齢百を数えトリステイン魔法学院の学院長をも務めるオールド・オスマンは、ハルケギニア最高のメイジとしてもその名が知られている。今でこそ家名を捨て、オールドという敬称のみをもつ彼は、なにも木の股から生まれ出たわけもなく、ごく普通の貴族家庭に生を受けた。
トリステイン生まれの彼は当然トリステイン魔法学院に進学し、その青春時代を過ごしている。好奇心の強かった若き日のオスマンは、ナンパに学業に精を出した。中でも彼が興味を示したのは『風』魔法の一つ、“エア・ハンマー”である。空気を圧縮し、相手に打ち付けるという『風』系統の基礎であるが、当時学院でまことしやかに流れていたうわさがある。
曰く、“エア・ハンマー”は女性の胸と同じ柔らかさであると。
それを信じ切ったオスマンは勿論試した。結果、全治数週間の骨折を追った。噂を鵜呑みにしてはならないという自戒の意味もこめ、彼はその骨折を水の秘薬なしに治した。
そして、彼は歳をとり、齢五十を超えたころにふと思い出す機会があった。当時を懐かしみながら、格段に向上した魔法の腕をもって“エア・ハンマー”をできる限り圧縮し、打ち出すことなく静止させてみた。すると驚くことに、その“エア・ハンマー”は熱を帯びていた。
この発見に、オスマンは新たな可能性を見出し、ひたすらに空気の圧縮率をあげる実験を繰り返した。いつか『風』で『火』を起こすことができるのではないかと実験に実験を重ねた。その過程で圧縮された空気を元に戻すと冷えるという現象も発見したが、当初の目論見である『火』の再現はできず、ひたすらに空気を圧縮するだけの日々が続いた。
ある日、彼は気まぐれに空気を極限まで圧縮してから出来る限り冷やし、それから魔法を解除するという実験を行った。それまでとは違い、圧縮された空気は液体を生み出した。机に触れたその液体は滑るように移動し、やがて消えた。オスマンはこの液体に“逃げ水”という名を付けた、『五大』のオスマン第一の功績である。
彼が観測した現象は、極端な温度差から一部が爆発的に気化し、生じた窒素ガスの上に乗って滑るように移動するというもの。熱したフライパンに水滴を落としたときと同じ原理、地球で言うライデンフロスト効果。
大量の空気を圧縮し冷却して生成される“逃げ水”。その温度はマイナス196℃というハルケギニアでは考えられぬほどの極低温であり、ほとんどすべての物質を凍りつかせる悪魔のような液体である。地球での名を、『液体窒素』という。
―――おわりのはじまり―――
タルブに落ちた直径二百メイルにも及ぶ巨大な液体窒素の塊は、白煙を上げながら爆発的な勢いで広がり、中央付近に展開していた軍のみならず、かなり後方に位置していた諸侯軍や本陣をも飲みこもうとしていた。
「な、なんだこれは!?」
本陣からの信号弾に従い防御スペルを唱えていた部隊もそうでない部隊も、突如現れ迫りよせる液体に恐怖と困惑を隠せない。“逃げ水”は見た目だけなら水と変わりない。そんなものがいきなり出現して緩やかな坂道を凄まじい勢いで押し寄せるなど、並みの将兵では想像すらできなかった。
戸惑いにも恐怖にも一切の容赦を見せず、液体窒素は兵たちを飲み込み無慈悲に凍りつかせていく。
液体窒素の脅威はその極低温だけではない。気化した窒素は液体時のおおよそ二十倍以上にも膨れ上がり、空気を上空へと追い上げてる。その結果地表付近では限りなく無酸素状態に近い空気が形成され、多くの将兵の意識を奪いそのまま永遠の眠りにつかせていく。運よく『土』で直撃を免れたとしても窒息には対処のしようがなく、多くの人間が命を落としていった。
爆心地近くで生き延びることができたメイジはごく少数、彼らの共通点は“逃げ水”の底知れなさを本能で感じ取り、全力で各系統によるドームを形成したこと。そうでなくとも塹壕や地下壕を飛び込んで密閉し液体窒素の蹂躙を避けた上、空気も奪われなかったことが生死を分けた。
