ニューイの月四日
久しぶりに日記をつけることにする。
長い長い一夜が明けた。まだ分厚い雲が空を覆っていて日中も薄暗い。常の色彩あふれるトリスタニアはどこかにいってしまったようだ。
昨夜の事変はまだまだわからないことが多い。
ゴンドラン評議会議長がいつクロムウェルになってしまったのか。ポワチエ将軍の乱心の原因はなんだったのか。どうすれば巫女に打撃を与えることができるのか。
前二つはわたし以外の誰かができることだろう。けれど最後の一つはわたしにしかできないことだ。姫さまに言って王宮の図書室で資料を漁る。収穫はなかった。
雨はやまない。サイトは目覚めない。
ニューイの月五日
昼過ぎ、ウェールズ殿下がアルビオンから戻ってこられた。
一昨日のできごとを書いた手紙を読んで、返事を書くこともなく引き継ぎを終わらせてすぐさま飛んでこられたそうだ。サイトのお見舞いにもいらっしゃった。
ミスタ・ウエイトの最期を家族に伝えるため、同じくサイトの見舞いに来ていたギーシュたちに話を聞かれていた。
ポワチエ将軍付きの参謀だったミスタ・ウィンプフェンも様子を見に来る。自分がもっと早く気付けば、止められていたらとひどく後悔していた。悔やんでいるのはわたしも同じだ。
彼の推測したポワチエ将軍の動機は、わたしにはとても許すことができそうにない。よそう、相手は死人だ。文句を言っても答えてくれない。空しくなるだけだ。
クロムウェルが言った通り、ゲルマニアの地方都市に巫女が現れたそうだ。しかしタルブで見せたような邪神の圧倒的な破壊力を見せることなく、数十人の平民の正気を刈り取っていった
雨はやんだ。サイトは目覚めない。
ニューイの月六日
サイトが魅惑の妖精亭という酒場で懇意にしていた娘、ジェシカが目を覚ます。怪我がひどく、治療が遅れたため半年近く手足にしびれが残るそうだ。
この子は父親を亡くして、しかも帰る家までポワチエ将軍に燃やされている。タルブで畑仕事でもして暮らすと言っていたけれど、あそこはまだ立ち入り制限が解かれていない。
いつまで続くかわからないこの戦いが終わって、虚無の力を別に割いても問題なくなって“解除”をやってからのことになるだろう。親族は王都から馬でも三日以上かかるほど遠く離れたグランドプレ領に避難している。あの体では着くまですごく苦労するだろう。
ここで見捨てるのも人情のない話だと思うので、わたし付きのメイドになってもらうことにする。とりあえずメイド長に言って教育を行わせる。シエスタも教育係に抜擢、これで問題ないはず。
平民に対してここまでするのはほぼありえないことだけど、彼女にはサイトが世話になっている。周りに女性が増えすぎるのはよくないけれど、サイトも喜ぶはずだしガマンする。
久しぶりの快晴。サイトは目覚めない。
ニューイの月七日
サイトを召喚してから二ヶ月がたつ。本当に色々なことがあった。それは彼がもたらしたのではなくて、時代の流れと言うべきか、エルフ風に言うなら大いなる意志の導きと言うべきか、そういったものだ。
その潮流に抗うためわたしたち虚無の担い手がいるというのに、わたし一人の身ではないというのに、あの夜いたずらに精神力を消費してしまった。
なんでかはわからない。あのとき、サイトが巫女に囚われているのを見て、今までに感じたことがなかったほど頭に血が上った。自分でもあの感情のうねりがわからない。
さておき、トリステイン一の名医、ウィレット医師によるとサイトのけがはもう完治しているらしい。長年医者として働いてきて、出会ったことがないほどサイトの回復力は凄まじいと言っていた。
目覚めないのは精神の面で問題があると断言される。
思い出したのはギーシュとの決闘のことだ。あのとき彼は丸三日目を覚まさなかった。心が拒否すれば戻ってこないこともありうると、あのときも思った。
今度はもう四日になる。今度こそそうなのかもしれない。サイトが悪いわけじゃないのに、ポワチエ将軍に陥れられて、同郷の者をはじめミスタ・ウエイトやスカロンという行きつけの店の店長まで殺されて、絶望してしまっているのかもしれない。
水の秘薬で栄養を補給させているけれど、はやく目を覚ましてほしい。
はやく、目を覚ましてよ……。
―――Recall of Valkyrie―――
ウエイトが殺され、スカロンが死に、ポワチエが啜り取られ、リッシュモンが託し、メンヌヴィルが命を燃やし尽くした夜から五日がたっていた。
空には太陽が戻っていたが、街の様子は変わらず暗い。それが何に由来するものか、平民は知らずにただただ重い空気を甘受したまま日々を過ごし、貴族は語れぬ重圧を背負いながら対応に奔走する。事情を知らぬ商人などは両者の纏う雰囲気の差を如実に感じ取りながらもその溝を埋めることはない。
かみあわない歯車のような、ぎくしゃくとした空気が王都に蔓延していた。
ルイズは相変わらず王宮付き図書室、日によっては魔法学院のフェニアのライブラリーを訪れては本を読み漁り、収穫のないまま一日を終える。本音を言えばルイズはずっと才人についていたかった。しかし状況はそれを許さない。巫女を打破する手段が得られなければ世界は闇に閉ざされる。彼女の愛する家族も、トリステインも、ハルケギニアまでもが終わってしまう。
