参の章 【それは大切な約束だから】
北欧の片田舎にひっそりと立地するその街は、正午頃から冷たい雨に見舞われていた。
もともと人口の少ない僻地ではあったが、こうも空の機嫌が悪いと出歩く者はまばらだ。道行く人々は傘を差し、一様に俯きながら家路を辿る。交通量の少ない道路には、型式の古くなった自動車が思い出したように現れ、小さな水しぶきを上げて走り去っていく。果たして首都圏に住む人間は、この活気の薄い街のことを知っているだろうか。答えは恐らく否だ。
街路樹の立ち並ぶ大通りに面したところに、その陰気なホテルはあった。天井は低く、調度類は必要最低限のものしか設えられていない。それでも薪のくべられた暖炉が演出する仮初めの華やかさが、場末の質素な室内を温かく照らし上げていた。
「あー、暇だねえ。しけた街だぜ。娯楽のひとつもありゃしねえ」
安物のタバコをくわえて退屈そうに窓のそとを眺める男は、どこか異様な雰囲気をまとっていた。恰幅のいい体と、肉食獣を連想させる何かに飢えた目つき。顔の造形には隙がなく、人間としては不自然なまでに整っている。年の頃は、二十代半ば。やや長めの髪は、血に濡れたように紅い。
「知らないね。あたしは関係ないだろ。てめぇの暇ぐらい、自分で潰せよ」
ベッドに片膝を立てて腰掛けている少女は、異性の目を惹きつけるような蠱惑的な美しさを備えていた。線の細い華奢な肢体は、しかし野生動物を連想させるしなやかな筋肉と、女性特有の柔らかな肉に包まれている。
身じろぎするたびに、亜麻色のセミロングストレートの髪がさらりとこぼれ、物憂げな目元に妖しい陰影を落とす。年の頃は、十代後半。ぴんとツリ上がった目が、いかにも気の強そうな印象を与えている。
「へぇ、言うじゃねえか」男は唇をゆがめた。「なんならおまえで遊んでやってもいいんだぜ? オレはよ、ここ最近のネズミみてぇな生活にずっとイライラしてたんだ」
「自業自得だろ。あの狂信者どもに嗅ぎつけられそうになったのはあんたのせいだ。フラストレーションの根源を断ちたいなら、いますぐ自殺でもしてくれば?」
「おいおい、ちょっとしたジョークってやつじゃねえか。そうカッカすんなや。ただでさえ愛想がねぇんだからよ、てめぇは」
「あんた、やっぱり喧嘩売ってるだろ」
「なんだぁ? 気にしてんのかぁ? べつにいいじゃねぇか。男に媚びて股開くような必要があるわけでもねぇだろう」
「もう黙りな。あたしに話しかけるな」
彼らの関係は すこし妙だった。親子や兄妹というには肌や髪の色が違うし、かといって愛を育む仲にしてはいささか剣呑である。実際、彼らの間に友好的な感情はなく、ただ因縁じみた腐れ縁があるだけだった。
それからしばらくの間は、少女の望んだとおり沈黙が続いていた。横殴りの風が、たてつけの悪い窓をかたかたと揺らしていく。雨粒が窓をたたく音と、暖炉にくべられた薪がはぜる音。その原始的な音色が、また気を滅入らせる。
部屋の扉がノックされた。
二人は顔を見合わせてアイコンタクトを交わし、わずかな合間に多くの意思を疎通する。やがて”様子見”という結論に達すると、窓辺に立つ男は愉快げな呼気とともに紙巻きタバコをくわえ、入り口に近かった少女は軽やかな足取りでドアに近づき、声を発した。
「だれだい?」
『……ホテルの従業員っす。ここ開けてもらえます? お客さん宛てに荷物が届いてるんで』
男性特有の低い声だった。顔を見ずとも、そのやる気のなさそうな声だけで職務に忠実でないことが分かる。ドアを開くと、そこには眠そうな眼差しの青年が立っていた。くちゃくちゃとガムを噛みながら、手に大きなバッグを持っている。
「あたしら宛てに届いてる荷物ってそれかい?」