『全員無事か?』
『……クレールに反応がありません』
『ちっ、ドームに入れなかったか』
『ミドガルズオルムの装甲を抜くなんて、ありえねえ』
『今は現状把握が先だ。アイツの亡骸を連れ帰るのはそれからでもできる』
『ったく、土壁が凍っちまってる。ここはいつから真冬になっちまったんだ』
鋼鉄の騎士人形、ミドガルズオルムを操るガリアの東薔薇騎士団五名も無事だった。彼らの部隊はゴーレムの扱いに長けた優秀な『土』メイジで構成されている。フェルトンが“ブレイド”で斬りかかった直後でもなんとか『土』での防御が間に合ったのだ。いくら“反射”装甲を備えたミドガルズオルムと言えど、真っ向から得体のしれない液体とぶち当たる度胸はない。その慎重さが、一人の犠牲者を出しながらも男たちの命を救った。
軽口をたたきながら、外の様子を聴覚だけでうかがう。轟々と強い風と土壁になにかがぶつかる音がした。
『目視せんことにははじまらんな。ぶち抜け』
『了解っと』
ぎちぎちと鈍重なゴーレム以下の動きで腕を引き、土壁を拳で打つ。
砕けた場所から除く景色は一変していた。
『こりゃ……』
『ありえねえ、今何月だ』
急激な極低温が大気中の水分を氷結させたようで、降りしきる霰と氷の霧に周囲は包まれている。大地にはオスマンの“焔雪”も残っており、まるで半年後に飛ばされたような気分を隊員は味わっていた。
そして一点、ただ一点だけ漆黒の闇がある。
闇は、メアリーは無造作に体を震わせ、もたれかかるようにしていた氷像を砕いた。
『……ジョン・フェルトンの死亡を確認。これ以上用はねえ、とっととケツまくって逃げるぞ』
彼は最期に何を思ったのだろうか。
そんな感傷的な考えが隊長の脳裏をよぎったが、すぐに打ち消した。彼らは生きて帰らねばならない、ハルケギニアの未来を繋ぐため情報を持ちかえらねばならない。
しかし、小さな人間の思いをあざ笑うかのように、悪魔めいた暴風が再びはじまった。
『あの規模のを連発だと!?』
『こいつはどうにもまずいっすね』
『呑気に言ってる場合か!』
そうしている間にも風は強く、メアリーの頭上に凝縮していく。見る見るうちに“逃げ水”は育っていく。今ここで少女を殺したとしても“逃げ水”は平原に溢れかえり、一度目を防いだ兵たちをも飲み込むだろう。ミドガルズオルムの中にいてはわからない外気温、計器は初夏にありえぬ数値を示している。
隊長は決断を下した。
『帰ったら研究者どもに伝えとけ後背部には風石使うなって』
『隊長、まさか』
『適宜魔法を使用しつつ全速離脱!』
『……了解、全速離脱します!』
内部機構のメンテナンスなどのため、また滅多にない緊急事態に備え、甲冑を脱ぐシステムはすでに完成され、ミドガルズオルムに組み込まれている。“反射”をかけられた装甲を失うというのは、ミドガルズオルムの強みである防御力を放棄することであり、それは通常戦場で使われない機能であった。重厚な鋼の鎧を脱いでしまえばあとは風石を含むゴーレムと大差なく、使用メイジの脱出も容易である。また、この装甲排除と合わせてもう一つの機能が組み込まれていた。
「まさか俺が使うことになるなんてな……」
ぼやきながら装甲を順次パージしていき、見た目には巨大な土のゴーレムにすぎない本体がさらされた。
メイジが収容される椅子に座りながら、じっと赤いボタンに目を落とす。
「ったく、研究者どもの慧眼に感服すべきか」
ミドガルズオルムの中、苦笑を浮かべる。一度押してみたいとは確かに思っていた。それがこんな機会になるとは、夢にも思わなかった。
他の隊員がゆっくりと後退していくのを確認して、ゆっくりと地面を踏みしめながらメアリーに近づく。
