることが挙げられる。
A地点からB地点の間の“伝声”を盗聴するには、その二点をつなぐ直線上に割り込めばいいだけだ。
以上の理由から“伝声”は開けた場所限定で、しかも長距離には向かない魔法として軍などでは教わる。
それら欠点の解消を目的としてエルフとガリア共同で開発されたのがコンヴェイだ。
発想を変えて指向性を持たせず、波紋のように広がるに任せる。
しかしその波を拾えるのは特殊な器具、コンヴェイだけにするという、一種の暗号発信機と受信解析機を兼ねた魔道具。
エルフの共同研究者がいたため、系統魔法の力は一切使われていない風変わりな魔道具でもある。
大地に眠る風石の力を利用しているので通話可能範囲は非常に広く、ハルケギニア全土をカバーする。
屋敷一軒立てられるほど高価なくせに十回しか使えない。コンヴェイが発した波は全てのコンヴェイで拾える。扱いには魔道具に関する高度な知識が必要となる。
この三つが解決されていればもっと広く普及していただろう。
「……わかりました」
オルレアン機関に与えられた部屋にいるとき、シェフィールドは夫人の命令に従わねばならない。
それがジョゼフから下された指令であった。
彼女は太い方の端を口元に近づけ、もう一端を耳に近づける。
額にルーンがほのかに光り、コンヴェイもかすかな震えを示した。
「……」
夫人がじっと見ている中、シェフィールドはコンヴェイの操作に集中する。
元素の兄弟で最も魔道具に詳しいのはジャネットだ。
当然彼女がコンヴェイを持たされている。
四人の中でも温和で雇い主を立てる性質の少女は、数少ないコンヴェイを使う事態にはすぐ応答していた。
二人の息遣いすら聞こえそうな静けさ、シェフィールドは次第に焦りを覚えてきた。
コンヴェイの受信が振動でしか伝わらないので気づいていないだけかもしれない。
だが相手が相手だ、ひょっとすると戦闘中か、あるいは……。
「やられた、ようね」
十分ほど待っても応答はない。手に持った筒を力なく下ろした。
――元素の兄弟が連絡をとる間もなくやられた、か。
彼らは強い。
四人合わせた戦闘力は、規格外のジョゼフを除けばガリア王国最強といっても過言ではない。
ますますもって情報が必要だ。
夫人が再び思考に埋没しようとした時、コンヴェイが震えた。
シェフィールドが慌てて手に取り顔にあてる。ルーンが光る。
「こちらオルレアン機関、ジャネットね」
『……』
雑音がひどかった。通常このような音は入らない。アルビオンに蔓延する何かが悪影響を及ぼしているのか。
「聞こえている? ジャネット、応答しなさい」
『……』
木の葉の擦れるような音が聞こえていた。
『……ちらジャネット。こちらジャネット』
「拾えた!」
思わずシェフィールドは夫人の顔を見た。
彼女にも当然聞こえていて、無言で先を促す。
「こちらシェフィールドよ。状況を説明して」
『はっ、はい。今は一息ついていますが猟犬に追跡されています』
「猟犬……他の兄弟は」
ティンダロスの猟犬、次元を超越する異形の化け物。
メアリーの召喚したそれはまだ小さいと聞いている。
元素の兄弟が四人で当たればなんとか撃退できたのではないかという疑問があった。
『元素の兄弟は全滅です。一瞬でした』
「全滅……」
ある意味想像通りだったが、やはり彼女は息をのんでしまう。
しかし悲嘆にくれている暇はない。
今はとにかくどんな小さいものでも情報が必要だった。
「巫女に関する情報を報告して」
『……』
再びざざっと雑音が奔る。
「ジャネット?」
『……全滅したと言わなかったか』
アルビオン訛りの強い、低い男の声だった。
『莫迦め、ジャネットは死んだわ!』
それきり、ぶつりとコンヴェイからの音は途絶えた。シェフィールドの額のルーンも輝きを失っていた。
部屋の中に陰鬱な静けさが満ちる。
夫人がぽつりと詠唱した。
「……フル・アンスール・デル・ウィンデ」
唱えたルーンは“伝声”、その後ぼそぼそと呟き、立ち上がる。
シェフィールドはただ黙ってそれを見上げていた。
「なんとしても『地下水』を回収しなければ」
瞳の奥には強い意志の炎が燃えていた。
*****
「諸君、我々は信仰の自由を求め、世界のあるべき姿を望み、戦わねばならん!」
壮年の男性の言葉に、寄せる波のようなざわめきが返ってきた。
囁きは大半が好意的なもので形成されているにも関わらず、多種多様な言語を混ぜたような奇妙な感覚を聴く者に与える。
その聴く者が正気を保っていたなら、という前提があればだが。
