その日の夕方。
まだ就寝には幾分か早かったが、俺は自室のベッドに潜り込んでいた。布団を頭まで被って、身体を丸めて、まるで現実から目を背けるように。
ナベリウスには啖呵を切ったものの――やっぱり俺にとって、人間の死を背負うというのは重過ぎるみたいだ。
殺された人たちには家族がいたし、人生があったし、守りたいものもあったはずだ。
そのすべてを俺の都合によって無視するのだから、これが重くないはずがない。
ふと気を抜けば、手足がガタガタと震える。
歯の根が合わずカチカチという音がして、瞳からは涙が溢れそうになる。
そんな情けない姿をナベリウスに見られたくなくて、俺は一人でベッドにいるわけだった。
あれから――ナベリウスからは様々な話を聞いた。悪魔のこと、ハウリングと呼ばれる異能のこと、悪魔を退治する組織や機関のことなど。もちろん目から鱗みたいな話ばっかりだったけど、あの夜のナベリウスを見たからには、信じないわけにもいかなかった。
俺は、悪魔の血を引いているという。
これが笑ってしまうような話で、今は人間側にいる萩原夕貴は、何かの拍子に悪魔として覚醒することもあるらしい。
まったくもって信じられない話だ。
実を言うと、あまり実感はないし、完全に信じているわけでもない。
ナベリウスが悪魔だということは理解したが、だからといって、俺が悪魔の血を引いているという事実だけは半信半疑だった。
それに悪魔の血を引くというわりには、俺はずいぶんと弱い存在のようだ。
殺人事件を犯して逃亡するような犯人は、実は尊敬に値する人間じゃないかとさえ思う。人の死を背負うと意識しただけの俺が、もう限界ギリギリなんだ。実際にその手で殺人を犯した人間にかかる良心の呵責は、想像も出来ないほど大きいはずだ。
人を殺したうえで逃亡するなんて、いまの俺にしてみれば偉業にしか思えない。そんなことをすれば、確実に心が潰れる。
さっき電話で母さんの声を聞いたはずなのに、それで頑張ろうって思ったはずなのに、身体の震えがどうしても止まらない。
寒い。
ひたすらに寒くて、暗くて、孤独だ。
誰か助けてほしい。
そんなことを願っては駄目だし、この暗闇から俺を救い出してくれるような人はいないのだけど、それでも誰かに助けを求めてしまう。
俺は弱い人間だ。男らしいとか言ってるけど、実際は女々しくて頼りない男なんだ。女の子の秘密を守る、とか大見得切ったくせに、それから一日も経たないうちに限界を迎えそうになっている。
やっぱり無理だったのかな。俺には彩を、お母さんを大事にする女の子を、守ってあげることが出来ないのかな。
このまま一人で震え続ける日々が続くと思うと、もう俺は――
「夕貴」
きぃ、という蝶番の軋む音。
「……ナベリウスか」
ベッドに潜ったまま、頭を布団の中に隠したまま、俺は彼女に呼びかける。なるべく冷たい声で、なるべく大丈夫そうな声で、なるべく睡眠を邪魔されて機嫌を悪くしたような声で。
「悪いけど、俺は疲れてるんだ。このまま寝るから、一人にしてくれ。だから晩飯もいらない」
返答はなかった。
ただ、ぺたぺた、とフローリングの床を裸足で歩くような音がするだけ。
「……夕貴」
慈しむような声とともに、ナベリウスはベッドのなかへ入ってきた。
あまり認めたくはないけど、俺は泣いてしまっている。ガキみたいに泣いてしまっているんだ。きっと頬は真っ赤だろうし、目は腫れてるだろうし、もしかしたら鼻水も垂れてるかもしれない。そんな顔、他人には見せたくない。
拒絶しようと思った。
一人でゆっくりと寝たいから、おまえは邪魔だと――そう理由付けて、ナベリウスを追い出そうと思った。
「夕貴」
薄暗くて、汗ばむほど熱の篭った布団のなか、ナベリウスが俺を呼んだ。緩慢とした動作で振り返ってみる。
「――っ!?」
そのときの衝撃を、どう例えたらいいだろうか。
なにか温かいものに抱きしめられたかと思うと、間近にはナベリウスの顔があって、唇には柔らかいものが触れていた。
それは、キスだった。
キスされたことによって反論は出来なかったし。
抱擁されたことによって、抵抗も出来なかった。
驚きに目を見開く俺と、ほんのりと頬を赤く染めて物憂げに瞳を閉じている彼女。
「……ナベリ……ウス」
それからしばらくして、彼女はゆっくりと顔を離した。
「どう? 落ち着いたでしょう?」
「おまえ……どういうつもりだ」
返事はなかった。
