自らをクロムウェルだと名乗った紳士が悠然とたたずんでいる。
狭い倉庫の中、外からは“ライト”の強烈な光がさしている。隠れられる場所などなかった。あったとしてもリッシュモンの付き人がすでに確認していた。才人たちの知らないことだが、ニューカッスルの夜のように彼は影から生まれ落ちたのだ。
濃密な邪神の気配に心臓と左手が痛みを訴えている。ジェシカたちを背にかばいながら、抜身のデルフリンガーを構え才人は睨みつけた。
常人なら威圧感をおぼえるであろう状況であっても、あくまでクロムウェルはリラックスした風である。彼の足もとには青くねじりまがった舌を突きだし、悪臭をふりまき体組織らしきものをしたたらせる四足の化け物がいる。
――ティンダロスの猟犬。
魔法学院にいたときも何度か目にしたことはある。そのたび左手のルーンが痛んで、普通の使い魔とはどう違うのかそのときはわからなくて、けれどこうして相対した今、この世の摂理を超えた奇怪さが理解できる。
メンヌヴィルの講義でどのような存在かは聞いている。
曰く、鋭角を起点に時空を超えどこまでも獲物を狙う常に飢えた存在である。
その侵入を防ぐことはできない。その襲撃から逃れることはできない。その存在を殺すことはできない。
おおよそ二千年ほど前、エルフの国ネフテスの首都アディールにて、その実在が確認された。虚無の研究を行う術者が誤って次元と時間の壁を超越してしまい、この恐るべきものに目をつけられてしまったのだ。
対処法はただ一つ、標的の死。それすらも当時は判明しておらず、生物とも呼べない猟犬をエルフの精鋭、ガリアから出向していた軍勢で討伐しようと試みたが、いずれも壊滅規模の損害を受け、さらに術者は脳髄を啜りとられ死んでいる。
根拠のない最新の学説だが、とメンヌヴィルは前置きして、これを“偏在”のようなものであると言っていた。
ここに姿を見せている生命としてあまりにおぞましい物体は、ただの末端であり、本体にあたるものはおそらくメイジの手に届かぬところにいる。そのためいくら目に見える脅威を討ったとしても、再び鋭角を経由して現れるだけであると。
祝福の力を有するアニエスならば、あるいは討てるかもしれないと魔法学院にいたときは考えていた。しかし、実行する機会はあれど一歩踏み出せず見送るしかなかった。
さらにアディールにいるビダーシャルからの情報によれば、この個体とハルケギニアの間に『縁』をつくっているものがある。それがメアリーである可能性が高い。
つまり、邪神の巫女であるメアリーを討てば猟犬は自然といなくなる。同時に彼女をなんとかしなければ、猟犬になにをしようとも意味がない。
不死身の巫女にその使い魔であるティンダロスの猟犬。これ以上なく噛みあった存在だった。
じりと才人の足が動く。切っ先はまっすぐクロムウェルに向かったまま。
それでも黒いマントを羽織った彼は気にした様子を見せず、じゃれついているようにも見える猟犬をあしらって遊んでいる。
――そもそも何故こやつがここにいる。何故猟犬を従えている。
リッシュモンの頭の中はそれに占められている。
ナイアルラトホテップ教団大司祭オリヴァー・クロムウェルはニューカッスルで、『閃光』のワルドがその二つ名にたがわぬ早業で首を落とした。そうウェールズはバリー老に最後の報告を受けたと言っていた。
そしてニューカッスル城はジェームズ一世が火の秘薬をもって影すら残らぬ爆発でこの世から消えた。あの爆発で生き残れるはずがないと、避難船のメイジは証言している。
だがしかし、彼は死んでいなかった。ガリアのミドガルズオルム部隊の報告によれば、ジョン・フェルトンの執事であるバザンに化けていた。あるいはもっと別のおぞましい儀式によって永らえ、彼の身体を奪っていたという。
首だけになっても喋り続ける姿に人間らしさはなく、彼がもはや邪神の配下としてもっと違う存在になったのだと目撃者は言った。
そして今、こうしてクロムウェルはここにいる。
アカデミーの評議会議長、毒にも薬にもならぬ男と思っていたゴンドランの身体を奪って生きて、いや、存在している。
――何故ゴンドランが……。
彼はここ十数年トリステインから出たことがない。よってクロムウェルと接触するはずもなく、その経路がわからない。
アカデミーでも邪神の研究はさほど活発に行われておらず、彼が教団に染まることなどないと思っていた。
――まさか、ワルド子爵夫人の。
風石の埋蔵量分布について、ゴンドランが報告を受けた可能性は高い。そこからゴンドランは狂った子爵夫人に疑問をおぼえ独自に調査したのだろう。
「早く手当をされてはどうです? あまり放っておくと死んでしまいますよ」
リッシュモンの考えを遮り、ティンダロスの猟犬を撫でながらクロムウェルは言う。
その言葉を受け入れられるはずがない。今この場で戦える者はリッシュモンを含めて四名、しかも一人は“ライト”の維持で他の魔法の詠唱が困難だ。加えてリッシュモンは戦いに耐えうる健康状態ではない。今晩街に出たのもポワチエの件をウィンプフェンから漏れ聞き、それを制止するためであった。戦闘は想定していない。
ティンダロスの猟犬とスクウェアメイジであるゴンドランの身体を奪ったクロムウェルがどれほど強いのか、わからない以上動くことができない。
理性ではそうとわかっていても、才人は動じてしまった。
スカロンから託されたジェシカが死ぬかもしれない。イヤな考えがどんどん噴き出してくる。
その揺らぎを見計らったようにクロムウェルは再び口を開く。
「ガンダールヴ殿、その少女はあなたにとって大事な人なのでしょう。リッシュモン殿が治療してくれない以上外に連れ出した方が良いのでは」
「相棒、わかっているだろうが背中を見せればやられるぞ」
露骨な揺さ振りをかけてくるクロムウェルを才人は睨みつける。
「私は一介の聖職者に過ぎないので、そう睨まれると恐怖で死んでしまいます」
「ほざけ……ガンダールヴ、目を離すな」
そんな視線もどこ吹く風といった具合で彼はおどけてみせる。
リッシュモンは後ろ手にハンドサインで外にいる付き人に合図を送る。わずかに影の形が変わる。外を見ればわかることだが、球形の“ライト”が細長く伸び、それが雨のしずくに反射して光の柱を形作り五百メイルほど先からも視認できるようになっていた。
「そういえば紹介が遅れました。彼は聖母様の使い魔、ティンダロスの猟犬のドン松五郎です。長い付き合いになるかもしれないのでよろしくしてやってください」
外での動きを知ってか知らずか、楽しげに語りかけるクロムウェルのマントの裾をくいくいと引っ張り、猟犬が注意をひいた。
「ふむ、ふむふむ。それは参りましたな」
耳に手を当てて、きしむ音とも風の通る音ともつかない唸り声をあげる猟犬に顔を近づける。
彼はまったく猟犬に恐怖を抱いていないどころか、むしろ親しげにすら見える。
「どうやらこのドン松五郎、困ったことに空腹らしいのです。まあティンダロスの猟犬は常に飢えているのですが」
どこかに餌があればいいのですがと言って、クロムウェルはわざとらしく倉庫をきょろきょろ見渡す。
そしてああ思いついたとばかりに手を叩いた。
「おっと、そういえば外で眠っている衛士がいましたね。あそこで寝かせておいて風邪をひいてもなんですから、有効活用させてもらいましょう」
