高臥菖蒲は、心の底から辟易していた。
男たちに身柄を拘束される際、スタンガンの電気ショックを浴びせられた菖蒲は、あれから数時間経ったいまとなっても、その影響を色濃く残している。
もう痛みはほとんどないが、激しい運動をした直後のように筋肉が引きつっていた。高熱を発したときみたいに意識が朦朧としている。しばらく水分も摂っていない。水分が不足すると、眠気や脱力感、頭痛などを引き起こすが、それも菖蒲の倦怠感の一端を担っていると思われた。
卸したての制服が汚れてしまったこともショックだ。この愛華女学院の制服には思い入れがある。あの多忙な父が、何とか時間を作って入学式に顔を出してくれた。一緒に写真を撮った。制服姿を褒めてくれた。この黒を基調としたセーラー服が汚れてしまうのは、同時に思い出を汚されたような気がして、たまらなく嫌だった。
ワゴン車で輸送されている途中に気を失ってしまったので、菖蒲は自分が誘拐された直後からの詳しい経緯が分からない。
ただ、気付いた頃にはもう、菖蒲はこの見知らぬ部屋に軟禁されていた。狭くて暗くて埃っぽい、倉庫みたいな部屋。ベッドやデスクなど、申し訳程度に調度類もある。男たちが用意していた大きめのランプだけが唯一の光源だった。
菖蒲の両手は、頑丈そうな手錠によって繋がれている。それも手を背中側に回すようなかたちで拘束されているので、体幹バランスが上手く取れない。いちおう歩き回れる程度の自由はあるが、尋常ではない気だるさが身体に停滞しているので、菖蒲はぼんやりと座り尽くすしかなかった。
部屋のなかには菖蒲以外にも、見張り役の男がいた。その男こそ、菖蒲の気を滅入らせる最大の要因だった。
「ね、ねえ。菖蒲ちゃんは、好きな食べ物とかあるの?」
どこか媚びた声が、癪に触って仕方ない。
ベッドにもたれかかって座り込む菖蒲を、部屋の端から見つめる彼は、肥満体型の体をパイプ椅子に預けており、さきほどからスナック菓子をボリボリと食べている。
自分から見張り役に志願した彼は、坂倉健太という名前で、かつて菖蒲をナンパした三人組のうちの一人。
「じゃあさ、好きな動物とか、いるのかな?」
こうした意味の分からない質問を、健太は飽きずに繰り返す。もちろん菖蒲には答える義務も義理もない。自分を誘拐した連中と同じ空気を吸うのも嫌だった。
「……それにしても、菖蒲ちゃんって、本当に可愛いよねえ。俺、ずっとファンだったんだよ」
卑下た笑み。いやらしい視線が、菖蒲の身体を蛇のように這いまわる。特に健太が注目していたのは、制服の胸元を大きく押し上げるバストだ。まくれたスカートから覗く、白くて健康的な脚にも欲情の滲んだ目が向けられている。
健太が劣情を催していることは、この部屋で二人きりになったときから菖蒲も気付いていた。それでも逃げ出すことはできないので、じっと俯いて耐えるしかない。
「そういや、菖蒲ちゃんの写真集も買ったよ。でも俺的には、もっと露出して欲しかったんだけどなぁ。水着とか着る予定ないの? もったいないよ。せっかく、そんな身体してるのに」
スナック菓子の油がべっとりと付着した唇に、淫らな笑みが浮かぶ。
健太は、顔の皮膚にニキビ跡やほくろが見られ、お世辞にもルックスがいいとは言えない。菖蒲は外見で人を選ばないようにと普段から心がけているが、露骨な下心を向けてくるような相手だけは昔から苦手だった。
「菖蒲ちゃん。俺、君のファンなんだよ? せっかく写真集を買ってあげたのに、ファンの声を無視するっていうの?」
そう促されると、菖蒲も反応せざるを得なかった。
「……ありがとう、ございます」
「うっほー、可愛い声だなぁ。やっぱり俺、菖蒲ちゃんが世界で一番可愛いと思うよ。顔は見たことないぐらい綺麗だし……それに、身体だって」
健太の視線に含まれているのは、色欲。ゾクリと背筋を何かが這い上がったような気がして、菖蒲は身体を震わせた。
「ところでさ、菖蒲ちゃんって――処女だよね?」
それは少なくとも、これまで面識のなかった女性にぶつける質問ではない。
