実のところ、俺たちがいまいる田辺医院は、きちんとした認可を受けていない、いわゆる闇医者と呼ばれる類のものらしい。
街外れの閑散とした区画、その路地裏にひっそりと立地する小さな病院。美影の治療のために訪れたその建物の外観は、くたびれた民家そのものだった。入り口のところに『田辺医院』と手書きで書かれた看板がなければ、絶対に病院だと気付かないと思う。
ただ、病院としてのやる気がなさそうな店構えとは裏腹に、内装はリノリウム材質を使うことで、なかなか病院っぽい趣を漂わせていた。
わりと広い待合室には、古くなったソファがいくつか置かれていて、壁には数年前のカレンダーがいまだに掛けられている。ほかにも観葉植物を植えた鉢植え(もう枯れてるけど)とか、明らかに呪いが込められていそうな不気味極まりない絵画が飾られている。蛍光灯がたまに明滅しているせいか、室内はちょっと薄暗い。全体的に退廃した雰囲気を漂わせている。ただし、受付のところにあるポスター(とある清楚な女優さんのやつだ)だけは真新しかった。いちおう定期的に掃除をしているような気配はあるが、どう頑張っても清潔とは言えない。
美影はいま、奥にある診察室で田辺さんに治療してもらっている。そして俺はというと、殺風景な待合室のソファに腰掛けながら、田辺医院に勤める新米看護師さんの歓迎を受けているのだった。
「きゃ~! 夕貴く~ん、抱いて~!」
「…………」
どうすればいいんだ、これ。
さっきから看護師の格好をした二十歳過ぎのお姉さんが、黄色い悲鳴を上げて俺の身体に抱きついてくるんだけど……これが、びっくりするぐらい対応に困る。
この白いナース服を着込んだ看護師は、辻風波美(つじかぜなみ)さんという名前だった。田辺医院に勤めて二年になるらしい。自称”新米看護師”で、まだまだ肌が水を弾く年齢とのこと。
彼女はほんのすこしだけ茶色に染めた長髪を団子に結って、よく見なければ分からない程度の薄い化粧を施した、なかなかの美人だった。美影ほどではないが背は低く、小動物のような愛嬌がある。しかし発育はかなりのもので、ナース服を押し上げる胸元の膨らみは目のやり場に困るところだ。確実に二十歳は越えているはずだが、その仕事ぶりや言動には、いくらか学生気分が混じっていた。
なぜか無駄にテンションの高い辻風さんは、さっきから俺に抱きつき、桃色の笑みを浮かべながら頬ずりをしてくる。
「……えっと、そろそろ離れてもらいたいんですけど」
「いや~ん! 夕貴くんったら、いけずなんだから~! でもそこが素敵ー!」
なんだこれ。非合法な病院ってことで、気を張っていた自分がバカらしくなってくるぞ。
「ねえねえっ、夕貴くんって彼女とかいるのっ? いるのかなっ? いないでしょっ? いないよねっ? ちなみにわたし、彼氏スーパー募集中なんだけど!」
「すいません。俺には心に決めた人がいるので」
「ががーん! 出会って数分で破局しちゃった! ようやく運命の人を見つけたと思ったのに~! ……いや、ちょっと待って? 二番目から始まる恋っていうのもアリなんじゃない? うん、これはキタわ! 本命を蹴落とす女の壮絶なラブストーリーが始まるのよー!」
「始まらねえよ! どうでもいいからとっとと離れろボケー!」
思わず突っ込んでしまった。
半ば無理やり突き放すと、辻風さんは唇に人差し指を当てて「怒った夕貴くんも素敵……」と頬を赤らめていた。もうだめだ、この人。
美影の治療にはちょっと時間がかかるらしく、俺はそれを待つ間、気を取り直した辻風さんに熱いコーヒーを淹れてもらった。二人して待合室のソファに腰掛けながら、白いマグカップに口をつける。
「さっきから思ってたんですけど、俺とのんびりコーヒーなんか飲んでていいんですか? 仕事とかあるんじゃ?」
「あー、いいのいいの。べつにお客さんなんて滅多に来ないし。基本的にわたしは、看護師の格好をして接客することでここが病院だっていう雰囲気を醸し出すのが仕事だから」
「……身も蓋もないですね」
戸惑う俺をよそに、辻風さんはからからと明るく笑って、
「まあ、なんだかんだいっても、わたしみたいなスーパーぴちぴちギャルがこんなボロッちい病院に勤めてるのは、ぶっちゃけ趣味の一環なのよね~」
「趣味……ですか?」
オウム返しに問うと、辻風さんは大きな瞳をキラキラと輝かせた。ちなみに自分の職場を『ボロッちい』と表現したのは突っ込まないでおいた。
「そう、そうなのよ夕貴くん! よくぞ聞いてくれたわ! 実はね、この田辺医院には、裏のお仕事をしてる人たちがじゃんじゃん来るのよ~!」
「はぁ。それがどうかしたんですか?」
「夕貴くんのバカ! 人が集まるってことは、情報が集まるってことに決まってるでしょ!? つまり血湧き肉踊るような、いや、むしろ首が飛んで身体が千切れるような、女の子の心を掴んで放さないスプラッターなお話がたくさん聞けちゃう、みたいな感じよ~!」
