大切なものは失って初めて気付く、とはよく聞く言葉だが、わざわざ失わずとも、すこし距離を置いただけでそのありがたみが分かるのだから不思議なものだ。
今回、俺が”大切”だと再認識したものは、なんの変哲もない『日常』だった。
すべてが終わったあと、萩原邸の自分の部屋でぐっすり眠り、夜明け前に目覚め、シャワーを浴びて、リビングでコップ一杯の牛乳をごくごくと飲んだとき、ふと俺はたまらなく学校に行きたくなってしまった。
退屈だと思っていた『日常』も、こうして改めて触れてみると、それがどれだけ貴重なのか思い知らされる。まあぶっちゃけもうすぐ期末試験だから、俺には休んでるヒマなんてないんだけど。
「夕貴様。どういうことなのか、もう一度だけ説明していただきたいのですが」
繰り返すが、俺には休んでるヒマなんてない。
まだ日が昇って間もない頃の萩原邸のリビングには、清々しい朝とは思えないほどの重苦しい空気が流れていた。
天使のような微笑を浮かべる菖蒲から目を逸らし、俺はダイニングテーブルを見つめながら訥々とつぶやく。
「……い、いや、だから……美影、を……」
「美影? これは驚きました。夕貴様は出会って間もない女性を下の名前でお呼びになるのですね。さすがです。感心いたしました」
「壱識さん! 壱識さんだ!」
「そうですね。べつに菖蒲に他意はこれっぽっちもないのですけれど、夕貴様はそのほうがよろしいかと存じます。それではもう一度お伺いしますが、夕貴様は、壱識さんをどうするおつもりなのでしょう?」
「その……なんていうか……」
「はい。どうぞ遠慮なく仰ってください」
「……えっと、だから」
「いいですか、夕貴様?」
俺の声を遮って、彼女は告げた。
「菖蒲は賢くありませんので、『いや』とか『だから』とか『その』とか、そういう曖昧な言葉だけでは夕貴様がなにを仰りたいのか分かりません。もっと大きな声でお願いしてもよろしいでしょうか」
うわぁ、怒ってる。
めちゃくちゃ怒ってる。
顔立ちが整っている分、怒ったときの凄みも半端じゃないんだよな……。
「……ふわぁ」
だらだらと冷や汗を流す俺のとなりでは、美影がのんきにあくびをかましている。この修羅場と言っても過言じゃないシチュエーションを、まったく意に介さない図太さは見習いたいところだ。
美影に思いっきりデコピンしたい欲求を抑えて、俺は説得を続けることにした。
「……あのな、菖蒲」
「はい」
「じ、実は今日から……」
「はい」
「……ここにいる壱識美影が」
「はい」
「この家で暮らすようになった、というか……」
「…………」
「いやまて誤解するなよっ!? 俺と美影のあいだにやましいことは何もないからな!? ただ、この家には空いている部屋がいっぱいあるから、そのうちのひとつを美影に貸してあげようって話なんだ! ……ここまではいいか?」
「はい、いいですよ。もう分かっちゃいましたから。しょせん菖蒲は、夕貴様にとって都合のいい女というやつなのですよね。ええ、大丈夫です、自分でもじゅうぶんに理解していますから」
「……おーい」
「夕貴様ときたら、菖蒲が真心を込めて送ったメールを余裕で無視なさいますし、ずっと連絡が取れないかと思えば、壱識さんのようなとても可愛らしい女の子を連れ帰ってきますし……菖蒲はこんなにも愛しい想いを抱えていますのに、夕貴様はちっとも理解なさってくださらないご様子……」
「…………おーい」
頬を膨らませてぶつぶつと独り言をつぶやく菖蒲。さっきまでは怒っていたのだが、いまはどちらかというと拗ねているらしい。
もちろん、俺だって美影を萩原低に住まわせるのは賢い選択じゃないと思う。
ただ、これには深い事情と、致し方ない理由がある。
美影が住んでいたアパートは跡形もなく燃えてしまったので、彼女には『年頃の女の子が一人暮らしをしてもいいような環境の新居』が必要だった。
ここで真っ先に候補に挙がるのが、俺たちの住む萩原邸。
びっくりするぐらい男らしい長男がいて、無駄に個性豊かな同居人がいて、最高の母親がいて、いくつも空き部屋があって――そんな好条件にもほどがある物件が、美影の鼻先に転がっていた。
新たな同居人が増えることは、心から賛成できなかった。でも美影と千鳥さんの親子関係を意地でも改善させてやるんだと目論む俺にとって、それは決して悪い選択ではない。常日頃から、美影に『お母さんの大切さ』を説きまくってやるのだ。
それがお節介なのは承知しているが、こればっかりは萩原夕貴という人間の性分なので直しようがない。子供とお母さんは仲良くするのが一番なんだから。
そしてなにより、冴木さんから頼まれたんだ、美影のことをよろしくねって。だったら美影が萩原邸に住みたいと望む以上、空いている部屋を貸し与えるぐらいはしてやりたいと思う。
「ところで、壱識さん。ひとつお伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「……?」
菖蒲は見るからに不安そうな顔で、俺ではなく美影に声をかけた。聞くところによると、この二人はクラスメイトだという。俺はよく事情を知らないのだが、当人たちには複雑な葛藤があるのかもしれない。
「ずっと気になっていたのですが――壱識さんはわたしの夕貴様とどういったご関係なのでしょうか?」
気のせいかもしれないけど、なんか『わたしの』がちょっと強調されていたような……。
美影は、逡巡する間もなく答える。
「一夜を共にした関係」
「はぁ……!?」
予想の斜め上をいく答えに、俺は思わず立ち上がっていた。ちなみに菖蒲は笑顔のまま固まっている。
「夕貴、どうかした?」
「どうかするに決まってんだろバカ! おまえ自分がなにを言ったか分かってんのか!?」
「一夜を共にした関係」
「繰り返すなっ! いらん誤解を招くだろうがっ!」
たしかに俺とおまえは一夜どころか二夜も三夜も共にしたけど!