だからこそ彼女は才人についていたいという感情を押し殺して古書を調べつくす。巫女を打倒する手段は見つからない。そうして一日、また一日と時間が過ぎていき、焦りだけが募っていく。
ルイズが、アンリエッタが、ウェールズが邪神を打破するための手掛かりを探している間にも、クロムウェルが宣言した通りゲルマニアの地方都市にメアリーは現れ、なにもしないまま去っていく。彼女が訪れた都市はアルビオンと違って破滅を迎えることなく、されど見たものを狂気に誘い去っていく。一つ、異なる点があるとするなら彼女の現れた場所は海抜高度が下がっていることが判明している。地中深くに眠る風石を吸い上げている証左であった。
トリステインもレコン・キスタの一員としてグラモン元帥率いる兵力をゲルマニア派遣したものの、出現予測がつかない上現れるのは夜の間だけという索敵不可能な相手の対処など、できるはずもなかった。
図書館にこもるルイズの下に、アンリエッタからの使いがきたのはそんなときのことであった。
ミシェルという銃士隊副隊長の案内に従い彼女の執務室に向かう。そこにはティファニア、アンリエッタ、ウェールズ、マザリーニと虚無に携わる者たちが集っていた。
「ルイズ、教皇聖下から招集要請が来ています」
「教皇聖下から? この時期にですか?」
「ええ、なんでも虚無を一堂に会して検討する事案があると。詳しくは行動が活発化してきた巫女による奪取を懸念して書いてありませんが」
ヴィットーリオからの書状を手渡され、ルイズはざっと目を通す。確かに彼の筆跡、封蝋の印璽も間違いはない。内容はというと、アンリエッタが述べた通りリュティスにすべての虚無とその使い魔を集結させたいと書いてあった。すでに聖堂騎士団を派遣しているとあるので防衛に関しては数日ほどの時間稼ぎは可能だろうと。
疑問に感じるのは、なぜこのタイミングなのかということ。
メアリーがトリスタニアに現れ、今なおゲルマニアの各地に出没している状況でリュティスに戦力を集結させる意味がわからない。数少ない邪神に対抗できる戦力を他国へ放出させたがる国はない。そのことがわからぬ教皇でもないのに、聖堂騎士団に護衛させた使者を各国に派遣して知らせるという手段をとらぬ理由がわからない。
クロムウェルが一週間ほどゲルマニアにいくという、今のところは真実であった言葉を信じているのだろうかと思い、ルイズは首を振った。
ブリミル教の総本山、そのトップであるヴィットーリオがそんな楽観主義であるはずがない。
「……教皇聖下の意図が読めないな」
「ウェールズ殿下もそう思われますか」
アルビオンから急遽舞い戻ってきたウェールズも腕組みしながら考えている。
「この手紙はヒラガ殿が負傷したという報告の返事としてきたはずだ。つまり聖下はガンダールヴの負傷を知っている。なのにリュティスへ連れて来いと言っている。あるいは一気にカタをつけるため戦力の集中運営を狙っているのかもしれないが、それもまた考えにくい」
「サイトを確実に回復させる手段を保持しているのかもしれません」
「これは直感なのだが、どうにもそういう気がしない。そうであるなら文面でにおわせる程度やってのけるはずだ」
アニエスの指摘にもウェールズは渋い顔のまま、その空気はみなが共有しているのかアンリエッタもマザリーニも首を傾げている。
ウェールズは自ら“ディテクト・マジック”をかけて確認する。
「直筆、インクもロマリアが使っているもので間違いないか」
「偽書でないことも確認できています。意図はわからずとも乗るしかありませんな」
疑問に思うことは多々あれど教皇の招集を無視することはできない。
ロマリアの要請によって圧力がかかるというのもあるが、ブリミルの弟子フォルサテの興した国は他国の知らぬ情報も多数抱えているのだ。中には今ルイズたちが求めてやまない邪神を倒す手段があるのかもしれない。
その可能性に一縷の望みをかけ、眠ったままの才人を連れてルイズたちは竜篭で魔法大国ガリア、その王都リュティスに向かう。
グラン・トロワの一室、これまで数々の会議を執り行ってきたであろう会議室でルイズたちを迎えたのはジョゼフ王ではなく、教皇その人であった。傍らにはヴィンダールヴたるジュリオ・チェザーレを控え、薄い笑みをたたえている。真意は笑みに隠れ幼いルイズや経験浅いアンリエッタたちに見透かすことはできない。
いや、とルイズは頭を振った。同じ人を、虚無の担い手を疑うことなどあってはならない。人類が一丸となって協力しないとこの事態は打破できないのだとわかっている。
それでも、心の隅でかすかに湧き起こる不信感。それはポワチエの遺した毒針だった。
才人はハルケギニアのためにがんばってきた。鍛えて、全力で戦って、なのに手酷く裏切られた。そのことがじわりと影をさしている。
「ジョゼフ王は少し席を外しています。アルブレヒト殿は今国を離れることはできないとのことで」
彼女の内心を知ってか知らずか、主のいない部屋の椅子を教皇は勧める。ちりりんとベルを鳴らしてメイドを呼んで、人数分の紅茶を淹れさせた。
