どうやら俺は悪魔になってしまったらしい。
ナベリウス曰く、《悪魔》の定義は『Dマイクロ波と呼ばれる特殊な波長域の電波を体内で生成する生物』とのことらしいが、その定義に俺は当てはまるようになった。
菖蒲の誘拐事件をきっかけにして、俺の体内では《悪魔》の波動が生成されるようになった。そのせいで色々と人間離れした芸当ができるようになったのだが、普段はDマイクロ波を極力抑えるようにしているため、日常生活では人間のままだ。
つまり悪魔になったというよりは、人間が《悪魔》の力を手に入れた、というほうが近いかもしれない。
だが誕生したときから正真正銘の《悪魔》であったナベリウスとは違い、俺は後天的に《悪魔》の力を手に入れたクチなので、力のコントロールが上手くない。
例えるなら、ナベリウスが制球力の優れたプロ野球選手だとするなら、俺はボールを投げるどころか、赤ん坊がばぶばぶ言いながら硬球で戯れているような感じだった。
率直に言うと、いまの俺には優秀な指導者による訓練が必要だった。
「ほらまた。夕貴は頭で考えようとしすぎよ。もっと身体とか、こう……心で感じなさい」
相変わらずニュアンスの伝わりづらいアドバイスを披露してくれる銀髪悪魔は、そのステータスの項目に”同居人”だけでなく”師匠”も追加されていた。
要するに、俺はナベリウスに戦い方を教わっているのだった。
萩原邸には近所でも評判になるほど大きな庭がある。その庭の大きく開いたスペースで、俺とナベリウスは様々な特訓をしているのだった。
ちなみに菖蒲は、庭とリビングを繋ぐウッドデッキ(縁側みたいなもの)に女の子座りをして、ずっと俺を応援してくれている。いまの菖蒲は、今時な外出着ではなく、丈の長いロングスカートが特徴的なお嬢様然とした部屋着を身につけていた。
ちなみに特訓とは言っても、「頭じゃなくて身体で覚えるのよっ!」というナベリウスの主張により、わりと本格的な格闘戦までメニューに取り入れられている。
ただ格闘戦とは言っても、俺が一方的にやられているのが正直なところだった。
もう何度、投げ飛ばされたか分からない。確か十回を超えたあたりで数えるのを止めた。でもさっき休憩したとき、菖蒲が俺にタオルを手渡しながら「十九回も投げられていましたが、大丈夫ですか?」と教えてくれた。へこんだ。
そしていま、とうとう記念すべき二十回目を達成した俺は、尻もちをついたまま、目の前に立つナベリウスを見上げていた。すでに汗だくの俺とは違い、彼女は汗ばんでもいない。
「ほら、立てる? 男の子なんだからしゃんとなさい」
豪奢な銀髪を耳にかけながら、ナベリウスが手を差し伸べてきた。
「……立てるに決まってんだろ。男の中の男である俺を捕まえてなに言ってんだ」
思いのほか小さな手を握り締めると、思いのほか強い力で引っ張られた。
基本的に、庭は芝生で覆われているので転倒した際の肉体的なダメージは少ないのだが、菖蒲の前で格好悪いところを見せてしまったという事実が精神的にキツイ。
特訓を始めたばかりの頃は、俺が転ぶと「夕貴様っ、お怪我はありませんか!?」と駆け寄ってきた菖蒲も、いまとなっては『戦地に赴く夫を健気に見守る妻』みたいな顔で応援してくれている。
……でも菖蒲のやつ、俺がナベリウスの手を握って立ち上がるたびに、なぜかむっとした顔をするんだよな。そのわりには俺たちが離れた瞬間、ほっと胸を撫で下ろして、うんうんと頷いているし……。
「菖蒲に見蕩れてる場合じゃないわよ、夕貴ちゃん」
