菖蒲が萩原邸に滞在することが正式に決まると、彼女の日用品が圧倒的に足りていないという問題が浮上した。
家出の際、巨大なボストンバッグに荷物を詰め込んだ菖蒲だったが、いくら詰め込んでも持ち運べる量など高が知れてる。数日程度の外泊ならば大丈夫だろうけど、それ以上となると買い足す必要性が出てくる。やっぱり女の子は男と違って、色々と入り用なものが多いみたいだ。
というわけで早速、俺と菖蒲は街に繰り出していた。
菖蒲と二人きりはさすがに緊張するので、ナベリウスも買い物に付き合わせるつもりだったのだが、あの銀髪悪魔はいらないところで空気を読むのが得意らしい。
「あぁ、わたしはパス。今日は見たい昼ドラがあるし」
とか何とか、アホみたいに人間くさい台詞を残し、ナベリウスはリビングのソファに沈んでいったのだった。
そんなこんなで俺は、かの女優『高臥菖蒲』と、なんとも恐るべきことに二人きりでデート。いや、買い物を満喫していた。
「夕貴様! そこです、そこ! そこですってばー! 早く、早くっ!」
ひどく興奮した、菖蒲の声。
激しい運動をしているからか、その頬は薄っすらと紅潮しており、瞳には隠しきれない歓喜が滲んでいる。上下に運動している菖蒲の胸元では、男性の視線を強く惹きつける蠱惑的な双つの膨らみが揺れていた。
どうやら菖蒲は、もう我慢できないらしい。俺も焦らすのは止めて、そろそろフィニッシュと行こう。
最後の瞬間に備えるため、指先に神経を集中。どんな反応も見逃さぬよう、これでもかと目を見開く。限界まで溜めた力を解き放ち、俺は俺のために、なにより菖蒲のために最後まで一直線に駆け抜けた。
その結果。
「やりましたっ! さすが夕貴様です! やっぱり夕貴様は、菖蒲の夕貴様ですっ!」
俺が額の汗を拭っていると、そんないまにも飛び跳ねそうな声が聞こえてきた。よほど嬉しいのか、菖蒲は両拳を握って、きらきらと瞳を輝かせていた。
実に女の子らしい仕草ではあるが、基本的に落ち着いた物腰の菖蒲にしては珍しくもある。
「喜んでくれるのはいいけど、あまり騒ぎすぎないほうがいいんじゃないか? 菖蒲は有名人なんだから」
口では説教をしつつも、菖蒲の笑顔を見れたことが嬉しかった。
俺はクレーンゲームの筐体から、今しがた手に入れたばかりの戦利品を取り出す。その宇宙人をモデルにデザインしたようなぬいぐるみは、若い女の子の間ではそこそこ流行っているらしく、菖蒲も多分に漏れずファンだという。
元はと言えば、繁華街にある中規模のゲームセンターの入り口付近で、このクレーンゲーム機の筐体を見つけたことが始まりだった。
例の宇宙人のぬいぐるみ――アニーちゃんと言うらしい――を認めた菖蒲は、しかし口に出して「あれが欲しい」とは言わなかった。
ただ一瞬立ち止まって、プレゼントのねだり方を忘れた子供のような表情を浮かべるだけ。
どうしたんだろう、と訝しむ俺に気付いた菖蒲は、すこしだけ寂しそうに笑って「行きましょうか」と言った。
だが、そこで黙って頷くほど俺は鈍い男じゃない。
なにも言わず――ここで何も言わなかったのが個人的なポイントである――クレーンゲーム機の筐体に歩み寄った俺は、これまた黙って財布を取り出し、硬貨を投入するという男業を披露した。
戸惑う菖蒲に向けて「これ、プレゼントしてやるよ」と笑いかけたときの俺は、自分で言うのもなんだが本当に男らしかったと思う。
初めは遠慮していた菖蒲も、すぐに応援に回ってくれた。やっぱり彼女は出来た娘で、ここで遠慮すると逆に男の面子を潰してしまうと理解してくれたのだ。
結局、一回目は失敗し、二回目も失敗し、三回目にしてようやく宇宙人のアニーくんを手に入れたわけだった。
「菖蒲って、それが好きなんだよな?」
「はい! だって、とっても可愛いではありませんか!」
菖蒲はアニーちゃんを胸元に抱きしめて、頬をすりすりした。
「そろそろ行こうか。日が沈むまでには必要なものを買い揃えておきたいから」
「そうですね。こうして夕貴様にプレゼントもいただきましたし」
幸せそうに蕩けた笑顔。身長差があるものだから、俺たちが見つめあうと、自然、菖蒲は上目遣いのようなかたちになる。