「ねえ、処女だよね?」
問いを重ねる健太の瞳は、インクで塗りつぶされたように黒く淀んでいて、菖蒲は無意識に息を呑んだ。
ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった健太が、指についたスナック菓子の粉を舐め取りながら、菖蒲のほうへ向かってくる。
「まさか菖蒲ちゃん。あの男と、ヤッたりしてないよね?」
あの男とは、まず間違いなく夕貴のことだろう。
この坂倉健太という男は、自分の容姿にコンプレックスを持っているというか、ルックスの優れた同性を好ましく思っていない節がある。
これまでの会話(とは言っても、健太が一方的に喋っていただけだが)から、そのことに菖蒲は気付いていた。
「俺、ずっと信じてたよ。菖蒲ちゃんはまだ汚れてないって。そうだよね?」
「……私に、近づかないでください」
「怯えた顔も可愛いなぁ」
「――っ!? 離してくださいっ!」
健太は膝をつき、菖蒲と目線を合わせる。間近で彼の脂ぎった顔を見て、菖蒲は全身の毛が逆立つのを感じた。
大きな手が、彼女の肩を掴む。そのまま健太は、せっかく捕らえた女性特有の柔らかな肌を逃がすまいと、握力を強めた。
「……菖蒲ちゃん、めちゃくちゃいい匂いがするんだね。それに、こんなにエロい身体して……」
健太は火照った顔で、荒い吐息を連続して吐き出す。
「もう我慢できない。菖蒲ちゃん、俺……!」
さすがに抵抗しないわけにはいかなかった。だが健太の力は予想以上に強く、逃げることは難しい。手錠により手を背中側で繋がれた菖蒲は、大した回避行動も取れず、強引にベッドに押し倒された。
夕貴様、助けて……!
そう菖蒲が祈り、現実逃避しようと瞼を閉じた瞬間、状況は変わった。
「健太。その子には危害を加えるなって、言ったよな?」
歪みが生じていた空気を矯正するような、鮮烈な声。
あれだけ猛っていた健太の動きが止まる。彼は菖蒲をベッドに押し倒したまま、見るからに狼狽した様子で、乱入してきた第三者を認めた。
「……か、海斗」
取り繕うように笑いながら、健太が立ち上がる。いまとなってはその肥満体型の身体が小さく見えた。
姿を見せたのは、荒井海斗という青年。短く刈り込んだ髪、側頭部に入ったライン、精悍な顔立ち、鋭い眼差し。男たちのリーダー格に等しい人物だった。
「まったく。健太は女を見ると人が変わるな。おまえがどうしてもって言うから見張り役を頼んだが、それは間違いだったみたいだな」
「……わ、悪い。でも菖蒲ちゃんが」
「そんな顔すんなって。べつに俺は怒っちゃいないさ。ただ、その子を傷つけるのはまずい。交渉は対等に行わなけりゃだめだ。おまえだって、せっかく手に入れた現ナマがボロボロだったら嫌だろ?」
わたしはお金と一緒ですか、と菖蒲は嫌な気分になった。海斗は苦笑しながら、部屋の片隅にあるパイプ椅子に腰掛ける。
「そういうわけで、見張り役は俺が代わる。そろそろ予定してた時刻だしな」
嫌な汗をかいていた健太は、海斗の怒りを買っていないことに安心したようだった。健太は、名残惜しそうに菖蒲の身体を舐め回すように見つめてから、すごすごと退室していった。
菖蒲は深々と安堵のため息をつき、両手を拘束されている不自由さに苦労しながらも、ベッドの上で身体を起こした。
「悪かったな。あんたも女だ。さすがに怖かったろう」
足を組んでパイプ椅子に腰を落ち着けている海斗は、携帯電話を操作しながら、菖蒲のほうを見ずに呟いた。
やはり返答する義理はないので、菖蒲は沈黙を貫く。ベッドに押し倒された際に乱れた長髪を、手で整えることも出来ないのが歯痒い。
「もう一度だけ言っておくが、俺たちはあんたに危害を加えるつもりはない。高臥さんが身代金をたんまり支払ってくれたら、無事に解放してやるさ。まあ、俺たちが捕まっても、あんたは自由の身だがな」
「……成功すると、思っているのですか?」
