「ここが夕貴様がお生まれになり、お過ごしになった空間なのですね」
嬉しそうに菖蒲ちゃんが言った。
あれから俺は、玄関先では誰に見られるものか分かったもんじゃない、ということで、とりあえず菖蒲ちゃんを萩原邸に通すことにした。
菖蒲ちゃんは、このあたりでは有名なお嬢様学校――愛華(あいか)女学院の制服を着ている以外に、中身がパンパンに詰まったボストンバッグを持っていた。明らかに女の子一人じゃ持ち運ぶのも難しそうな大きい鞄だ。
ふわふわと夢見心地のまま、菖蒲ちゃんをリビングまで案内した俺は、ソファで眠っていたナベリウスを叩き起こした。安眠を妨げられたナベリウスは怒っていたが、菖蒲ちゃんを認めると「あれ、なんか夕貴の好きな女の子がいる」と目を丸くした。
なんだかんだと来客用にお茶を淹れて、俺たち三人はリビングのダイニングテーブルに腰を落ち着けた。俺のとなりにナベリウスが座り、俺の正面に菖蒲ちゃんが座っている。
いったい菖蒲ちゃんは何が目的なんだろう?
訝しげに見つめていると、菖蒲ちゃんと目が合ってしまった。
じろじろと不躾な視線を送ってしまっていたはずなのに、菖蒲ちゃんは気分を害した様子はない。むしろ口元に微笑を湛えて『なにか?』といったように小首を傾げた。
可愛すぎて死ぬかもしれない。
「ちょっと夕貴。どういうことか説明してよ。さっきから意味が分からないんだけど」
俺のとなりで、寝癖のついた頭を気にしながらナベリウスが口火を切った。
「……なるほど。やっぱりナベリウスの差し金でもないってことか」
「当たり前でしょうが。だから早く説明しなさい」
「悪いけど、俺も説明してほしいぐらいだ。まあ端的に説明すると、さっき菖蒲ちゃんが俺の家を訪ねてきたんだよ。それで今に至る」
「……ごめん。やっぱり意味が分からないわ」
「安心しろ。俺もだ」
アホみたいな会話をする俺たちを、菖蒲ちゃんはニコニコしながら見つめていた。相変わらず瞳を眠そうにちょっとだけ閉じながら。
現状のなんたるかをまったく分かっていない俺とナベリウスは、自然、事情の説明を求めるために菖蒲ちゃんを見た。
「改めまして、わたしは高臥菖蒲と申します」
そう名乗った菖蒲ちゃんは、ちらりとナベリウスを一瞥した。
「これはこれはご丁寧に。わたしはナベリウス。好きなように呼んでくれていいからね」
「分かりました。それではナベリウス様とお呼びさせていただきますね」
一瞬、《ナベリウス》という人間らしからぬ名前に戸惑いを見せたものの、菖蒲ちゃんは華麗に対応してみせた。
「……ところで、一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「いいけど。なに?」
ナベリウスが対応する。
「はい、えっと……」
これまでマイペースだった菖蒲ちゃんは、そこで初めて口篭った。
「……夕貴様とナベリウス様は、どのようなご関係なのか、と気になりまして」
「あぁ、べつに見たまんまよ。わたしは、夕貴の母のようでいて、姉のようでいて、恋人のような女――みたいな感じかな」
これっぽっちも見たまんまじゃなかった!