それがまた下手な刃物よりも殺傷性の高い武器だったりするのだ。
「……夕貴様? お顔が赤いようですけれど」
となりを歩く菖蒲が、アニーちゃんを愛おしそうに抱きしめながら、そう言った。
「えっ、そんなに顔が赤いか?」
「はい。それはもう林檎さんみたいに」
菖蒲が身を寄せてくる。数秒に一回は肩がぶつかるほど距離が近い。その顔には、心の底から俺を気遣う気配が感じられた。
平日と言えども繁華街には人が多く、様々な商店や娯楽施設が所狭しと並んだ空間には、祭りに似た喧騒が満ちている。
でも行き交う人間の全員が、菖蒲の正体には気付かない。巧妙な変装をしているわけでもないのに。
女優さんである本人曰く、
「勘違いをなさっている方も多いですが、実は大した変装をせずとも、みなさん意外とお気づきにならないものですよ。もし気付かれたとしても、わざわざ声をかけてくださる方も稀です」
なるほど、と思った。
確かに不自然にならない程度に帽子を被ってたら、目立つ行動をしないかぎり正体がバレる気配はなさそうだ。街で芸能人を見かけても、よほどのファンでない限りはそう声をかけることもないだろう。
ちなみに菖蒲の服装は、フリルのついた白のチュニックと、ややダメージの入ったショーパンに、黒のニーハイソックス、そしてローファーという組み合わせ。
清楚な菖蒲には縁のなさそうなファッションだが、彼女本人はあえて自分のイメージと正反対の服を着ているという。まわりの人たちに『高臥菖蒲があんな服を着るはずがない』と思わせることが狙いだ。まあ本人はロングスカートとかのほうが好きみたいだが。
俺は菖蒲に案内されるがままに、近場のスーパーマーケットやら薬局、洋服店、雑貨店などを回った。
女の子の買い物が長いという都市伝説みたいな話は、実は真実なのだと思い知った。菖蒲は品選びをする際に、追い詰められた棋士のごとく長考する。思わず俺が先に「参りました」と投了しそうだった。
そこそこ膨れ上がった荷物は、もちろん俺が持った。さほど重くはなかったし、なにも買わない俺はせめて荷物運びぐらいするべきだと思ったのだ。
もちろん菖蒲は「わたしも持ちます」と遠慮したのだが、そこは俺が断固として譲らなかった。女の子の前では格好をつけたくなるのが男という生き物だ。
男の俺が思いつくかぎりの日用品はあらかた買い込んだが、菖蒲には最後にもう一つだけ買いたいものがあるらしかった。
もちろん反対はしなかった。この買い物が楽しすぎて、終わらせるのがもったいないような気がしたから。
間もなく、俺は早く家に帰っておけばよかったと後悔することになる。
「……なあ菖蒲。まさかここって」
「はい夕貴様。ご覧のとおりです」
くるっと振り向いた菖蒲は、頑なに手放そうとしないアニーちゃんなるぬいぐるみを抱きしめたまま、花のような笑みを浮かべた。
「ここは、いわゆるランジェリーショップというところですね」
その言葉を聞くと同時、背中に嫌な汗が伝った。
「……だ、だよな」
「はい」
「女の子が下着を買う店だよな」
「はい」
「女の子のためだけにある店だよな」
「はい」
「男には関係ない店だよな」
「はい」
「じゃあ俺はあっちのほうでジュースでも飲んでるべきだよな」
「いいえ」
菖蒲はゆっくりと首を横に振った。
「実はですね。せっかくの機会ですから、夕貴様には菖蒲の下着を見繕っていただこうと思いまして」
「…………」
この子、正気か。
店先に突っ立っているだけでも不審者呼ばわりされそうなのに。というか、菖蒲と一緒でなければ、すでに不審者扱いされていると思う。
「い、いやぁ、べつに俺は必要ないんじゃないか? あれだろ、店内には下着に詳しい従業員のお姉さんとかいるんだろ?」
「いますよ。それがなにか?」
「あー、だから、そのお姉さんに見繕ってもらえばいいんじゃないか?」
「そうですね。夕貴様の言には一理あります」
「だろ? じゃあ、そういうことで」
「でも逆に言えば、夕貴様の言には一理しかありません」
引き返そうとした俺の正面に回りこんで、菖蒲は教師のように人差し指を立てた。
