とりあえず今日は――そんな打算的な言い訳のもと、高臥菖蒲(こうがあやめ)は萩原邸に一泊することになった。
幸い、うちには空いている部屋がいくつもある。なかでも客間は、常日頃から定期的に掃除してるから、いつでもお客さんを案内することが出来る。ナベリウスのやつが陣取っているのは一階の客間であり、その一つとなりの部屋を菖蒲に宛がった。
自室のベッドに腰掛けながら、俺は壁にかかっている時計を見た。時刻は午後九時。外は真っ暗。すでに夜だった。
とにかく急場凌ぎということで菖蒲を泊めてしまったが、とにかく早急に対策を講じなければならない。
「……風呂、入るか」
この悶々とした気分を洗い流したい。汗を流し、ゆっくりと湯船に浸かれば、なにか名案を思いつくかもしれないし。
のろのろとした足取りで立ち上がった俺は、あまり足音を立てないように気をつけながら、一階にある風呂場に向かった。
結論から言うと、風呂に入っても心は落ち着かなかった。むしろ興奮が高まった。なにせ俺が入る十数分前まで、菖蒲が汗を流していたからだ。
あの女優『高臥菖蒲』が使った直後のシャワールーム。そう意識すると、一ファンとしては平常でいられなかった。
「はぁ……もうイヤだ……」
部屋に戻ると、敵地から帰還したかのような安心感があった。
風呂でさっぱりしたばかりなのに、廊下を走って階段を駆け上がったせいか、体が汗ばんでいる。まあ俺の服装は、上はタンクトップ、下はジャージという開放的なものなので、すぐに汗も引くだろうけど。
用心のために、部屋の鍵を閉めておくことにした。普段は開けっ放しなのだが、今日は特別だ。
重い足取りでベッドに腰掛けて、タンクトップの胸元をぱたぱたと扇ぐ。
「……なんか腹減ってきたな」
「よろしければ、菖蒲がなにかお作りしましょうか?」
「えっ?」
耳元で声がした。
最高に嫌な予感がしたが、それでも確かめないわけにはいくまい、俺はのろのろと後ろを振り向いた。そこにいたのは、予想通りの人物。
「あ、菖蒲……ちゃんっ!?」
「いけませんよ、夕貴様。わたしのことは”菖蒲”と呼び捨てで構いません、と言ったではありませんか」
彼女は優しく笑った。
きちんとドライヤーで乾かさなかったのか、腰にまで届く鳶色の長髪はしっとりと濡れていた。甘やかな匂いが、俺の部屋を満たしていく。肌は火照り、頬は剥きたてのタマゴみたいにつるつるしている。彼女は花をあしらった淡いピンク色のパジャマを着ていた。
「えっと、なんで、菖蒲がここに……?」
やや体を後ろに逸らす。だって菖蒲は、ベッドの上に女の子座りしながら両手をついて、上半身を前傾させているのだ。おかげで、俺が後ろに下がらないとキス出来そうなぐらい距離が近い。
「……俺の間違いじゃなけりゃ、部屋の鍵は閉まってたはずだよな。どうやって入ってきたんだ?」
「普通に入りましたよ? 鍵もかかっていませんでしたし」
「そんなはずは――」
言いかけたところで気付いた。
なんか知らないけど、部屋の片隅にあるクローゼットの戸が開いている。まるで今さっきまで誰かが入っていて、つい今しがた誰かが出てきたと言わんばかりに。
視線で問うと、彼女は臆面もなく頷いた。
「はい。失礼ながら、クローゼットにお邪魔させていただきました。とってもオシャレな服ばかりで、菖蒲は感動しました」
「いや、まあ服のセンスは横に置くとして……どうしてクローゼットに?」
「夕貴様が部屋の鍵をお閉めになる、と分かっていたからです」
「俺が鍵を閉めると分かっていた……って、まさか」
「はい。予知っちゃいました」
「…………」
ちょっと声に出すと失礼なので、心の中で叫ぼうと思う。
しょうもないことに予知能力使うなや! しかもクローゼットに忍び込むとか、小学生のかくれんぼか!? めちゃくちゃ可愛いからって調子乗ってんじゃねえぞコラぁっ!
