ウエイトから諭された。スカロンの料理に力を与えられた。ジェシカに心を救われた。
まだ二日しか関わっていないのに、魅惑の妖精亭にはたくさんの思い出が詰まっている。平賀才人にとってはハルケギニアで初めての夜を過ごした魔法学院のように、きっとこれからもずっとお世話になるだろうと思っていた場所だった。
だというのに焔は人の情すら飲み込みながら建物を焼いている。遠目にもわかるほど炎は激しく、冷たい雨に打たれながらも天をも染め上げんと踊り、闇夜の如き黒い煙を吐き出し続けている。
五人は走った。人波をかきわけ、時に叫び、杖を振り回しながら建物の前に駆けていく。鐘の音が鳴り始めてからおおよそ十分、才人たちは魅惑の妖精亭を前にした。
チクトンネ街は狭い。隣家の者のみならず、近くに店をかまえる人々がなんとか建物を打ち壊して延焼を阻止しようと試みており、それを遠巻きに眺める群衆との必死さが水と油のように雑じりあわず奇妙な光景を造り上げている。メイジはいないようで、消火もなにも進んでいない。裏手を流れる細い川から水を汲んでくる住民もいたものの、まさに焼け石に水といった具合で一助にすらなっていない。
少し離れたところに、雨に打たれたまま不安げな眼差しを燃える酒場に送る一団がいる。妖精亭の制服に身を包み、または簡素な平民服に袖を通して、彼女らの内幾人かは店に飛び込もうと暴れる店員を羽交い絞めにして止めている。
近づいたギーシュたちに気づいたのか、栗毛の少女が叫ぶ。
「貴族さま! スカロン店長とジェシカが、助けてください!!」
髪を振り乱して少女はギーシュにすがりついた。レイナールたちも彼女のことを少しだけ知っている。酒場であんな服装で働くくせ引っ込み思案で、そこがいいとチップをよくもらっていた。そんな彼女が平時の余裕も平静さもすべてをかなぐり捨てている。
言葉足らずではあったが、中にスカロンとジェシカがいることは全員がすぐに理解した。次の瞬間に才人は燃える建物に突っ込もうと走り、ギーシュに首根っこを引っ掴まれて止まった。
「なにすんだ!」
「少し待ちたまえ!」
食って掛かる才人に怒鳴ってから、ギーシュはワルキューレを造り上げる。いつもの派手派手しい装飾はなかった。
「焼け落ちた建材もあるはずだ。ワルキューレに先行させる」
「大丈夫かギーシュ。今日はもう……」
「今はそんなこと言ってる場合じゃない」
すでに彼は一日の限界錬成数である七体のワルキューレを生み出している。限界に近い魔法の行使に、崩れかけた膝をぐっとこらえて歯を食いしばる。マリコルヌの心配する声にもとりあわなかった。
続いてレイナールは“コンデンセイション”で大気中の水を集め、五人のマントだけでなく衣服の隅々にまで滲みこませた。マリコルヌは一度解除していた“ウィンド・シールド”を小規模で発生させる。
才人の背中のデルフリンガーは店員たちにスカロンのいた場所、火元と思しき場所の確認を、いつもの長々しい喋りもなく聞き出していた。
「ギムリは」
「わかってる。『火』以外は苦手だけどなんとかやるさ」
以心伝心といった具合でギーシュの言葉を遮ったギムリは周辺家屋で木槌を振り上げる平民の一団に向かう。常の『火』のような威力はないものの、“石弾”で着実に壁を打ち砕いていく。
「いこうサイト。先走るなよ」
「店長は事務室にいたそうだ」
そして四人はワルキューレを先頭に、炎が支配する魅惑の妖精亭に足を踏み入れた。
店の中はひどい荒れようだった。客も店員も先を競って逃げ出したのか、床の上にはジョッキや皿、食べ物が散乱し、椅子は蹴倒され机すらいつもの場所にない。ただそのおかげで水や酒がばらまかれたようで、床は思いのほか歩ける部分が多かった。
熱気に身を焼かれながら四人は足を進める。ワルキューレは青銅製だけあって人よりずっと重く、先行させれば床が抜けるかどうかを容易に確認できた。煙にまかれないようにと作ったマリコルヌの風は、結果として炎の勢いを一部強め、それでなくとも激しい火はより鮮烈に躍り上がる。レイナールもこまめに水を凝集させては帰りの妨げになりそうなところにかけていく。
狭い店内が異次元のごとき広がりを見せているように、炎は不思議な錯覚を一行に抱かせる。
「後退せよ!」
突如デルフリンガーが叫ぶ。反応できたのは才人一人、彼は咄嗟にマリコルヌを突き飛ばし、レイナールとギムリを抱えて後方に跳ぶ。
刹那の後に梁が四人の立っていた場所に焼け落ち、ワルキューレが巻き込まれて床にめり込んだ。
「あちっ、あっちっ!!」
「ごめんマリコルヌ!」
「イル・ウォータル。助かったよ」
ころがったマリコルヌが火に突っ込み、レイナールがそれを消火する。
「よし、動く」
声も出さなかったギーシュはワルキューレに集中していたようで、重い木材がゆっくりと持ちあがっていく。やがて自重で梁がへし折れ、再び道は開けた。
ギーシュは息を荒げ、炎に囲まれているのに心なしか顔が青い。普段彼はワルキューレを自律制御させており、精神力が空っぽに近い状態で動かしたことがめったにない。限界が近かった。
「急ごう」
時間がないことを察したレイナールが皆を促した。
天井にも目をやりながら、それでもさっきより足を速めて厨房に入る。フロアよりも燃え広がっていたものの、そこまで大差はない。ここが火元だという確証は得られなかった。
その奥、事務室の扉をワルキューレが押し破り、火が噴き出てこないことを確認してから四人も戸枠をくぐった。
「ジェシカ! スカロン店長!」
長い黒髪を床に投げ出している少女と、折り重なるように筋骨隆々とした男性が床に倒れている。才人は一切の躊躇を見せず駆け寄り、上に重なっているスカロンを抱き起こす。
べったりと粘ついた赤黒い液体が手についた。
「レイナール!」
「イル・ウォータル・デル!」
スカロンの介抱はレイナールに任せ、今度は下になっていたジェシカを抱き起こす。息はある。脈もある。すぐ判断できる範囲では気を失っているだけだった。
「くそっ! 血が止まらない、秘薬がないとこんなの無理だ!」
ドットに過ぎないレイナールでは治せる傷に限界があり、悔しさから唇を噛む。しかし自分にできないことには素早く見切りをつけ、今度はジェシカの具合を見る。魔法による探査で傷がないことはわかった。
こうしている内にもじりじりと火の舌は近づき、炎の轟音とともに建物がきしむ音すら聞こえてくる。
「とにかく脱出が先だ、行こう」
