<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


No.29805の一覧
[0] ハウリング【現代ファンタジー・ソロモン72柱・悪魔・同居・人外異能バトル】[テツヲ](2013/08/08 16:54)
[1] 零の章【消えない想い】 0-1 邂逅の朝[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[2] 0-2 男らしいはずの少年[テツヲ](2012/03/14 06:18)
[3] 0-3 風呂場の攻防[テツヲ](2012/03/12 22:24)
[4] 0-4 よき日が続きますように[テツヲ](2012/03/09 12:29)
[5] 0-5 友人[テツヲ](2012/03/09 02:11)
[6] 0-6 本日も晴天なり[テツヲ](2012/03/09 12:45)
[7] 0-7 忍び寄る影[テツヲ](2012/03/09 13:12)
[8] 0-8 急転[テツヲ](2012/03/09 13:41)
[9] 0-9 飲み込まれた心[テツヲ](2012/03/13 22:43)
[10] 0-10 神か、悪魔か[テツヲ](2012/03/13 22:42)
[11] 0-11 絶対零度(アブソリュートゼロ)[テツヲ](2012/06/28 22:46)
[12] 0-12 夜が明けて[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[13] エピローグ:消えない想い[テツヲ](2012/03/10 20:27)
[14] 壱の章【信じる者の幸福】 1-1 高臥の少女[テツヲ](2012/07/11 23:53)
[15] 1-2 ファンタスティック事件[テツヲ](2012/03/10 17:56)
[16] 1-3 寄り添い[テツヲ](2012/03/10 18:25)
[17] 1-4 お忍びの姫様[テツヲ](2012/03/10 17:10)
[18] 1-5 スタンド・バイ・ミー[テツヲ](2012/03/10 17:34)
[19] 1-6 美貌の代償[テツヲ](2012/03/10 18:56)
[20] 1-7 約束[テツヲ](2012/03/10 19:20)
[21] 1-8 宣戦布告[テツヲ](2012/03/10 22:31)
[22] 1-9 譲れないものがある[テツヲ](2012/03/10 23:05)
[23] 1-10 頑なの想い[テツヲ](2012/03/10 23:41)
[24] 1-11 救出作戦[テツヲ](2012/03/11 00:04)
[25] 1-12 とある少年の願い[テツヲ](2012/03/11 12:42)
[26] 1-13 在りし日の想い[テツヲ](2012/08/05 17:05)
[27] エピローグ:信じる者の幸福[テツヲ](2012/03/09 01:42)
[29] 弐の章【御影之石】 2-1 鏡花水月[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[30] 2-2 相思相愛[テツヲ](2012/12/21 17:29)
[31] 2-3 花顔雪膚[テツヲ](2012/02/06 07:40)
[32] 2-4 呉越同舟[テツヲ](2012/03/11 01:06)
[33] 2-5 鬼哭啾啾[テツヲ](2012/03/11 14:09)
[34] 2-6 屋烏之愛[テツヲ](2012/06/25 00:48)
[35] 2-7 遠慮会釈[テツヲ](2012/03/11 14:38)
[36] 2-8 明鏡止水[テツヲ](2012/03/11 15:23)
[37] 2-9 乾坤一擲[テツヲ](2012/03/16 13:11)
[38] 2-10 胡蝶之夢[テツヲ](2012/03/11 15:54)
[39] 2-11 才気煥発[テツヲ](2012/12/21 17:28)
[40] 2-12 因果応報[テツヲ](2012/03/18 03:59)
[41] エピローグ:御影之石[テツヲ](2012/03/16 13:24)
[42] 用語集&登場人物まとめ[テツヲ](2012/03/22 20:19)
[43] 参の章【それは大切な約束だから】 3-1 北より訪れる災厄[テツヲ](2012/07/11 23:54)
[44] 3-2 永遠の追憶[テツヲ](2012/05/12 14:32)
[45] 3-3 男子、この世に生を受けたるは[テツヲ](2012/05/27 16:44)
[46] 3-4 それぞれの夜[テツヲ](2012/06/25 00:52)
[47] 3-5 ガール・ミーツ・ボーイ[テツヲ](2012/07/12 00:25)
[48] 3-6 ソロモンの小さな鍵[テツヲ](2012/08/05 17:20)
[49] 3-7 加速する戦慄[テツヲ](2012/10/01 15:56)
[50] 3-8 血戦[テツヲ](2012/12/21 17:33)
[51] 3-9 支えて、支えられて、支えあいながら生きていく[テツヲ](2013/01/08 20:08)
[52] エピローグ『それは大切な約束だから』[テツヲ](2013/03/04 10:50)
[53] 肆の章【終わりの始まり】 4-1『始まりの終わり』[テツヲ](2014/10/19 15:41)
[54] 4-2 小さな百合の花[テツヲ](2014/10/19 16:20)
[55] 4-3 生きて帰る、一緒に暮らそう[テツヲ](2014/11/06 20:52)
[56] 4-4 情報屋[テツヲ](2014/11/24 23:30)
[57] 4-5 かつてだれかが見た夢[テツヲ](2014/11/27 20:33)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[29805] 2-5 鬼哭啾啾
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/03/11 14:09

 ラブホテルというものは基本的に防音がしっかりしているはずだが、どうにも騒がしい。巻き舌の怒声、大地を踏み鳴らすような足音、暴力的な破壊音、一般人の悲鳴。それら怒涛の騒音が渾然一体となって、この建物を包み込んでいる。
 不幸中の幸いは、ここがラブホテルだったことだ。フロントは無人。会計も自動清算支払機で済ませられるので、身分証明書を提示せずとも部屋まで直行できる。つまりホテル側の人間は、泊まっている人間のことを逐一把握していない。いくら暴力団でも、客のプライベートに関与していない従業員から、俺たちの所在を聞きだすのは無理だろう。

 警戒しながら廊下に出ると、ちょうどとなりの部屋から初老の男性と若い少女が出てくるところだった。親子ほども年齢が違う彼らからは、明らかな犯罪の匂いがした。ズバリ援助交際だろう。
 ほかにも何組かのカップルが慌てて部屋を飛び出しては、転がるようにしながら階段やエレベーターのほうに駆けていく。威嚇のためか、さきほど階下から何発かの銃声が聞こえてきた。ホテルでお楽しみ中だった人たちが泡を食って逃げ出しているのはそのため。
 一般客の姿はちらほらと見かけるのだが、しかし暴力団らしき影はどこにも見当たらない。おそらく、彼らは一階からしらみつぶしに俺たちを探している。ゆえに地上七階にあるこのフロアには、まだ捜索の手が及んでいないのだ。

「よし、逃げるならいまだな」

 ここで問題は、どこからどう逃げるか。

「夕貴。どうする?」

 俺の服を引っ張りながら、美影が尋ねてくる。その茫洋とした瞳からは、どこか俺という人間を試そうとするかのような思惑が感じられた。

「そうだな……」

 目を閉じて、脳裏でありとあらゆる情報を再生し、咀嚼し、反芻していく。

「たぶんだけど、この建物には三つの出入り口があるはずだ。一般客が利用するものと、従業員が利用するものと、緊急時に使われる非常階段」
「うんうん」
「このなかで一番手っ取り早いのは三番目のやつだな。表口も裏口も一階からしか繋がってないけど、非常階段は全フロアから繋がってる。あの緑のマークに従って移動すれば、迷うことなくたどり着けると思う。ただ」
「相手がもう抑えてる」