「我が娘、メアリーはその先駆けとなった。ナイアルラトホテップ様をその身に降ろしたのだ!」
額を汗で濡らしながら白髪の男性、ジョン・フェルトンは叫ぶ。
「我々も続かねばならない。真実を隠された愚民どもに知らしめねばならない。それが奉仕者たる我々の務めである!」
アルビオンの北部、スカボロー。行楽地として知られ、アルビオン中の商人が集う重要な交易場でもあった。
トリステインからの船が着けば、慌ただしく水夫が働き積荷を運び出す。
その積荷を商人が競り落としアルビオン各地に運び出すのだ。
人が多く集まる都市だったので、聖堂もそれに相応しい立派なものが建てられた。
しかし、それも今は見る影もない。
美しい壁画装飾は打ち砕かれ、ブリミル教を冒涜するような内容の文句がいたるところに書きなぐられている。
長椅子に座るのは黒いローブを纏った邪教の民、その数はおおよそ五百。時折のぞく双眸は昏く澱んでいる。
「よって、我がナイアルラトホテップ教団はハルケギニア全土に宣戦布告を行う!」
今度は大きな反響が返ってきた。
濁った表情の民衆が拍手喝采する様はとてもおぞましく、常人が見れば吐き気を催しかねない。
フェルトンはそれを、子どもを見守るような表情で見下ろしていた。
「開戦日時はウルの月三十日、それまで一切の手出しは無用だ。訓練に励み、英気を養ってくれ! 以上!」
拍手に包まれながら彼は壇上を降りた。そのまま教会の出口へまっすぐ向かい、大きな扉を開け放つ。
辺りは薄暗くなっていた。
「素晴らしい演説でしたぞフェルトン殿」
「ボニファス司教か、いかがなされた」
密かに教会を抜けていたのか、彼の後ろにぴったりと人影が張りついていた。
ボニファスと呼ばれた背の低い男はゲルマニア人のように肌黒く、同じ人種には見えなかい。
アルビオンで生まれ育ったフェルトンが聞いてもアルビオン訛りの強い男だった。
「いえ、何故全面衝突に拘るのかということが気になりましてな」
フェルトンは呆れた顔をした。
「それは何度も説明したではないか」
「今一つ納得できませんでな」
やれやれと大仰にフェルトンは首を振る。トリステイン人がするような仕種だった。
「ではもう一度。クロムウェル大司祭が率いた前・ナイアルラトホテップ教団がアルビオンを滅亡寸前にまで追い込み、我が娘メアリーがとどめを刺した」
「ええ、存じております」
「しかし、それはあくまで奇手によってでしかありませぬ。人は理解できぬものに恐怖を示す。なるほど確かに。ですが、それはもう果たされたのです。此度は正面からあたり、まっとうな強さをも示さねばより深い恐怖を与えることはできませぬ。我らが神を喜ばせるためにはこのような作戦をとらねばならんのです」
「……そうですか」
ボニファスの碧眼が年老いたフェルトンの瞳を射抜いた。
彼は心底を見透かれそうなそれを気にした素振りも見せない。
「もう一つよろしいですか」
「断る、と言ってもあなたは聞かないでしょうな」
「その通りです。何故、洗礼をお受けにならないのです」
先ほどよりも強い疑念の視線であった。
「慶事はすべてが終わってからと決めておるのです。では私はこれにて」
「……ええ、ごきげんよう」
背後から突き刺さる不快な視線を気にせずフェルトンは早足でその場を去った。
ひたすらに歩く。目指すのは都市長舎。
メアリーの父であるフェルトンはスカボローで最もいい部屋、都市長の寝室を宛がわれていた。
門をくぐり、扉を開き、寝室へ一直線に向かう。
ベッドのある部屋に入った瞬間、彼は床に倒れ込んだ。
「くっ……」
――これは、いかんな。
フェルトンは、奇跡的にまだ正気を保っていた。同時にその正気が彼を苦しめていた。
いっそ堕ちてしまえば楽になると何度思ったことか。
だが、できない。ロマリアに残してきたミレディーのためにもそれだけはできない。
彼は責務を全うしなければならないのだ。
「旦那さま、失礼します」
立ち上がることもできず呻いていると、執事だったバザンがノックをした。
しばらくして、返答がないことを不審に思ったのか静かにドアを開く。
「旦那さま!」
倒れ込んだフェルトンに駆け寄り、助け起こした。
そのままベッドに彼を横たえてからコップに水を注いで渡す。
「すまない、バザン」
「いえ、ですがご自愛ください」
アルビオンからトリステインに婿入りする際ついてきた執事は、きっぱりと言う。
「なに、あと二週間だ」
「その通りですが……」
フェルトンは手渡されたコップの水面をじっと見つめた。
次回、タルブ編