愛華(あいか)女学院は、日本でも有数の由緒正しいお嬢様学校である。
英国のパブリックスクールを原型に創設された愛華女学院は、明治初期には淑女を教育するに相応しい現場という触れ込みで周知のものとなり、一躍その名を轟かせた。
古めかしくも落ち着いた雰囲気を持つ学生寮、壮麗でありながら温かみのある校舎、連綿と受け継がれてきた伝統、社交界でも通用するような子女を育て上げる情操教育など、愛華をお嬢様学校と呼称するに値するだけの要素は枚挙に暇がない。
昭和中期までは、聖書について学ぶ授業や、特定の曜日におけるミサも取り入れられていたが、第二次世界大戦の終戦をきっかけに大規模な見直しがなされ、宗教的な概念は排除されることになった。
それでも愛華が、淑女を教育するに適当な現場であることは変わらない。
かの女学院が掲げる教育理念は、子供を清く正しく育て上げたいと願う親にとっては魅力的に見えたのだろう。事実、愛華は県内でも上位に位置する偏差値を誇ったし、部活動にも積極的で、いくつかのクラブは全国大会にもよく名を連ねた。
また、入学する生徒は、一般的な水準よりも裕福な立場にあることがほとんどだった。例えば資産家、政治家、官僚、芸能人、経営者などを親に持つ子供が、全校生徒の実に半数近くを占める
愛華を卒業したという事実は、学歴が重視されなくなりつつある現代社会においても少なくない利点を持つので、こぞって娘を入学させようとする親も多い。
今年入学した生徒の中にも、やはり政財界や芸能界にコネクションを持つ家系の出が多く見受けられた。だが特別であることが普通となりうる愛華の中において、一際”特別”な女生徒が、今年の新入生には一人いた。
老若男女を惹きつける美貌。他を凌駕して余りある出自。愛華女学院という枠の中でさえ、やはり彼女――高臥菖蒲は頭一つ抜けていた。
もちろん、その類稀なる美貌や人気を妬む女子も多かったが、一度でも菖蒲と接すれば、禍根の種は消えていくのだ。
菖蒲の人気ぶりを示すエピソードの一つとして、クラス委員を決めるホームルームでは圧倒的な他薦によって学級委員を任されそうになった。しかし、菖蒲は辞退した。学級委員は、他の委員会よりも拘束される時間が長い。女優という職業柄、菖蒲はクラスに時間を割くだけの余裕はなかった。
だが、生徒の全員が何かしらの委員に所属しなければならないという決まりがあったため、菖蒲は保健委員会に入った。一度に全校生徒が委員会に入るわけではなく、春から夏、秋から冬という二学期制に分かれて、委員が交代する仕組みだ。
なぜ保健委員会に入ったのか――と聞かれると、菖蒲は首を傾げざるを得ない。ただあえて理由を挙げるとするなら、家の関係で親しい二年上の先輩がいたからだろうか。
その日は、保健委員会の召集があり、いつもよりも遅い時間に下校することになった。
普段は参波清彦の運転する車で登下校していた菖蒲も、萩原家に居候するようになってから、基本的に徒歩が多くなっていた。心配性の父はそれを嫌がっているらしかったが、彼女は車よりも歩くほうが好きだった。
熟れた鬼灯のような夕焼けが空を赤く染める。芸術的とさえ言える美しさだった。空に見蕩れるあまり、思わず足元の段差に躓いてしまうぐらいには。
彼方に沈んでいく太陽を見つめながら、菖蒲は久しぶりの徒歩を楽しみつつ、のんびりと人道を歩いていた。
こうして一人きりになるのはずいぶん久しぶりだ、と菖蒲は思った。
彼女の周囲にはいつも人が集まる。外出するときも、父が護衛の者をつけろと決まりごとのように言う。高臥の本邸には住み込みの家政婦が大勢いて、菖蒲の世話をしてくれた。
もちろん誰かと一緒にいることは嫌いじゃない。それでもたまには一人になりたい。彼女だって年頃の女の子だ。自分だけの時間というのは貴重だった。
しかし、菖蒲はいま、一人でいるのが嫌だった。となりに誰もいないのが寂しかった。夕貴の温もりを感じたかった。彼と一緒にいるだけで、菖蒲は嬉しくて、楽しくて、幸せになる。あの人がいれば、どんな未来だって変えられるに決まっている。
はやく帰りたい。彼の顔を見たい。照れた顔、笑った顔、拗ねた顔が見たい。それだけで菖蒲は、心の底から安らげるから。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれたので、口元に手を当てる。
ここが人気のない住宅街でよかった、と菖蒲は胸を撫で下ろす。一人で思い出し笑いをするところを誰かに見られていたら、きっと今頃、恥ずかしくて居ても立ってもいられなかっただろう。
まったくの無音というわけではないし、遠くから人の喧騒やけたたましいロードノイズが聞こえるが、菖蒲の周囲は閑散としている。まったくの無人だった。
