俺と美影は、ダンタリオンを倒すまでの間、一時的に共同戦線を張ることになった。
ダンタリオンに狙われている俺。ダンタリオンを倒したい美影。俺と美影を欲しているダンタリオン。差し迫った脅威を打倒するためには、俺たちが手を組むのが一番だった。
本来ならナベリウスに連絡を取るのが最善なのだが、なにがあったのか、あの銀髪悪魔は家を空けているらしく、萩原邸に電話しても誰も出ない。かといって暴力団に追われている現状では家に帰る気も起きず、彼女の所在をこの目で確かめるのは無理だった。
とにかく方針としては、身を潜めて情報収集をしつつ、ナベリウスと連絡が取れるまでじっとしているに尽きる。あんなバケモノに自分から喧嘩を売るのは自殺行為だ。
そうと決まれば、次に必要となってくるのが活動の拠点。萩原邸は使えない。ホテルも金銭的に無理。であれば、美影が暮らしている家が選ばれるのは自明の理だった。
美影は現在、実家を離れて一人暮らしをしているらしい。それ自体はとても素晴らしいことである。これっぽっちも異論はない。
親元を離れることは、自主性や責任感の醸成、そして精神的な面での成長が望める。俺も一度ぐらいは母さんと離れて暮らしてみるべきだとは思うが、それは普通に寂しいのでパスである。
ただし男子と違い、女子の一人暮らしには多くの危険が付きまとう。その代表的なものが性犯罪だろう。パッと思いつくだけでも、痴漢、強姦、ストーカー、盗聴、盗撮など枚挙に暇がない。それが美影のように見目麗しい少女ならば、なおさら犯罪に巻き込まれる可能性は上がる。
だから、まあ、美影が一人暮らしをしてるって聞いたときは、俺はそこそこセキュリティのしっかりしたところに住んでるんだろうなぁ、と勝手に想像していたんだけど、それは間違いだったらしい。
街外れの閑散とした区画に居を構えていた『田辺医院』から、徒歩で三十分ほど歩いた場所にそのアパートは存在した。距離的にはそう遠くない。すぐ向こうに工業地帯があるせいか、あたりの空気は淀んでおり、呼吸をすると喉と肺がイガイガする。
ギャグなのか真面目なのか、アパートの名前は『住めば都』というらしい。もし笑いを取ろうとしているなら、そいつはきっとセンスがないと思う。
アパートの周囲には、ボロボロの廃墟が立ち並んでいる。ほかにも穴の空きまくった金網や、『立ち入り禁止』などの看板があちらこちらに乱立していた。
そんな排他的な場所のど真ん中に、一つだけぽつんと小奇麗なアパートがあるのだ。どう見ても異常である。
この『住めば都』というアパートは、鉄筋構造の二階建てだった。築十五年ほど、1LDK、ユニットバス完備、という見事なラインナップ。おまけに家賃は相場よりも五割ほど低いという、目玉が飛び出るような超優良物件である。
明らかに裏があるのでは、と疑うだけの好条件だが、実際そのとおりだった。
美影曰く、このアパートは裏の人間しか入居を許可されないらしく、下は薬物の売人から、上は異端を専門的に排除する殺し屋さんまで住んでいるとのことだ。
要するに、美影が住んでいるのは裏の人間の、裏の人間による、裏の人間のためのアパートなのだった。まあいまの俺たちの隠れ家としては最適なので、文句は言うまい。
「……そういえば」
「ん」
ぴたりと立ち止まった俺を、美影は振り返った。
「こんなことを聞くのは野暮かもしれないけど……おまえ、俺を部屋に入れてもいいのか?」
「……?」
「いや、ほら。俺は男で、おまえは女じゃないか。もちろん自制はするけど、なにかの拍子に間違いが起きるかもしれないし」
「間違い。なにそれ?」
美影がぼぉーとした目を向けてくる。徹夜明けで眠いのか、ひっきりなしにまたたきをしている。
「いや、だから間違いっていうのは……」
「うん」
ちょこん、と俺の前に立って、目を逸らすことなく真っ直ぐに見つめてくる。あまりにも純真無垢な瞳である。どうやらこいつは、俺のことを男として認識していないらしい。
「夕貴?」
いきなり閉口した俺を不審に思ったのか、美影が変わらず覇気のない顔で小首を傾げた。そうだよな、ちょっと心配しすぎだよな。俺は無防備な女の子を襲うような男じゃないし、美影は必要以上に男を忌避するような女の子じゃないもんな。俺たちは戦友みたいな関係なんだし、間違いなんて起こるわけがない。
喉に刺さった小骨が抜けたような清々しい気持ちで、俺はかぶりを振った。
「……いや、なんでもない。ちょっと考え事してただけだよ。忘れてくれ」
「そう」
興味をなくしたのか、美影の唇がつまらなさそうに引き結ばれた。そのとき。並んで歩いていた俺たちに向けて、一石ならぬ一声が投じられた。
「おかえり。美影ちゃん」
不思議と心が安らぐような、温かみのある声。どこか耳に優しい発音と言葉遣い。アパートの正面玄関には、俺たちを待ち構えるように一人の男性が佇んでいた。
