空は雨雲におおわれ、いつもは道を照らす月と星の優しい光も今宵のトリスタニアには届かない。ただ闇を裂くのはカンテラやマジックランプなど、人の生み出した灯りだけで、それすらも気をつけねばしとど降る雨にかき消されそうなくらいだ。
普段は酔漢でごったがえすチクトンネ街もゆうゆうと歩けるほど人が少なく、ブーツで水たまりを踏み抜く音すらも大きく聞こえる。
あまり見かけぬ軽鎧姿の女性が数人道端に集まっているのは、常ならば気に掛ける者もいただろうがこの冷たい雨では物好きな連中も酒場か家に引っ込んでいるようだった。
「チクトンネ五番異常ありません」
「ブルドンネ二番問題なし」
「打ち合わせ通り次の鐘が鳴るまで警戒を続けろ」
『了解』
短い会話で再び彼女らは夜のトリスタニアに溶けていく。夜の巡回を行っている銃士隊の面々であった。
最後まで残っていたアニエスもちらと通りを見渡し、路地裏に待たせていた隊員と合流して歩きはじめた。
爆発的に広がった噂の情報をそれとなく聞き取るもの、あれは酔っ払いの証言ばかりで信憑性が非常に低いと広めるもの、アニエスたちのように直接見回るもの、容姿や戦闘力で三つの役割を銃士隊内で割り振り、総勢二百名のうち百名あまりが雨の中をうろついている。
――まだあれから一日だぞ。
メアリーが現れてたった一日しかたっていない。だというのに街中が奇怪な黒い少女を知っているのはどういうことだと、アニエスは唇を噛む。
トリスタニアは人口百五十万を擁するトリステイン王国の王都であり、さらに最近アルビオンからの避難民が流入したこともあって、十万近くもの人々が暮らしている。住んでいるのが平民だけならいざ知らず、貴族の屋敷や広場に練兵場など空間を大きくとるものも数多いため、その面積はおおよそ五キロ四方にも及ぶ。
平民の識字率がそれなりに高く、魔法という技術が存在していても、それをラジオやテレビのように大衆向けに情報を拡散する術はほとんどなく、それだけ広い土地を、人が多いとはいえ一日、厳密にいえば翌朝にはもう東西南北同じ噂がいきかっているなど、考えられないことだった。
その考えられないことが現実のものとなっている以上、なんらかの作為が働いている。
アニエスがメンヌヴィルやコルベールに相談したところ同じ結論に至り、とかく警戒を密にする必要があると銃士隊は噂の制御に努めている。
それでも効果はかんばしくなく、事態の奇妙さをより強く実感するだけであった。
貴族街はヒポグリフ隊が見回っているということを聞いている。ついでに噂は貴族にまで拡散しているということも。
そこがまたおかしなところで、貴族と平民との間で同時期に同一の噂が広がることは、出入りの商人たちが話を持ち込むことはあっても、平民と同じ話題で盛り上がるなどと言う貴族もそれなりの数がいて、これまでにほとんどなかったことだ。
――タルブの敗戦が響いているのか。
世間すべてが悪い方向に向かっている。漠然とした不安感を噂というヴェールで包み、みなで言い知れない感覚を共有しようということだろうか。
アディールで邪神にかかわることは学んでも、人の心の動向までは教わらなかった。今にしておもえばそれこそを学ぶべきだったという後悔もある。しかし今は手持ちのコマを回すしかないと、アニエスは周囲に目をくばった。
彼女が暮らしていたのは三歳から五歳までのおおよそ二年ほど。それからも父コルベールとともに、メンヌヴィルをたずねたり、市を見にいく機会はあった。完全に離れたのはエルフの国ネフテスへと留学したとき三年間だけだ。
その三年で首都は大きく姿を変えることなく、知り合いの経営する酒場の娘も成長して、懐かしさと嬉しさとをおぼえたものだったが、今や夜雨で視界と音とを奪われ、彼女の知るトリスタニアよりはるかに暗い影に包まれている。
このじっとりと重く冷たい空気を彼女はどこか心の奥底に記憶している。三歳まで過ごした忌まわしき海沿いの街、過去のダングルテールに酷似しているのだ。
シュヴァリエの爵位とダングルテールの土地を授かった際、一度だけたずねたことがある。コルベールとともに訪れたかつての寒村は、ただの廃墟になっていた。どこにもあの夜の空気を残さぬ、海鳥と野犬の住みつくあばら家のみがあって、邪教の中枢と思われた教会は聖なる火で完膚なきまでに焼け落ちていた。
あの夜あの場でなにがあったか、アニエスはそのときコルベールからすべてを聴いている。
――このままではいかん。
きっと誰もが胸に秘めていることをアニエスも強く意識する。しかし対処法を思いつくこともできず、己の無力さに歯噛みするばかりだ。
首を一振りし、今一度夜の町並みに集中する。
雨の音にまぎれてアニエスの耳にかすかな音が届いたのはそのときだった。荒々しい獣じみた呼吸音だ。
風メイジほど耳のよくないアニエスにも聞き取れたそれは、しかし他の隊員たちは気づいていない。そのまま十字路をまっすぐ進もうとしていた隊員を彼女は手で制した。
ハンドシグナルで右の道になにかが潜んでいることを示す。三人の隊員は、二人はバックラーを改めてから小剣を抜いて、一人は背中に隠した短弓の弦を張り矢をつがえた。長剣は狭い路地で振り回しにくく、銃は装填に時間がかかるためであった。右に投擲用のナイフを、左にマジックランプを手に、アニエスもじりじりと十字路に近づく。
四人は目を見合わせ、次の瞬間アニエスはマジックランプを投げ込んだ。水の撥ねる音と同時、閃光があたりを照らす。灯りが数段弱くなってから、四人は一斉に路地裏へ飛び込んだ。
果たして、そこにもがいていたのは一人の男であった。マジックランプの強烈な発光が目を焼いたのか、手でまぶたを抑えている。
暗い中でわかりにくい濃紺の服に身を包んでおり、その顔立ちはハルケギニアのいずれの国家に属するものとも違って、鼻は低く肌の色も浅黒い。かといってゲルマニア人ほどの濃さでもなく、銃士隊の三人はよりいっそう警戒心を高める。