足元にいるのは、見た目はか弱い少女だ。ミドガルズオルムの巨体で殴れば一瞬で死んでしまいそうな、そんな女の子。これが軍を壊滅させるような液体を今も頭上で造っているとは、あまり考えたくない事実だった。
大きく息を吸った。
「座にまします偉大なる始祖ブリミルよ、敬虔な信徒が今よりあなたの下へ向かいます。どうか祝福を賜りますよう」
祈りの言葉を口にして、赤いボタンを力いっぱい殴りつけた。
赤いボタンはとある研究者の開発した特殊なマジックアイテムだった。中に小さな火石を内包し、通常なら解放できないその力を一瞬で放出し、直径百メイルほどの火球になるという物騒極まりないアイテム。説明された時はバカにしたものだ。
その存在に最期は感謝しながら、ミドガルズオルム隊隊長は劫火に飲み込まれた。
日食で薄暗く、氷霧が大気を満たしていた平原に紅蓮の薔薇が咲く。命まで燃やし尽くしたようなそれは本陣からも見えていた。
「今の爆発はなんだ!?」
「損害報告はどうした何故誰も“伝声”に答えん!」
「さっきからやっていますが繋がりません! なんらかの魔法で阻害されています!!}
「とにかく『風』で霧を晴らせ!」
「伝令に急ぎ戻るよう伝えろ!」
「先の爆発は平原中央で起きたようです、それ以外は視界が悪くわかりません!」
「風が止んだ……いや、また来たか!」
液体窒素の直撃を本陣はビーフィーターたちの『風』で巻き返して凌いだものの、各部隊との連絡は完全に破壊され、また不思議なことに使えない“伝声”と“拡声”のスペルがさらに混乱を助長している。霧越しに隊長の最期の一撃は見えたものの、それがなにを意味するのか、情報を入手することができないでいた。
一度止んだ風は彼らの動きをあざ笑うかのように吹き荒れ、戦場全体を混乱に陥れていく。
「あの規模の攻撃をもう一度喰らえば、いや、もう遅いか……」
「オールド・オスマン! あれを防ぐ手立てはないのですか!?」
「考えられる手立てはいくつかある。“爆発”か火石か、それとも……」
「“爆発”では詠唱時間が足りない。火石も距離が遠すぎる」
オスマンも“逃げ水”に対して深い知見を持ち合わせてはいない。ただそれでもあの液体の恐ろしさを知る者として、なによりハルケギニアに生きる一員として、できる限り考えた。対抗策は“爆発”か火石か、もしくはオスマンの奥の手しか存在しない。
しかし、いずれも問題点があった。『虚無』の“爆発”は威力こそ大きいが詠唱に時間がかかりすぎる。火石では二リーグも離れたあの地点に攻撃を仕掛けることができず、また火石の力の解放は難しいので不可能。
そこにアンリエッタが声をあげる。
「ヘクサゴン・スペルはいかがでしょうか?」
「無茶ですアンリエッタ殿下! 近づかなければならないではありませんか!」
ヘクサゴン・スペル、王家のみに許された大魔法。
メイジは系統を四つまでしか足し合わせることができない。そしてスクウェアが二人いればオクタゴン・スペルを可能とするわけでもない。二人のメイジが息を合わせ、魔法を合成させることはまずありえない話であり、力量の伯仲している双子や親子であっても不可能と言われる。しかし六千年もの間その血統を保ち、たゆまぬ研鑽を続けてきた王家にはそれができる。
「それならばあるいは、吹き散らせるかもしれません」
「オールド・オスマン!?」
「……やってみる価値はあるか。氷とはいえ水分も多い。アン、風竜へ!」
「ウェールズ殿下までなにを!?」
「ビーフィーターに護衛編成を急がせろ!」
オスマンが可能性を示唆したのち、参謀が留める声など聴きもせずウェールズは一人のビーフィーターの乗る風竜にまたがった。アンリエッタもなにも言わず彼についていき、三人は視界のすぐれぬ空へ飛び立った。
