もうもうと立ち込めていた煙幕は清浄な空気に押し流され、次第に薄れていった。
店内はさっきまでの喧騒が嘘みたいに静まり返っている。俺も美影も固唾を飲んで、じっと前を見据えていた。
そのとき不意に、場違いなコール音が鳴り響いた。ズボンのポケットから振動を感じる。しまった、そういや携帯をマナーモードにするの忘れてたな。
「夕貴」
背後からちょんちょんと指で突かれる。それは『はやく電源を切れ』という美影なりのアピールだ。
俺は携帯電話を取り出しながら、美影を振り返った。
「わるい、迂闊だった。俺って肝心なところで抜け――」
喉が凍った。俺から言葉を奪うだけの強大な何かが、煙幕の向こうから迸った。耳鳴りがする。これまでとは比ぶべくもないほど凶悪な耳鳴りが。脳髄をぐりぐりとかき回されるような痛みに耐えかねた俺と美影は、耳を抑えてその場にうずくまった。
「な……」
んだこれ、と声にするよりも早く、左肩のあたりに、鋼鉄のハンマーがぶち当たったかのような衝撃が走った。
殴り飛ばされた俺は、離れたところにあった大きな棚に背中からぶつかった。内臓が圧迫され、口から血反吐が噴き出る。やがて剥がれ落ちた俺の体は、ずるずると落下し、床に沈んだ。その衝撃で、携帯電話は床のうえを転がっていった。もうコール音は止んでいる。
俺は立ち上がるどころか、意識の手綱を握りしめるので精いっぱいだった。
「んっ、くっ!」
美影の呻き声が、沈みゆく意識に歯止めをかけた。
仰向けに倒れたままゆっくりと顔を起こすと、そこには――
「やれやれ、余計な手間をかけさせてくれるものだ。まあ面白いものを見せていただいたことですし、よしとしましょうか」
――酷薄とした顔でこちらを睥睨する、ダンタリオンが立っていた。
その体には致命傷どころか、かすり傷のひとつさえも見当たらなかった。こんなのありえない、と否定するのは簡単だが、自分の目で見た現実を信じないわけにもいかない。でもダンタリオンの異能は生物にしか効かないはずだから、全方位から飛んでくる物体を防ぐことはできないはずなのだが。
「いったい、どうやって……」
ようやく俺は気付いた。
煙幕が晴れた店内、さきほどまでダンタリオンが立っていた場所、その周囲には金属製の商品がたくさん浮かんでいる。いや、あれは”浮かんでいる”というよりも、まるで”時が止まっている”かのようだった。
もちろん俺はいま、《ハウリング》を使っていない。つまり、なにか得体の知れないチカラがそこに働いているのは明白だった。
「なんだ、あれは……」
ダンタリオンの異能は、生物の体感時間を止めるものじゃないのか? どうして無機物にまで《静止歯車(シームレス・ギア)》が効いているんだ?
「そう不思議がることもないでしょう。あれこそが崇高な僕の、本来のチカラなのですから」
ダンタリオンが指を鳴らす。すると空中で静止していた金属類が、次々と床に落ちた。静かな空間に、金具を打ち鳴らしたような音が残響する。
「ナベリウスから聞いたことはありませんか? かつて我らが、ソロモンの手により封印されたことを」
「……知ってる。それがどうした」
「聞いているのなら話は早いですね。我らはソロモンに封印されたことを機に、力の大部分を失いました。ですが、完全になくしたわけではありません。現在の我らが持つ異能は、本来のものではなく、劣化した、いわば残滓に過ぎません」
「残滓……?」
「然り。生物の体感時間を止めるなど、副次的な作用ですよ。かつて《ダンタリオン》という大悪魔が持っていた異能は、『時の流れを停止させる力』でした。そして崇高な僕は、限定的ですが、それを行使できるのです」
つまりダンタリオンは、さきほど自分の周囲の時間を止めて危機を脱したと言っているのだ。
「バカな……時を止めるなんて、物理的に不可能なはずだ」
「この世に存在するモノの全てを、自分の物差しで測れると過信するのは優等生の悪い癖ですよ。崇高な僕も、ナベリウスも、バアルも、そして貴方も人間ではありません。《悪魔》だ。物理的な不可能を可能にする存在なのです。それに崇高な僕のチカラに異を唱えるなら、《ベレト》や《アスタロト》とは対峙することもままなりませんよ?」
要するに、ナベリウスやダンタリオンの《ハウリング》は、本来のものを劣化させた粗悪品に過ぎないということ。
「劣悪な人間どもは、我らのそれを《フィードバック》と称しました。……どうもその様子だと、ナベリウスから聞いていないようですね。まあ彼女のそれは崇高な僕よりも容赦がないですから、貴方に聞かせたくなかったのかもしれませんが」
くつくつ、と薄気味悪い笑み。
「さて、と。ようやく捕まえましたよ、お嬢さん」
ダンタリオンは右手で美影の首を無造作に掴み、身体ごと持ち上げていた。美影は首を圧迫されているせいで呼吸もままならないらしく、じたばたと苦しそうにもがいている。
いい加減、認めるしかない。
どうやら俺は――失敗してしまったらしい。
「……美影を、離せ」
地べたを這いずりながら、俺は言った。
「離せ?」
ダンタリオンは失笑する。
「この崇高な僕が、捕らえた獲物をみすみす逃がすような愚者に見えますか?」
「てめえ……!」
「大きな声を出さないほうが賢明ですよ。僕は臆病ですからねえ。驚いて、ついつい手に力が入ってしまうかもしれません」
ダンタリオンの握力が強まる。
ぎりぎり、と骨が軋む音が聞こえたような気がした。
「ん、うっ……!」
美影は、苦痛に揺れる目でダンタリオンを真っ直ぐ見つめていた。
絶対的な窮地なのに――それでも彼女は諦めていなかった。
あまりの苦しさゆえに目は涙に潤み、唇からはよだれをこぼしているのに、それでも美影は凛としていて、美しいままだった。
でも美影がそういう少女だからこそ、ダンタリオンは彼女を気に入っているのだ。
「さあ。もういいでしょう、お二方?」
俺と美影を交互に一瞥してから、ダンタリオンは気持ち悪いぐらい優しい声で言った。
「敗北を認めてはどうです? これ以上、無駄な血を流す必要もないでしょう。崇高な僕は、あまり貴方たちの肉体を傷つけたくないのですが」
そうか。
ダンタリオンの目的は、俺たちを殺すことじゃないんだ。
こいつは俺の血と、美影の心身を欲している。
だから戦う力を奪ったあとは、こうして懐柔しようとしてくる。
でも、どんな好条件を提示されたって、俺たちはダンタリオンの軍門には下らない。
それを思い知らせてやるためにも、俺は精いっぱいの強がりを口にした。
「……ざけんな。誰が、おまえなんかに負けを認めるか」
いまの俺が威勢を張っても滑稽にしか見えないだろうが、ダンタリオンの思いどおりに事が運ぶよりは百倍マシだ。
案の定、ダンタリオンは困ったように苦笑した。
「やれやれ。その強情なところだけは《バアル》によく似ていますよ。念のために伺っておきますが、お嬢さんも彼と同意見ですか?」
首を絞められたまま、美影はしっかりと頷いた。声は出せず、意識も朦朧としているはずなのに、その瞳には強い意志が宿っている。おまえなんかに従うもんかって、そう言ってる。
ダンタリオンの口から、深いため息が漏れた。
「いやはや、困りましたねえ。身体ではなく、心を屈服させなければいけませんか。とは言え、貴方たちの心を折るには少々手間がかかりそうだ」
当たり前だ。
誰がてめえなんかに負けるもんか。
指先を動かすのも面倒なほどの倦怠感が全身を包んでいる。声を出そうとすると代わりに血の混じった唾液が口からこぼれる。意識は泥のように濁り、霧のように霞んでいる。
それでも俺は、ちっぽけな意地を張っていた。ガキの喧嘩みたいなもんだ。負けたと思わなけりゃ負けじゃない。俺はまだやれる。いまでも隙あらばダンタリオンの顔面に一発ぶち込んでやろうと思ってるぐらいで――
電話が、鳴った。
耳に懐かしいメロディー。
それが誰からの着信なのか、俺には液晶を見ずとも分かる。
すこし前に可愛らしい遠回しの説得をされて、彼女一人だけ着信音を変えていたから。
俺の携帯電話が、床のうえに転がったまま、チカチカと着信を示すランプを灯している。
ダンタリオンが新しいおもちゃを見つけた目で、静寂をかき乱す携帯電話に視線を移した。
「……やめ、ろ」
あれには手を出すな。
俺には何をしてもいい、でもあいつにだけは手を出すな……!