ただ一人、アニエスだけは違った。その顔立ちにどこか見覚えがあったのだ。数秒もない逡巡で思い当たったのはガンダールヴの少年、平賀才人のことだった。そっくりとまではいかないけれど似た雰囲気を感じると、そう思った。
平時のことならば酔っ払いだろうと放置しただろう。だが今は邪神の巫女が跋扈するときである。
小剣をかまえた一人が素早く近づく。もう一人は後方を警戒し、弓と投げナイフは男を狙っている。強い語調で誰何の声をあげた。
男の答えを、四人は聞き取れなかった。
言葉を聞くだけでなにか気持ちが悪くなる。始祖を穢す言葉を早口で聞かされたような、そんな気分に陥る。
目を抑えながら男は言葉を連ねる。聞くにたえがたいその言語、声は銃士隊ならずとも苛立たせる成分を含んでいる。例えるなら邪教徒が互いに識別しあうための、そんな冒涜的な言葉であるように感じる。
再度誰何の声をあげても、男は似たような言葉を繰り返すのみで、それがまた四人の気分を害する。不快感をもよおすだけでなく、言い知れない憎悪が背筋を這い回る。
やがて視力が戻ったのか、手をどけた男の瞳は黒かった。ハルケギニアではほとんどみない黒髪黒目の男。
彼は最初周囲を見渡し、次いでアニエスたちに目をとめ、明白な絶望と耐えがたい恐怖に顔をゆがませた。しりもちをついたままずりずりと後ずさり、すぐに木壁にぶつかりさらに顔をゆがませた。
なにか懸命にしゃべっているものの、名状しがたい邪神を呼ぶ儀式のようにしか聞こえない。
その中で、アニエスに聞き取れた単語があった。刹那に間合いを詰め、胸ぐらをつかんだ。
「……今なんと言った?」
相変わらずわけのわからないことをわめいているが、もう一度聞こえたその言葉はアニエスの勘違いではなかった。
ナイアルラトホテップと、確かにこの男は言った。この男は邪神を知っている。なんらかの繋がりがある
嫌悪感とは別に腹の中から沸き立つ感情が、怒りが立ち込めつつあった。
埒が明かぬと一度突き飛ばし、後方の隊員に拘束して詰所に連行するよう目配せする。合図を受けて隊員たちは男に近づき、それに彼はいっそうひどく怯え、腰に手をやった。
ナイフでも抜くのかと身構えた四人は、引き抜かれた男の手に光る物体を見て硬直した。
三人は見たことのないフォルムのそれを、新種のマジックアイテムだと考え、重心を後ろにずらす。だがアニエスだけは、形こそ違うが似たような威圧感を発するものをタルブで見ている。
平賀才人の故郷の武器、人類の持つ最小の兵器、ちょうど腰元のポーチにもいれていた。
その銃が牙を向けている。
アニエスはすかさずデリンジャーを抜いた。男の持つ銃は、おそらく引き金をしぼるだけで凶弾を放ちアニエスたちの命を一つ奪うだろう。間に合わないという確信はあった、それでも最後まであきらめてはならぬと、手が動いた。
しかし、その思考はまったく的外れだった。
男は自分のこめかみに銃口をあてると、ためらうことなく撃鉄をあげ引き金を引く。雨の中、乾いた銃声と崩れ落ちる音が路地に反響した。
四人は絶句したままで、動きすら奪われていた。
しばらくたって、ようやく一人が男に近づく。首と顔とに手をあて、無言のまま振り返った。目をつむり、アニエスは死者の安息を祈った。
「台車を持ってきてくれ。調べねばならないし、なにより野ざらしでは……」
そこまで言って、水を踏み分ける音に気づいた。ここまで接近を許すほど動揺しているなんてと、アニエスは心中で舌打ちする。
「うそだ」
振り返ると、五人の少年がいた。
先頭に立つ黒髪の少年がぽつりと漏らす。ぐらりとその体が傾ぐ。
響かぬ絶叫は、しかしアニエスの心を抉るほどに悲痛であった。
―――無貌の神は笛を吹き―――
才人はよろよろと血を流して倒れる男に近づき、特徴的な帽子を外せば、ジェシカやシエスタよりもよっぽど親近感の沸く顔が見える。ころがるマジックランプの灯りだけでも日本人だとわかる顔立ちと髪の色。
いくら仲間が心配する声をかけてもろくな反応を示さない。彼の頭はぐるぐると、日本人らしき男に対する疑問にとらわれていた。
――なんでこんなところに。どうしてこんなときに。なんだってこんなことに。
子どもの落書きめいた思考は、ぐちゃぐちゃとまとまることを知らず、かけられる言葉に応ずることすら忘れて内面に閉じこもる。
隊員が場を離れたことも、ギーシュたちが声をかけていることも知らず、ひたすらに思考は螺旋を駆け巡る。
ひどく混乱している才人を現実に引き戻したのは、肩を強くつかんだアニエスであった。
「しっかりしろ」
「あ、アニエスさん……」
「警戒しておけ」
言って、アニエスは倒れる男に近づき、その服装をあらためはじめた。
「なにを、してるんですか」
「少しでも手がかりがいる」
「隊長、一度隊員を招集すべきでは」
「厳戒態勢用の信号弾を上げろ。こういうときに『風』が使えればいいんだがな」
死者の安寧を妨げる墓荒らしめいた冒涜的行為に、才人は乾いた喉でせいいっぱいの声を出す。対するアニエスの言葉は簡潔で、次々とポケットやポーチの中身をあらわにしていく。
軽い砲声と空を照らす赤い光の弾が上がる。
「サイト、ここはアニエス隊長に任せよう」
レイナールの言葉もどこかうつろに聞こえる。他の三人と銃士隊の隊員はトリスタニア市民を抑えていた。路地がチクトンネ通りに近かったせいで、高くこだました銃声を聞きつけたのと、信号弾という目立つものをあげてしまったせいで人が集まりはじめている。
再び遠くから響いた銃声に誰もが不安をあおられ、ここでなにがあったのかを知る者は苦い顔をした。
「……これは、勲章か? いや、身分を証明するものか。読めんな」
アニエスが取り出したのは、金色の日章が輝くこげ茶色の物体だった。マジックランプの灯りを頼りに調べるも、よくわからないようで顔をしかめた。
しかし、彼女にはわからずとも、この場には知っている人物がいた。
「それは」
「……わかるのか?」
「俺の国の、警察の」
つぶやいた才人へ無造作に手渡す。なかば反射的に受け取り、開いた。もちろん読める。数年ぶりに読むような感覚の、だけど数ヶ月しかたっていない言葉、日本の文字がそこにある。