本当は口も聞きたくなかったのだが、どうしても疑問が晴れず、気付けば菖蒲はそんな質問をしていた。携帯の液晶を見つめていた海斗が、その鋭い眼差しを菖蒲に向ける。
「わたしを誘拐した目的は、あなたの発言から推測するに、きっとたくさんのお金なんだと思いますが……」
「それがどうした?」
「どうしたって……お金が欲しいから、という理由だけで、こんな犯罪行為を計画したのですか?」
海斗は、値踏みを計るように菖蒲を凝視した。
「……なるほど」
そして笑う。
「やっぱり、あんたはテレビで見たとおりの女だ。礼儀正しい。それに美人だしな。俺みたいな不良――いや、もう犯罪者か。とにかく俺みたいなやつにも、しっかりと敬語で対応してくれる」
”犯罪者”というワードを口にするとき、海斗が自嘲気味に唇を歪めたのを、菖蒲は見逃さなかった。
「でも、俺たちとあんたじゃ住む世界が違うんだ。なあ? あんたはお嬢様だもんな? なんの苦労もせず、恵まれた環境の中で、贅沢に暮らしてきたんだもんな。だから、金のありがたみも知らないし、金のために行動を起こす人間の心理が、分からないんだ」
「……わたしだって、お金の大切さを理解しています」
「いいや、理解していないな。現代社会において、金ってのは大雑把に分けて、二つの側面を持つ。その両方を理解しているのが俺たちで、その片方しか知らないのがあんただ」
海斗は続ける
「確かに、金ってのは人の夢を叶えるだろうよ。でも、それと同じぐらい、金は人の夢を壊すんだ。光があれば影がある、なんてのはよく聞く言葉だが、あれはマジなんだよ」
これまで金銭に困ったことのない菖蒲には、金というものがどれだけ大切で、どれだけ人の夢を阻害するかが分からない。それが海斗の言い分だった。
「例えば、こんな話をしようか。俺の親父は、一つの夢を抱いて、田舎から単身で上京した。そして、寝る間も惜しんで働いた。汗水垂らして、ギャンブルも恋もせず、ただがむしゃらに働いた。その一日の給料は、あんたがテレビでちょっと喋っただけで貰えるギャラよりもずっと低いさ。それでも、親父は死ぬ気で働いたんだ。
そんでまあ、努力ってのは、たまには報われることもあるらしい。田舎を飛び出して十年近く経った頃、ようやく親父は自分の工場を手に入れた。それが親父の夢だったんだってよ。笑っちまうだろ? 小っさな工場を仕切ることが、親父がガキんころから抱いてた夢だってんだからよ」
心底愉快そうに海斗が笑うたび、パイプ椅子のさび付いた結合部が耳障りな音を立てた。
「当時は景気もよかったらしいからな。親父の工場も軌道に乗って、娯楽に傾倒するだけの余裕もできた。親父が話そうとしなかったから詳しくは知らないが、その時期に親父とお袋は出会ったんだそうだ。そんで馬鹿みたいに意気投合した二人は、当然のように交際を始めた。
でも、仕事人間だった親父は恋愛に疎かったし、お袋もいいとこのお嬢様だったから、加減ってものを知らなかったんだろうな。ろくに避妊もしなかった結果、お袋は俺を身篭っちまった。お袋の実家は大した資産家らしくてな。もちろん結婚は反対された。んで、結局は駆け落ちっていうか、お袋が実家と縁を切ったことによって、二人はめでたく結婚。俺を出産。夫婦は順風満帆ってわけだ」
はじめは事務的だった口調も次第に高揚し、いつしか海斗の言葉には感情が乗っていた。
「しばらくして妹も生まれて、俺たち家族は順調そのものだった。でも、幸せって長く続かないのが世の摂理なんだよな。泡が弾けるような好景気も、いつしか終わって、不景気の波に変わっちまってた。その煽りをモロに食らったのが、親父の工場だ。
あれは、俺がまだガキん頃だ。今でも憶えてる。あっけなく他人の手に渡った工場を見つめる、親父の虚ろな目を。死ぬほど働いて得たものが、一瞬のうちに崩れていくんだ。あんたに分かるか? 分からねえよな? 金に困ったことのないあんたには」
「それは……!」
「いや、いい。分からなくて当然だ。こればっかりは仕方ない。誰だって生まれは選べないもんな。金持ちのあんたにも、あんたなりの苦労があるんだろう。それは理解してるつもりだ。べつにあんたを責めるつもりはないんだ」