無造作に伸びた黒髪と、半端に伸びた無精ひげ。うだつの上がらなさそうな風貌は、しかし庶民的な親近感を相対する者に抱かせる。三十代後半ぐらいの彼は、よれよれの背広に身を包み、こちらに向けて親しげに右手を振っている。
どこかで見たことあるな、と思ったら、彼は昨夜、俺を重国さんとの待ち合わせ場所まで案内してくれた、あの隻腕の男性だった。
俺が東京湾に浮かばなかったのは、この人のおかげと言っても過言じゃない。
「……ん?」
美影のとなりに立つ俺を認めると、彼は人懐っこい笑みを浮かべた。
「やあ、また会ったね。僕のこと、覚えてるかな? こんなことを男性に言うのもおかしいけれど、なぜか君とはまた会えるような気がしてたんだよ」
「はい。もちろん覚えてますけど……」
この不意の再会を手放しで喜べないのは、場所が場所だから、だろう。美影の話が真実ならば、このアパートには裏社会の人間しか近寄らないはずなのだから。
「夕貴。これと知り合い?」
どことなく不機嫌そうな顔で、美影が彼を指差した。
「まあ知り合いだな……っていうか、目上の方を”これ”とか言うなよ。失礼だろ」
「べつにいい。だって冴木は、私のストーカーだから」
「……え」
なんか美影の口から、女子の一人暮らしの天敵ともいえる単語が飛び出したような……。
「ハハハ、こりゃ参ったね。まさかストーカーと認識されてるとは思わなかったよ。相変わらず美影ちゃんは手厳しいな」
これっぽっちも不快さをあらわにせず、むしろ照れたように頭をかいて彼は苦笑した。それから俺に向き直って、
「紹介が遅れたね。僕は冴木っていうんだ。好きに呼んでくれていいよ」
「分かりました、冴木さん。俺の名前は萩原夕貴って言います。こちらこそ紹介が遅れてすいませんでした」
愛想笑いを浮かべて名乗りを済ませる。繁華街で会ったときは名前も聞かずに別れちゃったからなぁ。
「……萩原……夕貴」
冴木さんは思慮深げな顔で、俺の名を何度も呟いていた。
「あの、どうかしましたか?」
心配になって尋ねてみると、彼はハッとした顔で手を振った。
「ああいや、べつに大したことじゃないよ。ただ素敵な名前だと思ってさ」
なるほど。母さんのネーミングセンスが分かるなんて、やっぱり冴木さんはいい人だったんだ……!
俺は緩みきった顔を見られぬように俯いて、ぽりぽりと頬をかいた。
「いやぁ、それほどでもないですけど。ちなみに名付け親は、俺の母さんなんですよ」
「へえ、いいお母さんだね。大事にしてあげなよ。親にとって子供っていうのは宝物なんだから」
「もちろんですよ! 母さんを幸せにするのが俺の夢なんですから!」
そう宣言する俺を見て、冴木さんは目元を和らげた。
……あれ、でもそういえば、繁華街での会話から察するに、冴木さんには家族がいるはずなのだが。冴木さんは多少なりとも裏社会と関わりがあるみたいだし、だとするなら彼の家族はどこでなにを……?
「冴木とかどうでもいい。夕貴、はやく私の部屋に行こ」
すでに打ち解けた俺と冴木さんの間に割って入ってきた美影が、俺の服の裾をぎゅっと握ってくる。冴木さんが顔色を変えた。
「……ところで、萩原くんは美影ちゃんとどういった関係なんだい? まさか恋人同士なんてことはないよね?」
なぜかは分からないが、冴木さんの満面に浮かぶ笑顔の中に、かすかな怒気が滲んでいるような。背筋に冷たいものが這い上がった。
「あ、当たり前じゃないですか。俺と美影の関係は、そんなロマンチックなものじゃないですよ」
「そうかい、ならいいんだ。美影ちゃんはこのアパートの紅一点にしてアイドルだからね。一人占めはだめなんだよ。例えば、三号室の住人である渡辺くんは、美影ちゃんを盗撮するぐらいの大ファンだしね」
「は、はぁ……」
なんか色々と聞き捨てならない情報が漏れたような気もする。
向こうのほうから見慣れぬ男性が歩いてきた。その男性は、目深にニット帽を被り、安っぽいジャージで上下を固めている。年齢は二十代前半ぐらいで、どこか暗い雰囲気を漂わせていた。
「やあ、渡辺くん。お帰り」
冴木さんが手を振ると、どこかから帰宅したばかりの男性――渡辺さんはびくっと体を震わせた。
「あ、あぁ……どうも」
いつ職質されてもおかしくない不審な態度だった。俺たちとは目を合わそうともせず、落ち着きのない様子で絶え間なく周囲を伺っている。
しかし渡辺さんは、気だるそうに佇む美影に気付くと、かさついた唇を緩めた。それは相手の機嫌を取るための媚びたような笑みだった。
「み、美影、ちゃん……こんにちは」
名指しされた美影が、ちらりと視線をよこす。でも美影は興味がなさそうに、あるいは気分を害したようにそっぽを向いた。
「美影ちゃん、あの……へ、へへ」