「でも怪我人を動かすのは」
「ここだっていつ火にまかれるかわからぬし、外に出れば秘薬やライン以上の『水』がいるかもしれん。相棒、店長を担げるか?」
「いける、やる」
右肩にスカロン、左肩にジェシカを担ぎ、右手にはデルフリンガーを握る。ガンダールヴの膂力をもってすれば大人二人さして重くはない。
「少年、ワルキューレで丁寧に道を拓くのだ。力任せにやれば崩落しかねん」
「了解です」
どのような事態にあっても冷静さを失わない神剣の言葉にギーシュが頷く。
来るときは燃えていなかった床も今や炎が蹂躙し、ワルキューレが火を踏みけし、またレイナールが水で消火しながら進んでいく。
危惧していた崩壊にはまだ時間があったようで、皆は無事通りに出ることができた。
「無事か!」
「スカロン店長がまずい、秘薬か『水』メイジが必要だ!」
飛び出した才人たちにギムリと店員たちが駆け寄る。隣二軒はかなり大きく崩れており、そこから家財木材など燃え広がりやすいものを住人が回収していた。
「ピエモンの! ありったけもってきてくれ!」
「あいよ!」
常連らしき親父がだみ声をあげ、それを受けた老人が人ごみにするすると吸い込まれていく。
「あいつの店は遠い。間に合えばいいんだが……」
不安そうな皆の前で、黒髪の親子を横たえる。傷を負っていないジェシカの看護は栗毛の少女、ジャンヌに任せ、才人はナイフを振るう。血と汗とでスカロンの肌に張りついた服を斬り剥がすと、想像していたよりずっと広く深い一文字の傷口が背中に残されていた。火事場で負うはずもない怪我に人々が息をのむ。
先ほど試して無駄とはわかっていた。それでもレイナールは“ヒーリング”を唱える。普通ならば見る見るうちに傷をふさいでいくスペルは、けれどこぼれおちる命をつなぎとめることができない。
「誰かライン以上の『水』メイジはいないのか!」
無力さを噛み締めたレイナールの悲痛な叫びは群衆に届かない。人の群れから歩み出る者はおらず、あまりの悔しさに拳を地に打ちつける。
「こうなったら包帯止血だ、清潔な布がいる」
ハルケギニアにおいて包帯を用いた応急処置は水スペルよりも劣ったものとされている。なぜなら水魔法を使えば傷口を瞬時にふさぎ、失われた血をも増やすことができ、さらに鎧や服の上からでも問題なく行えるからだ。
だがこの期に及んでそんなことは言っていられない。レイナールの“ヒーリング”では十分な治療を行えない以上、一秒でも早く血を止めなければならなかった。
才人はいの一番に自らの服を裂こうとしたが、ギーシュに止められた。煤や灰が付着してとても清潔とはいえない布を傷口にあてがうわけにはいかない。
近くに店をかまえる猫肉屋が予備用のシーツをもってきて、武器屋の親父は火事に飛び出たとき、そのまま持っていたウィスキーの瓶を消毒に使う。みなが一丸となってスカロンの命を救おうとしている一方、まだ炎の輝きに目をとられるばかりで彼には見向きもしない大衆もうごめいている。
あたかも魅惑の妖精亭を焼く神聖な火炎をあがめるように、それは一種宗教画めいた光景でもあった。
マリコルヌが底をつきそうな精神力で風の傘を作り上げ、その下でグラモンの一員として並みの平民や貴族よりも応急処置に詳しいギーシュが奮闘する。ウィスキーをかけて血を流し、裂いたシーツを強く体に巻きつける。彼が傷ついてからどれほどの時間がたったのかはわからない。ただ流れた血の量が多いと言うことだけが明白で、今もこうして呼吸をたもっているのが奇跡のようにしか思えない。
手当のさなか、スカロンがうっすらと目を開いた。
「スカロンさん!」
「ジェシカ、は」
「大丈夫です。気を失ってるけど怪我ひとつありません」
才人の言葉に、安心したような柔らかな笑みを浮かべる。
「サイトくん、あの子を……」
最期の言葉は雨音に吸い込まれていった。
それっきり、スカロンの身体は冷たくなっていく。
「レイナールッ!!」
才人の叫びにレイナールは何度も“ヒーリング”のルーンを繰り返す。けれど、一度失われた生命が戻ることはなくて。
「ぼくは、無力だ……!」
ついには杖を取り落としてしまう。メガネのレンズに一粒、二粒の水滴が零れ落ちる。
「くそっ、ちくしょう、なんでだよ……なんでだよ!!」
しとしと空は泣き続ける。その涙をもってしても、少年たちの心を洗い流すことはできない。
―――意志の炎は再び燃え―――
火事の鐘が鳴ってから二十分ほどがたち、幻獣がトリスタニアの夜空に舞い上がる。ヒポグリフに乗った衛士は次々に強力な水魔法を魅惑の妖精亭に浴びせ、間もなく炎は勢いを完全に失い、後には黒く炭化した建材と石造りの構造だけが残った。
遅れて現れた彼らに悪態をつくのは少数ではなく、付近の住民はほとんど不満を押し隠せない顔をしている。衛士がもっと早く来ていればスカロンは、あるいは助かったのかもしれない。
しかし居を遠くに構える市民は、見世物が終わったと言わんばかり、つまらなさそうな表情で家路についていく。この温度差がどこからくるものなのか、当事者たちにはわからない。家が焼け、人命が失われたというのにそれが遠い世界の出来事であるように、それぞれの日常へ帰っていく。死者のように、ゆるゆると雨に打たれ足を引きづる姿は、言い知れない薄気味の悪さがあった。
そして魔法衛士隊もチクトンネ街に降り立つことなく、消火を遠目に確認して再び王宮の方へと戻っていく。平時なら現場の確認にやってくるはずなのに、それがなかったのはギーシュたちに違和感をもたらす。だが今はそれよりも、気を失ったままのジェシカと亡くなったスカロンのことが重く心にのしかかり、さらに巡回後に火事場へ飛び込んだことの疲労も大きく、気にかけねばならないはずのこともすぐに忘れてしまった。
あたりに人の流れがまばらになりはじめたころ、人々はざっと壁際によって道を開ける。姿を現したのは完全装備の衛士たちを引き連れた、ギーシュだけでなく他の三人も知る美髯の軍人であった。
こんな街中に姿を現す人物ではない。人々はその名を囁き合う、ド・ポワチエ将軍と。
「サイト・ヒラガだな」
ギーシュにもマリコルヌにも、レイナールとギムリにすら声をかけず、将軍はまっすぐに才人を見る。無機質な瞳、感情の色はうかがいしれない。
無言で頷くと、ざっと衛士が才人を取り囲む。
「ついてきてもらおう。殿下がお前をお呼びだ」
尊大ではなくひたすら事務的に、ド・ポワチエは言葉を発する。それはどこか機械めいているようにも思え、血の流れる同じ人間とは思えない。