今この場にいるのは六名。ヴィットーリオ・セレヴァレ、ジュリオ・チェザーレ、ルイズ・フランソワーズ、アンリエッタ・ド・トリステイン、ウェールズ・テューダー、ティファニア・モード。
各国の虚無と支配者がここに集結していた。万一この場が襲われ、全員が命を失うようなことがあればハルケギニアに先はない。同時に、ここにいる者たちは邪神に抗する最強戦力でもあった。
「さて、この場を設けたのは他でもありません。今後の対邪神戦略についてです」
そしてヴィットーリオは朗々と語りだす。エルフとの協力体制、兵糧の輸送ルート、各国の軍隊の集結場所、戦役が終わるまでの国境の事実上撤廃。
確かに重要な内容だ。そのことはルイズにも、他の誰にもわかっていることだろう。
だがそれだけだ。
邪神を討つ決定的な情報が与えられたわけではなく、また才人を目覚めさせる手段を述べるでもない。手紙でことたりる情報をヴィットーリオは喋っている。そのことがどうしようもなく不信感を書きたてる。
思わず椅子の肘掛を撫でて、ルイズは飛び上がった。
「いたっ!」
ささくれがあった。さして深い傷ではないが、ぷっくりと血滴が指にできている。その様子を見ていた教皇はすぐにメイドを呼んでルイズの手当てをさせた。
多少大げさだとは思ったけれど好意を無碍にはできない。メイドはルイズの血をハンカチで拭い、“ヒーリング”をかけて退室する。
ふと、ルイズは疑問に思うことがあった。
――なんで、ささくれなんてあったのかしら。
グラン・トロワの調度品はすべてが最高級品で、その手入れは熟練の使用人たちが毎日行っている。本来ささくれなどあるはずもないのだ。
「話を続けてもよろしいですか?」
「はい、お願いします」
しかしその疑問も再び喋りはじめたヴィットーリオの話を聞こうと集中し、忘れ去ってしまう。
この会議にて、ガリア王ジョゼフは姿を見せず、教皇はついにはルイズが期待していたことに触れず話を終わらせてしまった。
*
「なんでぼくたちここにいるんだろ……」
「さぁ……」
ところかわってプチ・トロワの一室、身を縮こませた場違いな集団が待たされていた。
窓からはさんさんと陽光がさし、そよ風が真っ白なカーテンを揺らしている。だというのに部屋の空気はぎこちない。みながみなカチコチに固まっていた。
「なんだか胃が痛いような気がする……」
「耐えろレイナール、ハゲるぞ」
「ぼくはハゲない!」
そのとき樫の扉を叩く音が部屋に響く。全員がびくんと肩を震わせて、それからギーシュが恐る恐る入室を促す。
台車を押して入ってきたのはメイドだった。手際よくティーセットを並べ、一礼してまた退室していく。
ただのメイド相手なのに息を止めていた四人は一斉に大きく息を吐いた。
「な、なにビビってるんだよギーシュ」
「マリコルヌだってカチコチに固まってたじゃないか!」
「まったく、二人とも落ち着きがないね」
「いや、お前が一番緊張してたぞレイナ―ル」
思い思いにやいのやいの言い合って、ようやく顔を見あわせて笑った。
「いくらプチ・トロワだとて恐れることはないんだ!」
「思いっきり恐れてるぞギーシュ」
ぐっと握りこぶしをつくったものの、ギーシュはいまいち顔色が優れていない。それはギーシュだけではなく、ツッコミをいれたマリコルヌも、他の二人もどこか青白い顔で笑っている。
なんたって今、彼らはプチ・トロワにいるのだ。プチ・トロワと言えばハルケギニア最強の大国、ガリアの王都にある宮殿である。王女イザベラがおわし、またガリアの来賓を迎える建物で、そんな格式高いところにみな訪れた経験がなかったのだ。
「だ、だってちょっと前にはじめてトリスタニアの王宮行ったばっかりだよ!? それが一足とびにプチ・トロワなんてありえないじゃないか!」
「ありえなくても今ぼくらはここにいるんだよ」
まだ彼らは学生に過ぎない。王宮にあがる機会なんて滅多になくて、この中ではギーシュが唯一訪れたことがあるのだ。それも新設近衛隊の仮任命証を受け取ってすぐに帰ったので空気を味わうどころではなかった。
ギーシュが一人テンパっているおかげで他の三人は幾分冷静さを取り戻すことができた。
「トリステイン貴族でもプチ・トロワに泊まった人なんてほとんどいないぞ」
「魔法学院で自慢できるな」
へへっとレイナールとギムリが笑いあう。
そして大きくため息をついた。
「なんでこんなところにいるのか全然わからん」
ギムリの言葉にギーシュとマリコルヌの二人はうんうんうなずいた。
「それはぼくたちサイト直属部隊だし」
「だからといってこんなところにまで」
「それに成果もあげてない。肝心のサイトは眠ったままだぜ?」
レイナールの言い訳じみた言葉に、マリコルヌとギムリが現実的な意見を返す。ギーシュはというと、一人むっつり黙ったままだった。
「考えてもみろよ。俺たちが今までなにをやったかっていうと、サイトと一緒に夜回りしただけだ。巫女に手傷を負わせたわけでも、身体を張ってサイトを護ったわけでもない」
「肝心なときにぼくらは動けなかった……」
雨の日、炎の夜、彼らは闇を直視した。
想像していたよりもずっと闇は深く、おぞましく。人間は信じていたよりもはるかに愚かで、どうしようもなく。成長していたと思っていた自分たちは、無力だった。
