作戦開始の合図は、各々が持つデジタル時計の表示だけだった。
犯人グループの潜伏先である通称”城”を攻略する上で、表口からの侵入を任された玖凪託哉は、自宅の敷居を跨ぐような気軽さで突入した。
アルミ製の扉を思いきり蹴破って、気配を殺すこともなく堂々と乗り込む姿は、慎重な作戦に必要とされる態度とはかけ離れている。
薄暗い室内に飛び込むのと同時、託哉は左右から微かな殺気を感じた。もとより防音に特化した音楽スタジオだ。風の入り込む隙間のない、空気の停滞した空間の中ならば、どんな些細な”乱れ”だって感じ取れる。
待ち構えるようなかたちで表口に潜んでいた二人の男。彼らが振り下ろした細長い角材を、託哉は器用に身を捻って回避した。
結果的に、男たちの攻撃は外れたが、それは明らかに託哉らの襲撃を予想した布陣だった。
「おいおい。勘付かれてんじゃん。坂倉健太って野郎は嘘をついてたのか? それとも参波のやつらがドジりやがったのか? まあ正味なところは、坂倉健太がアジトを出たまま帰ってこないことを怪訝に思い、あんたらも最悪の事態を想定していた。そんなところだろうな」
喧嘩に明け暮れ、手には武器を持った二人のアウトローを前にして、託哉は丸腰のまま長広舌を振るう。
「それにしても無茶したよなぁ、あんたら。【高臥】に手を出すとか、社会的に抹殺されてもマジで文句言えないぜ。いまのうちに謝れば、シャコの餌になるのだけは許してもらえるかもよ?」
まるで大学の友人に語りかけるような託哉の言葉を、男たちが悪意によって濁す。
「うるせえ! 黙って聞いてりゃ、なに舐めたクチ聞いてやがる! てめえ、サツの回しもんじゃねえだろうな!?」
不良行為の延長線上として”誘拐”という犯罪に手を染めた彼らにも、多少の危機感はあるらしい。事実、いきなり乱入してきた託哉を見て、男たちは過剰なまでに殺気立っている。
高臥菖蒲という人質を盾にしているのだから、高臥家が警察に連絡する可能性はあるかもしれない、とは予想していても、いまの託哉が見せたような能動的な襲撃をかけてくるなど、犯人グループは夢想だにしていなかったのだろう。
託哉は、参波清彦から聞いていたデータと、彼らの身体的特徴を照らし合わせた。《参波一門》は託哉にとっていけ好かない連中ではあるが、その腕だけは一流だ。情報は限りなく正確。託哉を迎え撃った男たちは、富永聡史と大久保達樹の両名と見て間違いない。
今にも噛み付いてきそうな狂犬を連想させる聡史はともかくとして、達樹のほうは日頃から薬物を常用していそうな気配がある。目の焦点や呼吸の度合いを見れば、その人間が真っ当か否か、託哉にはすぐに分かる。
まさか警察の人間だと疑われるとは思っていなかったので、託哉は失笑した。
「おまえ眼科行ったほうがいいんじゃねえ? こんな髪を明るく脱色した警官とか、実在するなら見てみたいわ」
「黙れっ! ぶっ殺すぞコラぁぁぁぁっ!」
獣のような咆哮を上げて、二人の男が左右から挟みこむように襲い掛かってくる。
「……さっきからよぉ」
これまで人を傷つけることはあっても殺すことだけはできなかった男たちが、この極限の状況においてようやく持つに至った”本物の殺意”を、玖凪託哉が否定する。
「誰に意見してんだ、てめえ」
およそ人としての感情など内包されていない、冷え切った声。
次の瞬間、乾いた破壊音と共に、木の破片が中空に撒き散らされた。それは角材が砕かれた証拠。死神の鎌のように跳ね上がった託哉の足が、男たちの首ではなく、手に持っていた武器を破壊した。
勢いよく撒かれた木の破片は、託哉にとって服を汚すゴミに過ぎないが、男たちにとっては視界を遮る目潰しに等しい。網膜に向かって迫りくる破片を見て、男たちは反射的に瞼を閉じた。
「ビビってんじゃねえよ。敵前で目を瞑るなんざ、余裕か馬鹿のどっちかだ」
続いて振りぬかれた託哉の拳が、富永聡史の鼻を砕いた。脳髄に響く強烈な痛みと、滝のように流れ出る血。それは聡史から戦意を奪い、意識さえも揺らす。
痛みに喘ぐ声がうるさい。託哉は聡史の声を封じることにした。喉に向けて貫手を放ち、みぞおちに向けて膝蹴りを打つ。呼吸を助ける役割を果たす横隔膜にもダメージを入れたので、これでしばらく満足に声も出せない。
そうこうしているうちに、大久保達樹が、託哉の無防備な背中に拳打を繰り出した。それをサイドステップでかわした託哉は、伸びきった達樹の腕を掴み取る。
ここで肝心なのは力点と支点が作用する部分。そこを見極めば、人間一人を転倒させるぐらい赤子の手を捻るよりも簡単だ。
あっけなく地面に転がる達樹。その腕を関節に負担がかかるように極めつつ、託哉は上から思いきり体重を乗せた。耳障りな音を立てて、達樹の腕に通っていた骨が折れる。
「……チ」
情けない悲鳴を上げる達樹がうっとうしかったので、彼の頭を全力で踏みつける。それがあまりにも強い力だったせいか、大口を開けていた達樹は、前歯二本を地面にぶつけてしまう。からん、と乾いた音を立てて、見た目のわりに健康そうな歯が託哉の足元に転がってきた。
「なんだこりゃ」
十秒と経たない間に、男たちは地に伏し、赤黒い液体を垂れ流すだけのアタッチメントになった。瞳に涙を浮かべて、何とか謝罪を口にしようとする達樹の頭を踏みつけ、託哉は続ける。
「てめえら、こんな様で【高臥】を敵に回しやがったのか? 冗談も大概にしとけよ。これ以上つまんねえギャグ見せられると、手元が狂って、おまえらを殺しちまいそうだ」
もう勝負はついているが、託哉の手は止まらない。頬についた返り血を拭いもせず、ガタガタと震える男たちに向けて、なおも執拗に攻撃を加えていく。
「ただでさえ《参波》のせいで苛立ってんのに、今年の春から《壱識(いちしき)》の小娘までが、この街に入り込んでるっていうじゃねえか。だからよ、こんな下らねえ害虫駆除に手を貸す暇なんざねえんだよ、オレは」
その言葉どおり、もともと託哉は、この作戦に関与するつもりなど毛頭なかった。だが萩原夕貴という少年の願いを叶えるには、託哉が手を貸してやる必要があった。
いくら高臥重国の許可が出たとはいえ、実戦訓練を積んでいない夕貴の協力を許すほど、参波清彦はお人よしじゃない。
