巫女の出没、その報せは雷光より速くトリスタニア中を駆け巡る。王宮に仕える貴族は元より、軍の編成を急ぐ大貴族やタルブ戦に参加していた末端の兵、邪神との戦いに身をおくすべての者が耳にしていた。
また人の口を閉ざすことはできず、目撃者がそれなりの数いたこともあって情報は平民にまで広がっている。邪教の巫女であることや、ロシュフォール伯の長女であるといった具体的な情報こそないものの、魅惑の妖精亭という中堅の飲み屋に現れた不気味な少女と、それに付随した現象のことは噂好きなタニアっ子の口にのぼり、昨夜のことだというのに挨拶代わりの話となるほど広まっている。
王宮の一室ではアンリエッタとマザリーニが頭を抱えていた。原因は言うまでもなくメアリーのことである。
メイジはまだいい、問題は平民に知られてしまったことだ。
今はトリスタニアに平賀才人が、周囲五リーグの狂気を緩和するリーヴスラシルがいるから問題はない。ただ、彼が今後王都を離れた際、どれほどの平民が狂気に陥るか、まったく予想がつかない。
そもそもどれほど邪神に関れば向こう側に足を踏み入れたことになるのか、それを試したものはこの六千年の間に存在しない。闇を覗き込むとき、その者もまた闇に見られている。始祖ブリミルの教えによってそういった手段は禁忌とされていた。
不明瞭な境界線を好き勝手に予想すれば必ず希望的観測が含まれ、最悪の事態を引き起こすだろう。
「平民対策はどうすればいいかしら、マザリーニ」
「私のもつ知識では予測がつきませぬ。教皇聖下におたずねするのがよろしいかと」
「時間がないわ。邪神は待ってくれない」
「……王は時として非情な判断を下さねばなりません」
「わたくしはまだ女王ではありません」
「いずれそうなります」
マザリーニは目撃者の処分を暗に勧める。
魅惑の妖精亭で働くものをはじめ、昨夜その場に居合わせた平民をすべて殺す。そうすることで狂気の拡散を防ぐことができると、聖職者らしからぬ言葉だった。そうまでしなければ勝ち得ない戦いだと知っているからこその言葉でもあった。
アンリエッタには到底それを受け入れられない。
彼女は、トリステイン王族に伝わる秘術で変わりはしたが、生来優しい性格の少女だ。ルイズの前でこそ、親友の前だからこそ王族然とした態度で才人の罪を罰さねばならないと言ったけれど、それすらも辛くはあった。罪もない平民を巫女を目撃しただけという、彼らからすればほとんど言いがかりに近い理由で処理するなど、許容したくはない。
たとえ大局を見ればそれが正しいと理解していてもだ。
「巫女への対策は?」
「先ほど来たヒラガ殿直属部隊と魔法衛士隊の一部、それと実験小隊に銃士隊も試験的に導入しています」
大型の幻獣に騎乗し、格闘から魔法まで王国を護るためあらゆる技術を修めた精鋭中の精鋭である魔法衛士隊は、トリステインの王家が直接的に統率する最強の部隊である。
そしてメンヌヴィルが隊長をつとめるリッシュモン子飼いの通称実験小隊は、魔法の力量こそ魔法衛士隊に劣るが対邪神のエキスパートであり、その経験を基にした任務遂行能力はこの事態にあってなによりも重要なもので、ある種切り札めいた存在でもあった。
最後に、アニエス率いる平民女性専門部隊である銃士隊。名目上平民部隊となっているが、誰もがかすかにメイジの血を引いていて、さらに隊長のアニエスは『炎蛇』のジャン・コルベールが二十年近くも鍛え上げた祝福の子であり、その力は並みの魔法衛士を退ける。
魔法衛士隊が貴族街周辺を監視し、まだお披露目されていない銃士隊は平民にまぎれて噂を制御し、実験小隊が暗がりに潜む巫女を探り当てる。
各々が職分を果たせば上手く機能するはずだと、差配をにぎったマザリーニは確信している。たとえ邪神が想像の上を往く存在だろうと人類は負けぬと。
「そう、成果が出ればいいのだけれど」
「成果は出すものです。各国への書簡は?」
「ついさっき出したわ。手紙一つ送るのに風竜と衛士三人も使って」
「情報の伝達は重要ですぞ。特にアレらを相手にするときは」
「わかっています。ただ愚痴を言いたかっただけ」
あまり納得のいっていない様子のアンリエッタを見て、マザリーニはため息をつきそうになった。彼とて貴重な戦力をよそに回したくはないのだ。
しかし、情報を甘く見ることはできない。太古より情報を制したものこそが戦の勝者となるのだ。
邪神はそれを弄ぶ。出したはずの書簡は届かず、内容をすりかえられていることすらあった。
苦杯を舐めさせられたハルケギニア諸国はそのことを学習し、重要なことは“伝声”を使うことなく複数人の精鋭が運ぶ手紙か、直接会って交換することにしていた。
思わずついて出るため息をすんでのところでマザリーニはこらえた。上に立つものが弱っている姿を見せるわけにはいかない。平時なら良くても、今は非常事態だ。臣下の心を安定させるためにも歯を食いしばって耐えねばならない。
タルブでの大敗、先の短いリッシュモン、トリスタニアに出没した巫女、頭痛の種はいくらでもある。
これ以上増えてほしくはなかった。その願いも始祖には通じない。
「ド・ゼッサール様ご来訪!」
衛兵がドアの外から声を張り上げる。
マザリーニと国防機密について話し合うということでアンリエッタの執務室は人払いをしていた。衛兵にも、非常時以外には誰も通すなと通知しておいた。
それをおしてまでの用件をマンティコア隊隊長は持ってきたということだろう。二人は目配せして、それから入室をうながす。
入室したゼッサールは丁寧に一礼して挨拶もそこそこに、話を切り出した。
「殿下、枢機卿、私は許可なくガンダールヴ殿と決闘を行い、敗れました。罰をお与えください」
寝耳に水な報告にアンリエッタは一見平静さを保っている。それも長年仕えたマザリーニには、動揺を無理やり推しとどめているのがわかった。
