「『土』のギーシュ」
薔薇をくわえた少年が髪をかき上げながら言う。
「『風』のマリコルヌ」
小太りの少年がマントを翻して言う。
「『水』のレイナール」
理知的な少年が眼鏡に手をかけて言う。
「『火』のギムリ」
背の高い少年が筋肉を誇示するように言う。
『我ら』
ばばっと四人は思い思いのポーズをとりつつ叫ぶ。
「青銅薔薇騎士隊!」
「疾風怒濤騎士隊!」
「水精霊騎士隊!」
「剛腕紅蓮騎士隊!」
一見統制がとれていたのに、口から飛び出た言葉は全然違っていた。
「……いや、ぼくが隊長だから青銅薔薇騎士隊にしようって決めたじゃないか」
「モンモランシーとよりを戻しそうな奴は黙っててくれ。略称は嫉妬騎士隊で頼む」
「いやいや、ここは歴史ある部隊名をつけることで注目度をあげるべきだと言ったはずだ」
「強そうな名前にした方が名前負けしないようがんばるからいいだろ?」
口々に自分の考えた部隊名を押し付けあう少年たち。小雨で薄暗い街中だというのに、そんな雰囲気は意に介さない明るさがあった。
あーでもないこーでもないと場所すら気にせず大声で議論をかわす。
「は、恥ずかしい……」
「とても上級生と思えません」
一行から少し距離をとって、モンモランシーとケティがついてきている。
モンモランシーは身内というか同級生の恥に頬を染め、ケティはワリと辛辣なことを口にする。
ここはトリスタニアの貴族街、屋敷が建ち並んで人通りが少ないとはいえ男どもの声はそこそこ大きい。傘をさす習慣があまりないハルケギニア、女性二人はフードをかぶって顔は見えにくいものの、万一のことがありうる。屋敷の中から見られていたら、しかもそれが縁戚のものだったら。モンモランシーはそう思うといっそきびすを返してしまいたかった。
「しかし、雨がやまないね」
「話をそらすなよギーシュ、部隊名は嫉妬騎士隊だからな」
「いやいやいや、そんな名を歴史に残すとか正気の沙汰じゃないぞ」
「レイナール、ぼくは後世でなんと言われても今を生きる」
「なに良いこと言った風になってやがる。ま、雲の感じから雨は続くらしいぜ。見舞いで会ったミスタ・ギトーが言ってた」
ギムリが言うとおり雲は分厚く広く、空にあるはずの太陽はうっすらとしか見えなかった。
オスマンの見舞いのあと、ルイズは王宮に一度戻り、ギーシュたちは才人を見舞うためラ・ヴァリエールの屋敷に向かっている。
レイナールとギムリを途中で迎え入れ、ぐだぐだ駄弁りながら濡れるのも気にせずはしゃぎまわる男たち。
そんな若さ爆発の一団に声をかけるものがいた。
「あの……」
『なんだい?』
「こんなところでなにをしてらっしゃるんですか?」
メイド服をいたって普通に着こなす黒髪の少女、シエスタだった。
「えぇっと、きみは確か、シエスタだったかな。サイトのお見舞いに来たのさ」
「……メイドの名前は憶えてるのね」
「モンモランシー先輩、嫉妬ですか?」
「違うわよ!」
ギーシュの言葉にシエスタはパッと花咲く笑顔を見せた。
「やっぱりそうだったんですね! 窓からミスタ・グラモンたちの姿が見えたので迎えにあがりました。サイトさんもついさっき目覚めたところですよ」
「お、そいつはちょうどよかった。家からちょっぱってきたワインが無駄にならずに済む」
「ギムリ、きみも貴族ならもっとらしい言葉づかいをだな」
「細かいこと気にしてるとハゲるぜ? レイナール」
「ぼくはハゲない!」
しかし男たち三人は知っている。レイナールの家系、コルナス男爵家は代々ハゲることを。
ちょっぴり気の毒そうな顔になりながら、スルーしてあげることにした。
「ミスタ・プロヴァンス。お荷物を」
「良い良い。そんなことしたらギーシュに怒られちまう」
「当然だね。平民貴族問わずレディーには優しく接するものだよ」
「だってさ」
にかっと、あまり貴族らしくない笑みを浮かべて、ギムリは後方についてくる二人に目をやった。
「なによ、デレデレしちゃって……」
「先輩、今時そういう態度は流行りませんよ。モノにしたいなら押して押す。ツェルプストー先輩からそう教わりました」
「だからそんなんじゃないって言ってるでしょ!」
声をひそめているせいで、しとしと降る雨音に消されてよく聞こえない。けれどその内容は容易に予測がついて、彼は肩をすくめた。
ヴァリエールの屋敷の門前でシエスタが合流してからは流石に男たちも騒がず、距離を取っていた女性も近づいて立派な門をくぐる。玄関に続く石畳、植え込みは新緑に濡れまだ花をつけていない。
屋敷の中は主不在の静けさがあって、出迎えのメイドや執事たちがいたもののどこか空虚なにおいを感じ取ることができた。
シエスタに先導されて才人の部屋に向かった一行が見たのは、空っぽのベッドだった。
「……え?」
「サイトいないじゃないか」
「そんな、わたしがみなさんを見てから時間がたってないのに。それにデルフリンガー卿も」
ベッドは誰かが使っていたようにシーツがめくられていて、けれどそこにいるべき人物は消えている。
すぐそばに立てかけられていた神剣の姿もなく、部屋は底冷えする湿気に覆われていた。
「窓が開いてる。ここから出たんだろうな」
窓に近づいたレイナールがかすかな風に揺らめくカーテンを指し示した。
二階ではあったが、さして高くはない。才人ほどの身体能力があれば飛び降りるのに苦労はしないだろう。
「どうしよう、わたしミス・ヴァリエールに任されたのに」
「急いで探そう。二日間眠りっぱなしの身体にこの冷気は応えるぞ」
「早まった真似をするなよサイト……!」
―――少年は救いを求め―――
冷たい雨にさらされる市民の足は早い。
「相棒、戻らねば身体を冷やすぞ」
なんの考えもなくラ・ヴァリエールの屋敷を抜け出し、人通りの少ない貴族街を進み、最も広いブルドンネ通りへと出た。
誰もが王都という都会の中、無関心ですれ違いながらそれぞれの目的を目指す。無論フードをかぶっていない才人に目を向けるものもなく、こういうところはどこも変わらないのだと、少し不思議な感じがする。
「メイドの娘にも心配をかけているだろう」
雨のせいなのか、タルブでのことがあったせいか。平時は人が溢れ身動きをとりにくい通りに、いつものような活気はなく、さして労なく進むことができた。
普段なら雑音に包まれている街は、雨の音しか聞こえない。店の呼び込みを行う者もおらず、時折馬蹄の石畳を叩く音が通り抜けていく。
「見舞いに来た友人に顔を合わせぬというのも不義理であるぞ」
なにかに導かれるように、あるいはなにかから逃げ出すように、才人は無言で足を進める。
背中のデルフリンガーにも反応を見せず、街並みが切れてもただただ死者のように歩き続け、開けた練兵場についた。晴れていたなら訓練に勤しむ兵がいるであろう場所に、人の気配はない。人型を模した鋼の前で、才人はようやく足を止めた。
デルフリンガーを抜き払い、横薙ぎの一撃を見舞う。
メイジの“ブレイド”であってもたやすく両断できぬ鋼を、才人は神剣の一振りで斬り捨て、ずれ落ちた人型は重たい音をたて、ぬかるんだ地面にめり込んだ。
「なぁデルフ」
「なんだ相棒」
うつむきながら、全身ずぶ濡れで才人はこぼしはじめた。
「俺って、なんだ」
「人であり、ガンダールヴにしてリーヴスラシル。アルビオンの英雄という肩書もあったな」
「俺、子爵さんを刺したんだよな」
「ああ、某をもって子爵の心臓を貫いた」
「俺が、子爵さんを殺したんだよな」
「厳密には違う。ワルド子爵はすでに死んでいた」
「俺がやられてなきゃ、タルブはなんとかなったんだよな」