懐かしすぎて涙がこぼれそうだった。こんなかたちで出会いたくはなかった。才人は勿論、おそらく大多数の日本人もなんらかの形で見たことがあるだろう、警察手帳だった。
倒れた男の上半身がうつった写真と、日本語と英語が併記された氏名。いたってマジメそうな顔と特に珍しくもない名前で、日本でならすれ違ったとしても気にとめないであろう人物は、ここハルケギニアにおいてはありえない存在で、しかも無残な死体を雨にさらしている。
――この人は、こんな……。
死にたかったわけがない。きっと生きていたかったに違いない。
やるせない気持ちと共に、言い知れぬ感情が湧き上がる。
「どうして……どうして撃ったんだよアニエスさん!!」
逃げ場を求めるほど黒々と渦巻く激情はアニエスに矛先を向けた。短絡的な思考が傍にいたアニエスを、デリンジャーを手放していなかった彼女を犯人であると決めつけていた。
「私は撃っていない。あいつは自分で撃った、それだけだ」
対するアニエスはどこまでも冷静であった。
「なんでそんな」
「わからん。脅したあと、引き金をひいた」
「脅したって……」
「ヤツの口からあの名が出た。尋問する必要があったのだが、詰を誤ったな」
自戒が込められているものの、どこまでも味気なく淡々とただ事実だけを述べた。
「……して」
「なんだ?」
「どうしてそんな冷静なんだよ! 人が、人が死んでるのになんで!」
「よせサイト!」
「この人は日本人で、警察だからって、死んでいいはずないじゃないか!」
才人の叫びにアニエスは眉をひそめる。
羽交い絞めにしたマリコルヌの静止も聞かず、小さな人だかりができているのもかまわずアニエスに食って掛かろうとした才人は、明らかに平静さを欠いていた。
雨は容赦なく人々を打つ。しばらく才人は荒い息を吐きながら、なおもなにか言葉を吐き出そうとしたが、うまくできなかった。心にうずまく形容しがたい感情を表現する術を彼は持っていなかったのだ。
また、音が聞こえる。雨に打ち消されないほど大きく、乾いた銃声がとどろく。
アニエスはなにも言わず、ただじっと彼を見つめていた。その瞳に責める色はなく、慰めの気遣いもなく、ただ見つめている。
やがて才人は力を抜いて、一言すいませんとつぶやいた。アニエスは、やはりなにも言わなかった。
そこに集まった市民をかきわけて台車をひいた隊員がやってくる。一枚の古びた毛布をもって、哀れな警官に近づいていく。
「俺が、やります」
その前に才人が立った。
「サイト、不浄の仕事は……」
「いいから」
レイナールのいさめる言葉も跳ね返し、どこか危うさすら感じる硬い表情で才人は立ちはだかる。こんな異世界に無理やり連れて来られて、なぜか自ら命を絶つまでに追い詰められて、そんな人だからせめて同じ日本人の手でという思いがあった。
隊員は一瞬面食らった顔をして、次にアニエスに目をやった。頷く彼女を見て問題ないと判断し、大きな毛布を渡した。
ついさっきまで動いていて、血が流れていて、暖かかったはずの身体は雨ですっかり冷えかたまっている。毛布ですっぽりと彼を包み、台車に載せた。引く仕事も才人がかってでた、誰にもゆずるつもりはなかった。
「いこう」
遠巻きに死体を載せているとわかっていたのか、才人が近づくと群衆はさっと距離をとり道を空ける。常ならば気にかけたかもしれないその行動は、かえって通りやすくなったとしか思えなかった。
一行は誰一人喋らず黙々と衛士の詰所に向かう。
台車は頑丈な木製で、それ単体でもかなりの重さがあるようだったが、才人には気にならなかった。ごとごと音を立てて夜のトリスタニアを歩く。途中ギムリが気をつかって“レビテーション”をかけるかたずねたけれど、それも断った。
ひたすらに無心で重い台車をひく。考えてしまえば一度取り戻した冷静さが再び失われそうだった。
しばらく歩いて詰所に到着した。銃士隊は結成式などを行っておらず、まだ公的な立場を得るには至っていない。そのため詰所も用意できておらず、普段トリスタニアを警護する魔法衛士隊の施設を間借りしていた。
かがり火を焚いてかなり明るくしてある石造りの詰所は、かなり多くの人々があわただしく行きかっている。見ると軽装鎧の多かった隊員が胸甲を身につけ、兜をかぶり、大型の盾をもってまた街に出て行っているようだった。
台車を入り口において、才人は男をかついでアニエスの後に続く。数名の隊員が控える部屋につくと、気づいた者たちが敬礼して出迎えた。
「ミシェル、状況を」
「街の各所に不審な人物が現れ、いずれも交戦状態になっています。未知の武器を使用してくるため負傷者多数、すでに殉職者も出ています」
「……もう出てしまったのか」
「残念ながら。敵勢力の捕縛を試みた者もいるようですが失敗に終わっています。ある程度接近すると自ら命を絶ってしまうようです」
青髪の隊員、ミシェルが目をやった先には才人が運んできた男と同じように、毛布にくるまれたなにかが五つほど転がっている。石畳の上に直接おいてあるわけではないので、一応の死者に対する礼儀をとっているのだろう。
才人も、先ほどの男をその場に横たえた。近くの毛布をめくって中身をあらためると血と臓物のにおいがあたりに広がる。
出てきたのは血に濡れた短い金髪の頭だった。口の中に銃を突っ込んで撃ったらしく、顔は原型をとどめていない。吐き気がこみあげてくるも、つばを飲み込み耐えた。足のほうをめくるとジーンズをはいていて、おそらく欧米系の人だろうと才人はあたりをつけた。
アニエスたちが話している間に残る四つの毛布も調べてみる。そのうち二つは銃士隊員の遺体で、残る二つは自衛隊のような雰囲気の男と、日本人警官だった。
「あんまりだ……」
力が抜けてその場にへたりこんでしまう。
銃士隊員もそうだったが、この人たちがなにをしたというのだ。おそらくなにごともなく、ただ流れる日々を平和に過ごしてきたのではないか。なのに、その末路が知人一人いない異世界でしかも自殺をするなんて、あんまりだと才人は思う。