「そうなのですか。分かりました」
だが菖蒲ちゃんは、特に表情を変えずに理解を示した。おかしい。普通、ナベリウスの外見年齢的に姉とか恋人ならまだしも、母の部分には疑問を持つものだと思うんだけど。
「そう? 話が早くて助かるわ。物分かりのいい子は好きよ」
「はい。わたしもナベリウス様のような、お美しい方には憧れてしまいます」
「ちょっと夕貴、いまの聞いた? この菖蒲って女の子、かなり見所があるっぽいわよ?」
お美しい方、というワードに反応したのか、ナベリウスが耳打ちしてきた。でもナベリウスが俺に身を寄せた瞬間、菖蒲ちゃんの眉がぴくっと吊り上ったような。
「菖蒲、でいいのよね? 事情はよく分からないけど、とにかくよろしくね」
「こちらこそ。これからもよろしくお願いしますね、この野郎」
「……え」
リビングに満ちていた暖かな空気が、一瞬にして凍った。
狐につままれた顔をするナベリウスとは対照的に、菖蒲ちゃんは目元を和らげたまま上品に腰掛けている。……えっと、なんか菖蒲ちゃんの口から、その清楚な佇まいに似つかわしくない言葉が吐き出されちゃったような気がするんだけど。
「……ねえ菖蒲。いま、なんて言ったの?」
勇気を出して問いかけるナベリウス。その顔は笑っているけれど、若干引きつっていた。
「あっ、すみません。声が小さかったようですね。では繰り返します。これからもよろしくお願いしますね、この野郎。これでよろしいでしょうか?」
「……どうして『この野郎』なのか説明してくれない? わたし、なにも悪いことしてないよね?」
さすがのナベリウスも困惑気味である。菖蒲ちゃんは微笑みながら、おっとりとした様子で答える。
「はい。わたしとしても不本意だったのですけれど、ナベリウス様が三分の一ほどわたしの敵であるということが判明しましたので、ちょっぴりと敵意を明示させていただきました」
ふわふわの髪を上品な所作で耳にかけて、菖蒲ちゃんは続けた。
「夕貴様の母上様に当たる方は、わたしにとっても母上様同然です。また、夕貴様の姉上様に当たる方は、わたしにとっても姉上様なのです。ですから、ここまでは最大限の敬意を表せるのですが」
「……なるほどね。恋人は無理、と」
「恐れながら、仰るとおりです。もしもナベリウス様が、夕貴様の恋人であられるのなら……わたしにとっては敵なのです」
「ふうん、そうなんだ。つまり菖蒲は、夕貴のことが好きだと言いたいわけね」
「好き、というよりも、結ばれる運命にある、と言ったほうが自然かもしれません。夕貴様とわたしは、将来的に添い遂げる運命にあるのですから」
何の臆面もなく、菖蒲ちゃんは宣言する。やはりと言うべきか、ナベリウスが耳打ちしてきた。
「……ねえ夕貴。この子、ちょっと頭がおかしいんじゃないの? なんだか電波を受信してるっぽいわよ?」
「他人事みたいに言ってるけど、おまえも十分に電波塔だったからな」
「電柱ぐらい?」
「東京タワーだボケー!」
思わず椅子から立ち上がって、ツッコミを入れてしまった。
いつものようにナベリウスと中身のないやり取りをしていると、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。菖蒲ちゃんが口元に手を当てて笑っている。
不思議だ。なんだか菖蒲ちゃんの笑っている姿を見ていると、それだけで満ち足りた気分になる。この女の子が微笑んでくれるのなら、もうなんでもいいや。そんな打算的なことさえ考えてしまう。
高臥菖蒲という少女は、本当に、どこまでも人を惹きつける。
「とても仲がよろしいのですね、お二方」
頬を薄っすらと染めて、菖蒲ちゃんは言った。
「まあね。わたしと夕貴は、ご主人様と奴隷の関係だからね」
「誤解を招くような言い方すんなやっ!」
「べつに誤解を招いてないでしょ? ほら、わたしと一緒にお風呂入ったじゃない。それに夕貴ったら、わたしの胸まで揉みしだいたものね。それらを強制されたわたしは、夕貴の奴隷ゆえに従うしか……従うしか道が……!」
ナベリウスは両手で顔を覆って、わざとらしい嗚咽を漏らした。どこからどう見ても嘘泣きである。まあ、こんな三文芝居に騙されるバカなんていないけどな。
「……な、ナベリウス様? そのお話、詳しく聞かせて頂いてもよろしいでしょうかっ?」
いたー!
完璧に騙されてる人がいたー!
菖蒲ちゃんは、ハラハラドキドキするアクション映画を見るときのように両拳を握って、ずいと身体を乗り出した。
そういやこの子、テレビで見るかぎり、かなり天然入ってたっけ……。
「ええ、たっぷりと聞かせてあげるわ。でも、その前に一つ聞いてもいいかしら?」
「……? はい、わたしに答えられる範囲であれば構いませんが」
「じゃあ遠慮なく聞くけど、さっき菖蒲が言ってた、夕貴と添い遂げる運命、ってなに?」
「そのままの意味ですよ。わたしと夕貴様は、夫婦(めおと)となる未来にあるのです」
「ふうん。ちなみに、その未来とやらは、どうやって知ったの?」
「未来を視たのです」
すこし前と同じように、やはりリビングの空気が凍った。
今度こそナベリウスの顔は完璧なまでに引きつっている。いまにも「病院行ってきたほうがいいんじゃない?」と言い出しそうだ。まあ正味なところ、俺も菖蒲ちゃんの頭をちょっとだけ心配してしまったのだが。
「そうですね。信じることができない、というのも当然の反応だと思います。まずは事情を説明しましょう。それが夕貴様に対する、せめてもの償い……ですから」
「事情を説明してくれるのは嬉しいけど、俺に償いって……?」
どこか悲しそうに目を伏せる菖蒲ちゃん。その”償い”とやらは言いにくいことなのか、菖蒲ちゃんは話題を変えるように笑みを浮かべた。
「それでは順を追ってお話させていただきます。夕貴様とナベリウス様はご存知でないでしょうが、わたしは学生という身分の他に、女優さんという肩書きを持っていまして」
「あぁ、それなら知ってるわよ? だって夕貴が、菖蒲の大ファ……」
「ファンタスティック! いやぁ、俺ってファンタスティックって単語の響きが好きなんだよなぁ!」
椅子から立ち上がって、意味不明な感じに場を濁してみた。
いや、だってさ。
なんか恥ずかしいだろ?