よし、これで俺の心に蓄積していたストレスは消滅した。
「つーか、人が部屋の鍵を閉めることさえ予知できるっていうなら、俺のプライバシーがないのも同然じゃ……」
「ご心配なく。夕貴様にはご説明していませんでしたが、菖蒲の能力は一族の中でも強いほうではないらしくて、さほど応用も利かないのです」
彼女の持つ予知能力は、虫の知らせのようなかたちで、数時間先から数日先までに起こる一つの事象を予測するものだという。言ってしまえば、日常のふとした瞬間に神様からお告げを受け取るようなものだ。
「しかしながら、わたしが予知するタイミングには、多少の法則性があるようなのです。これまでの経験上、リラックスしているときや身の危険が迫ったときなどには大抵、何らかの予知をするのですけれど」
「……なるほど。たしか現在、高臥家で最も有力な仮説が、量子脳理論を元にした仮説だったよな。菖蒲がリラックスしたとき、あるいは身の危険が迫ったときに予知することが多い……とすると、つまり脳細胞の活動が活発化してるときに予知能力が発動するってことか?」
すこし気になって考え込んでいると、ふと視線を感じた。顔を上げて見れば、そこには何だか幸せそうな顔をした菖蒲がいた。
「……なんだ?」
「あっ、いえっ、何でもありませんっ。失礼しました」
「気になるな。俺に言いたいことがあるなら隠さず言ってくれていいぞ。つーか、そっちのほうが俺も嬉しいし」
「……では、遠慮なく言わせていただきますが、夕貴様は女の子のように綺麗な顔立ちをしていらっしゃるのですね」
「ぐはっ!」
まさか菖蒲にまで指摘されちまうとは……!
「それに肌もお綺麗ですし、髪だって艶やかですし……。夕貴様は殿方なのに、わたし、嫉妬してしまいそうです」
目に見えて分かるぐらい肩を落とす菖蒲。それを見ているうちに、なんだか頭を撫でてあげたくなってきた。下心とかではなく、親戚の女の子やペットを可愛がるときに近い、純粋な動機。
もちろん俺には、自然な風を装って女の子のあたまを撫でる、なんてことはできない。だから、ちょっと手を上げて、やっぱり下ろして……みたいな怪しい行動を取る羽目になった。
しかし、やはり菖蒲は、最高に気の利く女の子だったようだ。
「……ん」
きっと俺の意図を察してくれたのだろう。菖蒲は子供がおねだりするように、瞳を閉じて頭を差し出してきた。ここで「いいのか?」と聞くほど、俺は無粋じゃない。とにかく勇気を振り絞ろう。夕貴だけに。だめだ落ち着け俺。
生唾を飲み込んでから、意を決して菖蒲の頭に手を乗せた。色素の薄い鳶色の髪は、ほんのりと湿っていた。
壊れ物を扱うかのような手つきで、ゆっくりと撫でてみる。菖蒲は気持ちよさそうに息を吐いた。リラックスしている証拠だろう。
「……不思議です。夕貴様に頭を撫でられると、自分でも驚くほど心が落ち着きます」
「俺も……菖蒲に触れているだけで、言い残すことがないぐらい満足だ」
「……本当でしょうか。菖蒲は夕貴様をお慕いしておりますが、夕貴様は菖蒲のことを……あら?」
菖蒲は、俺の肩越しに何かを見るような仕草をした。
「これは、もしかして……」
ベッドの上を四つんばいの体勢で移動した菖蒲は、俺の背後にあった一つの本を手に取った。何を隠そう、高臥菖蒲のファースト写真集である。
菖蒲が忍者みたいに突如現れたものだから、隠すのを忘れてた……。
「夕貴様? これは一体、どういうことでしょうか?」
写真集を手に持ち、彼女は目を鋭くした。ていうか自分の写真集を腕の中に抱える女優さんを見るのは、かなりレアなんじゃないだろうか。
ベッドの上で女の子座りをする菖蒲とは対照的に、俺はなぜか正座だった。