へたりこんでいる才人にアニエスが近づき、手を差し伸べる。反射的に握って、ぐっと立たされた。
「私も装備を整えてまた街に出る、お前たちはもう帰れ。今夜は私たちに任せておけ」
それは実質の戦力外通知だった。気遣いを含んでいたのかも知れない。
才人はぼんやりその言葉を聞いていた。どこか悔しげなギーシュたちの顔も目に入らず、促されるまま外へつながる通路をいく。
最後にアニエスは五人の背に声をかけた。
「およそ二万人だ」
底冷えのする、魔法学院にいたころは出さなかった低い声であった。
「タルブでそれだけの数が死んでいる」
「二万……」
「壊滅じゃないか。そんなに死んでいたなんて」
その数字はつい昨日算出されたばかりで、まだ名前もない新騎士隊の誰も知らないことだった。
「事態はすでにそこまで来ている。同郷の者がああなったのは残念だろうが、気を引き締めてかかれ」
慰めとも激励ともつかない声は、おそらく才人に向けられたものだ。
「良ければしっかり弔ってあげてください」
才人はそれだけ言って、とぼとぼ詰所を出ていってしまった。彼らを見送ってからアニエスはため息をついた。
「どうされました?」
「いや、同郷の者というのがな」
アニエスが思い出したのはダングルテールだ。もし彼女の故郷にあの女性が漂着していなければ、もし焼かれることがなければ。今頃自分はどういう人生を送っていたのだろうと、考えても答えの出そうにない「もしも」を彼女は少し想像して、思考を打ち切った。今すべきことではないし、考えても仕方のないことだからだ。
「メンヌヴィル殿たちと連絡はついているか」
「ええ、ですが向こうはまだ遭遇していないと言っています。どうも通りに近い場所、人目につきやすいところへ現れやすいようです。魔法衛士隊は一名遭遇、交戦後殺害したと」
おかしなことばかり起きる。
アニエスは一度天井を仰いで、それから装備を整えはじめた。
一方詰所を出た才人たちは今後の行動を話し合うため一度立ち止まった。
ウエイトたちのこともあるので一度魅惑の妖精亭にいかねばならない。結論は簡単に出て、雨の中再びチクトンネ街を通っていく。昨夜も雨のせいで人通りは少なかった。今夜はそれ以上に少ない。
常の喧騒に沸くチクトンネを知るギムリからすれば奇妙さしか感じない。ひっそりと、まるでなにかに怯え息を潜めるような暗さが通りに蔓延していた。
魅惑の妖精亭もその例外ではなかった。明らかに昨夜よりも客数が減っている。平時ならひっきりなしに声がかかる妖精さんたちもどこか暇をもてあまして気味で、普段は店内に目を光らせているスカロンも奥にいるのか姿が見えない。
酒を飲むことなく待っていたウエイトたちが手を上げて才人たちに声をかけ、一同は席に着いた。
「どうやら街が騒がしいようですが、こちらは特になにもありませんでした」
「ウエイト殿は遭遇しませんでしたか。正体不明勢力が浸透しているようで……」
ウエイトの報告にギーシュが答え、才人を気遣うように目をやって、それでも言う必要があるかと声を落としてはっきり口にした。
「サイトの同郷らしく、見たこともない飛び道具を使ってきます」
「見たこともない飛び道具……マジックアイテムですかな?」
遠慮もなにもなく、ただ必要だからウエイトは聞く。その瞳にこめられているのは憐憫や憤りでもなく、純粋に職務に忠実たらんとする軍人らしい強い意志であった。
「いえ、マジックアイテムじゃありません。ただの銃です」
言って、腰元のホルスターにおさめらたSIGを机の上に置いた。アルビオン軍人三名と、それとレイナールにギムリも興味深そうに弄り回している。
「さっぱりわからないな。ミスタ・コルベールならこういうのに詳しそうだけど」
「今は機構のことを考える必要はないでしょう。重要なのは殺傷能力です」
「平民の使う銃というのはそこまで強くないと聞いていましたが」
「地球の銃はずっと高性能です。弾丸一発で、当たり所が悪ければ人は殺せます。銃にもよるけど、それが十発前後、連射もできます」
「それはまた……大きな脅威ですな」
時折才人の解説をはさみながら、一同は銃を取り回して一通り観察した。最後に“ディテクト・マジック”をウエイトがかけて、才人に手渡した。
「ヒラガ殿」
手を組んで、じっと才人の目を見ながらウエイトは言う。
「同郷の者がこうなったのは残念なことでしょう。私も同じアルビオン軍人が無法行為に走ったと聞けば、ましてやその現場に直面したとあれば平静を保てる自信がありません」
副官が上官に提言するような、それでいて大人が子どもを諭すようにウエイトは淡々と告げる。
「しかし、歩みを止めてはなりません。我々の背にはハルケギニアの民がいるのですから」
それはきっと、ウエイトのもつ軍人としてのプライドなのだろう。一心に弱気を助けるために自らが杖を振るう。ただそれだけで他はいらない。
「すごい、素晴らしい。あなたこそ真の貴族だ!」
彼の言葉に感じ入った様子のギーシュは感嘆の声をあげ、ウエイトの手を取ってぶんぶん上下に振り回した。
――この人は、けれど。
だけど、才人の心にはさほど響かない。犠牲になったのは軍人だけじゃない。まっとうに勤め上げればそのまま天寿をまっとうできたはずの警察官だ。それも日本で殉職したのではなく、わけもわからず異世界に来て混乱と失意と絶望の中死んだのだ。
価値観の些細な違い、かみ合わない異世界観の常識は、小さく見えない棘として才人の心に潜む。
「すいません。ちょっとだけ一人にさせてください」
それだけ言って、才人は店員の許可もとらず昨日と同じく二階に上がっていった。今はとにかく一人になりたかった。
残されたウエイトたちは冷えた身体を温めるためグリューワインとシチューを注文して才人を待つことにした。ウエイトは一人かすかな憂いを帯びた顔をしていた。
――少し、説教がましかったか。