いずれ知られてしまうだろうけど、他人の口から「この子は、あなたのファンなんです」と言われるのは気恥ずかしくて仕方ないのだ。
「……? ちょっと夕貴。あなた、頭がおかしくなったんじゃないでしょうね」
「そんなわけねえだろ。俺はファンタスティックが大好きだったじゃねえか!」
「…………」
「なっ!」
「……まあ、そんなような気がしてきたわ」
渋々といった体で、ナベリウスは頷いた。どうやら俺の意図を察してくれたらしい。でも、さすがに誤魔化すのが下手すぎたと思う。これは菖蒲ちゃんにバレてしまったのでは――
「言われてみれば……確かに夕貴様の仰るとおりです! ファンタスティックという言葉は、他の言葉とは一線を画すと思います!」
「ええぇぇぇっ!? マジで!?」
口から出任せだったのに!
もちろん俺にはファンタスティックという言葉に思い入れはない!
菖蒲ちゃんは興奮に頬を赤く染めて、小声で「ファンタスティック……ファンタスティック……」と何度もつぶやいていた。もう俺は泣きそうだった。
「さすがですっ、夕貴様! ”ファンタスティック”の素晴らしさをご教授してくださるとは、菖蒲、感激です!」
それはあまりに美しすぎる笑顔。ちょっと嘘を言ってしまったけど、この見る者を癒すような微笑みを見られたのだから、まあ良しとしよう。
「今度、記者の方に好きな言葉を尋ねられた際は、もちろんファンスティックです、と答えますね」
「それは止めてくれっ!」
とりあえず俺とナベリウスは、まあ世間一般の人が認知してる程度には高臥菖蒲という女優のことを知っている、みたいな感じの”設定”になった。
「話を戻しますが、先も言いましたとおり、わたしには未来が視えます。……いえ、正確には未来を予測できる、と言いましょうか。これはわたし特有の能力ではありません。【高臥】という家系に生まれた女児が、先天的に発現する異能のようなものなのです」
「……高臥家っていうと、日本でも有数の資産家だったよな」
「はい。【高臥】は、いくつかの分家と共に一つの大きなグループを形成しております。その資産力は、かの大家である如月家に次ぐと言われているそうです」
庶民である俺には実感が湧かないが、彼女がそう言うのだから、やはり世の財界には派閥のようなものがあるのだろう。
「我が高臥家は、如月家や、有能な高官を輩出することで知られる高梨家と比較すれば見劣りします。しかし、その差を埋めるものが【高臥】の人間にはありました」
それが、未来を予測する力とでも言うのだろうか。
「もう夕貴様とナベリウス様もお気付きでしょう。我ら【高臥】は、未来というある種究極の情報を垣間見ることによって栄えました。高臥宗家の直系、それも女児のみが発現するこの力は、歴代によって千差万別です。夢として未来を視る者がいれば、虫の知らせのような形で数時間先の未来を予知する者もいます。ちなみに、わたしは後者に当たりますね」
いつもテレビで見るときと同じ、おっとりとした口調で菖蒲ちゃんは説明する。
「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず。孫子の兵法にあるとおり、【高臥】は科学という分野が発達するよりも以前から、未来予知という能力について研究してきました。もっとも、まだ若輩者のわたしには小難しい話は理解できませんし、専門家の方の視野を以てしても不明瞭な部分が多く見えるようです」
「……アインシュタインの相対性理論によれば、時間は相対的なものに過ぎない。つまり本来存在しないということになる。この理論から考察すると、時間という概念は人間の幻想に過ぎず、未来も過去も存在しない。ただ”今”という時間が連続しているだけのはずだ」
要するに、未来という不確かな情報を予測することは不可能ということになる。
「なんだか頭の良さそうなこと言っちゃって。そういえば夕貴って、学校の成績がよろしいんだっけ? 菖蒲にいいところを見せるチャンスじゃない」
銀髪の悪魔が「ヒューヒュー!」とか言って囃し立ててきたが、もちろん無視した。