ふと排気音が耳に届いた。どうやら後方から車が接近しているらしい。邪魔になってはいけないと思い、端に寄って、歩くスピードを落とした。
大型のワゴン車が通過していく。菖蒲しか歩行者はいないのに、きちんとスピードを落として徐行している。恐らく運転ルールをしっかり守るような善人が搭乗しているのだろう。と、思った矢先、なぜかワゴン車は、菖蒲がいた地点を通り過ぎてから十メートルほど進んで、停止した。
このあたりに商店はないし、なにかトラブルが起きたようにも見えないのに、その白い大型車は停車したのだ。
怪訝に思いながらも、菖蒲は変わらぬ速度で歩く。
行儀がいいことではないと理解していたが、通りすがりにワゴン車の中を覗いてみた。だが窓には低透過率のスモークフィルムが張られており、外からでは内部の様子が伺えない。
菖蒲は不審に思いながらも、そのまま足を進めた。多少おかしな点が見受けられたとしても、その小さな違和感は、菖蒲に危機感を与えるほどのものではなかった。
そのとき、人工的な物音がした。慌しくも素早い複数人の気配。さっきの車から人が降りてきたのかな、と菖蒲は思った。彼女は肩越しに背後を見る。
もう少しだけ振り返るのが早かったのなら、未来は変わったかもしれないのに。
菖蒲の視界に飛び込んできたのは、いつか見た男たちの姿だった。金髪ホスト風の男と、陽気そうな男。彼らの後ろには、短く刈り込んだ髪にサングラスをかけた男がいた。
彼らの行動は迅速だった。あらかじめ計画していたことを伺わせる、大胆で緻密で迷いのない動きだった。
金髪の男が、数秒にも満たない間に菖蒲の身体を拘束して、口元に布を当てる。布は市販のハンカチらしく、清潔な匂いがするところから察するに、薬品の類は塗布されていない。
陽気そうな男が、手に持っていた黒い物体を、菖蒲の柔らかな腹部に押し付ける。体験したこともない全身を駆け巡り、菖蒲は声にならない悲鳴を上げた。びくん、と大きく痙攣。口元の布が、少女の叫びを掻き消す。
威力を強化した高電圧式スタンガン。それが菖蒲の自由を奪ったものの正体。電極から発した電気ショックは皮膚から神経に伝わると、全身の神経網を駆け巡って、あらゆる筋肉を硬直させる。
それでもスタンガンを食らった人間が気絶することはない。
感電後は十数分ほど放心状態になり、身体に力は入らないが、絶対に気絶はしない。意識を奪うほど強力なスタンガンは、もはや殺傷性の高い武器だ。本来、スタンガンは護身用であり、人体に害がないよう設計されている。
迸るような激痛と、感電による放心のせいで、菖蒲の身体は人形のように脱力していた。
ずるずる、と地面に倒れこみそうになった菖蒲は、もやがかかった意識の中で、金髪ホスト風の男が自分の身体を支えたのを見た。
彼らはアイコンタクトだけ交わすと、二人がかりで菖蒲を持ち上げ、運搬を開始。素早くワゴン車まで到達すると、後部座席に菖蒲を寝かして、男たちも車に乗り込む。
ここまで経過した時間、わずか二十秒。
「やっべ、俺ら天才的じゃね?」
「つーか、菖蒲ちゃんの身体が柔らかすぎてビビった」
「あ、分かる、それめっちゃ分かるわぁ。しかも、すげえいい匂いするしよ」
霧のようにかすむ意識。夕貴以外の男性に触れられた、というだけで、彼女の瞳には涙が滲んだ。
「やめろ。大事な人質だ」
鋭い一言が、浮ついていた車内に緊張を呼び戻した。
菖蒲が重い瞼を薄っすらと開いてみると、そこには髪を短く刈り込んだ男が座っていた。側頭部のあたりに何本かのラインを入れた髪型をしており、どこか他の男たちとは違う雰囲気を纏っている。その強い意志を宿した目には、一見して只者ではないと伺わせるだけの何かがあった。
「悪い、海斗。ちょっと調子に乗っちまった」
金髪ホスト風の男が頭を下げる。もう一人の陽気そうな男は車を運転しているようで、菖蒲の視界には見当たらない。
「いや、べつに俺も怒っちゃいない。でも、ここからが正念場だってことは忘れるなよ」
髪を短く刈り込んだ男――海斗は、菖蒲が持っていた学生鞄から携帯電話を取り出した。
「一馬。まずはこの携帯電話に登録されている、高臥家に関係する番号を全てコピーしろ。なるべく急げよ。終わったら、携帯からバッテリーを抜いてくれ」
「オッケー、ばっち分かったぜ。でも海斗、なんでバッテリー抜くんだよ?」
「携帯にはGPSがあるだろ。電波が受信できなかったらGPSは使えないからな。そのための用心だ」
「へー、さっすが海斗。豆知識王って呼ばれるだけのことはあるわ」