「ゼッサール殿、あなたは理由もなくこのような暴挙を行う御仁ではなかったと記憶しています」
戦闘力だけを見れば、マンティコア隊は魔法衛士隊の中でも最強の部隊である。生半可な人物ではその隊長職どころか、隊員になることすら困難だ。
その訓練だけでなく隊則も厳しく、鋼鉄の規律としてトリステイン王国中に知られている。ゼッサールは二十年以上もそこで隊長を務めたのだ。そんな人物が長年守ってきた規律に背いてまで決闘を行うなど、なにかあったと思わぬほうが難しい。
静かな王女の言葉に、壮年の貴族は目を見てはっきりと言い放つ。
「魔法学院で異星から呼ばれたガンダールヴ殿、彼が我が弟子にして元グリフォン隊隊長でもあったワルド子爵の後を託すにふさわしい人物か、自らの手で試したかったのです。私的な怨恨が含まれていることは否定できません」
これまでの働きぶり、それと理知の光が灯る瞳は、そのような理由で決闘に挑む人物であるはずがないとアンリエッタに確信させる。
「凡百の貴族ならいざ知らず、その程度の嘘で王女を欺こうとは。ゼッサール殿も歳をとりましたね」
「嘘は申しておりません」
王族に対する虚偽は死罪である。そうでなくともゼッサールはこれまでに鋼鉄の規律を守ってきた矜持があるはずだ。
アンリエッタの揺さぶりにも一切の焦りを示さずただ毅然とたたずんでいる。彼は嘘をついているのではなく真実を隠していると、アンリエッタはそうとらえた。
同時に浮かぶ疑問は、何故直截的に言わないのかということ。そこまで思考が進み、あることに気づいてマザリーニに目をやった。彼も思い当たったのか無言で頷く。
「わかりました、処分は追って下します。今は職務に戻りなさい」
来たとき同様、ゼッサールは一礼して退室する。
「マザリーニ、この後の予定は?」
「軍の再編についてグラモン元帥たちとの会議が入っています」
「動かなければ考えが詰まってしまうわ。会議室に行きます」
彼が去った数分後、アンリエッタとマザリーニも部屋を出た。
平時の淑やかさは欠片もなく、彼女は大またで廊下を歩く。横顔には苛立ちが見てとれた。
「なめたマネをしてくれるわね」
「見られていたか聞かれていたか、あるいは両方か。そのような魔法の使い手は限られるでしょう。すぐに手配を」
「ええ、こんなときに余計な仕事を増やして……!」
盗聴や透視の類は動いている対象には使いづらい。官吏が行き来しているとはいえ、筒抜けの部屋で話しているよりはマシだという判断のもと、二人は歩きながら 互いにギリギリ聞き取れる程度の声でささやきあう。
ゼッサールはおそらく異なる件の報告に来たのだろう。そしてアンリエッタの執務室になんらかの仕掛けが施されていることに気づいた。このまま話しては目に見えぬ敵に気取られると察知し、遠まわしに危機を伝えたのだ。
決闘を行ったかどうかもわからない。もし事実行っていたとしても他の意図があったに違いないと彼女は考える。
いまや国を牽引する王女は忠臣に心の中で感謝し、なおも思考を重ねていく。
ガンダールヴ、決闘、敗北、罰、魔法学院、異星出身、グリフォン隊、ワルド子爵、私的な怨恨。ゼッサールの言葉を今一度整理する。
才人に関連するものと戦いや王宮にまつわる言葉が多い。おそらく彼に関することがらなのだろうとアタリをつける。
決闘、ガンダールヴと決闘を行ったのはグラモン家四男とワルド子爵、それとゼッサール隊長の三人。いずれも軍に近い人間だということしか共通点がない。
敗北、ガンダールヴだけでなく、ハルケギニアは負け続けている。大きな敗北はニューカッスルとタルブ、それ以外もアルビオンでは数え切れないだろうが一度そこで留め置く。
罰、アンリエッタは才人に罰を与えようとしていた。それは規律を守るため、なにより彼の暴走を防ぐために必要なことである。公表していない件がもれたのかもしれない。
魔法学院、ルイズたちが在籍していた。ここ最近耳に入ったのは、教団による生徒の失踪事件。ラ・ロッタの長女しか帰ったものはいない。それとタルブで倒れたオールド・オスマン、いずれも邪神につながる。
異星出身、才人に関するものだ。これ以上はわからない。
グリフォン隊、ワルド子爵、二つとも魔法衛士隊に関連している。ワルド子爵は教団に対する潜入工作を行っていた。
私的な怨恨、最後につけたされたこの言葉はおそらく重要だ。しかし才人に恨みを抱くような人物に心当たりはない。
そこまで考えて、二人は会議室についた。
中にはすでにグラモン元帥はじめ、ポワチエ将軍やゲルマニアから参戦しているハルデンベルグ侯爵が座っている。
とりあえずは目の前にある問題を処理しようとアンリエッタは頭を切り替えた。
―――安らぎなき魂は悲鳴に濡れ―――
アンリエッタが王宮で損害報告に頭を痛めているころ、ラ・ヴァリエールの屋敷の一室ではまったく違った空気が醸成されていた。
大きな窓からはしとしと降る雨が見える。そのすぐそば、白いテーブルクロスをかぶせた丸いテーブルに二つのイス。湯気の立つティーカップには琥珀色の薫り高い液体が入っていて、四角い平皿にはお茶請けのクッキーも並べられている。
まだ昼食前なのでティータイムという時間ではない。なのにこうして才人が紅茶を前にしているのは、普段よりももじもじとした桃髪の少女のせいだ。ティーセットを配膳して、彼女に向けてやけにいい笑顔でぐっと親指を立てて出て行ったシエスタの行動の意味がよくわからない。
昨晩、ルイズは才人を待っていた。魅惑の妖精亭周囲の探索をしていたため、そこそこ遅い時間だというのに待ってくれていた。無駄な明かりを落とされた薄暗い部屋で座っていたのは怪談じみていて、若干才人は恐怖を覚えたのは余談である。