「スプラッターな話?」
「そうそう! 実はね、夕貴くん! この辻風波美ちゃんには”新米看護士”という表の顔のほかに、駆け出しの『情報屋』という裏の顔があったりするのよ~!」
「へー、凄いですね。また今度、いっぱい話を聞かせてくださいね」
「しどいっ! しどいよ夕貴くん! そんな思春期のいたいけな子供を見るような目でわたしを見ないで~!」
ここですこし真面目な話をすると、辻風さんは裏社会のあんなことやこんなことを調べるのが趣味で、自宅にはそれ関係の情報をまとめたスクラップ帳が山のようにあるらしい。
この病院には、裏家業を生業とする人間とともに殺伐としたエピソードの類も集まる。そのため、それを蒐集したい辻風さんにとって『田辺医院に勤める看護師』というポジションは絶好なのだった。
彼女の趣味は、もはや一介の『情報屋』として活動できるほど本格化していて、すでに辻風さんを頼る顧客も何人かいるという。まあ黙っていれば普通に可愛いしな、この人。黙っていれば。
「そういえば、一つ気になってたことがあるんですけど、聞いていいですか?」
「うんうん、いいよ! どんどん聞いて! ちなみにわたし、貞淑さには自信があるよ! おっぱいはDカップだし、お尻も大きい安産型だし、料理もしっかりこなすし、男性には朝だけじゃなく夜もしっかり尽くすよ! どうどうっ? 辻風波美ちゃん、お買い得だと思わない!? わたしって、いまどき珍しい超優良物件だと思うなぁ……ちらっ、ちらっ」
「つっこみづれー!
昔から『口は災いの元』と言われているが、この人はそれが顕著すぎる。
「……はぁ、疲れる。それで辻風さん、俺が聞きたいのはですね、あの受付のところに飾られてるポスターのことですよ」
彼女の言葉を借りれば”ボロッちい”この病院のなかでも、ひときわ異彩を放つ真新しいポスター。昨夜、とある洋食屋で見たのと同じやつだ。ほほう? と不敵に笑う辻風さん。
「ふっふっふ~、よくぞ聞いてくれたわね、夕貴くん! あれはね、飛ぶ鳥を落とす勢いの女優さんこと『高臥菖蒲』ちゃんのポスターよ! わたし、あの子の大ファンなのよね~!」
「分かります! 実は俺も菖蒲の大ファンなんです!」
思わずノッてしまう俺だった。
「えっ、ほんとに~!? 夕貴くんも菖蒲ちゃんのこと好きなんだ? 言っとくけどわたし、彼女のファースト写真集も持ってるよ? しかも初版のやつ!」
「そんなの俺も持ってますよ! 当然じゃないですか!」
「ちっちっち、甘いぜ夕貴くん! わたしの持ってるのは、なんと本人直筆のサイン入りなんだよ! ファースト写真集の発売記念で開かれた握手会に行ったとき、特別サービスで入れてもらったのだ!」
「えっ、菖蒲のサイン入り!? そんなのあるんですか!? いいなぁ、それ欲しいなぁ!」
本人と会うのは気恥ずかしかったから、俺は握手会とかに行ったことがなかったのだ。ニマニマと笑っていた辻風さんは、ふと怪訝顔をして、
「……さっきから思ってたんだけど、夕貴くんって『菖蒲ちゃん』のこと『菖蒲』って呼ぶんだね」
「あっ、はい。まあ」
しまった。
つい忘れてたけど、俺は本人と一つ屋根の下で暮らしてるんだった。これは『高臥菖蒲』のファンという名の同志である辻風さんにも内緒にしないと。うーん、でも菖蒲のやつ、頼めばサインとかしてくれるんだろうか? 俺の写真集にもぜひ直筆のサインを入れてほしいぞ。
辻風さんは探偵のように顎に手を添えて、気難しそうに唸った。
「むう、なんか引っかかるなあ。夕貴くん、やたらと『菖蒲』って呼びなれてる感じがしたんだよね」
「き、気のせいじゃないですか? 俺は菖蒲とメールとかしたことないですし」
「ほらまた。まるで恋人を呼ぶときみたいに親しげだね。……んん? メール?」
「――菖蒲ちゃんって可愛いですよね!?」
「そうなんだよ~! ほんと可愛いよね、あの子! 菖蒲ちゃんが出てるシャンプーのコマーシャルも最高~! わたし、あれに感化されてシャンプー変えちゃったもん! 柑橘系の匂いがたまらないよね!」
よし、なんとか誤魔化せたみたいだな。
どうやら辻風さんは生粋の『高臥菖蒲』ファンらしく、俺の知らないような菖蒲のことまで知っていた。まあべつにいいんだけどな。菖蒲の寝顔とか、菖蒲の手料理とか、菖蒲の匂いとか、菖蒲の抱き心地とか、俺しか知らないようなこともいっぱいあるんだし。よく分からないライバル心を抱いてしまう俺だった。
「それに」
その言動に見合った幼さの残る所作でコーヒーをすすってから、辻風さんは続けた。
「あの子、菖蒲ちゃんは、かの【高臥】の人間だからね! あんだけ可愛いのに、血筋や家柄まで恵まれてるなんて……菖蒲ちゃん、素敵! 抱いて! むしろ抱かせてー!」
「…………」
一人で盛り上がる辻風さんを尻目に、俺は、かつて参波さんから伝え聞いた話を想起していた。
