コンビニで数日分の食料を買い込んだ俺は、人目を避けて美影の部屋まで戻ってきた。
美影の機嫌はそう悪くなかった。ただ微妙に俺から距離を取っているような気がする。あまり目も合わせてくれない。出会ったばかりの男に肌を晒すのが平気な彼女でも、やっぱり胸を触られるのは嫌なのだろうか。
俺がキッチンで調理をしている間、美影はテレビを見ていた。このテレビは今時珍しいぐらいボロボロで、いつ壊れてもおかしくない代物である。なんでも捨てられていたものを拾ってきたらしい。
美影が好んで見るのはバラエティやドラマではなく、ニュースの類だった。恐らく街の近況や世論を知るためだろう。それが規制されたり操作されたりした上で開示された情報だったとしても、役に立つことに変わりはない。
例えばいま、朝のニュース番組はもともとの予定を変更して、昨夜この街の繁華街で起きた事件について報道していた。
現場からの中継を任されたリポーターによると、この街に根を張る暴力団がラブホテルに大挙して押し寄せて、少なくない軽傷者を出したとのこと。幸いにも死者は皆無だった。
ニュースの速報は、どうにも要領を得ない感じだった。たぶん、情報の多くが意図的に規制されているためだ。現に『暴力団は拳銃を所持していた』という事実はいまのところ出てきていないし、《鳳鳴会》という組織名も伏せられていた。
「……あれだけ派手だったのに、やけに扱いが小さいな。公共施設に武装した暴力団が乗り込んだんだ。もっと色んな報道局が食いついてもおかしくないんじゃないか?」
俺は卵と牛乳と砂糖を入れたボウルをかき混ぜながら、鋭い目つきでテレビを見つめる美影に問いかけた。
「ううん、これでも大きく報道されてるほう。本来なら昨夜の事件そのものが隠蔽されてるはず」
「隠蔽だって? でも扱いが小さいとはいえ、ちゃんとニュースになってるじゃないか」
「たぶん、目撃者が多すぎたせい」
「なるほど。つまり事件を完全に隠蔽しちまうと事件を見ていた人たちが怪しむから、最低限の情報だけ流したってわけか」
自分が巻き込まれた事件がもみ消されていく……おかしなものだよな、ふと気を抜けば、昨夜の出来事がぜんぶ夢だったんじゃないかと錯覚しそうになるんだから。
気を抜けば漏れそうになるため息を押し殺して、俺は調理を続けた。いま作っているのは、ご存知、フレンチトーストである。これならコンビニで売っている食材からでも作れるし、なにより手間がかからない。
カットした食パンに、卵と牛乳と砂糖を混ぜた液体をたっぷりと染み込ませたあと、バターをしいたフライパンで焼いていく(ちなみに必要最低限の調理器具だけは揃っている)。
その過程でふと思った。
美影って栄養食ばっかり食べていたみたいだけど、甘いものとかは大丈夫なのかな?
「なあ。おまえってなにが好物なんだ?」
「ポン酢」
「待て待て。それは調味料であって、料理じゃないだろ」
「しゃぶしゃぶをごまダレで食べてるやつを見ると親の顔が見たくなる」
「言いすぎだろ! キレやすい若者ってレベルじゃねえぞ! 確かに俺もごまダレよりはポン酢派だけど!」
「派ぁ?」
おまえ死んだほうがいいだろ、みたいな顔をされてしまった。美影は大きく重たいため息をついた。
「夕貴、”派”とかない。そもそもポン酢とごまダレを比べることがおかしい」
「そこまでポン酢が好きなのか……」
「ポン酢を捨ててごまダレに浮気をするやつは死ねばいいのにといつも思う」
「愛が重い!」
「誰にも私を止めることはできない」
「まず走ってもねえよ、おまえは!」
熱した鉄板のうえで食パンが焼かれる音と、なんともいえない甘ったるい匂いが部屋に充満していく。くんくん、と鼻を鳴らす美影。
「……それ、甘いもの?」
「そうだよ。おまえ甘いものは好きか?」
「やぶさかじゃない」
「ならよかった。もうすぐ出来上がるから楽しみにしてろ」
そうこうしているうちに萩原家秘伝のフレンチトーストが完成した。本当ならシナモンを隠し味として入れるのが母さんの教えなのだが、コンビニには売っていなかったので今日は省くとしよう。
埃を被っていた小皿を洗い、そこにフレンチトーストを盛り付けていく。美影の分にはシロップを多めにかけておいた。
出来上がったものをテーブルに運ぶと、美影の目の色が変わった。挑みかかるような、疑いかかるような眼差し。『おいおい、おまえ本当に美味しいんだろうな?』とでも言いたそうな瞳である。
コンビニで買ってきたインスタントコーヒーを二つ淹れて、俺は美影の対面に腰を下ろした。ちょうどテーブルを挟んで座るようなかたちだ。
「むう……」
美影は気難しそうな顔をしていた。フレンチトーストが未知なるものに見えるのかもしれない。
やがて覚悟が決まったのか、どことなく小動物を思わせる仕草で、彼女は小さな口をめいっぱい広げてフレンチトーストを頬張った。
よく吟味するように両目をつむり、もぐもぐと音がしそうなぐらい軽快に顎を動かす。
「――っ!」
次の瞬間、カッと美影の目が見開かれた。つやつやとした玉肌が、薄っすらと上気する。
「どうだ、美味いだろ?」
なんとなく勝った気分である。しかし俺が作った料理を美味しいと認めることは、美影にしてみれば自分の負けと認めることに等しいようだ。
「……べつに普通」
ぷいっ、とそっぽを向く。その頬は大量に詰め込んだフレンチトーストのせいでハムスターのように膨らんでいる。
「素直じゃねえな。美味けりゃ美味いって言えよ」
「だから普通。まあ食べられないこともない」
「そのわりには凄まじい勢いで食べてるじゃねえか……」
ぱくぱく、もぐもぐ、ぱくぱく、もぐもぐ、と。
その見事な食べっぷりは、さながら久方ぶりに餌を与えられた猫である。
「…………」
あー、なんか和むなー。
俺の視線に気付かず、ほこほことした顔でフレンチトーストをついばむ美影は、なんともいえない愛嬌があるんだよなぁ。
いまの美影を見ていると、自分でもびっくりするぐらい心が落ち着く。なんていうか、一生懸命にヒマワリの種をかじるハムスターを見ているような感じ。
普段の言動があまりにも憎たらしいので、こうして美味しい食べ物に油断している美影の姿はなんとも愛らしく映るのだ。
「……なに?」
俺の生暖かい視線に気付いた美影は、むっと目を鋭くして不機嫌そうな顔になった。
「いや、べつに。なんでもないよ」
「……ふん」
どこか釈然としない面持ちで視線を逸らせる美影。
あまり露骨に観察するのも悪いな、と思った俺は、部屋の片隅に置かれているおんぼろテレビに目を向けた。
「……おっ」
そのとき、示し合わせたかのようなタイミングで、菖蒲が出演しているコマーシャルが流れた。
それは清楚な菖蒲にぴったりの、シャンプーの映像広告である。菖蒲が愛用している柑橘系の香りがするシャンプーと同じやつだ。なんでも菖蒲はコマーシャルに出演しているという役得で、会社のほうからタダで製品をもらえるらしい。
「やっぱり可愛いよなぁ、菖蒲って。きっと学校でもみんなに好かれてるんだろうな」
無意識のうちに呟いてしまった。
美影はフレンチトーストを食べながら、
「うん。好かれてる。学級委員にも推薦されてた」
「へえ、そうなのか。学級委員に推薦されてたとは知らなかったな」
「でも仕事が忙しいからと断って、保健委員に立候補してた」
「へえ、そうなのか。保健委員に立候補してたとは知らなかったな……ん?」
なんだ?
