夜の繁華街。
華やかな明かりの漏れる表通りから道を一つ外れると、薄暗いじめじめとした裏通りに行き当たる。その複雑に入り組んだ路地裏は、地理を知らない者からは迷路のようにも見える。立ち並ぶ建物の隙間を縫うようにして通路が通っているものだから、圧迫感が強く、空も遠い。
派手なスーツを着崩した屈強な男たちが、ふところに刃物や拳銃を忍ばせて、あたりの通路を網羅するように駆け回っている。なにか探しものでもしているのだろうか、と思わせる様子だが、その認識は大体のところで間違っていなかった。
一人の男が、それを満足げな様子で見つめている。
月光を受けて輝く豪奢な金髪と、病んだ者を思わせる白蝋の肌。日本人離れした西洋風の顔立ちは、しかし男の放つぬめりつくような禍々しい気配により、どこか人間でさえないような風采を滲ませている。顔には作り物のごとき欺瞞の笑みが常に浮かび、眼球の露出が極端に少ない糸目が、人知れず進行する病魔のような不気味さを醸し出していた。
風に揺れる神父服が、この退廃的な路地裏の雰囲気と相反しており、当てはまるはずのないピースを無理やり埋め込んだパズルを連想させる違和感が、その男にはあった。
「それで、首尾はどうなんですか?」
両手を後ろで組みながら、男は問いかけた。そのかたわらに控えていた鳳鳴会の若頭が、戦々恐々としながら答える。
これまで幾度も死線を掻い潜ってきた暴力団の幹部が、一介の神父に恐れをなしている光景は、明らかに異常だった。
「い、いや、その……下の者の報告じゃあ、いいところまでは追い込んだそうなんですが……」
「どうぞ、続けてください」
「……なんでも、そこに居合わせた若いガキが、女を連れて逃げたと」
「ガキ? 誰です、それは」
「分かりません。ただ、このあたりの組とはもう話をつけてますから、恐らくは堅気の人間でしょう」
「……ふうむ」
男は思案する。ほんの暇つぶし。単なる娯楽のために例の女を追っていたが、もしかすると思わぬ収穫があるかもしれない。
「まあいいでしょう。君たちは引き続き、女を追ってください」
「……分かりました」
「ああ、それと」
ひたいに冷や汗を浮かべながら下がろうとする若頭を睨ねつけて、男は言う。
「女を補足しても、絶対に手を出さないでください。まずは崇高な僕に一報を。君たちごときでは、あの少女には勝てないでしょうしねえ」
男から発せられる凶悪なプレッシャーが、まるで死神のように若頭の肩に圧し掛かる。それは殺気などという言葉では生温い、もはや人間には発せない類のオーラである。
《鳳鳴会》の若頭は、まるで暗示か洗脳をかけられたように頷いた。三十代前半の彼は、男気と根性を併せ持ち、喧嘩に強く、部下から慕われ、敵からは恐れられるような傑物だったのだが、その面影はすでになかった。
「……は、はい。かならず!」
震える声で呟き、前のめりになりながら駆け出していく。しばらくすると、通路の向こうから部下を叱責する怒声が聞こえてきた。どうやら彼は、真面目に職務を遂行しているようだった。
一週間ほど前、この金髪に神父服を着込んだ男によって襲撃された鳳鳴会は、統率力を持った幹部クラスの人間を、さきほどの若頭を除いてほとんど失った。それにより命令系統は崩壊し、組織体系の維持が不可能となって、鳳鳴会は一時的に壊滅状態に陥った。
その女王アリを亡くした働きアリの集団を、悪魔的なカリスマで支配したのが、この男である。つまり現在の鳳鳴会は事実上、男の私兵と化していた。
人間を操るのは面白いが、娯楽に傾倒しすぎるのも問題だ。
男がこの街にやってきた、そもそもの目的は――偉大なる《悪魔》の遺児を手に入れることなのだから。
「……おや?」
薄暗い闇の中を歩き出した男は、やがて道端に薄汚れた週刊誌が捨てられているのを見つけた。
その表紙を飾っているのは、淡い鳶色の髪をした見目麗しい少女。男が日本にやってきたのはつい最近だが、それでも芸能人と呼ばれる類である”彼女”には見覚えがあった。