「とにかく、菖蒲は夕貴様に下着を見繕ってほしいのです。夕貴様がお選びになった下着を身につけていないと、菖蒲は夜、夕貴様とお喋りできません」
「えっ、それってどういうことだ?」
「深い意味はないですが――べつに、いざというときのために準備をしているとかではありませんよ?」
「意味が深すぎるっ!」
「確かにちょっぴり意味深な発言だったかもしれません。まあマリアナ海溝程度でしょうけれど」
「アホか! 自分から世界最大の深度と認めてどうするんだっ!」
菖蒲は周囲を伺ったあと、内緒話をするように顔を寄せてきた。その鳶色の髪からは爽やかな柑橘系の香りが、蟲惑的な身体からは俺が使っているボディーソープの匂いが、それぞれ漂っていた。
「それに、菖蒲にはどうしても下着を買わないといけない理由があるのです」
「理由、か。……もしかして壊れちまったとか?」
「いえ、違います。しかし、その下着が菖蒲にとって機能性を発揮しないという意味では、夕貴様の言うとおりでもあります」
「もったいぶった言い回しだな。つまりどういうことなんだ?」
「……なるほど。夕貴様は、あまり女性の下着に詳しくないようですね。それは良いことですよ」
よく分からないが、俺が女の下着に詳しくないことは、菖蒲にとって嬉しいことであるようだった。
「女性が下着を買い換える理由は様々ですが、突き詰めれば二つの理由に絞れてしまうのです」
「なるほど。まあ一つは、下着が壊れたり、破れたりしたときだよな。あとは失くしたとか」
「正解です。では、もう一つは?」
「うーん……」
とりあえず真剣に考えてみたが、一向に見当はつかなかった。
「はい、時間切れです」
菖蒲は楽しそうに告げる。
「もう一つの答えは、女性の胸が大きくなったとき、ですね。ちなみに今回、菖蒲が下着を買い換える理由がこれです」
そういうことか。
俺の胸は大きくなんてならないから、壊れる以外の理由で下着を買う必要性が思い浮かばなかった。……いや待てよ? ということは菖蒲の胸って、以前より大きくなってるってことか?
「……夕貴様。視線がえっちです」
「悪い。べつにそういう意味で菖蒲を見たわけじゃなかったんだ」
「そう言われるのも女として複雑ですが――まあいいでしょう。ただ真面目な話をすると、ここ最近、菖蒲の胸は少しだけ成長したようでして、そろそろ新しいのを買い換える必要があったのです」
「なんか女の子って大変だな」
「はい、夕貴様の仰るとおりです。胸が大きくても疲れるだけですし、毎晩マッサージは欠かせませんし、なにより集まる男性の視線に気疲れしますし」
マッサージか。
やっぱり女優という容姿を売りにする肩書きを持っているだけあって、ルックスを磨くのも仕事のうちみたいなものなんだろうな。
「まあ……その、あれだ。俺には女性の苦労が分からない。ちっとも、これっぽっちも分からない。だから俺が、下着を見繕うことは出来ないと思うんだよ」
「いいえ、夕貴様が下着を見繕うことは出来ます」
そう言って、菖蒲は俺の手を取った。
「簡単な話ですよ。要は、夕貴様が適当に下着を選んでくだされば、それを菖蒲が試着いたしますので、あとは夕貴様自身が見て確認すればいいのです」
「下着を試着したところを見る――ってことは、下着だけの姿になった菖蒲を見ろってことか!?」
この子、やっぱりちょっと天然入ってるな……。
俺の手を引いて先導していた菖蒲は、肩越しにこちらを見た。
「大丈夫ですよ、夕貴様。菖蒲の水着姿を見るようなものと思えば、ノープロブレムではないでしょうか?」
「どこがだ!? 問題ありまくりだろ! 水着と下着は全然違うじゃねえか!」
「そうですか? 『水』と『下』が違うだけですのに」
「そういう意味じゃねえよ! とにかく菖蒲、これはノープロブレムじゃない!」
「……あぁ、そういうことですか」
うんうん、と頷いた菖蒲は、自信ありげに微笑んだ。
「つまり、モーマンタイということですよね」
「バカっ、言い方の問題でもないっ!」
「……? えっと、それは……あぁ、今度こそ把握いたしました」
困ったような顔をしたのも一瞬――すぐに菖蒲は答えに行き着いてくれたようだった。