ぽつりぽつりと、雨音にかき消されそうなほど弱々しい言葉は、すべてが彼自身を責めるものだった。
力なく握っていた握りもすべり、手からずるりとデルフリンガーが抜け落ちて力なく地面に横たわった。
「ガンダールヴなのに、リーヴスラシルなのに肝心なときに気絶してた! 隊長が訓練してくれて、ケティを救えて、それで調子に乗って! 俺が油断してなけりゃ全部全部、ずっとよかったはずなのに……」
「それは違う! 虚無の使い魔とはいえ、一人で戦況を変えられるものは数少ない」
慟哭は雨音に溶け、両手で顔を覆ってもなおこぼれ落ちる雫は雨に混じって地面に滲みこんでいく。
「相棒はちっぽけな人間にすぎない。虚無が二人、使い魔が一人。初代の邪神に比べればこそあの巫女は弱いが、それでも歴代のものより遥かに強い。容易に倒せると思うな」
「だけどっ、だけど……!」
「誰しも同じことを言っていた。誰しも後悔に塗れ、それでも立ち上がってきた。己の過ちと弱さとを認め、勇気を奮い、そうやって立ち向かって六千年という歴史を積み重ねてきたのだ」
淡々と、少年の激情を飲み込むかのように神剣は言葉を連ねる。
遥かなるときを往くデルフリンガーの言葉には、人もエルフも持ちえない重みがあり、けれど才人には届かない。
「それでも、俺は、まかされたんだ」
あの焼け落ちる城を憶えている。
「子爵さんに、星を頼むって、まかされたんだ」
貫いた刃の感触を憶えている。
「強く、強くなったはずなのに」
まとわりついた後悔のにおいは雨をもってしても消えず、ぬかるみに膝をついた才人はただただ濡れていく。助言者たるデルフリンガーもなにも言わず、なにも言えず。
泣き止まぬ天を仰いだ瞳にも雫は満ち、いっそこの感情ごと溶けだしてしまえばと少年は願う。涙は上澄みのみを含んで零れ落ち、悔恨は心に堆積していく。
雨の地面をたたく音だけが支配する練兵場で、才人の耳は偶然違う物音をとらえた。試合用に整えられた石畳をブーツが叩く音であった。
「少年、そこでなにをしている」
デルフリンガーのものとは違う低い声。
ゆるりと顔だけ振り向いた才人の視界には、ワルドと同じく羽根つき帽子をかぶった壮年の男が佇んでいる。貴族であることを示すマントを羽織り、不思議なことに周囲は雨が避けていく、歴戦の戦士がもつ空気を漂わせる男であった。
ブラウンの短髪に威厳ある髭、マントで全体的な輪郭はわかりづらいものの、鍛え上げた肉体は隠し切れていない。
「その鋼はお前が斬ったのか?」
ブーツが濡れるのを気にも留めず、ゆっくりと才人に近づいていく。
丁度才人の間合いである五メイルの地点で彼は足を止め、それから少し驚きを見せた。
「……ガンダールヴの少年、サイト・ヒラガと言ったか」
「そこな貴族殿、何故それを知っている。あいや、申し遅れたが某、名をデルフリンガーと言う」
「ガリアの知恵袋である神剣殿、デルフリンガー卿のお噂はかねてより聞いております。名乗り遅れました、マンティコア隊隊長、トレヴィル・ド・ゼッサールと申します。職務上耳にする機会があったと言っておきましょう」
緩やかに、そこが宮廷であるかのように一礼をする。
ド・ゼッサールはトリステインに三つある魔法衛士隊のうち一つ、マンティコア隊の隊長を務めており、マザリーニやリッシュモンの信頼篤く、新たに王宮内で邪神に対抗する人材として目されている人物でもある。
トリステイン王国内での地位は高く、タルブ開戦の前に才人がガンダールヴであることを知らされていた。
「もう一度聞く。その鋼を斬ったのはお前か」
「……そうです」
いかにも武人然とした態度でゼッサールは問う。それまでじっと押し黙っていた才人はぽつりと、一言だけで返した。
「そうか」
言って、ゼッサールはゆるやかに左手の手袋を外し、叩きつけた。
「落ち込んでいるところ悪いが、決闘を挑む」
腰に帯びた杖剣をすらりと抜いてかまえる。いつの間にか避けていたはずの雨は彼を打ち、見る見る内にそのマントを濡らしていく。
才人は、ただぼうっと彼を生気のない眼で見ているだけで、立ち上がりもしなかった。
「ド・ゼッサール殿、トリステイン王国法で衛士隊に属する者の決闘は禁じられている。鋼鉄の規律をもって統率されているマンティコア隊隊長ならば、知らないはずもあるまい。」
「無論、弁えております。先代の隊長から身体に叩き込まれましたからな。ただそれでも」
ゼッサールの顔に冗談めいた色は見えず真剣そのもの。彼は今、本気で才人と戦うつもりなのだと、全身から立ち込める気迫が証明していた。
「先達として、男として、戦わねばならぬときはある!」
叫びながら、ゼッサールは疾駆した。魔法もなにもなく、単純な身体能力で一直線に走り、鋭い打突の一撃を放った。
それに対して地面に放り出していたデルフリンガーを瞬時に抜き払い、立ち上がると同時、地面からの摺り上げる一閃を才人は見舞う。
空中で噛みあった刃が甲高い音を上げる。
「あ……」
「それでいい」
しまったという顔をした。
応戦するつもりはなかった。今はなにもかもがどうでもよかった。なのに、身体が勝手に動いた。
驚いている才人に対し、ゼッサールは再び畳みかける。無心で、戦う理由も見つけられぬまま応じる才人は、ひたすらに護りを固める。
――上手い。
才人が感じたままを表現すればその一言に尽きる。
攻撃が重いわけではない。むしろガンダールヴの膂力をもって繰り出される才人のどんな攻撃よりも軽い。
かと言って速いわけでもない。筋力がなければ素早い剣撃が出せるはずもなく、これもまた才人に劣るものばかり。
だというのに才人はペースをつかめないでいた。
相手の突きに対し、強烈な袈裟がけで杖剣を斬ろうとすればそれはフェイントで、すぐさま本命の二撃目が襲い掛かり、じりじりと後退を余儀なくされる。
大きく引き離してデルフリンガーの刀身の長さを生かそうとしても、ゼッサールはいつの間にか間合いを取り戻し、激しく攻め込んでくる。
牽制しようとしても思惑が読まれている如く、ゼッサールは距離をつめ攻撃を連ねる。
強いのではなく上手い。年季の差というものが如実に感じられる戦いであった。
「強い、な」
しかし、とゼッサールは呟く。
「圧倒するほどではない」
すれ違いざまの一撃を才人はなんとかはじき返し、次の攻撃に備えたが、ゼッサールは一度大きく距離を取った。
最初のときと同じ、約五メイルの間合い。
「膂力は強く、剣速も疾風のようだ。基本に忠実であり、眼もいいから咄嗟のことにも対処できている」
ゼッサールは静かに、言葉にして確認しながら語りかけてくる。
「だがそれだけだ。この程度では私を破ることはできん」
杖を振るい雨露を弾き飛ばす。ひじを曲げて剣柄を胸に、天突くかまえをとった。
「魔法を使う」
どこか独り言めいた宣言、直後に才人の後方から圧縮された空気が襲い掛かった。
『風』系統のスペルは不可視の攻撃が多い。カリーヌとの訓練ではそのことを存分に叩き込まれ、音と肌の感触で察知するよう鍛えあげられている。咄嗟に右へ跳んで回避することはできた。
だが、ゼッサールは才人の行動があらかじめわかっていたように距離をつめる。襲い来る剣撃を跳ね返せたのは幸運であった。
才人の背筋に冷や汗が伝う。
アニエスは強かった。しかし鍛錬を重ねるうち、頭角を示した才人は勝てるようになり、これ以上はあまり役に立たぬと基礎訓練に終始するよう指示された。
カリーヌはアニエス以上に強かった。彼女に対し、今もって才人は勝率五割を超えていない。しかしそれは魔法ありきのもの、単純な剣術なら才人が負けることはほとんどなく、九割以上の勝ち星をつけていた。
――強いなんてもんじゃない!