今ここで火事があったのに、ここにスカロンの遺体があるというのに、そんなことはまるで些細なことだと、気に留める様子も見せない。それどころか、衛士からはかすかな苛立ちすら感じられる。
「サイト、この場はいいから行ってきてくれ」
「ああ、殿下の命を優先すべきだ」
これ以上ぐずぐずして心証が悪くなることを危惧し、ギーシュとギムリが才人を促す。
才人は一瞬行こうと足を浮かしたが、ふみとどまった。
「でも、ジェシカが」
スカロンは最期に言った。才人にジェシカを託すと言った。今彼女の目覚めを待っていてもなんにもならないなんてこと、才人にだってわかっている。
それでも素直に行くことなんてできなかった。
「……ここの店主の娘か。雨に打たせておくのも忍びない。特別に連れて行くことを許可しよう」
許可しようとは言うが、その言葉には強制力が秘められていた。ただしお前が背負うのだと、ポワチエは才人を促す。眼差しから温かみを感じなかった将軍からそんな言葉がでようとは、才人は少し意外な感じがした。
少し迷って、魅惑の妖精亭の店員たちに背中を押され、才人はデルフリンガーを腰に無理やり帯びてジェシカを背負う。先ほどまで火事場にいたせいで煙のにおいが染みついている。
「スカロンさんを、頼む」
「ああ、任せてくれ」
才人の言葉にマリコルヌが力強くうなずく。そして、彼はド・ポワチエ将軍たちに連れられ魅惑の妖精亭前を去って行った。
あとに残された者たちはまずスカロンの遺体を葬儀までどこにあずかってもらうかを話し合い、その間に比較的元気なギムリと力のある男たちが残り火の有無と無事な荷物の搬出を手伝いはじめる。限界まで精神力を絞り出したレイナールは、店員と一緒に屋根のある場所で休ませている。
ギーシュとマリコルヌは、ウエイトの件を先ほど将軍に伝えられなかったことを悔やみながら衛士の詰所に向かった。
その途中、道をいく二十人ほどの集団にかち合って、その先頭をいく意外な人物に二人は目を丸くする。
「ルイズ、なんでここに」
見るとルイズだけではない。銃士隊隊長のアニエスや、意外なことにルイズの姉エレオノールも道を同じくしていた。
「捕り物よ。サイトは?」
その言葉にギーシュはきょとんとした。今現在ルイズはアンリエッタの側近として働いている。グラモン元帥が殿下が呼んでいると言ったのだから、当然ルイズにもそれは伝わっていると思っていたのだ。
「姫殿下が呼んでるって、ド・ポワチエ将軍が連れてったよ」
足は止まらなかった。だがルイズの表情は誰から見てもわかるほど強張った。
「姫さまはそんなこと言ってない」
「殿下は我々と合流するよう命を下された。サイトを呼び出すなどありえん」
アニエスも彼女と同意見のようで、先ほどまで消えていたはずの違和感が鎌首をもたげるのをギーシュは悟った。
「まさか、ド・ポワチエ将軍までアカデミーについたのか……」
「ギーシュ、将軍は何人くらい連れてたの?」
「確か、五人くらいかな。全員腕が立ちそうに見えたよ」
「五人か、手練れならガンダールヴの力があってもわからんぞ」
「サイトが危ないわ」
二人にはルイズやアニエスの意図するところがわからない。ただわかるのは今才人が危険だと言うことだけ。
「ルイズ、なにが起きてるんだい?」
「姫さまの部屋に対して遠見の鏡が使われたの。アカデミーのゴンドラン評議会議長に拘束令が出たわ」
王族の居室、執務室を遠見の鏡で覗き見るのは不敬、国家機密漏えいから重罪で、ガリアにおいては罪人は市中引き回しの上ギロチン刑、お家取り潰しの上親族郎党皆殺しに処され、トリステインでも拷問の末ギロチンにかけられるのが常である。そしてトリステイン国内でこのマジックアイテムが保管されているのは魔法学院の学院長室か、王宮の宝物庫か、アカデミーの研究施設の三か所である。
王宮の宝物庫は厳重に警備されており、侵入してもその場で使うなどできるはずもない。さらにことが発覚してから使用された痕跡がないことを確認されている。
魔法学院のものはオールド・オスマンが管理しており、彼以外の誰にも使用できないよう魔法でロックがかけられている。彼が眠り続けている以上、誰にも使うことができない。
様々な事象を研究するアカデミーでは、申請さえすれば誰にでも使うことができる。エレオノールを経由して調査したところ、最後の使用者はゴンドラン評議会議長。一週間ほど前から彼が遠見の鏡を預かっていることになっている。
平時ならばもう少し時間をとって調査を進めるが、今は些細なことでも芽をつぶさねばならない。彼が邪神につながっている可能性を考慮し、銃士隊と虚無、そして魔法衛士隊による強襲を行う予定であると、ルイズは言う。
火事のときに衛士隊の動きが鈍かったのと現場に降りてこなかった理由をギーシュたちは悟り、同時に噴き出てくるウエイトの死への不審。なにかとんでもないことがトリスタニアで起きようとしている予感があり、衛士の詰所にいくよりもここでルイズたちに同道したほうがいいような気がして、マリコルヌと顔を見合わせる。
「関連しているかはわからないですけど、アニエス隊長。ウエイト殿の分隊が殺された。レイナールの見立てでは拷問のあともあるって」
「なに」
マリコルヌの言葉にアニエスはピタリと立ち止まる。
「いつ、どこでだ。遺体は、状況は」
「およそ一時間半以内、場所はチクトンネそばの路地広場、遺体はそのまま」
トリステイン貴族らしからぬ簡潔な言葉がむしろ逼迫した事態を克明にしていた。
腕組みしながらアニエスは唸り声をあげる。最適解がわからない。今どう動けばいいのか、もし父がこの場にいたのならどのように指示を下すのか、それだけをじっと考える。
十秒ほどしかたっていないのに、彼女の言葉を待つギーシュたちは数分もたっているような錯覚を抱いた。
「アカデミーを最優先すべきだな……地図を描いてくれ」
覚えている限りの地形をアニエスから手渡された紙に書きこむ。アニエスはそれに目を通し、部下の一人に渡してリッシュモンの元へ向かわせた。
「将軍は敵に回っていると考えるべきか。となると強襲用に抑えている衛士隊にも内通者がいる可能性も……」
「アニエス、サイトの無事を確保しないと」
「わかっている。わかっているが……」
「ド・ゼッサール隊長を頼りましょう。母さまが後任に据えたあの人ならきっと」