 そんなことは初めから分かっている、とでも言いたげに、美影が言葉を引き継いだ。
 暴力団側としても、せっかく追い詰めた獲物を逃がす真似だけはしたくないだろう。初めから出口なんて塞がれてると考えたほうが後々に気が楽だ。まともな方法で逃げ切れる、と楽観視するのは止めたほうが無難。
 だが正面から突破するのもリスクが大きすぎる。俺の能力にも限度があるし、美影がどの程度戦えるのかも分からない。相手は拳銃や刃物を装備しているし、その具体的な人数だって不明。あまりにも不明瞭な要素が多すぎて、作戦を立てようにも上手く行かない。
 どうする、どうすればいい……?
 必死に頭を働かせるが、利口に迷う時間などあるはずがなかった。それを思い知らせるように、俺たちのいるフロア、七階に暴力団がなだれ込んできた。けたたましい騒音と、暴力的な緊張と、乱暴な気配。

「いたぞ! こっちだっ!」

 敵の一人が出したその合図を皮切りにして、階下にいた暴力団構成員が次々と七階に上がってくる。
 通路の向こう、ちょうど階段のあたりにいる男たちは、目算で七人。彼らは拳銃を構える。背後にいた美影が動く気配がしたが、俺はそれを左手で制し、右手を前に突き出す。べつに手を伸ばす必要はないのだけれど、そうしたほうが『銃弾を逸らす』というイメージを作りやすいのだ。
 警告もなく男たちが発砲してきた。ガァン、と鼓膜が割れそうな轟音。ホテルの通路に、たちまち硝煙の臭いが漂う。
 キィン、とかすかな耳鳴り。
 空気を切り裂くように突貫してくる銃弾を知覚し、それを構成する『金属』にDマイクロ波を作用させる。でたらめになる運動エネルギー。銃弾は真っ直ぐに飛ぶことができず、ありえない急角度で方向転換していった。いくつかは天井に跳弾し、電灯を破壊した。ぱらぱらとガラスの破片が降り注ぐ。
 数瞬、男たちが困惑した。それは絶好の隙と言えたが、いかんせん距離が遠すぎる。これといった遮蔽物のない通路においては、拳銃を持っている彼らのほうが圧倒的に有利だ。

「逃げるぞ、美影!」

 この場でじっとしていても事態は好転しない。少なくとも拳銃の射線から逃れることのできる場所に移動する必要がある。

「でも」
「こっちだ!」

 ぼんやりとした顔でなにかを言いたげにする美影の腕を引っつかみ、ほとんど引きずるようにしながら、俺は走り出した。
 このホテルの通路は、アルファベットの『L』のようなかたちをしている。とりあえず角さえ曲がってしまえば、被弾の心配はしなくていい。
 電灯が割れたせいで薄暗い通路をひた走った。男たちは俺と美影を追いながら発砲してくる。すぐ近くの壁や、足元の床、天井に穴が穿たれ、コンクリート片が飛び散った。
 間もなく、角を曲がる。銃弾の雨が止んだ。
 遠くのほうには緑のランプ。緊急用の出口。あの重々しい鉄の扉を開けば、屋外に設けられた避難階段に出られる。そこにも敵はいるだろうが、真っ直ぐ伸びたホテルの通路とは違い、階段の踊り場なら迂闊に拳銃は使用できないはずだ。多少のリスクは伴うが、もう贅沢を言っている場合じゃない。なんとか接近戦に持ち込み、相手を蹴散らす。あとは闇に乗じて逃げればいい。
 幸いにも、非常出口は屋内からしか開かないようになっている。つまりいま扉がバーンと開いて、向こうから敵が出てくるというようなシチュエーションはありえない。それは俺たちにとって幸運と言える。
 だが、間に合わない。
 俺たちが非常出口に到達するよりも、暴力団の連中が角を曲がり、拳銃の照準を合わせるほうが明らかに早い……!

「美影!」
「わかった」

 俺はその場で立ち止まり、美影は非常出口のほうに駆けて行く。あの扉を開くのには数秒の時間を要する。それまでの間、雨と注ぐ銃弾から身を守る必要があるのだ。
 向こうの角から、スーツを着崩した男たちが姿を見せる。それと同時に、美影が非常口の取っ手に手をかけた。
 しかし。

「……開かない」

 ガチャガチャ、と取っ手を動かすが、扉は固まったように動いてくれない。
 それは力が足りないとか、開け方が分からないとか、そんな単純な理由じゃなかった。こうしたホテルの非常口は、誤用を防ぐために非常ベルが鳴らなければ開閉しないタイプの場合があるのだ。そして最悪なことに、今回がそのパターンだった。
 だが開きませんでした、では済まされない。もう俺たちに逃げ場はないのだ。かといって男たちを撃退するには、銃弾を防御しながら数十メートルほどの距離を詰めなければならない。さすがの俺も、美影を護りながらそれをするのは無理がある。
 こんなことになるなら最初から接近戦に持ち込めばよかった、と後悔するが、それは後の祭りだろう。
 どうする。どうする、萩原夕貴。落ち着いて考えろ。頭を使え。思考を止めるな。

「…………」

 この場合、非常ベルを鳴らすことができれば俺たちの勝ちだ。でも近くには手動タイプの警報装置はない。
 ただ、天井のほうに丸っこいかたちをした機械が見える。あれは恐らく、特定の条件が揃ったときのみ作動する非常ベルだ。それはちょうど、通路の向こう側にいる男たちの真上あたりに設置されている。あいつをどうにしかして鳴らしてみせるしかない。

「……やるしかないか」

 男たちが曲がり角のところに立ち、揃ってバカみたいに拳銃を発砲してくる。こちらが不可思議な力を使うことを知っているせいか、遠慮がない。
 俺は《ハウリング》を使った。
 キン、キン、と甲高い音がして、そのたびに銃弾が逸れていく。鼻腔を突く火薬の臭い。通路全体に硝煙が立ち込めていく。
 俺は一歩、一歩と下がりながら、能力を行使し続ける。

「ぐっ!」

 ずきん、と心臓が痛んだ。思ったより限界が近い。
 《悪魔》の異能も万能じゃない。《ハウリング》には膨大なDマイクロ波が必要とされる。Dマイクロ波を作り出すのは心臓だが、あまり過剰に力を使いすぎると、需要に供給が追いつかなくなる。それによって無茶な労働を課された心臓には過度の負担がかかり、刺すような痛みが胸を圧迫する。
 半分だけしか《悪魔》の血を引かず、まだ満足にトレーニングもしていない俺にとって、異能を連続して使用するのは危険だった。その証拠に、ナベリウスからも口を酸っぱくして止められてる。
 でも、ここで止めるわけにはいかないんだ……!
 天井にぽつんと設置された機械を見つめる。それは数秒おきに点滅し、弱い光を放っている。あの機械こそが、いまの俺たちを救うかもしれない命綱だった。
 本来ならば”量”が足りないかもしれないが、あの装置が男たちの真上にあるという事実を踏まえれば、決して不可能じゃないはずなんだ。

「夕貴」

 すぐ後ろにいる美影が、相変わらず感情の読み取れない声でつぶやいた。心配してくれているのか。手際の悪い俺を叱っているのか。

「……っ、大丈夫、だ!」

 そう声に出した瞬間だった。じりりりりり、と身も竦むような音がホテルを包み込む。突然のことに驚いた男たちの銃撃が一瞬だけ止まった。

「開いた」

 美影の細っこい手が、頑丈な非常口をいとも容易く開いた。非常ベルが鳴ったことにより、仕掛けが作動したのだ。ホテルの内部と比べると冷たい外の風が、体を吹きつける。
 俺は例の機械を見た。
 天井に設けられているのは、光電式スポット型煙感知器。数秒おきに点滅する光源の光が『煙』に乱反射されると、それを受光素子が検知し、ベルが鳴るという仕組みである。
 男たちが拳銃を使ったことにより発生した多量の硝煙は、俺たちが逃げるための一手となった。これで彼らと警報装置の距離がもう少しでも開いていたなら、受光素子に届くまえに硝煙が霧散してしまい、光源を乱反射させるだけの『煙』を確保できなかっただろう。
 そういう意味では、俺たちはまだツキに見放されていない。