でもさすがに言い方ってもんがあると思う。これじゃあ勘違いされてもおかしくない。とは言え、菖蒲は頭のいい子だから、美影のアホが口走った言葉の裏に隠れた真実にも気付いてくれるはずだ。
「……夕貴様。おそらく言葉にするまでもないと思いますが、菖蒲は夕貴様のことをお慕いしております」
「あ、あぁ、もちろん俺も……」
「ですが、どうやら菖蒲の愛は一方通行だったらしいことが、今回の一件でわかりました」
そそくさと立ち上がった菖蒲は、かるく身だしなみを整えたあと、ぺこりと頭を下げた。
「いままでお世話になりました。実家に帰らせていただきます」
「ちょっと待てぇぇぇぇぇーっ!」
歩み去ろうとする菖蒲の腕をつかんで、こちらに引き寄せる。淡い柑橘系の香り。柔らかな肌の感触が手に懐かしかった。
「違うんだ菖蒲! 俺の話を聞いてくれ!」
「嫌です! 菖蒲はもう実家に帰るのです! 夕貴様みたいな変態さんのことなんて知りませんっ!」
「だから落ち着けって! さっきのは誤解なんだ!」
「……誤解? ではお聞きしますが、夕貴様は壱識さんと一夜を共にしなかったのですね?」
「ま、まあ、共にしたっちゃあ共にしたけど……でもそれは」
「お世話になりました」
「待て待て待て待てー!」
「待ちません! もう菖蒲のことは放っておいてください!」
子供みたいに駄々を捏ねる菖蒲をなんとか宥めようと試みるが、大体にして往々、こういうときの男の言葉ほど信用できないものはなかったりするのだ。
泣きわめく菖蒲を羽交い絞めにしながら、俺は美影を見た。本人にもこの修羅場を作り出したという自覚はあるだろう。きっと菖蒲を落ち着かせるための手伝いをしてくれるはず――
「……ぐう」
「なに寝てんだてめえコラぁぁぁぁっー!」
まあ美影に期待するほうが間違ってるよな、やっぱり。
騒がしい日常に辟易しながらも、『あー、やっと戻ってきたなー』と心のどこかで安堵している自分がいるのも確かである。
ただ、俺は嬉しい。これまで友達らしい友達のいなかった美影が、ナベリウスや菖蒲とぎこちないながらも楽しそうに過ごしている姿を見るのは。
そういや、冴木さんも言ってたっけ。
――萩原くん。君さえよければ、これからも美影ちゃんと仲良くしてあげてくれないか。あの子には恋人はもちろん、世間話を交わせるような友達すらいないからね。きっと萩原くんとの出会いが、美影ちゃんの心境に何らかの変化をもたらすだろう――
俺との出会いが、美影にとってプラスに働いたかどうかは分からない。
でも冴木さんとの約束が果たせそうだから、俺はこの選択に後悔はしていない。
――萩原くん。美影ちゃんを、よろしくね――
それが冴木さんが俺に残した、最後の言葉。
あの人は自分の命が燃え尽きる寸前でさえ、美影のことを一途に想っていたんだ。冴木さんの想いと願いは、彼が生涯に渡って持ち続けた御影石とともに、俺に託されたんだ。
だから俺は、自分にできることをする。冴木さんの代わりに美影を見守っていく。
男と男が交わした約束なら、最後まで黙って守ってみるものだ。
その日、午後の講義が休講となった俺は、『でかいと噂の萩原邸に行ってみたい』と会うたびに口にするうっちーや委員長と別れて、ひとりで岐路に着いた。
お昼をすこし回った頃、作りたてのお粥をトレイに乗せて、ナベリウスの部屋に向かう。
「入っていいか?」
ノックをすると、すこしの間をおいて「いいわよー」と間延びした声が返ってきた。三日ぐらい前に、なんの許可も取らずに入室した俺は、ナベリウスが汗を拭いているところをモロに見てしまった。それ以来、かならずノックをするようにしている。
「調子はどうだ? ……って、もうほとんど大丈夫そうだな」
ナベリウスはベッドの上で上半身を起こして窓のそとを眺めていた。いつもは裸に男物のワイシャツというアホみたいな寝間着なのだが、いまは大人しく水色のパジャマを着ている。
「大丈夫もなにも、元からわたしに療養する必要なんてなかったんだけどね」