ただ。
「夕貴一人で背負う必要はないのよ」
母親のように、姉のように、恋人のように、諭されるだけ。
俺の髪を優しく撫でたナベリウスは、はにかんだように笑ったあと、言った。
「わたしも一緒に背負うから」
その一言を聞いた瞬間、なぜか瞳からは涙が溢れた。
――夕貴の面倒を見るのはわたしなんだから。
――わたしが夕貴を守ってあげるから。
ふと、そんな彼女の言葉を脳裏で反芻した。
嗚咽が漏れそうになって、感謝や謝罪の言葉が口をつきそうになる。でもそれの受け取りを拒否するかのように、ナベリウスは俺の唇に吸い付いた。
人肌の体温に触れているだけで、あれだけ不安だった心が安らいでいく。
きっと、ナベリウスは知っていたんだろう。
孤独がもたらす”寒さ”を打ち消すには、誰かと触れ合うことが一番の近道だって。人肌の温もりは、誰かの傷を癒す最高の特効薬なんだって。
肉体的というよりも、精神的に満たされていく感覚。
母親の胎内でたゆたう子供になったような錯覚。
自分を受け止めてくれる人がいる、という事実。
自分を守ってくれる人がいる、という真実。
情けないことだけど、女々しいことかもしれないけど、俺という男は、ナベリウスという女にだけは頭が上がらないみたいだ。
ありがとう、と口にすることはしない。そんな他人行儀な台詞を交わすほど、俺たちの距離は離れていないから。
俺たちは、日がすっかりと沈み、あたりの民家から明かりが消えるまでのあいだ、ずっとベッドのなかで寄り添っていた。
****
「彩ー? 次の講義に遅れるよー?」
遠くのほうで友人が手を振っている。
あと五分ほどで二限目が始まるからか、無数の学生たちが大学のキャンパス内を慌しく右往左往している。
そのうちの一人が、櫻井彩だった。
彩は、大学に入ってからの数週間程度の記憶を失くしていた。とある朝、ベッドの上で目覚めると、大学の入学式以降のことが思い出せないことに気付いたのだ。
不思議とパニックになることはなかった。普通なら、頭の心配でもして病院に駆け込むところだろうが、彼女は違った。
むしろ彼女が感じていたのは、生まれ変わったように清々しい気分。なにか不浄なるモノが抜け落ちたかのように身体が軽く、頭がスッキリしていた。
清廉な自分に安堵することはあっても、慌てるようなことは決してなかった。まあ数週間分の講義内容が頭から抜け落ちていることは大きな問題だったが。
それに、彩の兄が、とある夜に彼女の部屋を訪れて謝罪したのだ。泣きながら土下座した彼は、これまでの行為を心から反省していた。だから都合のいいことかもしれないが、いつかと同じように仲のいい兄妹に戻りたいと。
許した。
だって彩は気付いていたからだ。出会ったときから兄が彩に寄せていた淡い想いに。兄妹となってしまったからこそ届かぬ想いに。ただの情欲ではなく、心の底に確かな愛があったからこそ、兄は彩に乱暴した。
それを完全に許せるわけじゃないが、もう過ぎ去ったことをいつまでも責めるのは嫌だった。元はと言えば、兄の想いを理解していたのに、誘惑していると取られてもおかしくない薄着の格好で、兄に勉強を教えてもらっていた彼女も悪い。
紆余曲折はあったが、彩は円満な家族を取り戻した。兄と一緒に、大好きだったお母さんの墓参りにも行った。
母の墓前でも土下座して「彩を、お母さんの大事な娘を傷つけて、本当にすいませんでした」と泣き出した兄には、さすがに困ったものだが――
「うん、いま行くからー!」
友人に手を振るものの、足の遅い彩は中々追いつくことができない。
それに痺れを切らしたのか、
「もう先に行って席を取ってるからねー! 早く来なさいよー!」
友人は苦笑したあと、次の教室に一足先に向かってしまった。
冷たいなぁ、と思わないでもないが、まあ本質的なところでは彩が悪いのだし、文句を言うのは筋違いだろう。
それに最悪、履修人数が多い科目では席が確保できず、教室の後ろのほうで立って講義を受けなくてはいけないこともある。大学は学生の自主性に任されているので、講義をサボる人間が多い。だから稀に、ほとんどの学生が真面目に講義を受けに来た場合、人数があぶれるという事態が発生するのだ。
そういう意味では、席を確保するというのは大事だ。友人には感謝せねばなるまい。
さて。
それじゃあ私も急がないと――そう彩が己を戒めるのと同時に、前から一人の男の子が歩いてきた。
