壱の章【信じる者の幸福】
四月も終わりに近づき、街中に咲き誇っている桜も陰りを見せ始めた、今日この頃。
俺は自室で、誰にも邪魔されることなく趣味の時間を満喫していた。具体的に言うと、お気に入りの本を写真集を眺めていた。
これまで女優やアイドルに興味がなかった俺が、唯一応援している女優さんがいる。それが高臥菖蒲だ。まだ十六歳とかなり若いのだが、抜群のルックスと演技力を持つ、いま最も注目されている一人。
俺が菖蒲ちゃんの写真集を見て癒されていると、萩原邸のチャイムが鳴った。
「……チっ、誰だよ。俺の至福の一時を邪魔するやつは」
思わず本気でイラっときた。どうせナベリウスはソファで昼寝でもしているのだろうし、俺が応対するしかないか。写真集をベッドに広げたまま、俺は玄関に向かった。
「こんにちは。まずは一つお伺いしたいのですが、ここは萩原夕貴様のお宅でよろしいのですよね?」
彼女を前にして、俺は呆然と立ちすくむしかなかった。
「……え、あ」
色々と言いたいことがあるはずなのに、俺の口から漏れ出るのは”言葉”というよりは”音”でしかなかった。ぶるぶると震える指で、俺は彼女を指差す。
「あ、あ、あ、ああ、あ、あ……菖蒲、ちゃん?」
「もしかして、わたしのことをご存知なのですか!?」
お祈りするときのように両手を組んで、瞳を輝かせながら彼女――菖蒲ちゃんは表情を輝かせた。
その姿は、どこからどう見ても、俺の知る『高臥菖蒲』であり、つい一分前まで写真集で眺めていた顔をまったく同じだった。
やや色素の抜けた淡い鳶色(とびいろ)の髪は、緩やかなウェーブを描いて背中に流れている。陶磁器のように滑らかな玉肌と、すっきり通った話筋。瑞々しい唇は赤く、とても柔らかそうだった。透き通った二重瞼の瞳は、ちょっとだけ眠そうに閉じていて、それが何とも可愛らしかった。
身長は、公表で162センチメートルのはずなのだが、高臥菖蒲という少女が放つオーラのようなものが、彼女を実際の寸法よりも大きく見せていた。常人とは比ぶべくもないほどの圧倒的な存在感だ。
特筆すべきは、やはり胸だろう。服の胸元を大きく押し上げる膨らみは、収穫時の果実を二つ詰め込んでも、ああは行くまい。彼女は黒を貴重としたセーラー服に身を包んでいる――いや待てっ! 俺はなにを冷静に観察しているのだ!?
「ええええぇぇぇぇぇっ――――!? ま、まさかっ、モノホンの菖蒲ちゃん!?」
あまりに驚きすぎて、”本物”という言葉を噛んじまった!
落ち着け、とにかく落ち着くんだ萩原夕貴。おまえは出来る子だ。これまでだって幾多の苦難を乗り越えてきたじゃないか。だから成せば成る、あのナベリウスとかいう悪魔の出現にだって、なんとか対処して見せただろう。
……いや、待てよ?
もしかして、これってマジでテレビ局のドッキリじゃねえのか?