肩にかかった銀髪を背中に流すナベリウス。明らかに不機嫌そうである。
俺はお粥をテーブルに置き、ベッドの端に腰掛けた。
「嘘つくなよ。まだ顔色が悪いじゃないか。無理して強がらなくてもいいんだぞ」
「べつに強がってないわよ。わたしは真実しか口にしない女だし」
「はいはい。そういうことにしとくから、いまは大人しくしてろ」
もう十日以上も前のことになるが、この街のオフィス街にある高層ビルで起きた爆発にナベリウスは巻き込まれた。そのときに負ったダメージ自体は数日と経たずに治癒するような、言ってしまえば人間でいう捻挫レベルの怪我だったらしいのだが、その回復を待たず、彼女はダンタリオンと交戦した。
足の関節が炎症を起こしているのに運動すれば、完治が長引くどころか、怪我そのものが悪化するのは自明の理。つまりナベリウスは俺を助けるために、傷ついた身体に鞭を打ったのだ。その代償を、彼女はいま支払っている。
「そのお粥、夕貴が作ってくれたの?」
腕を組んで顔を背ける、という実に分かりやすい拗ね方をしていたナベリウスが、白い湯気を立てるお粥に注目した。
「あぁ、そうだけど。もしかして食欲なかったりするか?」
「ううん、ちょうどお腹減ってたところよ」
「じゃあよかった。遠慮せずに食えよ」
「えー夕貴が食べさせてくれないのー?」
「そんな女々しいことできるわけないだろ。ワガママ言ってないで自分で食べろ」
「やだやだー! 夕貴が食べさせてくれないとやだー!」
「ガキみたいに駄々こねるな!」
彼女は長い手足をばたつかせ、均整の取れた肢体をくねらせた。その暴れた反動でパジャマがはだけて、かたちのいい谷間があらわになった。かすかに汗ばみ、ほんのりと紅潮した柔肌。
慌てて俺が目を逸らすと、当の本人は恥ずかしがるどころか、にんまりと新しいおもちゃを見つけた子供のような笑みを浮かべた。
「あれ? 夕貴、ちょっと顔が赤いけど、いったいどうしたの?」
「う、うるさいな。俺のことなんかどうでもいいだろ。それよりもパジャマのボタンを閉めろよ」
「いやよ。だって全部閉めたら息苦しくなるじゃない。ほら、わたしって菖蒲ほどじゃないけどおっぱいが大きいから、こういうときは邪魔になるのよね」
「分かった分かった、ほんとに分かった。もう分かったから、とりあえず乱れた服を直してくれ!」
思いっきり下を向いて、彼女の姿そのものを視界から外す。
それが間違いだったと知るのは、実に二秒後のことだった。
「もうっ、夕貴ちゃんの照れてる姿、ほんとに可愛いんだから!」
「――うえっ!?」
ナベリウスの細くてしなやかな両腕が伸びて、俺の首に巻きついたかと思うと、次の瞬間にはぐいっと引っ張られていた。
彼女は俺をぎゅーっと抱きしめた――それはつまり、ナベリウスの胸元にある豊かなふくらみが、俺の顔面にこれでもかと押し付けられてしまったわけで。
頭がくらくらするほどの甘やかな匂いが、胸いっぱいに広がる。それはボディーソープや柔軟剤だけでは説明できない、彼女自身の香り。ほのかに鼻腔をくすぐる汗の匂いが、また心地よかった。
思わず弛緩しかかった全身に活を入れて、俺は脱出を試みる。
「ちょっ、おいっ、アホっ、はなせっ!」
「そんなに暴れないでもいいじゃない。このわたしに抱きしめられる喜びをもっと味わったらどう?」
「知るかバカ! とにかく離せ! 話はそれからだ! 熱いお粥がおまえを待ってるんだぞ!」
「んもう、つれないなぁ。言っとくけど、ナベリウスちゃん自慢のおっぱいに触れる男なんて、夕貴ぐらいしかいないんだからね?」
すこしだけ寂しそうな声。
でもこいつの胸ってマジで柔らかくて、温かくて、いい匂いがするんだよな……乳房の中身がぱんぱんに詰まっているというか、表面がぷりぷりに張ってて、しかも揉んだときの感触が半端じゃなく気持ちいいし……。
実際、こうして頬に当たる乳肉は、理性を焼ききってしまいそうになるぐらい魅惑的で……はっ、なに惑わされてるのだ、俺は!?