「待て!」
「相棒、我らも外へ!」
とぷんと、水面に小石が落ちるようにクロムウェルは影に溶け込んで消えた。あとには猟犬も残されていない、妙に広々と感じる倉庫があるだけ。
リッシュモンと付き人は外に駆けだした。才人はまだ手当のされていないジェシカをどうするか数秒逡巡し、ここに残しておくよりはマシだと判断して再び背負った。さっきとは違って彼女はしがみつこうとしない。右手がふさがっていて戦闘行為は難しい。
練兵場に出ると、雨ですらかき消せない血と臓腑の臭いが周囲を満たしていた。じっとりと肌にねばつくようなそれに吐き気をもよおされながら、才人はなるべくジェシカを揺らさないように歩みを進める。
リッシュモンたちが相対しているクロムウェルと、その足元にいるティンダロスの猟犬。散乱している血液と肉片、それと腸を踏みつけながら彼らはそこにいる。
さっきまで彼らとは戦っていた。ワケのわからない難癖つけられて、ウエイトやスカロンまで殺して。それでもこんな目にあっていいはずがない。
ぎりと才人は強く歯を食いしばる。心臓が激しく脈動する。敵を討つのだと左手が吼える。
「いやはや、アルビオンでは自制していたようで空腹も空腹なのですよ彼は。行儀が悪いのは許してやってください」
「ぬかすな、邪神の使いが!」
「それは褒め言葉でしかありません」
まったく悪びれた様子のないクロムウェルはちちちと指を振って、茶目っ気たっぷりにウィンクまでしてみせる。リッシュモンが叫んだのにも肩をすくめて返すばかり。
そしてちらと才人に目をやった。
「先ほども言いましたが、早く手当をしないと死んでしまいますよ」
「あんたがいる限り行けないだろ」
大仰に驚いた素振りをして、敵意など見えない眼を細くして大司祭は言う。
「これは異なことを。別に私はガンダールヴ殿を引き留めたりしません。その背に攻撃しないことをナイアルラトホテップ様に誓ってもいいでしょう。勿論、ドン松五郎もこの場に留めておきます」
「虚構をよしとする神に誓うなど、笑わせるな大司祭」
「ふむ、私が示せる精いっぱいの誠意だったのですが」
まあいいでしょうと前置きしてクロムウェルは続ける。
「ですが、どんな生物……生物でよかったのですかあなたは?」
ふむと腕組みして、猟犬に問いかける。きょとんと小首をかしげるばかりで明確な返答が返ってくるはずもなかった。
「まあ空腹は満たさねばなりません。いかに猟犬が飢えた存在であろうと、トリスタニアの半分も喰らい尽くせば満足するかもしれまんしね」
トリスタニアの半分、五万人以上を食い殺すと言っているのだ。そこには何の感情もない。夕飯は何にしようか、そんなありきたりな話題をしているように瞳の色が揺らがない。
「なに、恩義を感じる人物の一人娘とたかだか五万人。どちらが重いかは明白ではありませんか?」
「わかっているなガンダールヴ。ここでこやつを逃せばタルブよりも甚大な被害が出るぞ」
マザリーニが才人に一抹の不安を感じていたことをリッシュモンは知っている。今ここで彼が再び逃げ出す可能性を考慮し、釘をさす。
だが言われずとも才人に逃げるつもりなんてない。それでもジェシカのことが気にかかる。彼女を背負っていては全力で動けないし、近くに置いても戦いの余波がいく。なにより血が流れ続けているのが不安を誘った。
「案ずるな相棒。合図で皆急行しているはずだ。お嬢たちを信じよ」
デルフリンガーが才人にしか聞こえないよう囁きかける。左手で強く握りしめることでそれに答えた。
助けが来ればジェシカを安全地帯へ避難させることも、治療することもできる。それまで戦端を開いてはいけない。戦えば彼女はほぼ確実に死んでしまう。
ルーンが戦うよう叫んでいるが、それすらも抑え込んでしまう。
「たとえばの話ですが、ここで負傷しているのが虚無の娘なら、あなたは一度逃走するでしょう? 命に優先順位をつけるのはよくありませんなぁ」
わかりやすい挑発だった。あまりにわかりやすすぎてむしろ毒気をぬかれる。
わずかに肩の力を抜いた才人を見てクロムウェルはやれやれとため息をついた。
「いやはや、やはり私にこういう挑発は向いていないようですな。元が聖職者なので仕方のないことでしょうが」
「ほざいてろよ、おっさん」
「では違う話をしましょう。そうですね……何故急に同郷の方がやってきたか、なんていうのはどうです」
リッシュモンも付き人も黙って杖を構えている。才人は降ってわいた真実を知る機会により強くデルフリンガーの柄を握りしめた。
「と言っても複雑な話ではありません。我が神がやったことです」
皆が無言であることを催促であると受け取ったのかクロムウェルは雨に打たれながら、それすらも楽しそうに語りはじめる。
「人間の価値観に当てはめるのはアレなのですが、我が神は子どもっぽいところがありましてね。以前……ジコケイハツセミナーでしたっけ? そういうのをあめりかとやらで開催して力の一端を示して見せたとき、観客がペテンだと叫んだことがあるのです」
自己啓発セミナー、アメリカ。どちらも地球で聞いたことのある言葉だ。そしてハルケギニアには存在しない言葉だ。
クロムウェルはどうやってか地球のことを知っている、それもかなり詳しく。アメリカはまだしも、自己啓発セミナーだなんて、よっぽど地球に精通していなければ出てこない単語だ。
そしてもっと重要なことは、才人がいた地球にナイアルラトホテップがいるということ。
「慈悲深くも己の力量をギリギリまで絞って披露していた我が神はそれに気を悪くされまして、会場にいた人間全員を別世界に送ってしまわれたのです」
懐かしい出来事を話すようにクロムウェルは遠くを見ながら、ティンダロスの猟犬を撫でながら話を続ける。
「今回もさして変わりありません。歩いていたら声をかけられたので飛ばしただけのこと。その過程で人間が化け物に見えるようになったそうですが、まあ些細なことでしょう」
「なんだよ……それ……」
理由があれば許せたかと問われると、そんなはずはない。
それでも、それでももっと違う意味のあることだと思っていた。そんなくだらない理由であるだなんて考えもしなかった。
蘇るのはジョゼフがグラン・トロワで語ったこと。
――存在規模が違いすぎる。
かの邪神からすれば人間を異世界に飛ばすことなんて、気まぐれにカタツムリを百メイル先の生け垣に移すような、そんなことでしかないのだろう。
左手の、心臓のルーンが白熱する。頭に血がのぼったどころではない、噴火の如く激怒が心臓を支配する。ジェシカのことすら投げ出して、クロムウェルに斬りかかろうとした。
「抑えろ相棒。もう少し、もう少し待て」
デルフリンガーの囁きが耳に届く。歯を食いしばって荒くなる呼吸を抑えた。
「おや、頼れるお仲間がやってきましたか」
雨音に混じって水の跳ねる音とブーツが石畳を叩く音が近づいてくる。
クロムウェルの背後から回り込むよう現れた一団には才人も見たことのある顔が混じっていた。
同時に才人たちの背後からも黒衣の一団が現れる。振り返ったリッシュモンはかすかに顔を安堵にゆるめた。リッシュモンの知る小隊の者たちだった。
「リッシュモン様、遅れました」
「形勢逆転だな。増援はまだ来るぞクロムウェル。光を満たした部屋に閉じ込めればいかに貴様とて抜け出せんだろう!」