いずれ、そう遠くない未来、この女も。
「くっくっ……」
ぐしゃり、と週刊誌を踏み潰し、顔を手で覆って、男は忍ぶようにして笑った。
その佇まいは、神を堕とそうとする悪魔のようだった。
****
俺は今日ほど自分の迂闊さを呪ったことはない。
「……はぁ」
スプリングの利いたベッドに腰掛けて、俺はひたすら内省していた。ため息は通算で、もう十回を越えていると思う。
やたらとアダルティック風味に装飾された部屋の中。薄いピンク色の照明、備え付けの冷蔵庫、ジャグジー付きのバスタブ、なぜか天井に設置された鏡、オーディオやカラオケセット、人間二人がいかがわしいことをしても大丈夫そうな大きさを持つダブルベッド、その枕元にはティッシュの箱と避妊具、エトセトラ、エトセトラ……。
率直に言うと、俺がいるのはホテルだった。それも先頭にラブがつく、大人のためのホテルである。
部屋の中は静まり返っているため、耳を澄まさずとも、シャワールームのほうから水の流れる音が聞こえてくる。それを聞いていると、もやもやとした煩悩が沸いてくる。いちおうは非常事態なのに。
あれから――俺と例の少女は、武装した暴力団構成員を振り切ろうと、夜の街を駆け回った。しかし相手の数が多すぎたため、上手く逃げ切ることができず、下手な逃走劇となってしまった。そして、とりあえず安全を確保することが第一だと判断した俺は、手近な建物に潜り込んだ。
その判断が間違っていたとは思わない。ただ、適当に逃げ込んだ先がラブホテルだったのは誤算だった。まあこういう場所は面倒な手続きがいらない上に、時間をかけずに個室まで辿りつけるので、『身を隠す場所』という意味では最善かもしれないのだが。
あの少女は、部屋に着くなり「シャワー」と短く言い残し、浴室に消えていった。恐らく、悪臭が我慢ならなかったのだろう。路地裏でゴミ箱の中身をもろに被ったみたいだったしな、あの子……。
黙っていても陰鬱な気持ちは晴れそうになかったので、テレビでもつけて気を紛らわせることにした。
リモコンのボタンを押すと、液晶に光が灯った。
テレビに映ったものは、とにかく肌色。あとは淫らな水音、荒くて甘い息遣い、女性のいやらしい嬌声。それはアダルトビデオだった。
「あわわっ……」
動転した俺は、女々しい悲鳴を上げながら、リモコンの受光素子をテレビに向けた。それと同時に、浴室の扉が開いて、小柄な人影が姿を見せる。
「なにしてるの」
シャワーから上がった少女の開口一番がそれだった。
「なにって――」
言い訳しようと振り向いた瞬間、俺は見事に石化した。
汗を流したばかりの彼女は、当然と言わんばかりに肌の大部分を晒した状態だった。申し訳程度にバスタオルをまとっているものの、それだけである。ほとんど身体を拭いていないらしく、全身が濡れていた。タオルの縁から伸びる見事な脚線には水滴が伝っており、それがカーペットにぽたぽたと落ちて、染みを作っていく。
身長は、およそ一五〇センチメートルほどか。年齢は菖蒲と同じぐらいだろう。小柄な体格を裏切らず、胸元の膨らみはほとんどなかった。
黙って見つめあう俺たちを嘲笑うかのように、テレビの中では「いいっ! いいっ! いいのぉ……!」と女性が鳴いている。
迷った末、俺はリモコンの赤いボタンを押して、うるさいほうの女を黙らせた。
しかし、寡黙なほうの女を黙らせることはできないらしく、
「消すの?」
液晶を指差し、抑揚のない口調で言う。この少女は基本的に無表情なので、なにを考えているのか分からない。俺は顔を背けた。
「ああ。つーか、そんなことはどうでもいいから、まずは服を着てくれ……」
「わかった」
ベッドの上であぐらをかく俺の背後で、がさごそと布擦れの音がする。バスタオルが身体を拭う音。片足ずつあげて、なにか小さな布を穿く音……。
悶々としながらも耐え忍んでいると「終わった」と短い声が聞こえてきた。
