――そっか。そういうことだったんだ。
ようやく少女は諦めました。
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櫻井彩は、取り立てて目立つような少女ではなかった。
成績は平均の域を出なかったし、運動も不得手、対人関係では人見知りの気が災いして交友の幅もあまり広いとは言いがたかった。その分、彼女は人目を惹く愛らしい容姿をしていたが、それも絶世というわけではなく、やはり優れたアドバンテージにはならなかった。
幼いころから、実の両親に愛情を注がれ続けてきた彩は、周囲の期待を裏切らない心優しい少女に育った。
いま思えば、その幼少期こそが、彩にとって最も幸せだった時期なのかもしれない。
贅沢を許された家庭ではなかったし、毎日のようにご馳走がテーブルに並ぶ家庭でもなかった。それでも彩が欲しいとねだったものは大抵買ってもらえたし、週末には家族揃って遠出するだけの余裕はあった。
――私たちはずっと一緒だよね。
そう少女は言いました。
特別なものは一つもない、どこにでもある平凡な家族。
家の取り決めでも見合いでもなく、ただ偶然に出会って愛し合い、その果てに結婚した両親。そして彼らの愛の結晶こそが、他でもない彩だった。
全てが偽りのない愛によって出来ているのだから、彼らが幸せになるのは当然であり、必然でもあった。
だがこの世に永遠などという洒落たものは存在しない。その証拠に、ありもしない永遠を神の前に誓った一組の男女は、時の流れがもたらす感情の風化に勝てず、契った愛を無に帰した。
当時、小学生になったばかりの彩に小難しい話は分からなかった。それでも大好きな父と離れ離れになるということだけは理解できた。もちろん彩は離婚に反対したが、両親の決意は固く、どれだけ泣き喚いても結末は変わらなかった。
紆余曲折はあったものの、彩は母と二人で暮らすことになる。父のいない生活に戸惑いはあったものの、それも時間が解決してくれた。
誰よりも母のことが大好きだった彩は、女手一つで私を育ててくれるお母さんに負担をかけてはいけないと、以前よりも心優しく、礼儀正しい少女に育っていくことになる。家では率先して家事を手伝い、あまり好きじゃなかった勉強や運動も精一杯にやった。
母と二人で不器用ながらも暮らす生活は、実を言うと嫌いじゃなかった。むしろ家族が一体となって努力しているような感覚もあって、好ましかったぐらいだ。
いつの日か、私がお母さんを護ってあげたい。
それが彩の望みであり、人生における目標だった。
――お母さん、いつもありがとう。
そう少女はお礼を言いました。
どれほど仕事が忙しくても、家事に時間を圧迫されても、彩の母親は、娘と過ごす時間をかならず作った。そんな二人の努力が、気付かぬうちに実を結んだのか。ある日、彩は母から改まって話を聞かされた。
お母さんに、もう一度だけチャンスをくれないかな?
申し訳なさそうな、それでいて幸せそうな顔で、母は告げた。
それは再婚の話だった。
母が、以前から密かに逢瀬を繰り返していた男性。つい最近、とうとう先方がプロポーズの言葉を口にしたらしく、それを待ち望んでいた母は「彩が許してくれるなら」という条件付きで、再婚を受け入れたのだった。
正直な話、いつかこんな日が来るかもしれない、とは彩も覚悟していた。贔屓目に見ても、母は美しい容姿をしていたし、出産を経験したとは思えない若々しいプロポーションを保っていたからである。
もちろん心から賛成は出来なかった。父親と離れ離れになった悲しみの残滓が、まだ心のどこかで燻っていたからだ。
しかし結局、彩は反対するどころか笑顔で祝福しさえした。
当然だろう。
大好きな母親が、いままで女手一つで彩を育ててくれた母が、自分の幸せを掴み取ろうとしているのだ。その邪魔をするのは、とてもではないが無理だった。
お母さんにとっての旦那様は、私にとってはお父さんだね。
そう明るく言った彩を、母は涙を流しながら抱きしめた。
それから半年もしない間に、先方との顔合わせ、新居の購入、婚姻届の提出などを済ませた。新しい家族が出来るのは、思っていたよりもあっけないものだった。
彩の新しい父となった男性は、母よりも二歳年上の会社員である。見るからに温厚で、そして誠実そうな容姿の彼は、血の繋がらない義理の娘である彩を大層可愛がった。彼には息子がいて、彩は父親と同時に兄も持つこととなった。
――お父さん、お兄ちゃん。これからよろしくね。
そう少女は笑いました。
当時、中学一年生だった彩と比べて、高校一年生の兄――つまり三歳年上の彼は、ずっと気恥ずかしそうな態度を崩さなかったものの、妹が出来ること自体は歓迎だったらしく、不器用ながらも愛のある接し方をしてくれた。
あの、お兄ちゃんって……呼んでもいいですか?