「……よし、行くぞ」

 鋭い痛みの走る左胸を押さえつけながら、非常口を通って外に出る。振り返ってみると、通路の奥から、男たちが慌ててこちらに駆け寄ってくるところだった。その何かに取り憑かれたような必死の形相に違和感を覚えながらも、俺は非常口を閉めた。どうせすぐに開けられるだろうけど、少しでも時間を稼げればいい。
 外に出ると、晴れた夜空と、かたちのいい三日月が目に入った。まわりにはラブホテルが立ち並んでいて、少し狭苦しい印象を受ける。
 地上七階ともなると、さすがにそれなりの高さになる。避難階段は鉄かステンレスのようなもので造られており、歩くと小気味よい音が鳴る。階段は一階まで通じているらしく、上手くいけばこのまま逃げ切ることも可能に思えた。
 ただし、下のほうからは人の気配がする。注意は必要だった。俺たちは小走りで階段を駆け下りる。

「夕貴」
「なんだ。いまは無駄話してる場合じゃねえだろ。それともあれか? 俺の男らしさに気付いたのか?」
「冗談は顔だけにして。それより」
「なんだとてめえコラぁ! 俺の顔が冗談だって言ったのか!? 俺はよく母さんに似てるって言われんだぞ! つまりおまえはいま俺の母さんを侮辱しやがったってことだ! すぐに謝れ!」
「狙われてる、って言おうとした」
「は?」

 俺がまくし立てても、美影は表情一つ変えなかった。代わりに、美影は指で上のほうを指した。まるでそっちを見てみろ、とでも言うように。
 見上げると、そこには七階の非常口から飛び出してきた男たちがいて、俺に銃口を向けていた。

「バカっ! もっと早く言え!」
「ごめんごメンゴ。……あ、”ごめんごメンゴ”とは、使い古された”ごめん”という謝罪の言葉を、今時の女子高生を中心に流行ってほしいという願いを込めてプリティーに換言したもので――」
「説明ならあとで聞くから黙ってろぉぉぉぉっ!」
「ごめんごメンゴー」

 美影の手を引っ張って、俺は目の前にあった非常口に飛び込んだ。まだ二階分しか降りていないので、そこは五階だった。せっかく外に出たのに、またホテルの中に逆戻りである。おまけに悪いことは重なるらしく、通路の奥のほうにはさっきの男たちとは別の連中が待ち構えていた。彼らは俺たちに気付くと、ふところから拳銃を取り出す。それと合わせて、背後からは避難階段を駆け下りてくる気配。
 まずい。これは洒落にならない……。
 さきほど力を使いすぎたので、しばらくは間を置かないと、俺は《ハウリング》を満足に行使できない。銃弾を防げない。
 正面には拳銃を持った男たち、背後からも拳銃を持った男たち。図らずも挟み撃ちだった。
 迷っている暇はない。
 俺は美影を連れて、一番身近にあった部屋に飛び込んだ。すこし前までは一般客が利用していたのか、オートロックはかかっていなかった。
 部屋はかなり広く、調度品も趣向を凝らしたものが多かった。よく見ればテーブルのあたりにピンク色のブラジャーが落ちている。前の客が付け忘れたらしい。俺は扉を内側からロックした。美影はブラジャーを拾って「おおー」とか言っている。アホだった。

「ちくしょう、あいつらアホみたいに拳銃を撃ちまくりやがって! そんなに明日の朝刊を飾りたいのかってんだ!」
「ううん、たぶん飾られない」

 大きなあくびをかみ殺し、美影は言う。

「さすがに今回は事態が特別。明るみに出てはいけない問題が多すぎる。【哘】か【如月】が出張ってきて、公的機関にエクスキューズをかけるはず」
「それってどういう――」

 意味だ、と続けようとした俺の声を、暴力的な騒音が遮った。扉はロックしたはずだが、筋骨隆々とした大の男の力と、拳銃の破壊力には耐え切れなかったようだ。勢いよく扉が開いて、暴力団構成員が部屋のなかに押し寄せてきた。その数は、十二人。

「追い詰めたぞクソガキども! てこずらせやがってっ、観念しろや……!」

 荒い呼吸の合間に、搾り出すようにして一人の男が言った。その表情には余裕がなく、目の焦点も微妙に合っていない。

「おら坊主。そこの女をこっちに渡せや」

 ここで美影を引き渡せば、俺は助かるかもしれない。五体満足で帰れるとは思えないが、殺されはしないかもしれない。それでも女の子を犠牲にしてまで、俺は助かりたくなかった。

「うるせえよ。大の大人がよってたかって、こんな小さな女の子を追い掛けまわすなんて、恥ずかしくねえのか」
「私、小さくない」

 ぐいっ、と服が引っ張られる。状況が分かっていないのか、美影が不服そうな顔で俺を睨んでいた。それを無視して、俺は男たちに宣言する。

「べつに正義の味方を気取るわけじゃないが、おまえらにこの子は渡せない。どうしてもって言うなら、力ずくで奪ってみろよ」

 張り詰めた緊張と、高まる敵意や悪意。冷や汗が背中をべっとりと濡らしていく。
 つい啖呵を切ってしまったけど、状況は悪い。
 いまの俺に《ハウリング》は使えない。それに相手は十人近くいるのだ。格闘戦に持ち込むにしても、高いリスクが付きまとう。美影は自分のことを超強いとかほざいてやがったが、それもどこまで本当か分からない。そう考えると、仲間である美影ですら不安要素の一つに見えてくる。
 美影を護りながら、武装した男を十人も倒す。無理とは言わないが、かなり厳しいことは間違いない。
 じりじりとした空気。俺も、男たちも、迂闊には飛び出さない。しかし、その一触即発の膠着を崩すように、

「そういえば」

 平坦とした美影の声。俺より一歩前に出た彼女の背中では、後頭部の高い位置で一つに結われた漆黒の髪が、尻尾のように揺れていた。

「あのバケモノは元気?」

 バケモノ。その単語が出た瞬間、男たちの顔が恐怖に塗りつぶされた。正気を失っていくのが目に見えて分かる。

「次、会ったら伝えて。”お前は私が殺す”と。そしてもう一つ――」

 美影は言った。

「――”用済みになっても、道具を捨てないであげて”――」
「う」

 道具。
 それが何を。いや、誰を指しているのか。いまそのバケモノの指示に従い、働いているのは誰か。使われているのは誰か。道具とは誰なのか。用済みになれば殺されるのは、果たして誰なのか。

「殺されたくないからって、バカ正直に従いすぎ。うざい」
「うう」

 がたがたと震える男たちを指差して、美影は罵倒を続ける。俺が止めに入るよりも早く、

「う、うわあああぁぁぁああぁぁぁぁぁーっ!」

 半狂乱になったような悲鳴が部屋を占領した。精神に支障でもきたしたのか、男たちは不気味な笑みを浮かべ、口端からよだれを垂らしながら拳銃を構えた。トリガーにかかっていた指が引かれていくのが、やけにゆっくりと見える。俺は反射的に、近くにあったベッドの影に隠れるようにして身を伏せた。
 でも美影は、男たちの正面でじっとしたまま動かない……!

