墨染めされたような夜空に、まばゆい月が浮かんでいる。
萩原邸のリビングには、俺とナベリウス、そして玖凪託哉の姿があった。今日は久しぶりに託哉が夕飯を食っていく予定だった。このことは菖蒲にも伝えていたのだが、午後七時を過ぎても、彼女は学校から帰ってこなかった。
チャイムが鳴った。慌てて腰を上げて、駆け足で玄関に向かう。菖蒲には合鍵を渡してあるので、本来ならば彼女がチャイムを鳴らす必要はない。でも、もしかしたら鍵をなくしたのかもしれない。なくした鍵を探しているうちに、こんな遅い時間になってしまったのだ。そうに違いない。
ドアを開けると、ひんやりとした外気が肌に触れた。薄い部屋着では、いささか心もとない。
「……?」
見慣れたはずの玄関先に広がった光景を見て、俺は間抜けな反応をしてしまう。そこに菖蒲の姿はない。
萩原邸の門扉の向こう側、公共道路上には闇よりも濃密に塗装された漆黒の車が二台、停車している。周辺には気配を断つようにして、ダークスーツに身を包んだ長身の男たちが見受けらた。姿勢を正し、両手を背で組んだ彼らは、その不動の佇まいから見て、軍部や警察を通して専門的な訓練を受けた者であると推測できる。
なにより俺の視線を奪ったのは、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる一人の男性だった。恐らく四十代前半ぐらいの彼は、老いを伺わせない豊かな髪をくしで撫でつけ、新品のように卸したてのスーツを着こなしている。
彫りの深い整った顔立ちは、永遠に解けない命題に挑む哲学者のように気難しい形相を見せていた。不愉快そうに歪んだ眉と、忌々しそうに細められた瞳が、その印象をより一層強くしている。
闇さえ恐れおののくような濃密な気配。対峙した者に是非もなく降伏を促すような存在感。もしも、人の上に立つべき人間がいるとすれば、それはきっとこの男性を指すのだろう。彼は間違いなく、王としてこの場に君臨していた。
ふと微かな既視感。なんとなく、この人の顔を見たことがあるような気がする。ほとんど呆然としている俺の眼前で、その男性は足を止めた。
「お前が、萩原夕貴か」
それは質問というよりも、断定だったように思う。
明らかに訪問者としては異質の団体。警戒をするのが正解で、礼儀を尽くすのが間違いなんだろうけど、雰囲気に呑まれていた俺は、自然と敬語で対応した。
「……はい。僕が萩原夕貴で――っ!?」
不自然に言葉が途切れた。瞬間的に聴覚が停止。目の前で火花が散ったような感覚。ぐらりと揺らぐ視界。自分の意思とは裏腹に、俺は転倒。遅れて鈍い痛みが左頬に発生した。
殴られた。そう気付いたのは、俺が無様に尻もちをついてから、たっぷり十秒は経った頃だった。倒れたときに歯で口腔内を切ったのか、舌に鉄の味が広がる。
地べたに這い蹲り、口元を手で拭う俺を、先の男性が憤怒の色が滲んだ瞳で見下ろしていた。暴力を振るうことには慣れていないのだろう。彼の拳は人体を殴ったことによる衝撃に耐え切れず、皮膚が裂けて血が滴っていた。
「重国(しげくに)様。彼には手を出さないと、私に約束してくださったはずでは」
以前公園で出会った参波清彦さんが、俺と重国さんのあいだに割って入っていた。
ここまでくれば、俺の鈍った頭でも理解できる。そもそも”重国”とは、菖蒲の父親の名前だ。この、およそ常人とは比ぶべくもない威圧と存在感を持つ彼こそ、高臥の現当主。俺が重国さんを見た瞬間、なんともいえない既視感を抱いたのは、彼の顔立ちがどことなく菖蒲に似ていたから、だろう。
……なるほど。彼が高臥家の当主であるのなら、この要人を警護するように敷かれた、密かでありながら物々しい警備にも頷ける。
でも、どうして俺が殴られなきゃいけないんだ?