その他と隔絶する財力、政治力、権力、暴力から、古来より日本の頂点に君臨する十二の家系。これをこの国では、畏怖と畏敬を込めて俗に十二大家と呼称するという。
菖蒲の生まれた【高臥】は表寄りの家系だが、なかには裏家業を生業とする裏寄りの家系も存在するらしい。つい最近まで平穏な日常を満喫していた俺には想像しづらいが、この世には血で血を洗うような常軌を逸した非日常も、確かにあるのだ。
とは言え、俺は裏社会の情勢について何も知らない。現在進行形で厄介な問題に苛まれているのにも関わらず、だ。
ここは恥を忍んで、辻風さんに色々と聞いておくべきかもしれない。なんだかんだ言っても彼女は善人のようだし、頼る相手としては間違っていないだろう。
「あの、辻風さん。一つお願いがあるんですけど」
そう前置きして、俺は彼女に頭を下げた。さっきまで冷たい態度であしらっていた俺が軟化したのを見て、辻風さんは、
「きゃー! 夕貴くんのデレきたー! でも、今日は油断して子供っぽい下着を穿いてきちゃったどうしよ~!」
などと黄色い悲鳴を上げていた。やっぱり人選を間違えたのだろうか、と後悔する俺だった。
ため息混じりにすこし温くなったコーヒーを啜っていると、脳内に繁殖しているお花畑から戻ってきた辻風さんが意外そうな声を上げた。
「でも夕貴くんって、美影ちゃんのお友達なんだよね? わたしもなんとか美影ちゃんに媚を売って《壱識》とのコネを確立しようとしたんだけどさ~」
「辻風さん、本音だだ漏れじゃないですか。もっとオブラートに包んで言いましょうよ」
「あはは、ごめんごめん。でもわたしね、美影ちゃんにお菓子やジュースを上げて餌付けしようとしたんだけど、どうもあの子は人に懐かないのよね~」
「餌付けって……」
一つ屋根の下に本人がいるんだから、もうすこし本音を隠したほうがいいんじゃないか?
「……言い忘れてましたけど、俺と美影は出会ったばかりなんです。だから俺は、美影のことを詳しく知りません。あの子の家が、どんなことをしているのかってのは聞いたんですが」
「ははあ、なるほどね。事情はよく分からないし、改めて聞くつもりもないけど、夕貴くんと美影ちゃんの関係については分かったわ」
一介の『情報屋』として裏家業の連中と交渉することもある辻風さんは、こういう話になると目の色が変わるようだ。こちらの事情に深入りせず、ただ要求された情報を速やかに提供するだけの、裏に身を置く人間の顔になる。
「ところで夕貴くんは、こっちの世界のことをどれぐらい知ってるのかな?」
「いえ、ほとんど何も……」
「なるほどねえ。うーん、どうしようかなぁ。本当はまとまったお金を頂戴するところなんだけど、夕貴くんに恩を売っておくのも悪くないし、今回は特別にタダにしてあげようかな? 初回限定大サービスってやつで」
「微妙に本音が漏れてますけど、とりあえずお礼を言っておきます。ありがとう、辻風さん」
「きゅんっ! ぐさっ、ぐさっ……! なんてこったパンナコッタ! ゆ、夕貴くんの笑った顔、超絶に可愛いよ~!」
はうー、とか言って悶える辻風さんが正常に戻るのには数分を要した。もはや可愛いと言われたことに対して突っ込む気すら起きない。
「……あの、もうそろそろいいですか?」
「えっ、ああうん、ごめんごめん。これも仕事だからちゃんとしないとね。ちなみにさっきの『きゅん』はときめいた音で、『ぐさっ』はハート型の矢が胸に刺さった音だからよろしくね!」
「頼むから仕事しろよ」
今度こそ新米看護師から情報屋の顔になった辻風さんは、こほん、と小さな咳払いをしてから言った。
「そうね、じゃあまずは二十年ほどまえに、日本の裏社会で起きた未曾有の大抗争。あの《大崩落》について話そうかな」
それはすこし古い話。
かつてこの国の裏社会で、過去何百年ものあいだ変動しなかった裏の勢力図が、一遍に塗り変わるほどの大抗争が起きた。それは抗争というよりは戦争に近く、数多くの人間が殺し、殺され、殺しあって、朽ち果てた。数多の勢力を巻き込んだ争いは都合四年も続き、裏社会に甚大な被害をもたらすだけに留まらず、表社会の経済にも深刻なダメージを与えたとされている。
その日本史上類を見ず、この先も数世紀は勃発しないであろうと云われる抗争を、あらゆる既存のものが崩れ落ちたことから、裏では俗に《大崩落》と呼称するという。
「それで、この抗争のときにとんでもない戦果を上げたのが、美影ちゃんの生家である《壱識》を含めた十の家系なのね」
裏社会に拠点を置き、裏家業を生業とする十の一門。各々の家系が独自の戦闘術を継承することから、彼らは俗に《武門十家》と呼ばれ、表の権力を完全に放棄する代わりに、裏の世界で絶大な支配力を持つに至ったという。
争いごとに特化した彼らは、他の追随を許さない圧倒的な戦闘能力を誇り、古くから日本の裏社会に君臨してきた。武装した暴力団や犯罪組織すらも寄せ付けない強大な力。近代になってもその勢力は衰えず、いまもなお彼らは裏社会で暗躍している。