「ほう――」
俺の形相から何かを感じ取ったのだろう、ダンタリオンは美影を俺のとなりに放り投げてから、悠然とした足取りで携帯電話に近づき、それを拾った。
****
携帯が鳴った瞬間から、萩原夕貴の目は不安に揺らぎ、恐怖の色を映し始めた。
つまり電話の相手は、夕貴にとって大切な人間である可能性が高いということ。そして、それをダンタリオンが気付かないはずもなかった。
無造作に携帯を拾い、液晶を覗くと、そこには『高臥菖蒲』の文字が羅列していた。
「……これは」
見覚えのある名前だった。たしか以前、路地裏に落ちていた週刊誌の表紙を飾っていた少女が、これと同じ名前をしていた。
電話に出ると、一拍の間を置いて、美しい声が聞こえてきた。
『もしもし、夕貴様ですか? ご無沙汰しております。菖蒲です』
夕貴の体が震える。離れたところにいる彼にも、通話口から漏れる音声がわずかに聞こえるのだろう。
ダンタリオンは応答しない。ただ夕貴を嘲笑うかのように唇を歪めるだけ。
電話を受けている者が夕貴ではなくダンタリオンであるという事実を知らぬまま、菖蒲はなおも矢継ぎ早に言葉を足していく。
『菖蒲はいま、予定していた仕事を終えて、参波の運転する車に乗って帰宅しているところです。夕貴様もご存じのとおり、外国製の車ですね。塗装は黒……あっ、黒で思い出しましたが、夕貴様は女性の黒い下着がお好き、というのは本当なのでしょうか? ナベリウス様から聞いたのですけれど』
少女の声は楽しそうに弾んでいた。どう穿った見方をしても、それはただの友人や家族に用いるような声色ではない。
ここにきて、ダンタリオンは一つの確信を抱いていた。
きっと、この少女と夕貴は、愛を交える特別な関係にあるのだと。
『参波によりますと、あと三十分ほどで萩原家のおうちに到着するそうです。さきほど高速を降りて、いまは街の中央をまっすぐ伸びる幹線道路を走っているところですね。右手には大型のレンタルビデオショップが、左手にはファミリーレストランが見えます』
菖蒲は現在地を詳しく話した。
ダンタリオンはこの街の地理を完璧に把握しているわけではない。だが菖蒲の説明はあまりに丁寧すぎるもの。おかげで居場所は容易に特定できた。
なにより菖蒲の説明にあった”幹線道路”沿いに、このホームセンターは建っている。大型のレンタルビデオショップも、ファミリーレストランも、すぐ近くにある。
つまりダンタリオンがその気になれば、そう時間をかけず高臥菖蒲の身柄を抑えることができるのだ。
人間を屈服させる方法とは、いつの世も単純にして明快なものである。その者が抱える大切なモノを奪ってやればいい。それだけで人は立てなくなる。この場合、夕貴にとってのアキレス腱は、間違いなく『高臥菖蒲』だろう。
ダンタリオンは、夕貴を傀儡にするために、菖蒲という操り糸を手に入れることに決めた。
ただひとつだけ懸念があった。
それは――罠の可能性。
疑いを持たずにはいられないほど、菖蒲の説明は詳細に過ぎるものだった。これでは自分の居場所を特定してください、と言っているようなものだ。
ダンタリオンの真の恐ろしさは、その戦闘能力ではなく、ナベリウスをして『用心深い』と言わしめた狡猾な頭脳にある。これまで彼は、たくさんの人間を弄び、壊してきた。人間というおもちゃのことは、誰よりも深く知っている。
だから声を聴くだけで、ダンタリオンにはその人間の心理が手に取るように分かる。
絶えず、通話口から漏れ聞こえてくる少女の声に、耳を傾ける。
果たして、これは策を弄している者の声なのか?
答えは――否だ。
高臥菖蒲の心に、やましい感情は微塵も存在していない。それは《ソロモン72柱》の名に懸けて、断言できる。
自分の居場所を恋人に伝えることに、どれだけの意味があるのかは分からない。しかしダンタリオンは、愛が理屈の通じぬものであると知っていた。要するに、こういうことは深く考えるだけ無駄なのだ。
まあ適当に理由づけするなら、自分と相手の距離を確かめることで、物理的ではない精神的な繋がりを確認したい――といったところだろうか。
さあ、もう”狩り”に必要な情報はすべて得た。
『ところで夕貴様はいま、何をなさっているのですか? もう間もなく菖蒲は――』
ダンタリオンは電話を切り、いらなくなった携帯を握りつぶした。そして少年に向き直り、
「崇高な僕から、偉大なる血を引く夕貴様に、一つだけ宣言しておきたいのですが――」
「やめろ……」
夕貴はがくがくと震える足で立ち上がる。さすが《悪魔》の血を引くだけあって回復力には目を見張るものがある、とダンタリオンは密かに感心した。
「あいつにだけは……」
「貴方の」
次の瞬間、二人の声が重なった。
「菖蒲にだけは、絶対に手を出すな――!」
「いまから貴方の大切な者を、奪って差し上げましょう」
自分の大切な人を護ろうとする声と、それを奪おうとする悪魔の囁きが、交錯する。
ダンタリオンは弾かれたように駆け出した。途中、店内にあった長いアルミパイプを手に取る。足の向かう先は、決まっている。幹線道路をまっすぐ走る、黒塗りの高級車だ。幸い、いまは深夜。大雨が降っていることもあり、交通量はほとんどない。一般的な自家用車ならまだしも、外国製の車ならばすぐに見つかるだろう。
高臥菖蒲という少女の身柄を確保し、夕貴の心を屈服させる――それがダンタリオンの目的である。
罠の可能性は万にひとつもない。
ただの小娘が、歴戦の大悪魔を欺けるわけがないのだから。
「待て、ダンタリオン!」
夕貴の怒声など意に介さず、ダンタリオンは姿を消した。
あとに残ったのは、少年の悲痛な叫びだけだった。
****
「待て、ダンタリオン!」
ひどく掠れた声が、荒れ果てた店内にこだまする。
あれだけ執拗に俺たちを追っていたダンタリオンは、ここにきてあっさりと標的を変えた。
俺には電話越しの菖蒲が何を言っていたのかほとんど聞き取れなかったが――それでもダンタリオンが菖蒲に狙いを定めたことだけは理解できていた。
菖蒲はいま、車に乗って萩原邸に帰宅している。それだけは何とか聞こえた。でも彼女を乗せた車がどこをどう走っているのかはまるで見当がつかない。
けれど、ダンタリオンは迷いなく走り出した――きっと電話で菖蒲が口にした情報を元に、彼女の居場所を特定したのだろう。
「ちくしょう! なんでこんなことになるんだよ!」
菖蒲には何の罪もないのに。
あの子だけは危険に晒したくなかったのに。
一本の電話が、明暗を分けた。
ただ偶然、あいつが俺に電話をかけてきただけで、事態は思わぬ方向に進んだ。
タイミングが悪かったとか、運がなかったとか、そういう言い訳はしたくない。
全部、俺のせいだ。
やっぱり俺みたいな半端者には、誰かを護ることなどできないのか?
「……いや」
それは違う。
後悔するのはまだ早い。
俺には前に走るための足と、大切なものを守るための腕がある。
少しでも戦える力が残っているのなら、最後まで足掻いて見せろよ、萩原夕貴……!