無視されているのにも関わらず、渡辺さんは幸福に蕩けた笑顔で美影のことを見つめていた。彼は卑下た目で、美影の身体を足先から頭のてっぺんまで舐め回すように凝視している。俺の気のせいでなければ、渡辺さんは性的な興奮を腹のうちに隠しているように見えた。
「……うざい。あっちに行け。ヘンタイ」
たまりかねた美影が吐き捨てるように呟いた。それでも渡辺さんの表情は曇ることなく、むしろ罵倒されたことによって恍惚とした笑みさえ浮かべて、いやらしく舌なめずりをした。感情をあらわにすることが少ない美影に、ここまで不機嫌そうな顔をさせるのは大したものだが、渡辺さんを賞賛するのはできそうになかった。
「あぁ、美影ちゃんの声、可愛いなぁ……」
「だまれ。もう私に喋りかけるなって忠告したはず。二度は言わない」
「へへへ、ごめんね美影ちゃん。でも、そんなに怒らないでもいいじゃないか。ほら、もっとこっち見てよ」
「しつこい。これ以上、私を怒らせたら殺す」
「美影ちゃんは物騒だなぁ。でも女の子が、そんな言葉遣いをしたらだめだよぉ? 君みたいに綺麗な……」
そこで初めて、渡辺さんは俺の存在に気付いたようだった。けれどタイミングの悪いことに、美影は俺の服をぎゅっと握ったままである。その実態はどうであれ、美影が俺に寄り添っているように見えることは間違いない。
「…………」
強い怨嗟の篭った視線が、俺に突き刺さる。渡辺さんは呪詛を抑えるようにぎりぎりと歯軋りをして、それからなにも言わず、アパートにある自室へと姿を消した。
「ハハハ、まあ渡辺くんは美影ちゃんの大ファンだからねぇ」
剣呑な空気を意に介さず、冴木さんがマイペースにフォローを入れた。もしかして冴木さんは天然なのだろうか。性犯罪者を思わせる渡辺さんの言動に、あの美影ですら激情を堪えるのに必死だったというのに。
「美影。大丈夫か?」
「べつに普通」
素っ気のない返事。しかし美影はさも面白くなさそうに目を細めていた。
それから俺たちは冴木さんに見送られて、アパートの二階に位置する美影の部屋に向かった。
****
「ハァ……ハァ……ハァ……」
カーテンの締め切られた薄暗い部屋に、獣のような吐息が漏れる。
足の踏み場もないほど汚くちらかった室内には、膨大な量の写真がこれでもかとばら撒かれていた。その写真は、どれも似たような構図だった。しかも同じ少女しか写っていない。それだけでも異質なのに、千にも届こうかという数の写真のなかで被写体となっている少女は、一度としてカメラのレンズを捉えていなかった。
すべて、盗撮だった。
一度や二度の気の迷いでは断じてない。明らかに倒錯した思惑が感じ取れる。性犯罪者でさえ、この大量の写真を見れば自分が正常だと誤解するだろう。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
艶やかな黒髪を後頭部の高い位置で結い、いつも面倒くさそうに瞳を細めている少女。息を呑むほど白い肌と、左目の下にある憂いを湛えた泣きぼくろ。写真に写っている少女は、人目を惹く美しい容姿をしていた。
渡辺は、溢れる興奮を抑えようといつもの『日課』をこなしていた。かさついた唇から漏れる吐息が、写真のなかで可愛らしくあくびをしている少女に降りかかる。生気のなかった瞳にいやらしい欲望が浮かびあがり、痩せこけた頬に不気味なえくぼが浮かんだ。
「……美影ちゃん、美影ちゃん……!」
愛する少女の名を呼びながら、渡辺は『日課』を終えた。それと合わせて、写真には彼の白い体液がべっとりと降りかかる。冷静になった渡辺は、少女の写真で作ったベッドに体を横たえた。
「……どうしてだよ」
裏切られた気分だった。手に入らなくてもいい、振り向いてくれなくてもいい、話しかけてくれなくてもいい。ただあの少女が誰かのモノにさえならなければ、彼はそれだけで満足だった。
にも関わらず、これまで微動だにしなかった均衡が崩れ去ってしまったのだ。あっけなく。
「……あの野郎」
ぎりぎりと歯軋りをする。あまりに強い顎の力が、彼の奥歯を砕いてしまった。欠けた奥歯を吐き出し、渡辺は呪詛を唱えるように連続して呟く。
「許さない……許さない……絶対に許さない……俺の美影ちゃんを奪うやつは絶対に許さない……」
醜悪な笑みが、渡辺の形相を歪ませる。一人の少女を偏執的に愛していた男は、ここにきて完全に間違った方向に歩を進め始めていた。
そうだ、どうせ手に入らないんだったら、いっそのこと力づくで奪ってやればいいんだ。幸いにも彼女は、この街に拠点を置く暴力団の一つである鳳鳴会に追われている。彼らに情報を持ち込み、彼女を無力化してもらって、ついでにあの忌々しい女顔の男をぶち殺してもらおう。
もしかすると彼女は、鳳鳴会の連中に汚されてしまうかもしれないが、それでもいい。彼女をもらったあとは自分がたっぷりと清めてあげればいいのだ。