「分かった! 俺がお粥を食べさせてやる! だからもう助けてくれー!」
「うん、わかった。それで譲歩してあげるわ」
解放された俺は、すばやく距離を取って、大きく深呼吸をした。もうこいつには惑わされないぞ。
それから数分後、ようやくパジャマのボタンをしっかりと留めたナベリウスに、俺はお粥を食べさせてやっていた。
「……ほら、口開けろよ」
「あーん」
ナベリウスはとても満足そうな顔だった。俺がスプーンを口元まで運ぶと、彼女は「はむ」と食いつき、じっくりと味わうように口を動かしてから呑み込んだ。
「味はどうだ? 個人的には上手くできたと思うんだけど」
「なに言ってるのよ。美味しいに決まってるじゃない。夕貴がわたしのために作ってくれたものが、不味いわけないし」
やべえ。
なんかめちゃくちゃ照れるんだけど。
「はい次、あーん」
「……ったく」
なにが楽しいのか、ナベリウスはにこにこしながらおねだりしてくる。スプーンを口元に運ぶと、やはり彼女は「はむ」と小鳥がついばむようにお粥を口にするのだった。
「……うん、美味しかったわ。ありがとう、夕貴」
最後の一口を食べ終えると、ナベリウスははにかむようにして笑った。その顔色は、食事を始める前よりも幾分か良くなっているように見えた。
「んー、なんかご飯食べたら、身体が熱くなってきちゃった」
「そりゃあ人間には代謝ってものが……いや待てよ、そもそも悪魔って人間とおなじように代謝するのか……?」
「さあ、どうかしら?」
実際、栄養を摂ったことにより代謝熱が生じて、わずかに体温が上がっているのだろう、ナベリウスはパジャマの胸元をぱたぱたと扇いでいた。汗ばんだ首筋に絹のような銀髪が張り付いている光景は、なんとも扇情的である。
「――っておまえ、なんでまたパジャマのボタン外してんだよっ!」
「だって熱いんだもん。仕方ないじゃない」
そうこう言っているあいだにも、かたちのいい谷間がちらちらと見えている。ナベリウスが身じろぎするたびに、弾力のあるふくらみが上下左右にぶるんぶるんと揺れたりもしている。
ていうか、こいつまさか……?
「気付いた? わたし、ノーブラよ」
「の、ノーブラ……だと……?」
それは無条件に男を惑わす、魔法の言葉。
ナベリウスは上半身を前傾させ、上目遣いで俺を見つめてくる。ほのかに赤らんだ頬も、だらしなくはだけた胸元も、半開きになった唇から漏れる甘い吐息も――この妖艶な姿を目の当たりにして、我慢できる男がいるとは思えない。
「夕貴さえよければ、揉ませてあげよっか?」
それはまさしく悪魔の囁きだった。
「い、いいのか……?」
あの、たわわに実った乳房を好きなだけ揉みまくりたい、という邪悪な欲望が、いま俺のなかで鎌首をもたげていた。
赤い舌で、くちびるをチロリと舐めて、彼女は微笑む。
「ええ。わたしの身体、夕貴の好きにしていいから」
それは間違いなく、男が女の子から生涯で一度は言われたい台詞ベストスリーには入るであろう言葉だった。
「じゃ、じゃあ……ちょっとだけ」
「ちょっとでいいの?」
「……えっと、やっぱり一分だけ」
「一分でいいの? 本当に?」
なんだかナベリウスのてのひらで踊らされているような気がする。
こうして最終的には『先っぽだけ……』とか口走ってしまうのだ、俺という男は。
しかし悪魔がいれば、当然天使もいるわけで。
『ナベリウス様? 菖蒲です。新しいパジャマをお持ちいたしました』
コンコン、と扉がノックされる。
その乾いた音と菖蒲の優しい声が、俺を悪魔の誘惑から救ってくれた。
我に返った俺は、動悸の激しい胸を押さえながら頭のなかで九字を切っていた。その間、ナベリウスは「ちっ、いいとこだったのに……」と悪者にしか見えない顔で舌打ちし、「わざわざありがとう。入っていいわよ」と廊下で待っている菖蒲に入室を促した。
一拍置いて、扉がひらく。
「失礼します。ナベリウス様、こちら、お洗濯したばかりのパジャマです。柔軟材の香りと、お日様のいい匂いが……」
「よ、よお菖蒲。ご苦労様。学校から帰ってたんだな」
手をあげて挨拶すると、菖蒲はきょとんとした顔で小首をかしげた。