「あんのバカがっ!」

 急いで助けに行こうとするが、それを遮るようにして、発砲音が重なった。狂ったように部屋を侵食していく破壊の雨。いまベッドから飛び出せば、俺が死んでしまう。

「美影っ! 隠れろっ!」

 声を張り上げてみたが、銃声がうるさすぎて自分でもよく聞こえなかった。ぱりん、ぱりん、と窓ガラスが割れて、俺の身体に降り注いだ。充満していた硝煙と火薬の臭いが、清浄な空気に押し流される。こんなときなのに、汗に濡れた体を撫でていく夜風がやけに気持ちいいなぁ、と思った。
 それは一瞬にも永遠にも思える時間だった。しばらくして銃声が止む。もしかして、美影が……?

「――っ!」

 そこから先を考えたくなかった。あんな小さな女の子が、銃弾を防ぎきるだけの力を持っているとは思えない。いくら小口径と言えども、あれだけ撃ち込まれれば、誰だって瀕死の重傷を負うだろう。
 俺は恐る恐る、ベッドの陰から頭を出して、部屋の様子を覗いてみた。
 果たして、美影は無事だった。
 ほっとするのも束の間、今度は言い知れない疑問が脳裏をよぎった。美影は一歩も動いておらず、男たちの正面に立ったままだ。手には何も持っていない。
 一体、何があったんだ……?
 美影はどうやって銃弾から身を守った……?
 マガジンを交換し終わった男が、美影に銃口を向ける。

「止め――!」

 今度こそ止めようと思ったが、遅かった。ガァン、と長く尾を引く轟音。スパイラル回転を加えられた鉛弾が、冷たい夜気を焼きながら高速で飛来する。

 その瞬間、俺が見たものは、まるで魔法だった。

 美影が右腕を振るう。それこそハエでも払うように。相変わらずの気だるそうな顔で。ただそれだけ。ただそれだけなのに、銃弾が彼女の体から逸れていった。

「は……?」

 自分の目が信じられず、俺は何度か瞬きをした。ふたたび、男が発砲。美影が腕を振るう。銃弾の軌道が変わる。躍起になった男たちが何度も何度も、装填したマガジンが空になるまで撃ち続ける。しかし、大量生産の鉛弾は、どれ一つとして美影には届かない。
 ガラスの破壊された窓から、横殴りの強い風が吹き込んできた。ふわりとカーテンが舞い上がり、眩い月明かりが室内を照らし上げる。

「……あれは」

 なにか銀色の『糸』のようなものが、室内を縦横無尽に行き交っていた。その『糸』は、主人を護るように美影の周囲に展開している。
 美影が腕を振るうと、『糸』は途端に表情を変えて、静かに、けれど力強く、銃弾の雨から彼女を守護するのだ。それは見蕩れるほど美しい光景だった。
 彼女は純粋な人間である。動体視力や反射神経も、人の域を超えていない。いくら鍛えたところで、人の身には限界があるのだから。
 美影は銃弾をいとも簡単に防いでいた。恐らく、銃口の向きから着弾点を予測し、その軌道を計算することによって、目で見えないはずの銃弾を、感覚で視ているのだろう。しかしあんな細い糸で銃弾を弾くなら、それこそ万分の一ミリの誤差も許されない、絶対的な技量が必要になるはずだ。なのに美影は、いとも容易く己の身を護っている。
 年端もいかない女の子が、すでに超人的な技能を身につけている。それは人が何代にも渡って研鑽してきた技術の結晶だった。
 水のように流麗な『糸』が、火のように怒涛な銃弾を防ぐ光景は、どこまでも芸術的だった。思わずため息が漏れるほどに。
 でも俺は同時に、打ちのめされたような気分も味わっていた。 
 
 ”おまえたちが《悪魔》だとしても、驚異的な能力を持っているとしても、私たちは一族で積み重ねてきた業によって、おまえたちに追随してみせるぞ。人間であることは恥ではない。ゆえに侮るなかれ。私たちは決しておまえたちに負けはしない”

 美影の小さな背中が、俺にそう訴えかけてくるような気がした。あの覇気のなかったラインの細い身体が、いまは実際の寸法よりも遥かに大きく見える。儚げな美貌を湛えた横顔から目が離せない。
 ギャップに惹かれる、というやつだろうか。
 常に気だるげな態度を崩さなかった美影が、いまや切れ長の瞳をすっと細めて、息を呑むほどの凛とした空気をまとっている。その事実に、たまらなく好感を抱いてしまうのだ。
 発砲が途切れる。
 弾切れ。男たちが慌ててマガジンの交換をしようとする。そのとき、獣を思わせるような俊敏さで美影が駆け出した。
 ただでさえ小柄な身体が、地を滑空するツバメのごとき低姿勢で疾走してくるのだ。男たちにしてみれば美影が消えたようにしか見えなかっただろう。
 ぶらりとしていた美影の両腕が、交差するように振るわれた。極細の『糸』が翻り、男たちの”指”の肉を的確に切り裂いていく。鋭い痛みにより、彼らは武器を取り落とした。
 美影は体術を用いて接近戦を仕掛ける。しなやかな肉体を生かした、パワーというよりはスピードを重視した体捌き。類稀な身体能力によって繰り出される一撃は、その小さな身体から繰り出されたとは思えないほどの力強さ。
 仮にも武道を志し、幼い頃から修練に励んできた俺には分かる。この壱識美影という少女は、途方もない才能の塊だ。天才と呼ぶのも失礼に当たるような、磨いても磨いても研磨の終わらない至高の原石。

 誰かを護ることのできる”強さ”に、ただひたすら愛された人間がこの世にいるという事実に、俺は戦慄さえ覚えた。

 応戦する男たちは、この場において、美影という主役を際立たせるだけの脇役に過ぎない。
 息つく間もなく放たれる拳、くびれた腰の回転から繰り出される蹴り。その一挙手一投足に俺が見蕩れるたびに、男たちが一人ずつ薙ぎ倒されていく。
 最後の男がくずおれるのと合わせて、美影が俺に振り向いた。

「終わった」 

 その顔には、何もなかった。学校に遅刻しないのは当たり前。遅れずに始業に間に合ったぐらいで何を騒ぐのか。そんな顔だった。

「……あ、ああ。お疲れ」

 気が動転しているせいか、場違いな労いの言葉をかけてしまう。自分でも頭がおかしいとは思うが、俺は美影に憧れのような感情を抱いていた。あの極限とも言うべき次元にまで磨き上げられた戦闘技術。それは生まれ持った天賦の才と、たゆまぬ努力の結晶だろう。いまの俺には、美影が美しい宝石のようにさえ見えた。

「夕貴。ちょっとヘン」

 ぐいっと美影が顔を近づけてくる。ほのかなシャンプーの香りがした。
 当面の危機を排除したからか、美影はふたたび気だるそうな空気をまとっている。ぼぉーとした切れ長の瞳が、俺をじっと見つめていた。
 もちろん惚れたわけじゃない。それは確かである。恥を承知で告白すると、俺は巨乳が好きなのだ。こんな貧相な身体をした女など御免被る。

「てい」
「痛っ、なにすんだ!」

 いきなり頭を叩かれてしまった。わざわざぴょんとジャンプまでして。美影は艶やかな黒髪をちょこちょこと弄りながら、

「バカにされたような気がした」
「くっ!」
「たぶん、私の身体を嘲笑った。違う?」

 読心術でも心得てるのか、こいつ。俺は胸中に渦巻く気持ちを悟られたくなくて、わざと挑発するような言葉を口にした。

「違わないよ。だってさ、おまえって今年で十六歳だろ? それにしては身体に成長が見られないよなぁ。胸だって小さいし」

 むっ、と美影の瞳が鋭くなる。

「夕貴」
「なんだ、反論があるのか?」
「巨乳はファンタジー、貧乳はリアリティ」
「名言っぽく言うなよ! ちょっと感心しちゃったじゃねえか!」
「私はリアリティを捨ててファンタジーを目指す」
「やっぱり気にしてんのか……」
「私にも希望は……あるはず」