「ぁ――――」
――ドクン、と心臓が跳ねる。
女の子みたいに綺麗な顔立ちをした彼は、
――暴れる鼓動が痛い。
周囲の視線を集めながらも、
――身体が熱くなる。
どこか涼しげな眼をしたまま、
――視界が霞んでいく。
ゆっくりとした足取りで、彩に近づいてくる。
やや長めの黒髪と、柔らかそうな色白の肌。身長は170センチメートルほどで、体格は細め。その少年は、パッチリとした二重瞼を退屈そうに細めており、気だるそうにポケットへ手を突っ込んで、わざとらしいぐらい男らしく振舞っている。
おかしい。
あの男の子と会うのは初めてのはずなのに、どうしてこんなにも心が痛むのか。
張り裂けそうな胸の痛みは、どこか恋に似ている。
ふと、目が合った。
胸の前で両手を握って、震える身体を必死に抑えながらも、瞳を潤ませる彩と。
足を止めて、驚きに目を見開いている少年と。
なにか言わなければいけない。
このまま離れ離れになりたくない。
もしかすると、これが運命の出会いというやつなのかもしれない――そんなメルヘンチックなことさえ彩は考えた。
本当に、ただ本当に、一目見ただけなのに何かを確信した。
私は、この人のことを――
「……あ、あのっ!」
勇気を出して、ようやくかたちになった言葉は、半ば裏返り気味のものだった。
恥ずかしさのあまり、かあ、と顔を赤くした彩は、いたたまれなくて顔を俯けた。
その視界の隅に、少年の足が見えた。
彩が慌てて顔を上げたころには、目の前に少年の姿はなかった。振り返って見れば、案の定そこには少年の背中がある。
彩にとっては運命的な出会いに思えたのだが、少年にとってはそうでもなかったらしい。その証拠に、あの男の子はなにも言わず、ただ黙って立ち去った。
果てしない悲哀が胸に去来する。
でも、これも仕方ないと思うのだ。
ただでさえ人見知りの気があり、女の子にも自分から声をかけることができない彩だ。見知らぬ男の子に喋りかけようとするなど土台無理な話だったのだろう。
名残惜しいとは思うが、これも運命だ。
あの男の子のことは忘れて、自分は友人の待つ教室へと――
「――――あっ」
そのときだった。
もしかしたら彩の気のせいかもしれない。
いや、きっと彩の勘違いであり、自惚れでもあるだろう。
だって彩は、あの少年のことを知らない。
つまりあの少年も、彩のことは知らないはずなのだ。
まったくの他人。
なんの繋がりもない関係。
だから――
「あっ、あぁ……!」
あの少年が背中を向けたまま、右手を上げて手を振ったとしても――それは彩に向けたものでは、決してないはずなのだ。
瞳からは涙が溢れて、どうしようもなく身体が熱くなった。
まったくもって意味が分からない。
どうして私は、あの男の子が気になって仕方ないんだろう?
どうして私は、こんなにも泣いてしまっているんだろう?
考えても答えは出ない。
ただ彩は、涙が止まらなかっただけ。
「……ゆう、き……くん……!」
嗚咽に混じって、自分の口から見知らぬ人の名前が出る。
根拠はないけれど、彩にはその名前があの少年のものだと思えて仕方なかった。
――あの少年は。
どうしてだろう。
――とっても優しくて。
いくら考えても答えは出ない。
――とっても綺麗な顔立ちをして。
見知らぬ他人とすれ違っただけのはずなのに。
――とっても強くて。
私は、あの男の子のことを知らないはずなのに。
――そして。
――とっても、お母さん想いの――
分からない。
ちっとも分からない。
もしかすると、彩の抜け落ちた記憶と、あの少年は関係があるのだろうか。
いや、さすがにそれは穿ちすぎだろう。だって、もしもあの少年が彩と関係があるのなら、さきほど声をかけてくれたはずなのだから。
竜巻にも似た感情の渦が、胸のうちで暴れまわる。
愛しさや悲しさが入り混じって、それは彩の心に深く根付いた。しかし不思議と痛いとか辛いとは思わず、ただただ儚くて煩わしいだけだった。
やがて講義開始を告げるチャイムが鳴り、閑散としたキャンパス内に彩は一人でぽつんと立っていた。
涙は止まらず、愛用しているピンク色のハンカチは斑模様に染まっている。
友人に怒られるかもしれない、とは思ったものの、どうしても講義には出る気になれなかった。
彩は一人、静かになったキャンパス内で、どうすればこの涙が止まるのかと考えることにした。
[零の章【消えない想い】 完]