愛想笑いもせず少女が問いかけると、青年は意表を衝かれたように目をしばたたかせた。扉越しにいた相手が、まさかこれほど若く美しい女だとは知らなかったのだろう。真新しいバッグ。見るからに重そうなそれを視線で指し示すと、青年は丸めていた背筋をまっすぐ伸ばして頷いた。
「そ、そうです。ついさっき人の好さそうなジジイ……あ、いや、老人の方から預かりまして。これをあなたたちにと。ええはい」
「なるほどね。ところでそれ、重そうだね。危ないから気をつけたほうがいいよ」
「いえいえ、ご心配なさらず。こう見えても俺って力持ちなんすよ。数年前までボクシングを齧ってましてね。自分で言うのも何ですが、結構いいセンいってたんすよ」
聞いてもいない個人情報を矢継ぎ早にばらまきながら、青年は劣情にまみれた視線を飛ばす。ぬるりと粘着的にからみつくような視線を、しかし少女は意に介さず冷静に受け止めながら振り返り、
「そろそろかな。気をつけな」
部屋の奥にたたずむ紅い髪の男に、そんなよく分からない忠告を向けていた。
「はっ、誰に言ってやがる」
男は短くなった煙草を指で弾きながら胴間声で応えた。だがそんな突拍子もない二人の応酬を見た青年は怪訝顔で固まることしかできない。やがて営業スマイルに情欲をブレンドさせた表情で、青年が真意を問おうと口を開いた、正にその瞬間。
世界から、音が消えた。
雨粒が窓をたたく音も、暖炉の薪がはぜる音も、すべて消えうせた。あらゆる音を奪うだけの凄まじい轟音が生まれ、空気を激しく揺らした。次いで吹き荒れた紅蓮の灼熱が、色欲に染まっていた若い青年の体を跡形もなく燃やし尽くす。ホテルに預けられ、男と少女のもとに届けられた荷物の中身は――人間数人をまとめて吹き飛ばせるだけの威力を持った”爆弾”だった。
寂れた街に似つかわしくない火炎と衝撃波が、ホテルを内側から食い荒らしていく。火薬の臭いが混じった煙がたちのぼり、白濁していた空を黒く染め上げた。
「だから、”危ないから気をつけたほうがいいよ”って言ったのにね」
よく通る少女の声。
「くっくっくっ……なるほどなるほど、やってくれんじゃねぇか」
腹を抱えて、男は笑う。
「いいねえ。娯楽のひとつもねえ街だと思っちゃいたが、ちょうどいいアトラクションがあるじゃねぇかよ!」
「バカは気楽でいいね。こういう面倒なことになるから、あたしはあんたと一緒にいたくなかったんだ」
壁や天井が吹き飛び、野ざらしとなった部屋のなかに、紅い髪をした男と亜麻色の髪をした少女が背中合わせで立っていた。至近距離で爆発したにも関わらず、彼らの体には傷一つない。冷たい雨が、ぽつぽつと衣服に染み込んでいく。見上げれば、天井に大穴が空いていた。これでは雨漏りどころの話ではない。
すでに二人は囲まれていた。
まるで獲物にたかる蟻のように、階下の公共道路には漆黒のローブをまとった人間たちが大挙して押し寄せて、ホテルを完全に包囲している。その数は百や二百ではきかないだろう。すでに街の住人たちは異常を察し、我先にとこの場から逃げ出そうとしている。冷たい雨だけが、変わらず降り注いでいた。
「……《悪魔祓い》か。あたしらを追ってきたんだね」
「相変わらず辛気くせぇツラしてやがる。狂信者どもがよ」
《悪魔祓い》。それが男と少女のもとに爆弾を届け、深い黒の外套をまとった人間たちの総称。痩せこけた頬に落ち窪んだ目、青白い肌、肉の落ちた手足、暗澹とした表情、その足取りは亡者のようにおぼつかない。全員が頭までフードをすっぽりと被っているせいで、薄気味悪さが余計に増している。
狂信者の群れは抑揚のない声でぶつぶつと呪詛を唱えながら、赤く充血した目で高みにいる男と少女を見上げている。そこにあるのは病的なまでの執念。怨恨。憎悪。敵意。憤怒。悲憤。総和した負の感情は、人の醜さを再確認させて余りある。もし神がこの光景を目の当たりにしたならば、己が創造を省み慙愧に至るだろう。