周りには勇敢な皇太子と王女を護るため命の危機をも顧みず、幾人ものビーフィーターが火竜や風竜にまたがって飛翔していく。もはや止めることもかなわず、参謀と将軍たちは祈ることしかできない。
アンリエッタが詠唱をはじめる。澄んだ声にかぶせるよう、ウェールズもルーンを唱えはじめる。
風竜は猛烈な速度で平原の中央、さきほどまでメアリーが確認された位置へ、今また“逃げ水”が育っている場所へと翔けていく。
中央まで残すところ三百メイルというところで竜は首をかえし止まる。これ以上の接近は危険であると騎手が判断したためだ。ウェールズたちの乗る風竜の周りに次々と後続が現れ、彼らを護るよう立体陣を編成した。あれほどの猛威を振るった“逃げ水”を前に、恐怖を隠せる兵は少ない。それでも彼らは逃げ出さない。愛する大地のため、我が子のため、ハルケギニアの未来のため、逃げ出すわけにはいかない。
兵の祈りが結実し、詠唱は完成する。
『水』『水』『水』『風』『風』『風』、六つの系統が共鳴し、二人を中心に光が踊る。
二人の前に現れた小さな水は、徐々に成長しながら渦を形作り、風をも巻き込んで巨大な竜巻を形成する。それが六つ、平原の中央めがけて殺到する。六つの竜巻は六芒星を描くように踊り、やがてそのすべてが結びつき、天突くよう巨大な竜巻に成長した。竜巻は水や氷を巻き込みながら、メアリーのいる場所を抉りその規模を増していく。
スペルの完成を見届けた一隊は、祈るような気持ちでそれを見守りつつ、踵を返した。
竜巻はなおも大きくなり、城すら飲み込み砕くような勢いで平原を蹂躙する。まさに始祖の怒りを体現したかのような天災。王家のみが可能とするヘクサゴン・スペルは、その威力を十全に発揮した。
霧は既に竜巻にのまれ、霜の落ちた平原が食まれた太陽の薄明りを反射していた。
本陣はこれを機に動きはじめる。
「今のうちに指揮系統を立て直すぞ!」
「“伝声”使えないなら手旗信号でもなんでも使え!」
一丸となって遮断された通信の回復につとめるべく、伝令として働いていたものでなく、ビーフィーターまでも動員して各部隊の情報を集めはじめた。
「艦隊は被害なしとのことです!」
「不幸中の幸いか、フネに乗せた飛行部隊ありったけ呼びつけろ!」
そんな中、一つの吉報が舞い込んでくる。
「捜索隊戻りました!」
「戻ったか! 損害は!?」
「部隊に損害はありません! しかしヒラガ殿が負傷されています!」
才人の捜索にまわしていた人員が戻ってきたのだ。その数七十名、いずれも歴戦の兵であったため、この事態にあっては心強いことこの上ない。
ただ、ウェールズが気にかかる報告が一つあった。才人が負傷したという話だ。
「アニエス戻りました」
「同じくメンヌヴィル戻りやした」
そのときアニエスとメンヌヴィルの二人が指揮所に戻ってきた。ルイズがいないことに気づきながら、ウェールズは目で二人に報告を促した。
「“逃げ水”は到達せず部隊損害は一切ありません。しかしサイト・ヒラガが意識不明の重体です」
「なにがあった」
「巫女が現れ、胸を貫かれました。あとは、近くにワルド子爵の亡骸があったので火葬を」
「……そうか。急ぎラ・ヴァリエール嬢をここに連れてきてくれ。場合によってはテファとともに『虚無』を行使してもらう」
おそらく平原中央に現れる直前、巫女は姿を見せたのだろう。そしてワルドの死体があったということ。
それらを頭から追い出し、ウェールズは指示を下す。ヘクサゴン・スペルは持続時間が長く、今も中央にてその威容を示しているが、あれが消えたあと、メアリーが生きている可能性は高い。ニューカッスルの経験からそう判断し、とかく『虚無』が必要だと考えた。
その考えは、通常の戦であれば相手の過大評価をしすぎだと窘められるものであった。しかしメアリーを、邪神に連なる者を相手にしているときは、むしろそれでも楽観的観測に過ぎる。
