菖蒲(あやめ)が俺の家に訪ねてきた日から、すでに一週間が経過していた。
さすが高臥家のお嬢様なだけあって、菖蒲は他者と上手く共存する術を知っている。自己主張を忘れず、自分の意見はしっかりと口にする。それでいて引くべきところはきっちりと弁えており、決して相手を不快にさせない。
俺が想像していた以上に、この奇妙な共同生活は円満に進んでいた。
「ねえ夕貴。菖蒲のこと、好き?」
俺のとなりで、コップに注がれた牛乳をごくごくと飲んでいたナベリウスが言った。
「はあ? いきなり何を言い出すんだよ」
「あれ、好きじゃないの?」
「……どうかな。憧れてるのは間違いないけど」
「ふーん。なんだか釈然としないわね」
煌びやかな銀髪をかき上げながら、ナベリウスは残りの牛乳を飲み干した。そのかたわらで、俺は調理に勤しんでいた。現在時刻は午後九時であるのだから、もちろん夕食は終わっている。ゆえに俺が作っているのは夕食ではなく、夜食やデザートに分類されるものだった。
「でも、あの子――菖蒲はいい子よ。夕貴のお母様とすこしだけ似てる。まあ、あっちのほうが若干子供っぽいような気がしないでもないけど」
「違う、母さんは子供っぽいんじゃない。母さんは、いつまでも子供心を忘れない人なんだ。そこを間違えるな」
「はいはい。そういうことにしといてあげるわ」
言って、ナベリウスは冷蔵庫にもたれかかりながら、リビングのほうを見た。萩原邸はカウンター型キッチンという、リビングとキッチンが隣接しているような造りになっているので、料理をしながらでも家族と親しむことができる。
風呂上りの菖蒲はピンク色のパジャマを纏い、首にはタオルをかけて、やや火照った身体を冷ますように窓際のあたりにいた。開けた窓から入り込む夜風が、そのふんわりとした鳶色の長髪を柔らかく揺らしている。
毎朝のように水遣りを担当したがる菖蒲のことだ、きっと庭にある花壇に咲き乱れる、色とりどりの花を見つめているのだろう。
「それにしても、いきなり知らない女の子と同居なんてどうなることかと思ったけど、意外と上手くいってる感じね。まあ、未来予知なんて胡散臭い能力をどこまで信じていいものかは分からないけれど、あの子が夕貴と結ばれるっていうなら、それはわたしにとって喜ばしいことかなぁ。どこぞの馬の骨には夕貴ちゃんをやれないし」
「素晴らしくツッコミどころが満載だが――とりあえず俺を夕貴ちゃんって言うな」
「あ、そこから突っ込むんだ。やっぱり図星?」
「違うわっ! てめえが俺の輝かんばかりの男らしさにケチつけてくるから怒ってんだよっ! ついでに言わせてもらうが、いきなり知らない女の子と同居ってシチュエーションは、どこぞの銀髪悪魔のときにもう経験済みだボケ!」
「うっわ、つまり夕貴って……中古?」
「新品だっ! まだ封すら切ってない状態に決まってんだろ! 返品だって余裕でこなすわ! クーリングオフも任せろ!」
「ふーん。でも男で新品って、あまり褒められたことでもないわよ?」
「えっ、それってどういう意味だ!?」
「答えを知りたければ、今晩にでも菖蒲の寝室に潜り込むことね。わたしの見立てでは、きっと菖蒲はドMよ」
「……そ、その根拠は?」
「よくぞ聞いてくれました。まあ考えてもみなさいな。菖蒲が言ってたでしょ? わたしは未来で、夕貴にアブノーマルなことをされてましたって」
「まあ言ってたな。で、それが?」
「はーあ、夕貴は鈍いなぁ。ちょっと見方を変えれば分かるでしょうに。……あぁ、その前に一つだけ確認しておくけど、夕貴には特殊な性癖なんてないよね?」
これは紛れもない正念場だ。俺の潔白を証明せねばなるまい。
「そんなものあるわけがない、と母さんに誓う」
「神様じゃないんだ?」
「いや、神様なんぞ目じゃない。神様に誓う、という使い古された定型句が原型としたら、その最上級が、母さんに誓う、だ」
「……あっ、そう」
なぜか呆れた顔をするナベリウス。
俺はおかしなことなんて言ってない、よな?