「やっと分かってくれたか。じゃあ」
「はい夕貴様。菖蒲としたことが、ファンタスティックの素晴らしさを差し置いてしまうとは、軽率の極みでした」
「ファンタスティックはもう忘れろぉぉぉぉっ!」
そうして俺は、ランジェリーショップに連れ込まれた。
ランジェリーショップが美しい布だとすれば、俺はそこにぽつんと浮いたシミに違いなかった。
パッと見た感じだと、この店は二階建ての構造らしく、下着の他にも多種多様な品揃えがあるようだ。店内はシックな雰囲気に満ちており、照明もどことなくピンク色を帯びている気がする。
こういうランジェリーショップは、実は男子禁制というわけではないらしいが、それでも男が入ってはいけないという暗黙の掟が、自然と成立している気がする。
さっきから俺は菖蒲の後ろに隠れるようにして歩いているのだが、それでも店にいる女の子たちが興味津々な目で俺を見てくる。
店内にいる唯一の男。それを理由に変な言いがかりをつけられては堪らないので、俺はずっと俯きながら歩いていた。でも気のせいじゃなければ、俺を観察する女の子たちの目には、嫌悪ではなく好意的な色があるように感じられた。
男連れの客はまったくおらず、ほとんどが女の子同士だった。男には分からない感覚だが、女という生き物は、下着や水着を選ぶという行為そのものに謎の楽しみを見出す生き物だ。
菖蒲に誘われるがままに、俺はランジェリーショップで何かと戦っていた。
「夕貴様のお気に召すようなものはありましたか?」
俺の前を歩いていた菖蒲が振り返った。
「いや、お気に召すも何も、どんな下着があるのか分からないし……」
「……? えっと、下着ならば、夕貴様の目の前にありますけれど」
きょとん、と小首を傾げる菖蒲。
確かに俺たちが足を止めたのは、数えるのも億劫になるほどのブラジャーがかけられた棚の前なので、どんな下着があるか確認しようとすれば簡単なのだが。
「それは分かってるけどさ。でもなんか、男の俺がこれを見てもいいのかって思うんだよ」
「ご心配なく。世の中には男性一人でランジェリーを買っていくような方もおられますから、菖蒲と一緒にいる夕貴様は、さして奇異な目で見られたりはしませんよ」
「まあ、確かに思っていたよりは大丈夫そうだけど」
俺と目が合った女性店員さんは、みんな頭を下げて「いらっしゃいませ」と言ってくれる。どうやら表向きは歓迎されているらしい。
俺が興奮と葛藤の狭間で戦っていると、背中がざわつくような気配がした。気になって振り返ってみる。すこし離れた陳列棚のあたりで、菖蒲よりもニ、三歳は上であろう美女の子二人が、俺を見てヒソヒソと何かを言い合っていた。なんか凄く楽しそうな、あるいは機嫌のよさそうな顔で、ずっと俺のことを見ている。
もうマジで帰りたいと思った。
「なあ菖蒲。あの子たち、俺のことが邪魔なんじゃないか? ずっと内緒話されてるんだけど」
「大丈夫ですよ。あの方たちは、きっと夕貴様のお美しい顔立ちに見蕩れているだけでしょう」
「そんな馬鹿な。少女漫画の見すぎなんじゃないか、おまえ」
第一、俺は美しい顔立ちなんてしてないのに。男らしさに溢れてるはずなのに。
「……なあ菖蒲。やっぱり俺が下着を選ばないと駄目なのか?」
「もちろんです。それに夕貴様は、すこし難しく考えすぎている節がありますね。わたしに似合う下着、わたしの好きそうな下着、わたしの苦手とする下着――そのようなことは一切考慮せずとも構わないのです。ただ菖蒲は、夕貴様が菖蒲に着せたいと思う下着を選んでくだされば、それで満足なのですから」
「いや、それは違うだろ。これは菖蒲の下着なんだぜ? だから菖蒲が好きなやつを選ばないと駄目だろ」
「いいえ、それも違います。だって、菖蒲が下着を見せる相手は、夕貴様だけなのですよ? ですから、夕貴様がお好みの下着を選んでくだされば万事解決です」
「うーん、俺のお好みって言ってもなぁ……」
あれが好きだからあれを買ってくれないか、と気楽に言えるようなもんでもない。
「念のため、もう一度だけ聞いておくけど、本当に俺が選ばないとだめなのか?」