平賀才人の重要性はウェールズからよく聞かされている。おそらく彼こそがこの絶望的な戦いの趨勢を決定するということを。だが彼は同時にちっぽけな男の子でしかないということを、ティファニアから聞かされている。
才人にはウェールズを救われたという恩義がある。そのため打算や軍人の矜持を取り払い、極力ガンダールヴとしてではなく、少年として扱おうと決めていた。落ち込んでいるときは一人の人間として導こうと決意していた。
――なかなか難しいものだ。
ワインを口に含んで、巡回中の注意点を議論する若いトリステイン人の輪に加わった。
昨日と同じ部屋で、才人はベッドに腰を下ろした。
一人の部屋はどうしようもないくらいに静かで、自然と考えないようにしていたことが波間をたゆたう泡沫のように浮き上がっては消えていく。
先ほども一瞬よぎった何故という疑問。
なんでこんなところに日本人がいるのか。どうしてこんなときに現れたのか。なんだってこんなことになってしまったのか。
一つだけすべてつながる理由がある。
――きっと、邪神だ。
ハルケギニアにおいて名を言うことすらはばかられる、その姿唾棄すべき獣のごとくおぞましい、直視した者を狂気に陥れる邪神は、ガリアのジョゼフ王が言うには宇宙規模の存在である。ならば、地球にまでその影響を及ぼしても不思議なことはなにもない。
――どこまでもふざけてやがる。
ぎりっと歯を強く食いしばる。ふつふつと煮えたぎる怒りは降りしきる雨の音をもってしても冷ますことができない。
その雨音に混じって部屋に響いたのはノック音、才人は深く考えず入室をうながした。
「やっほー、ジェシカさんからのお届けものよん」
入ってきたのは相変わらず露出の多い妖精姿のジェシカだった。
才人は深く息を吸って、大きく吐き出して心を落ち着ける。彼女に八つ当たりするわけにはいかないと理性が働いた。
「なによ、人が入ってくるなりため息ついて」
「ちげーよ」
なにが楽しいのかジェシカはにやにや笑いながら才人の隣に腰掛けた。膝の上のお盆には薄く切られた黒パンと湯気をあげるシチューと二人分のグリューワインが載っている。
「連れの軍人さんがサイトにも持っていってくれって。あとでお礼言っておきなさいよ」
「あちゃぁ……そっか」
ウエイトにはとことん迷惑をかけているなと才人は額を押さえた。
「店のほうはいいのか?」
「ガラガラなの見てたでしょ? 雨だし昨日のアレが噂になってるから余計によ」
つまらなさそうに言ってジェシカはワインに口をつける。見習って才人も飲めば、ぴりとスパイスの香りが口に残った。
「ま、シチューも冷める前に食べちゃいなさいな。パパお手製のホワイトシチューは美味しいわよ?」
勧められるままホワイトシチューにも手をつける。魔法学院で味わったものよりずっと薄味だったけれど、冷えた身体にはなによりしみて、同時に空腹を強く自覚する。
固いパンをシチューにひたして黙々と食べる。さほど量は多くなかったので皿はあっという間に空になった。
「ごちそうさま」
「はいおそまつさま。と客商売でこんなこと言っちゃダメなんだけどね」
最後にワインを飲み干して人心地ついた。食べ終わってもう用もないだろうに、ジェシカは腰をあげるそぶりを見せない。木のコップを両手で持ちながら、ちびちびワインに口をつけている。その視線はぼうっと壁に固定されていて、なにを考えているのか才人にはわからない。
「なんかさ」
コップをお盆に載せて、お盆もベッドにおろして、ジェシカは才人の顔をじぃっと見つめた。
「シエスタに聞いてたのとは違っていっつも元気ないわよね」
「そう、かな」
そんなの理由は決まっている。タルブからこっち、まだ一週間もたっていないのに辛いことが多すぎた。常の明るく深く物事を考えない性格は表に出そうにない。
「なんかあったんでしょ、ジェシカさんに言ってみ?」
うりうりと遠慮なくひじで才人を突っつく。
――そんな、優しくしないでくれ。
その強引な優しさに、才人はすがりたくなってしまう。恥も外聞もなく助けてくれと叫びたくなる。
そんな内心を見透かしているのか、ジェシカはからから快活に笑ってみせる。
「酒場の娘なめんじゃないわよー。客の愚痴なんて慣れっこなんだから」
ジェシカは飛びっきりの美人というわけではない。ルイズやアンリエッタ、ティファニアと比べればだいぶ見劣りするのは才人から見ても明らかだ。
それでも彼女には、才人にだけ有効な圧倒的アドバンテージが存在する。黒髪黒目、日本人の面影を残した顔立ち、それらはこれ以上なく郷愁を刺激して、才人の心を解きほぐしていく。
加えて才人の周囲にはない独特の距離感を持っていた。ルイズやシエスタほど遠慮しているわけでもなく、ケティほどガンガン飛び込んでくるでもなく、客商売で鍛えた距離のとり方はひどく心地いい。
「だから、吐き出してしまいなさいよ」
その慈愛の微笑に、その優しさに、才人は落ちた。
「今日さ、俺の国の人と会ったんだ」
「サイトの国っていうと、ひいおじいちゃんと同郷の人? すっごい偶然ね」
ぽつぽつと、頭の中を整理しながら口に出しはじめる。
「俺の国はさ、詳しいことは言えないけどここからじゃ絶対にいけないんだ」
声にすればするほどに故郷の遠さを実感して辛さがこみ上げてくる。
思い出すのは日本での日々、なにごともない日常とふざけあえた友人、暖かかった父と母。
「ここからいけないって、サイトは実際ここにいるじゃない」
「一方通行みたいなもんみたい」
「ふぅん、まあよかったじゃない。今度紹介してよ」
何気ないジェシカの言葉に、落ち着いていたはずの激情が溢れた。
「できない」
ふたをしていたはずの記憶は、つい一時間ほど前のことでしかなく、心の奥底に封印しておくことなどできるはずがなかった。
雨に打たれて、はじけた頭からは血と脳漿が流れていて、臨時の遺体置き場になっていた詰め所には臓物の悪臭に満ちていて、これが神の書いたシナリオならあまりにも残酷に過ぎ、あるいは邪神の筋書きであったとしても、才人には到底許すことができない。
「その人、もう死んじまった」