「そんなの初めて聞いたぞ。とにかく無駄話はいいから、早くしてくれ。番号をコピーし終わったら、適当に郊外を走りながら高臥家に電話をかける。さすがに何の準備もなく逆探知は出来ないと思うが、まあ念を入れるに越したことはないしな」
終わりのない夢を見ているような気分で、菖蒲は男たちの会話を聞いていた。
幸い、彼らは菖蒲に危害を加えるつもりは今のところないようだ。海斗以外の二人は、菖蒲の身体を舐めるように見つめているが、手は出してこない。
漏れ聞こえてくる会話によると、この大型のワゴン車は男たちが盗んだもので、あと数時間もしないうちに廃棄する腹積もりらしい。
身代金の要求。金の使い道。彼女の耳が、不穏が言葉をいくつか拾った。
たまに意識が途切れるものだから、彼らの思惑を明確に把握できたわけではないが、それでも菖蒲は大体の見当を立てていた。
これは、誘拐だ。
自然に発生した悪意ではなく、人為的かつ故意的に発生した悪意だ。
女優としての菖蒲か、高臥家の一人娘としての菖蒲か、あるいは女としての菖蒲を欲したのかは分からない。それでもこれは誘拐に他ならなかった。
事態を理解した途端、恐怖よりも怒りがこみ上げてきた。視界が霞み、溜まっていた涙が瞳の端から雫となって流れていく。
悔しかった。ひたすらに悔しくて、死んでしまいたいと思った。
どうしてわたしは、こうなる未来を予測できなかったのだろう。役に立たない未来、どうでもいい未来、そして見たくもない未来は何度でも垣間見るのに、どうして本当に回避したい未来だけは視えなかったのか。高臥家は、未来を予測することによって栄えたはずなのに。
せめて自分が未来の視えない、ただの女の子だったのなら、こんな悔しい想いをすることもなかったのに。
人々は未来を素晴らしいものだと謳い、信じるに値するものだと豪語するが、そんなの嘘だ。未来なんて邪魔なだけだ。こんなもの、人を惑わすだけではないか。こんなもの、人を裏切るだけじゃないか。
流れた涙は頬を伝い、乾いたシートの上に吸い込まれて湿った跡になった。
「……ゆ、う……き……さ、ま」
男たちには聞き取れない小さな声で、菖蒲はその名を呼んだ。このようなときでも、夕貴のことを思えば、救われた気持ちになれるから。
男たちに誘拐されても、肝心なときに未来が味方をしてくれなくても、夕貴だけは心を温かくしてくれる。
だって、あの少年は言ったのだ。菖蒲を護る。菖蒲の未来を信じると。世界中の人間が菖蒲の言うことを否定したとしても、俺だけはお前の未来を信じてやる。そんな恥ずかしい台詞を、心から口にしてくれたのだ。
だから諦めない。彼が味方をしてくれるのならば、菖蒲は諦めない。ずっと遠い未来、菖蒲のとなりで一緒に笑ってくれた彼さえいれば――
「――ぁ」
そのときだった。
神経が麻痺しているのにも関わらず、菖蒲の身体が震え、瞳からは大粒の涙がとめどなく流れていく。
ありえない。信じられない。悪夢、という言葉さえ生温い。これが嘘だとすれば、神様は性格が悪いなどというレベルじゃない。
菖蒲が未来を予知するタイミングには、多少の法則性がある。それは主に、リラックスしているときや身の危険が迫ったときだ。
ゆえに身の危険が迫った、いま正にこのとき、菖蒲は生まれ持った異能を発動させた。
「……い、や」
でも、こんな未来は認められない。認めていいわけがない。もしもこの未来を受け入れてしまうと、あの未来と矛盾することになる。
今回ばかりは諦めるわけにはいかない。もう一度だけ、前を向かなければならない。自分を信じると言ってくれた少年の笑顔を護るために、こんな弱い自分を抱きしめ、そして信じてくれた彼を救うために。
なぜなら。
――”萩原夕貴が死ぬ”――
そんな未来は、絶対にありえてはいけないのだから。
高臥の予知夢が絶対の的中率を誇っていることを鑑みれば、菖蒲と夕貴は結ばれるという運命にあり、必然的に夕貴はここ数年以上はなにがあっても死なない、ということになるはず。
にも関わらず、菖蒲は視てしまった。夕貴が死ぬ。そんな最悪の未来を。
「へい海斗、高臥っぽい感じの番号は全部コピーしたぜ」
新庄一馬の声がした。それと同時に、バッテリーを抜かれた菖蒲の携帯電話がシートに放り投げられる。
鋭い瞳で車内の様子を確認した海斗は、やけにゆっくりとした所作で携帯のボタンを押したあと、それを耳に押し当てた。
海底を彷彿させるような静寂の中、微かなコール音と、海斗のコンセントレーションにも似た深呼吸だけがあった。
直後。コール音が途切れ、通話口から人の気配が漏れた途端。
「こんにちは。高臥菖蒲さんを預かっている、とでも言えば分かってくれるか? とりあえず初めまして、悪人です」
そんなふざけた宣戦布告が、海斗の口から高臥関係者に伝えられたのだった。