零の章 【消えない想い】
夢を見ていた。ベッドの上で、綺麗な女の子と身体を触れ合わせる夢を。
現実と夢境の境界線が曖昧となった意識に、膨大な情報が渦を巻いて流れ込んでくる。布擦れの音、艶かしい息遣い、シャンプーとリンスを混ぜ合わせたような甘い匂い、どこまでも滑らかな女性特有の柔肌。ぷりぷりとした乳房と、むちむちとした太もも。こんなリアルな夢を見たのは生まれて初めてだった。
「ぁ――ん」
耳に心地いい、艶然とした吐息が漏れる。
俺の腕のなかで眠る少女は、さすが夢の住人なだけあって神々しいまでの美貌だった。腰まで届く長い銀髪、まだ踏まれていない新雪のような白肌。しっとりと汗をかき、かたちのいい眉を歪める、その媚態。
……それにしても、女の子ってびっくりするぐらい柔らかいんだなぁ。とてもじゃないけど、同じ人間とは思えない。いや、もしかすると、この子が特別なのかもしれないけど。
夢だから。これは夢だから。そんな免罪符を掲げて、少女の見事な肢体に手を這わせる。なかでもおっぱいは凄まじかった。もう人間離れした大きさだし、重力の法則に逆らうようにツンと上を向いてるし、特に先端部分は、熟れたチェリーなんか目じゃないぐらいのピンク色。
さっそく彼女の胸に触れてみると、むにゅん、と音を立てそうな勢いで、指が真白い物体に沈んでいく。一瞬で男の脳を蕩けさせる、極上の柔らかさがそこにあった。中身がパンパンに詰まっていると表現すればいいのか、とにかく心地よい弾力と張りがあるのだ。それでいて煩わしい抵抗が一切ない。
よく女性の胸を『マシュマロのような感触』と喩えているのを見るが、そんなのは嘘っぱちだと思った。マシュマロなんか、足元にも及ばない。あんな砂糖と卵白とゼラチンと水を混ぜただけで作れるような菓子と一緒にしちゃいけない。
なんだか人間の神秘を目の当たりにした気分だった。
「んっ、んっ……」
胸を揉みしだくたびに、少女の肌という肌があでやかな朱を帯びていく。快感に悶えるように身をよじる様は、なんとも言えない華があった。
調子に乗った俺は、たわわに実った果実を両手で鷲づかみにして、コニュコニュと絞るように揉みしごいた。それは失敗だった。
「あっ……!」
一際大きい嬌声。その悲鳴にも似た喘ぎ声に驚いた俺は、弾かれたように上半身を起こした。寝汗にまみれた身体が不快だった。
「……なにしてんだ、俺は」
まったくもって締まらない。夢のなかに出てきた女の子にイタズラしたのはいいけど、ちょっと敏感に反応されてしまったことにビックリして目覚めてしまうなんて。
軽く部屋を見回してみれば、案の定ここは俺の自室で、昨夜ベッドの中に入ったときと様子は変わっていない。壁時計を見ると、時刻は午前八時頃だった。今日が休日でよかった。これが平日だったら大学に遅刻してるところである。
さて、じゃあ、まずは洗面所で顔を洗って――
「……あれ?」
おかしいな。ベッドに手をついたはずなのに、どうしてこんなに柔らかい感触が返ってくるんだ。
「…………」
最高に嫌な予感がした俺は、深呼吸を繰り返しながら、そろーりと真横に視線を移してみた。
「マジかよ……」
そこにいたのは、ついさっきまで俺が夢のなかで抱きしめていたはずの少女だった。均整の取れた豊満な肉体と、シーツに広がる豪奢な銀髪。小さな唇を半開きにした寝顔は、なんとも愛らしい。
完成された女性の美を目の当たりにしても、もはや興奮はしなかった。一周回って逆に怖くなってきたぐらいである。
これは犯罪か? 詐欺か? バラエティ番組のドッキリか? それとも、俺はまだ夢を見ている最中なのか……?
無駄に活性化した脳が、僅かな合間にいくつもの可能性を検索する。でも浮かび上がった答えは、そのどれもが現実味を帯びていない、机上の空論に過ぎなかった。
「とりあえず……け、警察に電話したほうがいいのか、これは?」
わりと本気で恐怖だった。とりあえず携帯を取ろうと、ベッドから体を起こす。そのとき、少女の腕が伸びた。白くて細い、けれど適度に筋肉のついた腕が、俺の腹に巻きつく。
「……んん」
少女は満足げに鼻を鳴らし、抱き枕を求めるかのごとく、俺に抱きついてきた。ちょうど耳元にある彼女の口から、生暖かい吐息が吹きかけられ、ゾクリと背筋に震えが走る。
もしかしてこの子、起きてるのか? とも思ったが、呼吸の間隔や脈拍のリズムから察するに、目覚めてはいないようだ。つまり俺を手頃な抱き枕にするまでの一連の動きは、すべて寝相だったらしい。
不思議と慌てることはなかった。すでに恐怖も混乱もなくなっていた。目の前にある少女の寝姿に、見蕩れることしか俺には許されていなかったから。
「……綺麗、だな」
語彙の乏しさが露呈するようで恥ずかしいけれど、それでも彼女を形容する上で相応しい言葉は”天使”しかないと思った。一切の非がない人体の黄金比とも言うべき顔立ちは、相対する者の心をあっさりと奪ってしまう。ここにも一人、その被害者がいる。
「――ん」
俺がよく分からない境地に至っていると、少女の身体が寝相では説明がつかないほど大きく動いた。呆気に取られる俺とは対照的に、寝惚けている人間特有のふらふらとした動きで、少女は身体を起こす。
ベッドの上で、俺たちは向かい合った。視線が交錯する。髪とおなじ銀色の瞳に、ぽかんと大口を開ける俺の顔が映っていた。
もちろん少女は一糸まとわぬ姿だったが、その白く眩しい肌や、大きく膨らんだ胸を見ても、もう劣情を催すことはなかった。
言語を絶する、穢れのない幻想的な美しさ。いまの俺ならば、彼女の正体が妖精だったと明かされても、ああなるほどと納得するに違いない。法律や刑法が定められている現代だからこそ大丈夫なものの、これが太古の時代ならば、きっとこの少女を巡って戦争が起きていたと思う。
「えっと、おはよう……?」
自分でも間抜けだとは思うが、今後の運命を左右しかねない第一声がそれだった。
「……ぁ」
少女は、またもや無駄に艶っぽい声を出した。寝汗に濡れた肢体と、寝惚けた目が、情事を追えたあとのような性的な色気を醸し出している。
「ど、どうしたっ? 俺が悪いってのか? ちゃんとおはようの挨拶はしたぞ? あ、もしかして、おはようございます、じゃないと駄目派かおまえ?」
意味不明なことを口走る萩原夕貴(はぎわらゆうき)、十九歳。今年から大学生になったばかりの青少年。父親はすでに他界、母親は実家に里帰り中。体力には自信があるという、いかにも男がバイトの面接で言いそうなことが取り柄の俺である。
「きみは……」
どこまでも透明感の溢れる声で、少女はつぶやく。
晒された素肌を隠そうともせずにベッドから立ち上がった彼女は、騎士のごとく片膝をついた。彼女の紅い唇が動く。俺は、萩原夕貴は、このとき彼女が言った言葉を、きっと生涯忘れることはないと思う。
「ここに契約を完了とします。わたしは、ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウス。今このときを持って、我が身は貴方様の剣となり、盾となりましょう」