「とにかく、夕貴に特殊な性癖はない、と仮定して話を進めましょうか。まあ、ここからは簡単な話なんだけど、夕貴に女の子を虐めて喜ぶ趣味がないとすると、じゃあ、どうしてそういうプレイに発展したか、ってところに論点が移動するでしょ? 夕貴が望んでもいないのに、恐らくは恋人か夫婦である二人の間に、そういったアブノーマルなプレイ様が降臨なさったってことは」
「……ま、まさか」
「そう、だからわたしは菖蒲がドMだと仮定したのよ。単刀直入に言いましょうか。つまり、あの子が時々口走る不吉な未来は、すべて菖蒲の性癖が発端となっていたのよっ!」
「な、なんだってぇぇぇぇっー!?」
キッチンにて、アホみたいな漫才を繰り広げる俺たちだった。
さて、あまりナベリウスに構っている時間もないので、手早く本分に戻るとしよう。
牛乳と卵と砂糖をボウルに入れて、ハンドミキサーを使ってかき混ぜる。そうして完成した黄色い液体に、四分の一カットしておいた食パンを浸していく。フライパンにはバターを入れておき、満遍なく油分と塩分が溶け切ったことを確認すると、さきほどの食パンを弱火で焼いていく。表面を黒くしてしまっては見栄えが悪いので、きつね色になった段階で裏返して、しっかりと両面に熱を通すことが大切だ。
出来上がったものを皿に載せる。用意したのは、もちろん三人分。好みはあるだろうが、俺の独断でちょっとだけシロップをかけておく。
これで、フレンチトーストの完成。
慣れれば十五分とかからない程度の手間で、喫茶店で注文するのと変わらない味が楽しめる。俺の知るレシピの中でも、フレンチトーストは特に簡単なほうだ。
ついでだから三人分の紅茶も入れて、それをリビングのダイニングテーブルに持っていく。その一連の流れを見守っていたナベリウスが、じゅるり、とわざとらしく涎を垂らしていた。
差し出されたフレンチトーストを物珍しそうな目で見つめて、菖蒲は恐る恐るといった風に黄金色のパンを口に運んだ。
「……美味しい」
それが菖蒲の第一声だった。
目に見えて喜ぶでも、子供のように笑うでもなく、ただ一言、美味しい、と菖蒲は言った。その反応が嬉しかった。
「……美味しいです。これ、夕貴様がお作りになったのですよね?」
「ああ。誰でもできる超簡単なレシピだけどな」
これは謙遜じゃなくて、本当である。
第一、菖蒲は仮にもお嬢様なのだから、普段からもっと美味しいものを食べてるはずだ。だから料理人でもない俺が作ったフレンチトーストごときに、そこまで感動するのは理に合わない。
「夕貴は女心が分かってないわね」
はむはむ、と口を動かすナベリウスが、俺の疑問を見透かしたように視線を向けてきた。
「きっと、世界一の料理人が、最高級の食材を使って、最高峰の技術を以て調理した料理よりも、菖蒲はこのフレンチトーストのほうが美味しいって言うわよ」
「なんで? 言っておくけど、俺は鳥骨鶏の卵すら使ってないぞ?」
「ちっちっち、甘いわね。まったくもって夕貴は分かってない」
そこで一瞬溜めるように、ナベリウスは紅茶を口に含んだ。
「女の子って生き物はね。理屈じゃないのよ」
無駄に格好いい台詞だった。
いつにも増して母性を感じるというか、大人びて見えるナベリウスの顔。その口周りがシロップで汚れてさえいなければ、きっと俺は素直に感動できたと思う。
しかし、ナベリウスの言葉が正しいものであると証明するように、菖蒲はとても幸せそうな顔でフレンチトーストを頬張っていた。菖蒲の口は小さいから、なんだか頑張って食べているようにも見える。小動物みたいに頬を膨らませて、とまではいかないけれど、それに近い状態だ。
ふと菖蒲と目が合う。
口に食べ物が入っている状態では喋れないのだろう――菖蒲はぱちくりと大きく瞬きをして、俺に視線だけで『なにか?』と問いかけてきた。