だが忘れるなかれ。この世には膨大な”群”を、単騎で凌駕する”個”が存在することを。
「はっ、おもしれえ――」
男の屈強な体から、禍々しい波動が流れ出す。総身にたぎる武威が、紅い髪を乱雑に揺らした。男は歓喜に震える。これでもうネズミみたいな生活は終わりだ。退屈しのぎにちょうどいいおもちゃが現れたから。だがしかし。
「頭が高ぇよ。ひれ伏せ、人間ども」
解き放たれた威圧は、天災のごとき壮大さでホテルの周囲に伝播した。誰も彼もが膝を折り、耳を抑えてうずくまる。その光景を見た男は、口角をつりあげた。それでいい。ひれ伏せ、人間ども。
「待ちな」
いまにも飛び出さんばかりの男を、少女が呼び止める。
「あんた、忘れたわけじゃないだろうね。いまは大事の前なんだ。ここで騒ぎを大きくして、世界の目を引きつけるわけにはいかないよ」
「じゃあ何か? 尻尾巻いて逃げろってか? はっ、冗談じゃねえ! いいか、オレらは喧嘩を売られてんだぜ? 歯向かってくる連中は、みんなぶっ殺してやらなきゃ気が済まねぇよ」
気分が高揚しているのだろう、男の声はずいぶんと荒くなっている。それに呼応するように、爆発に見舞われても冷静なままだった少女の顔に、かすかな苛立ちが浮かんだ。
「寝言は寝てから言いなよ。《グシオン》からも注意されてただろ。なんのためにあたしがあんたの子守をしてると思ってるんだい?」
「知るかタコ。んなもん頼んだ覚えはねぇだろうが。《アスタロト》のやつから連絡がくるまでの間、好きに遊ばせろや」
「あたしを怒らせたいのか?」
「それもいいかもしんねえなぁ。それで? てめぇが怒ったらどうなるってんだ? え? 愛想のいい売女にでも変身すんのか? ……くっ、ははははははっ! わりぃわりぃ! 想像したら笑っちまった!」
「……よく言った。長い付き合いもここで終わりにしてやるよ」
少女の身体から、男のものよりも遥かに強大な波動が溢れ出した。それは人の理では計りきれない力の発露。泣いていた空がさらにその表情を曇らせて、台風のように乱れた風雨が街を襲う。
まさしく一触即発の彼らが、不自然な風の流れを感じたのはそのときだった。振り向けば、野ざらしとなった部屋のなかに闇色の外套をまとった壮年の女が、さながら幽鬼のように佇んでいる。二つのオーラが張り詰め、音もなくせめぎ合っているこの場は、感受性の強い者が立ち入れば意識を奪われてもおかしくないのに。
つまり平然と現れた闖入者は、危機回避能力や生存本能に支障をきたすほど、正気を失っていた。
「おいコラ。ババアは引っ込んでろや」
「よく見な。あれは……」
忌々しげに一歩前に出る男を、少女が手を上げることによって制す。
壮年の女は、見覚えのあるバッグを抱えていた。あのホテルマンが部屋に届けたものと同一のそれだ。彼女が自爆攻撃を仕掛けようとしているのは火を見るよりも明らかだが、その顔には命を賭す者には相応しくない、幸せそうな笑みが浮かんでいる。
「ほ、ほ、ほ、ほ――」
壮年の女が、掠れた声で叫ぶ。
「滅びろ悪魔があぁぁぁああぁあああ!」
おぞましい絶叫とともに、バッグの中身が炸裂した。それは即効性の毒ガスを内包したカプセルだった。空気中に撒き散らされる毒性化学物質。撒布されてから分解されるまでの時間や加害の持続効果は短いが、殺傷能力には優れている。壮年の女は嘔吐し、呼吸困難に陥り、全身を痙攣させて間もなく死亡した。
「化学兵器か……また面倒なものを持ち出すね」
少女が無造作に手を振った。直後、鼓膜を突き刺すようなハウリングが生じ、まばゆい青の極光が彼らのいた空間を”射抜いた”。それが崩れかけていたホテルにとどめを刺し、陰気な現代建築は瓦礫の山となってがらがらと倒壊した。毒ガスは霧散し、ホテルの内部にいた人間は例外なく潰されこの世から消えていく。