こいつ妙に詳しいな。
もしかして隠れファンなのか?
「なあ美影。つかぬことを聞くけど、なんでおまえは菖蒲が学級委員に推薦されてたり保健委員に立候補してたってことを知ってんだ?」
「見てたから」
「見てた?」
「うん。おなじクラス」
「あー、なるほど。そういうことだったのか。確かにそれなら納得できるなってええええええええっ!?」
パニックに陥る俺とは対照的に、美影はどこまでも自然だった。
「私、愛華女学院の生徒」
「はあぁぁぁぁっ!? そんなのありえ」
ない、と言いかけたところで、俺は踏みとどまった。
そうだ、よく考えるとありえない話じゃない。むしろ考えれば考えるほど現実味を帯びてくる。俺は美影の非現実的な姿しか見ていないので想像しづらいが、こいつも今年で十六歳、つまり現役女子高生のはずなのだ。
「そこのクローゼットに制服が入ってる」
普段の俺ならば、証拠を得るためとはいえ女の子の秘密が詰まっていそうな場所を覗くことはしないのだが、今回だけは特別だった。
部屋の片隅にある小さなクローゼットを開け放つと、そこには黒を基調としたセーラー服がかけられていた。菖蒲が着ているものよりも幾分かサイズは小さいけれど、それが愛華女学院の制服であるという事実に変わりはない。
確かに、美影には黒い色がよく似合うから、このセーラー服もばっちり着こなせるとは思う。でも、こんな愛想の欠片もない怠惰な女の入学を許してしまうとは……。
「だめだ。美影が勉強している光景なんか想像もできない……」
「想像できないというより、そんな光景は存在したためしがない」
「ちゃんと勉強しろや!」
「授業を受けた記憶もほとんどない」
「だからサボっちゃだめだろ……」
「学校にはちゃんと行ってる。ただ授業中はいつも机と愛を確かめ合ってるから」
「それ寝てるだけじゃねえか!」
「悪いのは私じゃなく、私をいっぱい調教した机のほう」
「言い訳が斬新すぎるわ! そんなことを理由に居眠りしてたら先生に怒られるぞ!」
「怒られてない。でも泣かれた」
「もう話しちゃったのか!? ……ち、ちなみに、先生には居眠りしてた理由をなんて説明したんだ?」
「私は机にいっぱい調教された牝奴隷。ご主人様には逆らえないから寝るしかない――と」
「俺が先生だったらおまえに病院を勧めてるわ! つーか、そんなことを先生に言うおまえ凄いなっ!」
「……照れる」
「褒めてねえよ!」
こいつと喋ってるとため息が止まらないのは、俺の思考が硬いからなのだろうか?
「でもさ、おまえの両親はなんて言ってんだ?」
「……?」
「いやほら、いま聞いた話だと、おまえって学校における一種の問題児じゃないか。授業中、寝てばっかりだったら先生に怒られるし、それを続けてたら親御さんにも連絡がいくだろ?」
「知らない」
「知らないって……」
「父親はいないし、母親とはそういう話しない」
「…………」
ちょっと迂闊だったかな、と反省する。
家族の問題は、往々にしてデリケートであることが多い。俺だって父さんのことについて尋ねられるのはあまり好きじゃない。聞かれるたびに、自分には父親がいない、という事実を再認識させられるから。
美影にも、父親はいないという。離婚か、あるいはすでに亡くなっているのか。よせばいいのに、俺の口は止まらなかった。もしかするとそこには、ある種の親近感のようなものが働いているのかもしれなかった。
「……その、おまえのお父さんってどんな人だったんだ?」
「んー。知らない。私が生まれたときにはもう死んでた」
やっぱり聞かなきゃよかったかな、と少しだけ後悔した。
「……そっか。実は俺も、父さんの顔、見たことないんだ」
「そう」
簡素に応える美影の目は、父親の話題をするときよりも幾分か、寂しそうに見えた。なんだか朝っぱらから陰鬱な雰囲気になってしまった。このままでは気が滅入るばかりなので、俺は空気を明るくしようと話題を戻した。
「まあ真面目な話、おまえはもっとしゃんとしたほうがいいと思うぞ」
「……?」
「いや、なんかもったいないなって思ったんだよ。おまえってほら、色々とだらしないところがあるだろ? たとえば出会ったばかりの男に肌を晒したり、一度座ったり寝転んだりするとなかなか動かなかったり、太陽をうざそうな目で見つめたり」
「太陽は眩しいから嫌い。紫外線も超うざい。たぶん、あいつ調子乗ってる」
「そこがおかしいんだって。普通、年頃の女の子なら暗がりよりも陽だまりを好むはずなんだよ。でも美影は朝よりも夜のほうが好きなんだろ?」
「うん。暗いと落ち着く」
「だろうなぁ……」
美影が太陽の下で走り回ってる光景なんて想像できない。絶対こいつは月に照らされた高層ビルのてっぺんとかで、物憂げな顔をしながら腰掛けてるほうが似合いそうだ。
「それに、さっき俺がコンビニに行くときだって、本当ならおまえも一緒に来るべきだったんだよ。そっちのほうが安全だしな」
「ねむい。だるい。シャワー浴びてから外に出たくない」
「ただのニートじゃねえか、おまえ……」
まったく、こいつの将来が心配になってくるな。
それからしばらくの間、もぐもぐとフレンチトーストを頬張っていた美影は、なにが拍子かは分からないが「はっ!?」と名案を閃いた学者のように立ち上がった。その様子は、さながら天啓を授かった巫女のようでもあった。
「……もらった」
「なにがだ」
「今年の流行語大賞、もらった。これは絶対に流行る」
「また意味不明な言葉を思いついたのか……」
ため息をついて肩を落とす俺を尻目に、美影は言った。
「これから私のことは”ニーデレ”と呼ぶべき」
「はあ? なんだそりゃ」
「普段はニートで、いざというときにデレデレする人――つまり私のこと」
「……おい美影」
「じー」
「……いや、だから美影」
「じー」
「…………」
「じー」
「……ニーデレ」
「なになに?」
「美影」
「じー」
「……あのな、ニーデレ」
「うんうん」
もう色んな意味で終わってるな、こいつ。