「いや。本当に美味いのかなぁ、って思ってさ」
ぶんぶんっ、と何度も首を縦に振る菖蒲。きっと『当たり前です!』と言っているのだろう。
「そっか。ならよかった。菖蒲の口には合わないかも、と心配してたから」
不思議そうに小首を傾げる菖蒲。たぶん『と、仰いますと?』みたいな感じのことを言いたいのだと思う。
「菖蒲は高臥家のお嬢様だろ? だから俺が作ったフレンチトーストなんかで大丈夫かなって」
今度は、むっ、と眉を歪めて視線を鋭くする。どこからどう見ても、菖蒲は不機嫌そうだった。恐らく『いくら夕貴様でも、その発言だけは聞き捨てなりません』と強く怒っているんだろう。
「……悪い。ちょっと自虐が過ぎたみたいだ。菖蒲が美味しいって思ってくれたんなら、それだけでいいよな」
俺が自嘲気味に笑いながらそう言うと、菖蒲はニコリと微笑んで、一度だけ頷いた。
その柔らかな笑顔には、人間を応援するパワーがあると思う。嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、泣きたいこと――そういう負の感情を吹き飛ばすだけの何かが、菖蒲の笑顔にはある。それを見ていると、こちらまで笑顔になってしまう。
萩原邸のリビングには、幸せそうな笑い声がずっと木霊していた。
フレンチトーストを食べ終わったあと、俺たちはそのままリビングで寛いでいた。
ただし俺と菖蒲は、リビングと庭を繋ぐウッドデッキに腰を下ろして夜風に当たっているので、正確にはリビングではなく、庭で寛いでいるといったほうが正解かもしれない。
ちなみにナベリウスのやつは、だらしくなくソファに身体を横たえて、バラエティ番組に夢中になっている。どうも、今夜のナベリウスは笑点のハードルが低いらしく、ことあるごとに笑い声が響いてくる。
「夕貴様は、お料理が上手なのですね」
真正面を見つめながら、菖蒲がぽつりと呟いた。
俺はあぐらをかき、菖蒲は三角座りをしている。ウッドデッキに並んで腰を落ち着けているものだから、俺たちの視線は交わることなく、二人して夜の帳が下りた庭を見つめていた。
「得意なわけじゃない。人並みにできる程度だ」
「それでも料理をなさる殿方は素晴らしいと思います。菖蒲はあまり料理に造詣が深くありませんので、その……」
膝の間に顔を埋めて、菖蒲は口元を隠してしまった。
「そうなのか? 俺としては一度、菖蒲の手料理を食ってみたいんだけど」
「夕貴様がそう仰られるのでしたら、菖蒲は努力いたしますが……」
菖蒲は、母親やお手伝いさんに料理を教わったことはあるが、定期的に練習はしていないらしく、いささか自信がないという話だ。もちろん包丁を初めとした料理器具の使い方は理解しているし、基本的な味付け、初歩的なレシピなども記憶しているだろう。それでも他人に満を持して料理を振舞えるか、と聞かれると、菖蒲は一抹の不安が残るというのだ。
「それでも俺は食ってみたいな。一度でいいから菖蒲の手料理を食べてみたい」
「……本当ですか?」
立てた膝の上に顔を横向きに載せて、菖蒲が俺を見てくる。よほど自信がないのか、もしくは不安なのか。微妙に瞳が潤んでいた。こういう女の子らしい仕草を見ると、なんだかドキっとしてしまう。俺は体が熱くなるのを自覚しながらも、平静を装って答えた。
「ああ。菖蒲が作ったものなら、どんな料理だって喜んで食うよ」
「……菖蒲は、夕貴様のそういうところに惹かれます」
「そういうところ?」
「はい。夕貴様はとても優しくて、温かくて、強くて、賢くて――なによりお美しいです。時々、菖蒲ごときが夕貴様と触れ合ってよろしいものかと、頭を悩めることさえあります」
「それは過大評価しすぎだろ。前から思ってたが、菖蒲は俺のことを持ち上げすぎている感があるな」