「そうですね、夕貴様の仰るとおりです。しかし、それは理論の一つに過ぎません。事実として、わたしたちが未来予知を可能としているのですから、やはり何かしらの理屈があるのでしょう。例えば【高臥】には、量子力学という観点から見た仮定の理論があります。脳細胞の活動には、量子的な情報作用があるのではないか、という説ですね」
現在、高臥家において最も有力な仮説が次のようなもの。
近親婚。それは現代だからこそ禁忌とされているが、古来の日本では数多くの例が見られた。血統を重んじる名家であればあるほど、近親婚を是とする傾向にある。
高臥家も、古くは近親婚を厭わなかった一族。近しい、優秀な遺伝子同士の結びつきは、高臥に突然変異とも言うべき変化をもたらした。
脳細胞には量子的な情報作用があるのでは、という説がある。高臥の女児は、上記の近親婚を繰り返したことによって、先天的に脳細胞の量子的な情報作用が常人よりも強まったのではないか、とされている。
「量子脳理論か。あまり詳しくはないけど、たしか著名な学者達によって提唱されたアプローチだったよな」
「仰る通りです。さすがは夕貴様。聡明でいらっしゃいますね」
「こんなの豆知識の範囲だ。誰でも知ってるよ」
つまるところ、『未来予知』の完全な解明は出来ていないってわけか。
いまの現代科学では、どうやっても解明できないブラックボックス。それが未来を予測する力。
「でも菖蒲ちゃん。未来予知って言っても、さすがに十年以上先のことは視れないだろ? どうして俺と結ばれるって思ったんだ?」
「……そんな。”菖蒲ちゃん”だなんて……夕貴様ったら」
俺の問いもどこ吹く風。柔らかそうなほっぺたを桃色に上気させた菖蒲ちゃんは、両手で頬を押さえて、いやいやするように首を振った。
「あっ、ごめん。いつもの癖で呼んじまった。……えっと、菖蒲さん、でいいかな?」
「……菖蒲ちゃんのほうが可愛いと思います」
”菖蒲さん”が気に食わなかったのか、彼女は沈んだ声でつぶやいた。
「じゃ、じゃあ菖蒲ちゃんって呼んでもいいのか?」
「そう呼んでくださるのなら本望です。しかし、ここは敢えて”菖蒲”と呼んでください」
「どうして?」
「決まっているではありませんか。わたしと夕貴様は、添い遂げる未来にあるのですよ? 妻をちゃん付けする夫は、まずいないと思います」
なるほど。
まあ理に適っている、のか?
「……でも、時々でよろしいですから、わたしがいっぱい頑張ったり、夕貴様のお役に立てたりしたのなら、そのときはご褒美として”菖蒲ちゃん”と呼んでください」
「そんなのが褒美でいいのか?」
「はい。菖蒲は、夕貴様からの褒美を拒むような愚かな女ではありません」
「……まあ、じゃあ菖蒲って呼び捨てにするけど、本当にいいんだな?」
こくり、と彼女は頷いた。
「なんか悪いな。それなら俺も”夕貴様”じゃなくて夕貴って呼び捨てにしてもいいぜ」
「そんな! 呼び捨てになんて出来ません! 夕貴様は、わたしの夕貴様なのです!」
ずいっと身体を乗り出して、顔を近づけてくる菖蒲ちゃん。その胸元では、大きな膨らみがこれでもかと自己主張しており、彼女の動作に従って揺れる揺れる。爽やかな柑橘系の香りがして、その甘い匂いに頭がくらくらした。
「わ、分かったから落ち着いてくれ。もう好きなように呼んでくれていいから」
「そうですか? では、遠慮なく夕貴様とお呼びさせていただきますね」
小首を傾げて微笑む菖蒲は、とにかくご機嫌な様子だった。
「さて、どこから話せばよいのか迷うところですが――端的に申しますと、高臥の女児は、あるとき決まって予知夢を見るのです」
菖蒲の話によると、高臥直系の女児は平均して十代後半の年齢に差し掛かると、何年も先の未来を夢として視るという。
この”予知夢”は、今のところ百パーセントの確率で起こっているらしく、しかも外れたことがないらしい。挙句の果てに、その”予知夢”とは自分が将来添い遂げる相手と幸せに暮らす未来を垣間見るというのだ。
『未来予知』という異能と同様、詳しい原因は分かっていない。高臥の仮説によると、女性としての本能や遺伝子が、より優良な男性の遺伝子を求め、強力な予知能力を発動させた、ということらしいが。