ただでさえ都市伝説級の存在であった彼らは、例の《大崩落》のおりにも暗躍し、その超人的な戦闘力を世に知らしめた。
また、これは余談なのだが、この田辺医院も《大崩落》のときに病院として機能し、数多くの命を癒し、慈しみ、救ってきたらしい。あらゆる身分、立場、勢力にある人間を分け隔てなく治療したことから、田辺医院は戦闘禁止区域、いわゆる安全地帯として当時に活躍した。つまり『田辺医院にいる間はみんな患者さんなんだから、ここでは戦闘しちゃだめだよ。殺しあうなら外でやってね』ということである。
「ちなみに《大崩落》によって大打撃を受けた経済の復興に尽力したのが、【高臥】と【如月】の二家と言われているわ。まあ当時はわたしも美幼女だったし、ほとんど覚えてないんだけどね~」
「……なるほど。大体の話は分かりました」
辻風さんの口から紡がれる、なんとも荒唐無稽な話を、俺は自分なりに整理しながら聞いていた。要するに、いまから二十年ほど前に、とにかく凄い抗争が起きて、その際に凄い人たちが暗躍した、ということである。そこまで考えて、俺は首を傾げた。
「あれ? でも辻風さん。そんな四年も続くほどの大規模な抗争に、どうやって決着がついたんですか?」
「ふふふのふ! よくぞ聞いてくれたわね、夕貴くん!」
《大崩落》を終結に導いたのは、十二大家の一つである【九紋】と呼ばれる家系らしい。かの家が仲裁に入ることで、すべては丸く収まったというのだ。
でも俺としては、ちょっと納得がいかない。もちろん抗争が終わってくれたことは嬉しいけど、不謹慎な言い方をすれば、話に上手くオチがついていないような気がするのだ。
「んん? どしたの、夕貴くん。なんか釈然としない顔してるけど」
「いや、べつに他意はないんですけど。ただ四年も続いたわりには、あっさりとした終わりだなと思って」
「まあ、そう考えるのも無理ないけどね~。でもあの人たちはちょっと特別だから」
「特別、ですか?」
「そ。特別。この国の裏社会で【九紋】の名を知らない者はまずいないからね~。夕貴くんは殺人鬼って知ってるかな? 殺人鬼」
「はぁ、そりゃまあ知ってますけど」
「うんうん、夕貴くんが博識で波美ちゃんも大満足だよ! とまあ、恐らく本当の意味で殺人鬼と呼べる者がいるとすれば、それはあの人たちのことを指すだろうね。泣く子も頚動脈をかき切られるような殺人鬼一族。わたしたちのような裏の情報を取り扱う商売人のあいだでは、九紋家は《武門十家》の全てを敵に回しても同等に渡り合えるだけの戦力を持つ、と目されているわ。まあここ数百年の間、あの人たちが歴史の表舞台に顔を見せたことはほとんどないから、わたしにも詳しいことは分からないんだけど」
「……話のスケールが大きすぎて、上手くイメージが浮かびませんね」
「事実は小説よりも奇なりって言葉があるぐらいだから、何が起こっても不思議じゃないんじゃない? それに全部が全部、丸く収まったわけじゃないしね~」
「どういうことですか?」
「簡単な話だよ。やっぱり抗争……というか戦争があるからこそ、儲かる家業とか事業もあるじゃない? 例えば殺し屋さんとか、武器商人さんとかね。だから《大崩落》という名のマーケットを潰した【九紋】は、そうした連中から逆恨みされていたらしいの。ところで夕貴くんは、十年ちょっと前に、外国で起きた爆発テロ事件のことを知ってる?」
「いや、ちょっと知らないですね。もしかしたら聞いたことはあるかもしれませんけど、記憶はしていないです」
「そっか~。まあ夕貴くんにも分かるように説明すると、その爆発テロ事件は、【九紋】に恨みを持つ連中が起こしたものらしくてね。事実、巻き込まれた被害者のなかには、家族で仲良く海外旅行していた【九紋】の分家筋である宗谷家がいたって話なんだよ。酷いよね、たった数人の人間を殺すためだけに、その何十倍もの人間を巻き込んだんだから」
「分家を、ですか……」
「そこがミソだよね。実戦じゃあ勝てないからって、直接的には関係のない分家の人に報復するだなんて。まあキツイ言い方をすれば、そういう醜くて汚い応酬があってこその裏社会なんだけどね~」
「…………」
一通りの話が終わる。あまりにも現実離れしたエピソードの数々は、しかし思いのほかあっさりと理解し、信じることができた。それは恐らく、他でもない俺自身が《悪魔》という現実離れした生物の血を引いているからだろう。
十六歳の少女が、美影みたいな小さな女の子が、単身でバケモノと殺し合いを繰り広げるぐらいなのだ。もはや萩原夕貴という人間が培ってきた”常識”という名の物差しは、使えないと思ったほうがいい。
そんなふうに思考をめぐらす俺のかたわらでは、辻風さんがなにやら難しそうな顔をして唸っていた。