 自分の胸を揉むような仕草。心なしか肩が落ちているような気がする。やっぱり年頃の女の子としてはコンプレックスの一つなんだろうな。
 それから俺たちは気絶した男たちを放って、部屋から移動することにした。ただしホテル内には、まだまだ暴力団の連中がいる。階下に向けて移動するのは悪手だろう。

「……いや、待てよ?」

 閃くものがあった。
 多少無茶だが、いまの俺と、優れた身体能力を持つ美影なら、上手くやれば可能かもしれない。
 俺は眠そうに目をこする美影を誘導して、ふたたび上を目指すことにした。






 通路を駆ける俺と美影を追いかけながら、暴力団の連中が飽きずに発砲してくる。紛争地帯もかくやと言わんばかりの銃弾の雨が、ホテルを内部から食い荒らすように小さな穴を開けていった。
 俺が異能で、美影が『糸』で、それぞれ銃弾を防いでいるのだが、こうも乱射されては精神衛生上よくない。しかも、俺は力を使いすぎたせいか体が重いし、美影も傷の影響のせいで動きが鈍い。それに銃弾自体は防げても、跳弾までは予測できない。跳ね返った弾だけあって威力が落ちているのは幸いだが、それでも何発かは体に掠ったりもした。なにか打開策が必要だった。

「夕貴」
「なんだ!? ふざけた話ならあとで聞いてやるから、いまは」
「赤いの」

 美影の視線の先を辿ると、そこには赤い消火器があった。

「なるほど、確かに使えそうだな……!」
「任せる」
「ああ!」

 そうして俺たちは、消火器を素通りした。こちらに飛んでくる銃弾の軌道を『逸らす』のではなく”捻じ曲げて”、消火器に穴を開けようと試みる。
 カン、カン、と甲高い音がして、鉛弾が消火器にぶつかるが、金属板がへこむだけで、なかなか穴が空かない。

「……くそ!」

 一昔前ならともかく、いまの安全基準だと金属板が厚すぎて、暴力団の持つ小口径の銃じゃ消火器を貫けない!
 それでも諦めずに異能を行使し続ける。そして、ちょうど消火器と男たちの距離が狭まったとき、聞きなれない破裂音がして、消火器に穴が空いた。
 ガス容器のところに穴が空き、気化した圧縮ガスとともに白い消化剤が勢いよく噴き出した。それはジェットエンジンの要領で本体をくるくると回転、暴走させて、通路の一帯にもくもくと白い煙幕をかたち作っていく。あの消火器が蓄圧式じゃなく加圧式でよかった。
 大量の粉塵が、噴射するガスによってあたりに立ち込める。男たちは喉、肺、網膜をやられて、苦しげに咳き込みながら足を止めていた。

「なんとか上手くいったな……」
「これも消火器に気付いた私のおかげ」
「確かに今回ばかりはおまえの手柄だ」
「私、偉い?」
「ああ、偉いぞ」

 乱れた黒髪を撫でてやると、美影は「んー」と不愉快そうに唸って、俺の手を払いのけた。まだ懐かれてはいないらしい。
 暴力団の連中を黙らせたとはいえ、それは一時的なものだ。すこし時間を置けば彼らは回復するだろう。
 俺たちは駆け足で、一番初めにいた部屋まで戻ってきた。美影は『ここで何をするんだろう? 逃げるつもりなら下に降りたほうが早いんじゃないか?』と怪訝顔である。
 むう、と顎に手を添えて思考に耽っていた美影は、明快な答えを思いついたのか、ぽんと手を叩いた。

「なるほど」
「分かってくれたか。まあかなり無茶だけど、おまえなら平気だろ?」
「私が責め、夕貴が受けなら平気」
「なんの話だ!?」
「不純異性交遊か援助交際」
「不埒なことをするためにベッドのある部屋に戻ってきたわけじゃねえよ!」

 まったく、どんだけマイペースなんだ、こいつ。
 俺は窓辺に歩み寄った。

「夕貴」
「なんだ?」
「交渉は二千円から」
「安っ! おまえ、安すぎだろ! つーか、意味が分かって言ってんのか!?」
「うん。私、テクニシャン」
「マジかよ……」

 最近の女子高生は進んでんのか? まあ美影の言うことだから本当かどうかは分からないけど。
 俺はカーテンを引きちぎるようにして取り外した。かなり大きなサイズの窓があらわになる。そのガラスを片っ端からぶち壊しまくった。ぽっかりと開いた穴からは、となりのホテルの屋上が見えた。あの看板とかが置いてある背の低い建物である。ここが七階だから、向こうは五階か六階だ。直線距離にして十メートルもない。

「いけるか?」
「余裕」

 反論も、説明を要求されることもなかった。
 これが美影じゃなくて一般人なら『おまえ馬鹿だろ』と一蹴されていたはずだが、人間離れした運動能力を持つ彼女ならば、この幅飛びは楽勝だろう。それは俺だって同じだ。
 本当なら暴力団の連中がホテルに乗り込んできたとき、ここから跳ぶべきだった。でもまあ、あのときは美影が優れた運動能力を持っていることを知らなかったので、そんなアバンチュールな判断ができなかったのも、やっぱり仕方ないのだ。
 すこし遠回りをしたが、まだ遅くはない。

「じゃあ」

 行くか、と言おうとしたところで、通路のほうから怒声が聞こえてきた。

「……もう時間はねえか」
「夕貴、早く」
「わ、分かってるって」

 実を言うと、俺はびびっていた。人間離れした芸当ができるようなっても、それは飽くまで『体』の話であり、俺の『心』は純粋な人間のままなのだ。
 銃弾を防ぐ、という受動的なアクションならともかく、ビルの七階から飛び降りる、という能動的なアクションをするのは、ぶっちゃけ怖い。銃弾は向こうから飛んできたが、今回は自分の意思で窓から身を投げ出さないといけない。まさに紐なしバンジーだ。それもコンディション体制が最悪な。

「はぁ」

 美影が外人のように肩をすくめて、ため息をついた。これみよがしに。

「やっぱり夕貴、男らしくない」
「……んだと?」

 顔の筋肉が引きつった。

「てめえ、この男の中の男である俺を、女々しいって言ったのか?」
「ぷぷっ、足が震えてるくせに」
「…………」

 こいつ、あとで絶対にしばく。
 しかし美影の激励――ただおちょくってるだけかもしれないが――により、覚悟が決まったのも確かである。
 俺が窓枠に足をかけるのと、部屋に暴力団構成員が踏み込んでくるのは、まったくの同時だった。男たちが拳銃を向けてくるのを無視して、俺は目を閉じた。こういうのは総じて自分との戦いだ。いまの俺がその気になれば、ビル間の跳躍も難なくこなせるはず。

「夕貴」

 出会ったときからいまのいままで変わらない、抑揚のない声。確かに女の子らしい綺麗な声ではあるけど、こんなやる気のなさそうな呼びかけで腹を括るなんて、俺も人のことは言えないよなぁ。
 背後でマズルが火を噴く。重なる銃声。
 こんなときなのに、ガキん頃の運動会を思い出した。小学校の徒競走で、母さんにいいところを見せたくて、日が暮れるまで河川敷で練習してたっけ。本番では一位を取った俺を、母さんが抱きしめてくれた。俺はクラスでは一番足が速かったけど、やっぱり本番は不安で。スタート前に、先生が鳴らしたピストルの音が、暴力団のそれと重なって聞こえた。