「もちろんです。あっ、ですが夕貴様。例の透けてるショーツとか、布地の小さなブラジャーは止めてくださいね? 菖蒲はまだ高校生ですので、いささか早すぎるかと」
「例のってなんだ!? 俺にはそんなマニアックなものを選んだ記憶はねえぞ!」
「そうですね。現在(いま)の夕貴様は、そう仰いますよね。ですが未来の夕貴様は……ぅぅっ!」
「だから俺は何をしたんだっ!?」
「いいんです、もういいんですよ夕貴様。菖蒲は頑張ります。菖蒲も夕貴様に満足していただけるまでご奉仕いたしますから、今はいいんです」
「よくねえよ! 断っておくが、俺に特殊な性癖はねえからなっ!?」
「……分かっております。そう言って、夜は菖蒲のことを調教なさるのですよね。ですが夕貴様、さすがに牝犬や淫乱女は言いすぎだと思うのです」
「だからおまえのどんな未来を視たんだ!?」
菖蒲は物憂げに瞳を伏せ、どこか諦めの境地に達したような顔をしていた。
言っておくが、俺は健全な男だ。もちろん年相応に女の子の身体に興味はあるけど、決して世間様から蔑まれるような性癖は持っていない。
「……とにかく。俺が下着を選べばいいんだな?」
「えっ、ああ、はい。夕貴様のお好きなものを選んでいただければと」
こうなったら自棄だ。なんか恥ずかしがってると女々しい気がするので、いっそのこと積極的に下着を選んでやる。
意を決して、棚にかけられている数多のブラジャーと対峙する。女の子が直接身につけている下着はいやらしく見えるが、陳列棚に並べられている下着には不思議と興奮しない。
それにしても、こうして下着を眺めていると、色々と面白い発見がある。いままで俺は、女の子の下着なんてせいぜい色が違うだけ、と単純に考えていた。でも実際、女の子の下着は、多種多様なんて言葉じゃ言い表せないぐらいの種類や数がある。
とにかく可愛らしいタイプの下着を選べばいいだろうか。でも菖蒲は清楚だから、基本的には白色、もしくは暖色の下着がいいよな。……いや、待てよ? あえて黒とか紫みたいな妖艶な色合いの下着を選んで、菖蒲の持つ清楚な雰囲気とのギャップを楽しむというのも悪くないんじゃないか?
「あの、夕貴様? さきほどから菖蒲と下着を交互に見ていらっしゃるようですが、なにを考えているのですか?」
ちょっぴり警戒したような顔で、菖蒲はその豊満な胸を隠してしまった。それを見て、ふと思い出すことがあった。
「……なあ菖蒲。そういえば胸の大きな女の子用の下着って、あまりないんじゃなかったっけ?」
「そうですね。確かに夕貴様の仰るとおりです。ですが最近は、バストサイズの大きい女性のために、選ぶ楽しみを満喫できる程度には種類も充実しております」
「なるほど。奥が深いな……」
男の下着とは大違いだ。
察するに、女の子にとって下着とはファッションの一部なのだろう。その感覚は分からないでもないが、納得はできても理解はできそうにない。
俺たちに声がかけられたのは、そんなときだった。
「いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」
振り向くと、そこには人のよさそうな笑顔を浮かべた女性が立っていた。名札をつけているところを見ると、この店の従業員さんだろうか。
彼女は、淡いブラウンに染めた長髪を後頭部で結ってアップにし、やや露出の高いオシャレな洋服を着ている。年齢は二十代半ばぐらいで、年若い少女には出せない女の色気のようなものが漂っている。ちなみに託哉が好きそうな、かなりの美人さんだった。
「こんにちは、緋咲(ひさき)さん。ご無沙汰しております」
そのとき、菖蒲が礼儀正しく頭を下げた。
「はーい、こんにちは菖蒲ちゃん。えーっと、大体三ヶ月振りぐらいかな? すこし見ない間にずいぶんと綺麗になったねー。まあテレビのコマーシャルとかでちょいちょい見てんだけどね」
「そうでしょうか? 確かに髪が伸びましたし、すこしだけ胸も大きくなりましたけれど」
「ううん、違う違う。そういうのじゃなくて」
悪戯っ子のような流し目で、この店の従業員――緋咲さんは俺を見た。
「恋。してるみたいじゃん?」