「うーん、なんだか暗い雰囲気になっちゃったね。せっかく夕貴くんと二人っきりだっていうのに、これじゃあ盛り上がらないよ~」
「べつに明るい話をしてたわけじゃないんですから、これでいいと思いますよ」
「もう、夕貴くんは冷たいんだから! 波美ちゃん、スーパーショックだよ~!」
「あー、美影の治療、はやく終わらねえかなー」
「ちょっ! なんなのっ、そのコイツの相手をするのは疲れたぜ、とでも言いたげな台詞は! もしかして夕貴くん、わたしのこと嫌いなのっ!?」
「いや、好きか嫌いかで言えば好きですけど。辻風さん、とても親切だし。まあ色々とひどいことも言っちゃいましたけど、俺はあなたみたいな人は嫌いじゃないですよ」
「ぐふっ!」
「えっ、どうしたんですか辻風さん! なんか吐血の仕草してますけど、べつに血は出てないですよ!?」
瀕死の兵隊さんみたいな顔をして、辻風さんは俺を見た。
「ん、ちょっと夕貴くんの甘い言葉に、わたしの乙女なハートがやられちゃったんだぜ……ごほっ!」
「…………」
突っ込みづれえ……。
恐るべし辻風波美さんである。もはや一目置かざるをえまい。そう確信させるだけの何かが、彼女には備わっているのだった。
****
一般の病院と比べると清潔さに劣る診察室のなかで、美影は右腕とわき腹の治療を受けていた。それぞれ銃傷と打撲である。
この田辺医院の経営者かつ唯一の医者でもある田辺は、五十過ぎの男性だった。しかし、かなり恰幅がよく、年のわりには若々しい顔つきをしているので、その気になれば四十代前半ぐらいと言っても通じそうだった。
美影は年季の入った丸椅子に腰掛けていた。治療のため、上半身にはブラジャーしか着用を許されていないが、それを恥らう様子はない。適当な普段着のうえに白衣をまとっただけの田辺は、美影の右腕を注意深く、鋭い目つきで診察していた。
「なるほど、こりゃ銃弾が掠ったのか。……ふん、珍しいじゃねえか、ヤクザものに遅れを取るなんてよ。こんな失態、おめえの両親が知ったらどう思うかね」
医者とは思えぬ横柄な言葉遣い。まあ非合法を地でいく彼に礼儀を求めるほうが間違っているのだろう。美影は澄ました顔を崩さない。
「親とかどうでもいい。早くして」
「へいへい。まあ確かに、おまえの母親は――千鳥(ちどり)のやつぁ、娘がくたばっても顔色一つ変えねえだろうけどよ」
秘密裏、非合法とはいえ、田辺医院は二十年以上も前から営業している。それゆえに田辺は、美影の母親である壱識千鳥とも面識、交友があった。
「それに」
「あん?」
黙って治療を受けていた美影が、ぽつりと漏らす。
「父親は、初めからいない」
「……そういや、そうだったなぁ」
現在において美影の母親は存命しているが、父親はすでに鬼籍に入っている。その詳細を、美影本人は知らない。ただ物心ついた頃には母しかいなかったし、父がいないことを疑問に思うだけの時間と余裕はすべて鍛錬に費やしてきたので、美影は父親のことについて何一つ知らない。
それは奇しくも萩原夕貴と似たような境遇であった。しかし、出会うことすら適わなかった父を尊敬している夕貴とは違い、美影は『父親』という存在に何の憧れも持っていなかった。
ただ、まったく好奇心の類がないか、と聞かれて即答できるほど、興味がないわけでもない。
「……田辺は、私の父親のこと、知ってる?」
どうでもよさそうに美影は言う。事実、どうでもよかった。ただ治療の間、患者である自分にはすることがないから、暇つぶしとして質問したつもりだった。
田辺はぴたりと手を止めて、眉間にしわを寄せる。その顔には隠し切れなかった葛藤がにじみ出ている。母の知人ということもあり、美影はそれなりに昔から田辺のことを知っていたが、こんな苦々しい表情を見るのは初めてだった。
「……さあな。知らねえよ」
「そう」
「仮に俺が知ってたら、どうするつもりだったんだ?」
「どうもしない。父親とかどうでもいい」
「千鳥がいれば、親父はいらねえのか?」
「べつに母親もどうでもいい」
「これはもしもの話だが」
右腕の治療を一通り済ませ、清潔な包帯を優しく巻きながら、田辺は続けた。
「もしも俺がおめえの父親だったら……どうする?」
「…………」
ぼんやりとしていた美影の目に怜悧な光が宿る。普段の怠惰な気質を除けば、もともと彼女は頭の回転が早いほうだ。人のつく嘘なんて簡単に見破れる。
だが田辺は数十年近くもの間、裏の人間を相手に商売を続けてきた男だ。その半分も生きていない美影に、田辺の真意を読めるはずもなかった。
「……なんてな。いまのは冗談だよ。俺とおめえに血の繋がりはねえさ」
冗談。ようやく自分がからかわれたと理解した美影は、むっとした顔でそっぽを向いた。
「……田辺、嫌い」
「はん、俺だって発育の悪いガキに興味はねえ。おめえの母親は、そりゃあもういい女なのによ。どこで遺伝子に不備が出たのか知りたいもんだ」