剣技のみでも伯仲、もしくは相手に分がある。そこに魔法を使われれば、結果は言うまでもない。
「あァッ!!」
ここではじめて、才人は吼えた。踏み込みに気合を乗せて、ゼッサールへ殺到した。
ゼッサールは魔法衛士隊に伝わる特有の詠唱技法、相手にスペルを悟らせないため口内でルーンを反響させ、魔法を発現させる。閃光のごとき早業であった。
ふっと、才人の身体が宙に浮いた。
しっかと大地を踏みしめていたにも関らず、足は硬い感触を伝えない。次の瞬間には視線が空を向き、強かに地面へと打ちつけられた。
前後左右ではなく、下方からの“ウィンド・ブレイク”による奇襲。カリーヌからも教わっていないそれは、才人の意識の埒外にあり、彼から一切の行動を奪う。
ゼッサールはなおも詠唱を重ねる。
倒れた相手に対する中距離からの魔法乱打、本来ならば二人でことにあたり、一人が相手を倒し一人がその間に詠唱を済ませる、教本にすら載っている基本戦術は、ゼッサールほどの使い手にかかれば一人でもたやすく決行できる。
ひたすらに『風』のドットスペルを打ち放ち、才人は防戦一方で立ち上がることもできずひたすらにデルフリンガーでさばいていく。
「戦いの組み立てが甘い。攻め気が足りない。勝とうと言う意志が見えん」
ゼッサールは語りかける。仮にも決闘相手にかける言葉ではなく、どこか指導めいた話であった。
喋っている間には魔法も止み、才人は立ち上がりつつ大きく距離をとった。そんな彼に、ゼッサールは失望の視線とともにため息をつく。
「ガンダールヴがこの程度とは、ワルド子爵も無駄死にか」
「あんたになにがッ!!」
その言葉に才人はかっと血が上った。ガンダールヴは心の震えを力とする。先ほどとは打って変わった強烈な打ち込みを見せ、激しく攻め立てた。
それに大きな動揺も見せず、ゼッサールは冷静に対処していく。一つ一つの反撃は小さくとも確実にリズムを崩し、攻めていたはずの才人はいつの間にか守勢に立たされている。
――勝てない。
心に忍び寄る敗北の気配。それを振り切れるほど今の才人は強くない。
押し切られるままにもう一度大きく後方へと跳躍する。息は絶え絶えで、だというのに敵対しているメイジはまだ余裕さえ感じさせる。
ゼッサールは追撃することもなく、それまでの攻防が嘘であったように杖剣を収めた。
「ニューカッスルで生き延びたのが子爵であったなら、おそらく再召喚でガンダールヴになっていたことだろう」
羽根付き帽子を目深に被りなおし、彼は背中を向ける。
「ワルド子爵の意志、無駄にせぬよう頼む」
――子爵さん、か。
言って、ゼッサールはマントを翻して練兵場を立ち去る。
後には雨に打たれる才人とデルフリンガーだけが残された。
「相棒、気を落とすな。あ奴は強い。魔法の威力を度外視すればおそらく公爵夫人をも凌駕するだろう」
「……っく」
才人はがむしゃらに剣を振り回す。そこにアニエスから教わった型はなく、カリーヌが指導した後を考えることもなく、ただひたすらに剣を振るう。
無心になろうとしてもへばりついた思考は拭えず、かんしゃくを起こした子どもじみた動きであった。
「強くならなきゃ」
「だが今は身体を休めよ。人間はそこまで強靭にできておらん」
「強く、ならなきゃ……!」
神剣の声は届かず、ただ強く強く自分に言い聞かせ、剣を振るう。
雨は降り止まない。才人の髪を、顔をぬらし、瞳からも幾筋かの水滴がこぼれ落ちた。
市街地からやってきた一羽のフクロウが一人と一振りを見下ろし、元来た方角へと帰っていく。ギーシュたち六人がやってきたのはそれから数分後のことであった。
「サイト、大丈夫か」
「身体が冷え切ってるぞおい」
「サイト様、なんでこんな……」
口々に声をかけるけれど、才人はただただ緩慢に剣を振るうだけ。
「強く……ならなきゃ……」
ぎょっとした顔で男四人は才人を見つめた。
「相当参っているみたいだな」
「らしくないぞサイト」
ギムリが手早く腕をおさえ、神剣をとりあげた。抵抗はされなかった。
使い魔のフクロウを肩に乗せながら、マリコルヌは見たことがないほど弱っている才人の頭にタオルをかぶせる。
ケティは貴族の証ともいえるマントをためらうことなく外し、才人の肩にかけた。
それから、いつか彼がしたように、彼女は濡れるのもかまわず才人を強く抱きしめる。それに対しても彼は反応を示さず、冷たさしか返ってこなかった。
「とにかく火にあたれる場所を探さないと」
レイナールは口にしながらも、ここから貴族街が遠いことを思い出していた。ヴァリエールの屋敷、もしくは彼らの屋敷であればよいのだが、ここから歩いて二十分近くはかかる。
夜も近づいてきていて気温はさきほどより下がっている。早いところ身体を温めなければ彼らも風邪をひいてしまいそうだった。
そこに、ギーシュはとびきりいいことを思いついたようで、自信満々な顔を見せた。
「よし、ぼくにいい考えがある」
*
その頃、ルイズは王宮の廊下を歩いていた。
人の行き来が激しい行政区画と違って、賓客用の部屋が集まっているところは警邏の兵以外に人影は少ない。ルイズにとって幼少期に歩き回った場所であり、勝手知ったる様子で物怖じもせず歩みを進める。
やがてとある一室の前で足を止め、衛兵に取り次いでもらって中に踏み入った。
「テファ、いいかしら」
「どうしたの?」
ニューカッスルではじめて出会い、グラン・トロワで使い魔を共にし、タルブでは月夜に語り合った友、ティファニア・モードの下をルイズは訪れている。
ハーフエルフの少女は机に向かっていて筆を走らせていたようだった。なにをしているんだろうというルイズの視線に気づいたのか、少し恥ずかしげにティファニアは呟く。
「わたしは兄さまたちと比べて、できることが少ないから。せめて手紙を書いているの」
ティファニアは手紙を隠すように紙の山へと押しやる。一瞬目についた文面は、アルビオンの都市を治める貴族へのもので、部下を気遣うものであった。
優しい彼女らしいと、ルイズは微笑を隠せない。
「わたしのことより、ルイズはどうしたの?」
「少し相談があって」
その言葉に今悩んでいることを思い出して、笑顔はかき消えてしまった。
そんなルイズに対して、今度はティファニアが微笑みを見せる。
「わたしで力になれるなら、なんでも言って」
「ありがとう。その、サイトのことなの」
「サイトの?」
「うん。なんというか、顔を合わせづらいの」
これは意外なことを聞いたとティファニアは目をまるくした。
タルブでの彼女らのやり取りは、とても出会って数ヶ月の知り合いではなくて、長年連れ添ったような雰囲気が漂っていた。だというのに、今のルイズは顔を合わせづらいという。
ルイズはこのことを、彼女の姉であるエレオノールにも相談していた。けれど、返ってきたのはあまりに頼りない言葉ばかりで、しまいにエレオノールはこんなことを言った。