あはは、と楽しそうに笑って、前髪をかきあげる緋咲さん。
わりと親しげに話しているようだが、この二人は知り合いなのだろうか。
「ねえねえ菖蒲ちゃん。この可愛い顔した男の子、紹介してよ」
「だ、駄目ですっ! 夕貴様は、わたしの旦那様なのです! いくら緋咲さんでも、夕貴様に手を出すことは許しません!」
「あっはー、これは本気みたいねー。まさか天下の女優『高臥菖蒲』に、男ができるなんて思ってもいなかったけどさ」
さばさばとした口調の緋咲さんは、真白い歯を見せて笑いながら、菖蒲の頭を撫でた。菖蒲は唇を尖らせていたが、緋咲さんに頭を撫でられるのは嫌いじゃないらしく、複雑そうな顔をしながらも、どことなく嬉しそうだった。
「夕貴様、ご紹介します。こちらの方は、肆条緋咲(しじょうひさき)さんと言いまして」
「そうそう、肆条緋咲(しじょうひさき)。夕貴くんの好きなように呼んでくれていいからね。緋咲ちゃんでも、お姉さんでも、おまえでも――あっ、夕貴くんさえよければセフレでもいいわよ?」
「もうっ、緋咲さん!」
「あっはー、これはびっくりだよ。菖蒲ちゃんが怒ったところなんて今まで見たことなかったのに。でも、ねえ? 夕貴くんの話題になった途端、すぐに怒っちゃうなんてさ」
緋咲さんは俺に向き直った。
「はじめまして、夕貴くん。もう一回、自己紹介しとこっか。あたしは肆条緋咲。短大出てすぐだから――まあ五年近く、この店で働いてる計算になるかな? 菖蒲ちゃんとは、この子が初めてブラジャーを買いに来たとき以来の付き合いでね。ずっと菖蒲ちゃんには贔屓にしてもらってるってわけよ」
せっかくお金持ってるんだから、もっといい店に行けばいいのにねえ、と緋咲さんは付け加えた。
でも、きっと菖蒲がこの店に通い続けるのは、緋咲さんがいるからだと思う。まだ会ったばかりだけど、それでも俺は緋咲さんに好印象を抱いていた。年上の女性だからか、包み込むような母性というか、人を安心させるような包容力があるのだ。
「なるほど、そういうことだったんですか。どうりで菖蒲と仲がいいと思いました」
「あっれー? 名前で呼び合うような仲なんだ。そういえば夕貴くん、いっぱい荷物持ってるし、もしかして二人で買い物してたの?」
「まあ、そうですね。男が荷物を持つのは当然ですし」
「ふーん。女の子みたいに綺麗な顔してるくせに、よく言うじゃん。あたし夕貴くんのこと気に入ったよ。菖蒲ちゃんに飽きたら、あたしんとこにおいでよ。お姉さんがいっぱいサービスしてあげるからさ」
緋咲さんは身体を前傾にし、胸元を指で引っ張って、なかなか立派な谷間を見せつけるようにしてきた。
ここで言い訳させていただくと、女は本能的に男性の下半身を、男は本能的に女性の上半身を見てしまうという通説がある。つまり俺が緋咲さんの胸に見蕩れてしまったのは男として当然であり、むしろ俺は本能という鎖に囚われた哀れな犠牲者とも言えるはずだ。
「夕貴様? どこを見ているのですか? まさか、他の女性の胸に見蕩れていた、なんてあるわけがないですよね?」
菖蒲が俺の腕を引っ張って、自分の胸元で抱くようにした。おかげで豊満な胸の谷間に、俺の腕が挟まってしまう。
その感触は、緋咲さんの色香に惑わされた俺を解き放つのに十分すぎた。百聞は一見にしかずと言うが、見るよりも触ったほうが色々と分かるのは確実だ。
「あっはー、夕貴くんを取られちゃった。それにしても二人、仲がいいね。身体に触れることに躊躇はなさそうだし。んー、ということは、もうエッチしたんだ?」
なんて大らかな人なんだ……。
俺は菖蒲の胸が気になって答えることができず、菖蒲も頬を真っ赤にして俯いているだけだった。
「……なぁるほど。まだセックスはしてないんだ。面白くないなぁ。二人とも早くしなよー? エッチって、病み付きになるぐらい気持ちいいんだから。……あれ、ということは? つまり夕貴くんは、まだ童貞ってこと?」
「大らかすぎるにもほどがあるわっ!」
思わずツッコミを入れてしまった。
「ふむふむ、その反応から察するに、二人とも経験なしと。いいねえ、青春だねえ。やっぱり若者はこうじゃないと。あっ、言っておくけど、あたしはまだ二十五歳だからね? ギリ若者だからね?」