構えよというリッシュモンの言葉に一団は一斉に杖を向ける。ニューカッスルの夜を彷彿させる光景に才人は息をのんだ。
しかし、二十以上の杖を向けられた大司祭は怯えをはじめとする負の感情は一切なく、むしろくつくつと薄く笑いはじめ、仕舞いには体を折って笑い声をあげるに至った。
「形勢逆転!? これはこれは、高等法院長ともなれば冗談も上手いですな!」
いかにクロムウェルが余裕の態度であろうとこの形勢はきっと崩せない。あの夜とは違う。ルイズもじきにつくだろうし、数多の邪神の手先を討ってきたデルフリンガーが手元にある。魔法で弱らせたところに斬りかかれば勝負は決まる。
これで終わる。人の死に過ぎた悪夢もいつかは醒める。そう思っているはずなのに、やけに心臓がうずいた。ヴェイヤンティフも猛禽類の唸り声をあげている。
クロムウェルとティンダロスの猟犬、二つの巨大な存在はガンダールヴとリーヴスラシル双方のルーンをひどく刺激する。
――なにかおかしい。
違和感がある。心臓だけでなく首筋にちりちり感じている。
間もなく詠唱が完成する。才人が違和感の正体に気づいたのはそのときだった。
クロムウェルの背後にいる集団の瞳に生気がない。死人の眼をしている。一人二人ならまだしも、全員が同じような腐った眼で才人たちを見ている。
ルーンのうずきの意味をようやく理解した。濃密な気配を放つクロムウェルと猟犬だけではない、包囲している一団からもうっすらと邪神のにおいを感じるのだ。
声をあげる暇なんてない。咄嗟に近くのリッシュモンだけでも突き飛ばそうとする。右手はジェシカの支えに、左手はデルフリンガーを握り、それでも届けと必死に左手を伸ばす。
これに驚いたのはリッシュモンだった。彼から見れば神剣で斬りかかってくるようにしか見えない。乱心したかと目を見開き、身体をよじって体勢を崩す。膝から崩れ落ちただけで、魔法の的にはまだ十分大きい。
魔法光が周囲を満たす。様々な魔法が標的すら定めずに四方八方飛び交った。
才人は身を投げ出してジェシカを背で庇う。いくつかかすっても声をあげずひたすらに歯を食いしばる。
付き人とリッシュモンの絶叫が聞こえる。仕組まれた謀略に気づき、最後の抵抗に応戦しようとしているのか、悲鳴とも雄叫びともつかない声であった。
しばらくして魔法が完全に止み、才人は素早く起き上がり再びジェシカを背負う。雨に濡れた地面のせいで土煙はあがっていない。
それがより鮮明に付き人の死体と血まみれになって倒れ伏すリッシュモンの身体を照らし上げる。
彼に傷のないところはなかった。肉は裂け筋繊維と白骨までもが見えており、右足は膝から下がなくなっている。高齢と病による体力低下、そしていま負ったばかりの大けがにもかかわらずリッシュモンは立ち上がろうと力を込める。内臓が傷ついているようで血を吐いて、クロムウェルを睨みながら崩れ落ちた。
「まさか、内通……」
「いえいえ、魔法ですよ。“フェイス・チェンジ”とは便利なものですな。精神力さえあれば信者たちもほらこの通り」
さっと杖を振れば小隊隊員だと思っていた者の顔、驚くべきことに全員のそれが豹変した。才人もリッシュモンもまったく見知らぬ男たちの顔だ。
対象の顔を変化させるスクウェアスペル、“フェイス・チェンジ”は個人を対象とする。二十人の顔を変えるには二十回もの魔法詠唱が必要であり、その精神力消費たるやオールド・オスマンですら耐えられないだろう。それをクロムウェルはやってのけた。おそるべき精神力量だ。
リッシュモンは這いつくばって才人に近寄り裾をつかむ。命を燃やし尽くしたような色の瞳が輝いていた。
「頼、む……トリステインを、たの……」
それっきり、リッシュモンは動かなくなった。
人が死んだ。目の前であっけなく死んだ。なんの感慨も抱かない敵に殺された。すっと自身の血が冷めたのがわかった。
「惜しい人を亡くしました」
シルクハットを胸に当ててクロムウェルはしみじみと言う。口元はうっすら歪んでいて、口にした通りのことを思っていないのは明白だった。
「それとこれはペナルティです。折角の好意を無碍にするとこういうこともあり得ると、覚えていたほうがよいですよ」
パチンと指を鳴らすと同時、ティンダロスの猟犬が跳躍した。鈍重な動きで才人の頭上三メイルほど、かなりの高度にのびあがった。
そして、才人の見間違えでなければ猟犬は虚空を蹴った。なにもない空間を後ろ足で蹴り、凄まじい加速を見せた。
事前の鈍い動きからは想像もつかぬほど素早い動きに才人は対処できない。狙いは彼の背中、そこにいるジェシカしかいない。
「使うぞ相棒!」
瞬時にデルフリンガーが身体の使用権を奪った。神剣は六千年もの間ガンダールヴに使われ、その動きを憶えている。左手だけとはいえ、摺り上げの一撃は重く速かった。
神速に近い斬撃は、尋常の相手ならば両断してなお余る一刀であった。しかしそれも捉えられねば意味のないこと。猟犬は再度宙を蹴って回避した。
「このっ!」
デルフリンガーが身体を動かせる時間は長くない。すぐに才人は動きはじめる。
猟犬の相手は非常に困難だった。翼を持つ者なら方向転換する前に挙動が変わる。メイジであっても減速は必要だ。
ティンダロスの猟犬はそのような行動を必要としない。慣性の法則を無視した急加速と停止、獲物をなぶる動きはまさに猟犬そのものだった。
加えて才人の背にはジェシカがいる。クロムウェルの言葉を信じるなら獣の狙いはこの少女だ。地面に置けば変幻自在な動きに翻弄されるばかりの才人では護り切れない。
意識のない少女を背負い続けるのは生半なことではない。現状維持に努めてもいつかは破綻が訪れる。
「まずい!」
そして、それは遠くない未来のことだった。
疲れの見えた才人の隙を縫って猟犬が肉薄する。彼我の間合いはないも同然、ここからデルフリンガーによる巻き返しものぞめない。
終わりだ。スカロンから託されたジェシカが死ぬ。そんなこと認めたくなくて、最期の瞬間まで神剣を操る。
だが届かない。人の情を邪神が顧みるはずもなく、猟犬は背中のジェシカに迫る。
牙が突きたてられるまさにそのときだった。
空から才人の背後に巨大な影が飛び込んでくる。普通の生物がやるような減速もせず猟犬と激突し、影は泥をまき散らしながらしっかと大地に降り立った。
左目の下に十字傷の残る、才人が知る生物であった。
「ヴェイヤンティフ……」
ワルドの愛騎たるグリフォン、ヴェイヤンティフ。かつてのガンダールヴ、ローランのヒポグリフにあやかった名を持つ精強な空の狩人。
獅子の身体に鷲の頭をもつグリフォンは夜目が効きにくい。加えてこんな雨の中を飛んでくるのはよっぽどのことでなければありえない。
ぎろりと才人を睨みつけたその瞳には人間じみた意思が宿っている。つんざく嘶きはなんとも頼りがいのあるものに感じられた。
「ワルド子爵のグリフォンですか。なかなか慕われているようで結構なことです」
その声音は本当に嬉しそうで、そこだけ抜き出せば好人物にしか聞こえない。
ヴェイヤンティフはかぎづめでそっとジェシカをつかみ、再び空に舞い上がった。そして天に届けと高く鳴き声をあげる。
才人は両手をデルフリンガーを握る。背中の温もりは消えたけれど、身体はこれ以上なく軽い。今なら二十人や三十人、ものの数ではないような気がした。