「……てい」
軽くイラっとした美影は、田辺のすねを蹴り上げた。いくら鍛え上げたとしても、発生する痛みを軽減するのには限界がある。それゆえの泣きどころだ。
「痛ってえな、なにしやがる、この貧乳のクソガキが!」
「ふん」
かすかに頬を膨らませる美影。これは本人も半分ぐらいしか自覚していないことだが、彼女は胸が小さいことに密かなコンプレックスを持っていた。
腕の治療が終わったところで、今度はわき腹の診察が始まった。待合室で夕貴と波美が謎の交友を深めている頃、美影と田辺は親子のような会話を繰り広げていた。
****
はっきり言って、辻風波美という女性は未知の生物に等しいと思う。少なくとも俺のなかでは。
瀕死の兵隊さんのような顔をして蹲り、ごほごほと吐血の仕草をする彼女からは、もはやヘンなオーラを感じるぐらいである。
間もなく活気、というか正気を取り戻した辻風さんは、その場で立ち上がり、拳を握り締めて、ソファに片足を乗せた。
また乱心したのかよ、と嘆息する俺に、彼女は小さくウインクをする。
「さあさあっ! なんか機嫌のよくなった波美ちゃんが、出血大サービスで、凄惨な裏社会で起こった感動的なエピソードを一つ語っちゃうらしいよ! 持ってけそこのイケメン!」
「とりあえず下着が見えそうなんで足を下ろしたほうがいいですよ」
辻風さんが着ているナース服の裾はとても短いのだ。俺の指摘を受けた彼女は、顔を赤くしてその場に蹲ってしまった。あまり男慣れしていなさそうな反応だった。
「きゃ~! 夕貴くんのえっち、ヘンタイ、強姦魔ー!」
「どう考えても最後のおかしいだろうが! だれが強姦魔だ!」
辻風さんは、いささかテンションが高いというか、天真爛漫すぎるな。いちおう俺は徹夜した身なので、いまの彼女に付き合うだけの気力がない。ソファに座りなおした辻風さんは、こほん、と咳払いをした。
「さてさて、それでは気を取り直しまして。この新米看護師こと辻風波美ちゃんが、小噺を一つ披露してしんぜましょうぞ」
「まあ聞かせてくれるってんなら、ありがたく聞きますけど」
「ふっ、その心意気、わたしは決して嫌いじゃないよ夕貴くん! このお話はとっても泣けるから、ハンカチを用意して聞いてね!」
辻風さんはイタズラっ子のように笑って、透明感のある声色で語り始めた。
「あるところにね、一人の殺し屋さんがいたの。彼は小金色の菓子をもらうような悪い政治家とか、なんか怪しいことを企んでる秘密結社のボスとか、そんな数多の要人を恐怖のどん底に叩き落すほどの実力を持った、まあいわゆる凄腕ってやつだったのね。請け負った任務は確実に遂行し、行く手をさえぎる強敵は慈悲もなくボコボコにして海にポイするような、冷酷非道の殺人マシーンみたいな男だったらしいの」
「へえ、そういう話って現実でもあるんですね。でも泣ける要素がないような気がするんですけど」
「おっと、早まっちゃあいけませんぜ旦那! ここからが波美ちゃんの真骨頂なんだから」
芝居がかった口調で言ってから、彼女は続けた。
「でも、そんな感情のない冷徹な殺し屋さんにも、転機が訪れちゃうだよね。それはね! 万国共通の必殺技と謳われ、人を苦しませる代名詞でもある、あの”愛”よ! さすがの殺し屋さんにも一抹の感情は残っていたらしくて、彼は任務中に出会った女性と恋に落ちるの! どうどう、ロマンチックだと思わない!?」
「たしかにロマンチックだとは思いますけど、ところどころで入る辻風さんのヘンな言い回しのせいで感動はできないですね」
「んもう、きっついなー夕貴くんは。さすがの波美ちゃんも泣いちゃうよ~」
ぐすんぐすん、とわざとらしく鼻を鳴らす辻風さん。
「でもまあ、ここからは心して聞いてね? 全米どころか、多元宇宙が泣くほどのエピソードが夕貴くんを待ち受けてるんだから」
「それが本当だとしたら、きっと辻風さんは地球から戦争をなくすことができますよ」
「任せてよ! わたしが夕貴くんを涙の海に溺れさせてあげるから!」
どん、と自称Dカップの胸を叩く辻風さん。揺れた。
「さてさて、とある女性と恋に落ちた殺し屋さんだけど、やっぱり人生ってのは物語のように上手くいかないものなんだよねー。女性のほうが何の仕事をしていたのかは波美ちゃんも知らないけど、二人を取り巻く環境が彼らの愛を阻んだらしくてね。結局、二人は愛し合ったまま離れ離れになっちゃうのよ~!」
「確かに……それは悲しいですね」
いまの話を、自分と菖蒲に置き換えて想像してみると胸が痛くなった。
父さんと離れ離れになった母さんも、相当に辛かったはずだ。その証拠に、俺がまだ子供の頃、真夜中のリビングで寂しそうに泣いている母さんを見たことがある。
「夕貴くんが共感してくれるのは嬉しいんだけど、実はこの話には、さらに悲しいオチがあるのよね」
さっきまで軽口を叩いていた俺は、いつの間にか辻風さんの話を真剣に聞き入っていた。