「ダメだ。彼はおそらく見張られている。こちらの動きがバレる可能性が高い」
暗闇で落ちた針を探るように、誰が敵で誰が味方かわからない。下手に手を伸ばせば刺されそうで、うかつに動くことができない。
味方だとわかっている人物にすら容易に頼ることができない。どうにも八方ふさがりだとアニエスは唇を噛む。
そこに声をかける男がいた。
「通行の邪魔だ。道を開けたまえ」
尊大な物言いに反して声音はじっとりと重く粘ついている。ギーシュたちはその男を知っていた。
「ミスタ・ギトー!」
「ケティにモンモランシーまで、なんでこんなところに」
「わたしはなんでこの子の名前が先に出るのか聞きたいんだけれど」
ついさっき別れた頼もしい教師と、魔法学院の女子生徒が二人。
「この二人はこんな時間にチクトンネ街を歩いていてな。まったく、昨今の風紀は乱れている」
「サイトさまにお会いできれば、って思ってたのに」
「夜も遅いのに男と逢引とは、けしからん」
「わたし無理やり連れだされただけなのに……」
モンモランシーはどうやらアグレッシブになったケティが屋敷に侵入、女子生徒の夜会があると家の者に嘘をついて引っ張り出されてきたようだ。
その理由も「サイトさまが怪我してたら治してもらわないと」という先輩への敬意もへったくれもないものだった。
「ミスタ・ギトー、ぼくたちに力を貸してください!」
「サイトが危ないんです、お願いします!!」
がばっとギーシュとマリコルヌが頭を下げる。昨日頼んだときはまだ騎士隊の体面や、他の教師もいるという余裕があった。
それが今は欠片もない。この暗雲うずまくトリスタニアで今はただ一人の戦力でも無駄にできない。友のため、貴族の誇りを捨ててでも救いを求める純粋さが今の二人にはあった。
対するギトーはたじろいた。真っ向から力強く、純粋に求められた。
コホンとわざとらしい咳払いをして、渋々と言った声を作りながら了承する。
「わかった、そこまで言うならきみたちに手を貸そう。だが私の指示には従うように、危険だからな」
救われたようにギーシュたちはパッと顔を明るくした。
「先輩、勿論わたしたちもお手伝いします」
「ちょ、勝手に数に加えないでよ」
「ありがとう。ケティ、ぼくのモンモランシー」
「……ああもう! ここで断ったらわたしが悪者じゃないの! いいわよ、やってやろうじゃないの」
さらに、漆黒の空から青い竜が舞い降りる。六メイルもあるその背中から飛び降りてきた二人も、魔法学院に所属する少年少女は全員が知っていた。
「ハァイ、こんなところでパーティーかしら?」
「キュルケ、あんたなにしにきたのよ!」
「オールド・オスマンのお見舞いよ。ちょっと遅くなったからどこかに宿をとるつもりだけどね」
燃えるような赤い髪を雨にしっとり濡らして、魔法学院の制服に身を包んだ少女、キュルケが現れる。
「シャルロットもそうなの?」
当然、その隣には目の覚めるような青い髪の少女、タバサことシャルロットがちょこんと佇んでいる。いつもと違うところといえば、本を持っていないことだけだった。こくりとルイズの言葉に小さくうなずく姿は非常に幼く見える。
事情を知らないギーシュたちはルイズの言葉に疑問しかないが、今はそうしている時ではなかった。
「なんかよくわからないけど今大変なんでしょ? 手伝うわ、わたし強くってよ?」
パチンとウィンクして見せるキュルケ。タバサもじっとルイズを見つめながら無言でうなずく。ルイズは少し迷った、けれど決意するほかなかった。
*
その頃才人たちはチクトンネ街を離れ、ブルドンネ街にさしかかるところだった。
一言も喋らないまま黙々と歩みを進める。雨の音がいやに大きく聞こえる。
背負っているジェシカの重みを感じて、馬車で来てくれればよかったのにと才人は思う。それなら彼女を雨に打たせたままにしておかなくてもよかった。いや、そもそももっと早く将軍が来ていれば――。
そこまで考えて首を振る。
世界に「もしも」なんて存在しない。スカロンは死んだ。それは変えようのない事実だ。
「ん……」
かすかに感じる身動ぎ、それからより背中に密着してくる。体勢を整え終えて満足したのか、ジェシカはゆっくりと顔を上げる。
「ジェシカ、大丈夫か」
「ここは……?」
「ブルドンネ街」
きょろきょろと顔を動かす気配があって、降りるという一言に才人は立ち止まった。二本の足で大地に立ったジェシカは少しふらついて、ぼんやりとした目で才人を見つめる。
「お店は? なんで、こんなところに?」
「……今は王宮に向かってるんだ」
スカロンの死を言い出せなくて、才人は若干ぼやかして言う。
「話は歩きながらでもできるだろう。時間がないから急いでくれ」
ド・ポワチエの声に再び一行は歩き出す。
ふと、デルフリンガーに目を留めた一人の衛士が才人に話しかける。
「王宮で刀剣類を帯びるのは禁じられている。預かっておこう」
「む、そうであったか。以前は問題なかったのだが」
「非常事態ですから警戒を密にしているのです、神剣殿」
なんてことのないやりとりにちくりと違和感が刺さる。その正体に才人は気づけないまま、隣を歩くジェシカに目をやった。
「あれ……?」
「どうした」
「王宮ってこっちじゃないのに」
才人にも見覚えがある。つい一昨日、雨の中さまよい歩いた道だ。ド・ゼッサールと戦った練兵場に続く細道だった。
一昨日はしなかった悪臭が鼻についたけれど、そんなことよりもなぜこの道を通るのかがわからない。
「こっちは練兵場じゃないんですか?」
「ああ、非常線が張られているから通常の道は使えない。練兵場には非常時のために抜け道が存在するからそれを使う」
言って、衛士はにこりと笑う。その笑顔に才人の背筋が粟立った。
口元はゆるやかな曲線を描いていて、遠くからみれば穏やかな微笑に見えるだろう。だが、その瞳は絶対零度のごとき冷たさを纏い、欠片も友好的な色をたたえていない。
思わずデルフリンガーに手をかけようとして、今は違う衛士が持っていることを思いだす。
ジェシカは一人分ほどの間隔が空いていたのを大きく詰めて、きゅっと服の裾をつかむ。衛士の冷たさを察知したらしく、不安げな眼差しをしていた。
才人の中で先ほどおぼえた違和感がくすぶっている。しかし言葉にしてしまえば致命的な決壊を迎えてしまいそうで、一縷の望みにかけてポワチエたちについていく。