「はあ、ありがとうございます。もうテスト前ですから授業は午前で終わりなのですが……あの、ところで夕貴様は、どうしてそんなにお顔が赤いのでしょう? それに息も乱れていらっしゃるようですし、ナベリウス様に至っては着ているパジャマが大きくはだけていますし、これではまるで……」
「エッチをした直後みたい、と言いたいの、菖蒲?」
そのナベリウスの発言とともに、身の危険を感じた俺はベッドから飛びすさり、菖蒲は両手に抱えていたパジャマをフローリングに落としてしまった。
「し、失礼しました」慌ててパジャマを拾いながら、菖蒲は問いかける。「あ、あの、ナベリウス様? それはご冗談、ですよね?」
「さあ、どうかしら? ていうか菖蒲、”それ”ってなに? ちゃんと言葉にしてくれないと分からないんだけど」
「ですから…………え、エッチ…………をした、というのは、ご冗談なのですよねっ?」
「悪いけど、声が小さくてよく聞こえなかったわ。ねえ夕貴?」
「ここで俺に振るなよ! 俺とおまえは何もしてないだろうが! 菖蒲をからかって遊ぶのは止めろ! こいつはおまえと違って純粋なんだよ!」
すでに菖蒲は涙目になっていた。「うぅ……」と小さく唸りながら、俺をじっと見つめている。
でもちょっぴり泣いてしまった菖蒲を見て、『慰めよう』ではなく『可愛らしい』と思ってしまう俺は、男として失格なのかもしれない。
「……あら?」ナベリウスが身を乗り出して、菖蒲の背後を覗き込んだ。「ヘンな気配がするかと思えば、美影ちゃんじゃない」
扉の内側に立つ菖蒲の後ろ、つまり扉の外側である廊下に美影が立っていた。美影は壁に身体を隠して、頭だけをぴょこと覗かせている。その顔には、やはり警戒心がありありと浮かんでいた。
「……み、美影ちゃんって呼ぶなっ」
ちょっとだけ声が震えていた。まるで天敵に怯える小動物のようである。
「照れないでもいいじゃない。わたしたちは一つ屋根の下に住む家族なんだから」
「むー」
「それともなに? 力づくでわたしを黙らせてみる?」
「ち、近づくなっ」
美影は突き出していた頭を完全に引っ込めた。それから俺たちが黙って扉のほうを見つめていると、またそーっと顔を出し、ナベリウスと目が合った途端、やはり慌てて壁の影に隠れてしまう。
「……おい、あんまり美影をいじめてやるなよ」
「いじめてなんかないわよ。これも一種のスキンシップなんだから。ねえ菖蒲?」
「いえ、わたしに振られましても……」
「まあこんなの軽いものよ。さっきまでわたしと夕貴がしてたスキンシップは、もっと激しかったし」
菖蒲の身体が、びくん、と弱めの電流を受けたかのように跳ねた。明らかに憤懣やるかたない様子である。
菖蒲が抱える葛藤をきちんと理解したうえで、ナベリウスは自分の身体を両腕でかき抱いた。
「あ、やだ、まだおっぱいのところに夕貴の感触が……」
「夕貴様のバカー!」
涙に濡れた顔を手で隠して、菖蒲は背を向けた。
「やっぱり菖蒲は都合のいい女だったんです! 夕貴様は、ベッドのうえでタバコを吹かしながら、明日の予定を聞く菖蒲に『ま、気が向いたら連絡してやるよ』なんて鬼畜さんみたいなことを言うんです! とにかく夕貴様はヘンタイさんなんですー!」
止める間もなく、菖蒲は意味不明なことを口走りながら、自室のほうに走り去っていった。
気付けばとうに美影の気配も消えていて、残されたのは俺とナベリウスと、そしてテーブルのうえに置かれた新しいパジャマだけになってしまった。
「なんでこうなるんだ……」
あとで菖蒲を慰めにいかないと……でもあいつ、俺を部屋に入れてくれるかな……。
「はぁー、スッキリした。それじゃおやすみー」頭まで毛布を被って逃げようとするナベリウス。「おい待てこのクソ悪魔」俺は有無も言わせず、強引に毛布を剥ぎ取ってやった。
「おまえのせいでまた菖蒲が機嫌を損ねちまったじゃねえか。この責任はどう取ってくれるつもりだ?」
「分かったわよ。じゃあナベリウスちゃん自慢の身体で……」
「もうそのネタはいいよ!」
やっぱり病人であっても、ナベリウスは厄介ごとしか生み出さないな。当の本人は唇を尖らせながら「ネタじゃないのに……」とつぶやいていた。