それでも、恵まれた菖蒲には分からない不幸がこの世にはあるのだ、と海斗は告げる。
「金ってのはよ、確かに夢を叶えると思うさ。欲しいものが買えるし、したいことができる。今時、どんな不細工だって、金さえ持ってりゃ大層な美人がいくらでも寄ってくる。
だが、それと同じぐらい、金は夢を壊すんだ。例えば、詐欺まがいの手順で借金の肩代わりをしちまった人間を見てみろよ。クソみたいな大金を積まなきゃ手術も受けられない人間を見てみろよ。結局、金がなけりゃ人は生きていけないんだ。いくら綺麗事を言っても、それだけは変わらねえんだよ」
気付いた頃には、菖蒲が加害者で、海斗が被害者だ、という雰囲気が構築されつつあった。もちろん、それは雰囲気の話であって、現実は逆の立場になるが、菖蒲の心に居たたまれない感情が芽生えたことも確かだった。
「話は戻るが、工場を失った親父は荒れたよ。生きる気力を失ったんだろうな。新しい職を探すこともせず、毎日のように酒を飲んでた。それでもギャンブルには手を出さなかったから、借金がかさむようなことだけはなかったけどよ。
そんな家族を支えたのがお袋だ。お袋も元はお嬢様だったからな。早朝から夕方まで、慣れないパートで少ない金を稼いで、家計をやり繰りしてくれたよ。俺はガキなりに新聞配達なんかをやってた。妹には苦労させたくなかったし、なにより俺の頑張ってる姿を見れば、親父も目を覚ますんじゃないかって夢を見てたからな。
でも、親父は終わってた。俺たちが汗水垂らして働く姿を見ても、親父は酒を飲みながらテレビ中継の野球に怒鳴り散らすだけだった。
腐りきった親父に愛想を尽かしたお袋は、とうとう妹を連れて出ていっちまった。お袋は俺も連れて行こうとしたが、俺は親父を見捨てることが出来ず、こっちに残ったよ。んで、それ以来、お袋と妹とは連絡を取ってない」
海斗の話は、まるで不幸を題材にした物語のように現実味がなかった。少なくとも菖蒲にとっては。
それだけ、この二人の価値観は違っていた。どうやっても相容れなかった。
「俺は昔から空手をやっててな。自分で学費を稼ぎながら、なんとか時間を作ってトレーニングに打ち込んだよ。おかげで学業のほうはボロボロだったが、それでも空手は楽しかったし、俺の生き甲斐だった。でもよぉ。やっぱ人生って上手くいかねえんだよなぁ」
「……なにが、あったのですか?」
「はっ、聞いたら笑っちまうぜ? なんせ、あのクソ親父が酒代欲しさに、俺に空手を止めてバイトの時間を増やせっつーんだよ。おかげで俺たちは大喧嘩さ。でも、腐っても親父だ、実の父親を殴ることも出来ない俺に、親父は……」
ガラスで出来たボトルで、海斗は足を思いきり殴られた。砕けた破片は皮膚を深く切り裂き、一部の神経を僅かに傷つけた。海斗は、右足を高く上げることができないようになった。日常生活に支障はないが、今までと同じように空手を続けることができなくなって――
「そんで、俺は学校を止めて、街でアホみたいに喧嘩に明け暮れた。そうして俺は、あいつらと出会った。クスリは売るし、女はまわすし、どうしようもないクズの集まりだが、それでも俺たちは仲間だ。俺とは毛色が違うが、みんな、あんたには想像もつかないような過去を持ってる。金こそが力だって、みんな分かってるんだ」
「……話は分かりました。でも、こんな大それた犯罪が、成功するとお思いですか?」
菖蒲としては、精一杯の反論をしたつもりだった。
「成功、しねえだろうなぁ……」
予想に反し、海斗は苦笑を浮かべて首を振った。横に。
「では、あなた方は、どうしてわたしを誘拐したのですか?」
「身代金を頂くために決まってるさ。もちろん成功する見込みが限りなく低いってのは分かってる。それでも何十億って金をせしめることができれば……いや、それが成功しなければ俺たちは終わりなんだ」
海斗は、自分たちのグループが長くないと予想をつけている。