ナベリウスのときとは違って、菖蒲ちゃんはモノホンの――いや違った、本物の女優さんなわけだし。
そっか。
そうだったのか。
これはテレビ番組が仕掛けた罠だったんだ。
なーんだ、分かってしまえば簡単じゃないか。
危ない危ない、もう少しで、あの飛ぶ鳥を落とす勢いの女優こと高臥菖蒲さんが、俺を訪ねてきたのだと勘違いするところだった。
「夕貴様。菖蒲は、貴方様に会いとうございました」
テレビのスピーカーから聞くのとはまた違った、人の心を落ち着かせる清涼感のある声。彼女は丁重に頭を下げて、うやうやしく礼をした。
きっと子供のころから厳しい教育を受けてきたのだろう。視線や瞼の開閉、呼吸の間隔、手や足を動かす速度や角度、果てには指先の動き一つを取ってみても、それは完璧だった。
菖蒲ちゃんがその身に纏う気品やオーラは、生まれ持った美貌だけじゃなくて、細かな仕草からも形成されているのだ。
「えっ、俺に、会いたかった……?」
なんだこれは。脚本家の野郎、イカス真似をしてくれるじゃねえか。もはやテレビ局のドッキリを恨むどころか、感謝の言葉を言いたいぐらいだ。
まあでも、そろそろ種明かしの時間だろうな。今のうちに菖蒲ちゃんの姿を、この目に焼き付けておこう。
「あの、そんなに見つめられると照れてしまいます。旦那様」
透き通るような色白の頬を、薄っすらと赤く染めて、菖蒲ちゃんは俯いてしまった。むしろ俺が照れそうだった。
「……? 夕貴様、お顔が赤いようですけれど、まさか体調を崩されているのですか?」
接近してくる。
ふわり、と風に乗るようにして爽やかな柑橘系の香りがした。きっと、これは菖蒲ちゃんのものだろう。額に柔らかい何かが当てられた。ちょっとだけ冷たくて、それでいて心地いい感触だった。菖蒲ちゃんの、手だった。
「なっ、なにを……!?」
「お静かに。夕貴様と添い遂げる者として、これぐらい当然の気遣いですよ」
顔と顔の距離は、きっと五センチもない。
「……やっぱり熱があるみたいですね。どんどん熱くなっています。それに肌も汗ばんでいるようですし」
「いや、その……あ、菖蒲ちゃんが離れてくれれば、きっと熱も下がると思うんだけど」
言えた。
初めて、まともに喋ることができた。
一人の男して、おどおどしてるだけじゃ格好がつかないもんな。
「そうですか?」
どこか嬉しそうに笑った菖蒲ちゃんは、両手を後ろで組んだ。
「でも、ご無理はなさらないでくださいね? 夕貴様に何かあれば、きっとわたしは泣いちゃいます。いえ、わたしも倒れちゃうかも……です」
俺から視線を逸らして、はにかむ菖蒲ちゃん。どこまで可愛ければ気が済むんだ、君は。
念願だった菖蒲ちゃんとの対面。しかし純粋に喜ぶことが出来ないのも確かである。だって、あまりにも謎が多すぎる。
日本中の男の憧れである高臥菖蒲が、なぜ俺みたいな一大学生の家に訪ねてきたんだ?
夕貴様ってなんだ?
それより俺のことを知ってたみたいな言い方じゃなかったか?
挙句の果てには、旦那様とか言われるし……。
「……あの、どうかなさいましたか、夕貴様?」
じぃーと訝しげに見つめていると、世にも不思議そうな顔をして疑問を投げかけられてしまった。その際に、首をちょっとだけ傾げるところがキュートすぎて俺のハートがデストロイしそうだ。だめだ落ち着け俺。
目を合わせるのが気恥ずかしくて、俺は視線を逸らした。その先に見えたのは、彼女の足元に置かれたボストンバッグ。めちゃくちゃ大きい。中身が膨らみすぎてる。まるで旅行にでも行こうとしているみたいだ。
「と、ところで、どうしてきみは俺の家に……?」
もじもじと男らしさの欠片もなく問いかける俺に、彼女は言った。
「決まっているではありませんか。わたしと夕貴様は、添い遂げる未来にあるのですから」
なんの臆面のなかった。
高臥菖蒲という名の少女は、今ここに宣言する。
「どうぞ、これからは菖蒲を好きなようにお使いくださいませ。愛しの旦那様?」
パチっ、と女優だからこそ出来るのであろう、美しいウインクを添えて。
もちろん何もかも完璧と言っていいぐらい、意味が分からなかった。