やがて威圧するように建ち並ぶ民家を抜け、ひらけた練兵場に出た。一昨日と変わらぬ静けさに包まれ、さらに今は闇夜ということもあって不気味さが際立つ。才人が斬った鋼の人型もそのままにされていた。
「そういえば」
ド・ポワチエが唐突に立ち止まり、思い出したようにつぶやく。他の衛士もそれに倣い才人とジェシカを取り囲むように位置どった。
「魔法学院でしばらく過ごしていたな」
「……そうです」
「ディアーヌという名に聞き覚えはあるか?」
「ありません」
将軍が大げさについたため息に混じっていたのは怒り。取り囲む衛士からもはや隠す気のない敵意が湧き出ていた。
ジェシカを背にかばいながら才人は自分の装備を思い返す。腰のホルスターに拳銃と、懐に呑んだナイフが一つ。
「そうか」
ポワチエが、五人の衛士が杖を抜く。
デルフリンガーを預かっていた衛士は杖を振るい、土の山に神剣を覆い隠してしまった。膝ほどまである土は、掘り返すのに多少の手間がかかりそうだ。
さらに五人の衛士が闇からにじみ出て、半円陣で才人たちを包囲する。己の心臓に聞いても邪神の気配はない。彼らは純然たる人間だ。混沌に染まっていない人類だ。
だというに今こうして才人とジェシカに殺意を、杖を向けている。
――どうなってんだ。
平賀才人の認識では、メイジは仲間であったはずだ。こうして敵対する理由なんてこれっぽっちも見当たらない。
誰も配置されていない後方に意識を集中させる。かすかな人の息遣いを感じて、この場が完全に包囲されていることを悟った。
「ガンダールヴ、いや、サイト・ヒラガ。ここがお前の処刑場だ」
じりじりとメイジたちが距離を詰める。才人はまったく動けないでいた。
デルフリンガーがいなくとも一人ならなんとかなる。最悪ガンダールヴの脚力に任せた全力疾走で逃げ出してしまえばいいだけだ。でも、今彼の背中にはジェシカがいる。恐怖に身を小さくした、魔法も使えないただの少女がいるのだ。
「意味わかんねえよおっさん。俺がなにしたって言うんだ」
「白々しいにもほどがあるな」
もはや丁寧に応対する必要はない。歯をむき出しに挑発する才人にもド・ポワチエは一切の動揺を見せず、ただわざとらしいため息をつく。しかし握られた杖はかすかに震えており、緊張か、あるいは内心の激情が漏れ出ていた。
「ならば聞こう。お前はなぜ生きている」
「……どういう意味だよ」
「タルブで巫女に心臓を貫かれたはずだ。何故今こうしてお前は動いている」
どくんと心臓がひときわ高鳴る。
タルブでの出来事は全部思い出したと思っていた。メアリーから受けた傷は、その実大したことがないものだと勝手に納得していた。
ポワチエの言葉にあのときの記憶が溢れだす。ワルドを殺した。ルイズに泣いてすがりついた。そして、確かに心臓を貫かれた。
あの瞬間、才人の身体を支配していたのは喪失感。激痛はなく、ただ命が零れ落ちていく寒々しさだけがあった。
「それは……」
記憶は取り戻した。けれど、自分が生きていることに対して説明なんてできない、できるはずもない。才人自身理解できていないのだ。
鼓動はただ速く、呼吸はひたすらに荒く。死の恐怖を思い出した才人の身体は、雨の冷たさもあって硬直しつつあった。
「さらにお前がいた魅惑の妖精亭に巫女は現れた。そして害することなくただ立ち去った」
そこに答えがあると言わんばかりの態度でポワチエは言う。左手をかかげ、
「それこそお前が邪神の配下である証左。そうでないというならば証明してみせよ!」
喉がひりついていく。ジェシカはなにもわからない上、十人ものメイジに杖を向けられるという状況に、裾をつかんだまま声も出ない。
才人が絞り出した声はなんとも頼りなかった。
「俺はガンダールヴだ。虚無の使い魔だ」
「だからなんだと言うのだ。二十年前、教皇聖下の母は邪神に死後の安寧を穢されダングルテールを滅ぼした。三年前、ガリアのシャルル公はおぞましい獣を呼び出し命を奪われた。虚無であろうと、そんなものは気休めにしかならん!」
ポワチエは吼える。助言者たる神剣は口をふさがれ、彼を擁護する仲間もいない。
「それにお前の故郷から来たという者に銃士隊の者たちが殺されている。これでどう信じればいいと言うのだ!」
孤独の淵に立たされ、背中にはスカロンから託されたジェシカがいる。かすかな温もりが服越しに伝わってくる。
だが同時にそれは才人の動きを大きく制限する重石でもあった。
「そもそも、異星から来たというお前を信じるのが無理な話だ。お前ではなく、ワルド子爵がガンダールヴであればタルブでの大敗も、魔法学院の拉致事件もなかっただろう」
たとえば地球人が遥か星雲の彼方から侵略してきた強大に過ぎる敵と戦っていたとして、別の星系から来た者が味方になると言って、それをどこまで信じられるだろうか。果たして素直に力を借りることができるだろうか。
敵の敵は味方と言うが、それを鵜呑みにできるようであれば、おそらく人はもっと早く滅びている。
技術提供の類ならまだしも、直接兵として戦うというなら軍内部の崩壊の可能性が跳ね上がる。ましてや、平賀才人は魔法もなにも使えない平民であり、しかも一人ぼっちの人間だ。リスクとリターンを天秤にかければ、彼を殺して新たなガンダールヴをハルケギニアの民から選出したほうが遥かにいい。
才人が思い返すのはガリアのプチ・トロワでの会話。ルイズは言っていた、自分を処刑すべきだと主張する者がいると。
そのときは無茶苦茶だと思った。そんな人はほとんどいないと、なんとかなると思い込んでいた。
けれど現実はいつだって無情で、こうして正義の敵意をもつ相手と直面している。相手は牙を隠したままデルフリンガーを封じ、強い殺意をもち杖を構え、しかもジェシカをあえて同行させて行動の幅を狭めている。
一段と殺意の霧が濃くなっていく。ルーン詠唱が雨音にまじってかすかに聞こえてくる。才人はもはや思考を一度捨て置き、懐のナイフを抜き放った。
「ジェシカ、つかまって」
「え?」
「いいから、おんぶ」
おずおずと、衛士たちに目をやりながらもジェシカは才人の背中にしがみつく。その様子を、ポワチエたちは特に止めようとはしなかった。むしろ錘ができて丁度いいと思っているのかもしれない。
――とにかく逃げよう。
才人からすれば意味の解らない言いがかりをつけてきただけ、相手にする必要はない。それにこうして人目のつかない練兵場にまで来たのは、きっと彼らが少数派でまっとうな手段で自分を糾弾することができないからだ。埋まっているデルフリンガーには悪いけれど一度距離をとって、ウェールズやアンリエッタに報告すれば話はすむだろうと思っていた。