「……いや、実は」
「実は? 夕貴様も殿方ならば、大きな声ではっきりと仰ってください」
「……実は、俺って……その、昔から、菖蒲ちゃんの……大ファンで」
「…………」
「いつも、菖蒲ちゃんが出演するテレビを見て、やっぱり可愛いなぁ、って思ったり……えっと、映画もシアターで見たし……写真集も、初版のやつを買ったし……」
「…………」
「だ、だから……!」
こうなったら腹を括って、正直に告白するしかない。
「俺は、昔から菖蒲ちゃんに憧れてました!」
場の雰囲気もあって、なぜか頭を下げながらのカミングアウトとなった。いくら待っても菖蒲ちゃんは何も言わない。もしかして気持ち悪いと思われてしまったんだろうか。
そーっと視線を上げてみる。
「…………」
菖蒲は、ただ顔を――それこそ耳まで真っ赤にして、気恥ずかしそうに俯いていた。
「……本当ですか?」
「え?」
「……本当に、夕貴様は……わたしのことを……」
熟れた桃のように紅潮した頬が、やけに目立って見えた。
「ああ。べつに、嘘とかじゃないけど……」
「…………」
訥々と答えると、彼女はさらに頬を赤くした。
「……ずるいです、夕貴様」
「え?」
「ですから、夕貴様はずるいです……」
そう言って、彼女は俺にしなだれかかってきた。ほとんど抱き合うような格好だった。
「あ、菖蒲!?」
「きっと――」
これまでとは違う、どこか平坦とした抑揚のない声で、菖蒲は言う。
「夕貴様なら、わたしを救い出してくれるかもしれない。あの陽だまりのような未来において、わたしのとなりで微笑んでくれた貴方様ならば、わたしを助けてくれるかもしれない――そう夢想せざるを得ませんでした」
恐る恐るではあるが、俺は菖蒲の背中に手を回していた。抱きしめた身体は、テレビや本で活躍している姿よりも遥かに小さく感じて、どこまでも庇護欲をかきたてられる。
「救い出す……? どういう意味だ?」
脈絡のない話に戸惑いを隠せない。彼女は小さくかぶりを振った。
「……いえ、これは少々、大げさな物言いでした。夕貴様を勘違いさせてしまったようですね。ただ、菖蒲は弱い女なのです。本当に、自分でも嫌になるぐらい、弱いのです」
「どういうことだ?」
「…………」
菖蒲が言うには、数時間先、あるいは数日先程度の未来しか知ることが出来ないとはいえ、それは生きる上で大いに彼女の役に立ったという。『未来』は、幼いころの彼女にとって、確かな味方であり、何よりも信用できるものだった。
彼女が小学生の時、一風変わった未来を視た。
それは、人の死に関わる予知。
小学校の担任の先生が『長期休暇の際、趣味の登山中に遭難してしまい、そのまま還らぬ人となる』という未来を菖蒲は知った。
当然、先生を助けようとした。何度も何度も呼びかけて、忠告して、お願いした。けれど、未来は変わらなかった。小さな子供が口走る『未来』は、周囲の人間にとって戯言と同じだった。
未来を垣間見ても、それを共感してくれる人間がいなければ、なにも変わらない。誰かの死は、その本人の理解と協力がなければ回避できない。人の生死に関わる予知は、これまで四度ほど経験したらしいが、一度も回避できた試しがないという。
菖蒲は中学生の頃、街中ですれ違った老人が『階段で足を踏み外し、頭を打って死亡する』という未来を唐突に予知したこともある。もちろん声をかけて、なんとか未来を変えようとしたらしいが、結局は無理だった。
どうして菖蒲の声に耳を貸さないんだ。そう思うのは、俺が彼女の能力を存知しているからだろう。
ちょっと考えてみれば分かる。
見知らぬ少女に、いきなり『貴方は死ぬ未来にあります。ですから、わたしの言うことに従ってください』と教えられても、普通に詐欺だと疑うだけだろう。