少女は黒のタートルネックとデニムを纏い、近くにあった椅子に腰掛けている。美しい黒髪は後頭部の高い位置で一房に結わえられ、尻尾のようになって背中に垂れ下がっていた。いわゆるポニーテールという髪型だ。つーか、まだ髪が濡れてるんだから、もっと乾かしたほうがいいんじゃないかと思う。女の子としての嗜みみたいなもんがないのか、この子は。
場所が場所だけに凄まじく気まずかったのだが、黙っていても状況は好転しないと思い、友好的に歩み寄ることにした。
「……あー、まずは、その、自己紹介からだな。おまえの名前は?」
「美影(みかげ)」
ぽつりと呟く。友好性の欠片もなかった。
「……そ、そうなんだ。それって名前だよな? 名字は?」
「壱識(いちしき)」
やはり素っ気無い。仕方ない、ここは俺が空気を和ませてやるか。ちょうど渾身のギャグを思いついたしな。
「へえ、壱識美影っていうのか。なんか技名みたいで格好いい名前だな」
「……?」
「あれだよ、あれ。よく漫画とかに出てくる技には零式とかあるだろ? つまり零式があるなら壱式も……」
「…………」
「な、なんだっ? そんなにつまんなかったのかっ? 確かに自分でもスベったとは思ったけど、もう少しぐらい明るいリアクションを返してくれてもいいだろ!?」
「……ぐう」
「寝んなボケぇー!」
怒鳴ると、少女――壱識美影はふらついていた頭を振った。そのマイペースな仕草にカチンとくる。
俺は挑発的な口調で、
「あーあ。名前が変なやつは、性格まで変みたいだな。壱識とかどんな名字だよ」
これみよがしに、ぷぷっ、と笑ってやると、美影の目がわずかに鋭くなった。
「名前は?」
「俺か? 聞いて感動するなよ。萩原夕貴っていうんだ。”萩原”は母さんの姓かと思いきや、実は父さんの姓でさ。そういや俺は母さんの姓を知らないんだけど、でもまあ母さんは俺に”夕貴”っていう最高の名前を与えてくれたから……」
「ぷぷっ、普通」
わざとらしく口元に手を当てて、美影は忍び笑いをした。何事にもやる気がなさそうに見えるわりには負けず嫌いなのか、彼女は俺から目を逸らそうとしない。
「…………」
名前をバカにされた時点で、俺の怒りは沸点に達していたのだが、喧嘩している場合じゃないと自分に言い聞かせることにより、なんとかクールダウンに成功した。
「……んで、おまえは何なんだ?」
その漠然とした問いに、美影は本気で考え込むそぶりを見せた。しばらくして明快な答えを思いついたのか、美影は心なしか嬉しそうな顔で面を上げた。
「クーデレ。私は壱識・クーデレ・美影」
「待て待て、間に意味不明なもんが混入してんぞ。くーでれ、ってなんだ?」
「普段はクールで、たまにデレデレする人のこと」
「なるほど……ん? おまえってクールには見えるけど、べつにデレデレはしてないよな?」
ぎくっ、と美影の身体が跳ねる。明らかに戸惑っていた。
「べ、べべべつにそんなことないし。私、超デレデレだし」
「もうちょっと上手く誤魔化せよ……。とにかくおまえは、そのクーデレとかいうやつじゃないと思うぞ」
「むう……」
自分でもしっくり来ていないのか、美影はかたちのいい顎に手を添えた。左目の下に泣きぼくろがあるせいか、物憂げな顔がよく似合っている。
「まあクールはともかくとして、おまえがデレデレしてる姿なんか想像すらできねえよ。そもそも、おまえって好きな男とかいるのか? あるいは、好きなタイプでもいいけど」
「好きな人はいない。でも」
「でも?」
「好きなタイプは、男らしい人」
その言葉を聞いて、俺は体が熱くなるのを感じた。
「おいおいおいおい! マジかよ、おまえ!」
「……?」
「いや、だってさ。この状況で好きなタイプが『男らしい人』って言ったら、それってもう俺に対する告白じゃねえか!」
やっぱりあれか、王子様のように颯爽と彼女を助けたことが罪作りの始まりだったのか!?