それに重国さんと言えども、常時これほどの人数を動員しているのは不自然に思える。高臥家には敵が多いのか、あるいは何らかの非常事態なのか。
ふらつく足に鞭を打ち、俺は壁を支えにしながら立ち上がった。
「……あなたは、菖蒲の父親ですか?」
正直に言えば、いきなり殴られたことに少なからず腹を立てていたけど、相手が菖蒲の父親なら怒鳴ることもできない。
「高臥、重国さんですよね?」
「俺の名を口にするな。虫唾が走る」
重国さんは不服そうに瞳を細めた。その眼光には、己に歯向かう者のことごとくに服従を強制するような力がある。気圧された俺は、知らずのうちに一歩退いていた。
「……さて、夕貴くん。不躾な訪問に謝罪を申したいところではありますが、状況が状況だけに時間もありません」
重国さんは汚らわしいものを見るような目で俺を見ている。だから代わりに、参波さんが事情を説明してくれた。
「単刀直入に事実だけをお伝えします。お嬢様が、誘拐されました」
”誘拐”という単語が出た瞬間、重国さんが辛そうに顔を歪めたのが印象的だった。
「……は? 誘拐?」
復唱した。
あまりにも現実味がなくて。
「はい。菖蒲お嬢様が、誘拐されました」
参波さんも復唱する。それが事実だし、そう口にするしか、表現の方法がないからだろう。
誘拐。
菖蒲が誘拐された。
誰に?
どうして?
たった四文字の言葉を満足に飲み込めず、俺は夢見心地のまま参波さんの顔を見ていた。
「重国様。彼に説明しても?」
「……お前の好きにしろ」
主の許可を得た参波さんは、呆然とする俺に事の顛末を話し始めた。
本日午後五時四十五分頃、高臥関係者のもとに『菖蒲を誘拐した』と犯人から電話があった。【高臥】には犯罪に対応するためのマニュアルが用意されており、それに従って対処を開始。五分と経たない間に、【高臥】の宗家や分家の人間にも情報の伝達が完了。
【高臥】に繋がる連絡番号は、それ相応の地位につく人間か、各位関係者にしか知らされていない。ゆえに犯人が連絡手段を確保している時点で、これは悪戯ではなく”犯罪”であると断定。
また、電話を受け取った者が、犯行声明の一部始終を録音していた。【高臥】は早急に手を回し、犯罪心理学などに長けた複数の専門家に、音源を分析を依頼。幸いなことに、犯人は変声機すら用いておらず、解析は容易だった。
”声”には人間の心理状態が現れる。訓練を積んだプロフェッショナルの人間ならば、犯人の声から犯行当時の心理や、相手の出身地、性格、年齢、身長、体重などを読み取れる。
「結論から言えば、犯人グループは二十代前後の若者です。人数は、恐らく六人。暴力団とも繋がりがありました。裏では傷害事件、恫喝、薬物の売買、集団での性的暴行などを繰り返していたようですね。不良行為と呼ぶには、やや悪質に過ぎると言ってもいいでしょう」
今回の件は、その不良行為の延長線上でしかない。だからこそ誘拐自体は大胆ではあったものの、それは綿密というには繊細さに欠け、計画的というには穴が目立ちすぎた。
犯人たちは若者なりに計画を練ったみたいだけれど、それも【高臥】という家系の持つ財力、権力、組織力を前にすれば、風の前の塵に同じ。
犯人は、走行する車内から電話をかけたという。恐らく逆探知を警戒していたんだろう。移動しながら電話することによって、位置を特定させないという寸法。
しかし技術とは日々進化しているのだ。
今では全ての電話回線がデジタルで管理されており、電気通信事業者を経由することによって即座に参照が可能になっている。つまり逆探知は、犯人グループが思っている以上に簡単ってことだ。
恐るべきは高臥一族の力か。
男たちは運が悪かった。【高臥】を敵に回した時点で、そいつらの負けは確定していた。第一、日本における誘拐事件の検挙率は限りなく百パーセントに近いのだから。
だが参波さんから、犯人グループの容姿や特徴を聞いた瞬間、俺は一週間ほど前の出来事を思い出し、同時に後悔した。
ほぼ間違いなく、菖蒲を誘拐したのは、あの三人組の仲間たちだろう。復讐にしろ報復にしろ、菖蒲を誘拐するだけの動機があいつらにはある。
でも、ちょっとした諍い――というより逆恨みか――を理由に、犯罪行為に手を染めるとは、頭が悪いにもほどがある。
菖蒲の身柄を拘束されている以上、高臥家は後手に回らざるを得ない。しかし、それは犯人側が専門的な訓練を受けていた場合の話だ。今回の相手は、たかが喧嘩に慣れた程度のアウトロー気取りが数名だけ。それなら積極的に救出作戦を展開できるらしいが――
「分かるか。何の力も持たないお前が粋がった結果が、これだ」
参波さんの説明が終わった途端、重国さんが口火を切った。
「俺が、粋がったから……ですか?」
「そうだ。お前も知らぬ存ぜぬで通すほど愚かではあるまい。思い当たる節があるだろう」
俺のせい。
俺が粋がったせい。
例えば、あの繁華街で、菖蒲があいつらに絡まれていたとき、もっと冷静に対処できていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか?