「健太は見境なく女を犯っちまうしよぉ……達樹はクスリにハマっちまってるしよぉ……一馬はキレるとすぐ刃物を振り回すしよぉ……」
このままでは、遠くない未来に海斗たちは破滅を迎えるだろう。いずれ海斗のグループは、将来的に暴力団の傘下に加入することが表向きは決まっているそうだが、それも嘘だという。
実際は海斗だけしか気に入られておらず、勧誘もされていない。海斗以外のメンバーは、全員使えないと見なされており、頃合を見て切り離される予定とのことだった。
「……でもよ、そんなの出来ねえだろ。どれだけ腐っていても、あいつらは俺の仲間なんだよ。クズで、頭が悪くて、喧嘩っ早い奴らだが、それでも俺にとっちゃかけがえのないダチなんだよ」
だから海斗は覚悟を決めた。なにか人生の転機となりうるような、革命的なきっかけが必要だった。
例えば、誘拐。
途方もない大金を奪いさえすれば、あとはどうにでもなる。今の時代、金さえ積めば爆弾でも拳銃でも手に入る。もちろん密航や密輸だって、裏社会とのコネクションが多少あれば、世間の人間が思っている以上に簡単だ。
菖蒲と引き換えに数十億という金を手にして、【高臥】の力が及ばない欧州か、もしくは欧米のほうに逃げる。それが海斗の計画。
もちろん不可能に近いということは分かっている。それでも不可能を可能にしなければ、自分たちは変われないのだと、この破滅にしか続かないレールから降りることができないのだと。
「だからよぉ、あんたには悪いが、せいぜい利用させてもらうぜ」
言って、海斗が携帯を耳に押し当てる。どこかに電話をかけるらしいが、この場合、海斗たちが連絡を取ろうとする相手は、恐らく【高臥】だけだろう。
「向こうがあんたの無事を確認したがってたからな。すこしだけ会話させてやるよ」
その一言を最後に、室内には静寂が戻った。菖蒲の心には、静寂が戻らなかった。
****
あれから俺たちは、参波さんの部下が運転する車で、犯人グループが潜伏してると思しきアジトに向かっていた。
こんなかたちで例の高級車に乗るとは思わなかった。居住性を重視した広い車内には、クッションの効いたソファや小さなテーブルがあり、窓にはスモークフィルムが張られている。参波さん曰く、車体は防弾仕様で、ちょっとやそっとの攻撃ならば余裕で耐えられるらしい。
実は、あれから色々と事態は変わっていた。
まず俺たちの話を聞きつけたナベリウスが「菖蒲の危機なら、わたしも手伝おうかな」と名乗り出てくれた。でも彼女は、この作戦に参加していない。その代わりに、なぜか託哉のやつが、一緒に来ることになった。
理由は分からないが、もともと参波さんはナベリウスの同行には否定的だった。結局、いつまでも話は平行線だったのだが、それを見かねた託哉が「じゃあ、オレがナベリウスさんの代わりってことで、どうだ?」などとふざけたことを抜かしやがった。しかも、それを参波さんが了承したというのだから始末が悪い。きっと俺の知らない思惑やら事情があるのだろうけど。
託哉に問い詰めようにも、こいつは車内のソファに寝転んで、のんきに居眠りをしているので、交わす言葉も持てなかった。
結局、俺は参波さんと二人で話し合いながら、目的地への到着を待っていた。
「高臥一族は、他の家系とは、あらゆる面において一線を画するのです」
どうして警察に協力を要請しないのか。そう問いかけた俺に、参波さんは躊躇うような気配を見せたものの、事情を明かしてくれると言った。
そして同時に、協力を要請しない、のではなく、協力を要請できない、とも。
「この日本という国には、表社会において、裏社会において、その力を畏怖され、畏敬され、崇拝され、神聖視される十二の家系が存在します。それぞれ【高梨】、【九紋(くもん)】、【鮮遠(せんえん)】、【朔花(さくばな)】、【如月】、【姫楓院(きふういん)】、【斑頼(まばらい)】、【哘(さそざき)】、【月夜乃(つくよの)】、【高臥】、【御巫(みかなぎ)】、【碧河(あおがわ)】。この合わせて十二の家系は、私たちの世界では、俗に十二大家(じゅうにたいけ)と呼称されます。夕貴くんも、いくつかの家名は聞いたことがあるでしょう」