相変わらず美影の顔は気だるそうな感じだったが、その瞳の奥底には長いマラソンを走り終えたときのような達成感が秘められている気がした。
「……まあなんでもいいけどさ。一つだけ聞いていいか?」
「うんうん」
「確かにおまえにはニートの素養があると思うけど、べつにデレデレはしてないよな?」
ぎくっ、と美影の身体が跳ねる。いつかのときとまったく同じ反応だった。
「そ、そそそんなことないし。私、超デレデレだし」
「……やっぱり誤魔化すのが下手すぎるよ、おまえは」
もしも”ニーデレ”という言葉が流行ったとしたら、そのときは日本の終わりだと俺は思う。
それから間もなく、俺たちは朝食を食べ終えた。栄養をしっかり摂ったあとは、これまで酷使した身体と脳を休めるために仮眠を取ることにした。
布団は一つしかなかったので、俺は床のうえで毛布に包まって眠ることになった。相当に眠かったのだろう。美影は布団に潜り込むと、すぐに寝息を立て始めた。かけ布団から頭だけをぴょこっと露出させ、猫のように身体を丸めている。その寝顔を、俺は見つめていた。
「……ったく。もっと警戒しろよ。バカ」
一つ屋根の下、腕を伸ばせば届くような距離に若い男がいるというのに、美影にはこれっぽっちも思うところがないようだった。
まあ警戒されていないというのは素直に嬉しいのだが、しかし男として意識されていないのもちょっと複雑だったりする。一切合財の煩わしいことから逃れるように、俺は毛布のなかに潜り込んだ。
「……ん」
なんかいい匂いがした。安物の毛布から香ってくる、甘い女の子の匂い。
こんな非常時なのに……いや、こんな非常時だからこそ、壱識美影という少女のことを意識せずにはいられなかった。
もちろん俺には菖蒲がいるので、美影に惚れたとかそんな不埒なことは言わないけれど。それでも、なにがあっても美影のことだけは護ってやらないとなぁ、なんて、そんなお節介なことを考えてしまう程度には、俺はこいつのことが気に入り始めていた。
****
漆黒の帳が下りた夜景は、世界が終わってしまったのではないかと危惧するほどに深遠だった。澄み渡った空には美しい三日月が浮かび、その黒い画用紙のような夜天に煌くまばらな星々が、闇に呑まれる世界に幾許かの希望を与えている。
「……醜いですねえ」
そびえたつ高層ビルの屋上から、まるで神のごとき威容と傲慢さで夜の街並みを俯瞰する男がいた。風になびく金色の髪と、縫いつけたような糸目と、場違いな神父服。ソロモンの序列を持つ彼は、名を《ダンタリオン》という。
「ああ。人というものは実に醜い」
くつくつ、と喉の奥から湿った音が漏れる。
「このような下賎な輩がはびこる世界など壊れてしまえばいい――そうは思いませんか?」
フェンスを始めとした安全装置が設けられていない屋上のふちに佇み、変わらず夜景を見下ろしたまま、ダンタリオンは背後にいるであろう人影に向けて、そう問いかけた。
「へえ、気付いてたんだ。相変わらずの用心深さで安心したわ、ダンタリオン」
氷のように冷たく、水のように澄んだ女性の声がした。
この高層ビルの屋上には、あまった敷地面積を有効利用するためにヘリポートが設けられていた。ほかにも空調設備や給水設備がごちゃごちゃと並んでいる。そのなかでも奥まった場所にある一際大きい給水タンクのうえに、銀色の長髪をした女が立っていた。
およそ完成された美貌。よく磨かれた銀貨のような瞳。月明かりにも負けない白磁の肌。ソロモンの序列を持つ大悪魔にして、一人の少年に忠誠を誓う彼女は、名を《ナベリウス》という。
「褒め言葉として受け取っておきましょう。貴女のほうこそ昔と変わらず美しいままだ」
かつての同胞を前にした二人の反応は、それこそ正反対だった。ダンタリオンは楽しげに唇を歪め、ナベリウスは冷酷に目を細めている。ナベリウスを見上げて、ダンタリオンは旧友を迎えんと手を広げた。
「どうです? 久方ぶりの再会だ。よろしければ一緒にお食事でも」
「遠慮しておくわ。いまだから言うけど、わたしは昔からあなたのことが大嫌いなのよね。そのいやらしい目を見ているだけで反吐が出そうになるし」
前髪をかきあげ、ナベリウスはため息を漏らした。突き放すような罵倒を受けても、ダンタリオンの笑みは崩れない。
「ふうむ、そうですか。しかし僕は昔から貴女のことを好いていましたよ。人間など足元にも及ばない絶対の美貌と、気高くも誇り高い精神。なるほど、貴女のような女性を跪かせることができれば、さぞかし気分がいいでしょうねえ」
「いつまで経ってもその腐りきった性根は変わらないのね。……でもねダンタリオン。残念だけど、あんたじゃ役者不足なのよ。わたしを自由にしていい男は、この世に一人しかいないの。それは」
「我らが偉大なる《バアル》の遺児、ですか?」
ぴくっ、とナベリウスの眉が吊り上がる。
「僕は残念でなりませんよ、ナベリウス。あの美の女神と称すに相応しかった貴女が、いまでは過去に縋り付くだけの牝でしかない。敬愛した《バアル》が逝ってしまったからと、その面影を求めて、彼の子息によりどころを求めるとは。哀れですよ、実に哀れだ。見るに耐えませんよ、いまの貴女は。その日の食事代に困って男に股を開くような女となんら変わらない」
「……なにを勘違いしているのか知らないけど」
さも面倒くさそうにかぶりを振って、ナベリウスは言う。
「わたしはもうバアルのことなんてどうでもいいの。逝ってしまった彼に、わたしが護れなかった彼に、いまさら求めることなんてないわ」
「ほう? ではなぜ貴女は、あの少年を?」
「そんなの決まってるじゃない」
ナベリウスは母親か姉のような親愛の笑みを浮かべた。それは一人の少年にだけ向けられ、捧げるもの。
「わたしは、夕貴を愛してる。夕貴がバアルの血を引くという事実は、わたしがあの子に抱く愛になんの影響も及ぼさないわ。わたしはあの子を護ってあげたい。夕貴がわたしを愛してくれなくてもいい。夕貴がわたし以外の者を愛してもいい。それでもわたしは夕貴を愛して、慈しむ」