とかく夜も遅いので寝るべきだと言った彼に、明日の朝時間をとってほしいという旨を伝えて、しょぼしょぼ目をこすりながら自室に帰っていった。
明けて今、こうして二人は向き合っているけれど会話はない。ルイズは紅茶に手をつけようとせず、なんとなく才人もそれにならって、膝の上に握りこぶしを置いたりなんかして、ちょっぴり緊張気味だ。
互いに動けないでいる空間、なんでこんなことになってるんだろうと才人は思う。
ルイズとしては昨日のティファニアのアドバイスどおり才人と話す機会をもとうと努力したのだ。でもそれだけ、そこから先なにを話すかなんてまったく決めてなくて、だからこそなにも言い出せない。
二人してじっとティーカップに目を落としている。なんとも微笑ましい光景だった。
部屋の外では貴族と平民の色恋沙汰を必死に聞こうとして、ドアに耳をあてていたシエスタがお屋敷のメイドに追い払われていたことも知らず、二人は黙ったまま。
しばらく時間がたって、二人ともじれてきたのか顔を上げた。
その瞬間に視線が交差して、口を開きかけてまた閉じてしまう。何度かそんなやり取りを繰り返して、どちらともなく笑い声をあげた。
才人は久々にルイズの笑顔を見たように思う。ルイズも才人が元気なようで安堵する。
「良かった。サイトが無事で」
本心からの言葉がこぼれ落ちる。一度口にしてしまえば、あとは流れるように声になった。
「サイト、ありがとう。わたしの召喚に答えてくれて。無理やり契約したのに戦ってくれて。本当に感謝してる、あなたが来てくれてよかった」
思い出すのは抜けるような青空。銀のゲートをくぐってきたのは黒髪の、どこの誰とも知れない平民だった。彼女の頭にはガンダールヴのルーンが刻まれるかということしかなく、素性など気にもとめなかった。契約した。
冷静になって、自身の罪深さに涙が出た。その涙すら少年はぬぐってくれた。
それでも魔法学院で、ニューカッスルで、タルブで、平賀才人は打ちのめされながらもこうして前に進んでいる。
彼女の使い魔は、いや、隣に立つべき少年はもう彼以外に想像できなかった。
純粋な感謝の意思に、才人は恥ずかしげに頬をかいている。
そこまではしゃべって、ルイズは肩を落とした。明らかに落ち込んだ顔で紅茶に口をつける。
「どうした?」
「わたし、サイトになにもしてあげてないから」
才人は召喚に応えた。そしてこの世ならざる戦いに身を投じている。
それに対してルイズはなにも返していない。衣食住の保障とお小遣いくらいは渡しているけれど、言ってしまえばそれだけだ。
才人の現在に至るまでの功績といえば、ニューカッスルで次期アルビオン王のウェールズ皇太子を救出し、タルブでは『閃光』の二つ名を持つトリステイン五指に入るメイジ、ワルド子爵の亡者を討伐した。
虚無の使い魔の恩恵こそあるものの、ゲルマニアなら貴族に叙せられるだろう勲功だ。トリステインであってもシュヴァリエ、もしくは一代特別位を授けられてもおかしくないのに、褒賞や土地の類をルイズは与えることができない。
使い魔の功は主人の功といえど、才人には一個人としての意思がある。それに報いることができないのはルイズにとってつらいことだった。
ルイズはそう言うが、才人の考えは違う。
「そんな気にしなくていいよ」
「でも……」
「なんていうかさ。運命とか奇跡だとか、すごいこと言ってたのに全然役に立ててないし」
頭の後ろで腕組みしながらのんきにのたまう。自分の成したことがどれほど偉大なのかわかっていないのか、それともわかっていてやっているのか、ルイズにはわからない。
「ダメ、サイトはもっと欲ばらないと」
それでもルイズは食い下がる。欲ばれなんて言われたのは生まれてこの方なかったと才人は苦笑するしかない。
「じゃあさ。この戦いが終わったらデルフと旅に出るつもりなんだ。悪いけどそのお金出してくれない?」
「旅?」
「そ、気ままな観光旅行。六千年も生きてるから色々知ってるし、ガイドにはぴったりだろ?」
神剣を観光ガイドにするだなんて、ルイズは聞いたことがない。そのありようがどうしようもなく才人らしくて、思わず笑みがこぼれた。
「いいわ。けどわたしもついていくから」
「あーだったらギーシュたちも自腹切らして連れて行くか。大所帯でわいわいやるのも楽しそうだ」
今はまだ見えない光景がルイズのまぶたの裏に映る。暖かな陽光の下、大きな馬車が街道を走る。
御者はシエスタに任せて、自分の馬車には才人と二人で、もう一台の馬車に男たちをつめこんで。時には星降る夜空を眺めながら寝るのもいいだろう。町の安い酒場で飲むのもいいかもしれない。
時間があえばティファニアやアンリエッタ、ウェールズも来てほしい。シャルロットにも少しお世話になったから声をかけて、キュルケはどっちでもいい。
想像するだけで楽しくなる、素敵な未来が広がっている。
「そうね、きっと楽しいわ」
言って、儚げに微笑むルイズ。その笑顔に才人は見とれてしまった。
彼女は総じて子どもっぽい。それは身長やスタイルの問題もあったが、ところどころの仕草が幼いせいだと才人は思っていた。
いつもの笑みは十歳くらいの少女が浮かべるような、そんな単純明快なものばかり。
ルイズが女性らしく笑ったのを、才人はこの瞬間はじめて目にした。
そして魔法学院で部屋をともにしていた少女は、自分の想像よりも年上なんじゃないかと、そんな考えが浮かんでくる。
「ルイズ、今何歳?」
「十六だけど、どうしたの?」
天井を仰いだ。
――俺と一つしか変わらない。ってかこっちの世界は一年が三百八十四日で、十六年生きてきたら差が……。
手のひらに数字を書いて掛け算してみる。十九×十六で三百四日余分に生きているから、才人とほとんど歳の差がない。
――十三歳とか十四歳だと思ってたのに!