この脆弱な犯人グループを制圧し、人質である高臥菖蒲を救出するのは、清彦一人の力でも可能だった。ただし、それは萩原夕貴という『足手まとい』がいなかったらの話。空手を学び、卓越した格闘能力を有していたとしても、実戦を知らない夕貴は不確定要素に過ぎない。
そんな裏の事情があったからこそ、託哉はこの作戦に参加した。
犯人を制圧し、菖蒲を救出するのに必要な力が十だとして、清彦一人でノルマを満たしていると仮定した場合、夕貴という存在が入ると、恐らく数字は五にまで落ちる。それでは駄目だ。だから、数字を再び十にまで押し上げるには託哉が力を貸すしかなかった。
「表口は制圧した。あとは裏口だけだ。……なぁ、オレがおまえに力を貸すのはここまでだぜ。あとはてめぇで何とかしてみせろよ、夕貴」
夕貴と清彦が裏口から侵入し、各々の戦闘を繰り広げていた頃、託哉はおもちゃで遊んでいた。
表口から《玖凪一門》の人間が襲撃するのと時を同じくして、参波清彦は萩原夕貴を伴い、裏口から侵入を開始した。
作戦が失敗するとは微塵も思っていない。それでも清彦が、いくつかの不安要素を見据えていたのは確かだ。
その最たるものが、足手まといの萩原夕貴と、強すぎる戦力である玖凪託哉だ。しかし、彼らは個別だと障害にしかならないが、二人揃うと、それぞれのプラスとマイナスが中和され、いい塩梅に働いてくれる。
つまり夕貴が入ったことによる戦力低下を託哉が補い、暴走すると予想される託哉を親友である夕貴が抑えるということだ。
薄暗い倉庫の中を駆けながら、清彦は作戦終了までの流れを脳裏で反芻する。
第一に、菖蒲の救出。
第二に、犯人グループの制圧。
第三に、玖凪託哉の暴走を阻止。
この全ての目的を同時にフォローするためには、夕貴に菖蒲の救出を担当させるのが最も摩擦のない選択だった。清彦が菖蒲のところに向かってしまうと、夕貴を危険に晒す可能性が高くなるし、なにより託哉のほうにまで目がいかなくなる。
坂倉健太の話によれば、表口付近に二人、裏口付近に二人、菖蒲の見張りが一人いるとのことだった。
事実、清彦と夕貴の前に立ちはだかったのは、金髪ホスト風の男と、陽気そうな男の二人。恐らく前者が新庄一馬、後者が高橋陽介だろう、と清彦は当たりをつけた。
現状、作戦はスムーズに進んでいる。どのような状況だろうと臨機応変に対応できるように、プランは優先度の高いものを”A”として、最悪の事態を想定した”E”まで考え、夕貴と託哉に伝えていた。しかし今のところ状況はプラン”A”のまま進んでいる。
清彦としては『表口に三人、菖蒲の見張りに二人』や、『菖蒲の見張りに二人、裏口に三人』という異色の構成だった場合を心配していた。どんな幸運な事態だろうと、それが清彦の予想していなかったものならば、忌避はしても歓迎はできない。
戦闘という行為は、その勝敗の九割近くが戦う前から決まっている。これが参波清彦の持論だった。
予定していたとおり、新庄一馬と高橋陽介の二人を清彦が引き受け、夕貴は菖蒲の監禁されている居住スペースへと向かう。
しかし、清彦たちがどうしても菖蒲を助けたいのと同様に、犯人側はどうしても菖蒲という人質を奪取させたくないというのが本音。
夕貴が居住スペースに向かっていると判断した男たちは、清彦に見向きもせず、夕貴を排除しようとした。
「てめえ! そのツラぁ忘れてねえぞ!」
長い金髪を整髪料によってセットし、ホストのような装いをした一馬が吼える。聞けば彼は、大衆の前で夕貴に恥をかかされたらしく、その逆恨みにも似た私怨が、今回の事件を引き起こしたそもそもの発端だという。
菖蒲を助けようと、無我夢中で居住スペースに向かう夕貴の背に、一馬がナイフを振り下ろそうとする。それを見逃すほど、参波清彦は優しい人間ではなかった。
「ぐっ、あっ、あぁ……!?」
男たちの足が止まる。夕貴の行動を阻害しようとしていた一馬と陽介は、混乱と苦渋が混じった声を上げると共に、まるで子供のように片足でケンケンをした。それを一瞥し、清彦は告げる。
「ふうむ、どうやら君たちに対する認識を改める必要がありそうですね。私たちの襲撃を感知してなお、童心に返る余裕をお持ちとは」
銀縁の眼鏡を外し、スーツの前ポケットにしまう。その憮然とした様子の清彦を見て、一馬は解せないと声を荒げた。
「……て、めえ……なに、しやがった!?」
一馬と陽介の利き足から滴り落ちる、赤い血。
突如として機動力の要となる足にダメージを受けた彼らは、その原因を作ったであろう清彦に視線を向ける。
少なくとも清彦は、拳銃も、ナイフも――いや、武器を所持しているようには見えない。つまり丸腰である清彦に遠距離攻撃を受けたという事実が、彼らを混乱の渦に突き落としていた。確かに清彦は、これといった武器を手に持っていなかった。表向きは。
「なにをした、と言われても困ってしまいますね。もっとご自分の目を信用なさってはいかがですか?」
「あぁ!? ふざけたこと言いやがって! マジでぶっ殺すぞ、てめえっ!」
「すみません。大声を張り上げることによって相手を威嚇したい、という君の意図は掴めるのですが、正直、耳に悪いので止めていただけますか? それと語彙力も不足しているように思います。何か不都合があればすぐ『殺す』と口にするのは、頭の悪さが露呈するので止めたほうがよろしいかと」
飽くまで冷静に返す清彦の言葉は、しかし男たちを逆上させるだけ。
「おい陽介! こいつに地獄見せんぞ!」
一馬が促し、陽介が足に流れる鋭い痛みに耐えながら金属バットを構えた瞬間、ようやく彼らは気付いた。
足に、なにか小さな物体が突き刺さっている。
一馬と陽介は、それを即座に投げナイフだと看破し、すぐさま引き抜こうとした。しかし肉を抉った刃物を取り出すのは、一般の人間が想像しているよりも遥かに大きな苦痛を伴う。
どうしてナイフを投擲されたことにも気付かなかったのか。不可解に思いながらも、ようやくナイフを引き抜いた彼らは、血に濡れた刀身を見て、すべてを理解した。
本来であれば銀色に輝くはずの刃が、闇のように黒く塗りつぶされている。それも刀身だけではなく、取っ手さえも真黒に塗装されていた。
確かに、この月光も届かぬ室内と、この影がカタチを成したような投げナイフならば、男たちに気取られずに攻撃することが可能かもしれない。