彼らの思いはまだあの夜に囚われている。
もしあのときウエイトと別れていなければ。もしもう少しはやく魅惑の妖精亭についていれば。もし、才人がポワチエに連れて行かれるのを止めていれば。
考えても仕方のないことだとは分かっていても、どうしても考えてしまう。自分たちにもっと力があれば、と。
「俺がアンリエッタ殿下かウェールズ殿下、それかマザリーニ枢機卿の立場なら間違いなくクビにしてるな」
「クビにしてなくてもここまで連れてくる必要がまるでないよ。ミスタ・コルベールが一人いればぼくら四人よりもよっぽど役に立つ」
「だろうね。あの夜ぼくらはなにもできなかった」
ギムリの考えにレイナールも賛同した。楽天的なマリコルヌですら自嘲気味に笑う。
「ぼくらがリュティスに呼ばれたのは、なんでだろうな」
ぽつりと、ギーシュがこぼした言葉に答えなんて出るはずもなかった。
紅茶に口をつけると、かすかにマスカット・フレーバーが残る。実家でも魔法学院でも味わったことのないほど上物の紅茶は、だけどなぜか味気なかった。
部屋に再びノック音がこだまする。
またメイドかと思い、先ほどよりも気楽に入室を促すと、入ってきたのは意外な人物だった。
「くつろいでいるか」
「アニエス隊長」
銃士隊隊長のアニエス、彼女は祝福の子として、またアンリエッタの護衛としてリュティスを訪れていた。
護衛の仕事があるのにここにいていいのだろうかと、みんな不思議そうに彼女を見ている。
ギーシュたちの視線に気づいたアニエスは肩をすくめて言った。
「仕事がないんだ。護衛のためと出しゃばっては向こうの面子を潰すことになる」
嘘だった。アニエスはあの夜以来元気のない一団の様子を見に来たのだ。アンリエッタたちの護衛はウェールズの親衛隊がついている。
しかしギーシュたちがそんな嘘を見抜けるはずもなく、どっしり腰をすえたアニエスをぼんやり眺めている。
彼女はベルでメイドを呼んで紅茶と、自分好みの茶菓子を頼む。ギーシュたちとは違ってプチ・トロワの空気に呑まれた素振りは一切ない。
「その、緊張しないんですか?」
「なにをだ?」
レイナールが思わず問いかけても、アニエスはむしろそれが不思議だと言わんばかりの表情だ。
アニエス・コルベールがエルフの国、ネフテスに留学していたことを知る人物は少ない。首都アディールにて彼女は度々パーティーなどに誘われ、それですっかり耐性を得てしまっているのだ。さらに、それでなくとも彼女は幼少のころプチ・トロワに週一で通っていたことがあった。
そんなこともつゆ知らず、やはりアンリエッタ殿下が隊長職に抜擢した人物は豪胆だとみな感心するばかりであった。
ぽつと、レイナールがアニエスに話しかける。
「祝福、とはなんですか?」
「文字通りだ。ハルケギニアには四人、祝福の子がいる。始祖ブリミルの祝福を宿した子どもは、それぞれ四系統の力を増幅させ、また集束することができる」
見せたほうが早いだろうと、アニエスは人差し指をあげてみせる。
詠唱もなにもなく、ギーシュたちが見ている前で火がついた。
「詠唱なしで……」
「ああ、祝福の力に詠唱は必要ない。その身がメイジである必要もない。この場でお前たちが『火』の魔法を使えば威力や精度は上がっているはずだ」
そして、さらりととんでもないことを言ってのける。
「威力、精度の向上……どんなマジックアイテムにもできないことを」
「無詠唱の魔法なんて先住にも無理だ」
「そういいことばかりではない。ほら」
言ってアニエスは躊躇なくレイナールの頬に燃える指を押しつける。
「あつっ!?」
「本当か?」
「え……あ、熱くない」
反射的に叫んだレイナールだが、その実感じるのはアニエスの指先の感触だけだった。
不思議そうに肌をさすってみても火傷の跡は見つからない。
「人には一切効果がない。エルフの反射も通過する、系統魔法や精霊魔法とはまた違ったものなんだ。『虚無』以上に対邪神特化した力だよ」
やれやれと肩をすくめて言う。エルフの友人にも教えたこの仕種は彼女の癖みたいなものだった。
「ロマリアに『土』、ガリアに『水』がいる。いずれも攻撃に類する魔法を増幅するだけ、使いにくいことこの上ない」
「各国の象徴とは違うんですね」
「どこかで入り混じってしまったらしい。『風』は不明だ。おそらくアルビオンだろうが……」
と、ここでメイドがやってきたため話を中断した。メイドは新たなティーセットを二つ、たっぷりのお茶菓子とともに配膳する。
彼女たちが去ってもアニエスは口を閉ざしたまま、どうやらこれ以上祝福について話す気はないようだ。
ギーシュはずっと思っていたこと、自分たちだけでは結論の出ない疑問を投げかける。
「アニエス隊長、ぼくたちは何故ここに呼ばれたんですか?」
メイドが新たに入れた紅茶を口にして、ティーカップを置いてからアニエスは答えた。
「知らん」
あまり期待はしていなかったけれど、それでも少しがっくりきた。
ギーシュの様子を気にもせずアニエスは話を続ける。
「お前たちがここにいるのはウェールズ殿下のお考えだ。アンリエッタ殿下はむしろ反対していたくらいだからな」