『まあ、確かにわたしは頼りにならない可能性が高いことがなきにしもあらずなことを認めるわ。そういうときは年頃の近い子に聞く者よ』
『姉さま、婚期過ぎてますものね』
ほっぺがつねられたのは言うまでもない。
とかく、長女の助言に従ってルイズは年頃の近く、しかも使い魔を共有しているティファニアの意見を求めにきたのであった。
そんな背景を彼女が知るはずもなくとりあえず疑問に思ったことを口にする。
「なんでそうなったの?」
「……わたしが悪いの」
しょんぼりした様子でルイズはとつとつと語りだす。
「サイトのこと、わたしは勝手に英雄視してたから。サイトはただの男の子だっていうのに」
「英雄視……」
「前にも言ったけど、サイトはわたしが無理やり『チキュウ』から呼び出したの。戦いなんて身近にないところから、こんな戦場にいきなり投げ出された。サイトは優しいからわたしのことを責めたりしなかった。むしろなぐさめてくれたわ。きっとこれも運命なんだって。わたしはそんな彼に甘えてたの。召喚のゲートをくぐったときから、彼を英雄だって思って」
それは懺悔であった。彼女の罪を、彼女が罪だと信じ込んでいる事実をルイズは語る。
「けれど、タルブで気づいた。ワルドを倒したサイトは泣いてた。子どもみたいに泣きじゃくってた。わたしは勝手にサイトを英雄だって決めつけてた。歳もほとんど変わりないのに、貴族ですらないのに、そう思い込んでた。きっとそれは辛いことだわ」
期待は時に重い。『虚無』であることを隠して生きてきたルイズは誰よりもそのことを知っている。
ルイズの眼差しがどれほど才人に負担を与えてきたのか、彼女には想像するしかできない。だからこそ、きっと自分ならと置き換えて、余計に落ち込んでしまう。
「だから、今はどんな顔してサイトに会えばいいのかわからないの」
そう締めくくって、ルイズは肩をよりいっそう落とした。口にすればするほどに自戒するところがあったらしく、どんよりとしたオーラを放っている。
ティファニアは少し困った顔で、思ったことをとにかく声にしていた。
「ルイズ、前にサイトのことをどう言ってたか、覚えてる?」
「前に……」
「ヴェルサルテイユで、無鉄砲で優しいって言ってた」
あのときのことを、ティファニアはよく覚えている。
家族以外に対するはじめてのキスだった。はじめて得た使い魔だった。はじめて、友だちかもしれない人ができた。
「わたしも、タルブで少しだけ話してそう思った。サイトは優しい人だって」
タルブで、月明かりの下語り合ったこともしっかり覚えている。
仲がいい二人だと思って、そんな二人に少しでも近づきたくて、気づけば友だちになってほしいと言っていた。才人は、もう友だちだと言ってくれた。そんな彼が優しくないはずがないと、ティファニアは信じている。
「だから、ルイズのこともきっと許してくれる」
ううん、とティファニアは首を振った。
「許すとかじゃなくて、気にもしていないって、そう思う」
「そうかな……」
なおも不安そうな顔でルイズはティファニアに聞く。それに対する返答は少し違っていた。
「けど、サイトは今すごく辛いと思う」
「やっぱり」
「だからルイズはいっぱいおしゃべりして、サイトの心を軽くしてあげないと」
それが一番だと言わんばかりの眩い笑顔。じんわりとその意味が心の中にしみこんでいき、ルイズはうんと頷いた。
「そうする。サイトが眼を覚ましたら絶対にそうするわ」
「うん、わたしもお邪魔して、三人でおしゃべりしましょ?」
「ええ、きっと素敵だわ」
そのときの光景を二人して想像してみる。才人を中心に二人が座って、お茶なんかを飲みながら陽の当たるテラスで、時間も気にせずにおしゃべりに興じる。
きっとそれは素敵なことだ。だから。こんな戦いはすぐに終わらせないといけない。
そう考えていたとき、外の衛兵が声をかけてきた。入室を促して入ってきたのは、ウェールズだった。
ルイズは王族に対する礼儀として立ち上がり迎えた。それに対してウェールズは手で制し、ドアのすぐそばで立ち止まる。
「ウェールズ殿下」
「こんにちは、ラ・ヴァリエール嬢、テファ。顔を見に来ただけなんだ。ラ・ヴァリエール嬢が来てくれているとは思わなかった」
あまり時間がない様子であった。どうやら本当にテファの顔を見に来ただけらしく、ルイズは推移を見守ることにした。
「兄さま、なにかあったのですか?」
「数日だけロンディニウムに戻らねばならない。代行も立てる必要があるし、戦力も抽出してきたい」
「いつ帰られるのですか?」
「今日、すぐにだ。風石が惜しいとは言ってられない。正直、私がいない間になにかあるのではと不安ではある。だが国主が一度も戻らぬ大陸に戻りたがる民はいない」
ウェールズはニューカッスル陥落以来アルビオンに戻っていない。このあたりで一度帰り、王族が健在であることをアピールしなければ無責任な噂がアルビオンにはびこってしまうだろう。
そうなる前に民心を安定させるため、また来るべき次の戦いに向けて戦力の再分配を行うため、ロンディニウムに戻らねばならない。邪神との戦いだけでなく、その後のことも見据えなければならない国主は、なすべきことが多かった。
「いない間のことはマチルダにも話してある。テファ、無理をしないようにな」
しかし、ウェールズは激務を感じさせない顔でティファニアをいたわる。それが彼女にとって嬉しくもあり、どこか寂しくもあった。
言うだけのことは言って、ウェールズは素早く去っていく。風のような人だとルイズは思った。
入れ替わるように衛兵が声をかけ、今度はメイドがやってきた。彼女が持ってきたのは、どこかルイズが待ち望んでいた報せでもあった。
「ミス・ヴァリエール。お屋敷から使いの者が来ています」
「わかったわ、すぐ行くから待たせておいてちょうだい」
用をすませてささっと部屋を出て行くメイドを見送ってから、ルイズはティファニアに向き直る。
「サイトが起きたみたい。一度お屋敷に戻るわ」
その顔には、やってきたときとは比べ物にならないほどの笑顔があった。
「ルイズ、がんばって!」
「うん!」
きりりとした顔つきでティファニアはこぶしを握って、脇をしめたままぐっとひじを曲げて両手を掲げた。ガッツポーズの変形、タルブ前夜に才人が教えたものだった。
すごく胸が強調されるポーズをとっているティファニアに見送られ、ルイズは屋敷へと急いだ。
*
「というわけで、ここなら暖まれるはずさ!」
「なんでやねん」
意気揚々と狭い道を往くギーシュはある店の前で止まり、ばっとマントを翻す。モンモランシーは反射的に田舎なまりの強い言葉でツッコんでいた。
「とにかく入ろう」
二人のやり取りをそっけなくスルーして、五人は店の中に足を踏み入れる。看板にはこう書いてあった、『魅惑の妖精亭』と。