「……まさか、いや、ありえない」
「報告は正確にせよ!」
「竜巻が、ヘクサゴン・スペルがこちらに向かっています!」
単眼鏡で戦場中央を見ていた兵が悲鳴を上げた。
その報告に、単眼鏡を持つ者は急ぎ目をあてた。確認された竜巻は、確かに本陣へ近づいている。
「ありえません。ヘクサゴン・スペルは確かに位置を固定したはず……」
「間違いなく接近しています!」
さっと顔を青ざめさせたアンリエッタが言う。ウェールズも同じことを考えていた。動くことなどありえないと。
魔法を唱えた二人がありえぬと否定しても、現実には城をも吹き飛ばせる竜巻がこちらにじりじりと近づいてくる。あの勢いであれば、十分もかからず本陣に直撃するだろう。
悩んでいるヒマはない。
「テファ、“解除”を」
ティファニアは若干顔がこわばっていたものの、力強く頷いた。
メイジの精神力は回復が難しい。『土』メイジが金の“錬金”をしたとする。その精神力回復には一週間から、長いものでは一ヶ月ほどかかる場合もある。消耗の大きい『虚無』ならなおのこと時間がかかる。この場で使いたくはないというのが本音だった。
それでも、目の前に迫る脅威を払わぬわけにはいかない。本陣を動かして回避するという手もあるが、それは使えない。“逃げ水”の大打撃を受け情報網が復旧していない今、移動する本陣を見て撤退ととる部隊がほとんどだろう。なにがあってもここは耐えきらなければならない。
ティファニアがタクト状の杖を構えルーンを唱える。その声は心地よく、ここが戦場でなければその調べに揺られていたいと願うほど。
「ミドガルズオルム隊が戻りました!」
「報告を回せ!」
「先に観測された爆発は火石の自爆によるもの。隊長を含む二名が死亡。教団の壊滅とジョン・フェルトンの死を確認。継戦能力を失ったのでラ・ロシェールへ帰還するとのことです」
「……了解、ガリア王国の協力に感謝すると伝えてくれ」
しかしその調べに酔っているわけにはいかない。こうしている間にも竜巻は刻一刻と近づき、戦況は変化する。
「反対側のラ・ヴァリエール軍とグラモン軍から連絡がきました!」
「よくやった!」
「損害はあるものの継戦は可能とのことです!」
「ド・ポワチエ軍は壊滅的打撃を受けた模様!」
「ゲルマニア軍の一部が逃走中!」
本陣には様々な報告が舞い込んできていた。普段は大声に囲まれる機会などないティファニアは、その声に心を揺さぶられながら詠唱を続ける。
「……いきます」
行きかう叫びの中、呪文を完成させたティファニアの声は静かに溶けた。
派手な光もなく、爆音を鳴らすでもなく、静かに“解除”は作用する。本陣へ近づいていたヘクサゴン・スペルは徐々にその勢いを失い、ゆるやかなつむじ風となって消えた。本陣前方五百メイルの地点に水が瀑布のように落ち、坂道を流れて中央へ向かう。
「やった、竜巻が消えた!」
「巫女の姿を確認しろ!」
「……います。巫女は健在です!」
「立て直しのできた諸侯軍に遠距離から攻撃を仕掛けるよう通達! “逃げ水”は『風』で巻き返せすか『土』で自陣ごと覆えば防げるということとあわせ、けして近づかぬよう厳命せよ!」
「了解!」
竜巻が完全に溶けて消える寸前、一時的に水を打ったように静まり返っていた本陣はにわかに活気を取り戻した。
「テファ、よくやった」
「感謝しますわ」
「兄さま、アンリエッタ殿下」
声をかけたウェールズたちに、ティファニアはふにゃっと笑った。その姿は弱々しく見え、本来戦場にいていいほど精神が強くないことがわかる。
それでも王族として、明日のハルケギニアのため、ウェールズは心を鬼にして従姉妹に命じる。
「“爆発”はいけるか?」
「はい、やります」