戦力にもならない若者を連れて行くのはまったくの無駄である。それよりも彼らには生き延びた経験を生かして次代の中核をなすべきだと、そうアンリエッタは主張した。
しかし、ウェールズは考えの読めない表情でギーシュたちの同行を推した。
「なんで殿下はぼくらを」
「知らん。私に聞かないでくれ」
素っ気なくアニエスは返す。好物のアップルパイを口にしてご満悦気味の顔で、お前たちの苦悩なんて知ったこっちゃないという風な顔をしているようにギーシュたちには見えた。
空腹だったのかそのままアニエスはもっきゅもっきゅとアップルパイを頬張っている。とても姫殿下直属部隊の隊長には見えなかった。
やがて食べ終わると紅茶を一口、そしてギーシュたちに向き直った。
「ただ言えるのは、ウェールズ殿下はお前たちになにか期待している」
「期待?」
「それだけは間違いない。でなければ竜篭に魔法衛士隊やビーフィーターの小隊を乗せてきたほうがよっぽど戦力になる」
彼女の言うことはもっともだ。彼らは戦力として数えるにはあまりにも心もとない。
「ま、自分たちのできることをすることだ。殿下もドット四人に戦いを期待しているわけではないだろう」
「自分たちのできること……」
「ちなみに、父はリュティス魔法学院の図書館の使用許可を得て本を読み漁っている。少しでも手がかりがないかと探っているようだ」
アニエスはパチンとウィンクして見せた。お堅い年上が見せた思わぬ茶目っ気にレイナールの胸が高鳴る。
後押しされればあとは進むだけだ。みな一斉に立ち上がる。
「ぼくはサイトの様子を見てくる」
「ぼくも、ひょっとしたら起きてるかもしれないしな」
うなずきあうギーシュとマリコルヌ。
「ミスタ・コルベールを手伝ってくる」
「俺も行こう。本の出し入れくらい手伝えるだろ」
レイナールとギムリもまた新たな目標を見出し、みな部屋から出て行った。
残されたアニエスは一人ソファーに深く背をあずけ、背後に声をかけた。
「イザベラ殿下、良いご趣味をお持ちのようで」
「プチ・トロワを移動するのにあんたの許可がいるのかい? それに王女相手になんて口のきき方だ」
「同じ祝福の子相手、遠慮は無用でしょう」
イザベラはにやりと底意地の悪い笑みを浮かべる。対するアニエスはまたしても肩をすくめるだけ。
「ま、平民出身のあんたに礼儀作法を期待するほうが無理ってものか。なんだいその男みたいな髪型は」
「カーテンの影で盗み聞きをするなんて、まったく子どもじみていますな。おっと、体型も子どもっぽかったか。これは失礼」
プチ・トロワには非常時のため隠し通路がいくつも存在している。イザベラはその内ひとつを利用してギーシュたちの様子をうかがっていたのだ。
イザベラは蔑むように、アニエスはマザリーニの真似をして、お互いの欠点をあげつらう。
軽口の応酬は両者の信頼の証であった。二人とも額に青筋はしらせて、ちっとも怒った様子がない。
「それにしてもあっついねぇ。どっかの嫁ぎ遅れが年下いびってたし、そのせいかもしれないね」
「いや、いい天気だ。大平原に昇る太陽が眩しい……おっと、殿下のデコでした。失敬失敬」
ぐぬぬと悔しげな表情になって、二人同時にため息をついた。
「やめだやめ。あんた本当に不敬罪で首跳ねちまうよ」
「対邪神の戦力を削れるならどうぞ。ところでジュリオは?」
「さあ? また魚のフンよろしく引っついてるんじゃないかい?」
アニエスの前にぼすんと腰を下ろし、イザベラはパイプを取り出す。
「火」
「つきません」
「つっかえないねぇ」
「お互い様でしょう」
悪態をつきながらイザベラはパイプをしまう。ただアニエスに対するあてつけのために出したようだ。
常の王女らしい物言いがすっかり鳴りを潜めたイザベラは、アニエスと長年の付き合いがあった。彼女が祝福の子であると発覚した際、誰よりも早くその存在が知られていたアニエスが教育係として週に一回プチ・トロワに通っていたのだ。
腐っていたイザベラは、それはもうアニエスに厳しくあたった。しかし元平民で、養父となったコルベールも厳格な貴族ではなかったので王族の貴さなんて知ったことじゃなかったアニエスはやり返した。それはもうド派手にやりかえした。
その結果、夕焼けの川岸で殴りあった若者のように二人は理解しあった。こいつとは友人になれないということを理解した。
傍目には仲良しにしか見えなくとも、本人たちはそう思い込んでいた。
「で、どうだい」
「どうとは?」
「ガンダールヴだよ。サイト、って言ったか。あのガキ起きそうなのかい?」
「なんとも、言えません」
アニエスの言うとおり、才人の容体はなんとも言えないものであった。
身体の傷は完治している。それでも目を覚まさない。心の問題であると診断され、トリステインの誇る幾人もの水メイジに診せたが、回復することはなかった。
まるで本人が目を覚ますことを拒絶しているようだと、口をそろえてそう言われた。
「そう。あいつには少し期待してたんだけどね」
さして残念でもなさそうに、さっき来たメイドが置いていったティーカップに口をつける。
「しかし、珍しいですね。殿下が平民の名を覚えるなど」
「そうかい? まあ、そうだね」
「惚れました?」
「まさか」
鼻で笑ったイザベラはずいと身を乗り出す。