まずは大きく深呼吸し、頭を落ち着かせる。
俺が覚悟を決めるのと、美影がよろめきながら立ち上がるのは同時だった。
「……夕貴」
彼女もかなり疲労しているみたいだが、その瞳には炎のような闘志が燃えている。
「やられっぱなしじゃ気が済まない。あいつ、絶対ぶち殺す」
「ヘンなところで気が合うな。俺もまったく同意見だ」
こんなときなのに、俺たちは顔を見合わせて笑った。
「いけるか、美影」
「余裕」
揃いも揃って疲労している俺たちにも、絶対に譲れないものがある。
俺と美影は傷ついた体を庇いあうようにしながら、暴走するダンタリオンのあとを追った。
****
雨が降りしきる夜の街を、ダンタリオンは疾走していた。その手には、ホームセンターから持ってきた長さ一メートルほどのアルミパイプが握られている。
屋根から屋根に飛び移りながら、幹線道路を注視し続ける。もし少女が電話で言っていたことが正しいなら、もう間もなく黒塗りの高級車が彼の前に現れるはずだった。
もはや罠だとは疑っていない。夕貴の反応と菖蒲の口調からは、腹のうちで隠し事をしている者特有の白々しさが感じられなかった。人間の嘘を見抜くことに関しては、ダンタリオンの右に出る者はいない。
街には生き物の気配がなかった。ここ最近、立て続けに起きた事件を警戒して、住人は早くに眠りについているのだろう。深夜を回っているからか、道路を走る自動車も皆無。これで雨が降っていなければ、耳鳴りがするほど静かだったに違いない。
闇夜を切り裂くヘッドライトが、遠目にうかがえた。
一台の車が――黒塗りの高級車が、貸切となった道路を悠々と走行している。
建物の屋根に立ち、ダンタリオンは”標的”を観察した。運転席に男が一人と、後部座席に少女が――見えない。暗闇と、雨と、そして窓に張られたスモークフィルムが視認の邪魔をしていた。
ダンタリオンは不気味に唇を歪めてから、獣のように駆け出した。時速六十キロ近くで走っている車との距離が、みるみるうちに縮まっていく。
やがて車は、幹線道路から外れて片側三車線もある大きな橋に進路を向けた。名を深往橋(みおうばし)。全長五百メートルを超えるアーチ橋で、下には川が流れている。
車が橋の中腹に差し掛かったときにはもう、ダンタリオンは攻撃態勢に入っていた。足場としていたアーチの上から飛び降りる。数十メートルほどの高さ。彼は落下しながら大きく手を振りかぶり、槍を投げる要領でアルミパイプを投擲した。
命中。
凄まじい力で投げつけられたアルミパイプは、車のボンネットに突き刺さった。聞きなれない金属の悲鳴とともに、エンジンが破壊される。
驚いた運転手は反射的にブレーキを踏み、ハンドルを切った。道路が濡れていたこともあり、車体はくるくるとスピンしながら走行し、アーチの根本にぶつかってようやく止まる。
着地したダンタリオンは、無残に変わり果てた車に歩み寄った。路面とタイヤが激しく摩擦したから、ゴムの焼けたような臭いがする。アスファルトからはわずかに白煙が立ち上っていたが、それは間もなく雨によってかき消された。
「……ふむ」
己の勝利を疑っていたわけではないが、ここまで呆気ないと逆に拍子抜けしてしまう。
ダンタリオンが黒塗りの高級車に近づくと、ツンと鼻を突く火薬の臭いが強くなった。よほど激しくタイヤが摩擦したのだろうか?
いや、違う。
かすかな違和感を覚えて、ダンタリオンは足を止めた。
いま自分の目の前にあるのは、外装にも内装にもしっかりと金を使っている車だ。もちろんタイヤも高級品で、そう簡単にすり減るようなものではない。しかも路面には大量の水が溜まっているから、摩擦など微々たるものだ。
ならば、この火薬の臭いは……待て、火薬だと?
頭の片隅で浮かび上がる疑問に答えをつけながら運転席を覗いたダンタリオンは――そこに誰も座っていないことに気付いた。それだけではない。運転席側のドアがわずかに開いている。ほとんど直感で、ダンタリオンは後ろに向けて跳んでいた。それは正解だった。
後部座席には少女の代わりに、小型の爆弾が設置されていた。
ダンタリオンが飛び退くのと、車が爆発するのは、前者がほんの数瞬、早かった。まばゆい閃光がほとばしり、けたたましい轟音が響きわたる。爆薬はガソリンに引火し、さらに大きな火炎を生み出す。細かな破片が飛び散り、火をまとったタイヤが転がり、車体はごうごうと炎上した。
渦を巻いて吹き荒れる爆風が、ダンタリオンの身体を押し流す。彼は空中で体勢を整えた。
「……まさか」
表面上は冷静だが、その実、ダンタリオンの脳髄にはネガティブな思考が濁流となって押し寄せていた。
自分が追っていた車には、高臥菖蒲ではなく爆弾が搭載されていた――これはどう考えても”罠”だ。
しかし、そうだとすると矛盾が生まれる。
仮にこれが罠なら、夕貴は菖蒲から電話がかかってくることをあらかじめ知っていなくてはならない。だが携帯電話に着信があったとき、夕貴は心から焦り、怒っていた。そこに演技がなかったことはダンタリオンも確信している。
ならば高臥菖蒲の側が、夕貴に黙って独断で”罠”を仕掛けていた?
……いや、これもありえない。
菖蒲の声や口調からは、策を弄する者が放つ特有の”気配”が感じられなかった。専門の訓練を積んだ人間ならあるいはダンタリオンを騙しおおせるかもしれないが、十代の小娘には荷が重いだろう。
極めつけは、やはり車に爆弾が設置されていたことか。
ここ日本は治安のいい国だ。重火器や爆薬は一般には出回っていない。もちろん金とコネがあれば手に入れることはできるが、それでも現物を用意するのは時間がかかる。これほど用意周到な”罠”を仕掛けるためには、初めからダンタリオンの行動を読んでいないと不可能。
「……ふん」
まるで”未来を予知されている”かのような錯覚に囚われ、ダンタリオンは忌々しく鼻を鳴らした。
そして、それは錯覚ではなく、真実。
ダンタリオンの背後に、音もなく忍び寄る影があった。
深く思考に没頭していたダンタリオンは、それに気付くのが一瞬遅れた。索敵を怠っていたわけではない。ただダンタリオンの知覚をうまく潜り抜けるほどの腕前を、相手が持っていただけの話。
背中に灼熱が走る。なにか鋭い刃物のようなもので肉を切り裂かれた。あと一秒でも避けるのが遅ければ、骨まで断たれていたに違いない。
「……ソロモンの大悪魔ですか。二十年前を思い出しますね。あのときは私も尻の青い若造でした」
冷静な声がした。
ダンタリオンが片膝をつきながら面を上げると、そこには黒いスーツを着た男が立っていた。オールバックの黒髪、銀縁の眼鏡、右目のあたりには大きな切り傷が入っている。男の手には、一振りの刀が握られていた。日本刀にしては刃渡りが短く、厚みもない。白木でこしらえたそれは、『仕込み杖』と呼ばれる暗器の一種。
燃え上がる車を背に、参波清彦が立っていた。
この”罠”の功労者は、間違いなく高臥菖蒲である。
彼女は『未来予知』により夕貴の危機を知ると、すぐさま清彦に事情を説明し、協力を求めた。清彦はこれを快諾。暗器術を用いる《参波一門》の人間にとって、”罠”はお手のものだからだ。
ここで特筆すべきは、夕貴の携帯にダンタリオンが出ることを視ていながらも電話をかけた、菖蒲の愛の強さ。
そして驚嘆すべきは、人間の心理を知り尽くしたダンタリオンを見事欺いた、菖蒲の演技力。
ただの小娘が、歴戦の大悪魔を罠にかけることができたのは、この演技力に寄るところが大きい。
ダンタリオンは、自分を騙しおおせるとしたらそれは専門の訓練を積んだ人間だけだ、と自己分析していた。
しかし残念ながら、ただの小娘に過ぎないはずの菖蒲は、その専門の訓練をしっかり積んだ人間だった。
当然だろう。
菖蒲は、女優なのだ。
演技を専門とする、人間なのだ。
彼女がここまで有名になったのは、なにも美貌や家柄だけじゃない。菖蒲をよく知るファンや、業界の人間は、その卓越した演技力も高く評価していた。
だがいくら菖蒲の演技力が優れているからといっても、それだけでダンタリオンを欺けるわけではない。
携帯電話による通話。つまり判断材料が”声”しかなかったことも、菖蒲に味方していた。
もし直に会っていたら、菖蒲の手足の震えを見て、ダンタリオンは演技を見抜いていただろう。
「我を謀ったのか、人間ごときが……」
ダンタリオンが底冷えのする声で言った。人間の罠にかかったという事実が、彼から余裕と遊び心を奪っていた。
ゆらりと立ち上がったダンタリオンは、上半身を脱力させたまま俯いている。濡れそぼった金髪が、彼の表情を隠している。糸目がわずかに開き、膨大な悪意を孕んだ眼球が露出した。人の域を逸脱した怪物の発する殺気が、夜の闇をぐにゃぐにゃと歪ませる。天が落下し、大地が揺れているのではと錯覚するほどの武威。まるで世界が怯えているかのようだった。否、確かに世界は怯えていた。
「……まさか、これほどとは」
清彦の額に脂汗が滲んだ。さすがの清彦も、単身で《悪魔》を倒せるだけの腕は持っていない。ダンタリオンは身体から血を流しながら、ゆっくりと清彦に歩み寄っていく。
「虫けらに等しい分際でよくもやってくれる。身の程を弁えろよ劣等。貴様、誰に向かって牙を剥いている」
黄金の髪、白蝋の肌、血に染まった衣服。そこには《ソロモン72柱》の名に恥じない、本物の怪物が立っていた。
「くっ……」
清彦はすばやく投げナイフを投擲した。ノーモーションで放たれたそれは、常人であれば避けるどころか認識することもできない。だがナイフは、ダンタリオンに当たる寸前、空中で停止した。ナイフだけではない。ダンタリオンの周囲に降る雨粒までもが、空中で止まっている。
信じられない光景だった。
ダンタリオンを中心とした半径だけ、時間の流れが狂っている。
不気味で、凶悪で、禍々しくて、物理法則すらも書き換える強大なチカラの発露。時を停止させるという理こそが《ダンタリオン》の本性。
清彦はじりじりと後退しながら、なにか周囲に使えるものはないか探していた。手持ちの武器ではあまりに心許ない。いや、もし強力な武器が転がっていたとしても、全力を出したダンタリオンに敵う人間はいまい。だから。
「お前こそ身の程を弁えろよダンタリオン。わたしの前だ、頭が高いぞ」
彼を倒す役目を担うのは人間ではなく、おなじソロモンの大悪魔だった。
この大雨を物ともせず燃え続けていた車が、一瞬で鎮火した。空から降る雨が、水滴からヒョウに変わった。濡れていた路面が、ほんの一瞬で凍った。冷気が、白い霧となって、渦を巻く。
「あの娘が――ソロモンが口にした言葉を忘れた? わたしたちの序列は絶対にして不動、ってね。もう一度だけ言うわよ。身の程を弁えなさい、ダンタリオン」
それは身も凍るほど美しい、女性の声。
気付いた頃にはもう、彼らがいる橋は、大きな氷細工と成り果てていた。どこをどう見渡しても『氷』しか見えない。ダンタリオンの足元から、コンクリートを突き破るようにして氷の槍が出現した。それも一本ではなく、二本、三本、四本、五本――否、数えきれない。
「――む」
憤怒に染まっていたダンタリオンの顔に、ここで初めて警戒の色が浮かぶ。
彼女が舞台に上るのはありえないはずだった。至近距離で爆炎に曝された代償は決して安くない。事実、彼女は満足に動けるような身体ではないのに。
そこまでして。
そこまでして――おまえはあの少年を護ろうとするのか?