だが信じがたいことに、降り注ぐ瓦礫の雨ですら男と少女を圧しつぶすことは適わなかった。巨大なコンクリート片が舞い散るなかを二つのシルエットが駆ける。床を蹴って落下する家具に飛び移り、そこから瞬時に次の足場を見繕っては岩壁を跳ぶ鹿のように何度も跳躍していく。崩落する瓦礫も、男と少女にしてみれば空中に架けられたアーチとおなじだった。
「ちっ、うざってぇ。なぁオイ、邪魔が入ってよかったじゃねぇかよ」
「命拾いをしたのはあんたのほうだろ」
やがて彼らは、プレス機と化したコンクリート片や大量の家具をすべてかわし、倒壊したホテルから二棟ほど離れた建物の屋上に着地した。男は心底うっとうしそうに眉根を寄せ、少女は服についた埃を手で払う。冗談としか思えない脱出劇も、この二人にとっては食後の一服となんら変わらない。
「なぁ、ひとつゲームでもしねぇか?」
新たなタバコに火をつけて、男は言う。
「オレとおめえ、どっちが先にこいつらのリーダーを見つけてぶっ殺せるか、競争すんのはどうだ?」
その脈絡のない提案に、少女はかたちのいい眉をひそめた。
「却下だね。そんなことしてる暇があるなら、この街から離れたほうが早いだろ。人間の足じゃあたしらには追いつけないからね」
「しらけること言ってんじゃねえよ。オレは妥協してやってんだぜ? これ以上、無駄に騒ぎを大きくしたくねえなら、オレよりも先に獲物を見つけてぶっ殺せばいいんだ。それができりゃオレは黙っておまえに従ってやるよ」
「……はぁ」
面倒くさそうに頭をがしがしと掻く。彼女の表情には、呆れよりも諦念のほうが色濃かった。
「いや、でも長い目で見れば、それも手としては悪くないか……」
少女の頭にひとつの発想が浮かび上がる。ここで派手に暴れることによって、世界の目を引きつけることによって、今後の活動をスムーズにすることができるかもしれない。
「……分かったよ。今回ばかりはあんたに乗せられてやる。要は、こいつら《悪魔祓い》の指導者を見つけて始末すればいいんだろ?」
「そういうこった。単純明快なルールさ」
男と少女は、屋上の縁に立って寂れた街並みを俯瞰する。狂信者たちが、二人を引きずりおろそうとするかのように手を伸ばし、怨嗟のこもった呻き声を漏らす。
たった二人の生物を滅ぼすためだけに戦争でも始めるつもりなのか、《悪魔祓い》の者どもは、その手に刃物から銃火器に至るまで思いつくかぎりの悪意を握り締めていた。
「さて。殺るかい」
両手の指を鳴らし、男がとなりを見やる。少女はつり気味の目を細めて、好きにしな、と呟いた。
「おぉ、言われるまでもなく好きにするがよ――だがその前に」
それは男にとっての礼儀だった。戦いの際に名乗りを上げるのは闘争に身を置く者として当然。他人の道理には従わない無法者でも、男には男なりのルールがある。
ゆえに名乗ろう。己が真名を。
「我が名は《フォルネウス》! ソロモン王に賜った序列は第三十位! なぁオイ劣等ども! このオレの真名を耳にしたんだ! もう死んでも悔いはねぇよなぁっ!」
どす黒い愉悦をあらわにして、紅い髪をした男――フォルネウスは階下に飛び降りていった。いや、そんな生易しいものではない。流星のごとき勢いを伴った落下は、舗装された道路に大きなクレーターを作り出した。ずしん、と大地が揺れ、土砂と細かな破片が舞い上がる。
「さぁ、始めようじゃねぇか」
陥没した大穴の中心にたたずみ、周囲をぐるっと見渡してから、フォルネウスは不敵に告げた。狂信者の集団がニタニタと病的な笑みを浮かべ、民間人は恐れをなして逃げ惑う。騒ぎを聞きつけて出動してきた警察は慌てて拳銃を取り出し、投降を促そうと声を張り上げた。