そう彩が勇気を出して聞いたときの、兄の真っ赤に染まった顔が忘れられない。
義理の繋がりではあったが、それは仲睦まじい兄妹だったと思う。兄は、国立の大学を目指すほど頭がよかった。あまり褒められた成績ではなかった彩にとって、兄は頼りになる家庭教師の一面も持っていた。
大好きな母、誠実で裏表のない父、照れ屋だが頭のいい兄――新しく始まった『家族』は、この上なく順調だった。
しかし。
――幸せって、長く続かないのが世の摂理なんだよね。
新しい父と兄を得た代償は――大好きな母の死という、なんとも最悪なものだった。
夕食の買物に出た母は、飲酒した若者が運転する車に跳ねられて死んだ。しかも相手方が未成年ということもあり、罪は比較的軽くなるそうだった。
もちろん彩は泣いた。何日も学校を休んで泣き続けた。涙は枯れることもあるらしいが、少なくとも彩の瞳から涙が止まることはなかった。
――どうして? ねえお母さん、どうして?
そう少女は泣きました。
部屋に篭って悲嘆にくれる彩を、もちろん父と兄は気遣った。それこそ彼らも会社や学校を休んで、日に日に衰弱していく彩を心から心配した。
そんな日々が一ヶ月も続けば、さすがの彩も冷静さを取り戻す。
悲しいのは私だけじゃない。お父さんも、お兄ちゃんも、きっと泣きたいはずなんだ。なのに私は、一人で子供みたいに泣くだけ。これではお母さんの娘として胸を脹れない。
決意すると、立ち直るのは早かった。
元気を取り戻した彩を見て、父と兄は涙さえ浮かべて喜んでくれた。
それから一年が経つころには、彩は以前と同じように笑顔を浮かべることが出来るようになっていた。当然だろう。母は天国にいるのだ。きっと彩を見守ってくれているのだ。ならば、彩が上を向いていなくては、母も安心して眠ることができない。
初めは三人だった家族が、二人になり。
二人だった家族が、四人なり。
最後はまた、三人に戻った。
中学三年生になった彩は、母の面影を受け継いだ美しい少女へと成長した。そんな彩を、父は以前にも増して可愛がった。なにより父は、母を失って生きる気力を失っていたころの彩を知っている。だからこそ、彩を大切に思う気持ちも一層強まったのだろう。
強まり、深まる親子の絆。
しかし、それを快く思わない者もいた。父と血の繋がりを持つ実の息子、つまり彩の兄である。
当時、一日の大部分を受験勉強に費やしていた兄は、見えない部分でストレスを蓄積し、軽いノイローゼ状態になってしまっていた。仲睦まじい彩と父を見ているうちに、兄は途方もない疎外感に駆られた。彩に父を取られてしまったと。
ほんの少しでも力を加えれば弾け飛ぶ――そんな張り詰めた糸に最後の切れ込みを入れたのは、他でもない彩自身だった。
兄は受験勉強をしていることは知識として知っていても、兄の背負う重圧や心の闇まで知らなかった彩は、その日、勉強を教えてもらおうと、いつものように部屋をたずねた。
薄手のキャミソール姿だった彩は、禁欲的な生活を送っていた兄にとって、さぞかし扇情的な姿に映ったことだろう。
ここで兄の名誉のために言わせてもらうならば、この時点では、まだ理性のほうが勝っていた。
だが彩の指差した先を見て、兄のストレスは限界に達した。なぜならそれは、優秀な兄からしてみれば、吐き気がするぐらい易しい設問だったから。
俺から父を奪っただけではなく、お前は勉強の邪魔さえもするのか……!