「……はぁ」
なぜか、美影は大きくため息をついた。そして、さも面倒くさそうに立ち上がったかと思うと、冷蔵庫からブロック状の氷を取り出して、それを持ったまま俺のところに歩み寄ってきた。
はい、と差し出される冷たい氷。受け取ると、もちろん冷たかった。
「……なんのつもりだ?」
これで頭を冷やせとでも言うのだろうか。
「喋らないほうがいい。悪化する」
「なにがだ!? おまえのタイプは『男らしい人』なんだろ!? つまり、俺だろうが!」
「夕貴。きもいを越えてきゃっそい」
「きゃっそい? なんだそりゃ」
「”きもい”の最上級形。次世代を担うセンセーショナルな言葉。これ、きっと流行る」
「いや、それはさすがに流行らないと思うぞ? なんか言いにくいし」
「え…………?」
この世の終わりを目前にしたような顔だった。それまでは茫洋とした佇まいの中にも凛とした一本の芯みたいなものが通っていたのだが、いまの美影は捨てられた子猫のように小さく見える。ついでに目もうるうると潤んでいるようだった。
「……残念」
美影は肩を落として、とぼとぼと椅子に戻っていく。その儚げな背中を見ていると居たたまれなくなってきた。
「い、いやぁ、やっぱり”きゃっそい”は流行るかも……」
美影に聞こえるように独り言を呟いてみたが、効果はない。
それからも何度か声をかけたのだが、美影はなにも言わなかった。
せめて反応ぐらいしろよと思った俺は、彼女の背中に向けて、さっきもらった氷を投げつけた。わずかに溶け始めていたブロック状の氷が、放物線を描いて美影に迫る。
そのときだった。
美影が振り向くことなく背中を向けたまま、右腕を水平に伸ばした――それと同時、中空を舞っていた氷が、まるで見えない刃に切り裂かれるように真っ二つに割れて、カーペットに吸い込まれていった。もちろん美影はナイフを持っていないし、彼女の位置からは氷を切断することも物理的に無理だった、はずなのに。
「…………」
手品のような光景を見て、俺は絶句していた。
そんな俺の混乱とは無縁の美影は、つまらなさそうに唇を引き結び、背中を丸めていた。オリジナルの流行語(?)を否定されたのが、よほどショックだったらしい。
俺は狐につままれた気分になりながらも、これからどうするのが一番正解なのかと頭を悩ませていた。
「……痛くないか?」
「痛い。でも我慢できる」
「そっか。偉いぞ」
ベッドの上では、美影が上半身の服を脱いで女の子座りをしている。腕の治療をするためだ。本人は誤魔化していたのだが、時間が経つにつれ血が滲み出てきていたので、せめて止血だけでもしようと彼女を説得したのが数分前のこと。
腕といえば、美影は両手首にブレスレットのようなものをつけていた。まったくデザインのない無骨な代物である。最近は、こういうのが流行っているのだろうか。
滑らかな白い肌には痛々しい傷跡があった。どうやら銃弾が掠ったらしい。深刻なダメージではないが、出血量が多い。一度病院できちんとした治療を受けたほうがいいように思える。
包帯なんて洒落たものは当然ないので、タオルを適当な大きさに引きちぎり、美影の腕に巻いてやる。
彼女を治療しながら、俺はどうして出会ったばかりの女の子とラブホテルにいて、しかも傷の手当をしてるんだろう、と不思議な気分に陥っていた。
「よし、終わったぞ」
「ん」
いそいそと服を着込む美影。さすがに胸元は隠していたが、あまり羞恥心の類は持ち合わせていないらしく、肌を晒すのに抵抗はないようだった。
「……あれ?」
ふと、美影のわき腹に目がいった。スポーツでもしていたのか、無駄な贅肉が一切ない。引き締まった肢体を裏切らぬ細くくびれた腰。そこに青紫をした痣のようなものがある。
「おまえ、それ……」
「べつに痛くない」
「そういう問題じゃねえだろ。そっちも治療するからじっとしてろ」
「だから痛くない」
「うるせえ。黙って癒されてろ」
「やだ」
「おまえ……」
「触るな。変態」
「誰が変態だ! 言っとくけど、俺は女の子をいじめて悦ぶような男じゃねえからな!?」
「……?」
しまった。
なんか余計なことを言ってしまったような気がするぞ。
「……と、とにかく。怪我してる女の子を放っておくのは母さんの教えに反するんだよ。無理やりにでも治療してやる。ほら、こっち来い」
「近づくな。強姦魔」
「だれが強姦魔だ! 俺は女の子を襲うような鬼畜じゃねえよ!」
どうやら彼女は、男に興味がない反面、男をそれなりに警戒しているようで、俺に必要以上の接触を許してくれない。怪我を治療させてくれたのも、自分ひとりでは満足に止血ができないと判断したためだろう。
ぶーたれる美影をなんとか説得したところで、一つの問題が浮上した。
湿布はないので、適当な袋に氷を詰めて、それを患部に当てようかと思っていたのだが、ちょうど使えそうな袋がないのである。
部屋の中をがさごそと漁っていると、
「夕貴」
ちょんちょん、と背中をつつかれた。
「なんだよ。袋が見つかったのか?」
答えて、振り向く。
そこには、ゴムっぽい素材でできた円形状の物体を指でつまんだ美影の姿があった。ラブホテルに備え付けてあるアレのことだ。
「お、お、おまえ、それは……!」
円滑な家族計画を進めるための必須道具じゃねえか! あるいは夜のお供と言い換えても間違いじゃない!