「う、動くな貴様! 両手を上げて――」
「ズレてんぞ公僕。オレの前でイキってんじゃねえ」
フォルネウスが駆けた。人ごみをすり抜け、自分に銃口を向けていた警官に肉薄すると、その首をただの手刀で斬り落とした。勢いよく血が噴き出て、ボーリング玉ほどの物体がごろりと転がる。一瞬、嘘みたいに場が静まったあと、
「殺せぇ……殺せぇ……悪魔を、殺せぇぇぇええええ!」
黒い外套をまとった《悪魔祓い》の者たちが一斉に蜂起し、
「逃げろ! 殺されちまうぞ!」「退いてよ、退いて! 退きなさいよ!」「俺が先だ! やめろ服ひっぱんな!」
恐慌した民間人が蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、
「う、撃てぇ!」
フォルネウスの危険性を目の当たりにした警官たちが集中砲火を開始した。銃声や爆音が鳴り響き、次いで悲鳴がこだまする。
「そうだよやりゃできんじゃねぇか! せいぜい足掻けや人間ども!」
指先にしたたる血を舐めとりながら、フォルネウスが吼えた。立派な街路樹がならぶ大通りは、このときを持って戦火に包まれた。首が飛び、手足が千切れ、臓物が吹きこぼれる。建物に穿たれる弾痕、爆炎に晒される街路脇の自動車、化学兵器に汚染されていく空気。ヒトが空想する地獄という場所は、意外と身近に転がっているものだなと、その光景を眺めていた少女は思った。
「あのバカ……派手にやりすぎだね」
こと殺しという分野において、フォルネウスの右に出る者はそういないだろう。だがなまじ戦闘能力が高いだけに、こうして暴れたときの被害も尋常ではない。決して愚かな男ではないのだが、損得を勘定する利口さを持たないのも確かである。
少女に向かって、下の道路にいた人間たちが狂ったように発砲してきた。まともに照準もしていない銃弾は、しかし数を撃てば当たる道理。雨は狙って降り注がずとも、地にいる者を確実に濡らすように。
「死にたくないなら黙ってな」
言って、右手の人差し指を前に伸ばす。それだけで大量生産の鉛弾は消し飛んだ。彼女がその身から放つ波動は、遥かなる蒼穹のように澄んでいながら、邪悪なフォルネウスのそれを凌駕していた。
「あたしはソロモン72柱が一柱にして、序列第十三位の大悪魔ベレト。恨むなら、信仰する宗派を間違えた自分を恨みなよ」
すでにベレトの眼下には、フォルネウスが生み出した惨状が広がっている。軽く息を吸うと、火薬や血の臭い。そして生物の脂が焼けた臭い。それは嗅ぎなれた、死の臭い。幾星霜を経ても変わることのない、人が紡ぎだす忌むべき臭い。
ベレトは疾風にも劣らぬ速さで街を駆けながら、この狂信者たちを率いている何者かを探し始めた。都会と比べると開発の進んでいない田舎の街並みが視界を流れていく。
建物の屋根から屋根に飛び移る最中、何者かの視線を感じた。見下ろせば、階下の道路にたくさんのパトカーが停まっていて、青い制服を着た大勢の警官がそれなりに洗練された挙措で拳銃を照準していた。
「構わん! 撃て!」
「し、しかし、あれはどう見ても……」
「外見に惑わされるな! よく見ろ! 人があれほど速く動けるものか!」
美しい少女の容姿に躊躇いを覚える者もいたが、それでも風よりも速く駆けるベレトの脚力は、彼らの常識というフィルターを取り外すにはじゅうぶんだった。数瞬ほど葛藤してから、警官たちは空中にいるベレトに向けて発砲した。連なる銃声。
「……ったく、どいつもこいつも」
ベレトが投げやりに右の人差し指を停車しているパトカーの一台に向けた。それと同時、音響機器を共鳴させたような甲高い音がして、青の極光が弾けた。まばゆい光芒が、パトカーを貫く。衝撃波が波紋のように周囲に広がる。警官たちは拳銃を落とし、尻餅をつき、顔を腕で護って吹きすさぶ風の暴力に備えた。