「ああ、残念です」
「残念だろうな。こっからは全力でやらせてもらうぜ」
「本当に残念です」
どしゃりと重たい音が響いた。空を飛んでいたはずのヴェイヤンティフの姿はない。
やれやれとクロムウェルは肩をすくめた。
「あの怪我であの高さ、確認するまでもなく死んでいるでしょう」
何の感慨もなく、淡々と事実だけを述べる。
才人はおそらく生涯ではじめて、全力で咆哮した。
「て、めぇぇええええ!!」
構えは大上段。踏込は雷速。
それもクロムウェルには届かない。彼の背後に、メアリーが立っていたから。
「がはっ」
タルブのときと同じ、心臓を貫かれている。不思議と痛みはない。喪失感がはじめにあって、生命が身体から零れ落ちていく。
「一介の大司祭風情に手助けしてくださるとは、ありがとうございます聖母様」
左胸のルーンが輝く。闇色の鞭がずるりと抜け落ちる。身体が動く。死んでなんかいない。
生きている。それこそがおかしいのに、まだ生きている。
「ほほう、これがリーヴスラシルの能力ですか。神剣殿はきちんと説明してあげたのですか?」
「黙れ大司祭!」
「説明していないと。ならば教えてさしあげましょう。リーヴスラシルのもう一つの能力を」
嬉々とした表情でクロムウェルは叫ぶ。
「黙れぇぇええええ!!」
「心臓は生命の象徴。その能力は単純、死者蘇生ですよ!」
身振り手振りを交えて、壇上で観客を相手取るように、高らかに謳う。神剣の心の底からの叫びを、才人はこのときはじめて聞いた。
デルフリンガーが才人の身体を使って斬りかかる。しかしメアリーの闇に防がれ、クロムウェルに刃は届かない。
幾度振ろうとも漆黒の触手が行く手を阻み、神剣はその身に届かない。
「己の命ならば対価は五年の寿命。他者の命ならば、リーヴスラシルの命でしたか」
デルフリンガーがガンダールヴの身体を動かせるのは蓄えられている魔力の分だけ、それが尽きてしまえば彼は魔法を吸収する剣でしかない。
「ああ、そういえばガンダールヴ殿はタルブでワルド子爵と出会ったそうですな。あのときルーンを発動させていれば彼は蘇ったのですよ。子爵相手ならタルブでの聖母様も危うかったかもしれませんね」
「黙れ黙れ黙れぇええ!!」
才人は呆と突っ立っているだけ、先ほどまでみなぎっていた闘志は欠片もない。
心臓に冥闇が突きたてられる。命の雫は赤く、とめどなく流れ落ちていく。腕に足に、無数の闇が突き刺さる。
「なんだよ、それ」
聞けば何でも教えてくれた。弱音を吐いたときは叱咤し、慰めてくれた。
隠しごとがあっただなんて、裏切られた気分だった。それも自身の往く末にかかわることを隠されていた。
急速に心が冷えていく。貫かれた触手から人間らしい感情が抜け落ちていく。左手のルーンは輝きを失っていた。
「なんで、黙ってたんだよ」
「言えば相棒は命を投げ捨てるだろうが! 優しく、それが故に死者に引き摺られる若者を死なせたいと某は思わぬ!!」
デルフリンガーがリーヴスラシルの効果を説明していたとすれば、才人はきっとタルブでルーンを発動させていただろう。
そうであったなら二万人もの犠牲が出ることはなかった。ウエイトが惨殺されることも、スカロンとジェシカが死ぬこともなかった。
悲劇のヒーローを気取るつもりはなくて、死ぬのは当然すごく怖いけれど、自分一人の命を差し出すだけでそれだけの人が生きていられるなら、きっとそうしただろう。
「そっか」
平賀才人の生い立ちに特別なところはなにもない。つい二か月前まで当たり前に目覚めて、学校に行って授業を受けて、帰りは友人と話しながら家路につく。普通の高校生だった。
彼がハルケギニアに呼ばれて、まずルイズに泣かれた。それまでの日常が壊れて召喚される。勇者になった気分だった。ルイズが可愛いのも手伝って深く考えず引き受けた。
白の国アルビオンの斜陽を目撃した。このときはじめて自身の使命の重さに気づかされた。ワルドに命を救われ、この星を頼むと言われた。
カリーヌという厳しく強い女性に師事した。最初はただ辛かった。途中からギーシュたちが加わって、元の世界ではしていなかった部活動みたいだと思った。訓練は相変わらず厳しかったけれど、終わったあとの友人との会話は楽しかった。
ケティを救った。メアリーという強大すぎる敵を前に、大丈夫なのかという不安があった。それすら消し飛んでしまうほど、はじめて人を救った感慨は深かった。後でカリーヌに色々言われたのも気にならなかった。
タルブでワルドを殺した。ニューカッスルで迫る触手を防ぎ、ゲートへ才人を蹴り込んだ命の恩人を自らの手で殺めた。そのとき、もう一度星を託された。
死者の念は重い。
特に才人は目の前で恩人を失い、意志を遺されている。一度目のワルドの死からは一月、二度目の死からは一週間とたっていない。心に深く刻まれた遺言がその短期間で風化することはありえない。
それ故走り続けることができた。くじけそうになっても立ち上がることができた。
ウエイトは無残に殺されていた。残す言葉もなく路地裏に打ち捨てられていた。彼には妻と五歳になる娘がいるのに、もう家に帰ることはできない。
目の前でスカロンが死んだ。一人娘を託された。そのジェシカももういない。
リッシュモンはトリステインを頼むと言った。才人がもっとうまくやっていればきっと生き延びることができたのに、恨み言一つ残さなかった。かわりにトリステインを頼むと言われた。
死者の念は重い。
平賀才人は一介の高校生に過ぎない。
何人もの思いはその若い体に辛すぎて、心を縛りやがては歩むことすらかなわなくなる。
支えてくれる人がいたなら、まだ進み続けることができたかもしれない。
だけど今はいない。信頼していた神剣にも隠し事をされていて、彼は孤独の淵に立たされていた。心が冷え切っている。
諦念が心身を覆っていた。
「サイト殿、あなたは悪くありませんよ」
悪魔の囁きだった。
「異星から無理やり引っ張ってきた虚無こそすべての元凶。誰も責める者などいません」
低音でひたすら心地いい調べが才人の耳に届く。大地を打つ雨の音も、相棒たる神剣の声も、今の彼には届かなかった。
「今はただ、聖母様に抱かれて眠りなさい」
死者の温もりに包まれて、才人の意識はすとんと落ちた。
*
アニエスたちの考えではゴンドラン評議会議長とド・ポワチエ将軍は共謀している。
将軍がガンダールヴである才人をおびき出すのなら、戦力を一極集中させる効率の観点からアカデミーに連れ出すだろう。そこで多数のメイジをもって圧殺し、続く虚無を攻撃するつもりだろうと。
アンリエッタたちの詰めた案は、市内からの銃士隊の攻撃、市外からは実験小隊を向かわせて包囲、投降を呼びかけると同時魔法衛士隊による空からの急襲によって制圧を行うとのものであった。
才人が戦っている可能性を考慮し、そこに少し変更を加えた。隠密性の高い実験小隊をあらかじめ先行させ、可能であるならアカデミーの塔へ侵入させる。内部で魔法を乱射して陽動を行い、攻撃力の高い衛士を釘付けにしてから魔法衛士隊の攻撃を行う。
近接戦闘に長けた隊員とコルベールが闇夜に紛れてアカデミーに近づいている間に、ポワチエ将軍がついている可能性を各部隊に通達し、陽動を待ってアニエスたちは突撃した。
しかし彼女らの想定していた事態はまったく見当違いであった。
