一人で帰宅した美影をアパートの階下で出迎えたのは、冴木だった。
「やあ、おかえり美影ちゃん」
「…………」
へらへらとした締まりのない笑み。ほとんど手入れされていない黒髪と無精ひげ。よれよれの背広。ただ左肩から先がないことを除けば、彼はうだつの上がらないサラリーマンのような風貌をしている。
美影がアパートから出発するときも帰宅するときも――必ずと言っていいほど、冴木はそこにいる。そして「行ってらっしゃい」とか「おかえり」とか頼んでもいないのに言ってくるのである。
不気味というより、不可解だった。この冴木という男が何をしたいのか、美影にはまったく分からなかった。
「……ただいま」
優しい目でじっと見つめられていることに居心地を悪くした美影は、そっぽを向いて、小さな声で応えた。
「うん? これは珍しいね。まさか美影ちゃんが挨拶を返してくれるとは思わなかったよ。これも萩原くんのおかげかな?」
「夕貴?」
「そうそう、萩原夕貴くんだ。やっぱり女の子っていうのは、年頃の異性と触れ合うことによって輝くものだからね。その証拠と言っては何だけど、萩原くんと出会ってから、美影ちゃんは優しくなったような気がするよ」
「冴木の目は節穴。私はべつに変わってない」
「そうかい、僕の勘違いだったか。ごめんね」
あっさりと意見を曲げる冴木。照れくさそうに頭をかく彼の姿を見ていると、なぜか美影は心が落ち着くのを感じた。彼には人を和ませる才能があるのか、あるいは美影自身、本音では冴木のことが嫌いではないのか。真相は不明だ。
「そういえば萩原くんはどうしたんだい? 一緒に出かけたのだとばかり思っていたんだが」
「夕貴はいま、母親といる」
「母親?」
「うん。私の母親」
「…………」
ほんの一瞬、冴木は悲しそうに目を伏せた。
「……そうか。美影ちゃんの母親が」
気の入っていない相槌が、冴木の心境を物語っている。ぱちくりと切れ長の瞳を瞬きさせる美影に、彼は言う。
「美影ちゃん。最近は物騒だけど、心配はいらないよ。君は萩原くんと一緒に青春を謳歌するといい」
「……冴木?」
普段の彼らしからぬ様子を、さすがの美影も訝しんだ。
「ハハハ、まあ萩原くんは女の子にモテるだろうから、美影ちゃんも苦労するかもしれないけどね」
次の瞬間には、いつもどおりの冴木に戻っていた。聞き捨てならない発言に、美影はむっとした顔で反駁する。
「べつに苦労しない。夕貴とかどうでもいい」
「ほう、つまり美影ちゃんは萩原くんのことが嫌いなのかい?」
「だから夕貴とかどうでもいい」
「なるほど。どうでもいいってことは、嫌いでもいいってことだよね。やっぱり美影ちゃんは萩原くんのことが嫌いなんだね」
「ちがう。嫌いなんじゃなくて、どうでもいい」
「おかしいなぁ。僕の知っている美影ちゃんなら『嫌い』と断言していたはずなんだが……そこまでして萩原くんを『嫌い』と言いたくないってことは、まさか」
「……もういい。冴木、嫌い」
美影は僅かに頬を膨らませて、非難するように二重瞼の瞳を半眼にして、じとーと冴木を睨んだ。それは暗に怒りを表す仕草のはずだが、彼女のネガティブな視線を受け止める冴木は、申し訳ないという気持ちよりも美影を愛らしいと思う庇護欲に支配されていた。
美影本人は気付いていないが、あまり感情を表に出さない彼女の拗ねた顔は、周囲の人間にはとても微笑ましく映るのだった。
だが美影が拗ねてしまったことは事実なので、冴木は機嫌を取るために媚びた笑みを浮かべた。
「ごめん、美影ちゃん。僕としたことが大人げなかったみたいだ」
「むー」
猫のような唸り声である。
結局、その後すぐに萩原夕貴という名の緩衝材が帰宅したために、美影と冴木のあいだにわだかまりが残ることはなくなった。しかし美影は部屋に上がるそのときまで不機嫌を崩さなかったし、冴木はそんな美影をどこまでも温かい目で見つめていた。
それは、アパートの隣人同士の、本当に、なんでもない、ただの会話だった。
繁華街のなかでも性風俗産業が集まる――俗に歓楽街とも呼ばれる――区域に、鳳鳴会の事務所はある。
ビルの二階から五階まで鳳鳴会の息がかかった金融会社のテナントが入っており、そして、最上階である六階に彼らはいた。
部屋には拳銃や刃物などが無造作に置いてある。普段なら慎重に慎重を期して隠しているはずの麻薬も、テーブルのうえに堂々と積まれている。それは警察に踏み込まれれば言い逃れのできない有様だった。
しかしいまの彼らには、保身を考える余裕はなかった。むしろ警察に捕まったほうが、あの《悪魔》から開放されるという意味では、遥かに魅力的に思えた。