そう気付いたのだ。いつかの朝、初めて少年の姿を見たときに。
そう誓ったのだ。いつかの朝、初めて少年と出会ったときに。
この子だけは護ってあげたいと。今度こそ、護り抜いてみせると。あの十九年前の日に、王なるソロモンの使徒として、己が真名に賭けて、彼女は心に決めたのだ。
他の誰にでもない、心の奥底にいる、かつての主を護れず怯えていた弱い自分に、ナベリウスは言い聞かせたのだ。己の殻に閉じこもって泣いていた情けない自分は、初めて少年を見守ると決めた日から、何人にも侵すことのできない神聖な想いに変わったのだ。
だから。
「夕貴は、わたしが護る」
それこそがナベリウスの願いであり、贖罪だった。
「……なるほど。貴女のお気持ちはよく分かりました。愛ゆえに少年を護ると」
顎を手でさすり、ダンタリオンは嘆息した。
「しかし残念ですねえ。いくらバアルの血を引くとはいえ、まさか人間と混じってしまったような半端者に、貴女ほどの女性が忠誠を捧げるとは」
「…………」
「それに『彼』はどうしたんです? かつて貴女とともにバアルを守護していた『もう一人』は? ……ははあ、まあ容易に想像はつきますけどねえ。大方、バアルが人間の牝と恋に落ちたという事実に失望し、袂を分かったのでしょう?」
芝居でもなんでもなく、心の底から呆れたような口調で、ダンタリオンは続ける。
「まったく。どうやらバアルや貴女は、人間と関わりすぎたようですね。参考までに聞きますが、あんな虫けらのような種族のどこがいいんです? ありとあらゆる家畜を捕食し、多種多様な動物を娯楽のために捕獲し、鑑賞しては芸を仕込み、必要がなくなっては人の手で殺す。何年、何十年、何百年、何千年と経っても同族で殺し合いを続け、果てにはこの星すらも壊そうとしている。反吐が出るほど愚かですよ。あのバアルが愛し、子を孕ませたという一匹の牝も、しょせんは下賎な……」
ダンタリオンの言葉が止むのと合わせて、どこからともなく『氷』が顕現した。まるでツタが這うように、ヘリポートを含めたありとあらゆる設備に少しずつ薄氷が張られていく。パキパキ、と小気味よい音とともに屋上は氷結、無機質なコンクリートを白い霜が覆い尽くした。気温はゼロを下回ってマイナスに到達。果てには、吐息さえも凍てつかせる氷点下にまで陥った。
一瞬にして、人の手により造られた空間は、生きとし生ける者を凍えさせる絶対零度に飲み込まれた。
「黙れよ、ダンタリオン」
氷にも劣らぬ冷えきった声。小高い氷山のようになった給水タンクの頂点からダンタリオンを睥睨し、ナベリウスは告げる。
「おまえはいま、絶対に言ってはいけないことを口にしたぞ」
あの二人を。敬愛した主と、一つの約束を交わした親友を。愛し合い、未来を誓い、けれども離れ離れになるしかなかった、あの二人を。萩原駿貴(はぎわらとしき)と小百合を侮辱することだけは、赦しがたい。
「やはり美しいですねえ、この力……人は、貴女のこれを《絶対零度(アブソリュートゼロ)》などと呼称していましたが、なるほど、言い得て妙だ」
さすがに以前ほどの余裕はなくなっているものの、ダンタリオンは身構えることなく平然としていた。
「それが遺言か?」
「まさか。天上の神も、この崇高な僕の死だけは望まないでしょう ……とはいえ、貴女が相手では分が悪すぎることは確かだ。我らが同胞のなかでも、貴女と殺り合って無事で済む者はまずいない。ですが――」
ダンタリオンは三日月のごとく口を歪めた。
「貴女に《絶対零度(アブソリュートゼロ)》と呼ばれる強大な異能があるように、崇高な僕にも一つの手品が使えます。それを使えば、貴女はともかく、この街はどうなりますかねえ?」
「…………」
「まあ日本のど真ん中に『南極』を作る覚悟がおありなら、僕も協力しますが」
ナベリウスの欠点は、その大きすぎる力にあった。威力、持続力、汎用性、利便性、応用性に長けている反面、効果範囲があまりにも広すぎるのだ。
確かに彼女ならば、この場でダンタリオンを殲滅することは可能である。しかしそれは街に大きな被害をもたらすことが前提だった。少なく見積もっても、ダンタリオンを滅ぼす頃には、街の半分以上が絶対零度の下に埋もれているだろう。
もちろん本来ならば、それほど広範囲に渡って被害が出ることはない。ただナベリウスに戦闘の意志があるように、ダンタリオンには周囲を巻き込む意志があるのだった。
もっと噛み砕いて言えば、ダンタリオンはこの街の住人すべてを人質に取っている。だが誤解してはいけない。ナベリウスは正義の味方ではないのだ。むしろ彼女は、かの少年とその身内を護るためならば、ありとあらゆる人間を見捨てることだろう。
「……ふうむ、どうやら退いてはくれないようですね」
「愚問だよ、ダンタリオン。お前はここで朽ち果てろ」
ナベリウスは右手の指を鳴らした。パチン、と乾いた音。強風の吹き荒れる夜空に、壮麗な氷槍が何本、何十本と形成されていく。それは主の命を待つように、ナベリウスの背後に待機した。
「……やれやれ。久方ぶりの再会だというのに、降るのは血と氷の雨ですか」
大げさに肩をすくめるダンタリオンは、その実、ナベリウスが戦意をあらわにしたことを喜んでいた。
「いいですねえ、その冷酷な顔。かつての貴女を彷彿とさせますよ。あの触れることさえ躊躇われる女神のようだった貴女を」
「ふん、隙あらばわたしに手を出そうとしていた男がよく言うわね」
「いえいえ、こればかりは仕方のないことでしょう? なぜなら」
二柱の大悪魔により発せられた殺気が、屋上のコンクリートに張っていた氷にヒビを入れた。
「美しい花は摘まれてしまうのが道理なんですから」
本来ならば、その宣言を皮切りに、壮絶な死闘が幕を開けていたことだろう。しかし何事にもイレギュラーは発生するものだ。それはまるで神のイタズラのように人を翻弄する。踊らされる役者が人間ではなく悪魔であったとしても、例外を回避することは不可能。