「邪魔をするか、貴様!」
やはり最後にはおまえが立ちはだかるのか。
「バアルの下僕に過ぎぬ貴様が、人間と混じった出来損ないを護るために身を削るのか!」
どれだけ傷つこうとも、おまえは立ち上がるというのか。
ダンタリオンが右手を前に伸ばす。時が止まる。彼の周囲だけ時間の流れが狂い、夜をまたたく間に凍らせた氷が、宙で停止する。
「……やっぱりあんたはバカよ」
呆れたように、それでいてどこか悲しげに、彼女は告げる。
「言ったでしょ? わたしはもうバアルの血なんてどうでもいいって」
絶対零度の氷が凶器となって顕現するが、それは停滞する時の流れに阻まれた。
停止の世界と、凍結の世界――まさしく超常としか言いようのない二つの理がぶつかり合う。
「わたしは、夕貴を愛してる。ただそれだけよ」
「戯言を……!」
彼女の想いを、ダンタリオンは否定する。
愛だと? ふざけるな。それは人間が生み出した都合のいい夢ではないか。誰かが誰かを愛することに何の意味がある? それで何ができる?
そんな得体の知れないものは断じて認められない。なぜなら。
「貴様の主が逝ったのも、その愛とやらのせいではないのか!」
「……そうね。そうかもしれない。きっとバアルは、小百合を愛さなければ死ぬことはなかったから」
「ならば何故だ! どうして貴様は、《バアル》を失っていながらも愛などという泡沫の夢に縋るのだ!」
極大の衝撃が奔った。それぞれ互いに譲れぬものがあるから、かつての同胞はここに衝突する。
「たしかにバアルは……ううん、駿貴は誰かを愛したから死んでしまった。これはわたしが未来永劫に渡って背負うべき罪。小百合と交わした約束も護ることができなかったから。でもね、ダンタリオン」
拮抗が、崩れ始める。
「駿貴が小百合を愛したから、彼らのあいだに愛があったから――わたしは夕貴に出会うことができた」
彼女は言うのだ。愛する者を奪い去ったのが”愛”なら、愛しい少年とめぐり合わせてくれたのもまた”愛”だと。その矛盾がダンタリオンには信じられなかったし、その想いが彼女には大切だった。
いや、そもそもダンタリオン自身、理解していたはずではなかったのか。愛とは理屈の通じぬものであると。
「まったく、よくもまあわたしの可愛い夕貴ちゃんを虐めてくれたものね。あんたの力なら一思いに決着をつけることもできたでしょうに。その肝心なところで遊ぶのがあんたの悪い癖よ」
「認めるものか」
悪い癖。ああ、確かに事実としてはあった。明確に思い出せぬほど昔、自分はあの男からその悪癖について警告されたことがあった。
太古の時代から気に入らなかった。
誰よりも高く、誰よりも強く、誰よりも賢く、そのくせ誰よりもお節介で、誰よりも仲間想いだった、あの男が。
ソロモンに封じられる瞬間もそうだ。あの男なら、ソロモンの法術を破ることもできたはずなのに、なぜかそうしなかった。おそらくあの男は、ソロモンの身を案じていたのだろう。いくら王と呼ばれても、まだ幼く頼りなかった、あの少女のことを。しとどに涙を流しながらも自分たちを封じた、あの少女のことを。
気に入らない。あの男に警告されたとおりの死に様など許容できるわけがない。死してもなおこの身を縛ろうとするな、バアル!
「認められるものか――」
「たしか《バアル》からも忠告されてたでしょう?」
停止する世界と、凍結する世界。両者のあいだに張り詰めていた最後の糸が、ここに断ち切られる。
「”いつかその悪癖がおまえ自身を滅ぼすぞ”ってね」
「認めてなどなるものかぁぁぁぁぁっ!」
飛来する氷は、しかしダンタリオンを傷つけることはできない。彼に近づこうとするものは例外なく時を止められてしまうから。
だが互角に思えた場の膠着も、長くは続かなかった。
「ぐっ――!」
それは実力の差ではない。
ダンタリオンは夕貴の攻撃から身を護るために、彼本来の異能を使ってしまった。そのときの消耗さえなければ、きっとこの氷を完全に防ぐこともできたはずなのに。
――ゆえに、これは慢心が生んだ結果である。
――全力で愛する者を護ろうとする少年と、ただ戯れでそれを奪おうとした男。
――黄金の大悪魔は、自身の圧倒的なチカラに目が眩み、目前にあった勝利を逃したのだ。
やがてダンタリオンの理は崩れ去り、時の流れは正常に戻った。もう氷の侵攻を食い止める盾はない。
彼は超人的な身のこなしで飛来する氷槍をかわした。だが消耗したダンタリオンには、迫りくる氷をすべて避けるのは無理だった。血に濡れていた神父服が、さらに赤く染まっていく。
しばらくして攻撃が止む。
ダンタリオンは険しい顔つきをしていた。それは何かに怯えているようにも見える。いまの彼は、威厳や傲慢さを失っていた。
こつ、こつ、と静かな足音が響く。夜気と雨露に彩られた闇のなかから、ひとりの女性が姿を現した。
見れば見るほど深みに嵌る、完成された美貌。腰にまで届く豪奢な銀髪と、優しい月明かりによく似た銀眼。
ナベリウスの顔色は悪かった。病人のように青白く、美しさよりは儚さのほうが勝っている。雨に濡れた衣服のところどころに滲んだ赤い血が、彼女が負っている傷の度合いを物語っているように思えた。
それでもナベリウスは、どこか悪戯っ子のような笑みを浮かべながら、ぷらぷらと手を振った。
「はあい、ダンタリオン。元気にしてた?」
****
大きな爆発音を頼りにダンタリオンを追ってきた俺たちが見たものは、巨大な氷細工と成り果てた深往橋だった。
「……なに、これ?」
ぱちくりとまたたきをして美影が言った。まあ驚くのも無理はない。いくら今夜が冷え込んでいるからといっても、こんな大規模な凍結現象は起こるわけないしな。
でも呆ける美影とは対照的に、俺は唇が緩むのを抑えきれずにいた。
もう心配はない。
この氷を見たときから、俺の心は安堵に満ちている。
「行くぞ、美影」
「待って」
走り出そうとしたら、ぐいっと服を引っ張られた。
「なんだよ。いまは急がないとだめだろ」
「よく見て。いまは六月。水が自然に凍るわけない。これは間違いなく何者かの仕業。きっとヘンタイ男に続いて、新手の敵が……」
「……ぷっ、はははは!」
美影があまりに真面目な顔をして解説するものだから、思わず笑ってしまった。
案の定、彼女はむっと眉を寄せた。
「夕貴。これは真面目な話。いまは笑ってる場合じゃない」
「大丈夫。俺には心当たりがあるんだ」
「……?」
「いいからついてこい。きっと大丈夫だから」
深往橋の中腹では、思ったとおりの状況が展開していた。
満身創痍のダンタリオンと、悠然とたたずむナベリウス。橋の至るところが凍結していて、コンクリートには霜が張り、冷気が白い霧となって逆巻いている。すぐ近くにはボロボロになった車が転がっていた。たぶん、さっき聞こえてきた爆発音は、この車からだろう。
まず俺が驚いたのは、ここに参波さんがいることと、ここに菖蒲がいないことだった。駆けつけたばかりの俺には何がどうなってるのかさっぱり分からない。
参波さんに事情を伺いたいところだったが、それよりも先に、ナベリウスが俺たちに気付いた。
「あれ、夕貴も来たんだ?」
殺し合いをしている最中とは思えない、いつもどおりの声。
どう切り返そうか迷ったが、なぜか妙に気恥ずかしくなった俺は、そっぽを向きながら悪態をついた。それは例えるなら、授業参観にお母さんが来てくれたときに似ているかもしれない。
「……遅いんだよ、バカ」
肝心なときにはいつも母親か姉のように俺を助けてくれる同居人。初めて会った日からは想像もできないが、いまはこいつがいないとなんとなく落ち着かないのだ。
「そうね。たしかに夕貴の騎士……いや、配下……ううん、部下……でもなくて子分……そうそう、奴隷にしては駆けつけるのが遅かったかも」
「なんで騎士から始まって奴隷に辿りつくんだよ……だいたいおまえは」
「でもね」
ナベリウスは雨に濡れた前髪をかきあげてから、可愛らしくウインクをした。
「本命っていうのは遅れてやってくるものなのよ、ご主人様?」
非常に不本意だが、いまだけはナベリウスのことを女神と称してやってもいいと思った。俺の背後では美影が「むー」とか唸りながらナベリウスのことを警戒しているが、それは置いておこう。
「……《バアル》の血統か。なるほど確かに、貴様はあの男とよく似ている」
美影とバカをやる俺をじっと観察していたダンタリオンが、重々しい口を開いた。
それに俺が応えようとするよりも早く、
「黙りなさい」
ナベリウスが一蹴していた。
そこらの空中や地面から『氷』が無数に出現し、ダンタリオンに襲い掛かった。ナベリウスは一歩も動いていないのに、神父服は刻一刻と血に染まっていく。