応接間にあるソファに腰を下ろし、二人の人間が向かい合っている。一人は、《鳳鳴会》の若頭である壬生(みぶ)という男。質のいいスーツと、ポマードで固めた黒髪。その鋭い目には、表の人間にはない狡猾な光が宿っている。
壬生と話しているのは、渡辺と名乗る青年だった。
「……そのネタ、本当なんだろうな?」
壬生は得心のいかない顔で問いかけた。彼の背後には血の気の多そうな男が数人、控えている。
「ほ、本当、ですよ……おれ――あ、いや、僕は、絶対……う、嘘は言いません!」
渡辺の様子は明らかにおかしかった。やたらと汗をかき、目は虚ろで、手足はぶるぶると震えている。もちろんそれには暴力団に対する恐怖も、成分としては多分に含まれているのだろうが、それ以上に、執念のようなものが渡辺から正気を奪っていた。
「あ、あなたたちが追ってる、女の、居場所……知ってるんです、僕!」
「…………」
これだ。
もともと渡辺が《鳳鳴会》の事務所を訪れたのは、壱識美影という少女についての情報を密告するためだった。
暴力団の情報網(まあダンタリオンに組織の幹部を皆殺しにされたせいで、以前よりも数段、情報収集能力が落ちているのだが)を以てしても補足しきれなかった獲物の所在が、こんな精神に異常をきたしていそうな男からもたらされたのだ。壬生が疑うのも当然だった。
実のところ、このまま渡辺が情報をタレこまなければ、美影と夕貴は鳳鳴会に見つかることはなかった。
あの『住めば都』というアパートは、基本的に住人を募集していない。もちろん部屋が空いているかぎり新入居には歓迎的だが、大体的に募集をかけているわけではない。
だから『住めば都』に入居するためには、なんらかの偶然により情報を手に入れるか、現住人からの紹介に頼るしかない。
渡辺の場合は、クスリを売った対価として『住めば都』の情報を聞いた。たかが薬物の売人に過ぎない彼が、暴力団ごときでは影も踏めないアパートに辿りつけたのは、まったくの偶然だった。奇跡と言ってもいい。まだ宝くじで大金を当てるほうが確率的には高いはずだった。
どんな違法行為も認める『住めば都』だが、ただ一つだけ原則として禁止していることがある。
それは、住人同士の干渉。
本来なら会話するのも褒められたことではないが、それは黙認されている状態。渡辺や冴木は、美影があの《壱識一門》の人間だと知っているが、それもおなじ建物で共生する上でどうしても知ってしまうことなので、あえて口に出さなければ問題はない。
とは言ったものの、ルールは無実有名ではなく、しっかりと生きている。住人同士が意図的に素性を探りあったり、他の住人の情報をよそに持ち込んだりするのは、重大なルール違反。
これが表の世界ならば、ルールに抵触しても罰金や懲役で済む。だが裏の世界では、それこそ凄惨な『罰』が存在する。アパートを追い出される、なんて甘い夢を抱いてはいけない。いまの渡辺は、ルールを破った者として殺されても文句は言えない状態だった。
だから渡辺にとって美影の情報をリークするのは高いリスクを伴うことなのだが、それを承知のうえで彼は鳳鳴会に足を運んだのだ。命を賭けても惜しくはないほど愛した少女を、手に入れるために。
そんな事情を知らない壬生が、招かれざる客である渡辺に一定の警戒心を持つのは、至極当然のことだった。
「あんたの目的が何なのかは知らねえが――もう冗談じゃ済まねえぞ?」
壬生がそう言うと、彼の後ろにいた部下たちがふところに手を忍ばせた。男たちがスーツの下に武器を隠し持っていることは一目瞭然。つまり、脅しだ。
「ほ、本当です! 僕は、美影ちゃんの、居場所を知ってるんです……!」
「それがガゼだったら死ぬぞ、あんた」
「分かってます」
壬生が本気で脅しにかかっても、渡辺は平然としていた。見た目よりも胆力や根性があるのか、あるいは持ち込んだ情報に絶対の自信があるのか。
「壬生さん、どうします?」
進展しない状況に業を煮やした部下のひとりが、壬生から考える時間を奪っていく。壬生は文武両道の優秀な男だが、この分岐路だけは、いくら考えても正しい答えが分からなかった。
しかし手をこまねく余裕がないのも、確かである。
いま思えば、あの夜が彼らの運命を決定付けた。
街の北に位置する高級住宅街には、鳳鳴会の総本山ともいえる大きな武家屋敷が建っている。そこには今代の会長とその家族や、組織の大幹部、住み込みで働く末端の構成員などを始めとした、鳳鳴会の主要なメンバーが大勢、暮らしていた。
たしかに鳳鳴会は『仁義』よりも金銭的な利益を重視する一派で、決して薬物には手を出そうとしない古いタイプの暴力団とは反りが合わず、この界隈でも疎まれていた。