「わたしを惚れさせたかったらイーヴァルディみたいに劇的に救ってみせることだね」
「……はぁ、相変わらず夢見がちですね」
「あの子がうつっちまったんだよ」
「そうやっていると婚期を逃しますよ」
「あんたみたいに?」
瞬間、アニエスはものすごい顔になった。怒りと情けなさと後悔と哀しみをごちゃまぜにしたような表情は、イザベラのツボにはいった。
睨みつけられるのもかまわず、心底楽しそうにけらけら笑い飛ばす。
「邪神をぶちのめしたら結婚します。そしてパン屋を開きます」
「祝福の子で銃士隊隊長が? ムリムリ、アンが手放すはずないわ。あんた一生独身だよ」
「そ、そんなことないもん! 殿下もわかってくれるしお父さんもアニエスは良いお嫁さんになれるって」
「これだからファザコンは」
やれやれとアニエスがよくやるようにイザベラは肩をすくめた。
色々と打ちのめされたようで、アニエスはどんより落ち込んでいた。
「……それで、殿下は嫁ぎ遅れをいぢめに来たんですか?」
「違うよ。そんな暇じゃないんだ。あんたの顔を見に来たっていうのと、タルブとトリスタニアの詳細を聞きにね」
その言葉とともに、イザベラはがらりと雰囲気を変えた。それまでの悪戯っぽい笑みは消え、大国ガリアの王女の顔になっていた。
アニエスも顔を引き締める。旧交を温める時間は終わり、ここからは先行き見えない絶望的な戦争の話がはじまる。
イザベラとアニエスが星をめぐるお話をしている頃、ギーシュとマリコルヌは才人の部屋を訪ねていた。
礼儀としてドアベルを叩く。返ってきたのは意外なことに男性の声だった。
「……ミスタ・ギトー?」
「諸君も来ていたか」
才人のベッドサイド、部屋を動きまわっていたのは黒髪の陰気な教師だった。『疾風』のギトー、魔法学院で一、二を争う強さを誇る殴りあい風メイジである。
思わずドアノブを握ったまま立ち止まってしまう。それくらい、彼がここにいるのは意外なことだったからだ。
「なぜここに?」
「……私が知るものか」
ギーシュたちと同じく、彼もなぜここにいるのかわかっていないようだった。
あたかもここにいるのが本意ではないと言う風に不満げな顔をしている。
「私が家でくつろいでいるとド・ゼッサール殿がやってきてな。とにかく来いと言う話だったのでついていってみれば竜篭に突っ込まれて気づけばここだ」
「それはまた……」
意味が解らない展開だ。
彼らは知る由もなかったことであるが、マザリーニによってギトーは騎士隊の一員として頭数にいれられていた。ゼッサールはその指示通りに動いただけなのだ。
「もっと風通しを考えるべきだ。こんな部屋にいては治る怪我も治らん」
窓を開いたり部屋の調度品を勝手に動かしたり、ギトーはやりたい放題やっている。
ぶつくさと呟きながらやっているのは、よく考えてみれば今も眠り続ける才人のためであって、なんだかんだでこの教師は良い人なのだろうとギーシュたちは微妙な気持ちになった。
そのとき、さらに見知った人物が入ってくる。
「あら、ギーシュ?」
「先輩がたもいらしてたんですか」
「え、いや……なんできみたちがいるのさ?」
マリコルヌの疑問ももっともだ。この場には全然関係ないと思われる女性二名、くるくる金髪ロールのモンモランシーと栗毛のケティが部屋に入ってきたのだ。
清潔なタオルや洗面器をもって、いかにも看病をするというスタイルだった。魔法学院の制服に、ケティは白いエプロンまでつけてやる気に満ちあふれている。
「そりゃサイトさまのいるところにケティ・ド・ラ・ロッタありですから」
胸をはって、ふんすと自慢げな顔でケティは腰に手を当てている。
非常に堂々としているけれど、まるで答えになっていない。ギーシュはモンモランシーに視線をやる。彼女はまったく正反対に、どんよりした顔だった。
「気づいたら、ここにいたの……」
声には苦労がにじみ出ていた。
彼女はこの日、トリスタニアの屋敷を離れて実家に戻るつもりだった。だというのに目覚めてみればプチ・トロワ。しかも傍らには悪気のない笑顔で後輩が笑っていた。
「わたし『水』苦手ですから。それに気心知れたモンモランシー先輩なら色々と安心ですし」
ちゃんとご家族には話してあるので安心してくださいと、全然これっぽっちも安心できる要素のないことをケティが言う。
彼女はすっかり変わってしまった。それが邪神のせいなのか、それとも友人平賀才人のせいなのか。あるいは両方なのかもしれない。
「さて、妖精亭では失敗したけど今のサイトさまには意識がない……」
――ああ、どっちかっていうと邪神のせいっぽい。
才人ににじり寄るケティの表情は邪まそのもので、なぜかかかげられた両手はわきわきと昆虫めいた動きをしている。
十人いれば十人が「彼女の属性は邪悪です」と答えてくれそうなほど、今の彼女はアレだった。
「け、ケティ? 冗談だよね?」
「当然です」
ギトーですら口をはさめない雰囲気に、見かねたギーシュが声をかける。
するとあっさりケティは表情を常のものに戻して、タオルをしぼって才人の額に当てた。そうしている顔は慈愛に満ちていて、けれどさっきの笑みが印象的過ぎてうさんくさく思えてしまう。
「それにはじめてはやっぱりサイトさまから……」