ジェシカが絶句する。顔を見ていなくとも、きっと表情がこわばっているのがわかる。
「なあ、なんでだろうな。なんでこんなところに呼び出されて、わけもわからず戦って、最後には自殺して。あんまりだよ、ホントに」
手で目を覆ってしまう。あんまりだ。ひどすぎる。嘆く言葉はいくらでも出てくる。
それは異世界にて壮絶な最期を遂げた男たちに対してだけではない。才人は無意識のうちに、彼らに自分の未来を見ていた。ニューカッスルで戦った。タルブでも戦った。敵は、邪神はあまりに強大すぎる。どれだけあがいても勝てないような、心に絶望感が帳を落としつつある。
「サイト」
ジェシカは無理やり彼の顔を彼女に向けさせた。先ほどまでの微笑みは消えていて、だけど怯えも嫌悪もない。
そのままがしっと彼の後頭部に手を回すとそのまま自分の胸に突っ込ませた。
「よーしよしよし。辛かったのね」
かっと顔に血がのぼる。
混乱してされるがまま、胸に顔をうずめる才人の頭をジェシカは乱暴に撫でてやる。恋人にするような、あるいは慰めるような気配は一切なく、むしろ動物相手にするそれが近かった。
「口ぶりからすると家族もこっちにいない。友だちも故郷に残したまま」
恥ずかしくなってきて、それでも気持ちいいから跳ね除ける気にもなれない。
「なのにあの貴族様たちもサイトを中心にしてるみたい、きっと頼られてる」
乱暴だった手つきが少し柔らかくなって、ごわごわした黒髪を梳いていく。
才人はじっとかたまったままジェシカの言葉に耳を傾けていた。
「周りの人が頼ってくるとそうなるわよね。弱音をはけなくて、どうしようもなく行き詰って、苦しくて」
――嗚呼。
胸中でため息をつくしかない。なんでジェシカは、こんなにも的確に自分のことをわかってくれるのだろうか。
「今日は胸を貸したげるからとことん泣きなさい」
一筋、雫がこぼれる。
あますことなく理解してくれている人がいる。それだけでこんなに心が楽になるなんて知らなかった。
涙はさほど出なかった。かわりに暖かな気持ちが才人の中に芽生えている。
すっと撫でられていた手をほどいて、才人はジェシカに向き直る。
「ごめん」
「言うなら『ありがとう』でしょ。って前来た旅芸人が言ってたわ」
にかっと年頃の少女というより、少年っぽい笑みをジェシカは浮かべた。
「ありがとう」
自然、才人も笑みを浮かべた。
二人どちらともなく立ち上がって、ドアに向かう。
「ジェシカさんの胸で泣いた男なんてあんたが初よ。ホントなら十エキューくらいチップとるけど出世払いでいいわ」
お盆片手にジェシカはドアを開けた。
「はいお会計百二十エキューの五十年分で六千エキューになります!」
「す、スカロンさん!?」
扉を開くとそこには仁王立ちしたオカマがいた。
暖かい気持ちがものすごい勢いでしぼんでいく。ジェシカはなんてことない顔だったけれど、才人はじりじりと後ずさる。
「女の子の胸借りておいて、責任取らないっていうのかしら?」
「え、あ、いや、その」
ミ・マドモワゼルなにするかわからないわよ、なんてくねくねとスカロンは才人に詰め寄る。ある意味凄まじい迫力であった。壁際に追い詰められ、才人は生まれたての小鹿みたいに震えるしかない。
「もーパパったら、そんなんじゃないわよ。ほら、サイトも連れ待たせてるんだし、とっとと戻りなさい」
「りょ、りょーかい」
呆れ顔のジェシカはやれやれと肩をすくめながら助け舟を出した。
その言葉に従って、才人はあっという間に部屋を出て行く。残された親子二人は、目をあわせて部屋を出た。
「ジェシカ、ずいぶんサイトくんに入れ込んでるじゃない」
「そお? まーそうかもしれないわね」
「惚れたの?」
「まさか。カッコいいところ一つも見てないし、むしろ情けないとこしか見てないし」
ストレートな物言いのスカロンに、ため息交じりの答えしか出ない。
「なんていうかね、弟みたいな感じよ。会ってすぐでこんなこと言うのもへんだけど」
「う~ん、そうかしら」
娘の言葉に半信半疑といった様子で首をかしげる。階段にさしかかるころ、まあ本人がいいならそれでいいかと思った。
***
翌日、才人たちは再び夜のトリスタニアに身を投じた。雨はまだやむ気配を見せない。ギトーが予見したとおり、この季節にはありえないほど長い雨になるようだった。
王宮で昨夜の事件を聞いていたルイズは、今度こそ才人を止めようとした。けれど彼は聞き入れない。仮に今夜も同じようなことがおきるなら、自分なら助けられるような、そんな気がしていたからこそ止まれない。
地球人の出現位置はまったくのランダムで法則性をつかめない。強いて言うなら大通りに近いところに出やすい程度で、城門の外に現れたものもいたそうだ。すでに八名、もの言わぬ死体になっている。
合流する予定であったコルベールは別件に時間をとられ今夜も別行動になると伝達がきた。ウエイトとアルビオン人二人、それとギーシュたち四人と最後に才人、昨夜と同じメンバーで街を探索する。
例によって魅惑の妖精亭で合流して、フードをきっちりかぶってから街に出る。気休めくらいの銃対策に、ギーシュの“錬金”した胸甲を身に着けていて、昨日よりもその足取りは重かった。
銃士隊も魔法衛士隊も動員数を増やしている。なんとか諸悪の根源を絶って被害を抑えたいというアンリエッタたちの考えがあった。
「あそこからいこうか」
目に付いた路地をくぐり、あてもなく街をさまよう。すれ違う人々もみなフードをかぶっていて、通りはどうしようもなく重苦しい。
時折聞こえる酒場の喧騒は安心感すら与えてくれて、家から差す灯りはここが人の住む世界であることを教えてくれる。
神経を削りながら巡回する彼らは、一度大通りに戻ることを決める。狭く曲がりくねった路地を進み、もう少しいけばブルドンネ街に出るというところで、突如男が転がりだした。
「警戒!」
即座に声をあげるマリコルヌと“ワルキューレ”を作り出すギーシュ。ギムリは身体を半身にして“火球”のルーンを唱え、レイナールはカンテラを素早く壁際に転がした。