誰が夕貴ちゃんだ――そう反論しようと振り向くと、ナベリウスが挑発的な笑みを浮かべて、構えを取っていた。
「わたしが教えた通りにやってみなさい。ていうか、こういうのは体で覚えるものだから、現在進行形で教えてるんだけどね」
「教えられてるのは受け身の取り方だけだけどな、いまのところ……」
俺は空手だけじゃなくて、合気道や柔道も多少は詳しいのだが、裏社会で行われる命のやり取りは、当然そういう”スポーツ”として進化した武道とは一線を画する。
己の肉体にDマイクロ波を作用させることにより、身体能力の向上や五感の鋭敏化といった効果が望める。なかでも脳の情報処理速度が活発化するのは驚きだ。こうなると、網膜から取り込んだ映像を精密に解析することができる。噛み砕いて言うと、視界がスローモーションに見えるということだ。
戦闘用に思考を切り替えたナベリウスは、もはや貫禄さえ感じられる。
寒気がするほど隙がない。どころか、ナベリウスはただ構えているだけなのに、攻め込もうとしている俺のほうがプレッシャーを感じていた。
躊躇していても始まらない。隙がないのなら、隙を作り出せばいいだけの話だ。
とは言っても、俺にナベリウスの心理を読み取れるはずがなかった。実戦経験に天と地ほどの差があるんだし。
つまり、これは純粋な格闘戦ではなく、どちらかといえば一種のクイズのようなものだった。ナベリウスが『ここを攻めてみなさい』というポイントをわざと作り、それを俺が見つけ出すのだ。
ちなみに今まで出題されたクイズは全部で二十問。それは俺が投げ飛ばされた回数と同じ。
要するに、まだ一度も正解していないというか、ナベリウスにやられっぱなしというか、まあそんなところである。
俺にも《ハウリング》と呼ばれる悪魔固有の異能があるのだけれど、まだ能力の全容が分かっていないため、迂闊に使用するのは自殺行為だ。
ナベリウス指導の下、色々と試した結果、どうやら俺の力は血液や金属を操るっぽい感じの《ハウリング》らしいんだけど、まだ完全には把握し切れていない。
誰かと似た《ハウリング》はあっても、誰かとまったく同じ《ハウリング》は存在しないので、俺はこれから時間をかけて調べていかなきゃいけないという。
とにかく。
この銀髪悪魔をぎゃふんと言わせるには、純粋な格闘戦で勝つか、上手く心理の死角をつくしか、方法はない。
そうと決まれば話は早い。
菖蒲の見ている前で散々恥をかかされた分、いまこそ復讐してやろうじゃないか。
「はいハズレー」
「へっ?」
それは光のように一瞬で、風のように迅速。
無駄な思考が過ぎたせいか、どうやら俺は隙を作ってしまっていたようだった。
ナベリウスは、流れるような自然さでふところに潜り込んでくると、俺の胸板を強く押し、脚をひっかけるようにした。
「――うおっ!?」
子供の喧嘩でも見られるような方法で転ばされた俺は、間抜けな声を上げながら、足元の芝生に吸い込まれていく。
背中から落ちる――そう判断した俺は、頭を護るために首を丸め、地面と接触する瞬間に右腕で地面を強く叩くことによって、衝撃を緩和した。
「……うん、受身の取り方だけは合格ね」
肩にかかった銀髪を払って、ナベリウスが微笑んだ。
「うーん。夕貴って、筋は悪くないんだけどね。むしろ妙なところでセンスを感じるし、鍛えれば強くなると思うんだけど……」
「だけど、なんだ?」
「女の子の前で格好をつけたがるのは減点ね。このフェミニストがっ」
「ぐはっ!」
な、なぜか心にダメージが……!