外国人は見た目よりも年上なことが多いと聞いていた。実際、外国映画の子役なんかもかなり大人びて見えて、才人もその通りだと信じていた。
その法則をあてはめて、雰囲気も子どもっぽかったからルイズのことをてっきり中学生くらいだと、今の今まで思い込んでいたのだ。
才人は今年で十八歳になる高校三年生だ。さすがに中学生はアウトだよなというブレーキがどこかに働いていた。
それが違った。どこかでガコンとレールが切り替わったような音がした。
見れば見るほどルイズは美少女で、なんとも表現しがたい気持ちがわいてくる。
年齢=彼女いない暦な才人にとって、優しくしてくれる同年代の女の子はそれだけでストライクゾーンだ。なおかつ超絶美少女なら三秒でほれてもおかしくない。
いけないいけないと頭をふる。
――タバサも十二歳くらいだと思い込んでたけど、違うのかもしれない。
次に浮かんできたのはほとんど親交のない、無口だけど仕草に感情の出てくる青髪の少女。
――てことは、下手したらキュルケなんて二十歳超え!? アニエスさんと同い年くらいに見えなくもないし……。
この思考が本人に知られたら燃やされかねない。
頭をかかえて身もだえする才人を不思議そうに眺めながらルイズは紅茶に口をつける。
才人が帰ってこないからクッキーにも手を伸ばす。
「あ、おいし」
シエスタの焼いたクッキーは意外なほど風味が良かった。さすが魔法学院のメイドとして働くだけあって多芸なようだ。
そのまま二枚、三枚ともさもさ小動物じみた動きでたいらげていく。こんな仕草が子どもっぽくて、だから才人が勘違いしてしまったということにルイズは気づいていない。
バターの風味をさわやかな紅茶で緩和する。少年はまだ頭を抱えている。
才人はたくさん戦った。自分なら耐えきれなかったと、彼女はそう思う。
だからこそ、こうしたなんでもない時間を大切にしてほしい。自分と過ごす時間を増やしてほしい。
そこまで考えて、胸のうちが暖かくなっているのに気づいた。彼のことを思うと少し幸せになれる。
「よしっ! なんとか折り合いつけた。キュルケは未成年だ!」
「そうだけど……」
「やっぱそう? いやー良かった良かった」
俺もクッキー食べよーなんて、どこまでも明るく才人は笑う。
昨日目覚めたときはひどく落ち込んでいたとシエスタに聞いた。そのあと抜け出して、この世の終わりみたいな顔をしていたともギーシュたちは言っていた。
「おいしいなコレ、さすがシエスタ」
それが魅惑の妖精亭という酒場である程度元気を取り戻したらしく、今はにこにこしながらクッキーをぱくついている。
「いいことあったの?」
「ん、いいことっていうか。故郷の味と戦友って感じ」
「意味がわからないわ」
ものすごくざっくりした才人の言葉を理解しろというほうが無茶だった。
「昨日ギーシュたちにつれてかれた酒場で日本の料理が出てさ。あとウエイトさんとかスカロンさん、ジェシカとも話して楽しかった」
ウエイトという名をルイズは憶えている。タルブで才人が死んだと思われていたとき、迷わず彼をかつぎあげようとしてくれた。
死体に触れたがる人なんていないのに、ウェールズの恩人だからという理由で、敬意をもって敵になったかもしれない才人を運んでくれた。
彼には五歳の娘がいるとか、ロンディニウムの食事事情だとか、昨夜聞いたばかりの話を才人は嬉しそうに語る。
スカロンという名前は知らないが、きっと酒場の店員なのだろう。お礼を言わないと、と心の中にチェックする。
だがジェシカという名前は気になった。明らかに女性の名前だ。ひょっとしてだまされてるんじゃなんて考えてしまって、あまり良い気分ではない。
「そういえば、俺今夜から見回りに出るよ」
「ならわたしも」
「それは絶対ダメ。なにがあるかわかんないし」
昨夜のメアリーの件もあって、ウエイトやギーシュたちと巡回へいくと才人は言う。その瞳には強い意志がこもっている。
才人はやる気になっているけれど、ルイズの本音としては止めたい。いやな予感がする。そのことを伝えようとした。
「子爵さんにもまかされたんだ。しっかりやらないと」
彼が取り乱さずにその名を口にしたのはずいぶん久しぶりだとルイズは感じる。
どれほどワルドが才人に影響を与えたのか、おそらく彼女以上に、きっとハルケギニアの誰よりも才人に影響を与えていることを、ルイズは知っている。
だからそう言われてしまえば彼女には止める術がない。黙って見送るしかできない。
ふるふると首を振る。
黙って見送って、そうしてタルブで才人は倒れた。
彼は一人じゃない、そう強く刻み付けないとダメだと、そう思った。
「サイト、立って」
言われるままに立ち上がる才人。ルイズは近寄り、ぽふっと抱きついた。
「る、ルイズ?」
これがつい先日までなら、甘えたい盛りなんだろうなあと兄的な暖かい気持ちで接することができただろう。
でも今の才人はルイズが十六歳だと知っている、自分と変わりない年頃だと知ってしまっている。
ふわっと女の子らしい良いにおいが鼻に届いて、経験したことがないほど胸がどぎまぎする。メアリーと会ったときとは別の意味で心臓が痛い。
――ど、どうしよう。抱きしめ返すべき? ていうかいまさらだけど昨日のケティは超もったいなかった気がする! いやでもルイズのやわらかさとうわぁぁああああ!!