例えば、高梨家は有能な高官を輩出する、いわゆる政治家の家系として有名だ。参波さん曰く、高梨家は古くから政界に根付く一族で、その規模は内政や外交にも深く関与するほどだという。
他にも日本における華道最大の流派を誇る姫楓院家。医療方面に大きな力を持つ碧河家。表社会の経済を動かす、高臥家や、如月家。
「この十二の家系は、表と裏の社会に途方もない力を持ちます。出る杭は打たれる、ということわざがありますが、十二大家はあまりにも出すぎた杭です。もはや一介の資産家や政治家が、太刀打ちできる道理はありません。同時に、この十二の家名を持つ人間に手を出すことは、私たちの世界において最も犯してはいけない禁忌でもあります」
「……でも参波さん。じゃあ、今回のケースはどうなるんだ? 菖蒲は、その……誘拐、されただろ?」
「ですから、それが問題なのです。元々、お嬢様が実名のままデビューなさったのは、【高臥】という家名を盾にするためだったのです。お嬢様が高臥家の人間と知れば、どのような悪党だろうと、まず手を出そうとは思いません。この国において、十二大家に牙を向くことは、すなわち死に直結するのですから」
だからこそ、まずい。
裏社会において、任侠と仁義の世界を仕切っているのは【哘(さそざき)】。つまり日本で起こった暴力団絡みの事件は、元を正せば【哘】に責任が帰結する。
今回、菖蒲を誘拐したやつらは裏で暴力団と繋がりがあった。
構図を明確化するなら、【哘】が、【高臥】の人間に害を成した、ということになる。
ただでさえ双方の家系は、表社会の【高臥】と、裏社会の【哘】とに住む世界が分かれているのだ。【哘】の管轄する人間が、【高臥】の一人娘に手を出したとなれば、それはもうすいませんでしたでは済まされない。
俺なんかでは想像もつかないような数多くの利権が複雑に絡み合っているせいで、一つの小さな歪みが、日本全体に壊滅的な影響を与えることだってある。
今回の場合、【高臥】は【哘】が直接的には関与していないことを理解している。だから秘密裏に事を済ませて、事態が明るみになることを回避しようとしている。そうしなければ、比喩でも何でもなく、日本がどうなるか分からないから。
警察を頼れないのもそのため。警察と暴力団は表裏一体。警察にもたらされた情報は、必ず【哘】に回る。緘口令を敷いたとしても、やはり人の口に戸は立てられない。
だから【高臥】は総力を挙げて、身内だけで救出作戦を展開することにした。
「しかしながら、今回の作戦には【高臥】の人間は一人も参加していません。すべて《参波一門》の息がかかった人間です」
要するに、信頼できる、ということか。
一通り話をした俺と参波さんは、今度は菖蒲を救出し、犯人グループを殲滅するための作戦について話し合った。まあ話し合いとはいっても、俺が一方的に情報を叩き込まれていただけだったのだけれど。
現地到着まで残り十五分と迫った頃、参波さんの携帯に着信があった。犯人グループから高臥関係者にかけられた電話は、すべて参波さんの元に回線が接続される仕組みになっている。案の定、電話は犯人グループからのものだった。
「はい。あなた方の要求どおり、こちらのほうで身代金を用意いたしました」
通話口から微かに漏れてくる男の声を聞いて、俺ははらわたが煮えくり返るような錯覚に陥った。
こいつらのせいで。
こいつらが菖蒲を、傷つけたんだ。
そう思うと、自分の無力さや迂闊さを呪うと同時に、これまで感じたことのない怒りが心を侵食するのが分かる。
「夕貴くん」
ソファに腰掛けたまま、膝の上で両拳を握っていた俺に、参波さんが電話を渡してきた。
「……参波さん、これは……?」
「いいから、出てみてください。私から言えるのは、それだけです」
犯人と交渉中のはずだが、俺が代わってもいいんだろうか?