トリスタニアの表の顔がブルドンネ街というなら、裏の顔はチクトンネ街である。飲み屋をはじめ、どこかアングラめいた雰囲気が漂い初心者にはオススメできない通りだ。
七人が足を運んだのは、チクトンネ街が練兵場から近かったからであり、またここで暖まってついでにアルコールを入れれば才人の気分も持ち直すのではないかという、ギーシュのかるい考え故であった。
店内は半分近くの席が空いているものの、酔っ払いの熱気に包まれていて、かるいアルビオンなまりの混じった声や、トリスタニア市民特有の早口おしゃべりなんかも店をにぎやかしていた。案内に現れた給仕の制服にレイナールは面食らいながらも暖炉近くの席に陣取ることができた。
七人分のヴァン・ショーと適当なツマミを頼み、とにかく才人を暖炉に当てることにした。隣にはぴったりとケティが貼りついてしきりに背中や腕をさすっている。そんな甲斐甲斐しい姿にも才人は反応を返さず、顔色は青白いままであった。
ほどなくして木製のコップになみなみと注がれたヴァン・ショーが運ばれてきた。才人も受け取りはしたが口にすることはなくじっと手に持ち、当然彼の世話をしているケティも飲もうとはしなかった。
ギーシュたちは彼らを横目にヴァン・ショーを口にする。雨で冷えた身体にじんわりと熱が染み込み、また香辛料も温かみを与えてくれる。そこそこいいワインを使っているのか、味も悪くはなかった。
「ま、コルナスのワインほどではないね」
「プロヴァンスのワインにはかなわないな」
領地がワインの産地として知られるレイナールとギムリはなにやら対抗心を燃やしているようだが、そんなことはどうでもいいやとマリコルヌは思った。
今気にするべきは一つだけ、彼らの友である平賀才人の様子だった。
「デルフリンガー卿、なにがあったのですか?」
「戦い、負けた。それだけの話だ」
ギーシュの疑問にデルフリンガーは答えを濁す。表情は剣なのでわからないが、なにから説明すればいいのかわからない困惑が声音から感じられた。
六千年の時を往く神剣殿にも判断のつかないことがあるのかと、ギーシュはそこが不思議だった。
才人に目をやる。店員に言って毛布を借り、それをかぶせてはいるが一向に顔色はよくならない。 肉体面ではなく、精神面でなにか問題があるのかもしれない。
不安げな眼差しのケティにも答えようとせず、ただぼうっと暖炉の灯りを見つめている。いや、見つめているのかも定かではない。揺れる炎を通してもっと遠く、昔の出来事に思いをはせているように、あるいはすべての思考を放棄して夢と現の狭間を漂っているようにも見えた。
「服を乾かしたほうがいいんじゃないだろうか?」
「そういえば、兄上から濡れた服を着続けていると意味がないと聞いたことがある。きみ、ちょっといいかい?」
レイナールの指摘にもっともだと頷いたギーシュは一人の給仕を呼び止めた。腰まである長い黒髪で、愛嬌がある顔立ちの少女だった。年のころはギーシュたちとおそらく大差ない。
「ご注文でしょうか」
「いや、部屋を借りたい」
「少々お待ちください。ミ・マドモワゼルをお呼びします」
ほぼ全員が貴族のマントを羽織っているせいか、少々固い態度だった。ちらと才人に目をとめて、それからそそくさと店の奥へと引っ込んでいく。
マリコルヌはまたかまたなのかコノヤロウとひきっと顔がひきつる。ギーシュは大きく開かれた胸元に目を奪われ、それがモンモランシーに気づかれて思いっきり耳をつねられた。
少したって、やってきたのはなんとも表現しにくい黒髪の男性。
顔立ちは悪くない、余計な口紅を落としてヒゲを整えれば男前で通るだろう。ただし服装が壊滅的にアレだった。地球で言うタンクトップ、ハルケギニアではめったに見かけない類の服で、しかもピッチピチでヘソチラだった。もっじゃもじゃな黒い密林が隙間から垣間見えて、しかも筋骨隆々だからなおのこと気色悪い。
なんでこんなのがミ・マドモワゼルと呼ばれているんだと、一同はざっと座っている椅子ごとドン引きした。知らぬは暖炉をぼんやり眺めている才人と、彼の世話を焼いているケティだけだった。
「本日は魅惑の妖精亭をご利用くださいありがとうございます。店長のスカロンと申します」
「あ、ああ」
仕草はなよっとしているのに声は野太い。勘弁してくれとギーシュは天井を仰ぎたくなった。一瞬でもモンモランシー以外の娘に瞳を奪われた罰がコレだというなら、始祖はなんと残酷なのだと教会に駆け込みたくなるほど気落ちする。
「その、まことに申し訳ありませんが、当魅惑の妖精亭では妖精さんによる過度なサービスや、ご休憩の提供は行っておりません」
心底申し訳なさそうに、緊張すら感じさせる声色でスカロンは言う。
ギムリはそれでピンと来た。
「彼の服を乾かしたいだけだ。そちらの店員をどうこうしようというわけではないし、ぼくらが使うわけでもない。ほんの少し融通を利かせてくれないか」
「そういうことなら、承知しました」
スカロンは目に見えてほっとした様子だった。けれど、ギムリを除く一行はまったく理解した風ではない。なにを言っているんだろうこいつらはと、顔中に疑問符が貼りついていた。
「貴族の権威と力ってやつを傘に来てやりたい放題するやつがたまにいるらしいぜ? 例えば健全な店の女性を手篭めにしたりな」
「な、な、そんな腐ったような」
「事実さレイナール。じゃなきゃ店長さんもこんなにビビってなかっただろうよ」
レイナールがスカロンに目を向けると困った顔をされた。つまりはそういうことかと、ため息をつくしかない。
「では、お連れ様をご案内しますね。平民のものでよければ服も貸しますが」
「ああ、いや買うよ。これで頼む」
すっとマリコルヌは一エキュー金貨をスカロンに手渡した。平民の服なんて銀貨数枚で買えるものがほとんどで、金勘定に長けたレイナールは彼をひじで小突いたが、マリコルヌはそしらぬ顔であった。
「貴族さま、これほどの服はウチにありません」
「いいんだ。それより早く彼を頼む」
最初スカロンは困惑して返そうとしたけれど、マリコルヌは頑として受け取らない。腕組みまでして頑固親父然とした態度をかもし出していた。
「こいつは言い出したら聞かないから、早いとこ部屋へ連れて行ってくれ」
「じゃ、ぼくが付き添うか」
「わたしが行きます。ギーシュさまはいらないです」
「い、いらな……」
かつて仲の良かった少女のあんまりな扱いにガーンとショックを受け、うなだれるギーシュの背中をよしよしとモンモランシーが叩く。ケティはふっと金髪の少女と目をあわし、邪悪な笑みを送った。
『先輩、せいぜいギーシュさまとお幸せに』
目は口ほどにものを言う、との言葉があるが、実際にそれを実感できたのは彼女の十七年の人生の中はじめてであった。
――ケティ、おそろしい子!