「それにしても夕貴って、意味の分からないところでお父様そっくりよね。たまに血筋というものを呪いたくなるんだけど」
「んなこと言われても、俺は父さんのことなんて一ミリも知らないから分からないなぁ」
父さんか……会ってみたかったな。
この際だから、ナベリウスに俺の父親――萩原駿貴(はぎわらとしき)について聞いてみることにした。辛い過去を思い出したくないのか、母さんは父さんについてほとんど話してくれなかったから、名前ぐらいしか知らないのだ。
いいわよ、と気軽に了承するナベリウス。
「ソロモンの序列第一位に数えられた《バアル》は、人間社会では萩原駿貴と名乗って活動してたわ。まあバアルを一言で言い表すなら、自信家というか、キザな男というか、とにかくそんな感じだったかなぁ。しかも意味不明なカリスマ性があってね。具体的に言うと、『一緒に来るか? 俺の見る世界は楽しいぜ』みたいな背筋が寒くなる感じの台詞を口にしても、バアルならやけに似合っていて、逆に格好いいぐらいだった」
「……なんだか、俺が抱いていた父さんのイメージとずいぶん違うな。もっと優しいパパって感じだったんだけど」
「それで間違ってないんじゃない? ちょっと不器用だったけど、バアルは優しかったからね。人間ラブだったし、女の子を大切にするような悪魔だった。当時、バアルには二人の悪魔がつき従っていて、そのうちの一人がわたしなのよ。バアルの従者というだけで、この世で一番幸せなのは自分なんじゃないかって思うぐらい魅力に溢れたかな、夕貴のお父様は」
「……そう、なんだ」
不思議だ。
なぜか父さんを褒められると、俺のことのように嬉しい。
口元を綻ばせる俺を見て、ナベリウスは母性的な包容力のある笑みを浮かべた。母さんとはまた違うけど、こいつも俺の母親というか、姉というか、とにかく大事な家族だったりするのだ。本人には絶対に言わないけど。
だって恥ずかしいし。
目覚めは、ひたすらに気持ちよかった。
「お気付きになられましたか?」
頭上から菖蒲の声が降ってくる。
「……ここは」
なにやらアングルがおかしい。どうして菖蒲の顔と一緒に青空まで見えてるんだろう。
後頭部には柔らかい感触。爽やかな柑橘系の香りと、俺と菖蒲が愛用しているボディーソープの香りと、心が休まるような菖蒲の匂い。
自分が膝枕されていると気付くのに、そう時間はかからなかった。
菖蒲が言うには、俺はナベリウスと特訓している最中、運悪く頭を打ってしまい一時的に昏倒したらしい。
彼女は俺の頭を優しく撫でながら、目元を和らげている。見ているこっちが嬉しくなるぐらい、幸せそうな顔をしていた。
「……えっと、足、痛くないか?」
「いいえ、ちっとも」
聖母のような慈愛に満ちた笑顔で即答されてしまった。
かあ、と顔が赤くなるのが分かる。
「夕貴様? お顔が赤いようですけれど、大丈夫ですか?」
「大丈夫! だからあまり顔を近づけないでくれ!」
これ以上、心臓の鼓動が早くなったらまずい。身体を重ねたとしても、やっぱり不意打ちはよくないと思うのだ。
ただ、本当は今すぐにでも体を起こすことは出来たのだけど、菖蒲の太ももがびっくりするぐらい気持ちよかったので、このまま膝枕を続けてもらうことにした。
「……そういや、ナベリウスのやつは?」
「ナベリウス様は、キッチンのほうで昼食をお作りになっています。お呼びしましょうか?」
「いや、いいよ」
もうすこし二人っきりでいたいからさ――なんてキザな台詞が思い浮かんだが、もちろん口には出さなかった。
他愛もない話をして、ささやかな幸せを噛み締めていた俺は、話題が途切れたのを見計らって、もう一度だけ例のことを聞いてみようと思った。
「……なあ菖蒲」
「はい、何でしょうか」
「……本当にいいのか? 俺、人間じゃないんだぞ」
めちゃくちゃ勇気を出した上での質問だったのだが、しかし菖蒲はぽわぽわとした顔つきを崩さなかった。
「そうですか。でも夕貴様は、夕貴様なのですよね?」
「まあ確かにそれはそうだけど……」
「貴方様は、わたしの夕貴様なのですよね?」
「いや、まあ俺ごときが菖蒲の夕貴様なのかは分からないけど……」
「貴方様はっ! 菖蒲のっ! 夕貴様なのですっ!」
なぜだか分からないけど、いきなり怒られてしまった。しかも子供みたいに。怖いっていうか、逆に可愛いのだが。
「いいですか? 菖蒲がお慕いするのは、人間でも悪魔さんでもなく、いまこうして菖蒲と一緒にお喋りをしている夕貴様なのです! それに菖蒲は、好意を寄せてもいない殿方に膝をお貸しするほど、安っぽい女ではありません!」