「そうでしょうか? 夕貴様こそ、自身を過小評価しすぎているように思います。菖蒲は、夕貴様ほどお美しい方を初めてお見受けしましたけれど」
「……あのな。この際だから言っておくけど、男に『可愛い』とか『綺麗』とか言っちゃだめなんだ。俺のことを間違っても『お美しい方』なんて言わないでくれ」
「……分かりました。夕貴様がそう仰られるのであれば」
納得がいかないのか、菖蒲は俺ではなく花壇の花を見つめていた。そういえば、と思った。
「なあ菖蒲。あの花、知ってるか?」
指差した先にあるのは、美しい紫色をした花。ちょうどこの時期から開花を始める花。そして俺がとある理由から大好きな花でもある。
しかし菖蒲は、あの花の名前が分からないようだった。まあ夜ということもあって庭も薄暗く、花びらの色がよく視認できないので、知っていたとしても答えを当てるのは難しいかもしれない。
「あれはな、アヤメ科アヤメ属の多年草なんだ」
「なるほど、アヤメ科アヤメ属の多年草なのですね。……えっ、あの、夕貴様?」
「どうした?」
「……アヤメ、ですか?」
まるで合わせ鏡という現象を初めて知った子供のように、菖蒲は目を丸くした。
「ああ。あれはアヤメっていう花だ。誰かさんと同じ名前だな。俺が大好きな花だよ」
「……もう、夕貴様ったら」
頬を赤くした菖蒲は、口元に手を当てて笑みをこぼした。
「そういえば菖蒲っていう名前は、誰がつけたんだ?」
「確か、お父様だったと思います。名前の由来などは聞いていないのですけれど」
「……そっか。お父さんがつけたのか」
やはり菖蒲の父親である重国(しげくに)さんは、本当に彼女のことを大切に思っているのだろう。
重国さんは【高臥】の長い歴史を鑑みた上で、自分の娘に”菖蒲”という名前を授けた。それは祈りでもあるし、願いでもある。
なぜならアヤメという名前には――
「あの、夕貴様」
「……ん? どうした?」
「いえ、その……ですね」
じっと見つめてきたかと思えば、もごもごと口ごもって顔を俯けたりと、菖蒲はとにかく落ち着きがない。
「……実は、一つだけお願いがありまして」
「お願い? ……まあ、下着を見繕ってくれ、みたいな感じのやつじゃなかったら何でも聞くぞ」
「いえ、それはまた今度です」
「次もあるのかっ!?」
慌てて振り向くと、菖蒲は「当然です」と頷いた。どうやら決定事項のようである。こほん、と咳払いをして、彼女は続けた。
「……夕貴様のお作りになったフレンチトースト、とても美味しかったですよね」
「そう言ってくれるなら、作った俺としても嬉しいよ」
まあレシピ自体は母さんに教えてもらったんだけど。
「……夕貴様のお作りになったフレンチトースト、とても美味しかったですよね」
「そう言ってくれるなら、作った俺としても……あれ?」
おかしいな。
気のせいじゃなければ、会話がループしているような。
「……夕貴様のお作りになった」
「いや、もう分かったから。一度美味しいって言ってくれただけで十分だって」
俺が苦笑すると、菖蒲は曖昧な顔をしながら右手で頭を抱えた。くしゃり、と鳶色の長髪が乱れる。
ふと、閃くことがあった。
「……もしかして、またフレンチトーストを食べたいのか?」
外れて元々で言ってみた。すると菖蒲は、ぱあ、と瞳を輝かせて、何度も何度も、それこそ子供みたいな笑みを浮かべて頷いた。
「はいっ! 夕貴様さえよろしければ、是非!」
いまからわくわくが抑えきれないようで、菖蒲は忙しなく髪を弄っていた。
「もちろんいいに決まってんだろ。そんなのお願いにも入らないよ。もし菖蒲さえよければ、俺と一緒に作ってみるか?」
「えっ?」
「だからフレンチトーストだよ。一緒に作ってみないか?」
俺としては自然な発想だったのだが、菖蒲には寝耳に水だったようだ。