ダンタリオンは抗弁しない。その余裕がない。彼は命からがら、迫りくる氷をかわすことしかできない。それは寒気がするほど一方的な光景だった。
というよりも、すでにダンタリオンは力を使い果たしているのだろう。やつの全身から放たれていた禍々しいオーラが消えている。
「遅いわ」
圧倒的な物量に圧されたダンタリオンが見せた一瞬の、それでいて決定的な隙を見逃さず、ナベリウスは一本の氷槍を放った。針の隙間を縫うようなコントロール。それはダンタリオンの腹部を貫いただけに留まらず、彼の大柄な体を吹き飛ばし、アーチの支柱に串刺した。
氷の槍が、ダンタリオンをはりつけにする。
「ぐぅっ……!」
「動きが鈍ったんじゃない? いや、違うかな。やけに弱ってるみたいだし。さしずめ夕貴に追い詰められて、チカラを浪費したってところでしょうね」
ため息混じりにかぶりを振るナベリウスと、
「……くっくく」
俯いたまま、串刺しにされたまま、喉を震わすダンタリオン。
「なにが可笑しいの? もしかして頭がおかしくなった?」
「いえいえ、僕は正気ですよ。ただ、貴女の手によって傷つけられた痛みの、なんと愛おしいことか」
「……あんたって、女に追い詰められたほうが興奮するタイプだっけ?」
「どうでしょうね。ただ貴女から与えられるものなら、それが苦痛の類であったとしても、僕は喜んで受け入れましょう」
「そうなんだ。でも残念。わたしは夕貴のものなの。女を口説きたいのなら他を当たりなさい」
至極真面目な顔で『わたしは夕貴のもの』とか言わないでほしいのだが。
さすがに照れる。
つーか、べつにおまえは『もの』じゃねえよ。
「わたしから与えられるものなら喜んで受け入れる――そう言ったわよね?」
「はい、確かに」
「じゃあ受け入れなさい。あなた自身の死と、破滅を」
「……己が同胞を殺しますか、ナベリウス」
「愚問よ。ここで朽ち果てなさい、ダンタリオン」
この二人のあいだにどんな因縁があったのかは分からない。それでも俺には、ナベリウスとダンタリオンの関係が、敵ではなく、たしかな同胞に思えた。
ありとあらゆる箇所から出現し、飛来し、落下する氷。それは俺がホームセンターで行った作戦の、何倍、あるいは何十倍もの威力と範囲を誇っていた。
はりつけにされていたダンタリオンには、それを回避することができなかった。少なくとも俺にはそう見えた。
深往橋を強く揺さぶる、衝撃。
凄まじい勢いで砕けた氷が、細かな破片となってこちらに降り注いでくる。俺と美影は腕で顔を守り、目を細めた。
「……ふん。相変わらず逃げ足だけは一人前ね」
つまらなさそうにナベリウスは言った。
ようやく場が落ち着きを取り戻し、俺が周囲の状況を観察するだけの余裕を取り戻したときにはもう、ダンタリオンの姿は消えていた。
「疲れてるところ悪いけど、夕貴はその子と一緒に早く逃げたほうがいいわ。これだけ派手にやっちゃったから、警察とか駆けつけてくるかもだし」
「おまえはどうするんだ?」
「決まってるでしょ?」
ナベリウスは、おもむろに俺を抱きしめた。
慈しむように、優しく頭を撫でられる。
俺は雨に濡れて、埃にまみれて、汗をかいて、血に染まっているのに。
それでも彼女は服が汚れるのを気にせず、抱きしめてくれた。
「わたしの夕貴に手を出した不届き者を、このまま放っておけるわけないじゃない」
「……俺はべつにおまえのじゃねえよ」
「そうね。夕貴は菖蒲ラブだもんね」
身体を離す。
ナベリウスはどこか寂しげな表情を浮かべていた。
てのひらに水とは違うべたつきを感じた俺は、手元に視線を落とした。
「……え」
さっきまでナベリウスの背中に回っていた手には――べっとりと赤い血が付着していた。
慌ててナベリウスに視線を移す。よく見ると、彼女の着ている服の一部に不自然な赤色が滲んでいる。明らかに模様や刺繍によるデザインじゃない。
それに暗いせいで初めは分からなかったけど、ナベリウスの顔色はすこし悪かった。いつもは健康的な白さなのに、いまは病人を思わせる不健康な青白さだ。
「傷口が開いちゃったみたいね」
「おまえ、大丈夫なのか? どこか怪我してるのか?」
「慌てない慌てない。わたしは大丈夫だから。ところで夕貴は、あの高層ビルの爆発事件は知ってる?」
「もちろん知ってるけど……」
「わたしとダンタリオンは、あれに巻き込まれたのよ。これはそのときの傷。このナベリウスちゃんにとって爆弾なんか屁でもないんだけど、さすがに設置場所が悪すぎた。まさか給水塔の真下――わたしのすぐ足元に仕掛けられてるなんてね。おかげでダンタリオンよりも深いダメージを食らっちゃって、回復に時間がかかっちゃった」
だから――ナベリウスは駆けつけるのが遅れたのだろう。
まだ万全じゃないのに、ちょっと動いただけで傷口が開くのに、いまにも倒れそうな顔をしているのに――それでもこいつは無理を通して、俺を護るために駆けつけてくれた。
「……ありがとう。おまえがいてくれて、よかった」
素直な感謝が口をついた。
ナベリウスはきょとんとした顔でしばらく俺を見つめてから、照れくさそうに笑った。
「……うん。わたしも間に合ってよかった」
数十秒前までの剣呑とした空気とは程遠い、温かな感情が胸に広がっていく。まるで母さんに抱きしめられたときのような、うっすらと眠気すら覚える安心感。
ああ、この感覚、なんだか懐かしいな――
「こんばんは、夕貴くん」
そのとき後ろから声をかけられた。
振り向くと、参波さんがこちらに歩み寄ってくるところだった。
「やはりお嬢様の予知したとおりになりましたか。瑞穂様はお嬢様がチカラに振り回されていることを懸念していらっしゃいましたが、夕貴くんと出会ってからはお嬢様も安定してきたように思いますね」
後半はほとんど独り言のつもりだったのか、声量も小さかった。
「参波さんも無事でよかった。菖蒲は大丈夫なのか?」
「お嬢様は安全なところいます。詳しい事情は後ほど説明させていただきますので」
「分かった。……あれ、そういえば美影は?」
「ああ、あの子なら、そこにいるわよ」
ナベリウスが指差した先には、スクラップになった車の陰に隠れて警戒心マックスの目でこちらを見つめる美影がいた。どうやら美影は、突如として現れ、絶大な戦闘力でダンタリオンを退けたナベリウスのことを敵かもしれないと疑ってるらしい。
俺は苦笑してから、手を振って、こっちに来いというジェスチャーをした。
「大丈夫だって。危険はないから」
「むー」
どれだけ説得しても、美影の防衛本能は揺るがなかった。まあ気持ちはわかるけど。
「あの娘は……まさか《壱識》の?」
参波さんが言った。
「……だれ?」
美影のなかで知的好奇心が防衛本能をわずかに上回ったようだ。相変わらず物陰に隠れたままだったが、その顔には警戒心ではなく参波さんへの興味が溢れている。
「名乗り遅れましたね。私は参波清彦。以後、お見知りおきを」
簡潔な自己紹介。でも美影にはそれでじゅうぶん通じるようだった。
「……《参波》の。私は」
「壱識千鳥の娘でしょう」
「母親を知ってるの?」
「古い馴染みです。君は千鳥の若いころにそっくりですね。すぐに分かりました」
「私、べつに母親と似てない」
「なるほど。その物言い、やはり彼女を彷彿とさせますよ」
「むー」
過去を懐かしむように語る参波さんとは対照的に、美影は不満げな顔をしていた。
「……菖蒲に続き、また愉快な子を拾ってきたわね」
一連の流れを黙って見ていたナベリウスがため息をつく。
「拾うって……そんな捨て猫みたいに。美影とは今回、一時的に手を組んだだけだって。やましいことは何もしてないからな?」
「はいはい。詳しい話はまたあとで聞くから」
明らかに誤解したままのナベリウスは、颯爽と身をひるがえした。
「彼を追うのですか、あなたは」
意外なことに、踵を返したナベリウスを引き留めたのは、参波さんだった。
「ええ。追うわよ。だってわたしは悪魔だし。忠誠を誓ったご主人様を護るのは絶対だし。なにか文句ある?」
「文句などありません。私の障害にならないのであれば、あなたがどこで何をしようと構わない……ただ、いまのあなたが言った台詞と似たようなものを、ずっと昔にも聞いたことがあるような気がします」
「……奇遇ね。わたしもいまのあなたが言った台詞と似たようなものを、ずっと昔に聞いたことがあるような気がするわ」
そういえば参波さんは、菖蒲の誘拐事件のとき、ナベリウスの同行に否定的だったな。託哉はあっさり許可されたのに。
もしかしてこの二人には、俺の知らない因縁があったりするのだろうか?