次の瞬間、圧倒的な熱と爆発が、コンクリートを破壊し、絶対零度の世界を打ち砕いた。
「――っ!?」
彼女らは現状を理解することもなく、ただ吹き荒れる火炎の嵐に飲み込まれ、炸裂した火薬のエネルギーに翻弄された。それが軍事用の爆弾によって引き起こされた事態だということを、ソロモンの悪魔は知らない。
晴れ渡った夜空に轟音が残響し、眠りに落ちていた夜の街並みを叩き起こした。高層ビルの屋上はごうごうと燃え上がり、跡形もなく崩壊。軽自動車ほどもあろうかというコンクリートや鋼鉄の破片が、階下の公共道路に降り注いだ。
それは突然にして、一瞬の出来事だった。
激しい爆発を起こした高層ビルを、遠くから見守る男がいた。
あらかじめ仕掛けていたC4爆薬ではビルを倒壊させるまでには至らないが、それでもあのそびえたつ摩天楼の『頭』を吹き飛ばすだけの威力はじゅうぶんにあるはずだった。
実際のところ、ヘリポートが併設されていたビルの屋上は、いまとなってはハリウッド映画さながらの様相を呈している。
「やったか……?」
まだ油断することは許されないが、それでもあの爆発に飲まれて生きているような人間はいないだろう。
とにかく、これでもう大丈夫のはずだ。娘を脅かす脅威は排除した。
男は握り締めていた起爆スイッチをポケットに放り込む。このスイッチを押すことにより発せられた複雑な暗号つきの電波が、あの高層ビルの屋上にある給水タンクの真下に仕掛けていた爆薬に届くことにより、先ほどの爆発は発生したのだ。
一切の感情が見えない顔で周囲を見渡し、まるで医者のような慎重さで危険がないことを把握してから、男はその場をあとにした。
****
美影の部屋で一夜を過ごし(もちろん男女間に起こりうるトラブルは欠片としてなかった)、軽く朝食を摂ったあと、俺たちは駅前に向かった。
街の空気はいつもよりも浮ついていて、どことなく祭りのそれに似ている。まあ無理もない。自分たちの住んでいる街で、原因不明の爆発事故――いや、ここは爆発事件といったほうが正確か――が起こったのだから。
俺たちも今朝、ニュースを見て事件のことを知ったので、詳しくは分からない。昨夜の深夜過ぎ、オフィス街の一角にある高層ビルで起こった、爆発。
警察としては”何らかの火種がヘリポートにあった航空燃料に引火したのではないか”という線から捜査を進めているらしいが、これは恐らく、裏の人間が粉飾した『シナリオ』だろう。
ただ爆発とは言っても、実質的な被害は高層ビルの屋上に設けられたヘリポートだけに留まった。時間が時間だけにビルの内部はほとんど無人で、死者どころか軽傷者も出ていない。爆発によってコンクリート片が階下に散らばったために周辺道路は封鎖されていて、作業には少なくない時間がかかるとのこと。
かなり衝撃的な事件だったのは確かだが、テロにしては爆発規模と犯行時刻が中途半端すぎるうえに犯行声明も出ていないので、犯人の意図がまったく読めず警察の捜査は難航しているのが現状。
多くの人が行き交う大通りを歩く最中、俺はとなりを歩く少女に声をかけた。
「なあ美影。あの爆発って何だったのかな?」
自称ニーデレは、しばし考え込むように「んー」と唸ってから、
「知らない。私が聞きたい」
「やっぱりか。まあ冴木さんも知らないみたいだったからなぁ」
俺たちがアパートを出るとき、もはやお決まりのように階下にたたずむ冴木さんと挨拶を交わした。そのとき爆発事件について情報を交換したのだが、やはりと言うべきか、冴木さんもニュースで報道されている以上のことは知らないようだった。
「でもさ、ちょっと気になるよな。このタイミングで高層ビルが爆破されるとか、偶然にしては出来すぎてると思うんだよ」
「まあ、母親だったら爆発のことも知ってると思う」
「……お母さん、か」
俺たちが駅前まで出てきたのは、美影の母親と会うためである。これは昨日の今日で入った緊急の所用ではなく、数週間も前から予定されていた案件らしい。なんでも美影の”仕事”に関するリアルタイムの近況を、定期的なスパンで報告する必要があるのだとか。 そうした事情があって、俺たちは美影の母親に会いに来たわけなのだが……。
「どうかした?」
歩く速度を落とした俺に、美影が改まって声をかけてきた。
「いや、そりゃどうかするだろ。だって俺とおまえは出会ってから数日も経ってないんだぞ? 愛どころか恋すら芽生えてないんだぞ? なのにいきなり美影のお母さんと顔を会わせるとか、俺には荷が重過ぎると思うんだよ」
まだ菖蒲のお母さんと会ったこともないのに。ぶっちゃけ胃が痛い。俺という見知らぬ男を連れてきた美影を見て、彼女の母親はどう思うだろう? 怒るのか、悲しむのか、喜ぶのか……まあとりあえずテンパるのは間違いないだろうな。俺だって自分の娘が男を連れてきたら、確実に理不尽な怒りをぶつける自信がある。
「夕貴は母親と会うの、イヤ?」
「イヤってわけじゃないけどな。ただ申し訳ないっていうか」
「イヤじゃないならいい。もう時間を過ぎてるから、急ぐ」
てくてく、と俺の前を歩いていく美影。その背中には、腰にまで届く尻尾のようになったポニーテールの房が揺れていた。
「……はぁ」
覚悟を決めるしかないか。それから俺たちは足早に、待ち合わせ場所へ向かった。
どの街においても鉄道駅の周辺は、必然的に経済的発展が進む傾向にある。それだけ電車は利便性の高い移動手段として現代では重宝されているということだろう。具体例を挙げると、いわゆるオフィス街と呼ばれる会社などの事務所が集中して立地する区域や、この街一番のデパート、大きなモニュメントの建てられた中央広場、バイパス道路やロータリーなども、やはり駅を中心とした半径のなかに収まっている。そうした諸々の総和が、この俗に『駅前』と呼称される場所に、都会的な喧騒をもたらしていた。