アカデミーの研究員は夜ということもあってほとんどおらず、ポワチエどころかゴンドランの姿もなかった。彼の秘書は、ゴンドランは自室にこもっていたはずで出てきたなら自分が気づかないはずだと言う。ポワチエにいたってはアカデミーを訪れたことすらないと証言した。
ゴンドランの屋敷に向かっていたマンティコア隊からも彼が見つからなかったと連絡が来る。街中に浸透していた他の銃士隊も、ヒポグリフ隊も彼の影すら見つけることができない。
全戦力を捜索に費やすわけにはいかない。トリスタニアではメアリーが目撃されているのだ。一極集中させて違う場所に彼女が現れ、またタルブのような攻撃をされては対処のしようがない。
しかし才人およびゴンドランを早期に発見せねばならない。アニエスたちは過剰戦力の大部分を中央と東西南北の五か所に集中させることを決定した。空は比較的小柄で羽音の小さいヒポグリフを中心に、銃士隊がポワチエの行方を聞き込み小隊が路地裏を駆け回るという編成で捜索を再開する。
成果が出るのは早かった。北部練兵場にて“ライト”の柱が目撃され、ルイズたちはシャルロットのシルフィードと少数の幻獣、地上部隊に別れて現場へ急行した。
「状況は?」
「周囲が闇に閉ざされていて目視は困難。『風』メイジの聴覚も効果なし。上空も封鎖され、数名突入を試みたところ帰還せず。闇は実体をもっているようで魔法を撃っても破ることができない」
「アニエス隊長、付近でグリフォンと少女を発見しました。いずれも重傷でしたが治療を施し命に別状ありません」
アニエスの問いかけに小隊隊員と銃士隊隊員が答える。
漆黒のヴェールが練兵場の周囲を覆い尽くし、中の様子が一切わからない。雨だけが闇を透過していく。豪胆なギトーも流石に初手から突撃しようとは思わず、“エア・ハンマー”をぶつけて遠目にその反応を確認していた。
この闇が邪神由来のものであるなら『虚無』をもって祓うことができるだろう。しかし貴重な精神力を浪費させるわけにもいかない。
「少し『借りる』」
言って、アニエスは剣を構え瞳を閉じる。己の内面に集中して心の炎を呼び起こす。
アニエス・コルベールは祝福の子である。その特性は『火』、彼女を中心に五リーグの『火』スペルの効果を増幅させる。同時に、『火』の系統を扱うことのできるメイジの力を集積し、放つことが可能だ。
その力は多数のメイジが集う戦場や都市でより強くなる。トリスタニアは一万以上のメイジが生活する大都市だ、彼女の祝福の力を生かすにはこれ以上ない土地だった。
「はァッ!」
眼を見開くと同時に気合を込める。彼女の剣にはらせん状の炎が渦巻いていた。その色は白と青、彼女が幼少のころより触れ合ってきた父と叔父の放つ炎の色だった。
そのまま上段に突き上げ、蠢く闇めがけて一閃。始祖の祝福を受けた炎は烈しく燃え上がり、闇のヴェールを一掃した。
「せ、先住!?」
「祝福の力だ。いくぞ」
詠唱もなく生まれ出たトライアングル以上の炎にギーシュは驚きの声をあげたが、アニエスはそれにすげなく返して道をいく。
途中突入したメイジの死体が散乱していた。頭蓋に太い穴が開いていて、そこから流れ落ちるはずの中身はない。猟犬の仕業であることは明白だった。
「ラ・ヴァリエール殿は私の前に出ないように。グラモン殿たちは身命を賭して彼女を護ってくれ。女性陣は挟撃を受けないよう後方警戒をお願いする」
「杖に誓うよ」
「ウィ、マドモワゼルってね。フレイムもいるし退路は焼き払ってあげるわ」
瘴気が濃くなっている。この先に邪神の手先がいる。そのことを祝福の力で感知したアニエスは念を押した。
銃士隊隊員十名、小隊隊員五名、それに周囲を魔法衛士隊が警戒している。この戦力でルイズが『虚無』を放つまでの時間を稼ぎ、全力をもって邪神の手先を討つ。
問題はガンダールヴが、才人が今も戦っているかという点だ。彼がポワチエに連れ去られてからかなりの時間が立っている。ことを起こすには十分すぎる時間があった。
練兵場は血に穢れていた。原型を残している死体などない。戦場よりも凄惨な光景が広がっていた。
そこに佇んでいるのはゴンドランではない。だが、小隊隊員ならば誰もが顔を覚えている人物だった。
「オリヴァー・クロムウェル……!」
「おや、おやおや。随分遅い御到着ですな。やはり異星の者などどうでもいいと見える」
黒衣の集団をはべらせて彼は大げさにため息をつく。
その傍らには少女がいる。闇を広げた黒の巫女が。
彼女は少年を抱いていた。少女たちのよく知る少年だった。
「サイ、ト……?」
「哀れな少年です。異星から無理やり引き摺りこまれ、不条理な怒りをぶつけられ、頼るべき仲間はいつまでたっても来ず、託された少女は護れず、信頼していた神剣は彼に真実を教えていなかった」
舞台役者のように左手を胸に、右手を天に掲げながら、悲劇の英雄を讃えてクロムウェルは謳う。
才人は、血色のよかった顔は死人のように白く、血を吐いた後が口元に残っている。蠢く闇に囚われ、傷ついた身体は見えない。
ついてきていたギーシュたちが膝をつく。巫女を直視することに耐え切れずレイナールは意識を落とした。銃士隊の中にもダメージを受けている者がいる。アニエスは一つの可能性に思い当たった。
リーヴスラシルの能力が失われている。あるいは、巫女がその身に才人を取り込むことで無効化している。
「しかし安心してください。聖母様は、我が神はどのような者でも受け入れます。たとえあなた方が必要としない少年であっても」
「サイトを返せ……」
「彼は疲れているのです。主人ならば休ませてあげようと気遣うべきでは?」
朗々と語るクロムウェルに、ルイズがキレた。
「か、え、せぇぇぇえええええ!!!」
顔を憤怒に染め、杖を抜き、ルーンを唱える。
彼女はその性格とは裏腹に四国の虚無の中で最も攻撃的な性質を持っている。唱える魔法がすべて爆発するのだ。
その攻撃性を生まれてはじめて、自らの意志で解き放った。
「うる・かぁのおっ!!」
紡ぐルーンは“発火”。四系統において破壊力の秀でた『火』の系統、その基礎スペルだ。この魔法を選択した理由はない。ただ怒りのままに覚えているルーンを唱えただけだ。
ルイズの放った魔法は大爆発を引き起こし、メアリー、クロムウェルだけでなく黒の一団をも飲み込んだ。
『虚無』によって周囲の瘴気がわずかに晴れる。その隙にアニエスは戦闘不可能な人員をキュルケたちが待機する練兵場の外へ運び出すよう指示し、緊急事態を示す信号弾をありったけ空に打ち上げた。
すぐに煙は風に流され、服が煤まみれになったクロムウェルと無傷のメアリーが姿を現した。
「けほ、『虚無』とは乱暴なものですね。使い魔ごとやるとは思いませんでした」
「とっとと返せって言ってるでしょ……ウル・カーノ、ウル・カーノ、ウル・カーノォ!!」
連続した爆発にかなわぬとクロムウェルは身を翻して逃げ出す。メアリーは相変わらず不気味に佇んでいるだけで、顔面や体に爆発を受けてようやく才人を介抱した。
アニエスが炎を剣に纏わせメアリーに殺到する。湧き出た触手が彼女を捕らえんと蠢いても気合の声とともに斬り払い、一歩一歩近づいていく。そうして彼女に触手が集中した瞬間を狙い、ギトーが疾風のごとき素早さで才人を奪い返し距離をとった。それを間近にいた銃士隊隊員に渡し、再び彼女に立ち向かう。