きっと菖蒲は、大勢の人に自分の言葉を信じてもらいたいがために、芸能界に足を踏み入れたんだ。有名になりさえすれば、嘘のような言葉にも説得力が付加すると思って。
学校のテストが視える、水溜りに嵌ってしまう――そんな些細な未来ならば、簡単に変えられる。しかし未来は、それが自分以外の大多数の人間に影響を及ぼす事象であればあるほど、軌道を修正することが困難になる。
もっと言えば、自分自身の未来を変えることは容易だろうけど、他人の未来を変えることは想像以上に難しいんだろう。
しかも菖蒲は、か弱い女の子だ。高臥という名家に生まれたとしても。類稀なる美貌を有していたとしても。女優という肩書きを持っていたとしても。どうでもいい他人の死を救えなかったことを、こうして後悔するぐらい、純真な女の子なんだ。
これまで予知した誰かの死。
一人目は救えず、二人目も救えず、三人目は菖蒲が声をかけようかと迷っているうちに死んでしまい、四人目は声をかけることもしなくなった。
不幸中の幸いは、人の死を予知すること自体が少ないことか。それでもいつ誰かの死を垣間見るのかと思うと、菖蒲は強烈な不安に駆られるというのだ。
例え、誰かの死を予知しても、それを回避することが出来ないのなら。
そんなの、崖から落ちる人間に手を差し伸べないことと、何が違うのか。
おかしな話だよな。本来なら信じるべきはずの未来を、信じることが恐いなんてさ。菖蒲ほど、未来を信じるために生まれた女の子はいないってのに。
だって菖蒲は――
「でも、わたしは笑っていました。何年後かも分からない未来において、夕貴様と一緒に――貴方様のとなりで、菖蒲は心の底から笑っていたのです。わたしは、自分に嫉妬しました。未来の自分に嫉妬しました。あんな純粋な笑みを浮かべることが出来る自分に、嫉妬したのです。菖蒲は、夕貴様と会う日を糧にして生きてきました。夕貴様ならば、わたしを助けてくれるかもしれない。この暗闇から、わたしは救い出してくれるかもしれない――だって、未来のわたしは、確かに救われていたのですから」
現在の菖蒲は独りで泣いていて、未来の菖蒲は俺と一緒に笑っていた。だから、彼女の「お慕いしております」という言葉は、純粋な好意というよりも、期待の裏返しなのだろう。
『未来』が視えるから、これから先、なにが起こるか知っているから、逆に誰よりも『未来』が怖くなった。自分一人しか知らない結末。誰かと相談することもできない。
菖蒲は、怖いんだ。
未来を信じることが、怖いんだ。
「……だったら」
正直な話、俺には何もできない。
それでも。
「せめて俺だけは、菖蒲を信じるよ。世界中の人間が菖蒲の示す『未来』を否定したとしても、俺だけは君を信じてみせる」
抱きしめる。
強く、強く抱きしめる。
そうでもしないと、菖蒲が消えてなくなってしまいそうだったから。
そうでもしないと、菖蒲の嗚咽が聞こえてしまいそうだったから。
ちっぽけな俺に何が出来るのかは分からないが、それでも護ってあげたいのだ。
もしかすると、菖蒲が『萩原夕貴が部屋の鍵を閉める』なんて下らない予知をしたのも、すべては『自分の悩みを誰かに聞いてもらいたい』という無意識下での願望があったからこそ、俺と二人きりで話し合える場を設けるために、予知能力が発動したんじゃないだろうか。
しばらくして、菖蒲は糸が切れた人形のように眠りに落ちた。心情を吐露して安心したのか、それとも単純に泣きつかれたのか。恐らく両方だろう。
俺はベッドに菖蒲を寝かせたあと、電気を消して、部屋から出て行った。今日だけは客間で寝よう。
今日だけは。