彼女は、笑ったかと思えば肩を落として、気恥ずかしそうに頬を赤くしたかと思えば『駄目だ駄目だ!』と自分を引き締めるように首を振って、幸せそうにはにかんだかと思えば乙女チックに人差し指を付き合わせたり、なんとも理解できない行動を見せた。
この日の夜、俺と菖蒲は、一つの約束を交わした。子供の頃のように、小さな唄を口ずさんで、指切りを交わした。
もう一度、フレンチトーストを作ってやるという約束。今度は、二人でフレンチトーストを作ろうという約束。
俺たちの間に交わされた約束を見届けた証人はいないけれど、それでも夜空には、まるで俺と菖蒲の未来に広がる闇を切り裂くように、大きな満月が咲いていた。
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彼らは、この街において知られた存在だった。
初めは誰構わず喧嘩を仕掛けることで有名だった。暴力を誇示することに満足できなくなった頃には、裏で恫喝を繰り返して、学生や社会人から金銭を巻き上げる効率性の良さに味を占めた。
しかし警察にマークされるようになってくると、隠れて悪事を楽しむようになった。表立って発散できないストレスは、停まっている高級車を荒らしたり、マフラーを改造したバイクで暴走することによって、周囲の人間にストレスを転換させるという方法を用い、晴らしていった。
いつしか男たちは街でも畏怖の対象になっていた。いわゆるアウトローを気取る少年少女たちは、男たちを恐れ、敬い、礼儀を尽くすようになった。
娯楽を消費する人間が、そのかたちを変えない在り方に飽きを覚え、次の娯楽を求めるように、男たちが繰り返す悪事はすこしずつエスカレートしていった。
女をナンパする楽しみは、女をレイプする快楽に。クスリは使うのではなく、売る側になった。
また、クスリに手を出したことが、男たちに革命的とも言える変化をもたらした。あるとき、とある暴力団の構成員が、男たちの評判を聞きつけ、接触してきた。
男たちと暴力団の間に交わされた密談は、そう難しい話ではない。要約すれば、自分たちがケツを持ってやるから、おまえたちは若者を中心にクスリをさばけ、ということだった。
本来であれば抑止力として機能する警察は、しかし暴力団がバックにつくことで、男たちの敵ではなくなった。
暴力団と警察は、表裏一体。
暴力団は、小さな悪事を警察に摘発させて点数を稼がせノルマを達成させたり、表の権力だけでは解決できない問題を裏の力で解決してやったりと、警察側に利益をもたらす。警察は、暴力団に関わる多少の悪事を見逃してやったりするなどして、相互の損益を打ち消すような関係を築いている。
だが、いくら水面下で癒着しているとは言え、クスリをさばくのはリスクの高い行為であり、それを知っているからこそ、暴力団は男たちをライブベイトに見立てることにした。
裏の協力関係にある暴力団でも、さすがに悪事の決定的瞬間を警察に補足されてしまえば一巻の終わり。そこで男たちが緩衝材として選ばれた。いざとなれば、とかげの尻尾のように男たちを切れば、暴力団にまで罪が言及されることはない。悪事の”現行犯”さえ摘発すれば、警察は表面上は満足してくれるのだから。
相互に利益を生み、損益を消すとはいっても、互いに疎ましいと思っていることは不変の事実。さすがの警察も、違法薬物が蔓延する、という事態を静観するほど腐ってはいない。
これが現実。しょせん国家権力は抑止力であり、正義ではない。警察が内部に孕んだ闇は、組織に利益をもたらすのと同時に、切り離すことのできない問題も抱えた。それは汚職を汚職で上塗りするような、決して明るみには出来ない文字通りの闇だった。
しかし、それは男たちにとって関係のない話。
男たちは悪事の延長線上として、暴力団からクスリを買い取り、それを学生たちでも手が届くぐらいの良心的な値段で売りさばいた。