「闇に触れれば正気を犯されます。ギトー殿はサイトを王宮へ!」
「む、しかし私も戦わねば」
「急いで!」
「わ、わかった!」
「銃士隊はギトー殿とサイトの護衛だ、いけ!」
格闘に特化しすぎて遠距離はあまり強くないギトーとまだ動ける隊員を才人たちにつけ、アニエスは再び巫女へ挑みかかる。虚無の担い手の乱行に言葉を失っていた小隊隊員たちも一斉に動きはじめた。
威力の低いドットスペルを連発して牽制し、アニエスの通り道をつくる。彼女が退避すればその隙にライン・スペルを打ち込み着実に体力を奪っていく。彼らの魔法では決定打にならないことを知っているからこその働き、始祖の力を宿した祝福の火こそが邪神を焼き払うと信じてひたすらに魔法を放ち続ける。
信号弾を見た他の小隊隊員も続々と戦列に加わりアニエスを援護する。ここで巫女を逃せばトリスタニアは壊滅的打撃を受ける。全員が必死だった。
「よくも、わたしのサイトをあんな目にあわせてくれたわね……」
そこに息を整えたルイズが合流する。彼女はこれまで魔法を使ったことがほとんどない。虚無候補であることが発覚して六年、精神力をため続けることに終始してきた。
それを今日連続して解放したのだ。身体に負担がかからないわけがない。それでも、そんなこと知ったこっちゃないと彼女は杖を振る。
才人を呼んだのは自分だ。だから才人を護るのは自分だ。劫火のような感情をもって己が力を、『虚無』をメアリーに向ける。
何度か爆発を浴びたメアリーが腕を振る。烈風を巻き起こすその動作をアニエスはウェールズに聞いていた。
「伏せろ!」
無論聞いていたのは彼女だけではない。あのようなのっそりした動きに対応できないようならば、実験小隊はつとまらない。戦闘慣れした者は身を投げ出しながらも詠唱を続け、闇の鞭を撃ち落とす。ギーシュたちもカリーヌの調練のおかげで咄嗟に伏せることができた。
しかしここには反応できない少女もいる。虚無の担い手であるルイズだ。まともに暴風をその身に受けて凄まじい勢いで宙に巻き上げられ、マリコルヌの“レビテーション”でふわふわと舞い降りる。
その間にもメアリーの攻撃は止むことがない。小隊の援護を受けながらもアニエスは歩みを進めることができない。いかに彼女が修練に明け暮れていたとしても、無数の鞭を相手取ることなど想定していなかった。
漆黒の帯が一人の隊員を捕らえる。彼は蒼白に顔を染め、そして息絶えた。
ギーシュたちは自分たちが身を置いている戦場、それが想像を絶する場であることを理解した。タルブは所詮距離をとった出来事でしかない。今この瞬間こそが地獄に近いと悟ったのだ。
幾度となく魔法を行使して精神力はもう空っぽ。それがなくともライン・スペルですら痛苦を与えられない敵に、彼らでは戦力になりえない。レイナールにいたって気絶していてむしろ足を引っ張っている。ルイズを護れとアニエスには言われたが、そんなことできそうにない。
浮かれすぎていた。甘く見ていた。後悔ばかりが押し寄せてくる。
彼らが己の身の程知らずさを噛み締めていようと、メアリーが顧みることはない。
漆黒の鞭は慈悲も容赦もなく、動けずにいたギムリを狙って唸りをあげる。アニエスは間に合わない。ルイズも止めることができない。
ギムリは最期の瞬間をぼんやりと、どこかひとごとのように眺めていた。
「ウル・カーノ・ティール! 燃えちゃえ!」
「フレイム!」
躍り出たケティが放つ“フレイム・ボール”とキュルケの使い魔、フレイムの放った炎はギムリを狙っていた触手を撃ち落とした。
駆け寄ったギーシュとマリコルヌがギムリの腕をつかみ、みなが奮戦している場所から大きく場所をとる。ほっと一息ついたところではっとなにかに気づく。
「きみ、ドットじゃなかったっけ?」
「昨日ラインになりました。恋する乙女は無敵ナノデス!」
「うそん!?」
彼女の使った“フレイム・ボール”はラインスペルである。魔法学院入学当時、彼女はドットメイジであり、それ以降も変わることはなかったはずだった。
ケティの言うところを信じるならば恋が彼女を強くしたらしい。
「モンモランシーは?」
「サイトさまについています。質問は後にしてください。わたしはサイトさまをあんなにしたロシュフォール先輩をぎったんぎったんにしてやらなくっちゃいけないので」
そう言ってのっしのっしとケティは戦場へ向かう。その背中に恐怖は欠片もなくて、ただただマリコルヌはため息をついた。
「あいつらは半端じゃないから意気消沈するのもわかるわ。あたしもアルビオンで自信なくしちゃったし」
「……キュルケ」
「それでも立ち向かうのが良い男よ。ま、今日は精神力空っぽだろうから任せときなさい」
そしてキュルケまでもが邪神の巫女へ立ち向かっていく。
自分たちの情けなさを噛み締めるギーシュたちの頭上を一匹の青い風竜が翔けていく。メアリーの直上を通ったとき青と白の炎が交差しながら唸りをあげ迫る。続いて飛び降りてきたのは彼らの知る頼もしい教師と、人相の悪い男。
「やっぱ風竜は速ぇな。一匹どっかで捕まえてくるか」
「久々の共闘です。鈍ったとは言わせませんよ?」
「隊長が言えることかよ」
「今の隊長はあなたです」
『炎蛇』のコルベールと『白炎』のメンヌヴィル。いずれ劣らぬ『火』の使い手であった。
「コルベール殿! メンヌヴィル殿! 全力でお願いします!!」
「おぅおぅ、いつもどおりおじさんでいいんだぜ?」
「いきます」
必死に切り結ぶアニエスに軽口をたたきながらメンヌヴィルは詠唱する。
「ウル・カーノ・エオー・フェイヒュー・エオロー・ジュラ!」
「ウル・カーノ・ジエーラ・ティール・ギョーフ!」
顕現したのは白い虎と青い蛇。炎で身体を構成されたそれがメアリーめがけて突進する。
蛇は宙を変幻自在に泳ぎ巫女の周囲を炎に包み、虎は一歩一歩大地を融かしながら駆けて喰らいつく。二匹の獣は凄まじい高温を帯び、雨を瞬時に蒸発させて気化熱すらも無視して攻撃を繰り返す。
後退したアニエスは呼吸を整えじっと二匹の獣を睨んだ。見つめていれば眼が焼けてしまいそうなほどの輝きをもった猛獣は相手の命を燃やし尽くせと踊り続ける。
肉を貫く嫌な音がした。
「こいつ、周りの温度と変わりねぇだと……」
メンヌヴィルは視力を失っている。そのことを感じさせない動きで平時は過ごしていても決定的な瞬間に判断が遅れる。腕を犠牲に頭蓋を護れたのは幸運であった。
ずるりと青く太い舌が抜け落ちる。今まで感知できなかった悪臭が周囲に広がっていく。
「猟犬……!」
それまで姿を見せなかったティンダロスの猟犬が虚空を舞う。蛇よりもしなやかな舌をもって、強者であるコルベールたちではなく疲労の色が強い隊員を狙い跳躍する。
メンヌヴィルが“炎球”を詠唱する。並みのメイジでは魔法の並列使用は決してできない、一部の限界を超えた者のみがそれを可能とする。それでも一つの魔法を維持しながら詠唱を行うと言うのは極度に集中力を必要とする。
常ならばこともなく行えた動作であっても、邪神との戦いにおいては決定的な隙であった。
「ぐっ!」
「おじさん!!」
地獄の業火を再現したような炎から闇が伸びている。うっすらと黒い影が透けて見えている。
メンヌヴィルの腹部を貫いた漆黒は生物のように蠢いていた。