そうだ。そうだ。それでいいのだ。それが、いいのだ。
「ふ、ふふ……美影ちゃん、待っててね……くっ、ククっ」
生臭い闇の中で、どこまでも倒錯した一つの狂気がいま、ゆっくりと醸成を開始した。
****
美影は部屋に着くなりシャワーを浴びに浴室に向かった。俺もあとで貸してもらおう。走り回ったから身体中が汗でべとべとする。
美影の部屋は、とても質素だった。年頃の女子が好みそうな調度類は一切なく、必要最低限の家具だけが揃えられている。キッチンには自炊どころか、料理をした形跡すらない。冷蔵庫の横にあるゴミ袋の中身を見るかぎり、美影は普段からブロックタイプの栄養食を好んで食べているらしかった。
ひどく殺風景な室内には、脱ぎ散らかされた衣服が散乱している。これは元からあったものではなく、さきほど美影がシャワーを浴びる際に脱いでいったものだ。
窓辺に立つと、ガラス越しに退廃とした風景が広がって見えた。このアパートを覆い隠すようにして立ち並ぶ背の高い廃墟が、太陽光を遮っている。日当たりは最悪だった。
「……はぁ」
やっぱり女の子の部屋というのは緊張する。浴室のほうからはシャワーの音が聞こえるし、健全な男なら卑猥な妄想をするのが当然のシチュエーションである。
俺がぼんやりと窓の外を眺めていると、シャワーの音が止み、浴室から美影が出てきた。ホテルのときと同じ、身体にタオルを巻いただけという、見方によれば誘っているとしか思えない格好で。
目を逸らさなくちゃいけないはずなのに、俺の視線は固まったように動かなかった。色白の肌はほんのりと赤く上気していて、濡れそぼった黒髪が肩や背中にまとわりついている。それは見蕩れるに値する、扇情的な姿だった。
「上がった」
男に裸を見られているのにも関わらず、美影には恥らう様子がなかった。
「夕貴?」
石化した俺を訝しんだ美影が、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。吐息がかかりそうな間合いまで近づくと、美影は不思議そうに小首を傾げた。
「どうかした?」
あらためて観察しても、その眉目の整った顔立ちには圧倒させられるばかりだった。左目の下の泣きぼくろが儚げな憂いを湛え、濡れた下まつげは妖しい魅惑を放っており、締まった肌の上を流れる水滴の一滴一滴が美影を輝かせている。
「夕貴、ちょっとヘン。顔が赤いし、息も荒いし、まるで渡辺みたい」
「渡辺さん……?」
「うん。いつも私にヘンなこと言ってくるヤツ。あいつ、嫌い」
「……まあ確かに、ちょっとおかしな人だったけどさ」
あんな人を射殺せそうな目で睨めつけられたのだ。さすがに庇おうという気は起こらなかった。
「冴木もヘンだけど、渡辺はもっとヘン。声を聞くたびにぶち殺しそうになる」
「いや、ぶち殺すは言いすぎだろ。あの人にもあの人なりの……」
「何度、私の出したゴミを漁られたか分からない。売春の話を持ちかけられたこともある」
「…………」
もう俺が口を出すのは止めよう、と思った瞬間だった。あとこのアパートに滞在する間は、気を抜かないほうが身のためかもしれない。
話が終わると、美影はいそいそと服を着始めた。とはいえ羞恥心の薄い彼女は、純白のショーツを穿き、黒のタートルネックを着込んだところで着替えを止め、その場にごろりと寝転んだ。上は隠れたが、下はショーツ丸出しのうえに、カモシカのようにしなやかな美脚までが惜しげもなく晒されている。
もちろん直視するわけにもいかないので、俺はあさっての方角を見ながら注意した。
「……おい、ちゃんと服を着ろよ。いや、着てくれよ。俺の理性がタイヘンなことになるだろ」
「ふわぁ……」
猫のように丸くなっている美影が、シャワーで火照った身体を冷ますように熱っぽい息を吐いた。というよりあくびをした。徹夜明けで眠いのだろう。もちろん俺も眠い。呆れてため息を漏らしたところで、ふと気付く。
「……ん?」
この部屋を装飾する数少ない家具の一つ、小さなテーブルの卓上、そこに美影が両手首に着けていた無骨なブレスレットが置いてあった。シャワーを浴びている間、外していたのだろう。なんともなしにそれを拾い上げて、まじまじと観察してみる。
「なあ美影。こういうのが最近は流行ってんのか?」
「……?」
寝転んだまま気だるそうな所作で、美影が俺を――というよりブレスレットを見る。
次の瞬間、夢想だにしていなかった変化が巻き起こった。これまでの怠惰な仕草からは想像もできないほどの素早い身のこなしで身体を起こした美影は、慌てて俺のほうに駆け寄ってきた。
茫洋ながらも凛としていた空気は霧散して、クールと称すに相応しかった切れ長の瞳には確かな怒りが宿った。あまり感情を表に出すことがない美影が、不機嫌そうに眉を寄せ、目を細めている。