兄の頭に血が上ったのは、それがきっかけだった。
ここで彩の名誉のために言わせてもらうならば、実を言うと、彩が兄に尋ねた問題は、すでに復習を繰り返して十分に理解している範囲だった。部屋に篭りっぱなしの兄を心配して、自分の頭の悪さを話の種として利用した彩。それは絶対の悪手だった。
ほとんど逆上した兄は、彩をベッドに押し倒した。理性を失った兄には、無防備な服装と体勢でいる彩が、自分から誘っているようにさえ見えた。
そもそも兄は、初めから彩を意識していたのだ。二人が初めて出会ったのは、彩が中学一年生、兄が高校一年生のころ。完全な兄妹の絆を作るには、少々遅すぎた出会いだったと言ってもいい。
彩の身体は、年のわりには女らしい身体つき。兄の情欲はひたすらに燃え上がった。
――止めて! お願いだから止めてよぉ!
そう少女は叫びました。
行為は、すぐに終わった。
ぐちゃぐちゃになったシーツの上で、乱れた服を直そうともせず泣く彩を見て、兄はようやく自分の仕出かしたことの重大さに気付いた。兄は後悔した。もう絶対に妹を傷つけまいと誓った。罪を償おうと思った。
だが兄の心と体には、あの夜の彩の姿が強く焼き付いていた。彩の色っぽい喘ぎ。鼻腔をくすぐる甘い匂い。病み付きになる肌の感触。男好きする身体。
人間とは欲望に弱い生き物。一度でも線を踏み越えてしまえば、二度目は躊躇しない。もう一度だけ、あともう一度だけ。これを最後に、俺は兄に戻るから。そんな言い訳を盾に、兄は彩の身体を何度も求めた。いつまで経っても、”最後”が訪れることはなかった。
途中から彩は、必死になって抵抗するよりも、いっそ行為を受け入れたほうが楽だということに気付いた。
――そっか。そういうことだったんだ。
ようやく少女は諦めました。
兄が求めてきたときは、もう好きにさせてあげよう――そう決心すると、不思議と心が軽くなったような気した。それと同じ分だけ、兄に抱かれた分だけ、彩の心は磨耗していった。
すでに諦めの境地に達していた彩は、父に告げ口することをしなかった。彩が黙っていれば表向きは円満な家庭なのだから、それをわざわざ壊そうとは思わなかった。
同時に、兄のほうも彩を求めることは止めなかった。愛らしい容姿に色白の肌、そして女性特有の丸みを帯びた身体は、ここまで来れば麻薬と同じで、兄の劣情は行き着くところまで堕ちていた。
そんな生活が三年以上続いた頃、とうとう彩の心は擦り切れ、壊れる寸前まで陥った。
時を同じくして、兄は第一志望校に合格した。ストレスから開放された兄は、以前のように彩を求めることはなくなった。むしろ懺悔するかのごとく、不自然なまでの優しさを見せるようになった。……おかしな話だ。彩が望んでいたものは、そんな偽善染みた気遣いじゃないのに。
すべては元通りとなり、彩には平穏が戻った。だが彼女が心に負った傷までが治るわけじゃない。
最愛の母親を事故で亡くしてしまい、頼りにしていた兄からは乱暴された――この二つの出来事が大きな傷となり、彩の心を蝕んでいく。もう大丈夫なのに、もう泣かなくてもいいはずなのに、それでも心は癒えない。
周囲の人間が笑っている中で、自分一人だけが堕ちていくような錯覚。
どう足掻いても逃げ出せない永劫の檻。その中で、誰にも聞き届けてもらえないのを知っているのに叫ぶ少女がいた。