それでも男たちは、不可解だ、分からない、と顔を歪ませる。突入した瞬間から今の今まで、清彦はずっと丸腰だったはずなのに。
「まだ裏社会の入り口でイタズラをする程度なら可愛げがあったのですが、君たちも運がない。よりにもよって、菖蒲お嬢様に手を出すとは」
もう一度、清彦の手から黒塗りのナイフが放たれた。刃渡り五センチほどのそれは殺傷性こそ低いが、獲物の動きを封じるには最適。
一切の予備動作を排除した投擲運動は、警戒していたはずの一馬と陽介でさえ気付けなかった。さきほどナイフを引き抜いたばかりの箇所に寸分違わず、二本目のナイフが刺さる。まるで吸い込まれるが如く。
「私は”抜いていい”と許可していないはずですが」
身悶える二人を見据えて、清彦は告げる。
「……お、まえ……どうやって――っ!?」
声を荒げた新庄一馬は、そこで言葉を失う。
今度こそは見逃さない、と注意していた一馬の目を潜り抜けて、清彦が再びナイフを握っていたからだ。
男たちにしてみれば手品のように見えるだろうが、実際は何のことはない仕掛けである。ただスーツの袖口に仕込んでいた刃物を、次から次に取り出しているだけの話。
裏社会において、全身に仕込んだ暗器を用いて戦うことで知られる《参波一門》に生を受けた清彦にしてみれば、これは呼吸するに等しい動作。
慈悲もなく放たれた投げナイフが、男たちの利き腕に刺さった。相手の重心や、筋肉の微妙な発達の違いを見れば、普段から使っているほうの腕や足を見抜くのは容易。そして、それを真っ先に潰すのは《参波一門》の定石であり、常識だった。
ところで清彦は、よく人から「定規を当てたように真っ直ぐな背筋」と言われるが、それはある意味、この上なく的を射た発言だった。
清彦の姿勢がいいのは『紳士の嗜みとして』ではあるが、元はと言えば、それは礼儀作法のために身につけたものではない。
孫の手で背中を搔くように後ろへ手を回した清彦は、そこから一つの暗器を取り出した。
常時、背中に定規を当てるようにして隠していた『仕込み杖』。携帯するための刀。殺傷力こそ本場の日本刀に劣るが、相手に気取られることなく持ち運ぶには最適だ。
何の装飾もない質素な白鞘から刃を引き抜く。投げナイフとは違い、仕込み杖の刃は月光を吸収するような銀色。
清彦を丸腰だと思っていた男たちにとって、いきなり敵が長柄の武器を取り出したという事実は、戦意を消失させるに相応しいものだった。
それでも新庄一馬と高橋陽介は、最後の意地でナイフと金属バットを構えた。【高臥】の一人娘を誘拐した彼らは、犯罪に手を染めたのだから、この場を乗り切らないと文字通り人生が終わる。だから一馬と陽介には、逃亡や謝罪といった逃げ道は残されていない。
投げナイフの刺さった足を庇いながらも駆け寄ってくる男たち。清彦は迎え撃つのではなく、むしろ衝突するように自らも接近した。
横薙ぎに一閃する刃が、一馬のナイフを叩き折り。
返すように一閃した刃が、陽介の手から金属バットを奪い去った。
驚愕する二人は、隙だらけを越えて動かぬ的に等しい。その場で回転した清彦は、一馬の腹に回し蹴りを叩き込み、そのまま勢いを殺さず、陽介の足を仕込み杖の刃で浅く切り裂いた。
迸る激痛に耐え切れず、彼らは絶叫。
声を張り上げることは、すなわち肺にあった空気を全て吐き出すということ。肺が空っぽの状態で息が吸えなくなると、気を失ったほうが遥かにマシだと思えるほどの苦痛が訪れる。
足を押さえて蹲ろうとする陽介の腹に、清彦は拳を叩き込んだ。あまりにも的確にツボを抑えた拳は、横隔膜に強いダメージを与える。目を見開いた陽介は、口端から唾液を垂れ流しながら、その場に崩れ落ちて痙攣する。これで一時間はまともに動けないだろう。
「陽介! くっそ、てめえ!」
さきほど蹴られた腹を押さえながらも立ち上がった一馬が、神経質そうにセットされた金髪を振り乱しながら叫ぶ。
返す言葉は持たず、低姿勢を維持したまま清彦は疾走。
長い金髪を乱暴に掴んだ清彦は、近場にあったコンクリートの壁に一馬の頭を打ち付ける。顔面に衝撃を受けた一馬は、鼻血を出しながら悶絶した。
清彦は、右手にあった仕込み杖を捨てると、袖口から投げナイフを一本取り出す。時を同じくして、左手で一馬の手を掴むと、それを近くにあった木製のテーブルに載せた。
そして、テーブルに一馬の手を縫いつけるように、清彦はナイフを振り下ろす。
「ぐっ――ああぁああぁ、あああぁぁぁぁぁっ!」
「大の男がみっともない。私は顔の肉を切り裂かれたことがありますが、声一つ上げませんでしたよ」
そう言って、清彦はずり下がった眼鏡を上げようとした。しかし、そういえば胸のポケットにしまったままだったことを思い出し、ため息とともに眼鏡を装着。
「それと」
仕込み杖の刀身を白鞘にしまい、それを背中に戻してから、清彦は言った。
「口の聞き方には気をつけたほうがいい。”てめえ”と言われる度に、貴様を殺そうと我慢するのが大変だった」
反論する声は皆無。もう新庄一馬と高橋陽介の二人には、戦意も、敵意も、殺意もなかった。
その他を寄せ付けぬ圧倒的な暴力によって、日本の裏社会に広く名を轟かせる零から玖の漢数字を冠する家系は、俗に《武門十家(ぶもんじっけ)》と呼ばれる。
《武門十家》は、純粋な名声こそ《十二大家》に劣るものの、それぞれの家系が特異かつ特殊な格闘術を継承しており、裏社会において悪名的なネームバリューを持つ。
よって《参波一門》を知らなかった時点で、この男たちは”ひよっこ”と言える。
「これは……まずいですね」
閉鎖された空間に生じた暴力的な”乱れ”を感じ取るのは、そう難しいことではない。
この音楽スタジオに改造された倉庫の中、表口のほうから、過剰なまでの”乱れ”を清彦は感じた。恐らく玖凪託哉が、犯人グループの一部を制圧してなお執拗に攻撃を加え続けているのだろう。
菖蒲の救出に向かった夕貴は、どうやら無事のようだ。誰かと争っている気配こそするものの、状況は夕貴のほうが圧倒的に有利で、間もなく決着もつきそうだった。空手で全国二位にまで上り詰めた実力は本物らしい。
一呼吸の間だけ思考に時間を費やした清彦は、まず託哉を止めることにした。犯人は全員生かして捕えたいというのが【高臥】および《参波一門》の総意。