無理だ、とは言わない。この気弱な少女は従兄弟のことをよくわかっている。彼がどれほど心労を重ねているのかも、知っている。その一助となるため、自分もがんばるしかないと心に決めている。
「ラ・ヴァリエール嬢を急ぎここに。二人の『虚無』で巫女に打撃を与える!」
ウェールズの叫びと同時、再び風が吹き荒れる。今度は今までのどの風よりも強く、吹き止む気配も一切ない。本陣後方に残された木々は地面から引き抜かれ、宙を舞い、平原中央へと収束していく。人間ですら、気を抜けば吹き飛ばされてしまうほどの大風、天空の大地で生まれ育った者ですら体感したことのない、この世の終わりすら感じさせる豪風であった。
誰しも伏せるしかなく、ウェールズもティファニアとアンリエッタの二人をかばって地に倒れしがみついた。異常の察知が遅れ立ったままでいた者は、マントをはためかせ薄暗い空に吸い込まれていった。追い風であるというのに誰も顔を上げることができない。誰しも始祖に祈ることしかできなかった。
そして風は唐突に止む。おそるおそる顔を上げた人々が見たものは、絶望の象徴。
「あ……」
先ほどより巨大な“逃げ水”がメアリーの上にある。光を捻じ曲げるそれは白い煙を放ちながら、それでも透明であった。ウェールズが慌てて単眼鏡をのぞくと、メアリーは宙に浮きながら右手を空に掲げていた。手の平に乗った“逃げ水”の巨塊は音を立てず、ぱんと、軽く弾け飛んだ。
「総員防御ぉぉおおおお!!!」
ウェールズの声は、悲痛な叫びは本陣にだけ空しく響いた。その指示を受けて、あるいは己で危険を察知して将兵は全速力で防御スペルを詠唱する。
指揮を下したウェールズ自身も、かばっているアンリエッタとティファニアを護るため生涯で最も速く、“ウィンド・シールド”を完成させる。
液体窒素の雨が、タルブに降り注いだ。
さきの“逃げ水”が陸津波ならばこれは雨。畑を湿らせる恵みの雨と同じように大した激しさはなく、けれど間断なくゆっくりと戦場に降りしきる。
『土』以外での防御を選択したメイジはいつ終わるともしれぬ時雨に恐怖しながら魔法を維持する。集団から離れ、交代での防御ができなかった兵はやがて蔓延する窒素にやられ、倒れていった。
雨が止んだ後、戦場は再び霧に覆われていた。そろそろと魔法を解き、本陣は再び叫び声に包まれた。
「損害報告を!」
「伝令が行ったばかりで戻ってきていません!」
「この機会を待ってたってのか信じられん!」
少しでも立て直そうと残る兵を動員してでも戦場の把握に努めようとそれぞれが己の職分を果たそうと奮起する。
そのあがきをあざ笑うかのように、また風は吹く。
「精神力に底がないのか!?」
「なんってふざけたヤツだ!」
「始祖よ、座にいましすべてを見渡す全能のブリミルよ。我らは常に敬虔な信徒たろうとありました。我が祈りを……」
先ほどのものよりは遥かにゆるやかではあったが、それでも呟きは消し去るほどの暴風。
祈りすら混じる本陣では、王族の前だというのに逃亡しようという者もではじめた。しかし、それも強烈な向かい風でかなわない。なにをしようと、無駄でしかない。
“逃げ水”は成長しながら、今度は薄く長く広がっていく。その速度は凄まじく、『水』の基礎である“コンデンセイション”であるかのごとくかさを増していく。あのまま成長すれば、今度こそ本陣を丸ごと飲み込んでしまうだろう。精神力を使い切ったメイジも多く、次の一撃をしのぐことはできない。
絶望と混乱の中、ゆっくりと立ち上がる老人がいた。ハルケギニア最高のメイジ、オールド・オスマン。
「やれやれ、こればっかりは二度と使わんと思ったのじゃが……」
「オールド・オスマン?」
「コルベールくん、教師にはしばらく休暇と伝えておいてくれんかの」