それこそが、櫻井彩にとっての、ハウリングだった。
****
夜の河川敷は、とにかく薄暗くて人気がない。
そのくせ無駄に敷地が広いものだから、とてつもない孤独感に襲われる。照明が一切設置されていない河川敷は、下手をすれば犯罪の温床になりそうな雰囲気を醸し出していた。
踏み鳴らす足音は、地面いっぱいに植えられた芝生に吸収される。
川沿いに立ってみると、数百メートルほど向こうに対面の河川敷が見えた。ふと顔を上げてみれば、片側三車線の大きな橋や、電車橋、水道橋などが架かっている。合計三本の橋が、闇夜にまっすぐ伸びていた。
この河川敷は、俺の家からさほど遠くない位置にある。だから子供のころは、よく学校の友達と遊びに来たものだった。だだっ広くて、川があって、芝生が植えられていて、子供の遊び場所にはぴったりだったのだ。
でも感傷に浸る時間はない。目を細めて、暗がりの奥に浮かび上がった人影を注視する。まあ、そんなことをしなくても相手が誰なのかは分かっているんだけど。
「夕貴くんって、本当に鬼ごっこが好きなんだね」
居酒屋で談笑していたときのような、楽しそうな声。血に濡れた包丁を握り締め、口元に冷笑を貼り付けて、櫻井彩が姿を見せた。俺たちは十メートルほどの距離を保ったまま、対峙する形になった。
「……まあな。俺は男らしいやつだからな。走るのも隠れるのも大好きだ」
「そうなの? 夕貴くんって女の子みたいに可愛い顔してるから、てっきりインドア派かなぁって思ってたのに。偏見かもしれないけど、絶対に料理とか得意そうだよね」
「ああ、それは偏見だ……とめちゃくちゃ言いたいけど、残念ながら料理は得意なほうだ」
「やっぱり。でも料理が出来る男の子って、とってもポイントが高いと思うよ」
くすくす、と彩は、どこか嬉しそうに笑う。その手に包丁が握られていなければ、ただの雑談にしか見えないと思う。
「なあ彩。一つだけ聞いてもいいか?」
「どうぞ。なんでも教えてあげるよ」
こういうのを冥土の土産って言うのかな。彩は両手で包丁を弄びながら、そんな言葉を続けた。思わず反論したくなったが、俺が聞かなくちゃいけないことは別にある。
「……おまえ、なんで俺を殺そうとしてんだ?」
結局のところ、疑問はこれに尽きた。
俺には誰かに殺意を向けられるような覚えはないし、もっと言えば恨まれるようなことをした覚えもない。まあ後者のほうは、知らず知らずのうちに誰かの怨恨を買っていた、という場合もあるだろうが、殺人に繋がるような愚挙を犯した記憶はなかった。
それに彩は、人間とは思えない身体能力を見せていた。もしかすると、それも殺人衝動の一端を担う原因なのかもしれない。
「……なんでだろうね。私にも分かんないや」
「分からない? 自分のことだろ?」
「そうだね。でも本当に分からないの。ただ心臓――ううん、心かな、とにかく胸が疼いて仕方ないの。夕貴くんを殺せって、夕貴くんを殺してしまえって、そう訴えかけてくるの。その声に逆らうと、心臓が握りつぶされるように痛んで、本当に死んじゃいそうになるの。だから夕貴くんを殺さなくちゃいけないんだ」
彩の話は、あまりにも意味が分からなかった。
心が痛む?
俺を殺せって訴えかけてくる?
その声に逆らうと、死んでしまいそうになる?