そうして歩み去る清彦は、聡明な彼にしては珍しく、新庄一馬の目に狂った光が宿っていたことに気付いていなかった。
****
菖蒲が監禁されている居住スペースに踏み入った瞬間、俺という侵入者を排除しようと横合いから拳が飛んできた。
回避は間に合わない。咄嗟に右腕を盾にすることにより、なんとか顔面へのダメージを防ぐことができた。顔には顎や目を始めとした人体急所が密集しているので、何を差し置いても守らなくちゃいけない。
防御した右腕に重たい衝撃が伝わり、骨の髄まで痺れが走る。これは間違いなく武道を嗜む人間の攻撃だった。
一方的な展開になることだけは避けたい。とりあえず抵抗の意を示すために、俺は攻撃が飛んできた方向に向かって闇雲に拳を繰り出した。
手応えは、ない。
でも相手が飛びのいたような気配があった。
「あの体勢から反撃するとか無茶苦茶だな、おまえ」
呆れたような、それでいて、どこか褒め称えるような声。
ほとんど真っ暗と言ってもいい室内に満ちた闇を、小さなランプの明かりが所在なさげに削っている。薄ぼんやりと浮かび上がる視界には、簡易ベッドや本棚、デスク、チェアーなどが見受けられた。そして――
「……夕貴、さま」
ぽつりと漏れたのは、幽霊を見たかのような声。
簡易ベッドの近くに――菖蒲の姿があった。
両手を手錠によって繋がれ、身体や制服に埃を被り、美しい鳶色の長髪は乱れていたが――それでも菖蒲は、気弱そうに明かりを放つランプよりも、光っているように見えた。
明らかに憔悴した面持ちの菖蒲は、無事だった。
確かに清潔とは言えない様子ではあるけれど、あいつらに何かをされた痕跡はないし、ちょっとだけ眠そうにした二重瞼の瞳も、まだ力を失っていない。
すぐさま菖蒲に駆け寄りたいというのが本音だけど、そう上手く事が運ぶはずもない。
俺と菖蒲を隔てるようにして、一人の男が立っている。精悍な顔立ち、短く刈り込んだ髪、側頭部に入ったライン、鍛え抜かれた身体、なにかを為そうとする意思に満ちた瞳。ただ一目見ただけだが分かった。こいつが坂倉健太の言っていた、犯人グループのリーダーである荒井海斗だと。
ちくしょう、手の届く距離に菖蒲がいるってのに……!
歯噛みする俺とは対照的に、荒井海斗は泰然とした笑みを浮かべる。
「なるほど。おまえが一馬の言ってた萩原夕貴か。確かに女みてえな顔してやがる」
「んなもん知るか。そこを退け」
「おいおい、女しか目に入らないってか? さすが全国空手道選手権大会で名を馳せた男は違うな」
「……なんで、それを知ってる」
「さあな。でも一度でいいから、お前と闘り合ってみたかった。夢は親父に潰されちまったが、それでもお前をぶっ倒すことができりゃあ、俺もいくらか救われるよ」
荒井海斗は構える。明らかに空手か、それに準ずる武道に通じている者の構えだった。
「勝手に救われてろ。俺は空手になんか興味ねえよ。ただガキなりに強さってのを求めて適当な武道に手を出したら、それが空手だっただけの話だ」
小さい頃は、母さんを護るに相応しい男になろうと必死だった。子ども扱いされることが嫌だった。誰かに褒められても嬉しくなかったし、誰かに褒められるために頑張ってきたんじゃない。
ただ、母さんを護りたい。
そう願って、努力して、手に入れた今の強さが、俺の誇りだ。
この力があれば、菖蒲を護れると俺は確信している。
未来は変わる。
俺が死ぬなんて未来は、あっさりと変わるんだ。菖蒲の見ている前で、俺は生きて、あいつを救ってやるんだ。
第一、俺ほど男らしいやつが死ぬなんて、世界にしてみれば途方もない損失だろうし。
ふと、菖蒲を見つめてみる。すると彼女は、今にも泣きそうな目で俺を見ていた。見守ってくれていた。それに笑顔で頷いて、俺は荒井海斗に向き直る。
「行くぞ」
海斗が言って。
「勝手に来いよ」
俺が返す。
言い終わるが早いか、海斗の姿がブレたように見えた。予想していたよりも遥かに洗練された動き。これほどの腕前ならば、現役の頃はさぞかし有名だったはずだが、俺は『荒井海斗』という名前を聞いた覚えがない。
一息の間に接近してきた海斗が、鋭い呼気を吐き出しながら、拳を繰り出してきた。獣のように荒々しく、機械のように正確無比な、理想的と言ってもいいほどの拳打。
それを回避せず、防御せず、俺は――俺も、パンチを繰り出してやった。
「――っ!?」
驚きは二連。
互いの顔面に拳がクリーンヒットした衝撃で、俺たちは同時にたたらを踏んだ。
一瞬、気が遠くなる。
それでも俺は菖蒲を救うため、海斗は菖蒲を奪わせないため。それぞれ違った目的のために顔を上げる。
「……お前、馬鹿だろ」
口から血の混じった唾を吐き出して、海斗が笑う。
「うるせえ。てめえこそ馬鹿だろうが」
真似したつもりは微塵もないが、俺も口から血の混じった唾を吐き出し、笑ってやった。自分たちでもなぜ可笑しいのか分からないが、不思議と笑みがこぼれるのだ。
いまの俺には遠回りする余裕なんてない。多少、傷ついてもいい。ただ真っ直ぐに、菖蒲の元に向かいたい。立ちふさがる障害物が壁だろうが人だろうが、あるいは拳だろうが関係ない。全部、真正面からぶっ潰してやる。
互いに距離を保ち、タイミングを計る。
「……?」
冷静に海斗の姿を観察していると、微かな違和感に気付いた。
武道において重心は基本であり、それを効率よく動かすのが軸足だ。
体重を乗せた足を”実の足”、体重を浮かせた足を”虚の足”と呼ぶ。”実の足”に十の体重を乗せた場合、”虚の足”の体重は零にする。スムーズに攻撃の動作に移るためには、この”虚実”を併せ持った状態を維持するのが前提。
にも関わらず、海斗の重心が微妙にズレているというか……そう、アンバランスなのだ。まるで片足を庇っているような動き。かつて俺は、大きな怪我を負った人間が、リハビリ明けに練習に顔を出したとき、あんな動きをしていたことを道場で見た記憶がある。
なんとなくだけど、分かってしまった。
きっとこの荒井海斗という男は、選手生命に関わるような大怪我を負い、表の舞台に立てなくなったんだ。
本来であれば手加減の一つもしたいところだが、それは荒井海斗にとって、侮辱にしかならないだろう。
だから、全力で行かせてもらおう!