「それ返して」
「え?」
「それ返してっ」
「…………」
ふむ、なんだこれは。
俺の記憶違いじゃなければ、美影は抑揚のない口調だったはずだ。声に感情を乗せることも面倒くさがる彼女は、敵と戦闘するときだって声を張り上げることはなかった。そんな彼女が、誰が聞いても分かるぐらい棘のある声を発している。ちょっと不安というか、心配になってきた。
「おい、急にどうしたんだよ。なんか悪いものでも食ったのか?」
「はやく返せ!」
いったいどうしたんだ、こいつ。
すぐにブレスレットを返してもいいけど、この変化の原因を知りたいのも確かだ。いまの俺たちは相棒のような間柄なんだし、パートナーのことを深く理解するのもまた必要なことだろう。ちょっと色々と試してみるか。
「分かった分かった。ほら、返すよ」
そう言ってブレスレットを差し出す真似をすると、美影の顔がふにゃんと緩んだ。例えるなら、フレンチトーストを食べたときの菖蒲みたいな顔である。ブレスレットが美影の手に渡る寸前、俺はひょいと手を掲げて、ふたたびブレスレットを遠ざけた。
「…………」
「…………」
沈黙。またしても美影の顔が曇り、不機嫌と不愉快を足して倍にしたようなオーラが発せられる。美影がブレスレットを奪い返そうと手を伸ばす。俺はブレスレットを彼女から遠ざける。よく分からない不毛なやり取りは、次第にヒートアップしていった。
「返せっ、返せっ、返せーっ!」
美影はぴょんぴょんと飛び跳ねてブレスレットを追いかける。そのたびに濡れた黒髪が舞い踊り、甘いシャンプーの匂いがする。やや長めのタートルネックの裾からは、清潔なショーツと滑らかな脚線が覗いていた。あっちこっちにブレスレットをかざすと、それに釣られて美影の跳躍も変化する。
「返せっ、返せっ、返せーっ!」
何事にも限度があるように、このとき、俺のイタズラも少しばかり度が過ぎていたのだろう。痺れを切らした美影は、勢いよく俺に飛び掛ってきた。ブレスレットを高く掲げるために爪先立ちをしていた俺は、あっけなく押し倒された。転倒したときに腰をしたたかに打ちつけてしまう。
「いってぇ……」
などと言っているあいだに、美影が俺のうえに圧し掛かってくる。それも馬乗りに。美影はズボンを穿いていないので、ショーツ丸出しである。かたちのいい尻が、俺の腹にむにゅんと乗っかった。
濡れた黒髪が垂れ下がり、頬をくすぐってくる。ポニーテールではなくストレートに髪を下ろしているせいか、あるいは風呂上りの女の子が発する魔力のせいか、いまの美影は凄く色っぽい。
温かな熱を持った身体は汗ばんでおり、薄桃色に紅潮していて、妖しい色香を放っていた。もともと肌の色が白いせいか、上気した頬がひどく艶かしい。
思わずごくりと喉を鳴らしてしまった自分を心の中でボコボコにしてから、俺は美影から目を逸らした。すると、小さな布一枚しかまとっていない彼女の下半身に目がいってしまい、逆効果となった。
美影は両足で俺の体を挟み込んだ。柔らかく、それでいて張りと弾力のある太ももが、わき腹のあたりを圧迫してくる。かあ、と全身が熱くなるのが分かった。
「ちょっ、おい! この体勢は色々と問題があるだろ!」
俺も気を抜けば(不覚にも)見蕩れてしまうぐらいなんだ。こんな密着した体勢だと理性が長くは保たない。
「それ返せ!」
どうやら美影は、いまの体勢について思うところはないらしかった。恐らく羞恥心よりもブレスレットを奪い返すほうが優先なのだろう。
互いの吐息が肌にかかるほど顔が接近する。甘い、甘美とさえ言える女の子の匂いが、鼻先をくすぐった。
「くそ……!」
ブレスレットを奪い返されたくない、というよりも、美影の魅力から逃れようとして、俺はみっともなく抵抗した。
でも運の悪いことに――あるいは良かったのかもしれないが――腕を振り回すと、美影の胸に手が当たってしまった。それも両手で、鷲づかみ。ブレスレットが床のうえに落ちる。
女性の平均よりも劣るとはいえ、そこには確固たる柔らかさが存在した。
美影は面倒くさがってブラジャーをつけていなかったようなので、阻むものはタートルネックの布しかなく、乳房の感触が文字通り手に取るように分かった。
男の本能が発動してしまい、手が動いて、たおやかな膨らみを揉みしだいてしまう。
……やべえ、めちゃくちゃ柔らかい。
なんだかんだ言ってもこいつ、ちゃんと胸あるんだな。失礼なことを考える萩原夕貴、十九歳。男らしさだけがとりえの男。
「……はっ!?」
なに当たり前のように女の子の胸を揉んでんだ、俺は!? こいつは出会ってから一日と経ってない女の子だぞ!? こんな不埒なことを俺がしてるって知られたら、母さんからは説教され、菖蒲には泣き喚かれ、ナベリウスには一生からかわれ、託哉にはヒューヒューと口笛を吹かれること間違いなしじゃねえか!
