ナベリウスが目覚めたのは夜明け前だった。カーテン越しに外を見てみると、空は瑠璃色に染まっている。日が昇るまでは時間がありそうだった。
ぼんやりとした頭と、気だるい身体。間違いなく二時間は寝たりないなぁ、と彼女は思った。
二度寝しようか、と考えつつ、ゴソゴソとベッドの中で身じろぎする。素肌とシーツが擦れあって、妙に気持ちがよかった。
彼女が就寝用のパジャマとしているのは、ジャージやスウェットやキャミソールではない。彼女は下着さえ穿かず、ただ身体に見合わない大きさのワイシャツを羽織っているだけだった。ちなみに、どうして裸にワイシャツなのかと言うと、ただ夕貴をからかいたかっただけ。もちろん他意はあった。
「……おはよ、夕貴」
目元を和らげながら、ナベリウスがつぶやいた。
水を打ったように静まり返った部屋には、彼女の澄んだ声と、シーツの擦れる音と、そして萩原夕貴の寝息だけがあった。
そもそも、ここは夕貴の部屋である。だからイレギュラーはナベリウスのほうだ。彼女には客間の一つが貸し与えられているのだから、そっちで眠るのが正解なのに。
昨夜遅く、夕貴が寝静まったのを確認してから、ナベリウスはこの部屋に侵入した。夕貴は、頑なに一人で眠ると主張していた。だから少々強引な手段を取らせてもらったのだ。
せっかく女性から誘っているというのに、夕貴はちっぽけな理性を総動員させて、ナベリウスを客間に押し込めた。バカだなぁと思う。どうせ眠るなら、一人よりも二人のほうが温かいのに。
ナベリウスは仰向けだった身体をうつ伏せにして、両腕を立てた。そうやって上半身を起こし、かたわらで眠っている夕貴の顔を見つめた。
本人に言うと怒るだろうが――夕貴という少年は、とても綺麗な顔立ちをしている。男性的な凛々しさと、女性的な美しさが絶妙に融合したような容姿。肌は抜けるように白いし、黒檀の髪は混じり気のない濡羽色。こんな綺麗な男子を放っておく女子なんて、まずいないだろう
体つきは細いほうだが、決して華奢というわけでもなく、むしろ鍛え抜かれた筋肉が手足の下には眠っている。空手をしていたというのだから、その修練の賜物なのだろう。身長は170センチメートルほどで、男性として低くもないが高くもない。
「ほんと可愛いなぁ」
夕貴の頬を人差し指でツンツンと突いてみる。雪みたいに滑らかな肌には、たしかな弾力があった。当の本人は安眠を邪魔されたせいか、不服そうに眉をしかめて寝息を乱していたが。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれる。
温かな少年の体に身を寄せ、ナベリウスは思った。
この子が愛しい。
この子を守ってあげたい。
この子には幸せになってほしい。
そのためならば、わたしは何だってしよう。
あの人との約束も、あの女性との取り決めも、そんなものは関係ない。
ただ夕貴を見守りたい。
ずっとずっと見守っていたい。
もう、遠くから傍観することしかできなかった自分とは違う。
いまはこんなにも近くで、この子を見つめることができる。
出来ることなら彼には、平和に暮らしてほしい。
まあ、それもまた、決して叶わぬ願いなのだろうけど。
心の中で小さく溜息をついたナベリウスは、夕貴の腕にちゃっかり頭を乗せたあと瞳を閉じた。
まだ黎明には早い。
目覚めるには早すぎるのだ。
それから間もなく、彼女は小さな寝息を立て始めた。その寝顔は、彼女にしては珍しく、母親の胎内で眠る赤子のように安らいでいた。
彼女が目を覚ますのは、それからぴったり一時間半後のこと。
目覚ましは、まるで幽霊を目撃したかのような、萩原夕貴の悲鳴だった。
****
人間には誰だって弱みというものがある。
事の始まりは、俺がまだ小学校低学年の頃だった。
小学生と言えば、男女の間に身体的な差がほとんどない時期だ。だから当時の俺は、いまよりもさらに女子に見えたという。間違いなく『夕貴くん』よりも『夕貴ちゃん』と呼ばれる回数のほうが多かったぐらい。
それだけならばギリギリ笑い話で済むのだが、ここで冗談にならないのが俺の母親である。
男の子だけでなく、女の子も欲しかった。
出来れば夕貴にお姉ちゃんか妹を作ってあげたかった。
そう口惜しそうにぼやくだけあって、母さんは『女の子供』という存在に憧れを抱いていた。そして、そのとばっちりをモロに食らったのが俺だった。
昔から可愛らしい洋服を買ってきては、嬉々として俺に着せてくる母さん。家でも外でも『夕貴くん』ではなく『夕貴ちゃん』と呼んでくる母さん。
言ってしまえば、俺は女装させられていたのである。
もちろん文句を言いたくなるときもあった。
でも母さんの楽しそうな、嬉しそうな、そんな笑顔を見ていると、なぜか怒る気にもなれなかった。
まあ恥ずかしくはあったけど、母さんと一緒に遊ぶ――といったら大いに語弊はあるが――のは俺も楽しかったし。
死んだ父親が財産を残してくれたとは言え、母さんは女手一つで俺を育ててくれた。
再婚してはどうか、と提案したこともある。
すると母さんは、
「夕貴がいれば、母さんは大丈夫。だから、心配しないでね」
と、のほほんとした口調で返してくる始末。その言葉を聞いて俺は泣きそうになったんだけど、母さんが優しげな笑みを浮かべて頭を撫でてきたもんだから、我慢さぜるをえなくなった。
俺は――母さんのことが大好きだ。