素早く駆け寄った俺は、大きく身体を捻り、腰を限界まで使った上段回し蹴りを仕掛けた。相手の側頭部を狙いとして、海斗という男の存在さえも刈り取るつもりで、手加減なしの蹴りを放つ。
回避は間に合わないと悟ったのか、海斗は左腕を上げて防御に徹して――瞬間、確かな手応えが、互いの身体を駆け抜けた。
海斗は苦痛に顔を歪めながらも、俺の脚を払いのけて、攻撃に転じる。
その動きを観察する。いまの海斗は、右足が”実の足”、左足が”虚の足”という状態。
よって、何らかのアクションに出るためには、海斗は右足を”虚の足”、左足を”実の足”に変えるようにして重心を移動させる必要がある。
でも一連の動きを見ていて何となく分かったが、海斗は右足に重心を乗せることに抵抗感がある。恐らく、かつて怪我をしたとき、右足を庇うように生活していた影響が無意識のうちに出ているのだろう。
俺の思惑どおり、海斗は右足から左足に重心を移動させながら、拳打を放った。
しかし、シフトウェイトに齟齬が生じ、維持しなければならないはずの”虚実”に微かな綻びが発生した。
それは転じて、この確かな武道の才を持った荒井海斗という男に隙をもたらし、純粋な才能だけならば劣る俺に絶対的な好機を生んだ。
迫りくる拳をいなし、俺自身は完璧な”虚実”を併せ持ちながら、海斗に反撃する。
だが右足に重心を乗せることに抵抗感を持つ海斗は、効率よく”虚実”の変換ができない。いま現在、彼は左足に体重を乗せ、右足を浮かせている状態。それが攻撃の姿勢だとすると、右足に体重を戻すことが防御の姿勢なのだが、過去に負った何らかのトラウマが、海斗のシフトウェイトを阻害する。
勝敗は、あっさりと決した。
躊躇いもなく骨を折ることはできないが、躊躇いもなく海斗を戦闘不能に追いやった。荒い息をつきながら、大の字になって床に寝転ぶ海斗に、俺は告げる。
「……強いな、おまえ」
海斗は精悍な顔立ちに似つかわしくない、きょとん、とした目をしたあと、満足げに笑った。それはどこか、長いマラソンを走り終えた人間の顔に似ていた。
「……ありがとうな」
なぜか、海斗は礼を言った。まるで、こんな自分と決闘してくれたことを感謝するように。
できるなら、この荒井海斗という男とは、本当の大舞台で、正々堂々と、互いの体調が万全のときに試合してみたかったと俺は思った。
肺に溜まった熱い息を吐き出し、菖蒲に向き直る。全てをやり遂げたような満足感が身体を包んでいた。
菖蒲を護ってやることができた。重国さんがくれたチャンスを生かすことができた。なにより菖蒲の視た”萩原夕貴の死”という未来を、菖蒲の見ている前で変えてやることができたんだ。
ゆっくりと歩き出そうとした俺は、菖蒲が何かを叫んでいることに気が付いた。
「――ゆ、っ――さま――し――!」
なぜか耳が遠くなって、よく聞こえない。
水の中に潜ったときのように視界がおぼつかず、ぐらぐらと脳が揺れる。背中が燃えるように熱い。まるで焼けるように。灼熱が迸る、という表現がぴったりの、熱。
足が揺らぎ、真っ直ぐ立つことができず、俺は顔から地面に倒れてしまった。鈍い痛みが頬に生じ、俺は顔を歪める。が、やはり背中の熱さのほうが気になって、他のことにまで思考が回らない。
遠くのほうでは菖蒲が瞳からしとどに涙を流しながら、必死の形相で声を張り上げている。一体、菖蒲は何が言いたいんだろう? もっとはっきり喋ってくれたらいいのに。
あぁ、それにしても背中が熱いなぁ。
「一馬! てめえ何してやがる!」
怒声が聞こえた。
荒井海斗の怒声。
驚愕に目を見開いた海斗が、部屋の入り口に立つ誰かに向けて、菖蒲と同じように叫んでいる。俺は背中に走る熱に耐えながらも、ゆっくりと顔を上げた。
「……ひ、はは、ひゃはは、くっあはははははははははっ!」
耳障りな笑い声。
そこに立っていたのは、鼻血を出し、右手にナイフで貫かれたような穴を開け、全身に掠り傷を負った、金髪ホスト風の男。
一馬と呼ばれたそいつは、なぜか手に刃物を持っている。しかも驚くことに、刀身の部分が血で真っ赤だ。一体、あれは誰の血なんだろう。一馬の鼻血が付着した、と考えるには、ちょっと無理があるよな。
「なあ海斗! オレぁやってやったぜ! そうだよなぁ!? オレたちゃ犯罪者なんだもんなぁ!? 邪魔するやつぁ片っ端からぶっ殺してやりゃいいだけの話じゃねえか!」
高笑いしながら、一馬は嘯いた。
まったく、殺すとか物騒なことを言うやつだ。誰がてめえなんかに殺されるもんか。菖蒲が見ている前で暴力を振るうのは気が引けるけど、ちょっと俺が黙らせてや――
「ぐっ、うっ……!?」
立ち上がろうとした瞬間、尋常じゃない痛みが身体を駆け抜けた。それは鎖のように全身を縛りつけて、萩原夕貴という人間の自由を奪っていく。
なんだ。
なんだってんだ。
困惑する俺の指元に、どこかで見たことがあるような赤い液体が流れてきた。トマトジュースのようにも見えるが、ちょっと鉄のような臭いもするので、まあ血が妥当だろう。
「夕貴様! イヤです! こんなの、イヤぁぁぁぁっ――!」
今まで聞いたこともないような菖蒲の、絶叫。
髪を振り乱し、目からボロボロと涙をこぼし、菖蒲は俺に駆け寄ろうとする。しかし腰が抜けたのか、上手く立つことができないようだった。
おかしい。
未来は変わったってのに、どうして菖蒲は泣いてんだ。
菖蒲には涙なんて似合わない。だから俺が拭ってやる。いや、まあ確かに菖蒲の泣き顔も可愛いとは思うんだけど、あの子には太陽みたいな笑顔のほうが映えるんだ。
すでに俺の周りには、小規模の血溜まりが広がっていた。血の脂のせいで手が滑って、なんだか気持ち悪い。
……ああ、そっか。
自分でもなぜなのかは分からないけれど、唐突に悟った。背中が熱いのも。上手く立てないのも。血が流れるのも。菖蒲が泣いてるのも。海斗が怒声を上げたのも。一馬が狂った目で高笑いしてるのも。
俺が刺された。
そう考えれば、すべて納得がいくじゃないか。
敵であるはずの海斗が怒っているのは、きっと一馬が刃物を使ったからだろう。俺たちは初対面だが、それでも海斗という男は何があろうとも喧嘩に拳以外の凶器を用いることはないはずだ、と俺は理解していた。
血液が大量に抜けたからか、身体が寒い。歯の根が合わず、カチカチと音がする。それなのに背中だけが異様に熱かった。
視界が霞む。猛烈に眠い。気を抜けば瞼が落ちそうだ。こんな睡魔、今まで味わったことがない。でもこの眠気に負けてしまうと、俺はもう二度と目覚めることができないような気がする。
……嘘だろ?