今度こそナベリウスは、俺たちに背中を向けた。
「じゃあね。その子に欲情して襲い掛かったりしちゃだめよ、夕貴ちゃん」
「だから俺をちゃん付けすんな――!」
反射的に叫んでしまったけど、俺の声が届くより先に、ナベリウスは姿を消してしまった。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに静まり返った橋の上で、俺は美影に振り向いた。
「あいつの言うことに従うのは癪だけど、まずは逃げよう」
実際問題、美影はともかく俺のほうは力を使い切ってしまっているから、ナベリウスのあとを追っても足手まといになるだけなのだ。
「夕貴、夕貴」
「なんだ?」
美影は、これだけは譲れない、とでも言いたげな力強い眼差しで、
「逃げぴこ」
「……は?」
「逃げるよりも、逃げぴこのほうがいい」
「…………」
最後の最後まで緊張感のない、俺と美影だった。
****
深往橋からしばらく離れた先にある路地裏に、ダンタリオンの姿があった。
冷たい雨が降り注ぐなか、全身から夥しい血を流し、足を引きずるようにして仄暗い通路を進んでいる。
「いやはや、美しい花には棘があるとはよく言ったものですねえ」
つぶやく声には力があった。
ダンタリオンは致命傷とさえ言える傷を総身に受けたが、しかしそれは彼に死や破滅を与えるほどのものではなかった。
《悪魔》という種族は、身体能力だけでなく生命力にも優れている。
心臓――正式名称は『核』――から溢れ出すDマイクロ波は骨、肉、血だけでなく、神経や細胞にまで影響を及ぼし、さまざまな恩恵をもたらす。
Dマイクロ波を傷口に集中させれば、戦闘能力は大幅にダウンするものの、その分、治癒速度は劇的に上昇する。今回受けた傷も、数日と経たない間に癒えることだろう。
「くっくっく……」
そうだ、まだ終わりではない。
萩原夕貴には失望と同時に、一抹の希望も見出した。いまは弱くとも、いずれきっと少年は誰にも届かない高みに上るだろう。それが”血筋”というものだ。やはりどんな手を使ってでも、あの少年を手中に収めなければならない。
そのためにはナベリウスが邪魔だ。彼女は強すぎる。あまりにも美しい反面、あまりにも手に負えない。しかも戦闘における相性が悪すぎる。真っ向勝負は、自殺行為と見ていい。
であれば、手はひとつ。
ナベリウスの唯一の弱点は――彼女が忠誠を誓っている少年だ。萩原夕貴の身柄を押さえてしまえば、ナベリウスは恐れるに足りない。単純ではあるが、最も確実な方法。
あの気高くも美しい彼女が、自分の足元にひざまずく光景を想像し、ダンタリオンは唇を歪めた。
「――よぉ、久しぶりだな大将」
どこか聞き覚えのある声がした。
ダンタリオンが振り向くよりもずっと早く、銀光が尾を引き、彼の左胸に突き刺さっていた。
「…………」
事態が呑み込めず、ダンタリオンは呆然とした顔で、自分の胸に刺さったナイフと、それを握る青年の顔を見つめていた。明るめに脱色した髪、左耳につけたピアス、精悍な顔立ち。全身の至るところに血の滲んだ包帯を巻いていること以外、その青年は、ダンタリオンの記憶にある姿のままだった。
夕貴は失念していたが、実は《静止歯車》を無効化する方法はもうひとつあった。
それは、奇襲。
要するに、異能を使われる前にトドメを刺してしまえばいい――それだけの簡単な話。
用心深いダンタリオンには、およそ奇襲や不意打ちは通用しない――はずだった。
しかし。
夕貴の小細工を防ぐためにチカラを浪費し、
菖蒲と清彦による予想外の”罠”に嵌められて混乱し、
ナベリウスとの交戦によりチカラを大幅に消耗し、
《絶対零度(アブソリュートゼロ)》よって大きな深手を負わせられた。
そうした物事の連続は、ダンタリオンの心理に小さな穴を作った。針の穴ほどの、常人では決して視ることも破ることもできない、本当に小さな穴が。
ゆえに本当の意味で玖凪託哉が突いたのは、左胸に収まった心臓ではなく、狡猾な大悪魔が垣間見せた心理の死角。
よってここは、人間ごときに不覚を取った大悪魔を非難するのではなく――ヒトの身でありながら大悪魔を上回った人間こそを賞賛すべきだろう。
「オレたちが初めて会ったときのことを憶えてるか?」
ダンタリオンの左胸を抉りながら、託哉は続ける。
「オレ、あのとき言ったよな」
あのとき。
ダンタリオンは過去を振り返る。大きな武家屋敷。障子。畳。掛け軸。死体。和室。たしかあのとき託哉は――
「決めた。オレの命に代えても、おまえだけは絶対にぶっ殺す」
一言一句違わず。
託哉はかつて口にした台詞を、もう一度だけダンタリオンに言い放った。
《悪魔》の絶対的な弱点は、ずばりDマイクロ波を生み出す心臓。Dマイクロ波の源泉を破壊されてしまえば、もう《悪魔》は超人的な身体能力を発揮することも、不可思議な異能を使うことも、そして――傷を癒すこともできなくなる。
託哉の一撃は、ダンタリオンの心臓を確実に刺し貫いていた。
「……ふ、く、くくく」
ナイフが引き抜かれると、ダンタリオンの体は崩れた。前のめりに倒れ、泥の溜まった水たまりに顔が浸かる。
「無様だな」
「ええ、まったく」
託哉の侮蔑を、ダンタリオンはあっさり受け入れた。
「まさか、この崇高な僕が人間ごときに敗れるとは――これが歌劇であったならば、きっと観客どもは竜頭蛇尾だと口を揃えて訴えるでしょう」
「意見の相違だな。オレは、ここに観客がいたなら、満場一致の大団円だと手を鳴らして喝采してると思うぜ」
ここぞとばかりに大口をたたく託哉を見て、ダンタリオンは楽しげに口端を吊り上げた。
負けを認めたわけではない。勝ちを謳うつもりもない。ただ、大悪魔と恐れ敬われた自分が、人間の手によって死に瀕している事実が、可笑しくて仕方なかった。
「じゃあな。そこでひとり、誰にも知られず死んじまえ」
あっけなく踵を返す託哉。
「おや。トドメは刺さないのですか?」
「もうすぐナベリウスさんがやってくるからな。あの人は嫌いじゃないが、家の事情でちょっと顔を合わせにくい。……ああ、それと、前から言おうと思ってたんだが」
一拍置いてから、彼は言った。
「オレはおまえのことが大嫌いなんだよ」
「くっくく、はははは……」
「あばよ、クソ神父。地獄でも一人で十字架切ってろ」
その言葉を最後に、玖凪託哉は姿を消した。
「はは、ははははは――」
なけなしの力を振り絞り、ダンタリオンはうつ伏せだった体を仰向けにする。
深い深遠にも似た曇天を見上げながら、彼は自問した。
いったい何がいけなかったのか――父の愛を踏みにじり、その娘を弄ぼうとしたこと? 一思いに決着をつけなかったこと? ナベリウスはしばらく戦えないはずだと高をくくったこと? 人間の”罠”を見破れなかったこと? 愛などという得体の知れないものを否定したこと? 自らの欲に負けて、ここぞというときに遊んでしまったこと?