だが、これまで狡猾な手段を用いて障害を取り除いてきた彼らも、身内の結束は固かった。自分たちが非道なことをしている自覚はあったが、それでも壬生は鳳鳴会という家が嫌いではなかった。
あの夜、繁華街の事務所にいた壬生が連絡を受けて駆けつけた頃には、もう全てが終わっていた。代々受け継がれてきた大きな屋敷も、専属の庭師を雇って手入れをしていた豪勢な庭も、この世のものとは思えない地獄と化していた。ダンタリオンと名乗る《悪魔》が、なにもかも奪い去ってしまった。
もちろん多くの部下がダンタリオンに従うことをよしとせず反抗したが、その結果は悲惨なものだった。さすがの壬生も、人間の身体を素手で引きちぎるという解体ショーを目の当たりにしたときは、胃の中のものを一切合財ぶちまけた。
もう壬生には――鳳鳴会の残党には、ダンタリオンに逆らう意志と気力は残っていない。
どうせ進退窮まっている。自分たちは無茶をしすぎた。このまま無能の体を晒し続ければあの悪魔に殺されるだろうし、そうでなくとも警察に捕縛されてしまうだろう。ならば賭けに出るのも悪くない。いや、賭けに乗るしか、道は拓けない。
「……いいだろう。あんたの話を信じてやる。だが信用の担保は、あんたの命だ。妙なマネしやがったら、その場で殺るぞ?」
壬生の答えを聞いた渡辺は、満足そうに頷いた。少年と少女の与り知らぬところで、確かな悪意が動き始めた。
****
過去を振り返っても、憶えていることはいくつもなかった。
物心がついたときにはもう、誰かを殺すことが当たり前になっていた。頼まれれば誰だって殺した。なぜなら『彼』はそれを生業とする、一匹の殺し屋だったからだ。
呼吸をするように人を殺す『彼』を、恐れない人間などいなかった。一片の情も持たない殺人マシーン。冷酷非道の悪漢。希代の殺し屋。そうした通り名の数々が、『彼』の実力と評判を物語っていた。
『彼』が持つ異名のなかで最も通りがよかったのは、《音無し》。
これは『彼』に襲われた人間は断末魔を上げることもできない、つまり声(おと)を発する前に殺されてしまう、という嘘か真か分からない風聞から囁かれるようになった異名だ。
そんな悪名高き『彼』の人生は、一人の女と出会ったことで目まぐるしい変化を始める。
美しい女だった。艶のある長い黒髪と、月明かりにも負けぬ白い肌。幾重にも賞賛の言葉を重ねようと足りないような、人を惹きつける不思議な魅力を持った女だった。そして、その美貌と同じぐらい女は強かった。
二人が初めて出会ったのは、戦火の中。殺し屋であった『彼』と、同じく裏家業を生業とする女は、もともとは対立する敵として相見えた。だがそれは信念や志を伴わない、仕事上の話だ。依頼や状況が変われば、二人の関係は敵にも味方にもなる。
そんな繰り返しの果てに、移ろう時の流れは二人の距離にも変化をもたらした。
愛しかった。
夜になるたびに肌を重ねて、ただただ寄り添いあった。《音無し》と忌まれた『彼』にも、心の奥底には確かな情が残っていた。
あるとき『彼』は、女がいつも肌身離さず身に着けていた”石”を受け取ることになる。美しい光沢を放つそれは、聞けば女が幼少の頃から大切に扱っていた代物だという。
その名を、御影石。磨けば磨くほど光る石。
女から御影石の話を聞いたとき、まるで人の生涯のようだと『彼』は思った。『彼』の場合、すでに人生という石の磨き方を忘れ、汚すことしかできなくなっていたが、一般的な人間の人生とは普通、磨けば磨くほど光るものに違いなかった。
いくら愛を育んだところで、当時の二人には指輪などというシャレたものは用意できなかったし、その必要もなかった。だから愛を誓った証として、真円の御影石を二つに割り、それぞれ片方ずつ持つことにした。二人は約束を交わす。すべてが終わったら、二つに割れた石をもういちど一つに合わせよう。
だがその後、二人が共有した愛を嘲笑うかのように、戦況は悪化の一途を辿った。後に未曾有の大抗争として語り継がれる《大崩落》は、愛し合う二人の関係に小さな終焉をもたらした。
それでも『彼』は以前と変わらず、誰かを殺し続けた。殺し屋が殺人を続けるのに理由はいらない。しいて言えば、そうやっていままで駆け抜けてきたからこそ、『彼』はただ殺し屋としての己を貫いた。
カレンダーをめくる代わりに人を殺す。そんな日々が続き、女の顔も思い出せなくなっていた頃、『彼』のもとに一つの依頼が持ちかけられる。それは『とある有力な家系の跡取り』を始末してほしいという内容のものだった。
仕事の期間や報酬、肝心の標的について。そうしたあれこれを吟味してから、『彼』は依頼を受諾した。
その依頼は、『彼』を貶めんとする人間が巧妙に偽装したものだった。
希代の殺し屋として謳われる『彼』と、裏社会に広く知られる《壱》の一族に、報復せんがために計画された陰謀。
さすがの『彼』も、これには気付くことができなかった。無理もない。殺し屋として生きてきた自分に、まさか血を分けた娘がいるなどとは、夢にも思うまい。
いつかの日、『彼』と御影石を分かち合った美しい女。刹那で、けれど濃密な時間をともに過ごし、深く肌を重ねたあの女が、ほんの僅かな、数少ない交わりのなかで『彼』の子を宿すとは、まさに神の誤算に違いなかった。
自分たちの遺伝子を受け継いだ幼い娘の姿を、『彼』は写真を通して初めて見た。それに手垢がつき始めた頃には我慢ができなくなり、現地に潜入し、遠目に娘を観察する日々が続いた。
娘を見るたびに胸のうちには温かな感情がわき上がり、氷のように冷たかった殺し屋の顔にぎこちない笑みが浮かんだ。娘が生まれ、一人の”親”となってしまった瞬間、一匹の”殺し屋”として生きてきた人生は『彼』のなかで否定された。
何のことはない。あれほど冷酷で非道だった薄汚い男にも、性根のところには人間らしい感情が残っていた。これは、ただ、それだけの話。
だが娘を護るのは、さすがの『彼』にも難しいことのように思えた。もとから『彼』に恨みを持つ者が仕掛けた罠だ。保険として『彼』以外にも多くの殺し屋を雇っているに決まってるし、他にも二重三重と罠を張っていることだろう。
苦悩することはなかった。愛する我が娘の名を知った途端、悩むことが馬鹿らしくなった。二人にとって御影石は、互いを愛し、未来を誓い合ったことの証明。それとおなじ名前を娘に与えたということは、まだ女は『彼』のことを想っているという証拠に他ならない。
多くの人間に恨まれる二人の娘は、生まれながらにして幾多の困難に苛まれていた。これまで標的の家族や恋人を人質に取ったこともある『彼』としては、娘が危険に晒される可能性を考慮せずにはいられなかった。
だから、護ろうと思った。
御影石とおなじ名前をした娘の人生は、きっと磨けば磨くほど光るに違いないのだ。なんの罪もない娘に、自分たちの咎を負わすのは間違っている。いままで平然と人を殺してきた自分のセリフでないことは分かっていたが、それでも『彼』はそのエゴを貫こうと思った。
決意すると、あとの行動は早いものだった。まず『彼』は、自分に依頼を持ちかけた相手の素性を調べつくした。やはり『彼』以外にも複数の同業者が、『とある有力な家系の跡取りを殺す』という依頼を受けているらしい。まず間違いなくそいつらは、『彼』が失敗したときの保険だった。
手始めに、自分以外の同業者を皆殺しにした。娘に危害を加える可能性のある人間は、誰であろうと殺した。ある程度の脅威を排除したあとは、娘を殺しに行くフリをした。
そこで『彼』は数年ぶりに女と再会することになる。恋人でも夫婦でもなく、ただの敵として。
『彼』の事情は把握していたのだろう、女はなにも聞かなかった。会話らしい会話さえなかった。
娘を殺そうとする『彼』と、娘を護ろうとする女。それが表向きの構図だったが、実際のところは女とおなじぐらい『彼』も娘のことを護ろうとしていた。
もしかするとこれは罰なのかもしれない、と『彼』は思った。いままで多くの人間を殺してきた自分は、こうして愛する女性と殺しあい、苦しみでもしなければ採算が取れないのではないかと。
女と戦闘する最中、『彼』はあらかじめ用意していた仕掛けを使い、自らの死を偽装した。自分が死んだと匂わせる”証”を現場に残してきたので、不備はないはずだった。
そうして『彼』の任務は、母親である女に返り討ちにされる、という結末になるわけだが、それは『彼』の人生が終わったと換言はできない。
『彼』は世間的に死んでみせたあと、自分に娘を殺すよう仕向けた依頼主を抹殺した。それだけではない。思いつくかぎり、探し出せるかぎり、自分と女に恨みを持つ人間を見つけては例外なく殺した。
そうしてある程度、娘の平和を確立することできた。
だが油断してはいけない。まだまだ娘に仇なす輩はあとを絶たないのだから。ゆえに少しでも娘に危害を加える可能性のある者には、不幸な死を遂げてもらうことにした。それはただひたすらに自分という存在を殺し、影ながら娘を護り続けるという守護霊を連想させる生き方。
そんな名も無き亡霊が、いまも愛する娘を護るためだけに活動している、という事実を知る者は、誰もいない。
****
喉の奥から湿った笑いを漏らしながら、渡辺は夜道を歩いていた。
「くひひ……やった、これで……」
さきほどまで鳳鳴会の事務所にいた彼は、壱識美影に関する情報のすべてを暴力団に提供した。渡辺は凡庸な男だったが、その執念と用心深さだけは大したものだった。
これから渡辺はあのアパートに戻り、美影の動向を観察する。安物の指向性マイクがあるから、それを使えば美影が部屋にいるのかどうかぐらいは分かる。そうして隙をうかがい、美影を襲撃しようとする《鳳鳴会》とうまく連携を取る予定だった。
なるべく人気のない道を選び、帰路を急ぐ。
「……美影ちゃん……あぁ」
想像するとよだれが止まらなかった。
初めて彼女を見たとき、渡辺は本当に、心の底から、純粋な気持ちが湧き上がってくるのを感じた。あの美しい黒髪も、月明かりによく映える白い肌も、憂いを湛えた泣きぼくろも、その全てが渡辺を惹きつけて止まない。渡辺にとって壱識美影という少女は女神のような存在であり、妄想のなかでのみ汚していい対象だった。
古い医者の家系に生まれ、子供の頃から医学に関連する知識のあれこれを強制的に学ばされてきた彼は、やがて自分を『家を継ぐ道具』としか見ていない両親に絶望した。
高校を卒業すると同時に家を飛び出し、裏社会に身を置くようになった。
皮肉なことに、彼がこれまで頭に詰め込んできた薬物に関する知識は、あらゆるクスリが行き交う裏社会でこそ本領を発揮した。実家と縁を切るとき、彼の財布のなかに入っていた二万円が、いまではその数百倍にまで膨れ上がった。
だがいくら金があっても、美影の心だけは買えなかった。年頃の女子が好みそうなプレゼントを見繕っても、彼女は見向きもしなかった。
しばらくして渡辺は悟った。ああ、美影ちゃんは俺が手を出していいような子じゃないんだ。あの子は誰のものにもなっちゃいけないんだ。彼女は孤高だからこそ美しいんだ。だから俺は、遠くから美影ちゃんを見ているだけで満足なんだ。
そう思い、ずっと美影のことを見守り、妄想のなかで汚し続けてきた。しかし。
「……あの、クソ野郎……」
女のように美しい顔をした男の顔が脳裏をよぎる。アパートの階下で、その男と美影が寄り添っていた光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。
これまで美影を見続けてきた渡辺には分かるのだ。
きっと美影にとって、あの男は特別な存在になってしまう、と。
だから自分が奪おうと思った。どんな手を使ってでも美影を自分のものにして、一日中、二人きりで楽しいことをしようと思った。必要あらば薬物でも何でも使って、美影を自分の女にしてやるつもりだった。それは明らかに偏執的な動機だったが、しかし、渡辺の愛の強さだけは本物だった。
「……く、くっひひひ」
閑散とした夜道を進む。もともと人との関わりを避けて生きる傾向のあった彼は、いつもの癖で、たとえ誰かが殺されてもすぐには気付かれないような薄暗い道を選んで歩いていた。それが絶対の悪手であるとも知らずに。
「こんばんは」
ふと背後から男の声が聞こえた。渡辺は怪訝に思いながらも振り返った。すると不思議なことに、そこで彼の人生は終わった。
「ひゅっ――!」
空気の抜けるような呻き声とともに、渡辺の喉から勢いよく鮮血が噴き出す。そこらのコンクリートに真っ赤な潤いが与えられていく。
あまりに唐突な出来事ゆえに渡辺の理解も追いついていなかったが、それでも自分の身体を濡らしていく温かな血が、どこから出ているのかは分かっていた。喉仏のあたりから迸る灼熱。ああ、どうりで声が出ないわけだ。
続いて振るわれた銀のきらめきが、渡辺の左胸を抉っていた。血液の源、内臓の核となるもの。よく研がれたナイフの刃先が、心臓に突き刺さる。
唐突に見舞われた激痛のショックにより声さえ――否、それを言うなら、すでに最初の一撃で喉は破壊されていたので、断末魔を上げるだけの機能すら彼には残されていなかった。
複数の急所を刺して、確実に仕留める。これは訓練を受けた者ならば誰だって知っているような、ナイフを用いた模範的な殺害方法だ。
それから数秒もせぬうちに、渡辺の身体は血だまりのなかに倒れていた。全身は血を失い、力が抜け、熱が冷え、命が消え、魂までもが霧散していく。
すこしずつ近づいてくる死の足音。
渡辺は恐怖と寒さから、ひたすら身体を震わせた。
「ちょっと遅かったか。まあいい」
薄暗い闇のなかから誰かの声がする。冷たい、殺人マシーンのような男の声だ。
おまえは誰だ、なぜこんなことをする――そう問いかけようとしたが、無理だった。渡辺の喉は、鋭い刃物によってぱっくりと切断されている。あと数分の命すらもない彼に、誰何する余裕などあるはずがなかった。
意識が遠のく。仄暗い深淵が迫ってくる。ああ、寒い。とても寒い。誰かに温めて欲しい。どうしてこんなに孤独なのだ。どうして自分のとなりには誰もいないのだ。
「……み、……か、げ……」
死の間際、命を賭けても惜しくないほどに愛した少女の名を呼んだ。そのせいで寿命が数秒縮まったが、だからとうしたという話だった。
しかし、渡辺が美影の名を呼んだことが不快だったのか、闇のなかに佇んでいた人影は、手に持っていたナイフを渡辺の頬に突き刺した。それは内部の舌を串刺し、反対側の頬まで貫通した。これで物理的に、渡辺が発声することは不可能になった。
最後の力を振り絞り、渡辺は目の前にたたずむ何者かの足に縋りついた。血に濡れた手で、相手の足首を掴む。それすらもあっさりと払われてしまう。どう足掻いても一矢報いることは無理そうだった。
間もなく、渡辺という男は、死んだ。
一切の慈悲なく渡辺を殺した人影は、入念に彼が死亡しているという事実を確認してから、なんの後始末もせずにその場をあとにした。
とある男の生が終わったのと同時刻。
繁華街の一角にある六階立てのビルには、非合法な金融会社のテナントや鳳鳴会の事務所が入っている。
そんな人の嘆きや悲しみを材料にして作ったような悪の巣窟は、しかし今、壊滅の危機に瀕していた。鳳鳴会の若頭である壬生は、見慣れた事務所のなかで行われる惨劇に対して抵抗する術を持たなかった。
「余計な手間取らせんなよ。あのクソ野郎はどこにいるのかってオレは聞いてんだ」
肌の至るところに血の滲んだ包帯を巻いた青年――玖凪託哉が、もう何度目かも分からない詰問をする。明るめに脱色した髪。左耳に光るピアス。眉目の整った顔立ち。
まさかこんなことが。壬生は驚愕のあまり、言葉だけでなく正常な思考も失っていた。
たしか自分たちは、渡辺という男からもたらされた情報をもとに、今夜にでもあの黒髪の少女に襲撃をかける予定を立てていたはずだ。
それが、どうしてこんなことになったのか。
十数分ほど前に、単身で事務所に乗り込んできた一人の青年。彼によって、ここに残っていた構成員のほとんどが戦闘不能に追い込まれた。それは気絶などという生易しいものではない。すぐにでも救急車を呼ばなければ、手遅れになる者がいるほどだ。
すでに事務所のなかは阿鼻叫喚の状態だった。
壁や床には真っ赤な血が滴っており、ぴくりとも動かない恰幅のいい男たちがあちこちに倒れている。ソファやデスクは派手に転がって、室内のレイアウトはぐちゃぐちゃになっている。
現在、部屋のなかで意識を保っているのは壬生と、乗り込みをかけてきた青年だけだった。
「鳳鳴会なんて大層な看板を掲げてるわりには雑魚の集まりだな。リハビリにもならん」
「て、てめえ――!」
「うぜえよ。口答えするな」
ようやく喉が動いたと思った途端、壬生の身体は吹き飛んでいた。洗練された回し蹴り。わき腹に激しい痛みが走る。いまので肋骨の一、二本が折れたことは確実だった。
背中から壁に衝突し、壬生は肺のなかの空気とともに、口端からだらりとよだれをこぼす。全身に降りかかった衝撃は強烈で、うめき声すら上げることができなかった。苦痛に悶える壬生を、託哉は冷酷な目で見下ろす。
「余計な口は利くなよ。これは交渉じゃねえんだ。命だけは助けてやるから、とっとと質問に答えろ。あの《悪魔》はどこにいる?」
「あ、あ、く……ま……?」
「そうだ。あの金髪に神父服を着込んだ嘘くさい男のことだ。てめえなら知ってんだろ? 隠し立てすんなよ。《青天宮》のやつらが動き始めてんだ」
壬生は言葉に詰まった。
確かに先日まで、自分たちはあの男――ダンタリオンに支配されていた。悪魔的なカリスマと超人的な戦闘能力を持った、正真正銘の怪物に。
しかし壬生は、ダンタリオンの居場所を知らない。正確には、先日のオフィス街で起こった爆発事件以降、ダンタリオンも行方不明になってしまったのだ。
壬生には、託哉の期待に応えることができない。その旨をどうにか伝えると、託哉は落胆せず、むしろ納得した。
「……なるほど。やっぱりあの爆発は……そういうことだったのか」
殺気が消える。一瞬、壬生は『助かった』と思った。だがそれは、間違いだった。
「とんだ無駄足――と言いたいところだが、元からおまえらには腹が立ってたんだ。この際だから徹底的に潰してやる」
託哉は壬生の胸倉を掴んだ。底冷えのする瞳に睨めつけられて、壬生の全身を冷や汗が濡らしていく。
「荒井海斗、大久保達樹、新庄一馬、坂倉健太、富永聡史、高橋陽介。この六人の名前に心当たりはないか?」
「……っ」
「ふうん。図星って顔だな。そりゃそうか。てめえが飼ってた連中の名前ぐらい覚えていて当然だよなぁ?」
かつて高臥菖蒲を誘拐しようとした六人の男たち。
名の知られたアウトローであった彼らに薬を提供し、若者を中心に薬物を売り捌かせて、その利益を折半するという、一種のビジネス。
鳳鳴会としては純利益が低下する代わりに安全性が高まり、六人の男たちは危険性を増加させる代わりに本来はなかったはずの利益を獲得した。あれはそういう持ちつ持たれつの関係だった。
壬生としても、彼らのリーダー格であった荒井海斗という男には一目置いていた。腕が立ち、頭の回転が早く、なにより人のうえに立つ資質も備えていた。いまでも壬生の脳裏には、海斗という存在が強く焼きついている。
託哉の握力が強まる。シャツの胸元を圧迫されているせいで首が絞まる。肋骨が折れているからか、呼吸をするとひどく痛む。酸素の需要に供給が追いつかなくなる。視界にもやがかかり、すこしずつ頭のなかが霞んでいく。
「てめえらが薬を捌くことに文句はねえよ。でも」
壬生は意識を失う直前、静かな怒りを湛えた声を聞いた。
「玖凪一門(おれたち)の邪魔だけはするな。どうしてもってんなら暴力団じゃなくて軍隊でも連れて来い。遊んでやるよ」
周囲をよく俯瞰することのできる見晴らしのいい建物の屋上に立ち、『彼』は最後の仕上げをしようとしていた。
その手に握られているものは、独自のルートで入手し、『彼』なりの工夫と改造を施した起爆装置。先日、オフィス街のビルを爆破したのとまったく同じタイプのものだ。
『彼』は街の北にある浅ヶ丘と呼ばれる高級住宅街を見据えている。そこに立地する武家屋敷を――鳳鳴会の本拠地を、いまから爆破するつもりだった。
『彼』が爆弾にこだわるのには二つ理由がある。一つは高い威力があり、広範囲をまとめて吹き飛ばせるから。もう一つは、この犯行が自分の仕業なのだと気付かせないためだ。以前の『彼』は、もっと静かな暗殺を好んだ。だから自分が生きていると悟られぬよう、あえて爆弾を使った派手な殺し方をしている。
本来であれば、繁華街にある事務所のほうも同時に破壊する計画だったが、もうその必要はない。いましがた《玖凪一門》の人間が、事務所を制圧したからだ。現在の『彼』と《玖凪》のあいだに繋がりはないので、あちらにもあちらなりの因縁があったということだろう。
これでいい。
これでいいのだ。
あの《悪魔》は爆殺した。娘の情報を密告した渡辺という男もさきほど殺した。鳳鳴会の事務所もべつの人間が制圧してくれた。念には念をということで、アパートのほうも焼却処分した。だから、あとは暴力団の本拠地を爆破すればいい。それで全てが終わる。
あらかじめ予定していた時刻になったのを確認してから、『彼』は起爆装置を作動させた。もしここに電子戦を想定した特殊部隊がいたとしても、『彼』が作った複雑な暗号を備えた電波を妨害することは不可能だろう。つまり爆破は、避けられぬ運命だった。
次の瞬間、いつかの夜と同じように、晴れた夜空に轟音が響き渡った。
「……終わった、か」
なるべく周囲の民家には被害が出ぬよう火薬の量は抑えたが、それでも爆発の規模は大きかった。武家屋敷は完全に倒壊。
ダンタリオンに襲撃されたことにより、武家屋敷には以前ほど人が残っていなかったが、それでもまだ結構な人数がいた。それに銃火器や薬物の類も、たくさん秘匿されていたはずなのだ。そうした脅威となりうるものを排除するのは大切なことだった。
とにかく、これで全ては終わった。
今回はすこし無茶をしすぎたので、しばらくは身を隠したほうがいいかもしれない。爆薬を調達するために使ったルートも今後は使用を控えたほうがいいだろう。個人の足取りを追ううえで金の流れほど分かりやすいものはないからだ。
聞けば、娘の母親も――『彼』を愛し、『彼』が愛した女も、この街に来ているという。いまだに『彼』の愛は薄れていなかったが、それでも会いたくないのは事実だった。
あらかた仕事を終えた『彼』は、身を翻した。
「ようやく見つけましたよ」
しかし、この街から去ろうとする『彼』のまえに立ちはだかる男がいた。金色の髪、縫いつけたような糸目、場違いな神父服。以前、『彼』が爆殺したはずの《悪魔》が、そこに立っていた。
「いやはや、実に見事な手際ですねえ。この崇高な僕としたことがまったく気付きませんでしたよ。僕がこの街に来てからずっと感じていた殺気は、あの小娘のものではなく、貴方のものだったとは」
芝居がかった身振り手振りを交えて長広舌を振るう男――ダンタリオンは、心の底から感服しているようだった。
ダンタリオンが生きていると知っても『彼』は驚かなかった。むしろ、いまからどのようにして殺してやろうか、と頭のなかでシミュレートが始まっているぐらいだ。その演算の最中、一つだけ疑問に思ったことを『彼』は口にした。
「……まさか、武家屋敷と、そこに残っていた連中をおとりにしたのか?」
「はい。あの高層ビルの爆破から、崇高な僕を狙っている何者かがいるのは分かりました。しかし、この広い街のなかで、その不届きな輩を探し出すのは骨でしょう? だからあの……鳳鳴会、でしたっけ? とにかくその蛆虫どもをエサにしたんです」
自分が利用し、最後まで道具のように扱った暴力団を思い出し、ダンタリオンは唇のはしを吊り上げた。
「貴方ほどの優秀で用心深い男が、爆破する瞬間を自分の目で見届けないはずがありません。まあ、今回も貴方が爆破という手段に訴えかけるかどうかは一種の賭けでしたけどねえ」
このあたりで例の武家屋敷を見渡せて、かつ逃走経路もじゅうぶんに確保できる場所は、いま彼らが立っている建物の屋上だけだった。『彼』がこのスポットを選んだのは、そうした理由があったからである。そしてダンタリオンは、それを読んだのだ。何十人もの人間を見捨てて。
「さあ、もう御託はいいでしょう。貴方が血を望んでいる以上、死合いは避けられない。もっとも、その身体でどこまで戦えるのかは知りませんがね」
「…………」
こうして一つの戦闘が幕を開ける。
愛する娘を護るために、元殺し屋の男は、命を賭けた死闘に挑んでいった。
****
夜も深まった頃、その異変は唐突に訪れた。
俺たちが美影の部屋で休んでいると、どこからともなく上がってきた火の手が、またたく間にアパートを包み込んだのだ。
鉄筋アパートが自然に燃えるわけがないから、これは明らかに何者かによる放火だった。火のまわりが尋常じゃないぐらい早いのは、恐らく火薬かなにかを使っているからだろう。
消火する時間など欠片もなかった。
ただ大きなバッグに美影の衣服や貴重品を詰めこんで運び出すのが、俺たちにできる精一杯だった。
幸いなことに冴木さん、渡辺さんはアパートを離れていたので、心配はいらない。俺と面識のないほかの住人の方々も全員留守だったらしく、結果的に被害者はゼロだった。
ごうごうと燃え盛るアパート『住めば都』を、俺たちは黙って見つめていた。圧倒的な熱と光が、周囲の闇を削っていく。まるで地上に太陽が生まれたかのようだった。これで目と喉に痛い黒煙さえなければ、素直に歓迎できたのに。
仮にも自分の家が燃えているのだ。あまり感情を表に出すことのない美影も、今回ばかりはさすがに寂しそうな顔をしていた。
「美影……」
「夕貴。早く、ここを離れたほうがいい」
「ああ、さすがに人が集まってくるだろうからな」
俺に弱みを見せたくないのか、美影は気丈に振舞っていた。小さな肩と背中が微かに震えている。吹き荒れる熱風が、長い黒髪を忙しなく揺らしていた。
類稀なる身体能力を持ち、戦闘に耐えうるだけの鍛え抜かれた身体をしていても、その心は年頃の少女のものなのだ。
ただの、十六歳の女の子が、そこにはいた。
「……逃げよう、美影」
「うん」
どうしていいか分からなかったので、とりあえず慰める意味も込めて、美影の頭にぽんと手を乗せてみた。
滑らかな黒髪をゆっくり撫でる。シャンプーかリンスの甘い香り。
「……ん?」
そこでふと思った。
いままでも何度か美影の頭を撫でたことはあったけど、そのたびにこいつは不機嫌そうに「んー」とか唸って、俺の手を払いのけていたはずなのだが。
「夕貴。どうかした?」
眉間にしわを寄せる俺を見て、美影は小首を傾げた。ちなみに現在進行形で、俺は美影の頭をナデナデしている。
「いや、どうかしたっていうか……」
「ん」
「まあ、その……なあ?」
「……?」
ますます小首を傾げる美影。
この際だから、思い切って聞いてみることにした。
「おまえ、さっきから俺に頭を撫でられてるけど……いいのか?」
「…………」
美影は自分の頭に乗っている俺の手を、恐る恐るといった風にチョンチョンと突いた。
そして、ようやく不覚を取ったらしいことに気付くと、美影は「んー」と不愉快そうに唸って、俺の手を払いのけた。
「……触るな。ヘンタイ」
以前よりも、いくらか棘のない罵倒だった。
暗くてよく分からなかったが、美影のほっぺたが微妙に赤くなっているような気がした。
それは空元気かもしれなかったが、やっぱり美影は落ち込んでるよりも、この憎たらしいほうが合っていると思うんだ。
「はいはい、俺はヘンタイだよ」
なぜか俺のなかには大人の余裕が生まれていた。
どうやら美影はそれが気に食わなかったらしい。
「むー」
「さあ、はやく行こうぜ。まずは安全な場所に逃げよう」
「むー」
「ニーデレ」
「うん分かった」
自分の考案した名前で呼ばれた途端、美影の顔から険が消えた。だんだんこいつの扱い方が分かってきたような気がする。ちなみに美影曰く、ニーデレとは”普段はニートだけど、いざというときにデレデレする人”のことらしい。ただのアホとしか思えない。
それから俺たちは美影の荷物が入ったバッグを持って、燃え続けるアパートに背を向けた。