俺、こんなところで死んじまうのか?
まだ何もしてねえじゃねえか。
これまで密かに考えてきた、母さんに親孝行する計画も、まだ何も実現してねえだろうが。
櫻井彩の秘密を、背負っていくんじゃないのか。
お母さんと会えない女の子の分まで、俺が母さんを護ってやるんじゃないのかよ。
第一、ナベリウスはどうすんだ?
あの銀髪悪魔は、あんなアホみたいな女と一緒に暮らせる男は、俺ぐらいしかいねえだろ。
それに菖蒲は?
ここで俺が死ねば、菖蒲はどうなる。
菖蒲の見ている前で、最悪の未来が実現してしまえば、あの子は、きっと壊れる。
そんなの。
……イヤだ!
「く――そ、っ――」
立ち上がろうとするが、体から力が抜けていく。出血と共に、運動に必要な熱と体力が削られていく。
なんとか菖蒲に手を伸ばすが、それが届くはずもない。
見ていて悲惨なぐらい涙を流す菖蒲を慰めてやりたくて、お前が泣く必要なんてないんだよ、と抱きしめてやりたいけれど――その資格を神様が奪っていったのかと思うぐらい、俺の体は動かない。
諦めるわけにはいかない。
ここで俺が諦めちまったら、菖蒲は二度と未来を信じることができなくなる――それだけは許せない。だから俺は文字通り死ぬ気で立ち上がろうとする。
それでも――無理だ。
精神や根性で何とかなる領域を遥かに超えた問題。
懸命に『菖蒲の視た未来を変えてやろう』と足掻く俺は、きっと無様という言葉を見事に体現していて、笑ってしまうぐらい格好悪いだろうが、それでも諦めることはできない。
だってさ。
約束したんだ。
菖蒲を護ってやるって。
菖蒲の言う未来を信じてやるって。
なにより、俺自身に誓ったんだよ。
菖蒲が視た『萩原夕貴の死』という未来を、あっさりと変えてやるって。
だから俺は、こんなところで死ぬわけには――
「…………え」
そのときだった。
俺の目に――絶対に見たくなかったものが飛び込んできた。
きっと、その光景は、これから萩原夕貴という人間の心に焼きついて、生涯消えることはないだろう。
――それは。
――何とも残酷で、悲しい光景。
――あれだけ俺に向かって泣き叫んでいた菖蒲が。
――なにかを諦めたように、顔を俯けた。
――もう俺は助からない、と見切りをつけたように。
――やっぱり私の未来は変わらないんだ、と理解したように。
菖蒲のあんな顔だけは見たくなかった。
絶望に泣き崩れていた菖蒲が、もはや感情を映すこともなく、壊れた人形のように俯き、呆然とする姿なんて。
未来を信じることを諦めた姿なんて絶対に見たくなかったんだ。
「……ざ、けんじゃ……ねえ」
言っただろうが。
俺の命よりも。
おまえとの約束よりも。
憧れてる女の子のお願いよりも。
ずっと、ずっとおまえのほうが大切なんだって――そう、言ったじゃねえか。
なのに、どうしてそんな顔すんだよ。
そんな簡単に諦めんなよ、馬鹿野郎!
「……お、れ……は、おま、……え、を……!」
護ってやりたいんだ。
お前の言う未来を信じてやりたいんだ。
そうだ。
俺は死ぬのが怖いわけでも、命が惜しいわけでもない。
ただ、菖蒲の視た未来を変えたいだけ。
そのために『俺が死ぬ』という未来を変えなければならない。
そうじゃないと菖蒲は、駄目になっちまう。
菖蒲のためならば、俺は神様だろうが悪魔だろうが何にでもなるし、運命だろうが未来だろうが変えてみせるし、奇跡だって起こしてみせる。
未来ってのは凄いんだ。
未来ってのは素晴らしくて、信じるに値する最高のもんなんだよ。
だから、未来を視てしまうがゆえに、未来を恐れるようになった菖蒲を放っておくことはできないんだ。
信じてほしいんだ。
未来を、信じてほしいんだ。
菖蒲は誰よりも未来を信じるべきだ。そう父親からも望まれた証を、あの子は持ってる。
そんな菖蒲には不幸ではなく、幸福こそが似合うと。
菖蒲が信じることを止めないかぎり、幸福はいつまでもあの子と共にあるのだと。
そう。
俺は思うんだよ。
「――っ、ぅっ、ぁ――!」
キィン、と耳鳴りがする。
あぁ、なんだか頭が痛い。
心臓が疼く。
背中だけじゃなくて全身が燃えるように熱い。
耳鳴りが酷すぎて、海斗の怒声も、一馬の高笑いも耳に入らない。
マジでなんだってんだ、この耳鳴りは。
もしかして、これが死んじまう前兆だってのか。
……そんなの、許せるもんか。
なあ神様。
奇跡でも何でもいいからよ。
俺に力をくれよ。
生きたいわけじゃねんだ。
怖いわけでもねえんだ。
ただ俺は、菖蒲の悲しむ顔を見たくないだけなんだよ。
「――っ、あ――!」
鼓膜を侵すような耳鳴り。
心臓が熱い。
何がどうなってるのか分からない。
それでも、これだけは言える。
俺は菖蒲の悲しむ姿なんて絶対に見たくないんだ。
だからさ、菖蒲。
お前の視た未来は、俺がこの手で変えてみせるよ。
****
音響機器が共鳴したときに発生するような、大きな不快感を伴う高音が鳴り響く。
音楽スタジオに改造された倉庫にいる人間は当然として、漁港の各所で待機していた《参波一門》の者たちですら、その異常を感じ取った。
鼓膜を侵し、脳そのものを揺らすような耳鳴り。
それは明らかに生理的な現象によってもたらされたものではなく――なにか人為的な、外部からの影響が人体に浸透した結果、発生したものだと誰もが気付いていた。
意識を揺らすほど強烈な耳鳴りは、もはや”耳鳴り”というよりは、一種の災害に違いない。
音楽スタジオにいた玖凪託哉は、予想外の衝撃に顔を歪め、その場に膝をついた。暴走する託哉を止め、菖蒲の元に向かおうとしていた参波清彦は、長年愛用していた眼鏡のレンズにヒビが入ったのを見た。絶望していた高臥菖蒲は、脳裏に響く甲高い音に意識を奪われつつあった。
キィン、と響く、果てしない高音。
それは、
とある少年の願いがカタチとなった、
どこまでも純粋な、
ハウリング。
漁港の闇に紛れるようにして事態を見守っていたソロモンの序列を持つ大悪魔は、心底複雑な気持ちで重い腰を上げた。