ちょっと前までは純真だった栗毛の少女になにがあったのか、モンモランシーはわなわな震えるしかできない。
そんな乙女たちのやり取りを聞き流しつつ、マリコルヌの説得をあきらめたスカロンは才人に目をやった。
そこで、ぴくりと震え、確認するように声をかけた。
「あら、ひょっとしてあなたサイトくん?」
「え?」
それまで踊る火を見ていた才人が明白な反応を示した。振り向いて、スカロンの黒髪に目が留まる。
「シエスタちゃんから話は聞いたわよ。武雄おじいちゃんと同郷なんですってね」
「あ……」
「はじめまして。シエスタの叔父のスカロンよ」
とりあえず部屋に案内するわと、スカロンはフロアをやけに女性的な歩みで進んでいく。
「サイトさま、いきましょう」
ケティが才人の手をとって立ち上がらせ、そのまま手をつないだまま行ってしまった。
かつては奥手だった面影がまったくない。
――今のケティとギーシュの取り合いになってたら。
きっと勝ち目はない。まだ落ち込んでいるギーシュの背中をさすりながら、良かったなあとなんとなく思って、そんなんじゃないと腹が立ってきてパシンと背を叩いた。
「マリコルヌ、お金は大事にしたほうがいいぞ」
「昔サイトが言ってたんだ。『釣りはいらねぇ、とっとけ』っていうのがカッコよくてきっとモテるって」
「それ、確か渋い人限定って言ってたよね?」
「そうだっけ」
「確かそう」
「……くそっ!!」
マリコルヌはどこまでも平常運転であった。
一方店の奥、二階に通された才人たちは狭いベッドルームでスカロンを待っていた。
清掃は行き届いているのかホコリは見当たらないけれど、ボロさは隠し切れていない。ベッドがでんと壁に寄せてあって、他にはロウソクと小さなカゴしか置いてなかった。平民の居酒屋なんてこんなものかとため息をついて、ケティはベッドに、才人の隣に腰を下ろす。
「なんだかベッドしかない部屋に二人っきりってドキドキしませんか?」
ケティのジャブにも顔色ひとつ変えない。
タルブ以前、魔法学院で少しだけ時間をともにしていた頃なら、あたふたと慌てて流されると思っていた。けれど今は違う。
――これだけ反応されないと、ツェルプストー先輩から教わったことも試せない。
優秀な『火』のメイジであり、情熱をその身にもてあましているキュルケとケティは、元々親交がなかった。はじめて喋ったのは才人と出会ってから。それ以来、実は面倒見のいい先輩をケティは慕っていた。ついでに見習わなくていいところまで積極的に取り入れている。
「サイトさま」
少しだけ空けていた距離をつめ、ぴったりと寄り添う。彼の顔を見ても、視線の先はようとして知れない。どうすればいつもの彼に戻ってくれるだろうかと、ケティは思い悩む。
――いっそ押し倒すくらいしたらいいのかな。
男女の仲における究極手段としてキュルケから教わっている。
ケティも子どもじゃない。貴族の務めとして子をなすことはお家の大事である。そういった行為の末、ああなってこうなってゴニョゴニョなるのはもちろん百も承知であった。
身をささげてもいいくらいには才人のことを好いている、いや、狂信しているケティは、そういう思考しつつも実際に行動にうつすことはない。
こんなところでことを起こしてもすぐに邪魔が入るだろうし、なにより先走って才人に嫌われたくはなかった。今は雌伏のときだと自分を抑え、じっくりと、ときに激しくアプローチをかける計画が頭の中にはすでにある。
――まだ慌てるような時間じゃない。
才人が何度か口にしていたフレーズがすっと頭に思い浮かぶ。そのときの彼は、腰を落としてみなをなだめるように手を突き出していたけれど、さすがにそこまでまねする気にはなれなかった。恋する乙女は複雑怪奇なのだ。
かるく才人のほうによりかかる。服が濡れてもかまわなかった。
――今はこれだけでいいや。
負担にならないほどそっと体重をかける。それだけで不思議なほど心のうちからこみ上げてくるものがあって、落ち込んでいる才人には悪いが満足した。
ふわふわした気分のケティはノック音を聞いた。またあのオカマっぽいおっさんかと身構えてから入室を促し、拍子抜けした。
入ってきたのはギーシュが声をかけた黒髪の給仕だったのだ。
「服をお持ちしました」
よくよく見ると彼女はスタイルがいい。キュルケほどではないにしろ、ケティよりは遥かに強そうだ。違う意味で身構えてしまいそうになる。
そんなケティの内心など当然知るはずもなく、給仕は服を置いて、それからケティのほうを見た。
ケティもなんとなく彼女と目を合わせる。それきり、なぜか声を出すことも泣く二人は互いにじっと見つめあう。変な沈黙がその場にはあった。
「あの」
「なに?」
「出られないのですか?」
「わたしにはサイトさまのお着替えを手伝うという崇高な使命があります」
給仕の娘は崇高の意味が知らない間に変わったのかと一瞬きょとんとしてしまう。それから、ああと納得した風でそそくさと部屋を出て行った。
「というわけでサイトさま、お着替えしましょうっ!」
「……」
なにが嬉しいのかケティはムダに滑らかな動きで手をわきわきさせ、才人に迫ってくる。表情はゆるみっぱなしで年頃のレディーがするのにふさわしいものではない。
才人は立ち上がり、ケティの肩をつかんで、そっと背中を押し部屋の外へと追いやった。
――慌てる時間じゃないって思ってたのにッ!