いやんいやんと身体をくねりはじめたケティは放置しよう、そうしよう。
無言で意思を統一させた四人はやることがないことに気づいた。しかしここで部屋をでるのもはばかられる。そんなことをしてしまってはケティがどう動くかわからない。場合によってはルイズやラ・ロッタ子爵が激怒する結果になってしまうだろう。
どうしようどうしようと悩んでいると、またもやノックの音が飛び込んでくる。
そっと開いた扉から顔をのぞかせたのは、これまた意外な人物だった。
「キュルケ?」
「あら……サイトはまだ寝てるかしら」
褐色肌の陽気なゲルマニア女性、キュルケが開いたドアの隙間から部屋の様子をうかがっている。
いつもならすぱーんとドアを開いて堂々と歩いてくるはずなのに、彼女はなぜかきょろきょろ落ち着きがない。着崩している制服だって今はきっちりボタンをとめていて窮屈そうだ。
「早くはいって」
「ギーシュたちがいるけど、いいの?」
「いい。彼らは騎士隊だから」
そんなキュルケをぐいぐい押しやって現れたのは青髪の小さな女の子、タバサである。普段通りのメガネに魔法学院の制服。いつも通りすぎる姿だった。
そして彼女の後ろにもう一つ影がくっついている。同じ青髪、同じ体型、同じ顔立ち。二人並べばそっくりで、彼女がドレスを纏っていることとメガネをかけていないことしか違いがマリコルヌにはわからなかった。
「……あれ、きみの妹?」
「紹介する。双子のジョゼット」
「は、はじめまして」
なんて、はにかみながらぎこちなく微笑む。
タバサという少女と同じ顔で、彼女がしないような表情をつくった少女を、みな不思議そうに見つめていた。
「私は魔法学院の教師、『疾風』のギトーだ。きみの姉上は成績優秀で教師としても鼻が高い」
「ひっ……す、すみません! いつもシャルロットがお世話になっています!」
先陣を切ったのは人生経験豊富なギトーだった。学院では滅多にしない微笑を浮かべ、彼女に一歩近づく。
しかし、ギトーは控えめにいっても不気味な顔をしている。一瞬ひるんだ少女は、失礼だと思ったのかぺこぺこ頭を下げて、若干涙目である。
ぐっとギトーはのけぞり、しかし何事もなかったかのように数歩下がった。傍目にはわかりにくくとも落ち込んでいるのがなんとなくマリコルヌにはわかった。
「シャルロット……?」
「わたしのこと」
ふと、モンモランシーが口にした疑問にタバサが答える。
あまりにこともなく言ったので、そういうものかとみな納得してしまった。大体がタバサという名前は適当すぎる。犬猫につけるような名前で、だから偽名だと言われても「やっぱりか」としか思わなかった。
ジョゼットという少女はついと歩み出し、ベッドに眠る才人の頬をそっと触れる。
ケティがふしゃーと暴れ狂っているのをモンモランシーが羽交い絞めにしていることにも気づかず、慈しむように撫で、ほぅとため息をついた。
「この人が、そうなのね」
「ええ、今は眠りこくってるけどなかなかいい男よ」
「そっかぁ……」
才人の寝顔を見る少女は、どこか違う遠い彼方を見ていた。まるでおとぎ話の勇者にはじめて会ったような、その小ささに驚いているような、そんな顔だとモンモランシーはケティを抑えながら思った。
シャルロットはなにも言わずそれを見守っている。
ギーシュはこそこそとキュルケに近づき、話しかけた。
「この子はいったい?」
「シャルロットの妹よ」
「いや、それはわかってるさ。そうじゃなくって」
「関係者よ、とびっきりのね。心配いらないわ」
「きみが連れてきたからその心配はしてないんだけど……痛ッ!」
ひそひそキュルケに話しかけるギーシュの足をモンモランシーが思いっきり踏み抜いていた。
つんとそっぽを向いて彼女は知らんぷり。すごく気になるけれどこれ以上機嫌を損ねるのはよくないと判断したギーシュは渋々キュルケのそばを離れた。
「満足した?」
「ええ。ありがとう、お姉さま」
眠る才人から離れ、ジョゼットはドアへ向かう。そしてみなに一礼し、部屋を去って行った。シャルロットとキュルケも後に続き、残されたのは最初にいた五人だけになった。
「……結局なんだったのかしら」
「さぁ? ただ、タバサは相当高貴な出自だってことしかわからないね」
「どういうこと?」
「ここ、プチ・トロワだよ。普通の貴族がいるはずない。案外ジョゼフ王の縁戚なのかもしれない。目の覚めるような青髪だしね」
そこそこ納得のいくマリコルヌの推理にモンモランシーは感心した。普段はアレで非常時もアレだと思っていた男だが、かの『烈風』にしごかれて成長したのだろうと伝説の偉大さを思い知る。
気づけばケティはまったく落ち着きを取り戻していて、するりとモンモランシーの拘束を抜けて才人の枕元に歩み寄っている。
そしてつい今しがたいた少女のにおいをかきけすように絞った濡れタオルで顔を拭いて、さすさすと今度は自ら頬を撫でた。
「う~ん、気のせいでしたか」
「なにが?」
「最初はサイトさまにすり寄る泥棒ネコかと思ったんですが、違います。他に思い人がいる感じがしました」
乙女の勘は当たるんですよとのたまうケティ。
なにを思ったかそのままごそごそと才人の眠る布団にもぐりこんでいく。