「……な」
衝撃が過ぎ去ったあと、恐る恐る顔を上げた警官は、そこに信じられない光景を見た。パトカーが消滅している。あたりには自動車の残骸らしきものが散らばっている。先の一瞬に、いったい何があったのか。
「一度だけ忠告してやるよ。これ以上やるってんなら、あたしはあんたらを殺す」
遥か高みからベレトが告げる。まるで神のような超然とした言い草だった。しかし、彼女の言葉が決してハッタリではないことを警官たちは理解していた。治安維持の象徴である赤と白を基調とした警察車両を、人知を超えた力で破壊されたのだ。警官の多くは心を折られ、呆然としたままベレトを見上げていた。
「……ま、忠告しても無駄な連中もいるみたいだけどね」
ベレトの目に《悪魔祓い》の群れが映った。「あの少女には近づくな!」と怒鳴る警官を無視して、狂信者たちはふらふらとした足取りでベレトに迫ってくる。風に乗って、戦いの匂いがした。人間特有のねっとりと絡みつくような陰湿な殺気が満ちていく。
見かねた警官のひとりが、黒い外套のフードを頭まですっぽりと被った若い女の腕を掴み、力づくで避難させようとした。しかし次の瞬間、警官は口から血を吐き、腹を押さえてくずおれた。腕を掴まれていた若い女が、手に血まみれのナイフを持ったまま不気味に笑っていた。同僚が刺されてパニックになる警察連中とは対照的に、黒尽くめの集団はまったくと言っていいほど統率を乱さず、ただ血走った目でベレトを見上げるだけだった。
ベレトは小さくため息をつき、手早く終わらせようかと、気だるげに右の人差し指を前に伸ばした。
いつ頃からか、《悪魔祓い》と呼ばれる組織が誕生した。母体となったのは、近代になってから創始された比較的新しい新興宗教。星の数ほど存在する宗派のなかでも彼らが凡俗として埋もれなかったのは、掲げる思想や戒則がとにかく分かりやすかったからだ。
”神を崇めよ。隣人を愛せよ。自然を慈しみ、動物に感謝の意を捧げよ。されど、決して《悪魔》だけは許すまじ”
前身が宗教団体だったこともあり、《悪魔祓い》に属している者の多くは民間人だ。しかし宗教にのめりこんだ人間とは厄介なもので、彼らは教義に殉じるためなら、自分の命ですら道具のように扱う。無関係の者を巻き込むことなど前提だ。飛行機を落とすことも、豪華客船を沈没させることも、一つの街を戦火に包み込むことも厭わない。
病的なまでの執念により、なにもかもを犠牲にして、ただ《悪魔》を滅ぼすことだけを是とする。この厄介すぎる性質から、《悪魔祓い》は、裏社会では忌むべき”狂信者の集団”として強く警戒されている。
「そうだ、そうだ、そうだ! そうだそうだそうだ……!」
その老人は、草木の生い茂った丘の頂上にそびえる教会の麓から、絶望に包み込まれた街並みを見つめていた。
北欧には《悪魔祓い》の支部がいくつか存在するが、そのうちの一つを指導する、司教という位階を賜ったのがこの老人だった。
数週間ほど前、他国に根を張る同胞から、二柱の《悪魔》がそちらに向かっていると連絡を受けた。それは老人にとって革命的な情報だった。
悪魔の定義はとてつもなく曖昧だ。欧州では低級悪魔に分類されるオドも、日本では強い力を持った悪霊とみなされる。吸血鬼がそうだと呼ばれた時代があれば、異能を持った人間のことを指す地域もある。
だが世界中の組織が共通して悪魔だと認識している正真正銘の怪物が、この世に72体だけ存在する。ソロモン72柱と呼ばれる彼らこそ、《悪魔祓い》がその教義において否定している打倒すべき敵だった。
「殺せ! 殺せ、殺せ、殺せ! 殺せ殺せ殺せっ! 悪魔はみんな殺してしまえぇぇぇぇっ!」