「――っ!」

 跳んだ。勇気を出して。
 ごお、と冷たい強風が肌を乱暴に撫でていく。髪が逆立ち、服がなびいた。夜に身を投げた俺の頭上を、男たちが放った銃弾が掠めていく。
 想像していたよりも、それは難しくなかった。建物の距離が近かったこともある。ただやっぱり、走り幅跳びの選手が助走をつけて跳ぶような距離を、助走なしで跳べてしまう俺のほうが、この場合は異端なのだろう。
 コンクリートに足がつく。無重力に近いような体感が終わる。自分の足で地面に立つということが、やけに素晴らしく思えた。
 ひたいの汗を拭う俺のすぐとなりを、黒い人影が横切っていった。その小柄な少女は、衝撃を殺すようにニ回転ほど地面を転がり、止まった。

「……なんとか上手くいったみたいだな」
「これぐらい朝飯前」

 振り返ってみると、俺たちが跳んだ窓のあたりに暴力団構成員が詰め寄っていて、こちらを幽霊でも見るような目で凝視している。また馬鹿の一つ覚えみたいに銃を撃ってくるかと思ったが、果たして、彼らは慌ててホテルの中へ引き返していった。

「……おかしいな」

 この距離からでも十分に照準できるのに。それに、あれだけ執拗に俺たちを――いや、美影を追っていたあいつらが、大人しく引き下がるとは思えない。

「お見事。まずは褒め称えましょう。願わくば、麗しき姫と小さな勇者に、神のご加護があらんこと」

 きっと俺の期待に応えたわけじゃないだろうが――小気味よい拍手の音と芝居がかった声が聞こえてきた。

「……夕貴」

 珍しく緊張した美影の声。慌てて視線を前に向けると、俺たちの行く手を遮るように、屋上の向こうに一人の男が立っていた。
 日本人離れした金色の髪。不気味なまでに細い糸目。敬虔な神を僕を思わせる神父服。なるほど、容姿だけならば善人にも見える。
 しかし、そいつが悪の塊のような存在であるということは、一目見ただけで分かった。
 化け物が人間の皮を被って歩いているような違和感。まるで夜にぽっかりと穴が空いたような喪失感。あの男の周囲だけ次元が歪んでいるようにさえ見える。
 一難去ってまた一難どころじゃない。いま分かった。さっきまでのドンパチは危機じゃなくて鬼ごっこだ。
 本当にやばいのは。美影が狙っているという《敵》は、この男なのだから。




 屋上はかなり広かった。
 中世の城をイメージしたようなかたちの大きな看板が建てられているが、それの分のスペースを差し引いても、小さな子供が遊びまわれるぐらいの広さは残っている。隅のほうには空調設備や給水設備が並んでいて、いまもごうごうと音を立てていた。看板をライトアップするための照明が四方に設置されているため、視界は悪くない。
 なにか本能的な危機感を感じて、俺は身構えていた。銃口を向けられても気だるそうな態度を崩さなかった美影でさえ、いまはピリピリとした緊張感を放っている。そんな俺たちを薄気味悪い糸目で睥睨し、男は苦笑した。

「おやおや、この崇高な僕に挨拶もなしですか? 近頃の若者は、どうも礼節を弁えていないらしい」
「黙れ」

 間髪入れず、美影が一蹴した。おまえの声なんか一秒だって聞いていたくない、とでも言うような刺々しい口調だった。男はやれやれと肩を竦めると、

「さて。そこの小さな勇者様に一つ、お聞きしたい」

 俺に声をかけてきた。

「……小さな勇者様じゃねえよ。夕貴だ」
「それは失礼。では夕貴少年。命だけは助けてあげましょう。ですから、そこの小娘を、この崇高な僕に渡しなさい」
「……なんだって?」
「聞こえませんでしたか? それとも聞こえた上で惚けたフリをしているのでしょうか? どちらにしろ二度は言いません。これ以上、崇高な僕を煩わせる問答を続けた場合、君の命は保障しかねます」
「私をどうするつもり?」

 美影が一歩前に出る。その横顔は凛としていて、これっぽっちも男を恐れていない。ほう、と感心する男。

「いいですねえ。強く、気高く、美しい。優美な肉体と、堅固な精神。貴女のような女を跪かせて、その澄ました顔を絶望に歪ませることができれば、実に楽しいでしょう」

 クックック、と癇に触る笑い声。美影の瞳が鋭くなる。

「……ヘンタイ。死ねばいいのに」
「おや、嫌われてしまいましたか。まあいいでしょう。おもちゃを買うにも金を支払うのが人間社会だ。欲しいものは力で勝ち取るとしましょうか――」

 夜の屋上を満たしていく濃密で、不吉で、邪悪なまでの殺気。それは息苦しさを覚えるほどだった。全身が泡立ち、嫌な汗が肌を伝っていく。まるで俺たちを虫として認識しているような、そんな遠慮のなさ。自然と呼吸が荒くなる。拳銃を前にしても動きが鈍らなかった俺の身体が、いまはコールタールの海に沈んでいるように重い。こいつ、本当に人間なのか……?

「夕貴」
「……なんだ」
「あいつ、ヘンな力を使う」
「分かった」

 気をつけろ、とも、頑張れ、とも言葉に出していないが――その短いやり取りだけで、俺たちは互いに『死ぬな』と伝えていた。
 あれだけ晴れていた夜空は、すこしずつ曇り始めていた。遠くのほうから流れてきた暗雲が、見事な三日月を覆い隠そうとしている。

「くっ、くくく、ははははは――」

 男の笑い声。そのとき、信じがたいものを見た。

「――っ!?」

 俺たちの目の前から、男が消失した。姿が消えた。まるで初めからそこにはいなかったかのように。男の姿を見失ったのは美影も同様らしく、その瞳には明らかな驚愕の色が浮かんでいる。
 あまりに現実離れした現象を見て、俺たちは警戒するどころか困惑するので精一杯だった。

「いやはや、美しきかな人間愛。なんとも安っぽいドラマだ」 

 ほとんど反射的に振り返ると、そこには男の姿があった。
 生物にとって『背中』とは最も無防備かつ護りにくい場所である。それが分かっているからこそ俺は――きっと美影も――背後には細心の注意を払っていたのだ。いきなり第三者が現れて襲い掛かってくるならまだしも、俺たちと会話をしていた男が、俺たちに気付かれることなく、俺たちの背後を取るなど正気の沙汰ではなかった。

「……っ?」

 気付けば、視界が薄暗くなっていた。怪訝に思って空を見上げると、もう月が見えなくなっている。今夜の風はよほど強いのか。雲の流れも速いみたいだった。
 戸惑いから一歩、また一歩と後ずさる俺たちを満足そうな目で一瞥し、男は獣のように姿勢を低くする。間もなく男は駆け出した。視認するのも難しい超人的なスピード。その爆発的な踏み込みは、コンクリートの床に穴を穿つほどだった。
 だが目で追えない速度じゃない。俺だって偉大な父さんの血を引いてるんだ。
 数瞬のうちに間合いを狭めた男は、希少価値の低い虫を採集するかのような乱暴さで俺の頚椎を掴もうとしてきた。技術も戦術もない、ただ相手を破壊することだけを考えた動き。夜気を切り裂きながら振るわれる腕。プロボクサーのパンチですら楽々かわせるいまの俺でも、回避するのが精一杯だった。

「この野郎っ!」

 咄嗟にサイドステップを踏み、男の右方に回りこむ。男は右腕を振るった状態なので、こちらに回り込めば一方的に攻撃できる。
 手加減も躊躇もせず、腰だめに構えていた拳を突き出した。パンッ、と乾いた音。男は両腕を交差させて、右方からの拳打を左のてのひらで受け止めた。明らかに戦闘慣れした体捌き。ただ数秒、拳を交えただけで、踏んできた場数の差が決定的に違うことを思い知らされた。