「愛する女性との別離を経験した殺し屋さんは、それから何年もの間、いままでどおりに人を殺し続けたの。誰かから頼まれて、誰かを殺して、誰かから頼まれて、誰かを殺して。その繰り返しね。
そんな非生産的な日常の果てに、彼は一つの仕事を請け負うの。正確なところは分からないけど、それは『とある有力な家系の跡取りを殺してほしい』という感じの内容だったらしいわ。もちろん彼は、二つ返事で請け負ったのね。だって、子供だろうと老人だろうと、頼まれれば殺すのが殺し屋さんなんだから。でもね、運命のイタズラっていうのは本当にあるのよね。なぜって、彼が殺してくれと頼まれたのは……かつて愛を育んだ女性との間にできた、自分の子供だったんだから」
「…………」
そんなことが本当に起こり得るのだとしたら、悲しいなんて一言じゃ済まないな。
愛を育んだ時間は短くても、密度は濃かったのだろう。心を触れ合わせて、体を重ねて――そうして女性は妊娠した。けれど、その頃にはもう二人は離れ離れになっていて、殺し屋の男は自分に子供がいるという事実を知らなかった。
自分が語り手のくせに涙ぐんでいる辻風さんは、ポケットティッシュを取り出して、鼻をちーんとかんだ。
「ううっ、泣けると思わない? 彼は自分に子供がいるとは知らなかったんだよ? そして、さすがの殺し屋さんも、この仕事には言い知れない葛藤を覚えたの! やっぱり殺人マシーンのようだった彼にも、自分の子供は愛らしく映ったのね! 結局、彼は仕事を遂行できず、けれど任務を放棄することもできなくて……!」
「そ、それでどうなったんですかっ?」
「うんうん、それでね? 彼は三日三晩、悩みぬいた挙句――自殺したらしいわ。子供を殺せないなら、自分が死ぬしかないと思ったのかな? その仕事ぶりから、彼を恨んでいた人も大勢いたらしいからね~。でも、ここで一つだけ問題が残るの。彼に仕事を回した依頼主は、『とある有力な家系の跡取り』を殺したがってるんだから、彼が死んだとしても、べつの人に頼むのが筋でしょ? 事実、彼の子供をねらう輩は後を絶たなかったんだって」
「そんなのダメじゃないですか! なんとかして、その子供を守ってあげないと!」
「その意気だよ、夕貴くん! でもね、なんとも不思議なことに……その子供を狙う悪者たちは、なぜかことごとく不幸な死を遂げちゃうんだって! まるで彼の幽霊が、子供をひっそりと守っているかのように!」
これで辻風さんの話は終わりのようだった。正直、大して期待せずに聞き始めたんだけど、最後になると手に汗握るぐらい面白かったな。
「……それにしても、辻風さんって本当に色々知ってるんですね。ただの思わせぶりな看護師見習いかと思ってたんですけど」
「夕貴くん夕貴くん、本音が漏れてるよ? わたしのほうがお姉さんなんだから、もっと敬おうね? あんまり調子こいたこと言ってると、お姉さんが可愛がってあげちゃうぞ?」
にこり、と柔和な笑みを浮かべる辻風さんのこめかみは、ぴくぴくと痙攣していた。でも辻風波美さんって、もともとが凄く愛嬌のある人だから、怒ってもあんまり怖くないんだよな。俺が苦笑しながら謝罪すると、彼女は「うむ」と居丈高に頷いた。
「まあ、夕貴くんが感動してくれたところ悪いんだけど、いまの話は裏社会に伝わる都市伝説みたいなものだから、話半分に聞いてね。ほかにも色々と聞きたければ……ふっ、夕貴くん、今夜のわたしは空いてるぜ?」
「お疲れ様でした」
「冷たいっ! 冷たいよ夕貴くん! でもそこが母性本能をくすぐるのも否めないんだよ~!」
きゃー、と黄色い悲鳴を上げる辻風さん。やっぱりダメかもしれない、この人。
あらかた話が終わり、マグカップの中身が空になったところで、奥のほうにある診察室の扉が開いた。艶やかな黒髪を後ろで一つに結った小柄な少女と、よれよれの白衣を着た体格のいい男性が、待合室に姿を見せた。
「おう波美、えらく堂々とサボってくれてんじゃねえか」
ソファに座りこけてだらーとしていた辻風さんを見て、白衣を着た男性――田辺さんが横柄に言った。彼は病院内だというのにタバコを咥えており、さっきから美味そうに紫煙をくゆらせている。
医者という職業はどちらかといえばインドアなものだとばかり思っていたが、田辺さんは明らかに只者ではない風采と貫禄を併せ持っていた。彼の場合、名の知れた殺し屋が寄る年波に負けて医者に転職した、という事実が隠されていても不思議ではなかった。
「だって院長~! どうせお客さんなんて滅多に来ないじゃないですか~。わたしは仕事をサボってるんじゃなくて、むしろサボらされてるんですよ~!」
上司に叱られた辻風さんが、唇を尖らせてぶーたれた。部下の反論を受けて、田辺さんの目つきが鋭くなる。ただでさえ厳つい顔をしているので、ちょっと怖い。
「はん。仕事をサボるだけならまだしも、若い男を口説いていた女がなに言ってやがる」