それとも――あの男の忠告を聞かなかったこと?
ああなるほど、きっとそうなのだろう。あの男はいつだって正しかった。その正しさが疎ましく、そして羨ましくもあった。
思えば、きっとダンタリオンは、ただただ許せなかったのだ――自分のあずかり知らぬところであの男が死んでしまったという事実が。
おそらく、ダンタリオンが自身の悪癖を自覚しながらもそれを軽視していたのは、あれだけ周囲の者を惹きつけておきながらも勝手に逝ってしまったバアルの言葉に従うことを、無意識下で忌避していたから。
もしもダンタリオンがバアルの忠告に従って”悪癖”を改善していたら、少年はとうに彼の手中に落ちていたはず。そういう意味では何とも皮肉であり、運命的なものを感じるが――
「愚かなり――ダンタリオン」
雨をもたらす空を見上げて、彼はつぶやいた。
その自身を揶揄する声は、静かな雨音にまぎれて、消える。
この結末は、つまるところ盛者必衰の理を表したものであり――彼がいままで跳ね除けてきた因果が、めぐりにめぐって己の身に返ってきたのだ。
ゆえに、心に留めておかなければならない。
人知を超越した一柱の《悪魔》を討ったのは、彼が認めた同胞ではなく、か弱き人間が生み出したほんの小さな”刃物”に過ぎなかったということを。
ナベリウスが辿り着いたときにはもう、すべてが終わっていた。
「……無様ね、ダンタリオン」
「ええ。自分でもそう思いますよ、ナベリウス」
抑揚のある言葉とは裏腹に、もうダンタリオンの体からは生命力が枯渇しかけていた。
「……不思議なものね。あんたのことなんて大嫌いだったのに、いまわたしは寂しいと思ってる。悲しいと感じてる。これでまたソロモンの同胞が一人、無に還ってしまうから」
「いいえ、貴女に悲観する暇などありません。僕がそうであったように、いずれ他の同胞たちも《バアル》の血筋を求めて、この地に現れるでしょう。ゆえに、この身が滅んだとしても、それはほんの僅かな幕間に過ぎない」
「…………」
「果たして、貴女はあの少年を護りきれるのか――それを見届けることができないのは、いささか無念ですがね」
「護るわ。絶対に」
即答だった。
それだけ『萩原夕貴を護る』という誓いが、自分の心に刻まれているのだろう。彼女の声には欠片の迷いさえなかった。
「もう無駄話はいいでしょ。せめて最期ぐらいはわたしの手で送ってあげるから」
この路地裏の気温だけが急激に下がる。
「これはこれは――まさか貴女に介錯を頂けるとは。冥土の土産にしては華がありますねえ」
「うえっ、気持ち悪いこと言わないでよ。わたしはあんたと喋ってるだけで鳥肌が立ってるんだから」
「ひどい言い草だ。こう見えても僕は、昔から貴女のことを好いているというのに」
「知ってるわ。だからわたしはあんたのことが嫌いなのよ」
「ええ、知ってますよ」
「それも知ってる」
冷たく言い放つナベリウスの横顔には、何人にも侵せぬ強さとともに、氷のような儚さも内在しているように思えた。
しばし、言葉が途切れる。
勢いのなくなった静かな雨音は、どこか葬送曲に似ていた。
「……我はソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウス」
胸に手を当てて、彼女は己が真名を口にする。
ねえ、ダンタリオン――もしもあの日、あなたがバアルの言葉を素直に受け入れていたら、もっと違う結末もあったんじゃないかな。
「我はソロモン72柱が一柱にして、序列第七十一位の大悪魔ダンタリオン」
唇を歪めて、彼は己が真名を口にした。
それは今際の際とは思えない、まるで迫りくる”死”そのものすら楽しんでいるかのような、いかにも彼らしい態度。
だからこそ彼女は、冷厳とした顔つきのまま言葉を続ける。
「我らが王なるソロモンの使途として、敬愛する同胞として、今こそ汝に永遠(とわ)の眠りを与えよう」
静止歯車なんて呼ばれたあなたには、わたしの絶対零度は相応しくないかもしれないけど。
きっとあなたのことだから、最期のときまで気持ち悪いことを言って、わたしを困らせるんだろうけど。
それでも、これからはもうあなたと喧嘩もできないのだと思うと、やっぱり一抹の寂しさを覚えるから。
「受諾する。畏敬すべき王なるソロモンの使途として、汝の手により我が歯車を停止させよう」
これでまた、ソロモンの同胞が散ってしまう。
わたしを知る者が、バアルを知る者が、この世から消えてしまう。
「貴女になら、いいでしょう」
「……え?」
「敬愛する女性の手にかかって逝けるのです。男にしてみれば、これ以上の結末はない――と、きっとあの男なら、そんな言葉を口にしたでしょう」
「……あはは」
思わず乾いた笑いが漏れた。
「よりにもよって、あんたがそれを言う? 相変わらず気持ち悪いわね、ほんと」
わたしは、この男の、こういうところが気持ち悪いと思う。なんていうか、生理的に無理って感じ?
いくら言い寄られても、世界でたった一組の男女になっても、恋とか愛とか、そういうロマンチックなものは芽生えないんじゃないかな。
でも。
「でも――あんたのそういうところ、わりと嫌いじゃなかったなぁ」
無邪気な子供がはにかむように、ナベリウスは微笑んだ。
かつての同胞は、こうして最後の袂を分かつ。
黄金の大悪魔は、白銀の大悪魔の手によって、果てなき天へと還った。
ナベリウスは雨に打たれながら、鈍色の雲に覆われた空を仰いだ。
「……ばいばい、ダンタリオン。また地獄で会いましょ」
その言葉が届いたかどうかは分からない。
だがあれだけ勢いよく降っていた雨は、もう間もなく止もうとしていた。
****
ダンタリオンに関する一連の事件は、表沙汰になることなく闇に葬られた。
各社報道局に規制を敷き、警察の上層部に圧力をかけ、《青天宮》の失点を死に物狂いで挙げようとする公安を抑えるなど、さまざまな組織を上手く宥めることで、うまく全体のバランスを取った者がいた。
「武装した暴力団が公共施設に乗り込んだ件、大手商社のビジネスビルが爆破された件、浅ヶ丘と呼ばれる高級住宅街にある武家屋敷が爆破ならびに倒壊した件――他にもまだまだあるな」
不機嫌そうな若い女性の声が響く。
「幹線道路沿いのホームセンターに至っては、三週間にも渡る改修工事が必要だ。凍結した深往橋の一時的な封鎖、大破した自動車の撤去、局地的な交通規制とそれに伴う周辺店舗からのクレーム対応などもある。耳ざとい検察や行政のほうにも細かな根回しをした。まったく、金の無駄遣いだとは思わないか。まだ飢餓の国に募金したほうが建設的だろうよ。まあ【哘】のご老体が出張るのを抑えられただけでも僥倖か。地獄耳だからな、あのクソババアは」
そこは国内でも有数の高級ホテルだった。政財界の要人や、国外からの招待客も頻繁に利用するという性質上、常に物々しい警備が敷かれている。
天井には豪奢なシャンデリアがまばゆい明かりを放っており、足元には赤い毛並みの絨毯、他にも大理石などを初めとした高級石材が使われている。全体的に人工的な美しさを追求した造りになっているが、ところどころに置かれた観葉植物と、ロビーの中央に設けられた豪奢な屋内噴水が、ほどよい塩梅で自然の安らぎをもたらしていた。
ロビーラウンジにあるソファに、女性がひとり腰掛けている。
一族からは【如月】という姓を、両親からは『紫苑(しおん)』という名を与えられた彼女は、ホテルの高価な調度類に見劣りしない美女だった。やや目つきが悪いことを除けば、非の打ち所がない顔立ちである。年齢は二十代後半。すらりとした肢体をパンツルックのスーツに包み、青みがかった長い黒髪はうなじのあたりで一房に結わえられている。
まるでやり手のキャリアウーマンのような容姿の紫苑は、足を組んでふんぞり返り、すでに何本目かも分からないタバコを美味そうに吸っている。
「それにしても今回の一件は、金を湯水のように使ったことを除けば、なかなか面白いケースだった。《青天宮》の連中があれほど慌てたのはいつ以来かな。小耳に挟んだところによると、おまえんとこのガキ――たしか託哉と言ったか、そいつもずいぶんとやんちゃしたらしいな、瓜生雷蔵(うりゅうらいぞう)?」
紫苑が問いかけた。