いやでもまあ美影は羞恥心の薄い子だし、ちゃんと謝れば許してくれるはずだ。こいつは俺のことを男と認識してないようだし。
「ごめんな? わざとじゃなかったんだぞ? ほんとだぞ?」
いちおう本気で悪いとは思っているので、心からの誠意を込めて謝罪してみた。
「…………」
美影はぽかんとした顔のまま、自分の胸と、それに触れる俺の手をじっと見つめていた。
たぶん、俺がいままで体験したアクシデントのなかでもベストスリーには入る、気まずい展開だった。いっそのこと怒鳴ってくれたほうが気持ち的には楽なのだが、しかし美影は俺に罰を与えることなく、ただ罪の意識のみを植えつけるかのように、沈黙を保っていた。往々にして、罪とは罰がなければ晴れぬものである。
「…………」
なんか腐った生ゴミを見るような目で見られてるんだけど。
「えっと、怒ってるか……?」
「……ふん」
鼻を鳴らし、俺から離れていく美影。
いそいそとブレスレットを装着した美影は、普段どおりの無愛想で怠惰で無表情な女の子に戻った。理由は分からないが、あのブレスレットを他人に触れられると彼女は気分が害するようだ。
それから俺たちは眠気を我慢し、ちょっと遅い朝食を摂ることになった。ここまで徹夜すると、逆に一週回って眠くなくなってしまったのだ。ただし朝食を摂るとは言っても、精のつく食料など備蓄されていなかったので、俺が近くのコンビニまで買出しに行くことになったのだが……。
「……なあ美影。なにか食べたいものとかあるか?」
「うるさい黙れバカ」
美影はあぐらをかき、こちらに背を向けている。もうすでに服を着込み、長い黒髪はポニーテールに結われていた。なぜか俺に胸を触れられる前よりも、美影が厚着になっているような。
さっきから微妙に美影の頬が膨らんでいる気がするのだが……見間違いであると思いたい。
「さ、さすがに怒りすぎじゃないか? もうちゃんと謝っただろ? そりゃ俺だってイタズラが過ぎたとは思うけど」
「喋るな女顔」
「ぐっ!」
いまだけは反論できない!
「……はあ」
しばらくは共闘しなきゃいけないってのに、これじゃあ先が思いやられるな。俺が言うのもなんだけど。
これ以上、ここにいても罵倒されるだけだと思い、俺は足早に部屋をあとにした。こうなったらコンビニで調達できる食料で、なにか美味しいものを作ってやるしかない。扉を閉める直前まで、抑揚のない口調で紡がれる美影の悪口が、俺の耳と心を痛めて止まなかった。
アパートの正面玄関には、俺たちと別れた直後のままの出で立ちで冴木さんが佇んでいた。ぼんやりと曇天を見上げていた彼は、階下に現れた俺を認めると意外そうな顔をした。
「うん? 萩原くんじゃないか。どうしたんだい。まさか美影ちゃんに部屋を追い出されたわけでもないだろうし」
頼りなさそうな笑みを浮かべて、冴木さんは茶化すように言う。
「まあ美影ちゃんは色恋沙汰とは無縁の生活をしてるし、萩原くんみたいな年頃の男の子と接するのに慣れていないんだろう。そう気にすることはないよ」
「年頃の男と接するのに慣れてない、ですか。でもむしろ、あいつは男をあしらうのが上手いと思うんですけど」
「ハハハ、確かにそうかもしれないね。ただ美影ちゃんは男のあしらい方を知っている、というよりも、男をあしらうことしか知らないと言ったほうが正しいよ。いままで恋をしたことがないから、『あしらう』以外の選択肢が、あの子のなかにはないんだ。そう考えると、萩原くんは脈があるほうだと思うよ」
「うーん、絶対に脈だけはないような気がするんですけど。あと恋をする美影なんて想像できませんし」
「同意だね。僕も想像できない」
互いに顔を見合わせて、俺たちは笑った。
「それにしても冴木さんって、美影のことに詳しいんですね」
「詳しいっていうほどでもないよ。ただ同じアパートに住んでいるわけだし、それだけ美影ちゃんと触れ合う機会も多いのさ。とは言え、満足にコミュニケーションを取れたことは数えるほどしかないけどね」
あぁ、ちなみに僕の部屋は二号室だよ、と冴木さんは補足した。美影の部屋が一号室に当たるから、そのとなりに冴木さんが住んでいるということになる。いわゆる隣人というやつだ。
俺が近場のコンビニまで食料を買出しに行く旨を伝えると、彼は合点がいったと大きく頷いた。
「ああ、そういえば美影ちゃんはいつも手軽な栄養食ばかり食べていたね。君みたいな若い男の子にはちょっと物足りないか」
「まあ……そんなところですね」
正直なところ、俺はべつに栄養食でもよかったのだが、美影になにか美味しいものを食べさせてやりたかった。あんな味気ないもんばかり食べてるから成長の兆しが見えないのだ、あいつは。
「……ところで、一つ気になってたことがあるんですけど」