ただ高臥の長い歴史を鑑みると、高臥直系の女児が予知夢で視た相手は、例外なく高臥家を繁栄させるに最も適した相手だった。
他の有名な名家と比べると地力で劣っていた高臥家は、この予知夢に従うことによって、金融、鉄道、外資、芸術、政界、芸能などに影響力を持つ家系と繋がり、あらゆる方面に事業を展開させるだけの力を持つに至った。
「……それって、本当の話なのか?」
「はい。菖蒲は三年ほど前に視たのです。夕貴様と幸せに暮らす未来を」
「……それって、絶対に外れないのか?」
「はい。菖蒲の母も、当初は”予知夢”に逆らったそうです。しかし運命に翻弄されるかのごとく父と出会い、愛し合い、結婚したと」
「マジか……」
もちろん俺としては、菖蒲に憧れていた――いや現在進行形で憧れているのだから、異論などあるわけがないのだが。
「ちなみにさ、その菖蒲が視たっていう未来で、俺たちは何をしてたんだ?」
「そ、そのようなことを口にすると、菖蒲は恥ずかしすぎて死んでしまいますっ!」
なぜか頬を真っ赤にして、両腕で身体をかき抱く菖蒲だった。
「えっ、恥ずかしいことをしてたのか?」
うーん。
お揃いのシャツを着て、ペアルックで街を歩く……とかかな。
「ですから、言えません! ムチとローソクとロープを使うだなんて――あっ、失言でした。今のは忘れてください」
「はあぁぁぁぁっ!? 俺、菖蒲に何してたんだ!?」
「いえ、本当に忘れてください。……菖蒲も悪いのです。菖蒲が上手くご奉仕できないばかりに、夕貴様は……ぅぅっ!」
「だから俺は何をしたんだっ!?」
ここまで気になることも珍しい!
いや、パニックになるな萩原夕貴。ここで冷静さを失ってしまうと、また話が脱線するじゃないか。菖蒲の発言も気になるところではあるが、他にも聞いておかなければならないことがある。
「ところで菖蒲。さっきから思ってたんだが、あのバカでかいボストンバッグはなんだ?」
「あのバッグには、菖蒲の衣服や日用品が詰まっているのです」
「なんで? やっぱり旅行でも行くのか?」
「いえ、その……実はですね」
珍しく口籠ったかと思えば、菖蒲は上目遣いで俺を見てきた。その愛らしさと来たら、もう強烈である。なんでもお願い事を聞いてしまいそうだ。
でも次の瞬間、俺は”なんでもお願い事を聞いてしまいそうだ”と思った自分を後悔するのであった。
「わたし――高臥菖蒲は、本日を持って【高臥】を出ました。ですから、これからはよろしくお願いいたします」
「はあ!? ちょっと待て、なんでそうなるんだ!」
「そう仰る夕貴様のお気持ちも分かります。でも、わたしは家出しちゃったんです。恥ずかしながら、お父様があまりにも頑固でして――」
予知夢を見た菖蒲は、俺の存在を数年前から知っていたわけであって、その想いは日増しに強まっていったそうだ。それは恋慕というよりも『とにかく会ってみたい』という感情だろう。
しかしながら、せめて高校を卒業するまでは男と会うことは許さん、と父親に窘められ続けてきた菖蒲は、つい昨日、とうとう父親と大喧嘩して、家を飛び出してきたというわけらしい。
「つまり、夕貴様に追い出されてしまうと、わたしは野宿しか方法がなくなるのです」
瞳を潤ませて、鼻を啜る菖蒲。
女の子が野宿。そんなことが許されるわけがない。第一、菖蒲は絶世という形容がぴったりの美少女なのだ。街を歩けば、どこぞの馬の骨とも知らない男にナンパされまくるに違いない。
「わたし、言いましたよね? 事情を説明することが、夕貴様に対する、せめてもの償い、と」
「ああ、確かに言ってたな。それがどうし……ま、まさか」
「はい。わたしを家に泊めてくださる、せめてもの償いです」
そんな伏線いらねー!
しかも菖蒲に悪気がない分、タチが悪すぎる!
呆然と大口を開ける俺と、話に飽きたのか何度もあくびを噛み殺しているナベリウスを交互に見て、菖蒲は告げた。
「これからよろしくお願いしますね、夕貴様、ナベリウス様。三人力を合わせて、ファンタスティックな生活を送りましょうね」
だからさ。
ファンタスティックは止めようぜ、菖蒲ちゃん……。