……分からない。
少なくとも俺は、殺人衝動を伴う心臓病なんて知らない。まだ彩のジョークと言われたほうが信用できる。
「夕貴くん。なんだか恐い顔してるね」
くすくす、と彼女は笑う。
「ああ。絶対におまえを止めてやる。そんでもって、俺を”可愛い”だの”女の子みたい”だの言ったことを後悔させてやるからな」
「根に持つ男性は嫌われるんじゃないかなぁ。それに夕貴くんって、本当に綺麗な顔してるんだよ? 女の子の私よりも、きっと夕貴くんのほうが可愛いんじゃないかな?」
その一言に悪気はなかったんだろうけど、俺には挑発されたように感じた。
「……よく分かった。おまえは初めから俺の敵だったんだな。もう絶対に許さねえ」
「あれ、不快にさせちゃった? じゃあ謝るね。ごめんね、夕貴ちゃん」
「てめえ謝る気ねえだろっ!」
しまった、思わず突っ込んでしまった。
「とにかくだ。おまえが俺を殺したいって言うのなら好きにすればいいさ」
「へえ、諦めがいいね。言っとくけど、私は本当に夕貴くんを殺すよ? いまだって心が疼いて疼いて仕方ないんだから」
「我慢するなよ。身体に悪いぞ」
「そっか。夕貴くんがそう言うなら、もういいかな」
彩の口元に冷笑が浮かぶ。
それと同時、空気が明らかに変質した。圧倒的な人の殺意というものは、ここまで露骨に場を支配できるものなのか。
額には脂汗が滲み、足は微かに震え、意志が折れそうになった。
でも俺には闘わなければならない理由がある。
――私もお母さんのことが大好きだよ。
そう言ったときの彩の笑顔が忘れられない。
母親を大事にする人間に、悪いやつはいないんだ。母親を大事にする人間が、俺はどうしようもなく大好きなんだ。
だから逃げない。絶対に、目の前のバカ娘を止めてやる。
そんな決意を胸に秘めて、俺は走り出した。
彩は無防備に突っ立っているだけ。構えを知らないのか、構える気がないのか。まあ両方だろう。
間合いを詰めた俺は、躊躇いもなく右足を跳ね上げた。腰を大きく捻り、重心を左足に移行させて、彩の左側頭部目掛けて回し蹴りを叩き込む……!
「凄いなぁ! 夕貴くんって、喧嘩も強いんだね!」
俺の全力も、彩にしてみれば楽しくおしゃべりしながらかわせるものらしい。
間もなく、視界から彩の姿が消える。萩原夕貴という人間の動体視力では捉えられない、櫻井彩の超人的な脚力。俺と彩では、元々のスペックが違いすぎる。それは自転車と大型バイクを競争させるようなものだ。
だが手がないわけじゃない。
チャンスは、ここにある。
ほとんど闇雲に、けれど確信を持って体を半回転させた俺は、真後ろに向けて裏拳を放った。
公園で二度、彩が見せた動き。
彼女は攻撃を回避したあとは、必ず敵の背後を取ろうとする。だったら、それを利用しない手はない。
いくら身体能力が向上したと言っても、彩は武道の経験がない素人だ。ならば動きが単調になってしまうのは当然だし、暴力に慣れていなくても仕方ない。
スピードでは大型バイクに勝てなくても、趣味でずっとサイクリングを続けてきたのだから、免許取立てのペーパードライバーが相手なら、なんとか一矢報いることもできる。
「きゃあっ!」
腕に重たい衝撃が伝わってくる。どこか場違いな可愛らしい悲鳴。見れば、彩は芝生のうえに尻餅をついたまま肩を押さえていた。彼女の手からは包丁が消えている。それは俺にとって最高の幸運だろう。
どうやら彩は痛みに慣れていないみたいだ。予想外の反撃を食らって、いい具合に混乱してくれている。
この隙に彼女を抑えることができれば……!
「……死ねばいいのに」
風に乗って、微かな呟きが聞こえてきた。
ゆらりと立ち上がった彩は、上半身を脱力させたまま顔を俯けている。長い前髪が陰を落として、その表情は伺えない。
「……おまえ……彩、か?」
思わず、目を細めて、そんなことを口にしていた。
何かが違う。
俺の目の前にいるのは、本当に櫻井彩なのか?