それから俺は、食器を載せたトレイを持って、部屋から出ようとした。
「……ねえ、夕貴」
「ん?」
不意に服の裾をくいっと引っ張られたので、仕方なく立ち止まる。
「なんだよ。どうした?」
怪訝に思って問いかけると、彼女はすこしだけ恥ずかしそうにしながら、
「……もうちょっと一緒にいてよ。ダメ?」
そんなバカみたいなことを聞いてくるのだった。
さっきまでは小悪魔全開だったのに――いまの彼女は、小さな子供のように弱々しく、不安げな顔をしている。
正直な話、しばらくナベリウスとは口も聞きたくなかったが、仕方なく、本当に仕方なく、俺はもう一度ベッドに腰掛けることにした。
なんだかんだ言っても、こいつは病人なのだ。完全に元気になるまでは優しくしてやっても罰は当たらないだろう。もちろん全快したら、たっぷりと説教してやるけど。
「……しょうがないな。じゃあおまえが寝るまでここにいるから。それでいいだろ?」
「うん。ありがと」
毛布で口元を隠すナベリウスの頬は、俺の見間違いでなければ微かに赤くなっているように見えた。
それは以前と少しだけ変わった、萩原家の新しい日常だった。
晴れ渡った青空と、照りつける日差し。気温はそこそこ高いが、さわやかな風が吹いているので、長袖でも半袖でも過ごせるような気持ちのいい日だった。
なかなか部屋から出ようとしなかった美影を無理やり連れ出し、萩原邸の最寄駅から電車で三十分ほど揺られた先にあるそこは、古くからある墓地だった。お盆にはまだ早いので、ほとんど人はいない。ただ墓石がどこまでも並んでいるだけ。
ここに冴木さんが眠っていることを教えてくれたのは、彼の最後を看取った田辺さんだった。表立った親戚のいない彼のお墓を誰が建てたのかは分からない。それを田辺さんは知っているようだったが、結局教えてくれなかった。
しばらく閑散とした敷地内を歩くと、ひときわ真新しい墓石が目を引いた。その表面には『冴木家之墓』と刻まれている。
ちょっと疑問に思った。
”冴木”というのは数多く存在する偽名のひとつに過ぎないはずだったのに、どうしてそれが墓銘として刻まれているのか――
「……ん?」
持参した花束を供えようとして、俺は手を止めた。なぜなら、すでに花束がひとつ供えられていたからだ。どうやら俺たちの前にも誰かが訪れたらしい。
まあ考えるのはあとにして、いまはお参りしよう。
花束を供え、俺たちはしばし黙祷を捧げた。
「いい天気ね」
ちょうど俺と美影がお祈りを済ませて顔を上げた瞬間、背後から抑揚のない女性の声が聞こえてきた。
振り返って確かめるまでもなかった。
「……千鳥さん」
艶やかな黒髪と、色白の肌。貴婦人めいた服装と、胸元に揺れる御影石のペンダント。思わずため息が漏れそうなほどの美貌。
美影の実の母親である壱識千鳥さんがそこにいた。
「母親。ここでなにしてるの?」
「決まっているでしょう。お参りよ」
千鳥さんは物憂げな顔で冴木さんのお墓を一瞥した。墓前には綺麗な花束がふたつ供えられている。ひとつは俺たちが持ってきたもので、そしてもうひとつはおそらく――
「萩原さん。あなたの家に、この子を住まわせると聞いたのだけど、いいのかしら」
「はい。俺の家は大きいですし、部屋もいくつか余ってますから」
「そう。面倒をかけるようで申し訳ないけれど、お金が必要なら、言ってくれれば用意するから」
「……えっと、反対しないんですか?」
「ええ。美影があなたに懐いているようだから」
それは初耳すぎる。
案の定、美影の顔に明らかな不機嫌が浮かんだ。
「母親。それ勘違い。私はべつに夕貴とかどうでもいい」
「つまり彼のことが好きではないのね?」
「うん」
「では彼のことが嫌いなのかしら」
「だから夕貴とかどうでもいい」
「なるほど。半信半疑だったけれど、これはまさか本当に……」
かたちのいい顎に手を添える千鳥さん。それにしても相変わらず細かな仕草のひとつひとつが美影そっくりだな。
「萩原さん。どうやらこの子はあなたに懐いているみたいだから、これからも仲良くしてあげてくれないかしら」
「えっ」
いまの会話のどこに、美影が俺に好意を示している要素があったんだ?