他にも考えないといけないことがある。自分は何故生きているのか。哲学的な意味なんてこれっぽっちもない、純然たる意味で考えないといけない。確かにあのとき才人は心臓を貫かれた。それでも生きているだなんて、それはまるで邪神の――。
首を振って否定する。
背後にも一人メイジが潜んでいる。それに背中を見せて逃げればジェシカが危ない。ここは後方に逃げると見せかけて反転、正面突破だと頭の中で逃げる算段を立てた。
一定の距離を保っているポワチエたちを睨みながらぐっと足に力をこめる。
「その娘もすぐ同じところに送ってやる。あの店にいたものは店主同様、すべて殺さねばならん」
まさに跳躍しようとした瞬間、ポワチエの発した言葉に意識は完全に奪われた。
その隙を歴戦の衛士たちが見逃すはずもなく、いくつもの水弾、石弾が才人めがけて殺到する。人を背負いながらという今まで経験しようはずもない状態で、ナイフを縦横無尽に振るい、最小限の足さばきで回避する。セオリーである波状攻撃は来なかった。
「サイト、今の……」
「どういうことだよ、それ」
背中のジェシカが息をのむ気配を気にも留めず、才人はポワチエを問い質す。
「言葉通りだ。あの店主、スカロンと言ったか。あれは我らが殺した」
返答はすっぽりと感情が抜け落ちたように無機質な声。
膝がかすかに震える、荒くなっていた呼吸はより激しく浅く、肺が酸素を吸収できているかもわからない。背中のジェシカがひときわ強く才人にしがみついた。
「なんで、冗談にしちゃ笑えねぇぞおっさん」
「巫女を直視したのだ、いずれ堕ちるなら早々に処分すべきだろう。それに聞けばタルブにはお前の同郷の者がいたようだ。穢れた血をひいている可能性がある」
「ふざけんなァッ!!」
リスクを摘み取ることに躊躇のない施政者としての視点は、あまりに独善的に感じられ、ジェシカを背負っていることもかまわず才人は疾駆する。
しかしポワチエはその動きを見越していたようで、するすると後退しながら魔法を放ってくる。周囲の衛士たちも才人を中心にした包囲を崩さないまま、足音ひとつ立てずに移動した。
「がなるな。最期の時ぐらい静かにしておけ。そういうところはあのアルビオン人たちと変わらんな」
「アルビオン人……お前ら、まさか」
「邪神の配下と接触を持っていたのだ。危険の芽は摘み取るにこしたことはない」
心当たりは、ある。アルビオン人で才人が知る人物と言えば、ウエイトたちでしかありえない。
ついさっき、火事のこともあって頭の片隅に追いやっていた事実。ウエイトたちは、勇敢なアルビオン人たちに拷問の跡があるとレイナールは言った。死体は雨ざらしにされ、ウエイトにいたっては首をさらされていた。
――ならあの惨状はこいつらが!
憤怒が心中で轟々と燃え上がり、今までにないほど強く、アルビオンでメアリーと相対したときよりも強く武器を握る。
二日前ド・ゼッサールと戦ったときとは違う。彼とは戦う理由がなかった、意味も見いだせなかった。今は違う。ポワチエたちは才人が慕っていたスカロンを、ウエイトたちを殺したのだ。ルーンですら才人の激情に呼応してぎらついた輝きを放っていた。
「あんたらがウエイトさんを、店長を!」
「お前が潔白だと言うなら始祖が見分けたもう。だから今ここで死ね!」
ポワチエの声とともに再び魔法が飛び交う。ジェシカがしがみついているのにもかまわず、才人はそのすべてをかいくぐって衛士たちに肉薄する。銃を抜かなかったのは殺傷能力が高すぎるためであり、また切り札を伏せておくという意味もあった。
刃渡り二十サントほどのナイフとて殺傷能力は十分だ。それに“固定化”までかけられていてガンダールヴが操るのなら、並みの衛士は相手にならない。
されどポワチエの揃えた兵も凡百の者ではなかった。詠唱の短いドットスペルを続けざま才人に浴びせ、容易にその距離を詰めさせず、もう少しで間合いに入るというところで跳躍し、あるいは“フライ”や“レビテーション”を使って攻撃の届かぬ場所へ逃げていく。
迫られれば逃げ一人を多人数で圧殺する、貴族の誇りもなにもない戦闘方法に強い殺意が見え隠れしている。
それでも才人は立ち向かう。今はただハルケギニアのためなんて名目は消えて、ただ自分のために戦っていた。
練兵場は広い。才人が縦横に駆けまわってもなお、衛士たちが間合いをとることができる。
半円陣を敷くメイジの魔法はとどまることを知らず才人を狙い続ける。直線状に味方がいないがために遠慮の欠片もなくひたすらに魔法を放つことが可能であった。
しかしそのどれもが才人に当たらない。普段ならばデルフリンガーを使って撃ち落としていただろうが、今は純粋な体さばきだけで連続的に襲い掛かる魔法を回避していく。人を背負ったままで出来る所業ではない。
これはいよいよ邪神の配下であったかとポワチエたちは杖を強く握りしめる。
だが、真実そうであるならば回避の必要すらなく、平賀才人はどこまでも人間であった。人間であるからこそ、学んだことを忘れてはいなかった。
――わかる。
怒りに任せていたはずの動きはこれ以上なく鋭く洗練されていく。メイジの魔法にも個々人の癖はある。そういった癖も魔法衛士隊に所属しているものならば矯正されていき、より実戦的に研ぎ澄まされていく。
それこそが、才人がこれまでかわし続けられている理由であった。
――これは隊長が教えてくれた。
魔法学院でカリーヌに鍛えられた日々が蘇る。
――これは子爵さんが。
タルブのとき、ワルドは邪神に操られながらも才人を導いてくれた。その経験は今も息づいている。
――ゼッサールさん、あんた不器用すぎるぜ。
つい二日前ド・ゼッサールが無理やりに仕掛けてきたことですら意味があった。
彼はきっとこの陰謀に気づいていたのだろう。だが自分から動くには都合が悪かった。だから才人と無理やり戦って、今の衛士隊の動きを学習させたのだ。
怒りに燃えていた頭が雨のせいでなく、冷たく鎮静化していく。
ポワチエの連れてきた衛士は確かに精鋭だ。それでもこれら三人には遠く及ばない。彼らの動きを劣化したものでしかないのなら、才人が負ける道理はなかった。
わずかに才人の背後からの雨が強くなる。その変化を見逃さず、右足を軸に勢いよく反転、直後抜いた拳銃を暗闇めがけて撃ち放った。