「……まずいわね」
潮風に揺れる長い銀髪を指で押さえ、一度だけ夜空に浮かぶ満月を見上げる。
漁港を包み込んだ膨大な波は、俗に『Devilment Microwave』と呼ばれる。日本語に直訳するとDマイクロ波。『悪魔の所業』を意味するデビルメントを冠したマイクロ波は、人体の大小の筋肉に軽微の痙攣をもたらし、耳鳴りを起こす。
少量のDマイクロ波は人体に何の影響も及ぼさない。しかし悪魔が《ハウリング》という異能を行使する際には、それこそ膨大なDマイクロ波が必要になる。つまり、この耳鳴りは、誰かが《ハウリング》を発露させたということなのだが。
絶対零度を司る彼女は、もともと静観に努めるつもりだったので、この耳鳴りには関与していない。
消去法に準ずると、自然、誰が《ハウリング》を行使したのかはすぐに分かる。
「夕貴……」
祈るように呟く。
確かに、かの少年が悪魔として覚醒する可能性は十分にあった。しかし、それは何かの弾みで傾くほど軽い天秤ではない。十九年もの間、人間側に傾いていた秤なのだ。恐らく瀕死の傷を負ったとしても、萩原夕貴の内にある秤は微動だにしなかっただろう。
死という絶対的な壁に直面しても動かないはずの天秤が、動いた。
いまの自分では不可能な何かを為すために、夕貴は人間ではないものに目覚めてまで、その願いを叶えようとしている。
それ自体は、彼女にとっても悪いことではない。むしろ喜ばしいといってもいいだろう。悪魔として覚醒することにメリットはあっても、デメリットはないのだから。
これから先、恐らくあの少年が歩む道には幾多の苦難が待ち受けている。ゆえに己の身を護るだけの力は必要になってくるはずだ。
事実、ナベリウスは夕貴に人間として平穏に暮らしてほしいと願う反面、《悪魔》として覚醒してほしいと祈ってもいた。
だから櫻井彩のときは限界まで傍観に徹した。それは今回も同様だが――さすがに参波清彦と玖凪託哉の両名がついていながら、夕貴が瀕死の怪我を負うのは予想外だった。こればかりは完全にナベリウスのミスと言っていい。だが幸か不幸か、事態はナベリウスが望んでいた方向に進みつつある。
とは言え、不用意に《ハウリング》を行使するのは自殺行為だ。《法王庁》にはDマイクロ波を感知する術があるし、彼女の同胞であるソロモンの悪魔たちは総じてDマイクロ波を知覚する能力を持つ。つまりDマイクロ波を大量に放出することは、いらぬ外敵をおびき寄せる原因にもなる。
一刻も早く少年を止める必要があった。迷いはない。肩にかかった銀髪を手で払ったあと、彼女は疾走した。悪魔と称するに相応しい身体能力で、宵闇に包まれた漁港を駆け抜ける。《参波一門》の敷いた包囲網を掻い潜り、目的地である倉庫の上空数十メートルにまで跳躍すると、天に向かって手をかざす。
全方位に指向性のないDマイクロ波を垂れ流すだけの少年とは違い、彼女のコントロールは完璧だった。指向性を持ったDマイクロ波は、中空に一本の巨大な氷槍を生み出す。
ソロモン72柱が一柱にして、悪魔の序列第二十四位に数えられる彼女は、今度こそ主人を護るため、舞台に上るのだった。
****
不思議な感覚だった。
痛みも、熱も、恐怖も、不安も、震えも――消えていく。
全身を鎖で縛り付けられた挙句、重い鉛でも乗せられてるんじゃないか、と疑うほど微動だにしなかった体は、確かな活力を取り戻し、立ち上がることさえ可能にしていた。
背中にあった刺し傷が治癒していく。
「なんだぁ!? こ、こりゃあ何なんだよオイっ!?」
狂った光を目に宿し、これでもかと高笑いをしていた新庄一馬は、激しい耳鳴りに恐怖し、死の淵から蘇った俺に困惑しているようだった。
「てめえ、なんで立てんだよっ! オレがこの手でぶっ刺してやったはずだろうが!?」
じりじりと後退(あとずさ)りながら、一馬が悪魔でも見るような目で俺を見る。
その瞳に浮かぶのは、畏怖の色。理解の範疇を超えた何かと出会ってしまったとき、人はこんな顔をすると思う。
狼狽する一馬が煩わしかったので、ちょっと口を閉ざしてくれないかな、と念じてみた。
「ぎ、あっ、ぎゃあああぁぁああぁぁあぁぁぁっ!?」
聞くに堪えない悲鳴が上がる。
どうしたんだろう、と思って見てみれば、一馬が目、鼻、口、耳から血を流して悶絶していた。毛細血管でも切れたのか、顔から血の涙や鼻水を垂れ流している。
それと同時に、俺の足元に広がっていた液体であるはずの血溜まりが、数え切れないほどの弾丸という固体となって、一馬の体を穿っていく。まるで血液が意思を持ったかのように。
近場にあったナイフや金属片すらも見えない糸に操られるように動き出し、一馬の全身を斬りつけ、傷つけていった。
俺は内から溢れる破壊衝動を抑えるように、血に塗れた左手で顔を覆った。指の隙間から覗く景色は、それこそ阿鼻叫喚。
血液が凶器となり、金属が武器となった光景は、まさしく悪魔の描いた地獄絵図に他ならなかった。
血液を変化させて、金属に作用する。まるでありとあらゆる鉄分を支配するように。
あぁ、それにしても耳鳴りがひどい。
何も考える気が起きない。
そんな俺でも、菖蒲の無事だけはしっかりと確認していた。彼女は耳鳴りに耐え切れず気を失ったようだ。大丈夫、命に別状はない。血液の流れを見れば一目瞭然だ。いまの俺ならば、菖蒲の体調を菖蒲本人よりも正確に把握することが出来る。
だから。
菖蒲を護りきるためにも、悪意を持つ人間は排除しなければならない。
「――たっ、が、ぎい、す、けっ、ぐっ――た、た……す、け……てく、ぎいぃぃぃ――!」
血まみれになった体を丸めて、一馬が朱色の涙を流しながら懇願する。
その姿に、思わず失笑した。
……こいつ、俺を殺そうとしやがったくせによく命乞いができるよな。
果たして、俺はどうするべきなのか。
こいつを助ければいいのか。
こいつを殺せばいいのか。
……分からない。
あまりにも耳鳴りがひどすぎて正常に思考が働かない。