腕をあげて、やっぱり下げて、もう一度あげて。
ご主人のつむじが見える。二人の身長差はおおよそ二十サント、ちょうど胸に顔をうずめる形になっていた。
才人のドキドキは、もちろん抱きついているルイズにも聞こえている。
薄いシャツごしに自分のより早い鼓動と、少し高い体温が伝わってくる。そのぬくもりは彼女に安心感を与えた。
教団と戦い、メアリーが蹂躙したタルブの戦場。そこで才人は確かに心臓が止まっていた。そのことはルイズも確かめた。
だけど彼は今こうして生きている。暖かい血が流れ、心臓は力強く脈動している。
ならもうそれだけでいい。彼が生きているだけで幸せだと、ルイズは思う。
しばらくしてルイズはパッと才人から離れた。
「む、無理はしないでね。倒れたら元も子もないんだから」
ぼうっと才人はルイズを見つめている。ルイズも才人を見つめている。
少したって、互いのほっぺがリンゴみたいに紅潮しているのに気づいて、一緒のタイミングで背を向けた。
がりがり頭をかく才人と両手で頬をおさえるルイズ。
邪神なんて関係のない、歳相応の風景だった。
やがて二人は席につき、今度は才人から話を切り出した。
「さっきの話の続きだけどさ、スカロン店長が……」
知らない人とのことを楽しそうに話されると少し胸が痛む。ルイズはその感情に気づかないまま、才人の笑顔に向き直った。二人の間に流れる穏やかな時間を邪魔する者はおらず、つかの間の安息を味わっていた。
才人がもっぱら話題にしている魅惑の妖精亭、看板に踊る屋号を見て、フードをかぶった男性が足を止めた。
「む、ここか」
時刻は少し進んで昼下がり、本格的な飲み屋はまだ開いていない時間だ。夕暮れが近づけば人ごみができるチクトンネ街も人通りが少ない。男性は二度三度周囲を見回し、店の中に足を踏み入れた。
「ミスタ・ギトー、ご足労いただきありがとうございます」
「まったく、教師を呼び出すとはきみたちもずいぶん偉くなったものだ」
開口一番のいやみにギーシュたち四人は顔をひきつらせる。
それでもなんとか我慢して男性をイスへと導いた。入り口付近にマリコルヌ、店の奥近くにレイナールが陣取り、余人が聞かないよう警戒している。“サイレント”をかけた上で、人目までも気にしているようだった。
対する男の名はギトーという。もうじき三十になろうというのにヒゲを生やしていないことや、『風』のスクウェアという破格の実力を持ちながら軍から追放され、魔法学院の一教師におさまっているという、奇妙な来歴をもつ黒髪のどこか陰鬱な雰囲気を放っている男であった。
「ミスタをお呼びしたのは他でもありません。魔法学院の休校中このギーシュ・ド・グラモンが隊長を務める騎士隊に参加してほしいのです」
「寝言を聞くために来たのではない。きみが騎士隊隊長になるはずが……」
「こちらにアンリエッタ殿下とマザリーニ枢機卿の仮任命証があります」
今朝受け取ったばかりの羊皮紙をギーシュは机に広げた。
昨夜のメアリー出現をうけ、今夜にでもギーシュたちは街の巡回に出ることを決めていた。しかし人員はウエイトたちやコルベールを含めて九人、広い王都をカバーするには少なすぎる。
そのため人員の補充が必要だという結論に至り、今朝アンリエッタにも確認してギーシュは隊員の仮任命権を得ていた。通常ならば近衛隊は厳密な入隊審査が必要だが、平賀才人直属部隊に限ってその制限も外されている。近衛隊の任命権という、魔法学院在学中の貴族としてはありえないほどの権利をギーシュは持っていた。
権利は有効的に活用しなければならない。レイナールの助言に従い、今はお休みの魔法学院講師陣に助力を願おうと決めて、まずは学院トップツーと言われるギトーに声をかけた。
魅惑の妖精亭を利用したのはギムリの意見からだった。ギーシュは若い、一般軍人からすればヒヨっこどころかタマゴレベルである。それが近衛隊隊長になるなんて、どんな嫉妬をかうかわかったものじゃない。だからわざわざ貴族とは関連性の薄い魅惑の妖精亭を借り、講師陣には用件を伏せて呼び出していたのだ。
そんな若者なりのない知恵を絞った苦慮を知ってか知らずか、ギトーはあくまでも尊大だった。
「枢機卿も歳か」
「この件に関しては殿下も関与しています」
「殿下はまだ若い。判断を誤ることもあるだろう」
書面に目を通してからギトーはこれ見よがしなため息をついた。出てくる言葉も不遜そのもので、高い実力をもちながら軍を追放された理由がうかがえる。
「何の用かと思えばくだらない。返答はノンだ」
「今このハルケギニアには未曾有の危機が訪れているのです。ミスタも栄えある貴族の一員としてその責務を果たさねば」
「きみたちの成績はよく憶えている」
食い下がるギムリを、じろりとギトーは睨めつける。