これまで万引き、ひったくり、カツアゲなどが金銭源だった男たちにとって、クスリの売買はこれまでとは比べ物にならない利益を生みだした。
また、暴力団がバックについたことで、街でアウトローとして名の知られた者たちですら、男たちに敬意を払うようになった。
男たちは突出した暴力を持っていた。それは喧嘩の強さだけではなく、危機に陥れば躊躇いもなく刃物を振り回すような、ある種の省みない暴力だった。
いい大学を出て、一流企業に勤めることが表のエリートならば、まさに男たちは、裏のエリートとも言うべき道を歩んでいたのだ。
だが、そんな生活にも、いつしか飽きがくる。
暴力団がバックについた。そう言えば聞こえはいいが、実際は都合のいい犬として飼われているだけ。
確かに男たちは順風満帆に見えるかもしれないが、それはいつ破滅を迎えるとも知れない、一寸先の見えないレールの上を走っているのと同義のはず。
現状を楽しみつつも、漠然とした不安を抱きながら、男たちは欲望の赴くままに日々を過ごしていた。
そんなときだ。
男たちの一人。荒井海斗の耳に、今までとは趣が違う情報が入ってきたのは。
本来、彼らに序列はないし、本人たちも友人だけは大切に扱う人種だったゆえに上下関係も定めていなかったが、男たちは自然と海斗をリーダーとして扱っていた。
理由はあまりない。ただ海斗がアウトローにしては頭のキレる男で、喧嘩の強さも一人だけ抜けていたからだろう。
しかし海斗は、仲間の一人――新庄一馬からもたらされた情報に、数日の間、頭を悩まされていた。苦悩、ではない。むしろ大きな利益を生むにはこの情報をどう活用するべきか、という一点だけを寝ずに考えていた。
男たちが、ここまで警察に捕まらずやってこれたのは、すべて海斗の的確な判断があったからこそ。だが、その海斗をして、一馬からもたらされた情報は扱いづらいものだった。
曰く、女優『高臥菖蒲』について。
一馬を含めた数人の仲間が、これまで築き上げた情報網を駆使することによって判明した、高臥菖蒲の住所。
決定的な情報は、愛華女学院に在学している女生徒の一人によってもたらされた。その女生徒は資産家の娘ではあるが、火遊びを求めてクスリに手を出し、今となっては薬物欲しさに男たちに股を開くような、都合のいい存在になっている。
彼女が言うには、今年の一年生、つまり愛華女学院の新入生として、高臥菖蒲が入学してきたとのことだった。
その情報を基点として探していくうちに、男たちはついに掴んだ。高臥菖蒲が、あの忌々しい女性的な顔立ちをした男と同棲していることを。
金髪にホストのような装いがトレードマークの新庄一馬は、高臥菖蒲を使って、とある男に報復がしたいと海斗に進言した。
しかし、それだけではもったいないと海斗は思う。例えば、高臥菖蒲が年頃の男と同棲している、というような話を、より過激に脚色して、雑誌社などに売り込むほうが利益は出る。とは言え、そうすることの報酬は微々たるものだろう。まだクスリを売りさばいたほうが金は稼げる。
ならば、どうするか。
ひたすらに頭を悩ませた結果、海斗は覚悟を決めた。男たちのために。自分のために。
なにより、もう終わらせるために。
男たちは覚悟を決める。
無謀だということを理解しているのは、六人の中でもきっと海斗だけ。それが成功すると思っているのは海斗を除いた五人だが、それが失敗すると思っているのは五人を除いた海斗だけだった。
復讐、金銭、色欲、娯楽、興奮、そして諦念。
六つの思惑が交差した結果、ここに一つの犯罪行為が生まれる。
海斗は言う。
かの女優『高臥菖蒲』を――してみせよう、と。
誰が知ろう。
この男たちの選択こそが――【高臥】のみならぬ、日本の表社会の経済を混乱させ、裏社会に未曾有の大抗争をもたらすような、最凶の悪手であると。