もういいや。
考えるのは面倒くさい。
とにかく菖蒲を護ればいい。
菖蒲を傷つけるヤツは排除すればいいんだ。
そうするのが手っ取り早いよな、きっと。
ぼんやりとした頭で決定を下した俺は、一馬に向けて歩き出そうとして――足が動かないことに気がついた。
「――っ?」
強烈な冷気を感じる。
よく見れば、俺の足が凍っていた。それも膝のあたりまで満遍なく、俺の動きを封じるように。
――直後、倉庫そのものを揺らすような衝撃が走る。まるで神が鉄槌を下すように、天から何かが落下してきた。土埃が舞い、視界を覆いつくす。常温だったはずの倉庫に流れ込む、針のように冷たい冷気。
天井を突き破るようにして現れたのは、軽自動車ほどはありそうな巨大な氷槍。無骨にして威厳に満ちた氷の刃。
それを見て、俺はなぜか胸が温かくなるのを感じた。
「止めなさい、夕貴。それ以上は貴方のためにならないわ」
子供を叱責する母親のような声。
氷槍から遅れること数秒、破壊された天井を通して、見慣れた女性が降りてきた。着地の際、ふわりと銀髪が舞い踊り、月光を反射する。
彼女は――ナベリウスは、呆然とする俺を認めると歩み寄ってきた。
「……大丈夫よ。もうここに敵はいないから」
そう言い、俺の頭を自分の胸元に抱くようにして、ナベリウスは諭す。
「夕貴は頑張ったわ。だから、もういいのよ」
優しく髪を撫でられる。
トクン、トクン、とナベリウスの胸から聞こえる音が、俺の心を落ち着けていく。人肌の体温は、どうしてこうも心地いいのか。ナベリウスに抱きしめられると、あれだけ煩わしかった耳鳴りが、ゆっくりと収まっていった。
「……ぁ、ぐっ!」
「安心しなさい。何があっても、わたしが夕貴を護ってあげるから。そうでしょう? ねえ、ご主人様?」
「ナ、ベ……リウス」
「喋らないで。いまは気持ちを落ち着けることに専念しなさい。まずは深呼吸を」
言われたとおり、俺は大きく息を吸って、吐き出す。
「……うん、もう大丈夫そうね」
俺から身体を離して、ナベリウスは笑った。
その笑顔を見た途端、まるで憑き物が落ちたように体が軽くなった。これまでのことが悪い夢だったかのよう。自分でも驚くほど視界や意識がクリアになっていく。きっと近視の人が初めてコンタクトをつけたとき、こんな感じなんだと思う。
「……その、ナベリウス。俺は」
「はいストップ」
人差し指を俺の唇に当てて、彼女は言う。
「もっと大切なことが今の夕貴にはあるでしょう?」
「……ありがとう」
悪いな、とは言わなかった。
きっとナベリウスが求めているのは謝罪じゃなくて、感謝だと思ったから。
ナベリウスの気持ちを無駄にはできない。俺は彼女に背を向けると、部屋の端で倒れている菖蒲のもとに向かった。両手を手錠で繋がれているものの、目立った外傷はない。あえて言うならば、手首の皮を擦りむいているぐらいか。
冷たいコンクリートに伏した菖蒲の身体を抱きかかえる。
腕に伝わってくるのは、確かな温もり。
こんな無力でちっぽけな俺でも、なんとか護ることのできた女の子の重みだった。
「……菖蒲」
優しく揺さぶりながら、そう声をかける。それはアヤメという花にちなんだ名前。父親から与えられたという、未来を信じる者に相応しい名前。
「……ん、ぁ――」
悩ましげな吐息が漏れる。綺麗に線の入った二重瞼が震えたかと思うと、春を迎えた花のように開いていく。何度かぱちくりと瞬きをする菖蒲は、まだ意識がはっきりしていないようで、ぼぉーとした目で俺を見ている。
「……よう」
上手い言葉が見つからず、当たり触りのない発言になった。それがきっかけだったのかは分からないけれど、生気のなかった菖蒲の瞳に力が戻っていく。大きく見開かれた瞳には涙が滲み、溢れ、透明色のしずくが頬を伝っていった。
「……夕貴、様……ですよね?」
「ああ」
「本当に……夕貴様、ですよね?」
「ああ」
とめどなく流れる涙。身体を起こした菖蒲が、俺の胸元に飛び込んでくる。
「これは、夢じゃないですよね? 菖蒲は、信じても、いいのですよね……?」
「当たり前だろ。疑ってどうすんだよ」
こんなときに。
こんなときに――気の利いた台詞をさらっと言えたら、きっとモテるんだろうけどなぁ。
今まで女の子と付き合った経験がないから、この場に相応しい言葉が思いつかない。
とにかく菖蒲に泣き止んでほしいと思い、そのために色々と思考を巡らせてみたが、どうも適当な言葉が出てこない。
だから、まあ。
「菖蒲」
名を呼ぶと、彼女は顔を上げた。見つめあう。視線が交錯する。
ナベリウスが空けた天井の穴から、柔らかな月明かりが菖蒲を祝福するように降り注ぐ。埃や汗で汚れているはずなのに、彼女は美しかった。
ただし、瞳から伝う涙だけは頂けない。いやまあ誤解のないようにもう一度だけ言っておくと、泣いている菖蒲も可愛いんだけど、やっぱりこの子には笑顔のほうが似合うと思うんだよ。
菖蒲の涙を止める一言。
それは。
「……どうだ菖蒲。おまえの視たつまんねえ未来なんか、俺があっさり変えちまったよ」
よし、口が滑った。わりと男前な言い回しのつもりだったのが、実際に口に出すと、なんかスベってるような気がしてきたというか、ただの勘違い野郎が言いそうな台詞に思えて、微妙に後悔してきた
俺は優しげな笑顔を浮かべつつ、内心では『どうしよかな、言い直したほうがいいかな』と密かに悩んでいた。
「……いいです」
菖蒲は涙に濡れた瞳を和らげて、俺の胸に顔を埋めたあと、小さな声で言った。
「……わたしが夢で見たあの未来さえ外れなければ、いいんです」
それは高臥菖蒲という少女が視た、果てしなく遠い未来の、夢。
この男らしさだけが取り柄の俺みたいなやつにできることは少ないだろうけど、それでも、こんな俺でも、せめて女の子の涙ぐらいは止めてあげたいと思うのだ。
俺は一人、菖蒲の小さな体を抱きしめてやりながら、この子が泣き止むその時まで、胸を貸してあげようと心に誓うのだった。