石畳に倒れる男は彼らと同じくフードをかぶっていて昨日出現した者とは明らかに違う。
続けざまに一人、二人と路地の曲がり角から吹っ飛ばされてくる。遠くから見る限り気を失ってはいたものの怪我をしている様子はない。最後の一人はフードがめくれていて、おそらくハルケギニアの住民であろうということがわかった。
「ぼくのワルキューレを先行させる。ギムリは“火球”をそのまま待機、マリコルヌは“ウィンド・ブレイク”を」
ギーシュの指示に従い、そろそろとワルキューレの後をついていく。先行させた女騎士に攻撃が加えられないのを確認してから、マリコルヌが杖を構えつつ曲がり角に飛び込み、再び驚きの声をあげた。
「ミスタ・ギトー!」
「……夜遊びとは感心しないな」
黒髪をしっとり雨にぬらし、幽鬼のような男が佇んでいる。昨日勧誘したばかりの魔法学院教師、『疾風』のギトーであった。
敵ではないことを確認し五人は彼に駆け寄った。傍目には外傷もなく、体力を消耗していることもない。
生徒が心配する目にもかまわず“ウィンド・シールド”を詠唱する。雨が風の膜を流れていき、その身体をぬらすことはない。
「言ったはずだ。騎士隊遊びはやめておけと」
「ですが、ぼくたちにも職務があります」
「平民の衛士も魔法衛士隊も動き回っている。諸君の出る幕ではない」
レイナールの言葉もろくにとりあわず倒れる男たちに向かう。全員のフードをはがすと、やはり三人ともハルケギニア人の顔をしている。
「酔漢というわけではなさそうか……また軍人か」
「ミスタ・ギトーは何故ここに?」
「雨をうまくよける“ウィンド・シールド”の練習だ。教師だからこそ日ごろの研鑽を怠ってはならない」
こんな時間にやる必要ないんじゃ、という視線を無視してギトーは男たちから杖をとりあげ、懐から取り出したロープを使ってふんじばっていく。元軍属だけあってその手つきは手馴れたものだった。
「その、もっと練習に向いたところがあるのでは?」
「元軍属の身として練兵場には行きづらい。なに、歩きながらやれば難易度があがって丁度いい」
「なんでこんな遅くに」
「思い立ったが吉日という言葉もある。それともなにか、きみたちが困ることでも?」
「いえ、ありません……」
こんな場所でこんな時間にうろつきまわっているなんて、普通はありえない。言い訳にしたって無理がありすぎた。
――この人、ひょっとしてギーシュたちが心配で巡回してたんじゃ。
だとしたらなんていい教師なんだろうと才人は感心する。
そんな彼の視線を感じ取ったのか、じろりとギトーは才人をにらみつけた。
「なにか勘違いしているようだが、私は私の事情を優先しているだけだ」
――こ、これはアレか。「勘違いしないでよね、別にあんたのためにやってるわけじゃないんだから!」ってヤツか……。
おっさんのツンデレなんて誰も得しない。
なんだか毒気を抜かれて、ついでに肩の力もぐっと抜けた。
「しかし、トリスタニアも治安が悪くなった。スリならいざ知らず貴族相手の強盗なんぞめったに出なかったというのに」
「ミスタ・ギトー。どういう状況だったかお聞きしてもよろしいですか?」
「私が歩いていたらすれ違いざまに無言で襲い掛かってきた。つい昨日の連中と同じ雰囲気がしていたな」
「奇妙な話ですね」
魅惑の妖精亭に押し入ってきた男たちのことは才人も聞いている。銃士隊に身柄を引き渡し、男たちが下級貴族であったのでそこからさらに魔法衛士隊の担当にうつり、尋問には黙秘しているらしく、新しい情報は入ってきていない。
「サイト、彼らは」
「人間だ。間違いなく、ただの人だ」
ギーシュの懸念を才人は否定する。リーヴスラシルのルーンもガンダールヴのルーンも反応が一切ない。ケティからですら微弱な邪神の気配を感じ取ることができたのだ。どこかで接触があったのなら、おそらくわかるはずだ。
「デルフ、どう思う?」
「軍人がこの時期に追いはぎを行うとは考えにくい。なにか彼らは密命を帯びているのではなかろうか。ギトー殿、そなた仇持ちではあるまいな」
「いや、そのような覚えはない。そうであればこんな夜には出歩かない」
これまでずっと黙っていたデルフリンガーに意見を求め、一つの可能性が出てきたが、あっさりギトーに否定される。
「とにかく、諸君は帰りたまえ。この男は私が衛士に突き出しておく」
“レビテーション”で三人の男を持ち上げ、雨に打たれながら悠々とギトーは去っていく。
その軽やかさ、まさに疾風の如くであった。
「レビテーションの複数がけとか、器用だな」
「うぅむ、やはりミスタ・ギトーは強い。騎士隊に欲しい」
「ま、ミスタ・ギトーの言葉じゃないがそろそろ合流時間だ。一旦妖精亭に戻ろうぜ」
ギムリの声に感心するマリコルヌも隊の勢力拡大に執心しているレイナールも振り返る。ギーシュ一人だけが腕組みして考えていた。
「どうしたギーシュ?」
「お腹でも痛いのか?」
「いや……なんでミスタ・ギトーだけ襲われたんだろうって」
「言われてみれば、不思議だね」
彼らはすでにかなりの距離を歩いている。すれ違った人間なんて数え切れない。だけど襲われることは勿論なかった。
「俺たちは五人だからじゃ?」
「巡回中は一人歩きしている人もいた。露見していないだけかもしれないけど」
「とにかく、ミスタ・ギトーが昨日今日で二回も襲われたのは事実だ。戻ってからウエイトさんたちにも確認をとろう」
話し合っても答えの出ない議論を打ち切って、五人は細い道をたどってチクトンネ街を目指す。
昨夜のような銃声は聞こえない。そのことに才人は少しだけ安堵する。もうあんな無残なことは起きない。罪もない人が死ぬことなんてない。
そんな幻想を欠片でも抱いてしまった。
混沌は闇夜に這い寄るということを、忘れてしまっていた。
ある十字路にさしかかる。このまままっすぐいけば魅惑の妖精亭まで五分もかからない。
なのに、才人はそこで足を止めた。誰かが呼んでいるような奇妙な違和感をおぼえる。
「サイト?」
「あ、いや。なんかこっちが気になってさ」
