――ここは…どこニャ??
僅かに残っている意識で、ピトーは考えていた。
自分の周囲は、白い靄のようなもので満たされている。
靄には、力強くて暖かいナニカが含まれているような気がした。
こうして意識がある以上、当然、自分の身体もこの摩訶不思議な空間に存在しているはずだが――
なぜか、敏感であるはずの自らの嗅覚が、何の匂いも捉えない。
普段なら、無音など感じることのない優れた聴覚が、何も音を伝えて来ない。
要約してしまえば、五感が全く働かないのであった。
まるで、自分が存在していないかのような、未知の感覚。
それでいて、ある程度は思考できているのだから不思議だ。
ピトーは、最初、首をもがれたのかと思った。
首が胴体から離れても、少しの間は意識があると、仲間から聞いたことがある。
最後に己が闘っていた、あの少年――否、青年なら、自分の首をもぐのは容易いことだろう。
そうでないとすれば、あの青年の念能力なのか?
……その可能性は、絶対にありえない。
なぜなら彼は、自分よりも明らかに圧倒的な強者であったのだから。
元より、あの青年の攻撃を2発くらった時点で、ほぼ死にかけだったのだ。
わざわざこんな面倒くさい真似をするわけがない。
ピトーは、ただ、とにかく分からなかった。
自分がなぜここに居て、こんな思考をしているのか。
だから、ただ自分の本心を心の中で呟いた。
――早く、戻りたい…ニャ…
それがきっかけだったのかは分からない。
だが、ピトーがそう呟いた瞬間。
猛烈な眠気が、ピトーの意識に襲いかかった。
それは、いかに強靭な蟻の精神をもってしても乗り切れぬほどの眠気。
――やがて、ピトーの意識は、なすすべも無く、深淵へと飲み込まれていった。
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濃密な緑の香りが、鼻孔をくすぐる。
頬には、乾いた砂特有のざらついた感触。
――木漏れ日が差し込む森の中で、ピトーは目覚めた。
ゆるやかに、深呼吸しているうちに、だんだんと目が覚める。
やがて、脳が完全に覚醒すると同時に、ピトーは思い出した。
王に届き得た青年との戦い、
それにあっけなく負けた己の惨めさ、
王を守護できなかった無念、
…そして、最後に辿り着いた、不思議な空間。
一体、あれからどうなったのか。
王は?なぜ自分は全快して妙な森にいるのだ?
全く状況が分からない。
致命的な情報の欠落。
――今はとりあえず、情報収集に徹するか。
ピトーは、思考と同時、即座に円を展開した。
周囲の敵の有無を確認しなければ、落ち着いてはいられない。
「んニャー?」
展開すると同時。
ピトーは、首を傾げた。
……おかしい。
ここの森の周囲を、一通り円で探ってみたが、こんな場所は見たことが無い。
NGL内に、ここまで広大な森は無かったはず。
ここはNGL外なのか?
念で飛ばすほどの意味があるとも思えない場所だが…。
怪しむピトーは、ふと、東に2kmほどの地点に、微弱な生命反応を感じ取った。
おそらく狩人かなにかだろう。
どんどん弱くなっていくオーラが、手に取るように分かる。
――それと、同時に閃く、現時点での最善手。
!!
…そうだ、狩人から、付近の情報を聞き出せば良いのではないか?
人間が、数度のまばたきに要する程度の時間。
それは、策を考え付いたピトーが、狩人のもとまで駆けるのにかかった時間である。
とはいえ、ピトーにとっては、準備運動にもならぬごく普通の歩行でしか無い。
軽やかな音をたてて、ピトーが狩人の前に着地した。
まさに、その姿は、猫を思わせるしなやかさであった。
「ハジメマシテ、こんにちは」
ピトーは薄く嗤って、血染めの狩人へと話しかける。
深い闇をたたえた瞳は、人間で無い事を如実にあらわしていた。
「ちょーっと、ボクの質問に答えてくれる?もちろん、傷は治すからさ」
軽い調子で喋りながら、ピトーは狩人の状態を観察する。
熊にでも襲われたのか、深い爪痕が腹に一か所。
無論、本当ならこんなクズに貴重なオーラを使ってやる義理は無い。
しかし今は情報の為に狩人の治療が必須。
面倒くささを感じながらも、ピトーは、狩人に意識を集中する。
「…き、きみ、は…一体…。…にんげん…なの、か…?!」
死の恐怖か、傷の痛みか。それともピトーに対する畏怖か。
狩人は目に絶望を宿しながらも、ピトーに問いかける。
うわごとのような狩人の声を聞きながら、ピトーは何も答えずに『玩具修理者』を発動させた。
――否。
正確には『玩具修理者』を、発動させるつもりだった。
直後。
「…ニャんとっ?!」
ピトーの顔に浮かんだのは、紛れもない驚愕であった。
ある程度のことでは驚かないピトーでも、さすがに驚かざるをえない事象。
ピトーは、そこで初めて、己の『玩具修理者』が使えない事に気付いたのである。
なぜか、いつもの『発動する』という感覚の欠片も感じられない。
今まで『玩具修理師』が使えていたのが嘘のようだった。
そう思考する間にも、数度『玩具修理者』の発動を試しているというのに。
無反応、というほかない。
しばし、時間が凍りつく。
ピトーから洩れる、僅かな苛立ちが、完全に狩人の心を折った。
『玩具修理者』は使えなくとも、ピトーの邪悪なオーラは間違いなく健在である。
「…ごめん、ボク、やっぱり君を治せそうにないや」
ピトーは、ひとまず狩人の延命を諦めることにした。
理由は分からないが、『玩具修理者』が使えない以上、この狩人を延命させることは不可能。
「まぁ…そうだなぁ…。
希望を持たせちゃった責任として、一思いに殺してあげるよ」
そう言い放つと同時に、手を一閃。
狩人の首へ、吸い込まれるようにピトーの手が接近していく。
何が行われるのかも分からずに、ただ茫然としている狩人の顔が、ちらりと視界に入る。
なぜだかその様がひどく面白くて、ピトーは、嗤いながら手の速度を速めた。
ピトーの爪が狩人の首の皮にかかり、血を噴出させ、そして。
狩人は殺される……それが避けられない運命――
――であるはずだった。