彼女の対面のソファには、齢七〇にも届こうかという老人が腰を下ろしていた。この格式あるホテルにそぐう礼服。白く染まりきった髪をくしで撫でつけ、口ひげと顎ひげを短くたくわえている。老いているが恰幅はよく、身長は一八〇センチメートルほどありそうだった。柔和な顔つきはジェントルマンという言葉がよく似合う。
「そうですな。この雷蔵の目から見ても、託哉坊ちゃまは少々血気盛んに過ぎるところがあります。しかし男子はそのぐらいでちょうどよい、と御館様は申しておりました」
「その考え方は嫌いじゃないがね。ただ、あの街は【高臥】のお膝元だ。わたしとしてはあまり重国殿の機嫌を損ねたくない。それに《参波》の連中もいるしな。参波清彦といえば、重国殿の側近中の側近だろう?」
ため息混じりに紫苑が言うと、雷蔵は過去を懐かしむように目を細めた。
「参波清彦。懐かしい響きですな。あの《参波》の青二才と最後に会ったのは、もう十六年ほど前になりますか」
「十六年前というと、ちょうど《大崩落》の末期か。……そうそう、《大崩落》で思い出したけど、おまえ《音無し》と呼ばれた男のことは知ってるか? 現在は冴木と名乗っていたらしいが」
雷蔵がかすかに息を呑む。
「知っているも何も、かつて《音無し》とは三度に渡って殺し合ったことがあります。ですがあの男は、もう十年以上も前に亡くなったと聞き及んでおりましたが」
「それが生きていたんだよ。まあ今回の一件で、今度こそ死んだらしいがね」
「……そうですか。それは惜しい男を亡くしました」
悲しげに目を伏せる雷蔵。紫苑には、それが死者に対する黙祷のように見えた。
それからも二人は、誰もいない深夜のロビーラウンジで事後処理に関する話を交わした。
「さて、話は以上だ。質問はあるか?」
一通りの話が終わったあと、紫苑がつぶやいた。
「いいえ、ございません。紫苑様のお噂はかねがね耳にしております。貴女様の手腕に不手際などありますまい」
「どうもありがとう、と言いたいところだが、《凶犬》なんて時代錯誤も甚だしい異名を持つ男に世辞を言われても嬉しくないね」
「いやはや、お恥ずかしい。昔の話です」
「そうか? おまえほどの男が、なぜ《玖凪》の番犬をやっているのか理解に苦しむよ。おまえさえよければわたしの下に来ないか。破格の待遇で扱ってやるぞ」
「ご冗談を。貴女のようなお美しい女性に、この老いぼれは映えませぬ。どうかご再考を」
「世辞だけでなく謙遜も上手いようだな。まあいい。気が変わったならいつでも連絡しろ」
紫煙をくゆらしながら面倒くさそうに手をぷらぷらと振る紫苑に、雷蔵は畏まって一礼した。
如月紫苑と、瓜生雷蔵――この二人のあいだには年の功による序列がなかった。それを証明するように紫苑は尊大な態度を崩さないし、雷蔵は自分の半分も生きていない小娘に礼を忘れない。
なぜなら、そもそもの身分が違うからだ。
紫苑の生家である【如月】は、十二大家のなかでも最大の規模と勢力を誇ると目される家系。たかが一介の使用人に過ぎない雷蔵とは隔絶した差がある。
「もうあらかた話は終わったな。この際だから、おまえに一つだけ聞いておきたいことがある。ここから先は、まあ仕事というよりは趣味の範疇なんだがね」
「私めに答えられることなら何なりと答えましょう、ミズ紫苑」
「結構。実は前から気になって個人的に調べてたことがある。そのことについてだ」
雷蔵は余計な口を挟まず、じっと彼女の声に耳を傾けている。
「まずは事実確認をしておこうか。おまえら《武門十家》と呼ばれる連中は、壱識、弐伊(にい)、参波、肆条、伍瓦(ごがわら)、陸崎(ろくざき)、漆坂(しちさか)、捌宮(はちみや)、玖凪、そして零月(ぜろづき)の合わせて十の家系から成る。ただし零月だけが《大崩落》のときに壊滅し、絶滅したため、現在の《武門十家》は事実上、九の家系から構成されている。そうだな?」
「仰るとおりでございます。さすがは紫苑様。卓見であらせられますな」
「だから世辞はいらんと言っただろう。まあいい、ここからが本題だ。《零月》が滅んだ理由は、おまえら《玖凪》との抗争に敗れたからだと聞いている。これも間違いないな?」
その問いかけに、雷蔵ははっきりと頷いた。
「なるほど。やっぱりそうか。じゃあもうひとつだけ聞くけど――」
そこで一旦言葉を止めて、紫苑は雷蔵に視線を集中した。
「零月の血を引く最後の生き残りがいて、しかも、そいつをどこかのだれかがかくまってるって話、知ってるか?」
沈黙は、一瞬。
すぐに雷蔵は首を横に振った。
「さあ、なんのことやら。この雷蔵にはさっぱり分かりませぬ」
いまの紫苑には、雷蔵が穏やかな老人ではなく、老練な古強者に見えた。
紫苑は人の心理を読むことには自信があったのだが、どうにも雷蔵の内面だけは覗けなかった。
だから彼女は、カマをかけてみることにした。
「とぼけるなよ。おまえらが、《零月》の生き残りをかくまってるんだろう?」
「申し訳ありませんが、私は知りませんな」
「果たしてそうかな。前々からおかしいとは思ってたんだよ。その最たるものが、おまえらのせいで無駄に騒ぎが大きくなった先の抗争、《大崩落》だ。あれは裏社会の勢力図を瓦解させ、表社会の経済に深刻なダメージを与えるほどの抗争だった。だがどれだけ調べても、《大崩落》が起こった原因は判然としない。もちろん、ある程度の推測はつくがね」
あれだけの抗争なのだ。その発端となった出来事が、後世に伝わっていないのはどう考えてもおかしい。だから《大崩落》についてのあれこれを知られると困る何者かがいて、その何者かが意図的に情報を秘匿していると考えるのが自然。
「これは私見だが、《大崩落》を引き起こしたのは――」
言いかけて、紫苑は口をつぐんだ。
もし自分の見解が正しかったとしても、推理を裏付ける証拠がなかったら、それは小娘のたわごととなんら変わらない。無為に手のうちを晒すのは止めたほうがいいだろう。
ここで彼女が真実を言い当てても、それを立証することができない以上、得をするのは『紫苑が真実を知っている』という事実を知ることになる雷蔵だけ。
「……いや、止めておこう。いまの話は忘れてくれ、瓜生雷蔵」
面倒だな、と紫苑は思った。現状の手札では、この老人からこれ以上、話を聞きだすのは無理そうだ。
タバコを灰皿に押し付けて揉みけし、彼女は立ち上がった。
「もう行ってしまわれるのですか、ミズ紫苑?」
続いて腰を上げた雷蔵が尋ねた。
「ああ。おまえの口をこじ開ける自信がないわけでもないが、それにも時間がかかりそうだ」
「それはどうでしょうな。老いても私は男です。貴女のような女性から口説かれれば、一晩と待たずにうっかりと口を滑らせるかもしれませんよ」
「相変わらず世辞と謙遜の上手い男だな、おまえは」
「畏れ入ります」
うやうやしく礼をする雷蔵に、紫苑は背を向ける。
「そうそう。言い忘れていたが、近日中に法王庁の連中が来日する予定だ。これからはおまえと仕事することも増えるだろうね」
「存じております。なんでも異端審問会における特務分室、その室長が直々にお出でになるとか」
「らしいね。聞くところによると現在の室長は、まだ二十歳にも満たない女子だって話だが、果たしてどうなることやら」
おそらくその”室長様”とやらをもてなさなくてはいけない紫苑としては、ため息が漏れるのを抑えることができなかった。
「……まあいいさ。これも点数稼ぎの一環だ。一族の能無しどもや、あのクソ兄貴をいずれ顎でこき使ってやるためには、いまのうちに苦労を背負い込んだほうがいい」
「心中をお察しします」
「否定はしないんだな、わたしの一族の者どもが能無しであるという事実を。もしや瓜生雷蔵殿は、【如月】に喧嘩を売っていらっしゃるのかな?」
「さあ、この老いぼれには小難しい話は理解できませんな。ただひとつ言えることは、男が困ったときは美女の味方をすればいい、ということのみです」
「真理だね」
今度こそ紫苑は歩きだす。
「ではな、わたしは行くぞ」
王者の風格さえ漂うような、貫禄のある姿。ロビーラウンジの端に控えるホテルマンが、業務も忘れて彼女に見蕩れる。如月紫苑は、人を惹きつける魅力に溢れた女性だった。
頭を下げ続ける雷蔵を残し、紫苑はそのホテルをあとにした。