美影が足を運んだ先は、デパートのすぐそばにある喫茶店だった。日当たりのいいオープンテラスの隅のほうに腰掛けていた女性に、美影は近づいた。
「来た」
小さな文庫本を開いていた女性は、読みかけのページにしおりを挟んで、それをテーブルのうえに置いた。
「そう。遅かったのね。五分の遅刻よ」
美影に勝るとも劣らない平坦とした声で応え、こちらに振り向く。
腰のあたりまで伸びた長い黒檀の髪と、陶磁器のごとく滑らかな白い肌。綺麗な卵形の輪郭、どこか冷めた二重瞼の瞳、ふっくらとした瑞々しい唇、整ったプロポーション。年齢は二十代後半ぐらいだろうか。妙齢の美女といって差し支えないだろう。彼女は貴婦人めいたシックな服装に身を包み、お洒落なストールを肩にはおっていた。その胸元には、美しい光沢を放つ宝石をあしらったペンダントが揺れている。
「……この人が」
美影の、母親か。
たしかに彼女は、美影によく似ていた。というより、美影が彼女に似ているのか。
もちろん泣きぼくろの有無とか、身長とか、胸の大きさとか、他にも大きなところでは美影が髪をポニーテールに結っているのに対し、こちらの女性はストレートのまま下ろしているなど、よく見れば細かな差異はあるのだが、それの分を差し引いても、顔立ちや雰囲気がそっくりだった。
でも母親にしてはずいぶんと若く見える。学校の三者面談に赴いたら「美影ちゃんのお姉さんですか?」と聞かれそうなレベルだ。
もしかしたら彼女は、若作りなのではなく、本当に若いのかもしれない。きっと出産の適齢期よりも早くに美影を産んだのだろう。
「あら。そちらの方は?」
予定外の同伴者である俺を認めた彼女は、小首を傾げて意外そうな顔をした。細かい仕草まで娘とよく似ている。
さて、ここからが正念場である。
やっぱり第一印象が肝心だからな……失礼のないように紳士的な対応をしないと……あれ、でも俺は美影と付き合ってるわけじゃないんだから、べつにそこまで気張らなくてもよくないか?
とかなんとか俺が脳内で忙しく一人会議をしていると、先制攻撃と言わんばかりに、向こうが先に口を開いた。
「初めまして、かしら。私は壱識千鳥(いちしきちどり)。この子の母親よ」
美影によく似た黒髪の美女、壱識千鳥さんは、娘と瓜二つの無表情な顔と抑揚のない口調で自己紹介をした。
……やばい。色々と余計なことを考えすぎて、上手く言葉が出てこない。こういうシチュエーションだったら普通、俺のほうから挨拶するのが自然なのに。このままでは俺の評判ばかりか、美影の男を見る目までが信用できない、と間違った烙印を押されてしまう。
「……? あなた、は……」
俺の顔を一瞥した千鳥さんが、かすかに目を見開いた。それは千鳥さんのなかで、俺という男の株価が暴落したことを表明するジェスチャーなのだろう。ファーストコンタクトは、成功とは言えなかった。少なくとも俺のなかでは。
ようやく脳が機能を取り戻し、口が言葉を紡げるようになったのは、それから数秒後のことだった。
「あの、俺は萩原夕貴といいます。先に名乗らせてしまってすいませんでした」
「……ふうん。萩原と言うの、あなた」
どこか含みを持った言い回しだった。千鳥さんは顎に手を添えて、じっと思考に没頭していた。一体どうしたんだろう。俺の名前に引っかかりを覚えたようだが……でも萩原って名前、べつに珍しくないよな?
「母親。どうかした?」
娘から見ても千鳥さんの様子は訝しく見えたのか、美影が疑問の声を上げた。
「……いえ、なんでもないわ。萩原夕貴さんと言ったかしら。どうぞ、あなたもおかけになって」
千鳥さんは迷いを断ち切るようにかぶりを振って、俺に空いた席を勧めてくれた。でも気のせいでなければ、その男を惹きつけて止まない千鳥さんの物憂げ横顔からは、複雑な想いを人知れず内心で整理しているような趣が感じられる。
とにかく、こうして俺と美影と千鳥さんという異色の組み合わせによる会合が始まったのだった。
テーブルのうえには淹れたてのコーヒーが三つと、しおりを挟んだ文庫本が一つ。まわりの席では人々が談笑しているというのに、俺たちの席にはぎこちない空気が流れていた。
美影と千鳥さんは事務的な、ともすれば無機質ともいえる会話をしていた。外見だけならば親子に見えるが、その関係は冷え切っているというか、互いが互いに関心を持っていないように見える。
「状況は?」
優雅な振る舞いでコーヒーカップに口をつけて、千鳥さんが切り出した。
「べつに普通」
対する美影は、すこしも逡巡することなく返してから、
「あの爆発、なに?」
そう短く続けた。
「さあ。私にも分からない。方々に手は尽くしてあるけれど、詳しい情報が集まるのにはもうすこし時間がかかるわ。少なくとも例の爆発事件に、私たちは関与も介入もしていない」
どうやら千鳥さんのほうでも、まだ爆発事件の詳細は掴めていないらしい。
美影は千鳥さんの言葉に反応せず、ぼんやりと虚空を見つめていた。それが美影なりの、思考しているポーズだと俺は知っている。見方によれば自分を無視している風にも見える娘の態度に顔色一つ変えず、千鳥さんは頷く。
「それで、私に協力できることはあるかしら」
「ううん。母親の手は借りない」
「でしょうね。私も力を貸すつもりはなかったし。いまのは聞いてみただけ」
「わかってる」
「ただ、どうしても無理なら先に言っておきなさい。よその人間に話を通すわ。《青天宮》のほうからも矢の催促があるし、他にもいくつかの案件が切羽詰っているから」
「大丈夫。一人でも平気」
「そう。なにか私に言っておくことは?」
「ない」
「遺言はいらないのね」
「うん」
「じゃあいいわ。ただし、死なないでね。また一から仕込むのは面倒だから」
「わかった」
それだけ。本当にそれだけだった。
出会ってから五分と経っていないのに、注文したコーヒーには口をつけていないのに、美影は席を立った。千鳥さんも引きとめようとはしない。ただ淑やかにコーヒーをすすっているだけ。
俺は愕然とした。
これが、親子の会話なのか?