不可視と言われる風魔法には「起こり」がある。最も威力のある部位が到達する前に微風が対象へ届くのだ。それをカリーヌとの鍛錬で覚えさせられた才人に、後方から来る風魔法などなんの問題もない。それどころか魔法の方角を見定め、かすかにランタンの灯りに輝いた指輪をもとに隠れていた術者の位置を割り出し、その杖と太ももを撃ち抜く。痛みに耐えきれず建物の陰に隠れていたメイジが倒れた。
ありえざる動きを見て衛士たちに刹那の動揺が走る。
その浮ついた気配を今度は才人が見逃さず、次々に銃弾をもって杖を撃ち落としていく。自身の頼るべき杖を取り落した衛士は硬直し、素早く接近した才人になすすべなく殴り飛ばされ昏倒した。
背後に潜んでいたものと合わせて六人、瞬く間に才人は戦闘不能に持ちこんだ。そこで立ち止まり、大きく息を吸って吐き出す。それにあわせたように衛士たちもただ立ち止まっていた。
「なぜだ、なぜそのような動きができる!」
わめきたてるポワチエに才人は平坦な声で言う。
「カリーヌ隊長が、子爵さんが、ゼッサールさんが教えてくれた」
「ド・ゼッサール……奴めそのようなことをしていたとは!」
忌々しげに吐き捨てながらポワチエはなおも杖を振り上げる。マズルフラッシュが闇を切り裂く。腕を撃たれたポワチエは杖を取り落とし、うずくまって痛みに呻いた。
だが、旗印となったポワチエが負傷したというのに衛士にさらなる動揺はなかった。爛々と憎悪に眼を輝かせながらじりじりと距離を詰めていく。ただ上官に命じられただけでこうはならない。
遠距離ではらちが明かぬと見たのか、衛士たちは“ブレイド”や“エア・ニードル”を唱えた。瞳には憎悪をたたえ、必殺の意志をもって次々と才人に殺到する。
それはまったくの悪手であった。ブレイドやエア・ニードルはかすかな魔法光を放ち、闇夜にあっても視認は容易である。対して才人のもつナイフも拳銃も発光などしようはずがない。武器の間合いに大きく差があったとしても、暗闇の中武器が目視できるかどうかの差は大きい。
「異星の者めが!」
「我らの怒りを知れ!!」
激怒に任せた攻撃の軌道は読みやすい。
銃弾は残らず吐き出して今や鈍器となったSIGと大振りのナイフを振り回し、才人は残る五人の腕を、攻撃する意思を砕いていった。
いかに衛士と言えど骨を砕かれ、肉を大きく裂かれる痛みには耐えがたい。次々と崩れ落ち、やがて立っているのは才人だけになった。もう一度大きく息をついて、銃をホルスターに仕舞う。ナイフだけはまだ手放さなかった。
「殺せ……」
「知るか、勝手にくたばれ」
うめくようにポワチエは言う。だが才人にそんなことをする気はない。タルブではワルドとあんなことになったけれど、それでも人を殺す気なんてない。
「おっさん、なんでこんなことしたんだよ」
途中から気づいたのは、彼らの目に宿るのが使命感ではなく憎しみだということ。きっとポワチエの言っていたことは一部そういった心情はあったとしても、それがすべてではなかったのだと。
「そのような力がありながらなぜディアーヌは、我が娘は……」
ぽつりと、正義を振りかざしていたポワチエの本音が漏れる。うめき声をあげながら他の衛士も怨嗟の声と、才人の知らない名を呼んでいる。
ディアーヌという名前を才人は知らない。けれど戦う前、ポワチエは聞いていた。魔法学院で過ごしたことと、ディアーヌという名前を知っているかということを。
そのときはっと才人は思い出す。カリーヌとの鍛錬の合間にギーシュたちは言っていた。二十名近くが失踪したと。さらにケティがやってきたときのことが頭をよぎる。
きっとディアーヌという娘は教団にかどわかされ、帰らぬ人となったのだろう。
呟くポワチエの姿は先ほどの形相からは想像もつかないほど弱々しくて、少しだけ、ほんの少しだけ才人は同情してしまった。
その理屈は先ほど言っていた異星だからなんだのというよりもよっぽどわかりやすい。才人だって、力のある人がそばにいながら肉親が失われたのなら、その人物を責めたかもしれない。
だけど彼を許すことはできない。私怨を正当な建前で覆い隠そうとし、自分だけを狙うならまだしもポワチエたちはウエイトとスカロンを殺害し、魅惑の妖精亭に火を放った。
ジェシカには母がいないと聞いている。もう一人ぼっちだ。自分と同じだと才人は思った。
「もう、終わった……?」
「うん、全部終わった」
あれほど激しく動く人間にしがみついているのは非常に体力を消耗する。弱々しくジェシカは才人の背から降りて、ぐらりと傾いだ。
思わず才人はナイフを手放してジェシカを支える。カンテラの薄明りに照らされた顔色はお世辞にも良いとは言えない。触れた肌は死体のように冷たくなっていた。
「どっか火に当たれる場所、ブルドンネとかそっちらへん……いやルイズの家にいった方がいいか」
周囲を見回すと雨宿りくらいならできそうでも、火にあたれる建物なんて見当たらない。焦りを帯びた才人に、ジェシカはゆるゆると首を振る。
「だいじょうぶ、それよりサイト。教えて、パパはどうなったの」
「……スカロンさんは」
口にしたくはなかった。それでも、伝えなければならない。
「スカロンさんは死んだ。俺と魅惑の妖精亭のみんなで看取った。最期に、俺にジェシカを頼むって」
「そう……」
ジェシカは取り乱したりしなかった。ただうつむいて、そしてきっと顔を上げた。
「こうしちゃいられないわ。最期には会えなかったけど、早くパパに元気な姿を見せてあげないと」
そう言って精いっぱいの笑顔を才人に向ける。今までにない美しさがあった。
――ああ、ジェシカは強いな。
今は実感がないだけなのかもしれない。虚勢をはっているだけかもしれない。それでも、才人に心配させまいと笑顔を作ることのできるジェシカは、自分なんかよりよっぽど強いと才人は思う。
もうこの練兵場に用はない。チクトンネの方に足を向けたそのとき、背後から“マジック・アロー”が才人めがけて飛んでくる。杖を直前までマントで隠していたためか、かすかな魔法光も知覚できなかった。
完全に不意を突かれた。手元に武器はない、ガンダールヴの恩恵を受けることはできない。足元に落ちているナイフを拾ったとして、それでも完全な回避はできないだろう。
だがそれでも、才人は自分にできるベストを尽くす。まずジェシカを突き飛ばして最速でナイフを拾い、そのあと自分も回避、あるいは“マジック・アロー”を斬り落とす。
そう決めてジェシカを突き飛ばそうとして、けれど手は虚空を泳いだ。
――え?