誰よりも幸せになって欲しいと思ってるし、将来は絶対に楽をさせて、そして安心させてあげたいと思っている。
はっきり言って、母さんは俺の宝物なのだが、一つだけ看過できない点がある。
それは俺の女装姿が、写真やホームビデオとなって記録されていることである。
これは本当に由々しき問題。
かつて母さんとエビフライは尻尾まで食べるか否かで喧嘩したときなんか、母さんは泣きながら「ご近所さんに、夕貴ちゃんの可愛い姿、教えてくるもん……!」とか言いつつ、それを本当に実行しそうになったのだから始末が悪い。
結論として、他者に弱みを握られるということは、その後の人生を円滑に進めようとする上で、非常に厄介な障害となってしまう。
例えば。
「ちょっと夕貴ー、ごめんって言ってるんだから許してよー。人のおっぱい揉んだんだから、これであおいこでしょ?」
こんな具合に。
まったく反省の色が見えない声で俺の弱みをつつきながら、ナベリウスは苦笑した。
「黙れ、この自称悪魔が! 謝罪するつもりがあるなら、せめて申し訳なさそうな顔をしろや!」
「はいはい、ごめんね夕貴」
満面の笑顔を浮かべ、ナベリウスは可愛らしくウインクをした。
俺たちはいま、萩原邸の一階に位置するリビングにて朝食を摂っているところだった。献立は白米、味噌汁、焼き魚、きんぴらごぼう、納豆、漬物という実に日本的なもの。ちなみに、この朝食を作ったのはナベリウスだ。
「ほら夕貴。おかわり、いるでしょ?」
そんな言葉を口にする彼女は、どこまでも甲斐甲斐しい。
考えてみれば――ナベリウスが萩原邸に居候するようになってから、俺は何もしてないような気がする。
母さんが不在のいま、俺が炊事、洗濯、買物、花の水遣りなどを代わってこなしていたはずだ。
でも、ここ最近は違う。
ほとんど全部、ナベリウスがやってくれてる。
確かにナベリウスは、いくら母さんに許可を取ったとはいえ、俺の家に居候している身分だ。だから彼女が家事を一手に担うのは、対価を払うという意味では当然なのかもしれない。
だがナベリウスの態度は、これっぽっちも作業的じゃない。
彼女は、賃金のために営業スマイルを浮かべて労働するアルバイターとは違う。
むしろ母親のごとき無償の愛を俺に注いでくれている……ような気がする。
――夕貴の面倒を見るのは、わたしなんだから。
そんな言葉を思い出す。
いつもナベリウスが口癖のように言っている言葉だ。
確かにナベリウスは、女神と形容するに相応しい美貌の持ち主だし、悪魔的な胸の大きさと柔らかさだし、人間とは違った雰囲気と身体的特徴を持っているかもしれない。
だからこそ俺は――ナベリウスの正体を知りたくなってしまう。
口では何とでも言える。
俺はまだ証拠を見せてもらっていない。
ゆえに一度ちゃんと時間を作って、話し合いの場を設けようと思うのだ。
まあ、とかなんとか偉そうなことを言いまくってる俺だが――きっと彼女が悪いやつじゃないということだけは、ちゃっかり確信してたりするのだが。
「わーおっ、これは朝から過激なニュースだ」
思考に耽っていた俺は、その大げさに驚く声を聞いて顔を上げた。
どこにでもある平凡な朝食の席、テーブルの上に並べられた食事、開けた窓から入りこむ柔らかな風、一時の安らぎをもたらす観葉植物、リビングの目立つところに置かれた五十二インチの液晶テレビ。
それは日本では珍しくない平均的な光景。
しかし、一つだけ異常なものがあった。テレビ番組のニュースだ。
「……これは」
思わず食事の手が止まる。
ニュースとは、極論で言えば『他人の不幸』だ。
誰かが誰かに殺された、強盗があった、誘拐が起こった、交通事故が起こった、テロが発生した――とにかく日本中、あるいは世界中で起きた事件や被害を拡散するのがニュース番組。
それを子供のころから見ている俺は、例えば連続殺人事件が起こったとしても物珍しいとは感じない。だって慣れてるから。警察がいるから。そして何より――これは極論だが――遠くのほうで起こった事件は俺とは関係ないから。
でも、それは時と場合によるよな、やっぱり。
「この街で誰かが殺されたんだってね。……ふむふむ、なるほど。被害者は市内の高校に通う女子高生で? 遺体発見場所は繁華街の外れの路地裏で? そんで第一発見者は近所の飲食店を営む男性、と」
ニュースキャスターの言った言葉を、ナベリウスはそのまま復唱する。
遺体には鋭い刃物で傷つけられたような損傷が見られるが、現場に凶器の類は見つからず。また『被害者は生前誰かに恨まれるような子ではなかった』という家族や友人の証言もあり、犯人の目処は立たず、動機も不明瞭。場合によれば、通り魔殺人という線も出てくるらしい。
ニュースを流し聞いていたので、頭に入ってきた情報はそれぐらいだ。
それから俺たちが箸を進めていると、来客を告げるベルが鳴った。
「夕貴、誰か来たみたいだけど。……まったく、こんな朝早くから人様の家に来るなんて」
「言っとくけど、おまえの家じゃないからな? 俺と母さんの家だからな?」
不機嫌を隠そうともしないナベリウスに釘を刺して、俺は立ち上がった。
「まあ、誰が訪ねてきたのかは想像がついてるけど」
そう言い残して、玄関のほうに向かう。
このとき、すでに俺は、あの凄惨なニュースを忘れていた。
いくら自分達の街で起こったとは言え、俺に関わりのある事件じゃない。だから気に病むだけ無駄だと。
そう、このときの俺は楽観していた。