「ちょ、あなたなにをしてるの!?」
「添い寝は男のロマンだって本に書いてました。だから実践ナノデス。サイトさまもわたしのラヴで目を覚まします!」
「はいはい。そういうのは良いから」
「やーーだーーー」
モンモランシーはずるずるケティを引きずって外に出て行った。
ギーシュとマリコルヌも顔を見合わせて、図書室に向かおうと口にする。
「あの、ミスタ・ギトー?」
「……私の顔はそんなに怖いかね?」
「……いえ、そんなことはないです」
その前にショックを受けているめんどくさい大人を回収しないといけなかった。
才人一人が残され、窓からのそよ風がカーテンを揺らす音だけがあった。陽光がじゅうたんを染め、一羽の小鳥が部屋に飛び込んでくる。
それは囀り一つあげるでもなく枕元に降り立ち、くちばしでかるく才人の頬をつついた。そして反応がないのを確認したように、窓から飛び去っていく。
間をおいて、窓からぬらりと黒いローブが忍び寄る。懐から取り出したのは黒刃のナイフ、滴る液体は毒のようであった。
影は慈悲なく容赦なく、凶刃をまっすぐに振り下ろした。
*
「で、ここどこよ?」
「しらない」
目の前では少女がせっせと花の冠を作っている。完成した―とかかげたそれは真っ白な花ばかりでただでさえ白髪に白い肌、着ているものまで白いワンピースの少女をより真っ白けにしてしまうものだった。
しかし思いもよらず、少女は白い花の冠を少年にかぶせる。なるほど黒髪の自分にはちょうどいいかもしれないと、少し感心してしまった。
だが感心しても状況が変わるわけではない。少年が見知らぬ場所にいて、ここに至るまでの経緯を憶えていなくて、自分のことすら思い出せないという現実は覆らないのだ。
「またむつかしいかおしてる」
「大人は色々考えることがあるんだよ」
「ふぅん、へんなの」
興味を失ったのかぱたぱたと走り去っていく。その後ろ姿を見送りながら、背後の巨木に目をうつした。
大人十人が手をつないでやっと囲めるくらいの大樹にそっと手をあてる。表面はごつごつしていていかにも古木と言った風合いだ。上を見ると枝葉が生い茂っていて、しかしその一部が黒く枯れている。
ぐるっと少女が走る草原に視線を戻す。広い。果てしない大地とはこのことを指すのかと感嘆のため息をついてしまうほど大きい。何リーグも先に黒い山が天突くようにそびえていた。
陽のあたる草原で腰をおろす。
少女はなにが楽しいのか、一面の草原に倒れ込んでなにも考えていないような笑い声をあげていた。
「ここはどこ、わたしは誰ってか」
顔に手をあててじっと考え込む。答えは出そうにない。なんせ手がかりが一切ないのだ。どんな名探偵でも解答を導き出すことはできないだろう。
一つ一つ情報を整理する。
自分は黒髪だ。前髪をつまんで上目づかいに見ればそれがわかる。
自分は赤眼だ。めありーと名乗った少女によるとそうらしい。彼女は対照的に深い青をその瞳にたたえていた。
自分はおそらく男性だ。歳のころはおそらく成人していないくらい。声の感じと身長、ヒゲが生えていないことから判断した。それが正しいかはわからない。
白いカッターシャツに黒いスラックス、身に着けているのはそれだけで他にはなにもない。身分を証明するものは持っていなかった。
自分に関することが終われば、次はここにどうやって来たのか。
ここは広大すぎて、めありーと自分以外人っ子一人見当たらない。ただ草花が風に揺れて陽光を一身に浴びていて、少し遠くに小川が流れているだけだ。
「わけわかんねぇや」
どさっと草をなぎたおして横になる。感触がリアルで、これは現実であることを教えてくれる。
太陽は憎たらしいくらい眩しくて、消えるはずもないのに突き上げた手でぐっと握ってみた。なんにも変わらない。
しばらく風を頬に感じたまま目を閉じる。枝葉のざわめきとめありーのはしゃぐ声だけが聞こえる。まぶた越しに太陽光が目に突き刺さる。
その日差しが弱まった。雲でも出たのかと薄目を開けて確認すると、小柄な青年が立っていた。
金髪は光にきらめき、純白のローブをまとっていた。まだ若いと言うのに、その顔には苦渋が満ちている。
「目覚めたようだね」
確認するような声音に思わず少年は頷いた。なんとも表現しがたいが、青年は神々しい光を発しているように思える。かしずくことが当然であると相手に思わせる威厳をもつ男性であった。
思わず寝転がった体勢から跳ね起き、正座で相対する。
「あなたは……」
「ブリミル。きみたちが始祖と呼ぶ罪人だよ」
まず口をついて出たのは、相手の存在を問うものだった。
答えは簡潔。でもその単語が意味するところを少年は思い出すことができない。どこか引っかかるものがあっても、それをひっぱりだそうとすると頭痛がはしるのだ。
「無理もないか。本来なら魂が消し飛んでいた」
ブリミルは少年の額に指をあてる。燐光がかすかに灯ったあと、少年はすべてを思い出した。
「ぼくに似ているきみが来たのは運命なんだろうね」
自嘲する青年の表情はまるで人間のものだった。始祖という名の超存在であるようには感じない、そこらで歩いていてもおかしくないくらい普通の男に見えた。
「だからきみに聞いてほしい。六千年前、なにが起きたのかを」