のほほんと笑っている冴木さんを見ていると決意が鈍りかけたが、それでも俺にはどうしても聞いておきたいことがあった。
「うん? なんだい?」
「ちょっと聞きにくいんですけど……冴木さんには家族がいるんですよね?」
あまり踏み込まないほうがいい、とは思ったが、質問してしまった以上、もう撤回はできない。冴木さんはきょとんとしてから、居心地が悪そうに苦笑した。
「そうか。萩原くんには昨日の夜、繁華街でばったり会ったときに、僕に家族がいるってことを教えちゃったんだっけ。いやあ、参ったね。あのときは一期一会の出会いだと思っていたから、口を滑らせても大丈夫だと思ってたんだけどなぁ」
「冴木さん。俺から質問しておいてこんなことを言うのもおかしいんですけど、べつに無理して事情を話す必要は……」
「でも気になるんだろう?」
いまさら引き下がろうとする俺を、冴木さんは努めて明るい表情で引き止めた。
確かに、気にならないと言えば嘘になる。昨夜、繁華街で会ったときの冴木さんはとても満ち足りた顔をしていた。娘のことを語るときの彼は、とても幸せそうだったのだ。
恥を承知で告白するなら、俺は『父親』という存在に強い憧れを抱いている。もちろん母さんがいてくれたから寂しくはなかったけど、しかし俺を挟むようにして父さんと母さんが立っている光景を、ガキの頃は何度も夢に見たものだ。冴木さんに家族がいるのなら、なるべくそばにいてあげてほしいのだが。
「まあ、萩原くんを楽しませるようなエピソードがあるわけでもないんだけどね」
物憂げな顔で曇った空を見上げながら、冴木さんは言った。
「実を言うとね。別居してるんだよ」
「別居、ですか?」
「そうそう、別居さ。僕にも妻と娘がいたんだけどね、いまは離れて生活してるんだよ。君もある程度は察してると思うけど、僕は残業手当が出ないと嘆いたことも、意地の悪い上司にいびられたこともない。そういう平凡なサラリーマンが抱える普遍的な悩みとは無縁なんだよ、僕は」
この『住めば都』というアパートに入居する絶対条件は、裏の人間であること。つまり冴木さんは、うだつの上がらない社会人なんかじゃない。なんの仕事をしているのかまでは分からないが、彼が大手を振って歩けるような人種じゃないことだけは確実。
ということは、もしかして冴木さんが家族の方と別居しているのは、それが原因なのではないだろうか?
「ははあ、萩原くんはどうにも頭の回転が早いみたいだね」
なぜか楽しげに冴木さんが声を上げた。
「たぶん君が考えているとおりだよ。僕は妻と娘に愛想を尽かされたんだ。まあそれも当然かな。真っ当な職を持たない男なんて、妻と娘からすれば害悪以外のなんでもないだろうし」
「そんなことないですよ!」
予想していたよりも、否定の声が大きくなってしまった。いきなり剣幕をあらわにした俺を見て、冴木さんが目を丸くしている。
でも俺は悲しかったんだ。きっとこれは『父親』という存在に美しいイメージを持ってしまっている俺だからこそ言える綺麗事なのだろうけど、父親である冴木さんが、自分のことを『害悪』なんて称するのは我慢ならなかったのだ。
ふと我に返ると、感情的になった自分が恥ずかしく思えてきた。
「……すいません、急に大きな声を出したりして」
「いや、いいさ。僕も自虐が過ぎたみたいだしね」
「そう言ってもらえると助かります。……でも俺は、自分の言葉が間違っているとは思いません。冴木さんの抱える事情は分かりませんが、お父さんがいなくなって嬉しいと感じるような家族はいないはずです」
「……そうだね。きっと萩原くんの言うとおりだ」
冴木さんの声には真実、俺の言葉に納得してくれた響きが含まれている。俺みたいな部外者に出る幕などあろうはずもないが、冴木さんには家族の人と仲直りしてほしいな、と切に思う。この世には父親のいない子供だっているのだから。
「……萩原くんはいい子だね。優しくて、強くて、賢い。そういうところはお母さん譲りなのかな?」
「どうなんでしょう? よく母さんに似てるとは言われますけど」
「だろうね。そんな気がするよ。ところで再確認しておきたいんだが、”夕貴”という名前をつけたのは、お母さんなんだよね?」
「そうです。名前の由来とかは聞いてないんですけど、母さんは生まれてくる子供が男子でも女子でも、”夕貴”っていう名前をつけるつもりだったと聞いています」
「……ふうん、なるほどね」
右手の指で無精ひげをさする彼は、なにか深い考え事をしているように見えた。
「えっと、そういえば冴木さんの下の名前をまだ聞いてないんですけど、この際だから教えてもらってもいいですか?」
これは純粋な知的好奇心からの質問である。あっさりと答えてもらえるんだろうなぁ、と高をくくっていた俺は、しかし予想を裏切られることとなる。