千鳥さんの発言に納得できなかったのは俺だけではないらしく、美影は目を半眼にしてじとーと母を睨んだ。
「……母親。嫌い」
「そうやってムキになるところが怪しいのよ、美影。いい加減、学習なさい」
「むー」
なんだか美影がいいようにあしらわれていた。
でも俺は、壱識親子の会話を聞いていて、奇妙な違和感を覚えていた。駅前にある喫茶店で話したときよりも、千鳥さんの態度が柔らかいような気がするのだ。
これは俺の勘違いかもしれないけど――千鳥さんは不器用ながらも、娘との距離を埋めようとしているように見える。もしかすると彼女の心境になんらかの変化があったのかもしれない。とは言え、この二人の関係は、まだまだ普遍的な親子と比べるとぎこちないが。
しばらく話したあと、俺たちは解散することになった。もうしっかりとお参りはした。報告も済ませた。元気な美影の姿を、冴木さんに見せてあげることができた。あとは前を向いて、家に帰るだけだ。
「……それ」
別れ際、千鳥さんが聞き取れるかどうかの小さな声でつぶやいた。彼女の視線は、俺の首にかかった御影石のペンダントに注がれている。
「……そうね。そのほうがいいのかもしれない」
ふっと寂しげな微笑を浮かべた千鳥さんは、うなじのあたりに手をまわしてペンダントを外すと、
「美影。これを」
それを娘に差し出した。
美影はぼんやりとした目で千鳥さんと御影石を交互に一瞥してから、怪訝顔をあらわにする。
「……それ、母親が大切にしてたもの。どうして私に?」
「もう私には必要のないものだからよ。できることならあなたに受け取ってほしいと思うのだけど、だめかしら」
「……べつにだめじゃない」
その突然の提案を、美影はかなり不審に思っているようだったが、しばらく逡巡した彼女は、結局ペンダントを受け取った。
「付け方、分かる?」
「ううん」
「貸してみなさい」
これまで親子らしい触れ合いのなかった彼女らをいま繋いでいるのは、ひとつの小さなペンダントだった。
ふと空を見上げると、そこには雲ひとつない見事な晴天が広がっていた。
美影には千鳥さんがいるように、俺にも大切な母さんがいる。
もしかしたらいまこのとき、母さんが俺と同じように空を見上げているのかもしれないと思うと、不思議と心は温かくなる。
母さんと離れている俺ですらこうなのだから、互いに触れ合える距離にいる美影と千鳥さんの心はもっと温かいのだと、そう信じたい。
かつて冴木さんと千鳥さんを繋いでいた石はいま、冴木さんが護り、千鳥さんが名付けた少女に受け継がれた。
それは母親が幼い頃から胸に抱いていた”名(みかげ)”と、父親が生涯を賭けて貫き通した”意志(いし)”。
柔らかな風が吹く。俺の首にかかったペンダントが、冴木さんから託された御影石が、それと同じ名前をした少女に手を振るかのように、小さく揺れた。
まるで冴えない風貌をしたあの人が、愛する少女に何かを告げているみたいだと思った。”美影ちゃん、お母さんと仲良くするんだよ”。まあたぶん、そんなところだろう。
俺は墓前に向けて、心のなかでつぶやいた。
冴木さん。あなたの娘は、今日も元気ですよ。
[弐の章【御影之石】 完]
小鳥のさえずりと、無邪気な子供たちのはしゃぐ声が、のどかな空気に拍車をかけている。
抜けるような青空を一度だけ見上げてから、彼女は足元に視線を落とす。お世辞にも綺麗にされているとは言えない、こじんまりとした墓がそこにはあった。
「遅くなってごめんね。心の整理をつけるのにずいぶんと時間がかかっちゃった」
線香から立ちのぼる煙が、ゆらゆらと頼りなく風にさらわれていく。
「でも、仕方ないよね。みんなだって、わたしとは会いたくなかっただろうし」
墓前にちょこんとたたずむその女性は、どうも年齢の判別がつかなかった。もう立派な母親のようにも、まだ未成年であるようにも見える。
肩口あたりで切り揃えたミディアムカットの黒髪。左頭部の髪は赤いリボンで結ばれ、かたちのいい耳が露出している。瑞々しい肌は、ほんのすこしだけ日に焼けていながら、女性らしい白さを保っていた。
先日買ったばかりの新しい数珠を手に持って、彼女は墓前にしゃがみこんだ。
目を閉じて、心のなかを空にし、ただ黙祷する。
見目麗しい少女が、本職の者でさえ息を呑むほど真摯に祈りを捧げている光景は、どこか神聖的な趣を醸し出していた。
その、すこしばかり年季の入った墓に刻まれた銘は――