「うーわ、その年で八股もかけてる院長がそれを言いますか~!? しかもわたしの調査によると、そのうちの七人は二十代で、最後の一人は十七歳の女の子だし! 犯罪も甚だしいですよ~!」
「うるせえ。男はいくつになっても若い女が好きなのよ。なあ、坊主?」
かっかっか、とさも愉快そうに笑った田辺さんは、ソファの片隅に座っていた俺に目を向けた。
「……えっと、はい、まあ。若くて可愛い女の子は、男のロマンですよね」
とりあえず話を合わせておいた。
「おっ、なかなか話せるじゃねえか。まあ坊主なら女を引っ掛けるのも楽そうだもんなぁ。ちなみにおめえ、巨乳派か? 貧乳派か?」
「いちおう……巨乳派だと思います、たぶん」
「分かってるじゃねえか、坊主! 乳のない女なんざ、アルコールの入ってない酒みてえなもんだよなぁ! そこにいる波美も、きゃーきゃーうるせえガキみてえな女だが、童顔のわりには発育がいいんだよ。なんならおめえ、持って帰ってもいいぜ」
田辺さんの失礼とも取れる発言を受けて、辻風さんがソファの背もたれに身体を隠し、頬を赤らめた。
「ちょっ! わたしの夕貴くんに悪いことを教えないでくださいよ! ていうか、院長ってわたしのことを性的な目で見てたんですか!? もう職場変えようかな……」
「ざけんじゃねえ。だれがおまえを性的な目で見てんだ。俺は大人っぽい女にしか興味はねえんだよ。その点じゃあ、あの【高臥】の一人娘はたまんねえなぁ。一度でいいから抱いてみてえ」
言ってから、田辺さんは受付のところにある菖蒲のポスターを一瞥した。その発言は、きっと冗談の類なんだろうけど、俺の心中は穏やかじゃなかった。賑やかになった待合室のなかで一人、眠そうに目をこすっていた美影がぽつりと漏らす。
「……帰る」
この壱識美影という少女は、女性の平均身長よりも小さい辻風さんよりもさらに小柄である。しかし認めたくないが、こいつは触れれば切れるような鋭利な美しさを持っており、どこにいても不思議と人目を惹くのだった。
「ねえねえ美影ちゃん! 今度、わたしと美味しいものでも食べに行かない!? それで《壱識》とのコネ……じゃなくて、美影ちゃんと個人的に仲良くなりたいなぁ~」
微妙に寝惚けている美影を利用しようというのか、どことなく汚い大人の顔をした辻風さんが身を乗り出した。美影は気だるそうな目で辻風さんを見つめて、
「……だれ?」
「ががーん! 忘れ去られてる~!」
ふらふらと身体を揺らす美影に対し、頭を抱えてうわんうわん泣き喚く辻風さんだった。
美影の治療は無事に終わったらしく、田辺さんによると、しばらく安静にしていれば身体も本調子に戻るとのことだ。必要はないと思うが、念のために鎮痛剤の類も処方してくれるという。
それから俺たちは、あまり長居しすぎると彼らに迷惑がかかる可能性もあると判断し、足早にお暇することにした。外に出ると、もう日は昇っていた。どこからどうみても立派な朝である。携帯で確認してみると、もう午前七時を過ぎていた。
「おう美影。代金のほうはおめえんちにツケとくからよ。母親にも伝えてくれや」
俺たちの見送りに表まで出ていた田辺さんが、紫煙を吐き出しながらそう言った。彼のとなりには辻風さんが控えている。美影は相変わらずの茫洋とした顔で振り向いた。
「わかった」
「そりゃ重畳だなぁ。……ああ、それと、最後に一つだけ聞いておきてえんだが」
これまで省みないほど豪放だった田辺さんが、がしがしと頭をかき、言いにくそうに口ごもった。彼は美影から視線を逸らしながら、
「千鳥のやつぁ……元気にしてんのか?」
「母親なら元気。たぶん」
「……そうか。ならいいんだが」
「明日、母親と会う予定がある。伝言、いる?」
「いいや、べつにいらねえけどよ……」
どことなくおかしな会話だと思った。それに田辺さんが美影を見る目には、どこか愛する我が子を心配するような、親愛の情が宿っている気がしたのだ。
「夕貴く~ん! わたしはいつでもヒマしてるから、好きなときに電話してきてね~!」
可愛らしくデコレーションされた携帯電話を握り締めて、辻風さんがくりっとした大きな瞳を輝かせていた。さっき言い寄られて、ほとんど無理やり番号を交換させられてしまったのだ。
「あぁ、はい。機会があったら連絡しますから」
「おっけー! 波美ちゃんは待ってるよー! 夕貴くんが電話してくれるまで今夜は眠らないからね~!」
「眠ってくださいよ! なんで出会ったばかりの女性に意味もなく電話をしなくちゃいけないんですか! しかも夜に!」
「そ、それはぁ……だからぁ……えっとぉ……きゃー!」
「いま絶対ヘンな想像したでしょ!」
どうにも締まらない。でも辻風さんはちょっと残念なところがあるからこそ辻風さんなのは間違いない。彼女にいきなりクールになられても困惑するだけである。
俺たちは、最後にお礼を言って、田辺医院をあとにした。