なにより千鳥さんは『遺言』って言った……それって美影が死ぬ可能性も考慮してるってことだよな?
普通、お母さんってのはもっと子供のことを愛するもんだろ?
子供ってのはお母さんのことをもっと慕うもんだろ?
正直に言うと、俺は期待してたんだ。ダンタリオンを退けるには、とても俺たちの力だけでは足りない。だからもしかすると現状の戦力不足を補うために、千鳥さんが力を貸してくれるのではないかと。そのために今日、この壱識の親子は顔を合わせたのではないかと、俺は心のどこかで期待してたんだ。
でも違った。この二人のあいだには、上司と部下が交わすような冷たい近況報告しかなかった。この二人のあいだには、親を慕い、子供を愛するような親子の会話は、微塵も存在していなかった。
「ちょっと待てよ、美影!」
さすがに納得がいかなかった。俺は慌てて椅子から立ち上がり、距離が遠のく小さな背中を呼び止めた。ぴたり、と美影の足が止まる。
「先に帰る。夕貴も日が沈むまでに帰ってきて」
美影は振り返ることなくそう言って、実の母親である千鳥さんには挨拶もせず、駅前の人ごみと喧騒のなかに消えていった。
自然、その場には俺と千鳥さんが取り残された。出会ったばかりの女性と二人きり。本来なら気まずいとか気恥ずかしいとか、そうしたデリケートな感情が浮かぶはずだが、いまの俺の胸中にはやるせなさだけが去来していた。どうしてこの人は、もっと美影のことを心配してやらないんだ?
「……あなたは、母親なんでしょう?」
拳を握り締めながら、言い知れない怒りを覚えながら、震える声でつぶやく。
「……美影は、あなたの大事な娘なんですよね?」
激情を堪える俺とは対照的に、千鳥さんはしたたかだった。否。娘の話だというのに、彼女はあまりにもしたたか過ぎた。
「そうよ。あの子は私の娘。それがどうかしたの?」
「さっき遺言って言ってましたよね。あれはどういう意味なんですか?」
「そのままの意味よ。あの子が死んだときのことも考えているだけ」
「……また一から仕込むのが面倒っていうのは、どういう意味なんですか」
「そのままの意味よ。あの子が死んだら、次の子が必要になるでしょう?」
「あんたは美影のお母さんだろうがっ!」
しまった、と思ったときには遅かった。
いきなり大声を出した俺に周囲の視線が集まる。好奇の色を含んだ衆人環視。しかし、ただ黙ってにらみ合う俺と千鳥さんは、談笑の肴をのぞむ人々にとっては実につまらない観察観象だったらしい。しばらくすると観衆は、各々の時間に戻っていった。年若い男と、妙齢の美女。年の離れたカップルの痴話喧嘩とでも認識されているのかもしれない。
千鳥さんは間を取るようにコーヒーカップに口をつけてから、
「残念だけど、私には萩原さんの仰りたいことがよく分からないわ。私があの子の母親だからどうしたというの?」
「母親なら……もっと子供のことを大事にするはずだ」
「同意ね。だから?」
「だからって……!」
ふたたび怒鳴ってしまいそうになった。
これは昔からのことだが、『母親』という存在がからむ問題がおきると、俺は心の制御が効かなくなってしまう。自分でもダメだと分かっているのに、どうしても直すことのできない、欠点。
お母さんを大事にしない子供は大嫌いだし、子供を大事にしないお母さんも大嫌いだ。べつに親孝行しろとか、盲目的な愛を注げとか、そういう過剰な親愛を望んでるわけじゃない。ただ最低限、仲良くしてほしいだけだ。本当に、それだけなのだ。俺の主張はそんなに間違っているのか? そんなに難しいことなのか?
なにが可笑しかったのか、千鳥さんは口元に手を当ててくすくすと笑った。
「……お母さんにそっくりね、あなた」
続いて彼女の唇から漏れた言葉に、俺は数瞬のあいだ思考停止を余儀なくされた。
「その顔、その声、その考え方。本当にそっくり」
「か、母さんを知ってるんですかっ?」
「さあ、どうかしら」
はぐらかすような口調とは裏腹に、千鳥さんは俺という人間のなかに母さんの――萩原小百合の面影を見ているようだった。
なんというか、沸騰していた頭に冷水をぶっかけられた気分である。ここでいきなり俺の母さんの話題が出るとは思わなかった。俺は大きく深呼吸し、頭を冷静にしてから彼女の向かい側に腰掛けた。
「……すいません、取り乱してしまって」
「気にしていないわ」
それはお世辞ではなく、千鳥さんは本当に気分を害していないようだった。
心を落ち着けてもう一度、彼女と向き合ってみると――やっぱり美影とよく似ていることが分かる。
美しい黒髪も、白磁の肌も、顔立ちも、雰囲気も、あまり感情を表に出さないところまで全部、似通っている。
ただ美影と比べると千鳥さんのほうが身長は高いし、胸も大きい。母親である千鳥さんが平均的な女性のプロポーションに至っているという事実を踏まえれば、美影もいずれは女性らしい身体をゲットできるかもしれない。
「萩原さんには不思議に映るでしょうね。私と美影が」
俺が切り口を探していると、向こうから話題を振ってきた。一瞬、オブラートに包むべきか迷ったが、ここは本音を話すことにした。
「……はい。はっきり言って不思議どころか、不快です。あなたたちの親子関係を見ていると悲しくなります」
「そう。でも信じてくださる? 私は美影を愛しているわ。ただ『親子』という関係以上に優先しなければならないものがあるだけ」
「…………」
「ところで萩原さんは、この石をご存知かしら?」
何の脈絡もなく、千鳥さんは首にかかっていたペンダントを外した。そのペンダントは、見るからに手作り感の溢れる代物だった。いびつな形状をした”石”が、安っぽい銀色のチェーンによって繋がれている。
「あれ、これって……?」
はじめは宝石の類かと思ったが、よく見ると違う。やや白みを帯びた色合いをしており、表面はツルツルしているのだ。俺はつい最近にも、この石を見たことがあるような――
「……これは、花崗岩……?」
いつかの夜、菖蒲と一緒に見た理科の教科書に載っていた写真と、千鳥さんの持っているそれは酷似している。どうりで既視感があったわけだ。
あれ?
既視感?