「ミスタ・プロヴァンス。『火』を得意とするドットで、魔法の威力はそこそこあるとミスタ・コルベールから聞いている」
「きょ、恐縮です」
「だが制御が甘い。時として味方すら焼いてしまう『火』系統は威力よりもコントロールが重要だ。今後の戦乱で矢面に立つ部隊にはとても向いていない」
見た目が陰気な教師からほめられ、ギムリは少し浮かれたけれど、続く言葉に消沈した。
「ミスタ・グラモン。きみはゴーレム操作には類稀なるセンスを持っている。ラ・ヴァリエール公爵夫人から手ほどきを受けてその戦術にも磨きがかかったとも」
「はい、それこそがぼくを隊長に選んだ理由かと」
「しかしきみの“ワルキューレ”はある程度距離が近くなければならぬはずだ。ゴーレム使いが距離をつめてどうする」
「その点は投げ槍などを使って改善しています」
「きみらが挑む相手は投げ槍の通じる輩かね?」
ぐ、とギーシュは言葉に詰まった。
彼自身、直接杖を交えていないとはいえタルブの戦に参加している。そこで不死身の教団を、そして彼女を、メアリー・スーを目にしている。
人一人を殺すには十分すぎるほどの威力をもつ青銅製の投げ槍も、邪悪な存在にはとても通じる気がしない。
ギトーの言っていることは正しく、反論の余地がない。しかし才人直属部隊としての意義を知る二人は、ここで引き下がるわけにはいかない。なんとしても戦力が必要なのだ。
「……ぼくたちが力不足であることは重々承知しています」
「だからこそミスタ・ギトーの力が必要なのです。お願いします」
「くどい。私から枢機卿に進言しておく。きみたちに近衛隊を任せるなどバカげていると」
「お待ちください!」
「殿下のお遊びにつきあっているヒマがあるならもっと勉学に励みたまえ」
すげなく言ってギトーは立ち上がった。止めるギーシュとギムリには目もくれずきびすを返す。
そのとき、入り口に立っていたマリコルヌに動きがあった。明らかに人を通すまいと扉の前に仁王立ちしている。
最初ギトーは自分を通さぬためだと思った。しかし店内の声は“サイレント”で聞こえないうえ、彼は外を見ていたのでこちらの様子がわからないはずだ。
ギーシュとギムリも彼の違和感に気づく。どうも扉の外でなにごとか言いあっているようで、それでもマリコルヌは一歩も引く様子を見せない。仕入れや行商を相手にするには奇妙だ。場所を借りる前、平民事情にある程度通じているギムリは、スカロンに仕入れなどが来ないことを、来るとしても表口は使わないということも確認した。明らかにおかしいとギムリは密かに杖を抜く。
ギーシュが表に行こうとしたとき、マリコルヌは大きな衝撃を受けて店の中へと吹っ飛ばされた。
彼を排除して入ってきたのは五人の男。それぞれ水の滴る黒いフードを目深にかぶって顔を隠している。
「何者だ」
ギトーの誰何の声にも応じず男たちは杖を見せびらかす。
ほぼ同時にギーシュは距離をとりつつ各々の杖を抜いた。店の奥を見張っていたレイナールも遠くからいざというときに備えて小声でスペルを詠唱していた。
一歩ギトーが踏み出す。先頭に立つ男との距離は一メイルもない。
なのに欠片も緊張をにおわせず、彼はこれみよがしに一つため息をつく。
「諸君、実習の時間だ」
奇妙なほど場違いな言葉に、男たちが動いた。
一人が“ブレイド”をまとわせた杖剣を疾風のごとき素早さで突き出す。ギトーは反応できないかのように見えた。
「『風』は最強」
生徒四人はその瞬間を見ていた、と彼ら自身は思っていた。しかし瞳に映るのはすでに相手の懐にもぐりこんだギトーの姿、握られた右手からは黒い棒状のものがはみ出している。
ブーツと濡れた床とがこすれる形容しがたい音を立て、ギトーは反転する。その直後に繰り出される高速の肘打ちを、男はかわせるはずもなかった。
「それは」
入ってきた扉を壊しながら男が店の外へと吹き飛ばされる。残された男たちは詠唱を行っていたが、動揺の気配をも漏らした。
「速さに起因する」
その揺らぎをギトーは見逃さない。
力強い踏み込みと空気の爆ぜる音が響き、そこからは一瞬だった。独楽のように回るギトーの動きを生徒たちは追いきれず、気づけば男たちは地に伏していた。
寸鉄のごとき短い杖を手に、唱えられたスペルは“ウィンド・ブレイク”。相手ではなく己の身体の各所に小規模なそれを当て、爆発的な加速を得るギトーが編み出した高速体術だった。
『疾風』のギトー。不遜な性格と、クロスファイトを追求しすぎるあまり軍から追い出された男は、その強さを生徒たちの前で示したのだった。
「他愛もない」
きみも『風』ならしゃんとしたまえと言って、彼はマリコルヌに手を貸す。
強いとは思っていたけれど予想以上の動きを見せたギトーに、一同はあごが外れそうになるほど驚いた。
――授業中のアレはホンキじゃなかったのか!