相手を逆撫でせずに、俺が耐え忍んでさえいれば、あいつらも気が済んだんじゃないのか。
菖蒲を口説かれたことや、俺の顔立ちを馬鹿にされたことに腹が立って、これでもかと反論してしまったけれど、もっと大局を見据えて行動していれば、菖蒲が誘拐されることはなかったのでは、と今更ながらに思ってしまう。
きっと重国さんは、繁華街で起きた騒動を知っているんだ。
「お前は言ったな。”俺が責任を持って、菖蒲を預かりたいと思います”と」
重国さんはポケットから小さなボイスレコーダーを取り出した。
『分かりました。俺が責任を持って、菖蒲を預かりたいと思います』
それは他の誰でもない俺の声。いつかの公園で、参波さんに頭を下げて言い放った一言。
菖蒲を溺愛しているという重国さんのことだ、俺という人間の覚悟を知るために、参波さんに会話の一部始終を録音させていても何らおかしくはない。
ふと参波さんに視線を向けてみると、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。主の命令とはいえ決まりが悪いんだろう。
「あの菖蒲が、あそこまで頑なに自分の意思を曲げず選んだ男だ。俺も期待はしていたが――結局はこの様だ。確かに、菖蒲をあらゆる脅威から護るのは個人の力では不可能と言ってもいい。それでも、お前の家に居候することを許した途端、俺の娘は悪意に巻き込まれてしまった。これは偶然か、必然か。どちらにしろお前が菖蒲を護れなかったという事実に変わりはない。いや、あいつも見る目がない。このような使えない男を選ぶとは」
「……あなたに、俺の何が分かるんですか」
一方的に罵倒されることに耐え切れず、気付けばそんな反論をしていた。重国さんが不愉快そうに舌を打つ。
「つまらん。己のことを知りもせず、知ったような口を叩かれたくないと言うわけか」
彼は続ける。
「萩原夕貴、十九歳。母子家庭。前科なし。幼少の頃から多方面に秀でた才を持ち、世間では『天才少年』、『神童』などと称される。九歳の頃、高柳書道祭と呼ばれる十四歳以下を対象とした書道コンクールにて圧倒的な支持と評価を受け、最優秀賞を受賞。その作品は、現在も学習センターのロビーにて展示。十四歳の頃、ひったくりの現行犯を独力で逮捕。警察から感謝状を授与――」
重国さんは、スーツのポケットに手を入れたまま、そらんじる。
「十五歳の頃、偏差値だけで見れば県内でも五指に入る進学校、峰ヶ崎大学付属高等学校に入学。入試を首席で通過。それにより入学式の新入生答辞を勤める。入学以後、三年間に渡って学年首位の成績を維持。十七歳の頃、全国空手道選手権大会において、個人・団体の部それぞれで好成績を収める。翌年、同大会の個人の部で準優勝、団体の部で優勝。今年の春、高校の教諭から日本でも最難関の国立大学の受験を勧められるも、そのまま繰り上がりで峰ヶ崎大学に進学。現在は母親と二人暮し。大学では主に経済学を専攻している。これで満足か?」
どうでもよさそうに。学校のテストを受けるために、仕方なく一夜漬けで覚えた知識を披露するように、重国さんは言った。
「俺は血筋、家柄、経歴では人を選ばん。その者が英雄と呼ばれていようが俺には関係ない。つまり、貴様の経歴など、俺にとっては判断材料にもなりはしない。仮にお前が地球を救うほどの偉業を成していたとしても、それは考慮に値しない。今回のケースは、菖蒲がお前を選んだという事実があったからこそ、黙認することにしたが――それも限界だ。お前ごときに菖蒲を任せるわけにはいかん」
……甘かった。
俺は、この人をみくびっていた。
娘を溺愛する父親としか聞いていなかったから、もっと人情に溢れた人だと想像していたが、実際は違った。きっと重国さんは、必要とあらば社会的底辺に位置する人間でも雇用するし、逆に必要なければ総理大臣であっても見向きしない。
人間の本質を見て、判断する。かつて聖徳太子が定めた冠位十二階と同じように、家柄や経歴といった”上辺のもの”に捉われることなく、重国さん自身が判断する。
もはや俺と交わす言葉さえ持ちたくないのか、重国さんは翻って歩き出した。
「参波。菖蒲を任せるぞ」
「心得ております」
うやうやしく礼をする参波さんを一瞥してから、重国さんが車のほうに向かう。その背を見つめながら、俺はかたわらにいる参波さんに問いかけた。
「……参波さん。菖蒲を任せるって、どういうことだよ」
「そのままの意味ですよ、夕貴くん。お嬢様を救出するために少数精鋭の臨時作戦本部が敷かれましたが、その陣頭指揮および実働部隊を担当するのが私です」