「これに氷を詰めれば使えそう」
「いや、確かに使えそうだけど……」
まだ十五、六の少女に、これを使わせてもいいのだろうか?
美影は丸まった部分をくるくると引き伸ばした。どうも表面上に塗布されたゼリー状の潤滑剤がべとつくらしく、不愉快そうな顔をしていた。
「夕貴、夕貴」
今度は服が引っ張られる。まるで餌をもらうときだけ近寄ってくる猫みたいだ。
「なんだ?」
「これ、なに?」
「…………知らないのか?」
「だから聞いた」
「……まあ、そりゃそうか」
なんというか、娘に「子供ってどうやって作るの?」と聞かれた親の気分を、疑似体験したような感じだ。悩んだ末、俺は苦し紛れの説明をした。
「……それはな。男の子を守り、女の子を慈しむ、言うなら命を育むための大切な道具なんだよ。将来はおまえも使うようになるはずだから、敬意を持って接しろよ」
「マージョリー?」
「は? なに言ってんだ、おまえ」
美影はよくぞ聞いてくれた、といわんばかりに胸を張った。しかし残念なことに、服の胸元はほとんど盛り上がっていない。
気だるそうにぼんやりとしていた切れ長の瞳が、キランと輝いたように見えた。
「マージョリーは、”マジ”を幅広い年齢層に使ってもらえるように言い換えた結果。どことなくインテリな雰囲気を漂わせることから、就職面接で使っても嫌な顔はされず、むしろ感心されることが予想できる。これ、きっと流行る。来年の流行語大賞はもらった」
「いきなり饒舌になりすぎだろ、おまえ。あと、ちょっと言いにくいんだけど……それ、流行らないと思うぞ?」
「マージョリー?」
「ま、マージョリーだ」
「……残念」
美影は肩を落として、とぼとぼと歩いていった。まるで彼女の周囲だけ重力が強くなったのではないかと錯覚するぐらい落ち込んでいる。その背中からは、なんともいえない哀愁が漂っていた。
結局、美影は『例のブツ』に氷を入れて、患部を冷やすことになった。
「これ、伸縮性があるわりには破れない。気に入った」
…………。
もう少し詳細に教えておいたほうがよかったかもしれない、と俺は後悔することになった。
俺たちがラブホテルに潜伏してから一時間半が経った。
それなりに打ち解けた頃合を見て、俺は当初から気になっていたことを聞いてみることにした。
あの命がけの逃走劇が功を奏したのか、美影は俺に敵意や悪意を持っていないようで、あまり警戒はされていない。まあ手で触れたりするとすぐに弾かれるところから見て、懐かれているとも言えないのだが。
窓辺。カーテンの隙間から外の様子をうかがう。すぐとなりには背の低い建物があった。あちらもラブホテルのようで、屋上には卑猥な看板がある。ここが七階だから、向こうのホテルは五階ぐらいの高さだろうか。まあどうでもいいが。
俺はベッドで寝転ぶ美影に向けて質問した。
「そろそろ聞いてもいいか? どうしておまえが暴力団に狙われてんのか」
「…………」
返答はない。よほど言いにくいことなのだろう。
「自分から巻き込まれた俺が言うのもなんだけど、事情は把握しておきたいんだ。このままおまえを放っておくのも気分が悪いしな」
「…………」
「だから教えてくれ。なにがどうなってんだ?」
「……ぐう」
「だから寝んなやコラァー!」
近場の壁を強く叩くと、その音と衝撃で、美影の身体がびくんと跳ねた。腹の上に乗せてある、丈夫なゴム製の袋に入れられた氷水が揺れる。
ふわぁーあ、と眠そうにあくびをかまし、美影は言う。
「夕貴、うるさい」
「おまえが静かなんだって。年頃の男と一緒にいるんだから、もっと警戒しろよ」
「うん、するする」
口うるさい教師の詰問に飽き飽きした生徒のような気のない返事。