コルベールとタメを張るほど強いなんて噂も上級生から流れてきたもので、正直半信半疑だった。
彼は学者肌の多い魔法学院教師陣において、実践を重視するタイプである。授業中も幾度かその強さを垣間見る機会はあったが、手を抜いていたとは、ギーシュたちはまったく知らなかった。
短い鉄製の杖をしまい、ギトーは男たちのフードをはぐ。
短い茶髪に整えられたヒゲ、どこにでもいそうな青年だった。血色もよく、邪教に傾倒しているようには見えない。
「見たところ軍人か。ミスタ・コルナス、急ぎ衛士隊を呼びたまえ」
指名されたレイナールは大急ぎで外へ駆けていく。
ギーシュは近づいて、青年の脈をとる。身体は暖かい、血流も感じる。タルブで襲い掛かってきた亡者たちとは違うようだ。
「なにか縛るものがいるな……」
「店長に聞いてきます」
あれだけ音を立てていたのに“サイレント”の効果で奥には音は届かず、スカロンたち住人が出てくることはない。
それでも襲撃らしきものがあったということは念のため知らせておいたほうがいいだろうと、ギムリは居住スペースへと引っ込んでいった。マリコルンは吹っ飛ばされたときに怪我を負っていないか、身体をすりながら確認している。
「……しまった」
ぽつりとこぼしたギトーに、ギーシュは注目した。
「次回講義で“アルビオン落とし”を教えるというのを忘れていた」
「……それは、課外授業だから問題ないのでは?」
「そうか、そうだな。いや、もう一つある」
「次はなんですか」
「実習と言っていたのに私一人で倒してしまった。きみたちにも残しておくべきだったな」
正体不明の相手と戦ったというのに、ギトーはどこまでもマイペースであった。
ほどなくして現れた衛士たちが拘束された青年たちを連れ去っていく。それを見送ってからギトーは生徒たちに声もかけずさっさと帰ってしまった。後に残されたのは途方にくれたギーシュたちと、不安げな顔を隠せないスカロン店長。
襲撃の理由も知れず、ギトーの協力も得られず、今日もまた夜が来る。
あのあとシュヴルーズをはじめ、何人かの魔法学院教師を勧誘したギーシュたちは、色よい返事をもらうことはできなかった。それもそのはず、彼らはおしなべてトライアングル以上の優秀なメイジで、魔法の扱いこそ長けているものの、戦闘を得意としているわけではない。ギーシュたちがいくら仮任命証を見せ、コルベールの参加がすでに決まっていることをアピールしても、首をたてに振るものはいなかった。
雨雲で黄昏の茜色が見えない王都を、四人は肩を落として一時屋敷に戻り、夕食をとってから再び魅惑の妖精亭に集合した。
昨夜メアリーが出没したここを起点にチクトンネ街周囲を警戒する予定だ。雨に打たれていたときよりもはるかに持ち直した様子の才人も合流して、今日だけは小隊についているコルベールを除いた八人は街に出る。
噂のせいか雨のせいか、普段は猥雑な人混みにあふれている狭い通りに人影は少ない。これでは聞き込みは捗らないだろうと、レイナールはため息をついた。
「でも、聞き込みってどのくらい言ってもいいんだろうな」
「どのくらいって、どういうことだい?」
「前にマザリーニ枢機卿から聞いたんだけど」
平民が邪神のことを知ると混沌が這い寄ってくる。
それもどの程度知ればという指標はない。優秀なメイジであったワルドの母ですら、研究の成果で得られた結果を基に背後に潜む巨大な存在を感じ取り、後に正気を失った。
その経緯を才人は話し、いよいよもって手の打ちようがないことを一同は悟った。
「本来なら似顔絵を見せたりすればいいんだろうけど」
「そういったことがありうるなら避けるべきでしょう。デルフリンガー卿、なにか知恵を授けていただけませんか?」
「すまぬ。その境界を探る研究は禁忌であって某も知らぬのだ。だがぼやかせばぼやかすほど真相からは離れていく。いっそ聞き込みをしないほうがいいかもしれん」
「……どうすればいいんだ」
マリコルヌがあごに手を当てながら考え込むも、ウエイトが即座に否定して、デルフリンガーも詳しくは知らないようだ。隊長であるギーシュは頭を抱えるしかなく、情報源である才人もいいアイディアを出すことができない。
「とりあえず、兵隊らしく足で稼ぎましょう」
ウエイトが言って、部隊はアルビオン人三名とトリステイン勢五人に分かれる。広くない通りでは八人の大所帯で身動きが取りにくいのと、連携訓練を行っていないので互いに足を引っ張り合うのを防ぐ目的であった。
一時間後に魅惑の妖精亭で落ち合うことを決めて、八人は夜の都会に足を踏み出した。
トリスタニアの路地裏は狭く入り組んでいる。敵が王都に攻め込んできたとき、容易に王宮へと侵入できないようにするためであった。大人三人が横に並べばいっぱいになってしまうくらいの細道を、マリコルヌとギムリを先頭に五人は進む。真ん中にギーシュとレイナール、最後尾に才人がついていた。
これは昼にギトーの指摘を受けた四人が話し合って決めた隊列だ。魔法の威力は高くてもコントロールの甘いギムリを最前列において、制御に意識を裂かせず一気に放たせてからカリーヌの手ほどきで近距離から中距離をこなせるようになったマリコルヌが斬りこむ。二人が時間を稼いでいる間に中列のギーシュは“ワルキューレ”をつくり、回復のできるレイナールは戦闘の推移を見守る。最後に目となるデルフリンガーを携えた才人が後方を警戒しながら進む。
全員が一様に緊張感を持ち、マントの中の杖に手をかけている。ギーシュとレイナールが持つカンテラの灯りはトリスタニアの暗がりに光をもたらし、月明かりなき夜の雨粒を、ときに吐瀉物やゴミ、軒先で寝転がる浮浪者など見たくないものを照らしながら、雨の音に閉ざされた路地裏をひたすらに歩く。