とある深刻な事情があり、警察に協力は仰げない。そこで参波さんを含めた十数名ほどのメンバーで、菖蒲の身柄を確保し、犯人グループを制圧するというのだ。
詳しい話は知らない。参波さんの能力は分からないし、勝算があるのかも不明だし、そもそもで言えば、どうして警察に協力を依頼できないのかが分からない。
でも話を聞いた俺は、逡巡する間もなく決意を固めていた。
「夕貴? 新手の宗教が勧誘でもしてるの? さすがに遅すぎるわよ」
背後からナベリウスの声。なかなか戻ってこない俺を気にして彼女もやって来たんだろう。
「悪い、ナベリウス。あとで話すから」
「はい? えっ、ちょっと、夕貴……」
足を動かす。あの大きな背中を追う。どこまでも縋りつく。いまの俺では、彼の前に立つ資格はない。だから背後に立ち、地面に頭突きする勢いで頭を下げる。
「お願いします! 俺も一緒に連れて行ってくださいっ!」
夜空に響き渡るほどの声量。近所迷惑なんて知ったことか。俺の大切な女の子の一大事なんだ。
萩原邸を包囲していた黒服の男たちが俺に注目し、重国さんの足が止まる。
「どうか、俺にチャンスをくださいっ!」
重国さんは振り返ってもくれない。俺の言葉では、この人の心を震わせることができない。それでも俺は、アスファルトの路面を見つめながら、ひたすらに叫んだ。
「……下らん。お前が犬死しようと俺の知ったことではないが、素人に参波の邪魔をさせるわけにもいかん。黙って家にいろ」
「嫌だ! それだけは聞けない!」
「威勢だけはいいな。だが、過剰な威勢を振りまく輩は往々にして恥知らずと相場が決まっている。確かに、世の物事には総じて例外が存在するが、お前がその例に漏れるようには到底見えん。負けた上に吼える犬など、目障り以外の何者でもない。なにより俺の娘を護れなかったお前に、いまさら何が出来る?」
「菖蒲を助けます」
「……なに?」
そこで重国さんは振り返る。俺は顔を上げて、真正面から重国さんと対峙した。押し潰されそうなプレッシャーに抵抗しようと拳を握り、奥歯を噛み締め、腹には力を入れる。
「貴様。菖蒲を助ける、と言ったのか」
「助けます!」
「口先だけなら何とでも言えよう。なぜお前は、菖蒲を助けようとする」
「約束したからです!」
「約束?」
「菖蒲を護ってやるって、あいつと約束したんだっ!」
「…………」
値踏みするような視線を感じる。足先から頭のてっぺんまで、まるで解剖されているような錯覚に陥るほど、重国さんは俺を観察する。
負けちゃいけない。一ミリでも圧されちゃダメだ。重国さんの持つ、圧倒的な存在感が何だ。俺が一方的に罵倒されようとそれが何だ。
恥知らず。
頭が悪い。
見込みがない。
俺ごときに菖蒲を任せるわけにはいかない、だって?
そんなもん知るか。
いくら頭を下げてでも、情けない男だと思われても、俺には護らなきゃいけないものがあるんだ。
どうしても果たしたい約束があるんだ。
絶対に、絶対に、絶対に護ってやりたい女の子がいるんだ……!
「……つまらんな。菖蒲も見る目がない」
とうとう完全に見限られてしまったのか、重国さんは俺に背を向けた。
「待ってくれ! 頼むから俺を……!」
「知らん。貴様がどうなろうと興味はないし、それは【高臥】の管轄外だ」
やっぱり、俺は無力なのか。どうあっても大切な人を護れないのか。
でも約束したんだ。菖蒲の言う未来を信じてやるって。あいつを護ってやるって。一緒にフレンチトーストを作ろうって。そう約束したんだ。
だから俺は、こんなところで諦めるわけには……!
「……もう一度だけ言おう。俺は、お前のことなど興味はないし、それは【高臥】の管轄外だ」
「え……?」
「だから、お前が勝手に参波についていこうが、お前が勝手に菖蒲を救おうと無駄な努力をしようが、俺には何の関係もない」
それだけ。突き放すような一言。でも今の俺には、神の言葉よりもありたがい一言だった。
黒塗りの高級車に重国さんが乗り込むと、すぐさまエンジンがかかり、静かなマフラー音を立てて車が動きだした。
走り去る車に向けて、俺はもう一度だけ頭を下げて、叫んだ。
「ありがとうございますっ!」
おそらく車内は防音が効いているだろうが、それでも不思議と、俺の声は重国さんに届いたような気がした。
ここに一つの光明が差した。俺は新たな決意を胸に、菖蒲を救い出すことを誓う。
今このときをもって、高臥菖蒲の救出作戦が展開することとなった。