右を指差しながら頭をかく。なぜ気にかかるのか、彼にも説明はできない。
「こういうのは放置しておくと後々まで尾を引くものだ。さして時間もとるまい、いくべきだと某は思うぞ」
「まあ、デルフリンガー卿がそういうなら」
路地は細く、長く続いている。道なりにしばらく進んでも折れ曲がったりはしているものの、分岐路などはない。
やがて家の裏口が密集しており、建物の間に何本もロープが張られている少しだけ広い空間に出た。
「は……」
「え、なん、で」
雨が降る。染み出す血の河を洗い流すようにしとどなく街を打つ。
レイナールが落としたカンテラは割れることなく地面をころがり、赤を照らし上げる。
「抜け相棒!」
「円陣防御!!」
デルフリンガーが叫ぶ。ギーシュが吼える。
右手は腰の銃に、左手は神剣をそれぞれ刹那の間に抜き払う。一瞬で各々が背中を託しあい、周囲に目を配った。
「ぎ、ギーシュ、ワルキューレを!」
「もうやってる! 防壁作れマリコルヌ!」
「了解!」
三体のワルキューレが石畳から生み出され、マリコルヌは精神力の消費を気にせず大規模な“ウィンド・シールド”を作り上げる。
全力で走ったわけでもないのに息が荒くなる。極度の緊張に五人は置かれ、ともすれば膝をついてしまいそうだった。
「レイナール、念のため……」
「あ、ああ、わかっている」
円陣を維持したまま五人はじりじり移動する。広間の隅へ、血の流れる根元へ。
「こんなの、なんで、くそっ!」
「気配はどうだサイト!?」
「なにもない。ぜんっぜん感じねぇよ!」
雨とは違う脂汗がしたたりはじめ、こんな夜中に悲鳴じみた大声を出しているのに民家からは誰一人出てこない。そもそも明かりがついていない。
「二人とも、いや、三人とも、死んでる」
倒れ伏す三人の遺体と、そこから少し離れた木棚に安置された一つの頭。
つい一時間前に話したばかりだった。これからもずっとともに戦うはずだった。アルビオンの誇り高い軍人、クラーク・ウエイトは凄惨な死に顔を雨にさらしている。
他の二人も首こそ落とされていないが、身体中に傷がついていて絶命は明らかだった。
「ど、どうするんだギーシュ」
「どうするもこうするも。どうすればいい、どうすればいいんだ」
「落ち着け、いいから落ち着けよ!」
ウエイトは言わずもがな、他の二人もギーシュたちからすれば遥かに強いメイジだ。その三人がここまで無残に殺されている。この三人を虐殺できる存在が近くに潜んでいる。
カリーヌの教えすら忘れ五人はパニックに陥っていた。豪放に見えて普段もっとも冷静なギムリですら自分に言い聞かせるように言葉を繰り返すしかできない。ここで襲撃を受ければどうなるか、いやな想像ばかりがふくらみ五人を圧迫していく。
「相棒は周囲を警戒しておけ。ウィンド・シールドを解いてはならぬ。ワルキューレを急いで大通りに向かわせよ。あとはライトで少しでも光源を確保。残るは検死だ、傷跡をあらためるのだ」
ただ唯一、デルフリンガーだけは一切の動揺を見せなかった。威厳ある低い声に才人たちはほんの少し平静を取り戻し、各々指示されたことに取り掛かる。
ギーシュは新たに四体のワルキューレを作り、それぞれ別のルートを経由して大通りに、衛士の詰所に走らせる。ギムリが“ライト”で強い光を生み出し、その明かりを頼りにレイナールはおっかなびっくり死体の服を裂いていく。
「火傷があります。それと風魔法らしき鋭利な傷に、土魔法を受けたと思しきアザも」
「下手人はメイジである可能性が高い、か」
「それと専門知識はないので、断定はできませんが」
「些細な手がかりでもかまわん。わかったことがあればどんどん言ってくれ」
「多分、拷問を受けています」
レイナールが調べた遺体にはおそるべき所業が刻まれていた。
彼らにそれを吟味する暇を与えず、トリスタニア中に鐘が響き渡る。何度も何度も打ち鳴らされる鐘の音は路地に反響し、五人から容赦なく余裕を奪っていく。
「これ、なんなんだ」
「火事だ。こんなときに……」
「すごく気持ち悪いな。場所が悪いせいでこだましてる」
才人の疑問にギムリがすぐ答える。“ウィンド・シールド”の維持に努めているマリコルヌは、風メイジの聴覚のよさもあって顔が青ざめている。
「この場を離れるぞ。今宵はもはや尋常ではない。一刻も早く安全地帯に行くべきだ」
「デルフ、でもウエイトさんたちが」
「今生きている者がすべてだ。とにかく走れ!」
デルフリンガーの大喝を受け、五人ははじかれたように走り出した。走りながら隊列を組みなおし狭い路地を駆け抜ける。
常ならば眉をひそめるような道に散らばる汚物も、通りをふさいでいる家具類も気にせずひたすら生きるために足を動かす。普段はどうしても遅れがちなマリコルヌですら四人と同じくらいの速さで走ることができた。
時間にして五分もなかっただろう。チクトンネ街に出た頃には五人とも息絶え絶えだった。
「これから、どうすれば」
「まず息を整えて、それから詰所に向かうべきだ。そこで事情を説明し魔法衛士の分隊を送るべきであろう」
デルフリンガーはあくまで冷静に指示を下す。
いつかの魔法学院で、カリーヌの調練を受けたあとも五人はこうして疲れ果てていた。それはむしろ心地よい疲労感だった。今は違う。わけもわからぬ恐怖から逃げ、心身ともに衰弱しきっている。
「しかし、さっきよりずいぶん人通りが多いな」
「火事の、せいだろ。チクトンネ街のどこかみたいだな」
いち早く呼吸を落ち着けた才人に、まだ少しきつそうなギムリが答える。火事に野次馬が集まるのはハルケギニアでも変わらないようだ。
全員が息を落ち着けたあと、昨夜訪れた詰所目指し歩き出す。人の流れの向きは一致しているようで、苦もなく進むことができた。
暗い夜空に黒い煙がたなびいている。雨に消えないほど火の勢いは強いらしい。
「なあ……」
「ああ、まさか。まさかな」
口では否定しておきながら五人の足は速くなる。人混みをかきわけつつ進むほどに速まり、そして新たな絶望を目にした。
魅惑の妖精亭が轟々と燃えている。