廊下ではケティががっくり膝をついていた。
黒髪の少女が持ってきた服を見て、のろのろと才人は服を脱いだ。肌に貼りついていた生地の感触が消え、ひどい寒気を感じた。
麻のシャツを着ると幾分和らいだが、部屋から出て行く気にはなれなかった。手放すなとは言われていたデルフリンガーも今はそばにいない、ギーシュたちが預かっている。
バネもなにもない木のベッドに腰を落とす。階下からは陽気な声が聞こえる。とてもそれに耳を傾けられるような気分ではなかった。
「ゼッサールさん、か……」
時をおいたせいか、着替えたせいか、気持ちは幾分持ち直し、さきほどのことを思い出した。剣を交えた壮年の貴族の名を口の中でころがす。
あれを決闘と呼ぶにはお粗末すぎた。殺意はみじんもなかった、彼は才人を殺す気なんて最初からなかったのだ。弱者をいたぶろうという下種な人物でもないように見えた。
魔法学院でのカリーヌや、タルブでのワルドと同じく、あれは調練だったのだろう。
――なんでだ。
才人にはそれがわからない。
あんな雨の中わざわざひと気のない練兵場に来て、戦って。ゼッサールはなにがしたかったのか。
続いて頭の隅から沸いて出たのはワルドのこと。
タルブでの戦い、途中から彼に意思が戻りつつあるのを才人は気づいていた。でも止まることはできなかった、ルーンの咆哮と死にたくないという思いで剣をとめることは。
そのことは才人とデルフリンガーしか知らない。
いつか言おうと言葉を胸にしまい、両手で顔を覆う。こうしてゆっくり呼吸しているだけでマシにはなりそうだ。
――人を殺した。
それも命の恩人であった人物を。
デルフリンガーはすでに死体であったというが、彼にはかすかながらも意思が残っていた。血は出なくとも人の形をしていた。訓練ではありえない肉を裂いた感触はいまだにこの両手にこびりついている。
なら、それは人間だと才人は思う。
異世界に来て、戦って、挙句の果てには人を殺して。運命というのは残酷に過ぎる。いや――。
「運命とは地獄の機械である、だっけか」
口にしたのはとあるマンガのフレーズ、元はフランスの詩人の言葉。目にしたのはだいぶ前のこと、それでも不可思議に頭へ刻み込まれたものであった。
――あの人は、なにを思ってそう言ったんだろ。
マンガの登場人物の内心を、すべて推し量るなど平賀才人にはできない。
けれど、そう口にしたくなるのはわかった。
――運命なんてロクなもんじゃない。
どさっとベッドに身体を投げ出す。木造の天井越しに雨の音が響いて、通りを行く人々の声は消されている。
雨のにおいを胸いっぱいに吸い込んで、吐き出そうとした。
「やっほー!」
「どぅぇぃ!?」
「驚かせちゃったかなー。ま、いいけど」
ノックもなし、バタンと勢いよくドアを開け、黒髪の少女が飛び込んできた。
「ふむ」
「……なに?」
「ふつうね」
飛び起きた才人をじろじろと眺め、少女はすぱっと断言した。
「シエスタから聞いてたもんでもーちょっといい男かなあと思ってたのよ。恋は盲目って言うしこんなもんかあ」
ものすごく失礼なことを言われている気がする。
ちょっぴりむかっときた才人は、なんだこいつこのやろうと思いながら、少女に向き直った。
「あたしジェシカ、シエスタの母方の従妹よ。よろしくね」
「シエスタの……あ、俺は平賀才人」
言われて見れば似ている。ジェシカは黒髪黒目だし、顔立ちも鼻が低くてどこか日本人の特徴を残していた。
それと魅惑の妖精亭の制服のせいで胸元が開いている。胸の大きさまで似ているとは、と変なところに感心した。
「とりあえずこれサービスね。お連れさんはなんだかんだ楽しくやってるからここで食べちゃいなさいよ」
ベッドに腰掛けて自分の膝の上にジェシカはお盆を置く。そこには深い器に色んな食材が切られたものと、平皿にのせられ黒い液体がかかった白い直方体、最後に房付きの豆が載っていた。
「ひいおじいちゃんと出身地同じなんでしょ? 普段は店に出さないけどパパが特別にって」
「あ、ああ」
「はい、あーん」
「って、それは恥ずかしい!」
店ならこれでチップとれるのになーとぼやきながら、ジェシカは深皿とスプーンを手渡した。
勧められるままに才人は口をつける。懐かしい味がした。
「これって」
「タルブ名物ヨシェナベよ。ウチの冬場の主力料理なんだから」
日本で、自宅で口にしたのとは違って味が薄い。入っている食材も多くないし、肉もない。それでもじんわり心にしみる暖かさだった。
「おいしい」
「でしょ? ジェシカさんお手製の目玉商品だからね」
カラカラと笑いながら才人の背中を叩く。
そっちもいいけどと器をひったくられ、平皿を渡された。同じく木のスプーンですくい、口に入れた。
「ひいおじいちゃん、それ作るのにだいぶ苦労したって聞いたわ。よくわかんないけど海に水汲みに行って、豆を色々蒸したりとかして。十年くらいかけてできたんだって。かかってるのは魚醤ね。名前はヤッコ」
ジェシカの解説を聞きながらスプーンが止まらない。
魚醤は才人の知る醤油と味わいが違っていた。でも懐かしい。一息に平らげて、ヨシェナベのほうもすぐ器を空にしてしまった。
残されたのは房付きの豆。
「枝豆……」
「やっぱり知ってるんだ。豆なんてあんま食べるものじゃないのに」
ハルケギニアで豆といえば家畜用の飼料として使われることが多い。食べるにしてもポタージュをはじめ、加工してしまうことがほとんどだ。
若い大豆をとって、塩ゆでにするだけのシンプルな調理法。美味しいとは最初誰も思わなかった。口にすると案外いけることがわかって、今では魅惑の妖精亭で愛されている。
「やっぱおなか空いてたんでしょーって、なんで泣いてるの?」
口にしたものすべてが懐かしく、気づかぬうちに才人は涙をこぼしていた。ジェシカに言われて気がついて、ぬぐってもぬぐっても止まらない。
仕方ないなあと弟に対するような態度で、ジェシカはハンカチを目元に当てる。それでも涙は止まらなかった。
「なんか辛いことあったんでしょ? そういうときは思いっきり泣くのがいいのよ」
よしよしとジェシカは頭をなでて、才人を自分の胸へと導いた。傷ついた才人には、人のぬくもりがこれ以上ないほど気持ちよかった。
やがて泣き止んだ才人は、ゆっくりとジェシカから離れる。
「その、ありがと」
恥ずかしそうにお礼を言う彼に、ジェシカはにっこり笑った。
「十エキューになります」
「金とるの!?」
「うそうそ、盛大に飲み食いしてお店の売り上げに貢献してくれるとお姉さん助かっちゃうかなー」
そういってジェシカはけらけら明るく笑い飛ばす。
見ているだけで元気を分けてもらえそうな、そんな快活な笑いだった。才人もぐしぐしと袖でこすって、勢いよく立ち上がった。
「あーもう、最近泣いてばっかりだ」
「いいじゃんいいじゃん、泣けるうちに泣いとけば。大人になるとできなくって酒に逃げはじめるんだからさ。ま、シエスタもいるし優しいご主人さまとやらもいるらしいじゃない。色々と話せばもっと楽になるわよ」
そんでウチを使ってくれると嬉しいなーと、どこまでもジェシカはマイペースに笑う。
「ジェシカ、ありがとう」
「どういたしまして」
気分も持ち直したので才人は部屋を出て、階段を下りた。フロアに戻った才人を待っていたのは奇妙な面子と空気であった。
「お、元気になったみたいだな」
ケティがどんより落ち込んでいる。五杯ほど空のジョッキが並べられた机にべちゃっと突っ伏し、「ツェルプストー先輩、ダメじゃないですか」とか「もっと清純さを前面に」だとかをぶつぶつ呟いて、対面に座っているモンモランシーも微妙な表情をしている。