「夕貴。六時の方向」

 こんなときでも冷静な美影の声。俺は咄嗟に六時、つまり後方に跳び、男から距離を取った。それと合わせて、天空から極細の『糸』が雨のように降り注いでくる。
 月明かりを反射して銀色に輝く『糸』は、ムチのように変幻自在な動きで男を攻め立てる。さすがに素手で防ぐことは無理なのか、男はたちどころに駆け出した。彼を追うようにして『糸』が翻り、古くなったコンクリートに切り傷をつけていく。
 美影は目にも留まらぬ俊敏さで屋上を駆けながら、オペラの指揮者さながらの洗練された所作で両腕を振るっていた。それと呼応して『糸』が、”男”をというよりは”空間”を切り刻んでいく。しかし男のほうが一枚上手だった。なにひとつ当たらない。

「ちっ……」

 埒が明かないと悟ったのだろう、美影は苛立たしげに舌を打ち、『糸』を手繰り寄せた。

「おや、もう終わりですか? 最近の曲芸師は客も満足させずに退場するのが一般的のようですね。いやはや、つまらない世の中になったものだ」

 身を寄せ合うようにして並ぶ俺と美影の正面に立ち、男は芝居がかった口調で嘯く。その余裕に満ちた言動が、決して虚構のものではないと俺たちは知っている。こちらが全力で挑みかかっているのにも関わらず。男はまだ力の一端すら垣間見せていないのだ。

「さて。時間も押していることですし、手早く幕を引くとしましょうか」

 唇の端が釣り上がる。男の腕が上がる。それがどうしようもなく死刑宣告に見えた。
 ……来る!
 俺は後先のことは考えずに《悪魔》の因子を解放した。全身の細胞が活性化する感覚。天才的な数学者にでもなったみたいに脳の気分がよくなる。いまの俺ならば、格闘技の世界チャンピオンを圧倒することさえ可能だ。
 男の姿がゆらゆらと揺らぐ。まるで陽炎のように。
 ……なんだ、これ?
 上手く認識が……できない?
 キィン、と微かな耳鳴り。鼓膜を突き刺すような痛みに顔をしかめる。

「美影!」

 なにがなんだか分からず、となりを見てみると――彼女は呆然としたまま、その場に突っ立っている。

「アホがっ、ぼさっとすんな!」

 俺は美影の身体を抱きかかえると、そのまま後ろに跳んだ。数瞬前まで美影がいた場所を、男の腕が薙ぎ払っていく。そのまま男は、肉食獣のような獰猛な動きで俺を追尾してきた。

「……マジかよっ!」

 驚異的なスピードで振るわれる拳や蹴りが、夜の闇を削り取っていく。なんて力だ。この男の一撃をモロに食らってしまったら、胴体に風穴が開いてしまう。明らかに人間離れした身体能力だった。
 美影を抱いたまま逃げるうちに、看板のほうに追い込まれてしまった。もう後ろには逃げられない。

「さようなら。この崇高な僕の手にかかって死ねることを誇りなさい」

 男が腕を振りかぶる。その間際、俺は体内に眠る力を、いまの自分にできる限界の範囲まで引き出した。バネのように収縮した脚の筋肉が、男の攻撃と合わせて一気に弾ける。後ろに逃げられないのなら、上に逃げればいいだけの話。空高くジャンプして、俺は美影とともに窮地を脱した。
 ばがんっ、となにかが潰れる、轟音。
 男の腕が、あの大きな看板を真っ二つに破壊した。それは例えるなら、幼稚園児が学校の黒板を叩き潰したようなものだ。あまりにもショッキングな光景。少なくともナベリウスと互角か、それ以上の膂力である。しかし驚いているのは、なぜか男のほうだった。

「……この波動……まさか……」

 男の顔から笑みが消える。俺は美影を揺さぶった。

「おまえ、現実逃避をするならあとにしろ! まだ終わってねえぞ!」
「えっ、あ……?」

 美影は慌てて自分の足で地面に立つと、

「……私、なにしてた?」
「は?」

 そんな意味不明なことを俺に聞いてくるのだった。本人も間抜けな質問だと思ったのか、透き通った色白の肌に薄っすらと朱が差す。

「……なんでもない」

 そう誤魔化すように言って、美影は男に向き直った。俺も気を入れなおし、ここからが正念場だと己を戒めた。男は驚愕と歓喜が入り混じった複雑な顔で、ぶつぶつと独り言を呟いている。

「……これは……知らない……《アスタロト》……いや、違う……それにしては弱々しすぎる……だがしかし……」

 一人で自問自答を繰り返していた男は、やがて明快な答えに行き当たったのか。

「そうか、そういうことですか! まったく、運命の悪戯というものは恐ろしい! そしてやはり神は、我に味方をしているようだ!」

 よほどハイになっているのだろう、男の口調からはうざったらしい自己陶酔的な色が消えていた。これまで虫を見るような目で俺たちを見ていた男が、ここにきて初めて対等な生物と、いや、目上の者と対峙するかのように、うやうやしく礼をした。困惑する俺たちを他所に、男は続ける。

「まずは無礼を詫びましょう。どうかお気を静めていただきたい。偉大なる《悪魔》の遺児よ」

 それが誰のことを言っているのか。俺にはすぐに分かった。俺にしか、分からなかった。

「悪魔の……遺児?」

 美影がきょとん、とした顔で俺を見る。彼女の疑問に答えるように、男が言葉を足していく。

「然り。そこの少年――否、そこにおられる方は、ソロモン72柱が一柱にして、序列第一位に数えられた最強の魔神である《バアル》のご子息です。そうですよねえ? 夕貴様?」

 とても俺を敬っているとは思えない、どちらかと言えば人の神経を逆撫でする口調だった。

「いやぁ、本当に驚きましたよ。数週間前、この地で《バアル》に似た波動を感じたものですから、まさかと自分を疑いながらも足を運んでみたのですが――どうやら当たりだったようですね。《バアル》が人間の牝との間に子を作ったなどと、出来の悪いジョークだとばかり思っていたのですが」

 数週間前。つまり菖蒲の誘拐事件があったときのことか? 
 きっかけは分からないけれど、あのときに俺は純粋な人間から《悪魔》になった。その覚醒の際に、膨大なDマイクロ波が放出されてしまったという。ナベリウスがいらぬ外敵をおびき寄せぬために、間もなく俺を正気に戻してくれたのだが……。
 《悪魔》には同胞を知覚する能力がある、とナベリウスから聞いている。ただしそれは、まだ鍛錬も積んでおらず、《悪魔》の力に振り回されているような状態の俺には到底無理な芸当だが。
 しかし、この男は、俺の波動を感じ取ったというのだ。それが果たして、なにを意味するのか。

「さて、名乗り遅れましたが」

 男は両手を広げて、空を抱くようにしながら宣言した。

「我はソロモン72柱が一柱にして、序列第七十一位の大悪魔ダンタリオン。貴方のお父上の同胞。その末席を汚す者ですよ」

 どこか威厳さえ感じられる声だった。

「……っ」

 悪魔。ナベリウスと同じ、ソロモンの悪魔。俺の父さんの同胞。人知を超えた強大な異能を操る、紛うことなき一騎当千の怪物。
 正直に告白すると、いつかこんな日が来るんじゃないかって思ってた。それと同時に、こんな日は絶対に来ないんじゃないかとも思ってた。
 いくら《悪魔》の血を引いているからといっても、俺は元は平凡な大学生なんだ。ちょっと女顔ってことにコンプレックスを持ってて、大好きな母さんがいて、大事な女の子がいて、バカみたいな親友がいて、ちょっと家が大きくて、悪魔の同居人がいて。
 確かにそれは、普通の人よりも愉快な要素に溢れた『日常』だったろう。出来の悪いB級映画みたいな事件に巻き込まれたり、いきなり憧れていた女優が家に訪ねてきたり、不思議な力が使えるようになったり、愛する女の子と結ばれたり。
 でも、今回は違うんだ。
 いままでは俺が巻き込まれる側だったのに対して、今回は俺がこの街にいたからこそ、あの男――ダンタリオンがやってきたんだ。
 言い知れない恐怖が全身を駆け抜ける。俺の平穏で、平凡で、幸せな『日常』が、音を立てて崩れていくような気がして、暴力に満ちた『非日常』に塗りつぶされていくような気がして、たまらなく怖い。