「そ、そうなんだ」
「ほらまた、そんな覇気のないことでどうしますか!」
「……ごめん、俺って謝ってばっかりだな」
きっといまの俺は、かなり情けない男に見えることだろう。
俺が意気消沈すると、菖蒲も申し訳なさそうに表情を曇らせた。
「……も、申し訳ありません。つい言葉が過ぎました。淑女としてあるまじき言動の数々、平にご容赦を」
「いや、そこまで固い謝罪をしなくてもいいだろ。俺だって自虐が過ぎたみたいだし」
二人して反省する。
とにかく、菖蒲は俺が悪魔の血を引いているという事実を受け入れてくれた。いや、むしろ受け入れたとか以前に、そんなの関係ありません、って感じの反応だ。
菖蒲本人も『未来予知』という異能を有し、【高臥】という家系の血を引いているのだから、一般的な人間よりも、俺みたいな存在への理解が深いのかもしれない。
早く母さんに菖蒲を紹介したい。ただ純粋に、菖蒲という女の子を母さんにも知ってほしい。
でもなぁ、母さんって、はっきり言ってちょっとバカだからなぁ。わりとテンション高めだし。まあそこが放っておけないんだけど。
「そういや、菖蒲のお母さんってどういう人なんだ?」
知らずのうちに、そんな言葉が口をついていた。
「はい、お母様ですか?」
菖蒲の顔が誇らしげな色を帯びた。
「娘である菖蒲が言うのも何ですが、お母様は立派な方で、菖蒲が憧れて止まない淑女でもあります。ただ、少々気が強いと言いますか、お父様を振り回すような一面も確かにあるのですけれど、間違ったことは口にせず、いつもお父様を影で支えるような、そんな方なのです」
わたしの理想ですね、と菖蒲は最後に言った。
「へえ、なんか格好いい人だな。一度会ってみたいよ」
「大丈夫ですよ。夕貴様とお母様はいずれ会うことが決まっています。ただしワインにだけは絶対に気をつけてくださいね。絶対に」
例の予知夢か、あるいは通常の未来予知によってかは分からないが、菖蒲は俺の知らない未来を知っているようである。
そう、未来。
誰よりも未来を信じるべき菖蒲は、紆余曲折を経て、以前よりも遥かにしゃんとした顔で前を向けるようになった。
重国さんの願いが込められた、”菖蒲”という名前。
それは未来を愛し、未来に愛されるために存在するような、名前。
過ぎ去った過去を『反省』するもの、いまある現在を『精一杯に生きる』ものだとすれば、いずれ訪れる未来は『信じるべき』もののはず。
菖蒲は、未来を視てしまうがゆえに未来を恐れ、信じることを止めた――それは何という皮肉だろうか。
この子が信じる未来には、間違いなく幸福しかないというのに。
「そういえば夕貴様。前々から一つ疑問に思っていたのですが」
「ん? なんだ?」
「わたしやお父様とお話しているときに夕貴様が仰っていたことなのですが――”菖蒲”という名前には、何か意味があるのでしょうか?」
「あぁ、まあな」
「……ええと、アヤメの花のように健気な、とか、そういったニュアンスだと解釈しても?」
「まあそれでも間違っちゃいないけど、本当は違うぞ」
「と、仰いますと?」
「……そうだなぁ」
やっぱり菖蒲は知らないのか、自分の名前が持つ意味を。
「あれ、見てみろよ」
俺が指差した先にあるのは――花壇の片隅で健気に揺れる、薄紫に色づいた美しい花。
「あれは……アヤメ、ですよね」
「そうだ。おまえと同じ名前をした花だ」
「……あの、それが何か?」
「やっぱり知らないか」
じゃあ――
俺が教えてあげてもいいですよね、重国さん。
貴方が願った想いを。
愛する娘に向けた祈りを。
この未来を信じるべき女の子に――いまこそ伝えるべきですよね。
「アヤメってのは、主に山野の草地に生える多年草だ。葉は直立し、高さは平均して五十センチほどで――」
萩原邸の庭に、俺の声が流れていく。
それはどこまでも穏やかで、ささやかで、幸福な、時間。
一人の少女が夢見た、尊き未来。
この子が未来に愛されないわけがない。
この子が信じた未来が不幸なわけがないんだ。
菖蒲という名に込められた父の願いは、きっと無駄にはならない。
名は体を表す、という言葉どおり。
高臥菖蒲という少女は、誰よりも未来を信じるに相応しい者。
この子が信じることを止めない限り――幸福はいつでもいつまでも”菖蒲”と共にある。
それは花言葉。
アヤメという花に隠された、花言葉。
――”信じる者の幸福”――
それが花壇の端で健気に揺れ、この高臥菖蒲という少女と同じ名前をした美しい花の、花言葉だった。
[壱の章【信じる者の幸福】 完]