声をかけてきたギムリと他三人は見慣れない青年たちと席をともにしていた。
「ヒラガ殿、お久しぶりであります」
いきなりアルビオン空軍式の敬礼をされた才人は、なにが起きているのかわからなかった。
目の前の人物にも、その後ろに立つ二人の軍人も、才人は見覚えなんてない。金髪碧眼で、才人よりもだいぶ背が高い。察するに軍属の人物、それもなかなかの使い手であるように見えた。
「あの、どこでお会いしましたっけ?」
「あのときは確か気を失っておられましたな。数日後、ヒラガ殿の部隊に配属されるクラーク・ウエイト。元ビーフィーター第四十四分隊隊長であります」
握手を求められたので返す。見た目にたがわずごつごつした大きな手だった。
「タルブで相棒を運んでくれたのはなにを隠そうウエイト殿だ。しっかりと礼を言うように。礼節を欠いては人の世はとんと渡りづらいもので、あれは今から三千二百年ほど前のことであったが……」
「ありがとうございます、ウエイトさん」
「いえ、当然のことをしたまでです」
デルフリンガーがいつもどおり長話をしはじめたのを聞き流しつつ、才人も席に着いた。
「たまたま騎士隊の名づけ議論が聞こえて席をうつってきたというわけさ」
「小官としては天空聖盾騎士隊というのが良いかと」
「いやいや、アルビオンっぽすぎるじゃないですか。トリステインの近衛隊ですよ水精霊騎士隊は」
「嫉妬隊と言っておろうに!」
順調にお酒も進んでいるようで、この場で酔っ払っていないものはいないようだ。なんだかんだ楽しくやってるってこういう意味かと、いまさらながらジェシカの言っていた言葉がわかった。
ギーシュたちが手にしているのはワインのコップで、ウエイトたちアルビオン軍人はビールのジョッキを何杯も空けている。
ウエイトもジョッキを口にし、そのまま飲み干してしまった。金色の口ひげにはさらにビールの白ヒゲがついている。それに気づかず彼はウィンナーを口に運び、旨そうに咀嚼した。
「うん、トリスタニアは飯が旨くていい」
「ロンディニウムではこうはいきませんからね」
「そこだけがアルビオンの欠点だなあ」
アルビオンは飯がまずい。それは万国共通の認識であった。
まず天空にあるから物資の輸送がしにくい。次に標高がありすぎて育成する作物が限定される。最後にアルビオン人の舌はお世辞にも優れているとはいえない。
この三つの要素のせいでメシマズのレッテルを長年貼り続けられ、しかも全部事実だから反論の仕様がない。貴族に限って言えばそんなこともないが、平民がロンディニウムで美味い飯を食いたければ自炊か外国人の店で食えとまで言われている。
ウィンナーにそんな味の差があるとは思えない才人だったが、あえては口にしなかった。本人たちもまずいまずいとむしろ嬉しそうに文句を言っているから、一種ジョークみたいなもんだろうと。
自分もビールを頼んで、一気に飲み干す。
「にが」
「まだまだヒラガ殿には早いでしょう。アルビオンのビールは大人の嗜みですからな!」
才人にとってあまり美味しくないビールを、アルビオンの大人は喉を鳴らして実に幸せそうな顔で飲み干していく。
向き不向きかと諦めてギーシュたちの飲むワインに手を伸ばした。渋みも少なく、甘くないブドウジュースみたいだった。
「俺はこのくらいのワインでいいや」
「けっこう若いワインだな、悪くない」
「げ、これグランドプレのじゃないか」
「ここ数年ではじめたのさ」
だがプロヴァンスのワインが一番だ、いやコルナスのワインだと議論しあうレイナールとギムリ。
その光景はどこか懐かしくて、魔法学院での時間を思い出す。
「しかし、落ち込んでいたと聞きましたが、持ち直したようでよかった」
「ヒラガ殿、あなたはウェールズ殿下の命を救いました。殿下に多大な恩のある我らにとっても命の恩人同然」
「アルビオン軍人の誰もが望み、それでもできなかったことをあなたは成し遂げたのです。そのことをもっと誇っていただきたい」
ウエイトと二人のアルビオン人はじっと才人の瞳を見ながら言う。そこに暗い感情はなく、真に感謝の気持ちと才人への思いやりがあった。
じわりと心のうちが暖かくなってくる。さっきの料理も故郷の味がして嬉しかった、けれど、真っ向から感謝されるのも嬉しいものだと、才人はまた泣きそうになってしまった。
こみあげそうな涙をこらえながら、力強く頷いた。
ウエイトはにやっと笑う。
「それにあなたが謙虚でいると、下につく我々が威張れませんからな」
「そりゃ言えてるや!」
「偉そうにするのは隊長たるぼくにまかせて、きみは謙虚に生きてもいいんだぜ?」
「きみは偉そうにしててもマヌケに見えそうだな」
「失礼だなギムリ!」
どっと笑い声があがる。レイナールがコップをかかげる。
「では改めて、騎士隊の結成を祝って。乾杯!」
『乾杯!』
互いのコップ、ジョッキをぶつけ合い、高らかに宴の再開を告げる。
それから色んなことを語り合った。アルビオン、トリステイン名物、故郷の祭り、それぞれの家族。話題は尽きない。途中からはケティとモンモランシーも合流して楽しいひとときを過ごした。
「小官にも五歳になる娘がいますからな。ここらで武勇伝をつくっておかねば」
「ウエイト分隊長の娘さんはかわいい盛りですからね。尊敬される父上として武功の一つも立てないと」
「娘さんをぼくにください!」
「……マリコルヌ」
みんなが笑う。釣られて才人も笑う。
こんな幸せな時間がずっと続けばいいと、心の底からそう思う。
だというのに――――
――どうしてこんなときに心臓が痛むのだろう。
「相棒!」
デルフリンガーが叫ぶ。間髪いれず抜き払う。
店の中央へ振り返ると、そこには彼女がたたずんでいる。
「サイ、なっ!?」
注意の言葉をレイナールは声にできなかった。
店中の視線が才人に突き刺さり、次いで黒の少女のもとへと集まる。
ウエイトたちアルビオン人は、魔法学院の生徒を背にかばい、静かに杖を抜いた。
才人は踏み出さない。ここには数十人の平民がいる。そんなところで争いになれば、何人死ぬかわからない。だから斬り込むことができない。
異様な冷気がフロアを覆う。
赤々と燃えていた暖炉の火は消え、マジックランプも次々と明かりを落としていく。
誰もが喋れない、誰もが動けない。指一本でも動かしてしまえば殺される、そんな錯覚すら抱いてしまうほどに空気は重い。
最後のマジックランプの明かりがかき消え店内を漆黒が支配する。
隣人の息遣いさえ聞こえてきそうな暗闇は、それほど長くは続かなかった。
一斉にランプが火を灯す。消えていたはずの暖炉までもがめらめらと燃えている。
店の中央にいた少女は影すら残さず姿を消していた。
心臓にも左手にも痛みはない。止まっていた息を大きく吐き出す。
「あ、あの子まさか……」
「だいじょうぶだよ、ぼくのモンモランシー」
ギーシュは震えるモンモランシーを抱きしめながら、ギムリに目を送る。
「まだ近くにいるかもしれねえ。三人一組で探そう」
「小官らはこの三人で裏を見てくる」
「サイト、ギムリ、ぼくらは表だ。レイナールはギーシュたちを見ててくれ」
「わたしも行きます!」
「ダメだケティ。これは危険すぎる。いこうみんな」
才人の言葉にみな頷き、魅惑の妖精亭を飛び出す。
後に宵闇を纏う少女が、メアリー・スーがトリスタニアに狂気と混乱を導く最初の出来事であった。