ただ一人、いつものように白髭をしごきながらひょうひょうと、日常であるようにオールド・オスマンは言う。ちょっと散歩に行ってくると、そういわんばかりの気軽さであった。
「あとは若いもんに任せるわい。みなによろしくの」
「まさか、あの魔法を!?」
コルベールはオスマンの言葉を、言わずともすべて理解してしまった。いつも通り茶目っ気溢れたウィンクに隠された意志をも。
老人は杖を両手にしっかと握り、四つのルーンを口にする。
「ウル・テイワズ・ソウイル・ウィアド」
“焔雪”よりよっぽど単純で簡潔なスペルは、すぐに効果を表した。
オスマンの周囲に光が舞い遊び、次第に収束して光球を形成する。ちっぽけな、ほんの手の平程度の大きさのそれは稲光よりも速く、平原中央に飛んで行った。
直後、戦場を白光が包んだ。
なにものにも犯されぬ気高き光は、見上げるほどに大きく膨らみ、雲に届くほど巨大な光の柱となってタルブを染め上げた。
「あれは、『虚無』……?」
見ていた将兵が勘違いしてしまうほど神々しく、涙をこぼしてしまいそうなほど綺麗な光だった。光柱はぐんぐん伸び、太陽にも届きそうなほどの高さになって、やがて散った。
その光景は絶望に打ちひしがれていた人々の心を打ち、再び立ち上がる気力を分け与え、希望という光を心に灯らせる。
「オールド・オスマン、今の光は……」
思わずぽかんと口を開いて見上げていたウェールズは、ようやく気を取り直してオスマンに問う。
返答は、なかった。コルベールが代わりに答えた。
「オールド・オスマンの五番目の魔法、“光”です」
オスマンは五つの魔法を創造したことで『五大』の二つ名を前代の教皇から授けられた。
その最後の魔法、“光”。“焔雪”と同じく『土』『水』『風』『火』の系統を足し合わせたスクウェア・スペルでありながらその詠唱はごく短い。“焔雪”のようにイメージを喚起させる昔語りをする必要もなく、一見強力な魔法だった。
ぐらりと傾いだオスマンをコルベールが受け止めた。
「オールド・オスマンはしばし目を覚まさないでしょう。今のうちに軍の再編を」
「あ、ああ」
その威力は絶大なものでありながら、この魔法を習得しようという者はいない。『虚無』に最も近い魔法は、使用者の精神をも蝕む。“光”は使用者の精神力をすべて奪い、その威力の代償としている。
コルベールは口にしなかったが、オスマンはおそらく一ヶ月以上目覚めることはなく、運が悪ければ死ぬだろう。どれほどの覚悟をあの言葉に込めていたのか、老人の心を知るすべはない。
“光”の呑まれたメアリーはしばらく動きを止めていた。時間にしておよそ十分ほど、短い時間ではあったが本陣付近のみを立て直すには十分な時間だった。
しかし、動きはじめたメアリーは意外なことに、それ以上なにかをするでもなく溶けるように姿を消した。日食は終わり、あとには壊滅的打撃を受けた軍と凍りついた大地のみが残った。
英雄は失われ、老魔法使いも眠りにつく。
残されしものが巫女の強大さに恐怖し始祖に祈りを捧げていたころ、もう一人、動き出す者があった。
「おにいちゃん、おねぼうさんだね」
「ここは……」
この世の理を超えた座にて、命を、名を、全てを邪神に奪われた黒髪の少年が、異世界の父の祈りに目を覚ます。
次章予告
トリスタニアに雨が降る。タルブ開戦以降の重い空気を閉じ込めるように、しとしとと空が泣く。
がむしゃらに、ひたすらに剣を振る才人を見かね、気楽さを失わないギーシュがとある酒場に彼を誘い出す。
そして街にはある噂が流れていた。雨の中、フードもかぶらず黒髪の少女が佇んでいると。
アニエス率いる銃士隊と、メンヌヴィルが率いる小隊は噂の真相を追うべく夜のトリスタニアを駆け回る。
邪神の書いたシナリオに人々は踊らされ、平賀才人を更なる絶望が襲う。
次章、Last Amazing Grace