むっと眉を寄せて、ここだけは譲れないと緋咲さんは注釈を入れた。
菖蒲は俺の腕を抱いたまま、ずっと離れようとしない。ちょっとでも緋咲さんが俺に近づけば、菖蒲は小動物のように威嚇するのだった。
「ありゃりゃ、怒らせちゃったみたいね。機嫌を直してよ菖蒲ちゃん。もう夕貴くんに手を出さないからさ」
「……本当ですか? 絶対ですか? 神に誓いますか?」
瞳を半眼にし、じとーとした目をする菖蒲。
「もちろんよ。お得意様の男に手を出すほど、あたしも困っちゃいないって。それで? 今日はどんな用なのかな。もしかして、また胸が大きくなっちゃった?」
こくりと菖蒲が頷くと、緋咲さんは目を見開いた。
「えっ、ほんとに? また大きくなったの? そろそろ成長が止まりそうな感じだったんだけどなぁ」
「大きくなった、とは言っても、本当に少しだけです。ただ最近、わずかに違和感のようなものがありまして」
「まあ菖蒲ちゃんほど胸が大きかったら、すこしのズレでも違和感は出るよねえ。Fカップのバストともなると、必然的に肩紐が太くなるし、それに合わせて肩も凝るだろうからね。ブラのサイズ感、ワイヤーの角度、カップの形状、パッドの有無または硬さや大きさ――そういった要素を組み合わせて厳選し、自分に合うブラジャーを探していくのが女の子の宿命。そして、そのお手伝いをするのがあたしの仕事だからさ」
緋咲さんは、ブラジャーが陳列した棚を指差した。
「言ってくれれば、あたしが菖蒲ちゃんぴったりのやつを見繕うよ? そういえば菖蒲ちゃんって、胸が大きいことを気にしてたっけ?」
「はい、多少は。胸が大きいと、苦労することが多いですし」
「だよねだよね。可愛いブラジャーは中々ないし、ぴったり目のシャツを着ると胸が強調されて人目につくし、バストに合わせた服を着るとお腹のところがダブダブになって太って見えるし、電車とか乗ると痴漢に合いやすいしね。その反面、利点と言えば、胸で挟んで男を気持ちよくしてあげることぐらいだよねー?」
ニヤニヤと笑いながら、緋咲さんは俺を見た。もちろん視線を逸らした。反応すると負けのような気がしたからだ。
「まあ最近は、胸を小さく見せるブラジャーとかもあるけどね。菖蒲ちゃんさえよければ、そういうのを試着してみてもいいんじゃない?」
「いえ、緋咲さんの提案はありがたいのですが……」
そこで菖蒲は言葉を止め、さりげなく俺を一瞥した。怪訝に眉を歪めた緋咲さんは、しかし何かに気付いたようで、ははーん、と意地の悪そうな笑みを見せた。
「なーるなる。これもまた青春の一ページってわけね。だったら、お姉さんは菖蒲ちゃんと夕貴くんのために、あえて引き下がるとしましょうか」
「あの、わたしはまだ何も言っていないのですけれど」
「口にしなくても分かってるわよー。どうせあれでしょ? 菖蒲ちゃんは、夕貴くんに下着を選んでほしいんでしょ?」
きっと顔を赤くしたのは、菖蒲じゃなくて、俺のほうだったと思う。
「彼氏連れの女性客も珍しくないしねえ。まあ、そういうお客さんは、大抵いやらしい感じの下着を買っていくんだけどさ」
相変わらず発言の随所に下ネタが盛り込まれているような気がするが、華麗にスルーした。
それから緋咲さんは、新発売された商品から、最近の流行まで、俺と菖蒲に色々な情報を教えてくれた。参考になる意見をしっかりと残してくれたあたり、なんだかんだ言っても彼女は仕事をきっちりこなす人なのだろう。
とりあえず、俺が好きなデザインのものを選び、そのブラジャーの中で菖蒲のサイズに合ったものを緋咲さんが探し出し、それを菖蒲が試着する、という流れになった。
しかし自慢じゃないが、女性の下着なんて母さんのしか見たことがなかった俺である。どうせなら菖蒲に可愛らしい下着を見繕ってやりたいが、それに必要なセンスを研ぎ澄ましたことのない俺にとって、今回のミッションは厳しいものがある。
あまり迷いすぎても優柔不断な女々しいやつと思われそうなので、ほとんど直感に任せて選ぶことにした。