彩の足はふらついているのに、身体は頼りなく揺れているのに、手には武器を持っていないのに、視線は敵であるはずの俺から逸れているのに。
それでも、ひたすらに不気味だ。
一切の感情を削ぎ落としたかのような様相は、精巧に作られた殺人マシーンを連想させる。
萩原夕貴を殺すと豪語していた彩のほうが、まだ遥かに人間味があった。少し前までの彩は、どこか善悪の区別がつかない子供みたいな趣さえ感じられたのに。
粘ついたアメーバのような禍々しい気配が、夜の河川敷を侵食していく。それは視覚化して見えるほどの膨大な負の感情。
夜の帳に広がっていく濃密な殺気のせいで、胃の中のものがこみ上げてきた。殺される。そんな言葉が、脳裏をよぎる。
「あれは……?」
初めは目の錯覚かと思った。
櫻井彩の背後に『何か』が浮かびがっている。それは陽炎のように実体がない。人間の邪気そのものを集めて一つにしたら”アレ”になるかもしれない。
漠然とだが、理解した。
あの『何か』が、彩を狂わせた原因だと。
お母さんを好きだって、そう笑顔で言った女の子を惑わした原因だと……!
「……悪魔が」
奥歯を噛み締める。
あんな可愛らしい女の子を狂わせた存在なんて、どう考えても悪魔としか思えない。
「てめえが彩を苦しめてんのかよっ!」
叫んだ。
彩の手が上がる。きっと今の彼女ならば、数秒にも満たない間に俺を殺せるだろう。
「もしもそうだってんなら、俺がおまえをぶっ飛ばしてやる!」
彩が一直線に駆けてきた。なんて驚異的な速力。真っ直ぐに向かってくるものだから目では追えるが、反応は間に合いそうにない。
やっぱり、俺は死ぬのかな。
どうも力が及ばなかったみたいだ。
ごめんな、彩。
おまえを助けてやれなかった。
どれだけ足掻いても、俺みたいなちっぽけな人間では君を救うことはできないらしい。
だから、せめて祈ろう。無力な自分を棚に上げて、真摯に想いを捧げよう。
誰でもいい。頼むよ。願うよ。どうか、お母さんが大好きなこの子を、助けてやってくれ。
果たして、その祈りを聞き届けたのは、神だったのか。
妙に脳裏に響く、甲高い耳鳴り。どこかから溢れ出す冷たくも美しい波動。夜の河川敷が強烈な冷気に包まれる。芝生に霜が張り、儚い雪の結晶が宙を舞い、冷気が白い霧となって逆巻く。
世界が凍っていく。恐ろしいまでの絶対零度が、白銀に彩られた幻想的な景観を生み出した。
ヒュン、と鋭い音が、幾重にも重なって聞こえた。上空から巨大な氷の槍が、目で数えられるだけで十数本ほど降り注いできた。それは彩が立っていた地点に命中し、小さな氷山を作る。彩は、大きく後方に跳躍し、辛くも難を逃れた。
もしかして、俺みたいなガキの祈りを神様が聞き届けてくれたのだろうか?
そんなバカみたいなことを本気で考え、ゆっくりと空を見上げた俺は、そこに見慣れたシルエットを見つけた。
「真名すら持たない低級悪魔が、よくもここまで暴れたものね」
馴染みのある、少女の声。
「でも、ちょっとやり過ぎよ。好き勝手に人を殺しちゃったら、《悪魔祓い》や《法王庁》の連中がやってくるわよ。もっとも、あいつらはこの極東の地で起こった事件に関してだけは対応が遅いけどね」
無骨な鉄鋼で出来た水道橋の上に、悠然とたたずむ影があった。
風になびく長髪は、月明かりに映える銀髪。俺たちを見下ろす目は、どこか冷めた銀眼。
またたく間にこの場を支配し、絶対零度の世界を作り上げて。
ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウスがそこにいた。