深夜の高速道路を走る車のなかで、参波清彦はほとほと困り果てていた。
「菖蒲お嬢様。まだ家に到着するまで時間に余裕があります。すこし睡眠を取ってはいかがですか?」
ハンドルを握り、アクセルを踏みながら、清彦はバックミラーに目を向けた。そこには仄暗い闇夜もぱっと華やぐような美少女が、いかにもご機嫌斜めな顔で、後部座席に身体を預けている。
「……いいです。わたしは眠りません」
長い鳶色の髪を揺らし、少女――高臥菖蒲はぷいっとそっぽを向く。
そのまま物憂い横顔で窓の外を眺めていた菖蒲は、恋に煩うかのように小さなため息をついた。
清彦は無駄だと知りつつも、説得を試みることにした。
「お嬢様。きっと夕貴くんにも止むに止まれぬ事情があったのだと思いますよ。ですから、そう気にする必要はないかと」
清彦は、菖蒲と二人きりのとき――つまり周囲の目がないところでは、普段よりも幾分か砕けたフランクな口調で会話することがある。今回も、そのパターンが適用された。
菖蒲の瞳はわずかに潤んでいる。
「……でも。でも夕貴様は、わたしのメールに返信をなさってくださらないのですよっ? おかげでここ数日、ほとんど眠れませんでした」
「分かっています。だから私は、少しでも睡眠を取ってはどうかと尋ねたのです」
「いいえ、眠りません。こうなれば意地です。それに、わたしが眠ってしまっているあいだに夕貴様からメールが届く可能性もあります。想い人から返信していただけないことの悲しみを知っているだけに、わたしは眠ることはできないのです。分かりましたか、参波?」
「……なるほど、よく分かりました」
お嬢様がどれほど夕貴くんのことを愛しているのか――と続く言葉を、清彦は飲み込んだ。
それにしても清彦の知るかぎり、菖蒲はここまで意固地な少女ではなかったはずなのだが――彼女にとって夕貴との出会いは、性格や気質の一部に変化をもたらすほど大きいものだったのだろうか。
唇を尖らせながら、菖蒲はなおも愚痴をこぼす。
「昨日の夜、ようやくメールの返信がきたと思ったら、差出人は夕貴様ではなくお父様でした」
「それは初耳です。重国様は何と?」
「大事はないか、何かあればすぐに連絡しろ……と、書かれていました」
「なるほど。相も変わらず、重国様の子煩悩にも困ったものですね」
一歩間違えば不忠とも取られる発言だが、清彦と重国は部下と上司というより気心の知れた友人のような間柄なので、菖蒲も畏まって注意はしない。
「しかしお嬢様。どうか重国様のお気持ちも汲んであげてください。重国様は、お嬢様が可愛くて可愛くて仕方ないのですよ」
「この際、お父様はどうでもいいのです!」
「…………」
ここに重国がいたら危うく日本経済が傾いていたところだ、と清彦は思った。
「いま思えば、わたしはすぐに気付くべきだったのです。わたしと夕貴様は、お互いの着信メロディーを特別なものに変えています。ですから、メールが届いた時点で、わたしはそれがお父様であると気付くべきだったのです」
清彦は知らないことだが、夕貴は『女々しい』という理由から菖蒲だけの着信メロディーを変えるのを嫌がっていた。しかし菖蒲から遠まわしの可愛らしい説得をされて、しぶしぶ言うとおりにしたのだった。
「きっと夕貴様は、わたしのことが大切ではないのです」
頬をぷりぷりと膨らませてつぶやく菖蒲に、
「まさか。夕貴くんはお嬢様のことを深く愛していらっしゃいますよ。それは私が保証します」
苦笑交じりに清彦がフォローを入れる。
清彦としても菖蒲の気持ちはよく理解できた。なにせ都心で女優としての仕事をこなした数日間に菖蒲が送ったメールに、夕貴は一度も返信をしなかったのだから。
清彦の言葉が信じきれなかったのか、菖蒲は上目遣いでバックミラーを見た。
「……本当ですか? 本当に、夕貴様はわたしのことを愛していると、参波は思いますか?」
「はい。彼は素晴らしい人間です。なにせお嬢様が選んだ方ですから。そんな夕貴くんが、お嬢様を愛していないわけがありません」
ほんの一瞬、菖蒲の表情に微かな恥じらいが混じった。
「そ、そうですか? 夕貴様は、素晴らしい殿方ですか?」
「ええ。彼は素晴らしいですよ」
「……ふふ」
夕貴を褒められたことが嬉しいのだろう、口元に手を当てて微笑をこぼす菖蒲。なんだかんだ愚痴をこぼしつつも、菖蒲は夕貴のことを愛しているのだな、と清彦は目元を和らげた。
――異変が起こったのは、そんなときだった。
「……参波」
やけに強張った菖蒲の声。
不審に思った清彦は、バックミラーを通して後部座席を覗いた。そこには俯いている菖蒲の姿。美しい髪が顔を覆っているせいで表情までは読み取れない。
「お嬢様……?」
怪訝顔をあらわにする清彦。
裏に精通する者として、彼は”異常”な気配を嗅ぎ分けることには自信があった。
その嗅覚が、断言している。
菖蒲の様子は、恋に一喜一憂する少女のそれではない――と。
「……参波、お願いがあります」
「お願い、ですか? それはどのような?」
問いかける清彦に、菖蒲は繰り返し告げる。
「……《参波》、あなたに言っているのです」
「お嬢様。それは――」
抗弁しようとして、ふたたびバックミラーを覗いた清彦は、思わず口を閉ざしてしまった。
しっかりと顔を上げた菖蒲の目には、ごうごうと燃え盛る炎のような熱くて強い意志が宿っている。
彼女の母親である高臥瑞穂が、未来を視た瞬間、よくあんな目をしていたことを清彦は覚えていた。つまり菖蒲がいま、未来予知の異能を発動させたことは、火を見るよりも明らかだった。
いったい菖蒲がどんな未来を視たのかまでは分からないが、清彦の答えは初めから決まっている。かの一族に尽くすことを決めた日から、この身と心は、彼らのためだけに使うと。
「――了解しました。何なりとご命令を。菖蒲お嬢様」
清彦の声から親しみの色が抜け落ちて、代わりに、主人にかしづく従者の声に変わった。
それを知ってか知らずか、菖蒲は震える手で携帯をぎゅっと握り締めたまま、つぶやく。
「……夕貴様。菖蒲は、上手くやれるでしょうか」
その言葉が意味するところは、清彦には分からない。
ただ確かな波乱がこのあとに待ち受けているだろうことを、彼は漠然と理解するだけだった。
****
田辺医院を出て、しばらく適当に歩き続ける。
深夜を回っているからか、街には人っ子一人見当たらない。いつもは夜間でもそれなりに交通量のある幹線道路は、今夜に限って不気味なぐらい車が走っていなかった。まあここ数日、あんな物騒な事件ばかり起きていたんだ、夜中にわざわざ出歩くような物好きはいないだろう。
幹線道路沿いをしばらく歩くと、大きなホームセンターが見えてきた。ロードサイド型店舗で、広大な駐車場を備えている。
俺たちは、ほとんど車の停まっていない駐車場に足を踏み入れた。
そこは、ただ長い年月と風雨にさらされたコンクリートが広がる、寂しい空間だった。
「……いるんだろ、ダンタリオン」
夜の帳に向かって呼びかけると、
「ほう、お気付きになられましたか。さすがは夕貴様。大した慧眼だ」
誰もいなかったはずの空間に、一人の男が突如として現れた。
《ソロモン72柱》が一柱にして、序列第七十一位に数えられる大悪魔ダンタリオン。
いきなり肩や背中にずしんと重たい何かが圧し掛かったような気がした。大気を、重力を、空気を、そうしたあれこれに影響を及ぼすほどの威圧感。隠そうともしない剥きだしの殺気。
全身から冷たい汗が噴き出し、服を濡らしていく。綱渡りにも似た極限の緊張が、心と体を苛む。
あらためて対峙してみて痛感させられるのは、このダンタリオンという男の底知れなさだ。なぜか、俺にはダンタリオンが死ぬ光景がイメージできない。それは転じて、勝てる気がしない、という意味でもあるが――
「さあ、もういいでしょう」
曇った夜空を見上げて、ダンタリオンはつぶやく。
「しばしの猶予を与えた対価を今こそ頂きたい。たしか貴方は」
「いちいち確認すんな。おまえを殺してやるって言っただろ。それはいまでも変わってない」
目線を逸らすことなく啖呵を切ってやった。もともとの戦力差が絶望的なんだ。せめて威勢だけでも張ってないとやってられない。
「ふっくくく……なるほどなるほど、崇高な僕を殺すと。しかしなぜでしょうねえ。そう告げる貴方の姿が、《バアル》と重なって見えるのは」
「相変わらずうざいやつ。死ねばいいのに」
むっつりとした顔で美影が言った。
「おやおや、嫌われてしまいましたか。まあ従順なペットほどつまらないものはないですし、躾ける余地が残っている分、楽しみは尽きませんがね」
にらみ合う。すでにもう言葉はいらなかった。
雲行きの怪しい空から、ぽた、ぽたと水滴が降ってくる。それは少しずつ勢いを増し、本格的な雨へと変わった。
髪が濡れ、服が濡れ、靴が濡れる。全身にまとわりつく布の感触が気持ち悪い。降りしきる雨の勢いは留まることを知らなった。
「それでは見せていただきましょうか――」
闘いの火蓋が、切られる。
「――バアルの血が、どれほどのものなのかを」
この雨をものともしない爆発的なスピードで、ダンタリオンが駆けてくる。迸る殺意と神父服が合ってなさすぎて逆に笑えてくる。
「ちっ、こんな血の臭いがする聖職者なんか見たことねえぞっ!」
「遠慮することはありません。これからは毎夜、見ることになりますよ。ただし――」
間合いが狭まる。
「悪夢のなかで、ですがね」
「だれがっ!」
俺にはダンタリオンの動きがはっきりと見えた。Dマイクロ波は筋肉だけじゃなくて、神経系や神経網、そして電気信号などにも影響を及ぼす。脳の情報処理は活発化し、普通の人間には視えない世界が視えるようになる。
雨の一滴一滴が、ダンタリオンの体に触れ、染み、弾かれ、伝う様子までが手に取るように分かる。
いまの俺は体を動かす速度よりも、考える速度のほうが早い――だからその場に見合った最善の行動をじっくりと選ぶことができる。
無造作に振るわれる腕。できることなら合気道の要領でその腕を取り、攻撃を未然に防ぎたかったが、それは贅沢というものだった。
ダンタリオンの膂力はよく知ってる。こいつは前にホテルの屋上にあった頑丈な看板を一撃でぶっ壊した。まともに食らえば大怪我は免れない。
いまの俺たちの体勢と、このタイミングでは――攻撃を防ぐことも、反撃することもできない。
だから残された選択肢は、回避。
俺が横に跳ぶと、鏡合わせのように美影も反対側に跳んだ。彼女は生まれ持った勘により、思考ではなく感覚で『避けるしかない』と判断したのだろう。
ダンタリオンの腕が、直前まで俺たちがいた空間を薙いだ。
「ほう、避けますか。すばしっこいですねえ。まるで猿のようだ」
「私が猿なら、おまえはバナナ」
次に仕掛けたのは俺――ではない。それよりも遥かに早く、美影が動いていた。
「ふむ。その心は?」
「おまえは、私に取って食われる」
美影は、ダンタリオンの死角に潜りこみ、鋭い蹴りを放った。ずば抜けた体術。それは相手を倒すための格闘技ではなく、相手を殺すための戦闘術。
だがダンタリオンは、自身に向けられる殺気にひどく敏感だった。
その証拠に、美影の姿は見えなくても、雨と闇のなかに混じった微かな殺気を頼りに、ダンタリオンは美影の蹴りを防いだ。
「素晴らしい――が、いささか非力なのは否めませんね」
感嘆とも落胆とも取れる発言をしてから、ダンタリオンは腕を振るった。拳を握らず、指を広げて鉤爪のようにし、獲物の急所を抉りに来る。
それは武道や格闘技を学んだ者みたいに洗練された動きじゃない。防御も回避も無視して、ただ相手を破壊することだけを重視している。超人的な運動能力を持つダンタリオンだからこそできる芸当だ。
美影は無理にかわそうとせず、とんっと軽やかに跳躍し、もう一本の足でふたたびダンタリオンに蹴りを放った。わき腹に命中。ダンタリオンは姿勢を崩しもしない。だが美影の身体は、蹴りの反動で間合いから遠ざかった。
美影の肢体がひるがえるのと同時に、闇を縫うようにして極細の『糸』が奔った。濡れた路面が幾重にも切り刻まれる。
「――ぐっ!?」
そのとき俺は、ダンタリオンの背後に忍び寄っていたところだったので、危うく巻き添えを食らいそうになった。間一髪のところで後ろに跳び、『糸』を避ける。間もなく着地。右方から微かな風。目を向ければ、ダンタリオンが俺に接近していた。
「野郎……!」
ほとんど反射的に拳を繰り出す。当たらない。今度は足を跳ね上げる。これも当たらない。身体能力ではなく、実戦経験に圧倒的な差がある。俺の動きは美影に比べるとあまりにも単調で、稚拙だった。
「悪くはない――ですが、これでは《バアル》の名に泥を塗るだけだ。実に残念です」
「おまえが……!」
苛々した。
その人を食ったようなうざったらしい顔で……!
「父さんの名前を口にすんなっ!」
大きく踏み込み、腰だめに構えていた拳を突き出す。思いっきり体重を乗せた一撃だ。いままでとは威力も速度も違う。これならさすがのダンタリオンも――
――ずしん、と重たい衝撃。
俺の拳は、ダンタリオンの額に命中していた。しかし、ダンタリオンは止まらない。むしろ殴った反動で、俺の右肩がダメージを食らっちまった。
くそっ、こいつの身体、一体どうなってんだ……!?
「もう一度だけ言いましょう――残念だ」
俺が腕を戻すのと、ダンタリオンが腕を振るうのは、まったくの同時だった。
まずい。
ちょうど身を引いて重心が不安定な状態のときを狙われた。これでは上手く回避ができないし、防御するにしても足を踏ん張っていないから強力な一撃は受け止められない。
ダンタリオンの腕が迫る。
「残念?」
まるで突風のように、俺とダンタリオンのあいだを小柄な人影が通過していく。
ダンタリオンの腕が止まる。
「おまえには言われたくない。ヘンタイ」
見れば、美影の手から伸びた『糸』が、ダンタリオンの腕に幾重にも絡みついていた。だが彼我の腕力差は歴然だ。長くは持ちそうにない。
だからいまのうちに、俺がこいつをぶっ飛ばしてやる……!
「――づっ、らあああぁっ!」
勢いよく足を跳ね上げる。殴っても意味がないなら、蹴ってみるしかない。裂帛の気合を乗せた、まさしく全身全霊の一撃。これを無傷で凌ぐというのなら、もはや素手ではダンタリオンに有効なダメージを与えることはできないだろう。
「クック――」
そのときだった。
ダンタリオンから禍々しい《悪魔》の波動が放たれ、あの耳に障る、不快な高音がもたらされた。
――ハウリング。
その言葉が脳裏をよぎる。
ダンタリオンだけが持つ固有の異能が、降りしきる雨と広がる闇のなか、発動した。
固体から気体に変化するように――ダンタリオンの身体の輪郭が、まるで陽炎か蜃気楼のごとく、ゆらゆらと揺らいだ。
それに戸惑いを覚えたのか、美影の動きが目に見えて鈍くなった。『糸』の拘束が緩み、ダンタリオンの腕が解き放たれると同時に、その姿は跡形もなく消失してしまった。
「……なるほど」
でもよ。
さすがにこう何度も見せられちゃ手品の種にも見当ぐらいつくよな。
ずっと考えた。ダンタリオンと邂逅した夜から、いまのいままでずっと考えていた。瞬間移動のような異能の正体が何なのかを。
判断材料はいくつかあった。
例えば、俺たちが初めて相見えたのはホテルの屋上だが、あのとき曇りかけだった夜空が、いきなり時間でも飛ばしたみたいに曇天になり――それと同時に、俺たちはダンタリオンの姿を見失った。
例えば、戦闘の最中、たまに美影の動きが鈍くなるのは――決まってダンタリオンが異能を使ったとき。
これらのことから、俺はひとつの仮説を立てていたが、それはいま確信に変わった。
「……いやはや、実に愉快ですねえ」
その声がしたほうに目を向けると、明らかに一足飛びでは到達できない遠距離に、ダンタリオンが立っていた。
あの一瞬で、俺たちの間合いから離脱するとは――やはりダンタリオンの能力は驚異的としか言いようがないな。
大きく両手を広げて、ダンタリオンは失笑を漏らした。
「この崇高な僕を『殺す』と断言したときの貴方には《バアル》の面影を見ましたが――それが蓋を開けてみれば、とんだ茶番だ。出来の悪い主人を持ったナベリウスが気の毒でなりませんよ」
「ほっとけよ。おまえに俺たちの何が分かるってんだ」
俺はあいつが好きだし、あいつは俺に優しくしてくれる。主人とか従者とか、そういう堅苦しい関係だと思われたくない。
だからさ――
「ナベリウスは俺の家族だ。ある意味、トラブル製造機みたいな女だけど、それでも俺はあいつが好きだ。調子に乗るから本人には絶対言わないけどな」
「結構。今宵、ナベリウスが舞台に上ることはありませんが、それでも主人からそのように想われるのは、従者として本望でしょう」
今宵、ナベリウスが舞台に上ることはない……だと?
それってつまり、あいつの身になにかあったってことか?
俺が真意を問うよりも先に、
「ただ、どうも貴方にはナベリウスを従えるだけの器があるとは思えませんね。しょせん《バアル》も、彼が孕ませたという人間の牝も、情と欲に溺れるだけの愚図でしかなかったというわけだ。こんな出来損ないを作ることしかできなかったのですから」
「……んだと?」
「聞こえませんでしたか。ならばもう一度だけ言いましょう。しょせん貴方の父君と母君は、情と欲に溺れるだけの愚図でしかなかっ……」
「――父さんと母さんをバカにすんなっ! ぶっ殺すぞてめえっ!」
頭に血が上ると、その後の行動は支離滅裂なものとなるのは分かっていたが、これだけは譲れない一線だった。
俺は、母さんのことを愛してるし、父さんのことを尊敬してるんだ。
それを馬鹿にされて黙っていられるわけがない。
「おや、気に障りましたか。でしたら謝罪しましょう。申し訳ありませんね、出来損ないの夕貴様」
「俺の悪口はいくら言っても構わねえ。でも父さんと母さんのことを侮辱しやがったら、絶対におまえを殺してやる……!」
「そのジョークはもう聞き飽きましたよ。崇高な僕から一つだけ忠告してさしあげましょう。威勢というのは、切るべき手札が残っていて初めて機能するものです。いまの貴方は、うるさく吼えるだけの犬でしかない」
「――っ!」
胸のうちでくすぶっていた炎が、一気に燃え上がる。
身体中の血液が沸騰し、細胞が暴れ狂い、神経が活性化する。心臓が強く脈打ち、そこから悪魔の波動が溢れ出し、全身を駆け巡った。
キィィィィン……と甲高い耳鳴りがする。
周囲に建っている街灯が次々に割れ、ガラス片が降り注いだ。自動販売機が倒れ、電柱が揺れる。地面そのものが、かすかに振動。
「……ほう」
ダンタリオンは静かに拍手をした。
「これは素晴らしい。どうやら君は『憤怒』をきっかけにしたほうが潜在的な能力を引き出せるようですね」
「父さんと母さんに言ったことを取り消せ、ダンタリオン!」
「やれやれ、よくもまあナベリウスと似通ったことを仰るものだ。しかし、人間の牝に惹かれた大悪魔と、大悪魔に孕まされた人間の牝ですかぁ……くっくっく、なるほど、吐き気がするほどおぞましい組み合わせですねえ」
「てめえぇぇぇぇーっ!」
もう限界だった。
父さんと母さんを悪く言うやつは誰だろうが絶対に許さねえ。
意地でもダンタリオンの顔面に一発ぶちこんでやろうと勇んで、俺は足を踏み出した。
「だめ」
「――ぐおっ!」
それは百年の恋も冷めるような情けない光景だったと思う。
ダンタリオンに向かって走り出そうとした瞬間、俺は横合いから伸びてきた美影の足に引っかかって、その場に転んでしまったのだ。
緊張に張り詰めていた空気が緩み、なんともいえない気まずさが流れる。
「……おい美影、何のつもりだ?」
仰向けに倒れていた体をゆっくりと起こし、美影を睨めつける。当の本人は悪びれるどころか、冷静な目をしていた。
「夕貴。男らしくない」
いつかと同じように――彼女は肩をすくめて、わざとらしくため息をついた。
「ヘンタイ男の口車に乗せられる夕貴は、可愛くて見てられない」
「……言ってくれるじゃねえか。この俺が『可愛い』だと?」
「ぷぷっ、怒り狂ってたくせに」
口元に手を当てて、無表情のまま忍び笑いをする美影。憎たらしいことこの上ない姿である。
思わずムキになって反駁しそうになって――ふと、冴木さんでもなく、千鳥さんでもなく、この俺自身の胸元に揺れる、御影石に目がいった。
これを受け継いだということは、あの冴木という男性の想いと願いを託されたという意味でもある。
そうだ。
俺は何がなんでも美影を護ってやらなくちゃならねえんだ。
あんなクソ野郎の話術に翻弄されてる場合じゃねえんだ。
俺には護りたいものがたくさんある――それは家だったり、母さんだったり、ナベリウスだったり、菖蒲だったり、託哉だったり、うっちーだったり、委員長だったり――そしていま最優先で護らなくちゃいけない女の子が、すぐとなりにいるじゃねえか。
だから、さ……なんていうか。
怒りに我を忘れてる場合じゃないよな、美影。
「……ふん、あとで覚えてろよ」
憎まれ口を叩きながら立ち上がった俺を、美影は心なしか満足げな目で見つめていた。
「くっくっく……」
和みかけた空気を引き締める、悪魔の笑い声。
「いや、これは失敬。麗しい人間愛につい。お気に触ったのなら謝罪しましょう」
「いらねえよ。おまえから聞きたいのは、父さんと母さんを侮辱したことに対する謝罪だけだ。口は災いの元ってことわざ知ってるだろう。それを思い知らせてやる」
「相変わらず口だけは達者のようだ。ですが保護者(ナベリウス)のいない今の貴方に、一体なにができますかねえ?」
「そうだな。なにもできないかもしれない。でも――おまえのことはよく知ってるぜ、ダンタリオン」
「ほう?」
「悪魔には《ハウリング》と呼ばれる固有の異能が備わっている。これはナベリウスはもちろん、おまえにも使える。そうだよな?」
「然り。まあ《ハウリング》などという人間が考案した名称で呼ばれるのは甚だ不愉快ですがね」
「そもそものきっかけは、おまえが異能を使うと美影の動きが鈍くなることだった。でも俺はそうならない。これはなぜだ?」
外人のように肩をすくめるダンタリオンを無視して、俺は話を続けた。
「どうして俺たちに違いが生じるのか。そもそも俺と美影の違いはなんだ? 名前? 容姿? 性別? 年齢? 生まれ育った環境? ……いや、もっと根本的に違うものがある。それは血筋だ。半分だけとはいえ《悪魔》の血を引く俺と、純血の人間である美影――つまり俺の体内にはDマイクロ波という波動が流れていて、美影にはそれがないってことだ」
「クックク……」
なにが可笑しいのか、ダンタリオンは口端を吊り上げた。
「美影には効き、俺には半端にしか効かない。当然だよな。おまえの《ハウリング》は、Dマイクロ波を相手の体内に直接作用させて始めて効果を発揮するものだから。おまえの波動は、俺の波動に邪魔される――だから俺には……いや、《悪魔》には上手く効かないんだ。要するに、純粋な人間である美影にしかおまえの能力はちゃんと効かないんだよ。そうだろ?」
その性質上、ダンタリオンの《ハウリング》は、同族である悪魔には相性が悪い。
「相手の体内に働きかける必要があり、概要としては瞬間移動のように見える力」
おそらく、それは。
「おまえの《ハウリング》は、『ありとあらゆる生物の体感時間を止める力』だよな。ダンタリオン?」
ナベリウスのように派手な力じゃない。
でも純粋な恐ろしさだけでいえば、ダンタリオンのほうが遥かに上だ。
ダンタリオンがその気になれば、剣聖だろうが英雄だろうが勇者だろうが一瞬で殺せる。それも相手に『死んだ』と気付かせることなく。
ナベリウスに勝てる人間がいたとしても、そいつはダンタリオンの足元にも及ばない。
でもダンタリオンは、ナベリウスには勝てない。
だってダンタリオンの《ハウリング》は、悪魔だけには効力を発揮しないんだから。
「人間の細胞膜ってのは、ある一定の刺激を受けたり外部から特殊な物質が来ると活動を開始する。このときナトリウムイオンやカリウムイオンなどを初めとした電解質が、イオンチャンネルを通じて受動的拡散を起こす――なんて面倒なプロセスを経てようやく細胞膜の内と外に電位差が生じ、電気信号が発生する。この一連の流れを、活動電位って呼ぶんだ。
人間の情報伝達には全て『電気信号』が使われてる。これがなければ目から見たもの、耳から聞いたもの、鼻から嗅いだものを認識することすらできなくなる。
きっとおまえの《ハウリング》は、この『電気信号』の伝達を阻害、あるいは活動電位のプロセスに介入して邪魔するものなんだろ。ありとあらゆる認識をできなくして、対象の体感時間を停止させるってところか」
ダンタリオンの異能は、脳の認識能力をシャットダウンさせるもの。
つまりそれは、他者の知覚を掻い潜るチカラ。
体内にDマイクロ波を持たない人間ならば問答無用で体感時間を止められてしまい、俺やナベリウスのような《悪魔》ならば体感時間を止められることはないけど、ダンタリオンの存在を見失ってしまう。
突き詰めて言えば、それは『一時的に自分の存在を消してしまう能力』と換言できるだろう。
これまで沈黙を保っていたダンタリオンが、ほう、と感嘆の吐息を漏らした。
「……いやはや、これは驚きました。頭の回転の速さにはなかなかどうして目を見張るものがある。その賢さは好感に値しますよ」
「おまえに褒められても嬉しくねえよ。そんな暇があるなら、父さんと母さんに言った侮辱を取り消せ」
「……?」
言葉を交わす俺とダンタリオンを尻目に見て、美影が首を傾げていた。どうやら難しい話は苦手のようだ。
しばらく黙考してから、ダンタリオンは言った。
「そういえば――貴方の話を聞いて、ふと思い出しましたよ。遥か昔、有象無象の人間どもは、我が矛を《静止歯車(シームレス・ギア)》と称しました。実に滑稽だとは思いませんか? 静止するのは歯車ではなく、貴方たち人間だというのに」
なるほど、《静止歯車》か――やはり真正面から戦うのは分が悪すぎるな。これは分かっていても防げないタイプの能力。ある意味、ナベリウスよりも厄介と言える。
警戒する俺を見て、ダンタリオンは苦笑した。
「まあそう怯えずともよろしいでしょう。崇高な僕は、虫を踏み潰すのに全力を出すような真似はしません」
「……俺たちには異能を使わなくても勝てるって、そう言いたいのか?」
「然り。先に見せたのはパフォーマンスの一環だ。二度はありません」
「遊んでるつもりかよ、おまえ」
「いいえ、愉しんでいるのです。《バアル》の血を引く貴方が、どのような手を見せてくれるのかをね」
「……いまの言葉、忘れるなよ」
俺もまだまだガキだな。
もしかすると、これも俺のなかに流れる父さんの血の影響かもしれないけど――ダンタリオンと対峙していると、やけに血が騒ぐんだ。
格闘技のエキシビションを見終わったときのような感覚に近い。気分が高揚し、普段よりも好戦的になる。なんでもいいからバラバラに壊してやりたくなってくる。
どちらにせよ冴木さんを手にかけたこの男を許すことはできない。俺の父さんと母さんを侮辱したことも忘れていない。
これは萩原夕貴という男の意地がかかった、絶対に負けられない戦い。
暴力に満ちた『非日常』なんて、俺は望んでいない。ただ幸せな『日常』があればそれでいいんだ。
この件が片付いたら家に帰ろう。菖蒲に会ったら”ただいま”って言おう。とうとうメールの返信はしないままだったから、きっと菖蒲は分かりやすく頬を膨らませて拗ねるだろうから、ご機嫌を取るために優しく頭を撫でてやろう。
それでいいんだ。
べつに世界を救うためだとか、この街に平和をもたらすためだとか、そんな大層なテーマを謳うつもりはない。
ただ、菖蒲に会って、ナベリウスに会って、そして母さんに会いたい――そのためだけに俺はこの夜を乗り切ろう。
だから気合入れて、
「おらダンタリオン! いまからおまえに生まれてきたことを後悔させてやる! もう謝っても遅いからな――!」
目の前にある邪魔なカベをぶっ壊してやるんだ。
「くっくく、はははは――」
冷たい雨が降る小夜中に、黄金の大悪魔が立っている。それはてのひらで顔を覆い、哄笑をぶちまけた。
「はははははははははははははは――!」
ダンタリオンから発せられる鬼気が、百戦錬磨の”武威”となって空間を揺るがす。コンクリートに亀裂が走り、ダンタリオンを中心にひび割れていく。
「……反則じゃないのか、これ」
一瞬、さっき言ったことを取り消そうかなと思った。
自然と身体が震える。雨に混じって、背中にいやな汗が伝った。
ダンタリオンは上半身を弛緩させたまま、泰然とした足取りでこちらに近づいてくる。その唇は三日月のごとく歪み、赤々とした口内を覗かせている。
「くっ、ははは、はははははは――」
夜さえ従える正真正銘のバケモノが、不気味にほほえむ。
「面白い。さすがは《バアル》の血統か。まったくあの男ときたら、死んでも愉しませてくれる」
これまでの芝居がかった口調とは似ても似つかない、威厳に満ち溢れた声。きっとこれがダンタリオンの本性なのだろう。
濡れそぼった金髪の隙間から、禍々しい視線を感じる。縫い付けたように閉じていたはずの糸目が、わずかに開いていた。
こんな反則染みた野郎に勝てるわけがない――と尻尾を巻いて逃げ出すのが正解なんだろう。
「……でも」
拳を握り、顔を上げて、俺たちの『日常』を壊そうとする『非日常(ダンタリオン)』を睨みつける。
「ここが正念場だろう、萩原夕貴……」
小さな声で、自分に言い聞かせる。
負けるわけにはいかない。この夜が明けるまでに、絶対にすべてを終わらせないといけない。
そうだ。
何度も言ってるけど、俺は男らしいんだ。女性モデルのスカウトを受けた経験も、電車で痴漢された経験も、小学校高学年になっても同級生から女の子と間違われていた経験もあるけど――俺は女々しくなんてない、男らしいんだ。
びびって背を向けるわけにはいかねえよな、やっぱり。
だって男だったら――
「家族を護るために前を向くもんだろうが――!」
思いっきり叫んでやった。するとダンタリオンの威圧に当てられていた心身が解き放たれ、一気に呼吸が楽になった。
となりに立つのは長い黒髪をポニーテールにした少女、壱識美影。その小さな身体は、しかし凛と背筋が伸びていて、いささかも怯えているようには見えない。
俺と美影は身構えた。
「美影! 頼むからいまだけは真面目にやってくれよ!」
「私はいつも真面目。ふざけたことなんかない」
「嘘つけや!」
緊張感の欠片もないやり取り。それでも俺たちのあいだには、この数日間でたしかに育み、こうしてカタチとなった絆がある。
なにより俺の心は、もっと強い想いで括られていた。
ずっと昔から言われてきたもんな。自分もそうされて嬉しかったら、夕貴にもそうしてほしいって、何度も何度も言われてきたもんな。
単純な話だ。
――困っている女の子がいたら、夕貴が助けてあげてね――
そう母さんから、口を酸っぱくして言われてきたじゃねえか。
だったら俺は、その言いつけを護ろう。いまは面倒くさいことを考えず、ただ美影をあのヘンタイ野郎から護ることだけを考えよう。
「かかってこいよ、ダンタリオン! てめえが俺の父さんと母さんに言った侮辱、忘れてねえからなぁっ!」
「はははは――」
「ヘンタイ男には二つの借りがある。私の分と、あの冴えないやつの分。それを今夜、清算させてもらう」
「ははははははははは――!」
ふたたび、哄笑がこぼれた。
ダンタリオンは芝居がかった言動で、告げる。
「いいでしょう、見せてもらいましょうか。まだ夜は始まったばかりだ」
****
そこは酷い有様だった。
綺麗に均されていたコンクリートは至るところに亀裂が走り、砕けに砕けている。それだけならばまだ大規模な地震に見舞われただけ、とも言い訳できるが、地中数メートルにも達するクレーター状の大穴がいくつも空いているのだから、誰がどう見てもただ事ではない。
それらの破壊をたったひとりで行った黄金の大悪魔は、降りしきる雨のなかにたたずみ、つかの間の余韻に浸っていた。
「……なるほど。やはり人間と混じっても、《バアル》の血はいささかの陰りも見せませんねえ」
少年は善戦した。特殊な操糸術を用いる少女と力を合わせて、ダンタリオンと真っ向から戦った。その結果が、この荒れ果てた駐車場である。
だが彼らは頭がいい。純粋な実力では敵わないと悟るや否や、迷うことなく場を切り上げ、駐車場に隣接しているホームセンターのなかに身を潜めた。
きっと少年は、初めからホームセンターを戦場にすることも視野に入れていたのだろう。店内は薄暗く、都合のいい遮蔽物も多いし、なにより武器になりそうなものが山ほどあるから。
すでに彼らがホームセンターに姿を消してから、優に五分は経過している。こうしてダンタリオンが待っているのは自分に科したルールであり、この夜を愉しむための秘訣みたいなもの。鬼ごっこで鬼が時間を数えるのは、そうしないとすぐにゲームが終わってしまうから。いまのダンタリオンも、その時間を数える鬼に等しい。
実力で劣っている彼らは、きっと小賢しい策を弄するだろう。
果たして、萩原夕貴と壱識美影はどのような手を使ってくるのか、楽しみではある。
ただ唯一の懸念は、少年が誤解しているのではないか、ということだが――まあさすがの少年も、まさか《静止歯車》ごときがダンタリオンの切り札だとは思っていないだろう。
今宵、ダンタリオンは少年と少女を手中に収めるつもりだった。現在、ソロモン72柱のなかでも絶大な戦力を持つ三柱の《悪魔》を出し抜くためには、どうしても《バアル》の血が必要なのだ。
とは言え、ここで自らの欲望に従ってしまうところが、ダンタリオンの悪い癖である。懸命に足掻こうとする少年少女を見ていると、ついつい戯れたくなってしまう。
そういえば、とダンタリオンは思った。
かつて《バアル》からも、”いつかその悪癖がおまえ自身を滅ぼすぞ”と忠告されたことがあったが――
「……貴方は死に、崇高な僕は生きている――それが答えでしょう?」
雨をもたらす空を見上げて、つぶやく。
夜の帳のなかにそびえる広大なホームセンターに向かって、彼は歩き出した。
壱識千鳥は苛立っていた。
ここ最近、《青天宮(せいてんぐう)》という組織の内部では大小さまざまな揉めごとが相次いでいる。それは事実として知っていたが、まさかここまで手際が悪いとは思わなかった。向こうとしても、思いのほか被害が甚大なことにひどく慌てている様子だが、それは自業自得というものだろう。
「さきほども説明したでしょう。いまさら責任の所在を明らかにするつもりはないわ。そちらの警戒網に穴があったのだとしても、それは私たちの関するところじゃない」
抑揚のない声で、千鳥は淡々と事実を羅列する。ただでさえ萎縮していた電話相手の男性職員が、声を詰まらせた。
「元はと言えば、あなたたちの職務怠慢が原因でしょう。あるいは故意に情報を隠蔽していたのかしら。……ええ、たしかにあなた方が足りない手を私たちに求めるのは自然よ。でもそれがあの《ソロモン72柱》なら話は変わってくる。そちらの基準で言えば、前もって作戦本部を組織し、一個中隊に相当する人員を導入して事に当たるべき相手でしょう。それともまさか、あなた方は忘れてしまったのかしら。二十年前に何が起こったのかを」
『い、いや……ですが』
相手の声を遮って、千鳥は続ける。
「萩原駿貴との契約により、彼に連なる者への攻撃は禁止されているけれど、今回はその例に当てはまらないでしょう。あまり国家の血税を無駄にしないほうがいいのではなくて?」
《青天宮》は国家の霊的守護を担う、日本独自の退魔組織。現存している最古の資料によれば、その起源は鎌倉時代にまで遡るとされている。表向きは防衛省に属する形態をとっているが、内部部局、各自衛隊、その他の附属組織とは一切の連携を断っているため、実質的には独立していると言って構わない。
もともとが陰陽師の集まりだったこともあり、初期の活動理念は妖(あやし)と呼ばれる存在の排除だった。しかし、近代化が進むにつれ妖の個体数が著しく減少し、年月の経過による組織形態の変遷もあるため、現代ではその活動は多岐に渡る。もちろん非現実的な現象や対象が観測された際は、手段の可否を問わず禍根を断ち切り、速やかに世の泰平を維持するだろう。
だが、それは飽くまで《青天宮》の事情であり、外部の人間である千鳥にはまるで影響のない些事だった。そう、少なくとも《壱識》には影響しない、はずだった。
誰かの作為があったわけではない。今回の事態は、偶然に偶然が重なっただけのこと。つまり、運が悪かったのだ。
目的のためには手段を選ばない――そうして選ばれてしまったのが、千鳥の娘である美影だった。
「それで、”目標”の情報は掴めているのかしら」
『……こ、肯定。すでに観測班から報告を受けています。”目標”は、悪魔学における序列第七十一位に該当する《ダンタリオン》かと推測されます』
「ダンタリオン……耳に覚えのある名前ね」
『データベースに照合した結果、1881年にイングランドのカースル・クームで起きた集団失踪事件、1927年にアメリカのオンタリオ湖周辺で起きた猟奇殺人事件、その他にも多くの事件に”目標”が関与していると資料にあります。なかでも代表的なものが、1943年にバチカンで起きた惨劇です。法王庁(ほうおうちょう)異端審問会(いたんしんもんかい)特務分室(とくむぶんしつ)の擁する精鋭部隊が――』
「皆殺しにされたのでしょう。一夜のうちに、抵抗すらさせてもらえず、ただ壊滅させられた。……正直なところ、裏に伝わる都市伝説だとばかり思っていたのだけれど、中央のデータベースに載っているのなら、信憑性のある話なのでしょうね」
『はい。このことから法王庁は、現存する《悪魔》のなかでも《ダンタリオン》を最重要殲滅対象として推奨しています』
「……そういうこと。でも話を聞けば聞くほど、あなた方の手際に異を唱えたくなってくるわね。そんなバケモノの入国を許しただけでなく、いまのいままで満足に捕捉すらできていなかったのだから」
彼女の言葉はおおむね正論だが、一概にそうとも言いきれなかった。ダンタリオンの異能は他者の目を欺くことに特化している。《青天宮》が人間によって運営されている以上、索敵がうまくいかないのは仕方ないと言えるだろう。
電話越しの喧騒が強くなったのは、そんなときだった。
「どうしたの?」
『……いや、すまないね、《壱識》の』
返ってきたのは千鳥の知らない、若い女性の声だった。
『さっきまで電話口にいた男は、つい先月に研修を終えたばかりの新人なんだとさ。だからあんまり怒らないでやってくれ。ここからはわたしが代わりに指揮を執らせてもらう』
ふう、と深呼吸にも似た吐息が聞こえた。おそらくタバコでも吸っているのだろう。
千鳥は訝しみながらも誰何した。
「あなたは? 状況はどうなっているのかしら」
『さてね。わたしが何者かは横に置くとして、状況は芳しくないな。《青天宮》の練度も落ちたものだよ。低コストによってリスクを最小化することが現代軍事の基本とは言え、これだけ金と人員を惜しんでいては話にならん』
「…………」
『そう警戒するなよ。元はと言えば、おまえらが好き勝手に暴れた尻拭いをわたしたちがしてやってるんだぞ。感謝されこそすれ非難される覚えはない。先の質問に答えてやる。わたしは――』
その女性の名を聞いた瞬間、千鳥はすべてを納得した。
****
俺たちがホームセンターに忍び込んでから、不気味なほど静かな時間が続いていた。
しっかりと掃除の行き届いた空間には、たくさんの商品が綺麗に陳列されている。大きな陳列棚がいくつも並んでいる光景は、どこか図書館にも似ている。
このホームセンターは、小さな子供が隠れてしまえばまず見つけられないぐらい大きく、闇に目が慣れないと満足に歩き回ることすらできないほど薄暗かった。
あれからダンタリオンの姿は見ていない。隠れた俺たちを探しているのだろうか。……でもあの狡猾で用心深い男にしては、動きがなさすぎる気がするけど――
「……それにしても寒いな。雨に濡れたままだから風邪引きそうだ」
「うん。でも私は温かいからいい」
「おまえ、それカイロじゃねえか。どこから持ってきたんだよ」
「さっき見つけたから持ってきた」
「……一個しかないのか?」
「うん」
一人でぬくぬくと暖を取る美影が羨ましくてしょうがなかった。
俺と美影は、清算レジカウンターのなかに身を潜めていた。わざわざ正々堂々と戦う必要はないので、なにか上手い戦法はないかと相談しているところだ。
「そういえば、夕貴のチカラってなに?」
ふと思いついたように美影が言った。
「ああ、説明してなかったっけ」
「うん」
美影としても俺の能力を把握し、作戦視野を広めておきたいのだろう。
いまさら隠すことでもないので手短に説明しておくか……といっても俺自身、まだ完全には分かっていないのだが。
「俺の能力は、まあ端的に言うと『鉄分に作用する力』だよ。……たぶん」
「鉄分? ……たぶん?」
「いや、ごめん。”たぶん”ってのは置いといてくれ。自分でもまだよく分かってないんだ。まあ基本的には金属や血液を操ったりできる感じなのかな? ちなみに銃弾を逸らしたのもこの力だ」
「……ああ」
美影が得心した面持ちで頷いた。
「もうすこし詳しく説明しておくと、銃弾の軌道を変えることはできても、銃弾をそのまま跳ね返すことはできない。ナイフとかカッターとか工具とか、手に持てる程度の大きさの物体ならサイコキネシスのように操ることもできるけど、自動車クラスの大きさや重さになると動かすことすらできない」
「そう」
いままではホテルの屋上や駐車場で戦っていたので能力を使う機会に恵まれなかったが、ここは天下のホームセンターだ。金属製の、武器になりそうなものが大量に貯蔵されている。なにか探せば使えるものがあるかもしれない。
その旨を美影に伝え、俺は歩き出した。すぐさま後ろに彼女が続く。
俺たちは細心の注意を払いながら、薄暗い店内を進んだ。濡れた衣服から落ちる水滴が、微かな音を立てる。
陳列棚には本当に色々なものがラインナップされている。木材や建材、工具、塗料、金物、電材、家庭雑貨、置物、インテリア、暖房用品、園芸用品、エトセトラ、エトセトラ……。
「目ぼしいものはあったか?」
俺は赤色の塗料を噴射するラッカースプレーを手に持ったまま、美影に声をかけた。
「ううん」
「だよなぁ……」
そう簡単に使えそうなものが見つかるはずもないか。
どうする。
俺はどうすればいいんだ。
「夕貴?」
こんなガキの宝探しみたいなことをしていて、本当にダンタリオンに勝てるのか?
「夕貴、夕貴」
くいくいっと服を引っ張られたが、それに構わず俺は自分の世界に没入していった。
さきほど、その場の勢いみたいなもので俺と美影は、無策のままダンタリオンに挑んだが――これはどう考えても無謀だった。反省しよう。
だが失敗を重ねることは無駄なんかじゃない。
トライ・アンド・エラーを繰り返すことは、成功するパターンを見つける近道だ。
さきほど、俺たちは『真正面からではダンタリオンに勝てない』という失敗のパターンを経験した。これを学習し念頭に置いた上で、もっと違う方法を考えないとだめだ。
急がば回れという言葉もあるが、追い詰められたネズミに等しい俺たちに、そう何度もパターンを増やしていくことはできない。言ってしまえば拳銃みたいなもんだ。残された弾丸は、あと一発か二発。それがなくなれば殺されるだけ。
彼我の戦力差は絶望的と言っていい――こちらは攻撃を当てるどころか、ダンタリオンの姿を捉えることさえできず、仮に攻撃が当たったとしてもそれは一切通用しない。
これじゃワンサイドゲームどころの話じゃないな。
「どうすればいい……もっと考えろ……」
根本的な問題は、有効的な攻撃手段がないこと。それは火力不足というよりも、《静止歯車》という異能のせいで上手く照準を絞ることができないのが痛い。あのチカラを使われると、俺たちはダンタリオンを知覚できなくなるから。
……じゃあいっそのこと、照準を絞る必要性を失くすのはどうだ?
ひとつの的をピンポイントで狙撃するのではなく、散弾銃のようなものを使って的を含めた空間そのものを打ち抜いてしまえばいい。
つまり点ではなく、面の攻撃。
どんなにパンチをかわすのが得意なボクサーでも、リングごと吹き飛ばされたらどうしようもない――だから要は、そういう状況を作り出せばいいんだ。
爆弾でもあれば話は早いし、簡単な作り方なら知ってるけど、さすがにそれは素人が知識だけで製作に乗り出すのは危険すぎる。
ナベリウスの能力なら、点でも面でも自由自在に攻撃できる上に火力も文句なしなのだが――いつも姉か恋人のように俺を護ってくれた彼女は、ここにはいない。
だからこそ、あの銀髪悪魔に「わたしがいないと何もできないのね」とか、そういういかにもお姉さんぶったセリフを言わせるわけにはいかないのだ。
ダンタリオンという『的』を含めた面そのものを攻撃する。大体の方針は定まったが、肝心の方法だけがどうしても思い浮かばない。
貫通力に優れたライフルと、範囲力に優れた散弾銃。この二つの特性を併せ持った方法を思いつき、実行に移し、成功させねばならない。
美影の『糸』なら広範囲を攻撃することは可能だと思うが、それだと恐らく火力が足りない。あの『糸』では、ダンタリオンの肉を裂けても骨を絶つことは難しいだろう。
いったい俺はどうすればいい――
「……ん?」
ぼんやりと周囲に視線をめぐらせると、ふと気になるものがあった。
てのひらサイズの小さな玉が、専用のケースに収納されて、綺麗に並んでいる。
「ピンポン玉か……」
なんともなしに手にとって裏面を見てみると、材質はプラスチックではなくセルロイドと書かれていた。
「……セルロイド製。珍しいな。最近だとプラスチックのほうが主流のはずなんだけど」
「なにそれ?」
「硝酸セルロースってやつだよ。ニトロセルロースとか樟脳から合成できる。プラスチックよりも燃えやすい反面、しなやかさがあり、透明性や吸湿姓に優れてて……」
「……夕貴?」
「いや待て。セルロイドだと?」
たしか以前、科学か物理か忘れたけど、なにかの本で読んだ記憶がある。しょせん子供騙しの実験程度にしか捉えてなかったが、いま思うとやりかた次第ではいけるかもしれない。
これを使えば――あるいは。
深い闇のなかに一筋の光明が差したような気がしたが、その先にあるものが何なのかはまだ見えない。
「……てい」
「痛っ」
いきなりわき腹にパンチされてしまった。あまり痛くはなかったが、意味が分からない。
「なにすんだよ、美影」
非難の目を向けると、彼女はいかにも拗ねてますといった風な顔をしていた。
どうやら俺は、一人の世界に没入しすぎていたらしい。そういやさっきから何度も美影の呼びかけを無視しちゃってたっけ。
「……夕貴、嫌い」
つまらなそうに唇を引き結び、美影はぷいっと顔を逸らしてしまった。ここは素直に謝ろう。
「わるい、ちょっと考え事を――」
言いかけて、美影が手に持っているものが気になった。
「おまえ、それ……」
「……? 懐炉がどうかした?」
俺たちの体は雨に濡れて、かなり体温が下がっている。だから美影は、宝物でも扱うみたいにカイロを握っている。
カイロのなかには、大量の鉄粉が入っている。鉄は年月の経過とともに錆びるものだが、これは空気中の酸素と鉄の分子が反応し、酸化鉄になるからであって、れっきとした化学反応なのだ。
そしてカイロは、この化学反応を利用した商品だ。袋のなかに入っている鉄粉は、空気に触れると急激な化学反応を起こす。この際、人肌にも負けぬほどの強い熱が発生する。
だが俺が注目したのはカイロではなく、その中身――鉄粉である。
「そうか。これを使えば――」
どうやっても完成させることのできなかったパズル、その最後のピースがいま、ぴったりと当てはまった気がした。
「夕貴?」
不審げに尋ねてくる美影に、俺は言う。
「なあ美影。協力してくれ。上手くやればダンタリオンに一発ぶちかますことができるかもしれない」
美影の顔つきが変わる。
茫洋としていた瞳に、鋭い光が宿る。
至極真面目に彼女は言った。
「マージョリー?」
「もっちー竹原だ」
などと日本語をバカにし尽くしたような掛け合いをしてから、俺たちは本格的に行動を開始した。
あのクソ野郎は、俺の大切な父さんと母さんを侮辱しやがった。
口は災いの元なんだって――絶対に思い知らせてやる。
****
静まり返った店内を、悠然と歩く影があった。
「……やれやれ、よくもまあ童心に返る余裕があるものだ。鬼ごっこの次はかくれんぼですか」
嘆息交じりの呟きは、そこかしこに充満する闇に吸い込まれて消えた。
萩原夕貴と壱識美影の行方を見失ったダンタリオンは、店内のどこかに潜んでいるであろう二人の登場を今か今かと待ち続けていた。
ここにきて少年と少女が尻尾を巻いて逃げるとは、微塵も思っていない。
むしろ、こうしているあいだにも彼らは、自分を倒すための算段を立てているのだとダンタリオンは考えている。
自分のほうから彼らを探し出す、などと不粋で味気ない真似をするつもりはない。
慎重であり、狡猾であり、そして用心深いダンタリオンだが、彼にはここぞというときに遊んでしまう悪癖があった。
「いや、悪い癖ですねえ」
癖とは本来、無意識下で行われるもの。もし自覚していたとしても、染み付いたそれを拭い去るのは、なかなかどうして難しい。
それにダンタリオンは、もとより少年を殺すつもりなどない。
彼の真の目的は、バアルの血を手に入れて、絶大な戦力を持つ《マルバス》、《バルバトス》、《グシオン》という三柱の悪魔を出し抜くことだった。
また、最大の懸念であったナベリウスは、おそらくここには来ない。
あのとき――高層ビルが爆破されたとき、運はダンタリオンに味方した。爆弾が仕掛けられていたのは、ナベリウスが立っていた給水塔の真下だった。
つまりダンタリオンからは最も遠く、ナベリウスに最も近いところで爆発は起こったのだ。
ナベリウスの異能なら爆発を防ぐことも容易のはずだが、ダンタリオンに気を取られていた彼女が、あの咄嗟に防御できたとは思えない。
間違いなく彼女は生きているだろう。だが間違いなく身動きはできない。そして間違いなく、いまのナベリウスに戦闘する力は残っていない。
だから、ダンタリオンを脅かす外敵は、ここにはいない。
「さて。此度はどのようにして楽しませてくれるのか。待った甲斐があるといいのですがね」
やがて彼は立ち止まる。その口元には確かな愉悦が浮かんでいた。
「もういいでしょう。姿を見せては如何です? ――ああ、そう警戒せずとも構いません。花とは散るからこそ美しい。その刹那的な時の歩みを止めるような真似などしませんよ」
事実、彼には《静止歯車》を使うつもりはなかった。
その理由は、簡単に言ってしまえば”強者の余裕”に尽きるが――美影の壊れた瞬間を見たいと望むダンタリオンとしては、ゼンマイの切れた人形を相手にしても面白くない。やはり花とは、手折る瞬間が最高なのだ。
彼が《静止歯車》を殺傷目的に使うのは、気に入らない相手を掃除するときだけ。その証拠に、鳳鳴会の本拠地を護っていた暴力団構成員たちは、みんな自分が死んだと気付く間もなく、殺された。
ダンタリオンの言葉がきっかけだったのかは分からない。
ただ、店内にふたたび静寂が戻ったときにはもう、彼の背後に少女がひとり立っていた。
後頭部の高い位置で結われた長い黒髪と、白い肌。見目麗しい容姿。黒のタートルネックとデニム。さきほどまで雨に打たれていたせいで全身は濡れており、いまもなお磨かれた床のうえに水滴が垂れ落ちている。
「おや? 彼はどうしたんです?」
予想に反して、現れたのは美影だけだった。
「知らない。おまえの相手なんか私一人でじゅうぶん」
「ふうむ。君たちが何を企てているかは判然としませんが、貴女がそう仰るのなら信じましょう」
まさか夕貴が逃げ出すはずもないので、これも一つの作戦なのは間違いなかったが、それを理解したうえでダンタリオンは大仰に頷いた。
あの少年が、いまから何を見せてくれるのか――そう考えるだけで、ダンタリオンの心は躍った。
「最後の決戦と参りましょうか――お嬢さん」
芝居がかった言動で、うやうやしく礼をするダンタリオンと、
「だまれ。ヘンタイ」
取り付く島もなく一蹴する美影。
正真正銘、最後の決戦が幕を開けた。
深夜のホームセンターは、さながら台風の一過となんら変わらぬ様相を呈していた。
《壱識》の少女と、《悪魔》の男――両者の戦闘は、下手をすればホームセンターそのものを破壊しかねない勢いだった。
すでに壁、柱、天井、床などはひどく傷つき、陳列棚のほとんどが倒れ、綺麗に陳列されていたはずの商品はそこらにぶちまけられている。
荒れ果てた店内を、壱識美影は一陣の風となって駆け抜ける。
彼女の手から伸びる極細の『糸』が、そこらの棚や柱に絡みつく。暗闇を縫いつけるように奔る『糸』は、まるで獲物の自由を奪うための蜘蛛の巣だった。
「ほう……」
ここにきてダンタリオンは、美影の技量に心から感服していた。他者を見下す傾向にある彼が、ただの人間、それも年若い少女に賛辞を送るなど前代未聞と言っていい。
確かにダンタリオンは前から美影のことを求めていたが、それは飽くまで『おもちゃ』として見目麗しい容姿をした女を欲しただけ。もともと対等とは思っていない。偉大なる大悪魔にとって、人間の小娘など羽虫も同然なのだから。
しかしダンタリオンはいま、美影のことを『おもちゃ』ではなく『一人の敵』として認めていた。だからこそ、楽しみも増す。
「くっくっく……」
ダンタリオンが唇を歪めるのと同時、彼の足元に無数の『糸』が這ってきた。軽やかな足運びでそれをかわす。
美影の操る『糸』は、壁や床に触れるたびに鋭い刃物で切りつけたような傷を生んだ。
「素晴らしい。実に見事だ。その若さで大したものですよ、お嬢さん。よほど殺しの素質に恵まれていると見える。あなたの両親は、さぞかし卓越した腕だったのでしょうねえ」
「両親は――」
幼少の頃から心身に叩き込まれてきた《壱識》の操糸術。実の母に何度も殺されそうになりながらも体得したそれが、いま彼女を脅威から護っている。
「――関係ない!」
手を振るう。腕を動かす。幾重にもばらけた『糸』が、銀の奔流となってダンタリオンを追い詰める。
「関係なくはないでしょう? 人間は無力な生き物です。誰かと寄り添いあわなければ生きていけない。かくいう貴女も、あの男の命を犠牲にして生き永らえたというのに」
「……っ!」
これまで湖水のように静かだった美影の瞳に、確かな怒りが浮かび上がった。
「おや、気に障りましたか?」
「べつに普通」
美影は平然と言ってのけたが、その表情はすこし硬い。本人にも内側から湧き上がる感情がなんなのか、よく分かっていないようだった。
当然であろう。
美影にしてみればアパートの隣人を引き合いに出されただけ。それで怒るほうがおかしいのだ――が、しかし実際に彼女は怒っている。
認めるしかあるまい。美影はきっと冴木のことが好きだった。彼はいつも美影に「おかえり」だの「行ってらっしゃい」だの言ってくる変人だったが、それでもあの笑顔を見ていると不思議と心が落ち着いたから。
少なくとも美影は、ダンタリオンにあの冴えない男をバカにさせるのは不愉快だと思った。あれをバカにしていいのは自分だけだ。
「どうしました、お嬢さん。もう終わりですか?」
「だまれ!」
裂帛の声。
美影は『糸』で牽制しながら間合いを詰め、神速の回し蹴りを放った。あっけなく避けられる。続いて振り返りざまに逆の足を跳ね上げる。これも届かず。
「ちっ――」
舌を打っているあいだに悪魔の腕が薙ぎ払われた。美影は身を屈める。頭上を旋風が通過し、逃げ遅れた黒髪が数本、断ち切られた。
「いい反応だ」
天から降ってくるダンタリオンの声。
美影が反駁しようとするよりも早く、ダンタリオンの足が動いた。それは鋼鉄をも蹴りぬくような一撃。
美影はたわめていた脚の筋肉を開放し、真後ろに向けて跳んだ。目標を見失った悪魔の蹴りは、すぐ近くにあった陳列棚に命中。重量のある棚が、発砲スチロールのように吹き飛んでいく。耳をつんざく轟音。多種多様な商品が宙にばら撒かれた。
美影は空中で体勢を整えながらも、ダンタリオンに向けて『糸』を放った。それも結果的にかわされてしまったが、反撃の意志を示すことが重要だった。
いまのところ戦況は、ギリギリ五分と言っていい。ただし、美影が持てる技のかぎりを尽くしているのに対し、ダンタリオンは手加減しているうえに異能を使っていない、という注釈がつくが。
ゆえに、これは茶番。
あらかじめ勝敗の決められた出来レース。
どう足掻いても変えることのできない未来と運命。
そう。
美影には勝ち目がないはずだった。
萩原夕貴という少年が、いなければ。
息つく間もなく繰り広げられる攻防の最中、どこかから『何か』が大量に投げつけられてきた。
それがダンタリオンの頭上に到達した瞬間、
「……夕貴、おそい」
美影は憔悴した面持ちで『糸』を振るい、その『何か』をバラバラに切り刻んだ。
ぱらぱらと、黒い粉が降り注ぐ。
「……これは」
ダンタリオンは、自分の体に降りかかった黒い粉を怪訝そうに見つめていた。投げつけられてきた『何か』が市販のカイロであり、黒い粉の正体が『鉄粉』であるという事実を、彼は知る由もない。
ダンタリオンが視線を前に向けたときにはもう、新たな異変が生じていた。
濃淡な闇をかき消すような、白い霧。
「まさか、煙幕……?」
またたく間に視界を埋め尽くした白煙。これが裏でこそこそと策を弄していた夕貴によるものだということを、ダンタリオンは即座に見抜いた。
目ではなく感覚を頼りに周囲を探ると、すでに美影の気配は消えていた。あるのはただ空間に充満する白い煙だけ。
「くっくく、はははは――」
右手で顔を覆い、ダンタリオンは乾いた笑いを漏らした。
「これが貴方の策だとでも言うのですか? 本当に? こんな子供騙しが?」
煙幕で視界を奪い、相手の混乱に乗じて不意を衝く――なるほど、それは確かに単純だが有効的な戦法だろう。だが《バアル》の血を継ぐ者が、まさかそんな使い古された策に頼るとは。
どこにいるかも分からぬ少年に向けて、黄金の大悪魔は声を張り上げる。
「まったく――とんだ期待外れですね。いや、あるいは期待した僕が愚かだったのか。どうやら貴方は《バアル》の名に泥を塗るだけの出来損ないらしい」
これではナベリウスも報われない、とダンタリオンは彼女に同情の念を抱いた。
「少しは頭が回るかと思えば……やれやれ」
まさか夕貴は失念しているのだろうか。ダンタリオン固有の異能である《静止歯車(シームレス・ギア)》を。
これがあるかぎり彼らは、ダンタリオンに触れることすら叶わぬというのに。
「……つまらん。興醒めもいいところだ」
どうやら少年は、《悪魔》よりも人間の血を強く受け継いでいるらしい。これは正直、大きな誤算だった。
こうなったら萩原夕貴という人格を徹底的に壊してやり、自分に都合のいい人形として扱ったほうが早いかもしれない。
もはや手心を加えるつもりはない。遊ぶ気などとうに失せた。一気に決着をつけてやろう。
ダンタリオンの全身から迸る悪魔の波動――《静止歯車》と呼ばれる異能がいま、発動した。これで夕貴と美影に成す術はなくなった。彼らはもうダンタリオンを知覚することさえできない。
ダンタリオンは大きく両手を広げて、この煙幕の向こうにいるであろう少年に、言った。
「さあ、幕を引きましょうか」
****
「ああ。もう終わらせてやるよ、ダンタリオン」
煙幕の向こうから聞こえてきた声に、俺は小さな声で応えた。
準備を整えるのに手間取ったが、なんとか間に合ったのでよしとしよう。美影のやつも俺の指示通りに動いてくれたみたいだし。
……とは言ったものの、美影のやつ、ダンタリオンの挑発に乗って真正面から戦いやがった。あれだけ《静止歯車》を警戒しろと忠告しておいたのに。
この白い煙は、ピンポン玉から発生したものである。ピンポン玉はセルロイドという非常に燃えやすい合成樹脂で出来ている。これを細かく切り刻み、切れ目を入れたアルミホイルで包んで下からライターで炙ると、大量の煙が出るのだ。
わざわざ煙幕を作ったのには、ふたつ理由がある。
ひとつは、ダンタリオンの体に降りかけた『鉄粉』から注意を逸らすため。あんな黒いだけの粉と、この視界を奪う白煙だったら、後者に警戒するほうが自然。
目を閉じて、神経を集中させる。
体のなかを悪魔の波動が駆け巡っていく。鼓膜を震わせる、かすかな耳鳴り。俺だけが持つ《ハウリング》がいま、発動しようとしている。
どうやらダンタリオンも《静止歯車》を発動させているようだが――いまの俺には、あのクソ野郎の位置が手に取るように分かる。
「もうおまえの力は通じねえよ」
ダンタリオンの体に付着した大量の鉄粉が――否、鉄分(・・)が、俺のDマイクロ波に共鳴してダンタリオンがどこにいるのかを教えてくれる。
話は戻るが、俺が煙幕を作ったもう一つの理由は、『武器』を隠すためだ。
さっきまで美影が派手に大立ち回りを演じてくれたおかげで、綺麗に陳列されていた商品は床のうえにばら撒かれている。人間の手では持ち運ぶことのできない膨大な量の、工具や金具が。
俺は右手を前に伸ばした。
この、てのひらの先には――俺の大事な父さんと母さんを侮辱しやがった、ソロモンの大悪魔がいる。
百か二百にも届こうかという量の、ナイフ、カッター、スパナ、ドライバー、包丁、ペンチなど、その他諸々の『武器』が宙に浮かび上がり、ダンタリオンという『的』を完全包囲した。
俺の《ハウリング》が、金属製の物体を、ことごとく支配する。
「……っ」
ずきん、と左胸が痛む。
過剰な労働を強いられた心臓が、もう無理だと悲鳴を上げてる。
俺は右手を前に伸ばしたまま、左手で心臓のあたりを強く押さえた。頼むから、もう少しだけ我慢してくれ。
「……はっ、子供騙しで悪かったな、ダンタリオン」
白煙の向こうにいる男に、俺は言った。
「おまえは大切なことを三つ忘れてる。それが何だか分かるか?」
脳髄を直接揺さぶる、強烈な耳鳴り。
「一つ目は、ここがホームセンターだということ」
ホテルの屋上でも駐車場でもない、俺のチカラを最大限に生かせるフィールド。
「二つ目は、俺にも《ハウリング》が使えること」
ひたいから流れてくる汗が、頬を伝い、顎から落ちて――床に触れた。
それが、合図。
俺の《ハウリング》によって宙に浮かんでいた様々な金属製の『武器』が、一斉に動き出した。まるで時計の中心にいるダンタリオンに対して数字が牙を剥くように、数多の刃が襲い掛かる。逃げ道はない。上も下も左も右も、振り向けば刃物しかないから。
「そして――」
目が霞む。息切れも酷い。それでも絶対に許せないことがあった。
「三つ目は、俺の父さんと母さんに言った侮辱を取り消してないことだ。……やはり口は災いの元だったな、ダンタリオン」