萩原夕貴プロデュースの第一弾は、ピンク色を基調とした、フロントホックのブラジャーである。早速、緋咲さんが菖蒲に合いそうなサイズのものを探し出し、それを菖蒲へ渡す。やや畏まった様子で、菖蒲は試着室の中に入り、ゆっくりとカーテンを閉めた。
「いやぁ、楽しみだねえ夕貴くん。君、菖蒲ちゃんのあられもない姿を見物するんでしょ?」
試着室の前で、俺と緋咲さんは並んで立っていた。ちなみに手荷物は緋咲さんに預かってもらっている。
カーテンの向こうからは微かな衣擦れの音がして、菖蒲が服を脱いでいるのが分かる。
「まあ見ますけど。でもちょっとだけ見たら、すぐに顔を背けますんで大丈夫だと思いますよ」
「なんで顔を背けるの? じっくり見ちゃったらいいじゃない」
緋咲さんは腕を組み、近くの壁に背中を預けた。
「言っておくけど夕貴くん、覚悟してたほうがいいよ? 菖蒲ちゃんって、すっごくいやらしい身体してるんだから。肌は抜けるように白くて、胸とか腕には血管が透けて見えるのね。手足はスッとしてて細長いし、そのくせ肉付きがいいから、触ってるほうが気持ちよくなっちゃうしさ。はっきり言って、菖蒲ちゃんの裸を見て興奮しない男は、もう病気と見て間違いないわね」
「裸じゃなくて、ちゃんと下着を穿いてます。それにこれは下着の試着なんですから」
「あっはー、そうやって自分に言い聞かせてないと、女の子みたいな顔した夕貴くんでも、さすがに男の部分が出てきちゃうんだ?」
この人、いらないところで鋭いな。油断はできそうにない。
「……まあ、今は菖蒲の着替えを待ちましょう。俺のことはいいじゃないですか」
「そうだね。そういうことにしとこうか。でも、もし夕貴くんが溜まってるって言うんなら、いつでもあたしが相手してあげるよ? 夕貴くんみたいに綺麗な顔した男の子って、超タイプだったりするんだよねー」
あはは、と相も変わらず大らかに笑う緋咲さんの頬は、微かに紅潮していた。お酒を飲んだ女のひとみたいな、何とも妖艶なたたずまい。
「緋咲さん? 夕貴様には手を出さない、と先ほど約束しましたよね?」
試着室のなかから、やや尖った菖蒲の声が聞こえてきた。俺たちが振り向くのと同時に、カーテンがゆっくりと開いていく。
「……夕貴様、どうでしょうか」
自信のなさそうな菖蒲の声。でも自信がないのは本人だけで、抜群のプロポーションを保っている緋咲さんですら、菖蒲の肢体を見て息を呑んでいた。
現れたのは、ブラジャーとショーツのみを身に纏った、あられもない姿。豊かな胸も、かたちのいい鎖骨も、小さなへそも、くびれた腰も、その全てがそれ単体でも輝けるだけの魅力を兼ね揃えている。
女の子として、最上級の美しさ。
菖蒲がメディアに素肌を、水着姿を露出しなかったのは正解だろう。この完成された身体を一度でも見てしまえば、生涯に渡って劣等感に苛まれることは想像に難くないからだ。
「夕貴様?」
見蕩れていると、本人が不安そうな声を上げた。見れば彼女は、縮こまるように身体を丸めていた。
「あ、あぁ、悪い、。ょっとぼんやりしてた」
「あっはー、夕貴くんったら嘘ついちゃってさ。ほんとは菖蒲ちゃんに見蕩れてただけのくせに」
「緋咲さんっ!」
余計なことを言わないでくれ、と緋咲さんを睨んでみる。しかし、緋咲さんは悪戯っ子のように笑うだけだった。
「……見蕩れる? あの、それはつまり、菖蒲の身体が夕貴様のお気に召した、と解釈してもよろしいのでしょうか?」
「……まあ、そう解釈してもいいけど」
付き合いたてのカップルみたいなぎこちない会話だった。
「そうだ菖蒲ちゃん。どうせなら色々とポーズを取ってみてよ。なんかキメポーズとかあるんでしょー?」
「ポーズ、ですか? どうしてもと望まれるのでしたら、わたしなりに努力してみますが」
菖蒲はその場でポーズを取り始めた。胸元を強調してみたり、くびれた腰を強調してみたり、背中を向いて滑らかな背中を見せてみたり。そのすべてが扇情的だった。
本気で鼻血を出しそうになった俺は、動悸の激しい胸を押さえながら、菖蒲に背を向ける。そんな俺と菖蒲を、緋咲さんはニヤニヤした目で見つめて「じゃあ、次いってみよー」と明るく言ったのだった。