「……ん?」
静かな庭園に似つかわしくない、”どてーん”という物音を聞いて、彼女はぱちくりとまたたきをした。
怪訝に思いながらも周囲をみわたす。細かな砂利の敷き詰められた通路に、まだ幼い男の子が倒れていた。きっと忙しなく走り回っている途中にこけてしまったのだ。
彼女は小さく苦笑してから、呻き声を上げるだけでなかなか立ち上がらない少年に歩み寄った。
「大丈夫かな、ぼく?」
「えっ……?」
「どこか痛いところある?」
「……うん、痛い」
「どこか怪我したのかな?」
「……うっ、うっ、うぅぅぅっ!」
止める間もなく、男の子は泣き出してしまった。まだ痛みに耐えることも、うまく感情を制御することもできず、ただ泣くことでしか自分の気持ちを相手に伝えられないのだろう。
だが幸いなことに、彼女は、子供の世話をすることにかけては一日の長があった。
「ほうら、泣かないの。お母さんが……じゃなかった、お姉さんが魔法をかけてあげるから」
「ま、魔法……?」
「うん。魔法だよ。とっても効くおまじないなんだから」
少年の頭に手を乗せて、彼女はつぶやく。
「そーれ。痛いの痛いの、とんでいけー」
「…………」
「ふふ、どうかな? これでもう大丈夫でしょ? そーれ、痛いの痛いの、飛んでいけー」
「……うっ、うえぇぇぇぇぇぇっー!」
「あ、あれっ? だめだったっ? おかしいなぁ、あの子はいつもこれで泣き止んでくれたんだけど……」
このままだと”子供を泣かせた悪い大人”という烙印を押されてしまう。彼女にとって、それは非常に不本意なことだった。
もはや良案を模索する時間もない。
だから彼女は、その場に膝をつくと、優しく、壊れものを扱うかのような手つきで、涙に濡れた少年を抱きしめた。
「ごめんね、もう泣かないで。お姉さんが悪かったから」
「ふぇ……?」
ほんの瞬間、涙が止まる。
まだ幼い子供なのに――いや、もしかすると、理屈ではなく感性で物事を捉える幼い子供だからこそ、彼女が放つ包み込むような母性に気付いたのかもしれない。
慈愛に満ちた行為が、温かな安心感を生み出す。
それから幾許も経たないうちに少年の涙は収まり、代わりに、愛らしい笑顔がこぼれた。
「もう大丈夫かな?」
「うん。もう痛いの、なおったよ」
「それはよかった。やっぱり、これはあれかな。痛いの痛いのとんでいけー、が効いたんだね」
「……ふぇ、うぅっ」
「あぁ、ごめん冗談だから! もう泣かないでってばー!」
慌てて前言を撤回する姿は、さきほどまでの母性に満ちた彼女とは似ても似つかなかった。
「よし、今度こそ大丈夫かな?」
「へいき、だいじょうぶだよ。ありがと、お姉ちゃん」
「どういたしまして。……それにしてもお姉ちゃんか。こう見えても一児の母なんだけど」
「……?」
「あ、ううん、こっちの話。ぼくは気にしなくていいからね」
彼女が目元を和らげると、少年の顔には笑みが浮かんだ。
「でもね、ぼく。元気に遊びまわるのはいいけど、これからは怪我をしないように気をつけないとだめだよ? お母さんにとって子供は、自分の命よりも大切な宝物なんだから。……って、ぼくにはまだ早かったかな?」
「ううん。わかるよ。ぼくも、お母さんのこと、大好きだから」
「……そっか。大好きなんだ」
「うんっ、大好き!」
その言葉を聞いて、彼女は心の底から嬉しく思った。
やっぱり、お母さんが子供を愛し、子供がお母さんを慕うのが一番なのだ。それが青臭い考えだと自覚しているが、彼女は一歩たりとも譲る気はなかった。
やがて少年はちゃんとお礼を言ってから、元気よく走り去っていった。彼女が見ているだけでも、すでに何度か転びかけていたが、いまさら呼び止めて注意するのも野暮のように思えた。
「……懐かしいなぁ。あの子が子供の頃にそっくり。我慢してたはずなのに、あの子に会いたくなってきちゃった」
でも、いましばらくは帰れない。まだ清算するべき過去が、いくつか残っているから。
彼女は雲ひとつない青空を見上げた。離れたところにいても、長いあいだ顔を見ることができなくても――もしかしたらあの子が、いまこうして彼女とおなじように空を見上げているかもしれないと思うだけで、不思議と心は軽くなる。
のどかな庭園に、小鳥のさえずりと、無邪気な子供たちのはしゃぐ声が響いている。
柔らかな風が、近くの花壇に植えられた小さな百合の花を、揺らしていた。
[ハウリング【第一部】 了]