「ここまで、か」
ごぶりと黒い液体を吐く。きっと血液ではない。腹の内側で得体のしれぬものが暴れ回っている。
「隊長。あと、頼んだぜ」
メンヌヴィルは口内でルーンを呟く。誰にも教えていない、誰にも知られてはいけないラスト・スペル。
そして彼は、真実『白炎』となった。神々しさすら感じる白炎の巨漢がメアリー向けて走り出す。行き掛けの駄賃とばかり、超人的な跳躍力をもって宙高く跳んでいた猟犬の首根っこをひっつかみ、幾百の触手がその身を貫こうと意に介さず、肩から彼女にぶち当たり、この戦闘がはじまってはじめて彼女に打撃を与えた。そのまま燃え盛る両手で何発も何発も巫女を殴り、天まで届く火柱と化してなお殴り続けた。
最期にメンヌヴィルは暗闇を裂く渦巻く白い炎となって集束し、爆ぜた。ルイズの『虚無』ですら再現できないほどの大爆発は尋常の炎ではありえぬ指向性をもっており、ルイズたちの頬には熱風が届くばかりであった。
メンヌヴィルの生命ごと燃やし尽くした火炎は練兵場の大地を融かし、そのあとには白く輝く流動する大地があるばかりで何も残っていない。
「副長、きみは人のまま逝ったか……」
実験小隊の任務はこの世の地獄としか言いようがないほど過酷だ。正気を保ったまま死ねるなど幸運な方で、大概は狂気に触れて消えてしまう。
最期に人の意地を見せたメンヌヴィルは紛れもなく幸運であっただろう。
寂しさをおぼえながらも警戒は解かない。ニューカッスルでも戦術ゴーレムすら焼き尽くす炎を浴びてメアリーは無事だったのだ。
アニエスとコルベールは周囲の気配を探る。
そして気づいた。ルイズの隣に、闇がある。
「あ」
眼を見開いたアニエスの様子でルイズも気がついた。彼女はメアリーの攻撃が届かない場所にいた。だから最前線に立っていたアニエスからもコルベールからも致命的に遠い。
遅れて小隊の面々も状況を悟る。アニエスたちよりは近く、それでもまだ絶望的に遠い。
最も近くにいたケティとキュルケが杖を向ける。彼女たちがルーンを唱えるよりも闇がルイズを捕らえる方がずっと早い。
間に合わない。この場にいるものでルイズの重要性をわからぬものはいない。
彼女は現在四名しか確認されていない『虚無』の担い手なのだ。彼女が欠ければそれだけで邪神に抗する戦力は四分の一削られると言っても過言ではない。そうなればきっと勝てない。蹂躙されてハルケギニアは終わってしまう。
だからこそ皆必死に手を伸ばす。届かないとわかっていても、一縷の望みを託して
瞬間、雷鳴と共に稲妻が走る。あやまたずメアリーに命中したそれは数秒彼女から行動を奪う。その数秒があれば十分だった。キュルケはルイズを抱え上げ素早く後退する。
上空から青い影が、シルフィードが舞い降りる。影は分離し、その内小さなものがメアリーの前に立ちはだかった。
トリステインで彼を知らぬ者はいない。この場で彼を知らぬ者はいない。およそ二十年もの間マンティコア隊を率いるトリステイン最強の魔法衛士。
『雷刃』ゼッサール。
「ド・ゼッサール殿!」
「遅ればせながら参上仕った」
トリステインで五指に入るメイジをあげよと問えば、『閃光』『鉄槌』『氷山』『白炎』人によって様々な答えが出てくる。が、誰もが挙げる三人のメイジがいる。まず『五大』のオスマン。次に『烈風』カリン。そして最後に『雷刃』ゼッサール。
オスマンが新魔法の創出並びに戦略級魔法による大規模破壊を可能とし、カリンが機動力をもつ戦術級魔法の行使手である。
この二人のようにゼッサールは大規模魔法を使うことはできない。ならば何が彼をトリステインで五指に入るメイジたらしめているのか。対人戦である。
マンティコア隊隊長に就いてからおおよそ二十年、彼が天覧試合で負けたことはない。他国との軍事演習では必ず隊長職同士の一騎打ちがあり、そこでも全戦勝利をおさめている。
一対一の戦闘において無敗の魔法衛士、それが『雷刃』ゼッサールである。
襲い掛かる触手の中で後方に届きかねぬもののみを叩き落とし、残りは純粋な体裁きのみで回避していく。
鷹の眼と鋼の精神力をもってはじめて成し得る業だった。才人と戦ったときよりもなお速く、息つく間もない応酬の中で彼はさらにルーンを唱える。
「ウォータル・イル・ウィンデ・スリサズ」
霧が急速に立ち込め足元を濡らしていく。詠唱の完成と同時、ゼッサールは攻撃に転じる。彼の持つ杖剣は特別な素材でない。だというのに微塵の恐れも抱かず、鉄すら両断するメアリーの闇を巧みに受け流し、徐々に前進していく。
素早い足運びで距離を詰める彼の足もとで変化があった。一度、二度光が奔る。そしてゼッサールの意志に呼応したかのように、霧の中を泳ぐ雷の蛇が一斉にメアリーへ殺到した。
『水』の基礎に“ミスト”というスペルがある。単純に周囲を霧で覆う、それだけの魔法だ。ゼッサールはそれと“ライトニング”という指向性のない強力な雷撃を見舞魔法を組み合わせ、恐るべき効果を持つトライアングル・スペルを編み出した。この魔法こそ“ライトニング・ミスト”、詠唱こそ簡素だが非凡なセンスがなければ己を討つ諸刃の剣、ド・ゼッサールにしか使えぬ必殺魔法であった。
霧はおよそ膝までの高さを隠し、視界になんら影響を及ぼさない。相手がとるに足らぬ魔法と侮れば愚か者の足に雷撃が喰らいつく。霧を晴らそうと『風』を使えばその隙に距離を詰められ、高い格闘技能を有するゼッサールに打倒される。
出せば負けなし、数多のメイジが打ち破ろうと研究を重ね、ことごとく返り討ちにあったという、現状最強に近い対個人魔法であった。
間断なく雷はメアリーを打ち続ける。無論攻撃はそれだけに留まらない。“エア・ニードル”をその杖に纏わせたゼッサールがとうとう彼女を間合いに捕らえ、素早く連撃を喰らわせる。蠢く触手の動きが鈍れば上空から遅れて現れた彼の使い魔、マンティコアが巨大な爪を見舞った。
目撃したことのある者などほとんど存在しないド・ゼッサールの全力、偽ることなく本気の猛攻であった。
はじめて見る圧倒的な強さにギーシュたちは希望を取り戻す。命を賭したメンヌヴィルの攻撃、最強と謳われるゼッサール圧倒的攻勢、これほどの攻撃を受けて無事ですむなどありえない。
さらなる打撃を与えるため冷静さを取り戻したルイズは“爆発”の詠唱をはじめ、アニエスも祝福の火をその剣に宿す。生き残ったメイジも各々が使える最強の魔法を待機させる。
「退け!」
皆がメアリーを討つべく高揚していた。だというのにゼッサールの声は切迫している。
「副長が与えたダメージが残っているはず、今こそ押すべきです!」
「違う。まるで効いていない」
幾度刃が届こうと、幾度雷撃がその身を撃とうとメアリーの動きが鈍ることはない。
このまま状況が推移すれば遠からず体力が尽きる。そうなればこの場にいる者だけで対処はできない。
「トレヴィルを呼べ、それまではもたせる」
ヒポグリフ隊隊長を呼べとゼッサールは言う。口にしながらも杖と足は止まらず、彼の額には汗がにじんでいる。
彼の要請を聞き届けたシャルロットがもう精神力のほとんど残っていない小隊隊員を二人、“ウィンド・ブレイク”でシルフィードの上に吹き飛ばし王宮へ派遣する。
それを視界の端に捕らえていたゼッサールは一度大きく距離をとり、呟く。
「……攻め手を変えるか」