「あー、非常に言いにくいんだが……萩原くん、実は”冴木”っていう名前は、僕の本名じゃないんだよ」
「へ? どういうことですか?」
「裏社会じゃあ本名を失くしてしまう人間が稀にいるぐらい、偽名を名乗るのは日常茶飯事だからね。僕がそのパターンに当てはまってもおかしくはないだろう?」
いまいち『偽名を名乗るのが普通』という裏の常識に馴染めないのだが。
「これは余談だけど、僕の”冴木”っていう名前は、実は美影ちゃんが名づけてくれたものなんだよ」
「あいつが?」
「うん。このアパートで初めて会ったときにね。美影ちゃんはこう言ったんだ」
――冴えない顔。おまえなんか冴木でいい。
と、初対面の成人男性に対して、美影は言ったらしい。まったく怖いもの知らずというか、なんというか。
「ちょうど僕も新しい偽名が必要な時期だったしね。どうせなら、こんなうだつの上がらないおっさんの考えた名前よりも、美影ちゃんのように可愛い女の子が考えてくれた名前のほうが幸があるかな、と思ったわけさ」
「なるほど。でも”冴えないから”っていうのが由来じゃ、微妙に幸先が悪いような気が……」
「いいんだよ、細かいことは気にしない気にしない。僕を含めて、このアパートに住む人間は、みんな美影ちゃんのファンだからね」
「ファン、ですか。でもあの渡辺っていう人は」
言いかけて、二階から誰かが降りてくる気配を察知した俺は、続く言葉を飲み込んだ。噂をすれば、というやつだろう。アパートから出てきたのは、ニット帽を目深に被った男性だった。安物のジャージをまとった彼の目は充血していて、肌には張りがなく、唇はかさついている。
「やあ、渡辺くん。どこかに出かけるのかい?」
目元を和らげて挨拶をする冴木さんを無視して、渡辺という名をした男性は、ぶつぶつと独り言を呟きながら俺たちの前を素通りしていった。
さすがに様子がおかしいな、どうしたんだろう、と思った瞬間。
「へ、へへ」
おぞましい含み笑いを漏らし、渡辺さんが俺を一瞥した。その目には生気どころか正気すらないように見えた。ここに警察がいれば、まず間違いなく彼は取り押さえられているだろう。そう思わせるだけの異常性が、いまの渡辺さんにはあった。
下手をすればナイフでも振り回しそうな雰囲気だったのだが、彼は俺たちにはなにも言わず、黙ってアパートを後にした。
「……なにかあったんでしょうか?」
「さあ、どうだろうね。基本的に僕たちは『互いの事情に深入りしない』のが原則だから。仮に渡辺くんが殺し屋に狙われてるとしても、僕たちには手の出しようがない。うかつに手助けをしてはいけない。それが裏のルールってもんさ」
「…………」
ちょっと冷たいが、きっと冴木さんの言葉に嘘はないのだろう。ここは俺の常識が通用しない世界。無秩序こそが秩序とまでは言わないけれど、表社会よりも”暴力”が幅を利かせているのが裏社会だ。興味本位で首を突っ込めば、それが身の破滅に繋がることだってあるかもしれない。
「…………潮時、か」
そのとき、感情を伺わせない平坦な声で、冴木さんはよく分からないことを呟いた。
「え、なにか言いましたか?」
「おや、萩原くんは耳がいいね。聞こえちゃってたか。まあこっちの話だから、気にしないでくれ」
そう言われてしまうと、俺にはどうしようもない。冴木さんが渡辺さんの事情に深入りしなかったように、俺は冴木さんの事情に深入りしないほうが自然なのだ。この裏社会では。
「萩原くん」
なんの脈絡もなく、冴木さんは言う。
「君さえよければ、これからも美影ちゃんと仲良くしてあげてくれないか。あの子には恋人はもちろん、世間話を交わせるような友達すらいないからね。きっと萩原くんとの出会いが、美影ちゃんの心境に何らかの変化をもたらすだろう」
「……そうでしょうか? 美影のやつ、確実に俺のことを嫌ってると思いますけど。ついさっきも喧嘩しちゃいましたし」
「それはいいじゃないか。美影ちゃんは、僕たち『住めば都』の住人のことなんて眼中にないからね。嫌ってもらえたり、喧嘩してもらえたりするだけでも、僕にしてみれば信じられない話さ」
「そう言われても素直に喜べないんですけど……」
「ハハハ、まあ萩原くんの気持ちも分かるけどね」
これから美影と友好な関係を築けるつもりがゼロの俺は、さも愉快げに笑う冴木さんがすこし恨めしく思えた。
「とにかく、だ。美影ちゃんと仲良くしてあげてくれよ、萩原くん」
「はぁ、最低限の努力はしてみます」
渋々と頷く俺を、冴木さんが満足そうな目で見つめていた。
それから俺は冴木さんに挨拶をして、近場にあるコンビニに向かった。美影の部屋を出たときよりも、空はいくらか曇っているような気がした。