あいつらの声を聞いた瞬間、口から罵声が飛び出さないとも限らない。むしろ怒鳴ってしまう自信がある。それでも参波さんが促すので、俺は渋々といった体で、携帯電話を耳に当てた。
「……もしもし」
口にしてから、なんとなく間抜けな第一声だな、と思った。少なくとも菖蒲を誘拐したやつらに言う台詞じゃない。
『夕貴様、ですか……?』
でも俺の鼓膜を震わせたのは、汚らわしい男の声ではなく。
「……あ、菖蒲か?」
思わず涙が出そうになった。
菖蒲が無事でいてくれたことが、この世の何よりも奇跡に思えて、神様に土下座してやりたい気分になった。
言いたいことは沢山ある。
おまえを助けてやる、とか。
あいつらに酷いことはされてねえか、とか。
護ってやれなくてごめんな、とか。
しかし、俺が何かを言うよりも早く、菖蒲は悲痛な声で、それを告げた。
『……夕貴様。菖蒲の一生のお願いを、ここで使います』
それは子供がよく口にする、相手に頼みごとをするときの枕詞として使われる決まり文句だが、この状況下では、やけに真摯な言葉として聞こえた。
「……ああ、分かってる。俺に助けてほしいってんだろ? だって約束したもんな。おまえの言う未来を信じてやるって」
『はい。約束しました』
「それなら話は早い。おまえが無事だって知れただけで百人力だ。もう怖いものなんてない。絶対におまえを助けてやるからな。だから」
『いいえ』
冷たい、否定。
「一生のお願いですから……来ないでください」
呟く声が、震えていた。
「どうか、お願いですから……」
重ねる声が、泣いていた。
「夕貴様だけは……!」
失いたくない、と。
そんな未来は見たくない、と。
菖蒲は何も言葉にしていないはずなのに、なぜか俺には、彼女の言わんとすることが理解できた。もちろん俺には未来を視ることはできない。他人の心を読むこともできないし、そもそもで言えば、女の子の気持ちを読むのも下手だ。
それでも、分かってしまった。
「……視たのか?」
『…………』
「俺が死ぬって……視たんだよな?」
『…………』
その沈黙が、暗に肯定を示していた。
これまで菖蒲が、人の死を視ても、その未来を回避できなかったのは、誰も菖蒲の言葉に耳を貸さなかったから。
つまり菖蒲の言うとおりに従えば、未来は変わるはずなのだ。垣間見た未来を修正することによって【高臥】は栄えたのだから。
かつて菖蒲の話を聞いた俺は、彼女の言葉に耳を貸さないやつは馬鹿だな、と思った。もちろん、それは『未来予知』という異能を存知している俺特有の発想だ。
一度でもいい。
菖蒲が視た”誰かの死”が、一度でもいいから回避できれば、きっと菖蒲は前を向ける。どうやっても未来は変えられない、という妄念を崩せる。頑張れば未来は変わる、という希望にすりかわる。
それでも。
「……悪い、菖蒲。そのお願いだけは、聞けねえよ」
通話口の向こうで、彼女の嗚咽がより一層の激しさを増した。
『……そん、な……どうして、ですか! 夕貴様は、約束してくれたではありませんか! ……わたしの、未来を、信じてくれるって……』
「ああ、言ったよ」
『……なら、どうしてですか……どうして、夕貴様は……夕貴様も……』
わたしの言うことを聞いてくれないんですか、と。
菖蒲は失望に染まりきった声で、希望を捨てようとしない俺をなじった。
でもよ。
仕方ねえんだ。
これだけは譲れない。
俺という人間の命だって。
いくら菖蒲との約束だって。
憧れている女の子のお願いだって。
そんな下らないチンケなもんより、俺には遥かに大事なもんがあるから。
「……悪いな。でも菖蒲は、一つだけ勘違いをしてるよ」
狼狽する気配が伝わってくる。
俺は携帯電話を強く握り締めながら、想いを吐露した。
「俺は。
自分の命よりも。
おまえとの約束よりも。
憧れてる女の子のお願いよりも。
ずっと、ずっとおまえのほうが大切なんだよ、菖蒲」
だから聞けないんだ。
菖蒲との約束を守ることは、菖蒲のお願いを聞くことは、転じて菖蒲自身を護れないってことだから。
『……バカ』
小さな、罵倒。
『……夕貴様なんか、大嫌いです』
「そっか。俺は菖蒲のこと、大好きだけどな」
不思議と笑みがこぼれた。きっと向こうでも、菖蒲が笑っていると、そう信じたい。
そうして電話は途切れた。元々、人質の無事を知らせることだけが、この電話の目的だったのだろう。
もう何が正しくて、何が間違っているのかも分からない。もしかすると、これまで菖蒲が予知した”誰かの死”は、俺みたいな自惚れ野郎にこそ降りかかるのかもしれないけれど。
それでも、いいんだ。どんな未来だって跳ね除けてやる。菖蒲を悩ませる未来なんて、俺があっけなく変えてやるんだ。
なあ、待ってろよ菖蒲。絶対に、何があってもおまえのことを助けてやるから。