既視感……うーん、なんか引っかかるような気がする。
まあいいか。
「博識ね。萩原さんもご存知のとおり、これは花崗岩と呼ばれる火山岩の一種。墓石に使われることでも有名ね。あの美しい墓石を見れば分かると思うけれど、この花崗岩は磨けば磨くほど光る石としても知られているわ」
どうしていきなり花崗岩の話をするのか、俺には分からなかった。ただ一つだけ疑問なのは、千鳥さんの持っている花崗岩がいびつな形状をしていることだ。
なんというか、元は円形だった石を半分に割ったような感じ。もう半分がどこかにあっても不思議じゃない気がする。
「これは私が幼い頃、祖母にもらったものなのよ」
「……それが」
どうしたんですか、と続けようとした俺の言葉を、千鳥さんが遮る。
「この花崗岩の別名はね。御影石と言うの」
「御影、石……美影とおなじ名前、ですか?」
「そうよ。あの子の名前は、この石から取ったのだから」
千鳥さんが幼い頃から大事にしてきた石。磨けば磨くほど光るという性質を備えた石。それとおなじ名前を与えたのだから、私は娘のことを愛している。そんな遠まわしのニュアンスが、この唐突な御影石の説明には込められているのだろうか?
俺がぼんやりと思考しているうちに、千鳥さんは御影石のペンダントを首にかけ、チェーンに巻き込まれた長い黒髪をふわりと払った。
「あの子はいずれ家業を継がなくてはならない。一族のなかでも美影は、有力な次期後継者候補として挙げられているわ。まだ身体が成熟していないのにも関わらず、あれだけの能力を完成させているのは凄いことよ。私はあの子を産んでよかったと誇りに思う」
「だったら……もっと美影のことを大事にしてあげてください。子供にとってお母さんは特別なんです」
「でしょうね」
「知ってますか、あいつが家では味気ない栄養食ばかり食べてるって。ほとんど友達もいないみたいだし、学校ではいつも寝てるって言ってたし、勉強だって苦手らしいです。しかも笑えることに、好きな食べ物はポン酢で、しゃぶしゃぶをごまダレで食べてるやつが許せないそうです。本人は認めませんでしたが、甘いものも好きみたいです。あと美影は、自分なりの流行語を作るのが趣味なんですよ。いつも両手首につけてるブレスレットを誰かに取られると、なぜかあいつは不機嫌になるんです」
「そう。初めて知ったわ」
どうでもよさそうに。大事な娘のプロフィールを。親なら誰でも知っていそうな当然の情報を。千鳥さんは、どうでもいい与太話を耳にするように、聞き入れた。俺は心の奥底から沸いてくる罵詈雑言を抑えるのに必死だった。
「……あなたは、本当に美影のことを愛してるのか?」
「ええ。母親だもの」
母親。
その嫌に無機質な響きが、壱識親子の間柄を物語っている風に思えた。いまにして思い返せば、美影はいつだって千鳥さんのことを『母親』と呼んでいた。そこには親愛の情など欠片も存在せず、ただ生物学的な関係を認めるための意味しかない。
悲しかった。この世にはお母さんと会いたくても会えない子供がいるんだ。お母さんのことが大好きなのに離れ離れになってしまった女の子を、俺は知っているんだ。
もちろん理想論なのは承知の上だ。この世には俺の知らない不条理がいくらでもある。子供を売る親。親を殺す子供。そんな想像したくもない現実が、いまも世界のどこかで行われているのは俺だって知ってる。
でも世界中の親子の関係を円満にすることはできなくても、せめて俺の目の前にいる美影と千鳥さんには仲良くして欲しい、と。
そう願ってしまう俺は、きっと馬鹿なんだろう。それは自覚している。ただその馬鹿さが嫌いになれない自分がいるのも確かだ。
いまここに母さんがいたら、俺とおなじ行動を取っていると思う。親子が仲良くしないのなんて嘘だって、そう怒鳴って、泣き喚いているはずだ。
とはいえ、俺にできることは少ない。根本的な話として、家族の問題には他人が立ち入る隙などないのだ。それでも、他人だからこそ出せるおせっかいも、あると思うんだ。
「ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
「それが実現可能な範囲内であれば」
「ありがとうございます。じゃあ……」
しっかりと頭を下げて、お願いした。
「もっと美影のことに関心を持ってください。あいつを大事にしてあげてください。俺が望むのはそれだけです」
千鳥さんは、不可解だと言わんばかりに目を細めた。
「……分からないわね。どうして萩原さんは美影のことをそこまで気にかけるの? まさか男女の関係というわけではないのでしょう?」
「い、いえ、俺と美影のあいだには何もないですけど……」
思わずどもってしまった。
「ただ俺は、あいつのことが嫌いじゃないんです。だらしないところはあるし口も悪いけど、よく見れば可愛らしいところもある。だから……なんていうか、友達……いや、これは違うな……と、とにかく、俺は美影を放っておけないんです」
無理やりまとめてみた。でも恋人でも友人でもないことは確かなのだから、俺と美影の関係を一言で言い表すことは難しいと思うんだ。一番近いところで戦友だと思うが、これもどこか違う気がするし。
千鳥さんは珍しくきょとん、とした顔で俺をじっと見つめていた。まるで俺の背後にいる誰かを見つめるように。
「……そう、分かったわ」
「え?」
「いままでよりも少しだけ、あの子に関心を持ちましょう。それでいいかしら?」
「は、はいっ! どうか、よろしくお願いします!」
思わず笑みがこぼれた。よく考えると、お母さんに娘のことを頼むのもおかしな話だが。でも通じたのだ。完全に、とは言えないかも知れないけど、確かに俺の想いは千鳥さんに通じたのだ。
「……本当に、お母さんにそっくりね」
俺の笑顔を見て、千鳥さんは過去を懐かしむようにつぶやいた。
「ただ誤解を生まないために言っておくけれど、私は今回の件に関しては手を出さない。あの子に力を貸すつもりはないわ」
「……理由を、聞いてもいいですか?」
娘に関心を持つと言った以上、てっきり助力してもらえるかと思っていたのだが、俺の考えが甘かったらしい。
千鳥さんは、物憂げな顔で温くなったコーヒーの水面を見つめながら、吐露する。
「……人を探しているの。昔の知人を、ね」
どうして知人を探すことが美影に力を貸さないことに繋がるのかは分からない。なにも事情を知らない俺には、千鳥さんの言動が破綻している風に思えた。
でもこれ以上、追求することはできそうにない。
だって千鳥さんの瞳が――いまにも泣きそうに揺れていたからだ。その儚げな横顔に追い討ちをかけることができるほど、俺は愚かではないし子供でもなかった。