いたはずの場所にジェシカはいない。なぜなら彼女は、才人の前に歩み出ていたから。
ふらっと軽やかに躍り出たジェシカは、くるりと回って才人に微笑みを投げかける。その光景に目をうばわれ、思考を麻痺させられ、才人は動けないまま“マジック・アロー”は彼女を打ち抜いた。
「ジェシカ!!」
才人の胸の中に倒れ込んだジェシカは二度三度大きくせき込み、力なく身体を預けた。ただの平民が魔法の衝撃を逃せるわけもない、背中からは血液が流れ出ていた。才人の声にも応じず、胸が上下しているから生きていることだけはわかる。
だけど、このまま時間をおけばスカロンの二の舞だ。知り合いがこれ以上死ぬだなんて、そんなのはまっぴらごめんだ。
魔弾の射手は最後の力を振り絞ったように薄く笑みを浮かべ、倒れた。悔しげに才人は歯ぎしりして、それからジェシカを背負って踵を返す。
くぐもった声が届いたのは偶然だった。すぐに土の山へ駆けより、助言者を掘り起こす。
「すまん相棒、油断した!」
「それよりジェシカの具合を!」
デルフリンガーは歴代のガンダールヴの相棒としてその身を預けてきた。その特性にガンダールヴの状況を把握するというものを元々持ち合わせており、六千年もの歳月があればそれは他者への適用も可能となり、水メイジほどではないが怪我の具合を診ることができる。ジェシカに触れさせた神剣の診立てはあまり良くなかった。
「威力はドットか、致命傷ではない。しかしこの雨で身体が冷え切っているうえ血が流れ続けている。急ぎ屋根のあるところへ行き止血をし、身体を暖めねば命にかかわる。この際包帯が清潔だのなんだの言っている場合ではないぞ」
「屋根、屋根か」
幸い場所は練兵場で、武器や糧食を貯蔵している倉庫も近くには多数あり、扉さえ斬り破ってしまえばなんとでもなりそうだ。
もっとも近い建物に才人が身を寄せようと一歩踏み出す。そのとき、練兵場の外側からカンテラの明かりが向かってきたのが目についた。ゆらゆら揺れる灯は近づき、歩きはじめていた才人の前で立ち止まる。
果たして、それは一人の老人と二人の付き人であった。豪奢な装束に身を包んだおそらく身分の高いであろう人間、才人の知る限りマザリーニと同じくらいの年齢に見えた。彼は濡れるのもかまわず、才人の前に立ちはだかって動こうとしない。
「どいてくれよ」
才人には余裕がない。常ならば様子を見ることができても、今は相手を慮ることができない。
対する老人は冷静だった。先ほどのポワチエたちとは違って怒りも憎しみもなく、ただ静かに才人に視線を留め、そして倒れる衛士たちの上をさまよう。胸のルーンが痛みを訴えることはない。
「間に合わなかったか……その平民を見せよ」
その言葉に才人は静かに重心を落とす。ついさっき、メイジは味方だと信じていた。けれどそれは才人の願望に過ぎなくて、スカロンもウエイトも、ジェシカまでこうして傷ついている。
先ほど小道をいっていたときの悪臭が流れてきていたが、周囲に人の潜んでいる気配はない。誰も杖に手をかけてはいない。
「相棒、リッシュモン高等法院長は長年トリステインで邪神に抗すべく暗躍してきた信頼できる人物だ。手当をしてもらうべきであろう」
「デルフ、でも正直俺には信じられねえ」
「彼が仕掛けるつもりならもうとっくにはじまっておる。不覚をとったばかりだが、某を信じてくれ」
才人はじっとリッシュモンを睨みながら考える。
もしリッシュモンたちが先ほどのポワチエ同様敵なら、今この場で背を向ければ攻撃を受けるだろう。
倒してから進もうとしても、今度はジェシカに意識がない。それに才人が全力で動けばジェシカの身体はきっともたないだろう。
選択肢はない。ここでリッシュモンたちを信じるしかない。
「……変なことしたらすぐぶっ飛ばすからな」
「案ずるな。小娘に心動かす歳でもない」
適当な倉庫の戸を斬り破る。リッシュモンの付き人が先行して内部をあらため、もう一人は外から“ライト”を維持している。
ジェシカを冷たい石床の上に横たえ、リッシュモンは杖を振ろうとした。
「……この臭い」
じくりと心臓が痛み出す。不快感どころか、人体に害すら及ぼしそうな刺激臭が漂いはじめる。
倉庫の奥、死角となっている部分から青い煙が染み出している。のた打ち回るミミズのごとく蠢き、不可思議なそれはやがて凝集していく。
さらに気づけば一人の男性が佇んでいる。付き人は蒼白な顔色を隠せず杖を向けた。
「リッシュモン高等法院長にガンダルールヴ殿ではありませんか。こんなところで奇遇ですな」
「ゴンドラン、貴様なぜここに」
初老の紳士というに相応しい風貌の人物だった。シルクハットにおさめた銀色の髪に、どこか生気の薄い顔立ち。
「そういえば、ガンダールヴ殿と直接の面識はなかったですな」
口ひげをしごきながら、まるでここが平穏な場であるかのように男の口調は軽やかだった。剣をかまえ、警戒している才人にも注視することなく、ひょうひょうとした態度を崩していない。
それは表面上のことでしかないことに、才人は気づいている。ガンダールヴのルーンが、リーヴスラシルのルーンが教えてくれる。目の前の男は敵であると、今討たねばならぬ邪神の手先であると。
「私の名はルイ・アンリ・ド・パルダヤン・ド・ゴンドラン。アカデミーの評議会議長です。そしてまたの名を」
ばさっと黒いマントをひるがえし、次の瞬間には男の顔が変化していた。シルクハットを外し彼は優雅に一礼する。
「オリヴァー・クロムウェル。以後お見知りおきを」