果たして、こいつにとって男とは何なのだろうか。自分で言うのもアレだけど、女の子にとって出会ったばかりの男と密室に二人きり、というシチュエーションはわりと恐怖だと思うのだが。
「なあ美影。おまえ、俺のことが怖くないのか?」
「もっちー竹原」
「…………」
なんかまた意味の分からないことを言われてしまった。俺が閉口していると、美影はなにかを思いついたようにぽんと手を叩いた。
「あ、もっちー竹原とは、”もちろん”という使い古された言葉にコメディ風味を加味したもので、これからの時代を担うに相応しい――」
それから数十秒、美影の説明は続いた。気のせいかもしれないが、こういった話をするときだけ美影は活き活きとする。
すべてを聞き終えてから、俺はため息をついた。
「あのなぁ。そんなどうでもいい話より、もっと大切な話があるだろ」
諭すように言うと、美影は不機嫌そうに瞳を細めた。泣きぼくろが彼女をより悲壮に見せている。
「……もっちー竹原はどうでもよくない」
「わかった、わかった。俺もこれから”もっちー竹原”を使うから、とっとと話を進めてくれ」
冗談半分で言ったのだが、美影はキラキラと瞳を輝かせた。めっちゃ本気にしている。
「本当っ? もっちー竹原、使うっ?」
「も、もっちー竹原」
なんだこれは。日本語をバカにしているような気がして、微妙に申し訳なくなってくるぞ。
俺はマグカップに淹れたインスタントコーヒー(部屋に備え付けてあったもの)を口に含み、続けた。
「じゃあ気を取り直して話を本題に戻すけど……どうして美影は、あんな乱暴なやつらに追われてたんだ?」
ベッドに寝転んだままの美影と目が合う。さきほどまでは精彩が欠けていたはずの切れ長の瞳に、いまは怜悧な光が宿っている。数瞬の沈黙を挟んで、美影は答えた。
「仕事」
「仕事? 内容は?」
「とある敵を追ってた。その敵が暴力団を掌握した。物量に圧されて不覚を取った。以上」
「……は? え、いまので説明終わり?」
こくり、と頷く美影。どうやら終わりらしかった。ナベリウスのときと同じぐらいツッコミどころが満載なので、どこから追求するべきか迷う。
「……ところで、その敵ってなんだ? お姉ちゃんを二股の末に捨てた悪い恋人とか、家族を貶めた悪い詐欺師とか、そういう感じの敵か?」
「違う。バケモノ」
「……バケモノ?」
「そう。私の仕事、バケモノ退治」
「――っ」
思わず言葉に詰まった。
それはもしかすると、俺自身が純粋な人間じゃないから、と無意識のうちに気後れしているからかもしれなかった。
美影曰く、《壱識》は古くから『人間ではないモノ』を薙ぎ払うことに執着し、それを生業としてきた家系であるらしい。分かりやすく言えば『バケモノ専門の殺し屋』、あるいは漫画とかに出てきそうな『妖怪退治屋』みたいなもの……だろうか? 詳しくは分からないけど。
美影を追っていた連中は、この繁華街に拠点を置く鳳鳴会という暴力団。ただしいまの鳳鳴会は、その美影が追っているという《敵》の支配下にあり、組織としての体系を保っていないという。いわば《敵》とやらの私兵と化しているのだ。
ある程度の話を聞き終えて、俺は違和感を覚えた。こんな小さな身体をした少女が、半日常的に殺し合いをしているという事実に。
「……?」
俺の視線を受けて小首を傾げる彼女は、どこからどう見ても戦闘に耐えられるだけの身体をしていないのに。
まあ、いくら考えても答えは出ないか。
どちらにしろ、夜が明けるまでは、この部屋でじっとしている必要がある。朝になれば暴力団もそう自由には動けない。ゆえに日が昇るまでのあと数時間は安心できず、場合によればまた逃走劇が始まるかもしれない。
「私からも質問」
「ん、ああ、べつにいいけど」
無表情のまま挙手した彼女は、わりとどうでもよさそうに言う。
「夕貴、何者?」