言って、唱えるルーンは“偏在”。ゼッサールの姿が五人に増える。そして各々が役目を確認することなく、まったく同じルーンを口にした。
元来『雷刃』の二つ名をゼッサールが授かったのはまだ若かりしころ、“ライトニング・ミスト”を生み出していない時代である。彼を『雷刃』たらしめているスペルは一つ、すなわち“ライトニング・ブレイド”である。
「イス・フル・ウィンデ・スリサズ」
ルーン詠唱とともに杖が雷光を帯びる。先の“ライトニング・ミスト”が対人戦を考慮したものだとすれば、この“ライトニング・ブレイド”は威力のみを追求した若さの発露であった。とにかく攻撃力の高さこそ至上と信じていたころに編み出した魔法で、それゆえにゼッサールがもつ魔法の中でも抜群に強い。
ゼッサールが疾走する。メアリーの触手が迎え撃つ。次の瞬間アニエスたちが目にしたのは雷の輝きであった。目も眩むような雷光はゼッサールの杖と闇色の鞭が接触した刹那に弾け、すぐに消える。五方向からの進撃は、あの触手の数と素早さをもってしても防ぐことができない。
やがてメアリーに接近した偏在が杖を突き立てる。雷鳴とともに凄まじい光が周囲に溢れた。人に向ければ死は免れないほどの威力がその杖に秘められていた。
その尋常ならざる攻撃力ですらメアリーを止めることはかなわない。放物線上の軌道を描く魔法をコルベールが放ち、それすらも効いた様子がない。
ルイズは必死に頭を回転させる。系統魔法は効果がない。アニエスの祝福の火も打撃を与えた気配がない。虚無を帯びた爆発ですら倒すことができない。
しかし、倒せないバケモノは存在しない。英雄譚であれ現実であれ、なんらかの手段がまだ残されているはずだ。
一つ思い当たったのは神剣。数多のバケモノを屠ってきたデルフリンガーならば、あるいは。
だがここに今彼はいない。その使い手たるガンダールヴも、今はいない。
邪神もこの星にいる以上、法則に縛られるのではないか。それが新たに生まれた疑念。奇しくも元素の兄弟のジャネットが生きていたころ考察していたのと同じことを考えつく。
ならばあの不死性は魔法に起因するもので、それを打破することができれば、もしかすると。
一縷の望みをかけて詠唱をはじめる。
これでムリだったら、なんてことは考えない。
才人をひどい目にあわせたヤツをとっちめる。それだけで十分だ。
詠唱が完成すればこの雨と雷と炎に満ちた世界は終わるだろう。他でもない自分が終わらせるのだ。
「“解除”、いきます」
高らかに宣言する。ゼッサールが大きく後方へ跳躍する。
光もなく、音もない。それでも周囲の人間は魔法が発動したことを悟った。祝福の子たるアニエスは場の空気が変わったことを誰よりも強く実感していた。理屈ではうまく説明できない、直感でのみ表現できる変化があったのだ。
だがしかし、メアリーはまだそこにいる。“解除”なんて意に介した様子もなく、杳として知れぬ表情でその場に佇んでいる。
ゼッサールが再び杖をかまえる。“解除”で“偏在”は消えてしまっても彼自身はまだ戦える。静かな闘志をみなぎらせ、飛び掛ろうとしたそのときだった。
「ふむ。ふむふむ。虚無殿は“解除”を使いましたか」
姿を消していたクロムウェルがぬらりとメアリーの横に現れる。そのかたわらに猟犬の姿はなく、黒の一団も引き連れていなかった。
「ですがかなしいかな。聖母様にはそのような魔法、意味がないのですよ」
いやあまったく残念だと、これっぽっちもそう思っていないことを隠そうとしない。
「それよりも『白炎』殿の最期の一撃が痛かった。ドン松五郎も泣いていましたよ。きっと明日まではこの世界に来る気が起きないでしょうね。ま、夜ももう遅いことです。今宵はこれまでとしておきましょう」
それとこれは敢闘賞ですといって、地面にデルフリンガーを突き立てた。
「ではみなさんごきげんよう。ああ、我が神の意向でこれから先一週間近くゲルマニアをまわるつもりですので、よく眠ってください」
睡眠不足はお肌の敵ですから、なんてのたまいながらクロムウェルは影にずぶずぶ沈んでいく。
「それとサイト殿に。こちらはいつでも受け入れるということ、お伝えください」
それではと、シルクハットを胸に当てて一礼し、完全に姿を消した。すでにメアリーもこの場にいない。
「アニエス」
「言葉通り付近にはいません」
邪神の気配に誰より敏感なアニエスの言葉に、みな一斉に肩の力を抜いた。
雨はまだ降り続けている。
次章予告
始祖は座にて名もなき少年に見せる。世界の真実を、六千年前の事件を、そして己が犯した罪を。
平賀才人は目覚めない。かつて少女が危惧したように、ただひたすらに眠り続ける。
舞台はリュティスへ。グラン・トロワに再び集結した虚無たち、六千年の歴史を深く知る者たちが暗躍する。
そして昼と夜の境目、逢魔が刻に現れた漆黒の巫女は宵闇の軍勢と大司祭を従え蹂躙がはじまった。
リュティスで最も長い夜に王と教皇は杖をとり、少女も戦う決意を秘めて闇夜に染まる街を往く。
銀色の雨が止んだ後、群衆は暁に黒い影を見る。黄金の夜明けに吼えるのは邪神か、人間か。
次章、Flag in the Ground
第三章終了時の後書き
これにて第二部「始祖ブリミルに祝福を」の第三章Last Amazing Graceは終わりです。お疲れ様でした。
本章は原作の五巻にあたる内容を、「疑心暗鬼」というテーマを添えてかなり脱線しつつお送りしました。第一部のアイドルドン松五郎も大活躍しましたね。
次章はリュティス編、もう原作なんて知ったこっちゃねえってところに来てしまいました。ジョゼフやシェフィ、教皇にジュリオやビダーシャルが出てきます。あとある意味元凶ともいえる二人、ブリミルさんと名無しの少年も話にからんできます。
さて、第二章で超絶エグいと書きましたが、どうだったでしょうか。あまりにやりすぎると才人がどうがんばっても立ち直れなくあるので大分加減しました。こんなのへっちゃらだぜという人も多いかと思います。
初期プロットでは警官のかわりに呼ばれるのは才人の両親、しかもアニエスが直接手にかける。加えてマザリーニコルベールジェシカゼッサールカリーヌあたりも死んでました。もうトリステイン全滅レベルです。それに比べればかなりマイルドかと。
作中でニャル様が異星送りにしたのはラヴクラフト御大の短編「ナイアルラトホテップ」の描写を見て考えた妄想能力です。まあこれくらいできてもおかしくないよ、だってニャル様だもの。
またジョン・フェルトンには強い父親を演じてもらいましたが、ポワチエは逆にダメ親父です。敵討ちの矛先を間違えて、それすらもハルケギニアのためという正当化を前に出さないとできない、なんとも中間管理職の悲哀を感じるキャラでした。
あとケティ。恋する乙女なんて自称してるけど彼女は狂信者です。ぶっちゃけクロムウェルの対抗馬です。最終的にスクウェアまでいきます。ウソかもしれません。
いよいよ物語も核心に近づきます。のんびりだんらりお待ちください。
最後に、どんな些細な感想でもいただければ励みになります。「面白かった」「つまらん」「鬱になった」「ケティが狂信者すぎる」「次回に期待」「才人がんばれ」などどんな簡素なことでもお気軽にお書きください。
ではまた第四章でお会いしましょう。