小雨といっていいほどの強さの雨は、それでも小さな音を奪っていく。雨どいから落ちる水の音、水溜りを歩く音、夜の喧騒はそれらにかき消え、五人はまるで違う世界に落とし込まれたような気持ち悪い感覚を味わっていた。
――晴れていれば、いやせめて曇り空だったなら。
現代日本と違ってこの世界に街灯なんてものはない。雲が空を閉ざしていれば星や月も姿を見せず、当然それらが地上を照らし出すこともない。満月の夜なんかはかなりの明るさがあるのに、今は二つのカンテラだけが暗黒の世界を導く頼りだ。
視覚と聴覚が制限され、いやおうなしに奇妙な想像が膨らんでくる。
あのゴミ箱の陰になにかが潜んでいるのではないか、あの角を曲がれば襲われるのではないか、平時であれば笑い飛ばせることも、メアリーの現れたトリスタニアでは起きてもおかしくない。いつしか一行の足は恐怖にとらわれ鈍り、極力音を立てず移動するようになっていた。
そんな中、路地の奥から複数の足音が響いてくる。妄想の産物が生れ落ちたのでは、あるいは闇から覗き込むものが姿を見せるのでは、そんな疑心にとらわれ、杖を強く握り締めて、じっと息を潜めて目を凝らす。
角を曲がって、ゆらゆらと揺れる火が近づいてくる。全員が杖を抜こうとしたとき、聞き覚えのある声がした。
「坊主たちも見回りか」
「め、メンヌヴィルさん」
闇に溶け込む黒いローブをまとった一隊、メンヌヴィル率いる実験小隊の一部だった。
彼らは極力音を立てないよう努力していたギーシュたちとは逆に、遠慮もなにもなくばしゃばしゃと水溜りを踏み分けて近づき、マジックアイテムのランプをかざす。かなり強烈な光が路地を照らし出し、若い五人は人心地つくことができた。
「これ、めちゃくちゃ緊張しますね」
「最初のころはそんなもんだろ。でもお前はルーンの力で接近を感じ取れるはずだろ?」
「あ……」
才人の心底安堵したような言葉に、メンヌヴィルはなにを言っているんだこいつという顔で返す。暗黒に心を飲まれていた才人はその指摘に気づき、同時にギーシュたちも一気に力が抜けた。
「なんでサイトが気づかないんだよ」
「いや、ちょっと緊張しててさ」
やいのやいのと明るさを取り戻した生徒たちを前に、メンヌヴィルはこめかみを押さえた。後ろに控える隊員三名も苦笑いを浮かべている。
「もうちょい表側を警戒してくれ。ここらへんは治安も悪いし視界もよくない。俺たち向けの場所だ」
「隊長の言うとおり、適材適所という言葉もある。銃士隊も出回っているからそこまで警戒を密にしなくてもいい」
「きみたちは若い。今は実力をつけることを優先すべきだ」
自分の目を指差しながら言うメンヌヴィルと、実戦経験を積んだ実験小隊の言葉に、ギーシュたちはむっとした。
事情が事情とはいえ、彼らにも近衛隊に任命されたという矜持がある。それを子ども扱いされるのは、経験と力量の差から仕方のないことであったとしても、素直に納得できるものではない。
それでも邪神に関しては彼らほど詳しいものはこのトリステインにいない。納得はできずとも、ギーシュたちはその提案を受け入れ、巡回経路を変えることに決めた。
去り際にメンヌヴィルは才人に声をかけた。
「気をつけろよ。噂の拡散がやけに早い」
「噂?」
「魅惑の妖精亭に巫女が出たって話な、もうトリスタニア中に知られてる。早すぎるんだよ」
昨夜魅惑の妖精亭に黒の少女が現れた。その噂は街を駆け巡り、いまや知らないものはいないほど広まっていることはアニエスたち銃士隊の調査でわかった。
しかし、それはおかしいとメンヌヴィルは指摘する。
「たかだかチクトンネ街の一酒場に不気味なヤツが出たからって、こんなに広がるはずねえ。誰かが糸引いてやがる」
これほどまでに知られていることこそがおかしい。背景に人為的なものか、あるいは超常的な現象が働いているのは想像に難くない。
小隊の他の者も同じ意見のようで、口々に少年たちに注意を呼びかける。その言葉は心底から若者を案じる気持ちに満ちていて、先ほど不快さを感じたギーシュたちも少し恥ずかしさを覚えたほどだった。
「……わかりました。ありがとうございます」
「アニエスがそこらへん回ってるはずだ。会って話を聞いといたほうがいいぞ」
言って、メンヌヴィルたちは再び闇夜に溶け込むように路地裏へ消えていった。
一同は互いの顔を見合わせ、平常心のままにチクトンネ街を目指す。
雨の音にまぎれて、ものがなしい銃声が響いたのはそのときだった。
「今の音……」
「平民の使う銃みたいだったな。少し違う感じがしたけど」
「急ごう、こっちだ」
水溜りにもかまわず仮近衛騎士隊は路地裏を駆け抜ける。
反響した音は正確な位置をつかませず、五人が迷っている間にもいくつもの場所から同様の銃声が上がり、焦りを抱きつつも奔るしかない。
やがて五人はとある場所に出る。
そこにいたのはアニエスと三人の銃士隊、そして――。
「え……」
カンテラに照らされた紺色の、ハルケギニアではまず見かけない形の服に、平たい帽子に黒いベルト、それらを身に着けた倒れ伏す男性。
「うそだ」
よろめきながらうめくような声をもらす。アニエスが振り返る。その手には、タルブでアニエスに託したデリンジャーが握られていて。
「なんで」
才人は知っている。その服装が意味することを、日本で何度も見かけたその制服を。日常でも、フィクションでも数え切れないほど目にしたことがある。
めまいがする。
タルブで墓参りをしたとき、魅惑の妖精亭で舌鼓をうったとき、会いたいと思っていた。日本人に、故郷を同じくする同胞に。
声にならない絶叫と、哀れな警官の魂を誘う銃声が、雨に閉ざされたトリスタニアにこだました。