「何者、か……」
「裏では異能なんて珍しくない。でも夕貴のは知らない」
「…………」
いまは非常事態なんだし、正直に説明したほうが得策だとは思う。
でもここで俺が《悪魔》の血を引いている、と告白しても大丈夫なのだろうか? べつに美影を信用していないわけじゃないが、彼女が異端狩りを生業としている以上、迂闊に俺の事情を漏らすのは憚られる。
どうしよう、どう答えるのが正解か。そう内心で舌を打ったときだった。
「来た」
美影から怠惰な空気が消えて、鋭い緊張感が生まれる。
「来たって……」
言いかけて、俺の耳がどたどたと遠慮のない足音を捉えた――ような気がした。咄嗟に悪魔の”波動”を耳に作用させて、部分的に聴力を強化する。
「……マジかよ」
どうやらこのホテルに、数十近い人間がなだれ込んで来ているようだった。恐らくは鳳鳴会の人間だろう。巻き舌の怒声や、なにかを破壊するような音も聞こえる。
彼らは階段を使って、俺たちの部屋がある地上七階のフロアまで駆け上がってきている。しかも道を塞ぐように、非常階段のほうからもだ。
もう間もなく、このラブホテルは戦場と化すに違いない。
美影と行動をともにしている以上、いまさら投降しても無事に家に帰してもらえるとは思えない。第一、この子を敵に差し出してまで、俺は助かりたくないし――
ゆらりと立ち上がった美影が、気だるそうな顔のまま口元に手を添えて、ぷぷっと笑った。
「夕貴。せいぜい格好よく死んで」
「死なねえよ! 無様でも何でも逃げ延びるわ! 俺の帰りを待ってる人がいるんだからな!」
「恋人?」
「まあ似たようなもんだ。機会があったら紹介してやる」
「いらない」
抑揚のない口調で、美影は否定した。心の底から興味を抱いていないような声色だった。自分のこと以外は無関心なのかもしれない。
不思議なことに、その美影らしい態度を見て、なんのドラマもなく、俺の腹は決まった。悪いやつらに追われてる女の子を放って家に帰るなんて、男のすることじゃないよな。
俺は美影の頭にぽんと手を置いた。
「まあ、いまは逃げるのが先決だな」
美影が上目遣いで俺を見る。とうとう触れることには成功したのだが、しかし美影は不愉快そうに「んー」と唸って、俺の手を払いのけた。
「触るな。うざい」
肩にかかっていた黒髪の房を背中に流して、キッと俺を睨んできた。
俺としては握手感覚で頭を撫でたつもりだったのだが……ま、まあ女の子のなかには、身体を触られるよりも髪を触られるほうが嫌だっていう子もいるらしいし、美影もそういうタイプに違いない。
「……そんなに嫌だったのか」
「頭にゴキブリが乗ったのかと思った」
「えっ、言いすぎだろ!?」
「じゃあ蜘蛛が乗ったのかと思った」
「……それも微妙だけど、ゴキブリよりはマシか。ちなみに、なんで蜘蛛なんだ?」
「私が虫の中で一番嫌いなものが蜘蛛。次点でゴキブリ」
「悪化してるじゃねえか!」
「喋るな。この二酸化炭素発生装置が」
「ひでえっ! さすがの俺もマジで傷つくぞ!」
まったく。いつかこいつとは白黒つけたほうがいいのかもしれない。
「……まあ、いいか。そういやお前ってバケモノ退治してるとか言ってたけど、ぶっちゃけ強いのか?」
「うん。私、超強い」
無表情のまま腕を曲げる。しかし細身の腕には、力こぶなんて上等なものは見当たらない。めちゃくちゃ弱そうだった。
俺は内心でため息をつき、かぶりを振った。
「とにかく、だ。まずはホテルから逃げよう。それでいいか?」
しばし黙考してから、美影は抑揚のない小さな声で、
「もっちー竹原」
「マージョリーか」
「うん。逃げぴこ、逃げぴこ」
恐らく。
それは俺たち以外には理解できないであろう、日本語をバカにしつくしたような確認の合図だった。