「……おまえの目的はなんだ?」

 震える膝に力を入れて、前を向く。ダンタリオンは顎に手を添えて、考え込むような素振りを見せた。

「ふうむ、目的ですか。そう尋ねられると思いのほか困りますねえ。ただあえて答えるとするならば、自衛のため、でしょうか」
「自衛だと?」
「貴方は知らないでしょうが、我らがソロモンの同胞たちは、この人間によって支配された世界のなかで、いまもなお壮絶な殺し合いを行っています。それは人間の組織した《悪魔祓い》や《法王庁》と呼ばれる組織もしかり、人のことわりを外れた異端の存在もしかり――つまり僕たちにはあまりにも外敵が多すぎるのですよ。
 加えて、我らが同胞のあいだにも派閥があります。まあ現時点では《マルバス》、《バルバトス》、《グシオン》が率いる三大勢力が抜けていますがね。彼らはこぞって貴方のお父上である《バアル》、ならびにその従者二名を血眼になって捜索していたようですが、ついぞ行方は掴めなかったという話です。
 とにかくそうした諸々の脅威から身を護り、己の存在を保持するためには、偉大なる血統を受け継ぐ貴方様のお力が必要なのですよ」

 いつかの朝、ナベリウスが言っていたことを思い出した。封印から解き放たれた悪魔たちは、それぞれの勢力に分かれて殺し合いを始めたという。いわゆる闇の権力争い。それを嫌った父さんは野に下り、人間社会に潜伏して、母さんと出会った。

「いまの君は、意識しなければ感じ取れるほどの微弱な波動ではありますが、きっと強くなる。あの恐ろしいバケモノの血を引く君ならばね」
「話が長い。夕貴を利用したいのなら、そう言えばいい」

 美影が苛立ったように口を挟んだ。ダンタリオンは不気味な笑みを浮かべて、首を傾げる。

「これはこれは人聞きの悪い。利用だなどと空恐ろしいことは考えていませんよ。ただ崇高な僕は、少しばかり彼のお力を貸していただこうかと愚考したまでです」

 それからも美影とダンタリオンが口論を続けていたが、あまり耳に入ってこなかった。でも漠然と、このままではいけない、俺がどうにかしなくちゃ、俺がしっかりしなくちゃ駄目なんだ、ということだけは理解できた。

「……ふむ、どうやら時間切れのようですね」

 その呟きと時と同じくして、けたたましいパトカーのサイレンが聞こえてきた。どうやらこちらに向かっているらしい。それも凄まじい勢いで。さすがに被害が大きすぎたのか、公的機関もご立腹のようだった。

「日を改めましょう。今夜のところは《バアル》の血に免じて引き下がるとします」

 ダンタリオンが身を翻す。豪奢な金髪と、嘘くさい神父服が風にそよいだ。

「それでは。また夜に」

 芝居がかった口調でそう告げて、ソロモンの悪魔は屋上から飛び降りていった。
 気付けば雲は流れに流れて、ふたたび晴れた夜空が広がっている。明るい月の光が、いまは何となく疎ましいと思った。




 あのあとホテルの屋上から退避した俺たちは、集まった野次馬や警察の目を潜り抜けて、人気のない場所に向かった。念には念をということで、夜が明けるまでは身を隠していたほうがいいと思ったからだ。
 閑散とした場所にある廃墟の中で、俺たちは息を潜めていた。

「美影。ほら」

 そこの自販機で買ってきたスポーツドリンクを放り投げる。 キンキンに冷えたペットボトルを受け取った美影は、なにも言うことなく、すぐさまキャップを空けて中身を呷った。
 二人とも埃にまみれた挙句、これでもかと汗だくである。それにもう数時間以上、水分を摂っていない。あれだけ激しい運動をしたっていうのに。喉がカラカラだった。
 俺も美影も一気に半分ぐらい飲み干して、ぷはー、と景気のいい吐息を漏らした。

「夕貴」
「なんだ」
「疲れた」
「そうか」
「夕貴」
「なんだよ」
「悪魔の子供って、本当?」

 いつもの抑揚のないトーンで。覇気のない気だるげな瞳で俺を見つめて、美影は言った。どう答えるべきか迷ったが、いまさら隠すのも意味がないと思って、俺は正直になることにした。

「……ああ、本当だよ」

 しばらく逡巡するような間が続く。やがて美影は興味をなくしたように、俺から視線を逸らした。

「眠い」

 目がしぱしぱするのか、ひっきりなしに瞼を擦っている。本当は聞かないほうが正解かもしれなかったが、どうしても気になって、俺は話を蒸し返した。

「……あのさ。おまえの家って、いわゆるバケモノを退治する家系なんだよな?」
「うんうん」
「じゃあ、こんなことを聞くのも野暮なんだけど……俺をやっつけなくてもいいのか?」

 やっつける。
 そう表現してしまったのは、きっと言葉の中だけでも、自分を『殺す』と言いたくなかったからだろう。
 美影は尻尾のようになった毛先を弄りながら、

「仕事じゃないから」
「は? どういうことだ?」
「夕貴、勘違いしてる。例えば、自分の子供が犬に殺されたとする。その場合、夕貴は世界中の犬を殺す?」

 気性の荒い犬がいれば、大人しい犬もいる。
 残忍で獰猛な怪物がいれば、心優しい人間を愛するような怪物もいる。
 この世界には人間など足元にも及ばないような上位の存在がたくさんいる。それは吸血鬼だったり、人狼だったり、妖だったり、悪魔だったりする。
 裏社会にも裏社会なりのルールがあって、特にこの日本では、《青天宮(せいてんぐう)》と呼ばれる退魔組織が幅を利かせているらしく、好き勝手に異端のバケモノを殺してまわっては、様々な面でネガティブな摩擦が生まれてしまう。
 つまり狩りをしないライオンは、いっそのこと放っておいたほうが安全だという話だ。無理をして手を出すから、彼らは自衛のためにその力を振るわざるを得なくなる。
 基本的に《壱識》が動くのは、指定された危険度を超えた生物を討伐するためか、正式に依頼を通された場合だけ。

「まあなんだかよく分からないけど……とにかくおまえは俺の味方って認識でいいんだよな?」
「…………」
「まあ、その……なんだ。おまえが俺を警戒するのも分かるよ。なんだかんだ言っても、俺は《悪魔》の血を引いてるからな。もしかすると悪いヤツかもしれないし」
「…………」
「でも信じてくれ。俺は女の子をいじめて悦ぶような女々しい男じゃないんだ。こう見えても一部じゃあ男らしいって評判なんだぜ? ……ま、まあ、最後のは嘘なんだけど」
「……ぐう」
「寝てんじゃねえぞコラぁぁぁぁっ!」

 こいつとは一度、白黒つけたほうがいいのかもしれない。むしろ俺の男らしさでメロメロにしてやる。
 遠くのほうを見ると、空が薄っすらと白ずんでいることに気付いた。携帯で時間を確認すると、無機質なデジタル時計の表示が、もう間もなく夜が明けると告げていた。
 そこで、俺はダンタリオンよりも恐ろしい事実に気付き、頭を抱えた。

「……やべえ。菖蒲にメール返すの、忘れてた」



前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.033608913421631