総力戦だった。ありったけの武器と、ありったけの人員を導入した。いつもは老人のそばに控えている幹部たちですら、いまや一人も残っていない。悪魔を滅ぼすためだけに、誰もが命を捨てている。
「そいつらは邪悪なのだ! 存在してはいけない、存在していることが間違いなのだ! だから正せ! 悪魔がいない世界を作り上げろ!」
もはや老人には、何も残っていなかった。
育ててくれた親がいた。信頼しあえる友人がいた。添い遂げようと誓った女性がいた。己の血を分けた子供がいた。だがいまはもう何も残っていなかった。
すべての始まりは、彼の娘が、オドに取り憑かれた人間の手によって殺されてしまったことだった。絶望に暮れた彼は、何かに縋らなければ生きていけなかった。だが真の意味で彼が不幸だったのは、娘を殺されたことではなく、手を伸ばした先にあったものが、異質な宗教だったことだろう。
その邪宗門には、彼と似たような境遇の者が大勢いた。信仰を続けるうちに高度なマインドコントロールを受けた。信者は狂信者に、純粋な想いは執念に変えられた。家族を殺し、家や土地を売った。いつしか彼は、多くの信者をまとめる立場と権力を手に入れていた。
すでに彼は、どうして自分がここまで悪魔を憎んでいるのかという理由や、娘を殺されときの無力感と絶望を忘れてしまっていたが、その心にこびりついた我執だけは絶えていなかった。
脳裏に薄っすらと、かつて抱き上げた愛しい我が子のかんばせが浮かび上がる。貴様らさえいなければ、私の人生は狂わなかったのに。貴様ら《悪魔》さえいなければ、私の娘は死なずにすんだのに。
「なればこそ――私はあの邪悪な者どもが許せないのだ!」
老人が吼えると同時に、雨音に混じって甲高い耳鳴りがした。
「あたしらがいなくなっても、この世界は変わらないよ。あんたら人間には、それが分からないんだね」
老人以外には誰もいないはずなのに、どこからともなく少女の声が聞こえてきた。彼が血走った目であたりを探っていると、上空から『何か』が射られた。すぐそばに建っていた古い教会が、跡形もなく消し飛ぶ。桁外れの破壊力だった。
気付くと彼は、赤黒い血溜まりのなかに倒れていた。見れば、腹部から大量に出血している。おそらく教会が木っ端微塵になった際、勢いよく散らばった建材のひとつが、彼の腹を切り裂いたのだろう。
「あんたが指導者だろ? 想像よりも年が行ってたから探すのに苦労したよ」
離れたところに、ひとりの少女が立っていた。ツリ気味の目と、肩口よりもすこし長い亜麻色の髪。血も凍るほど美しい少女だった。およそ人間に許された美貌を越えている。
少女の華奢な肢体からは、針のように練磨された波動が迸っていた。内側から溢れ出る力が、雨に濡れた服を揺らしている。死に直結する傷を負ったせいで老人の意識は霧のように霞んでいたが、それでも目の前にたたずむ少女の正体に気付かないはずがなかった。
「そうか……貴様のような小娘だったのか。この悪魔めっ!」
「悪魔ね。否定はしないけど、平気なツラして同族を巻き込むあんたたちにだけは言われたくないよ。あのホテルマンに爆弾詰まったバッグを持たせたの、あんただろ?」
「黙れ! あれは必要な犠牲だったのだ! 私は貴様らを……ぅっ、かはっ!」
老人の口から鮮血が吹きこぼれる。死に瀕した彼を、少女は腰に手を当てたままの体勢で見つめていた。
「もう長くないみたいだね。それにあんた、もともと死病を患ってるだろ。安静に暮らしても、せいぜい一年ちょっとしか持たなかったはずだよ」
「……よく分かったな。さすがは悪魔とでも言うべきか。医者に言わせれば、私の命はあと半年ほどらしい」
本当は、今日の作戦のために、体内に殺傷力の高い生物兵器を埋め込むつもりだった。こういう状況のとき、《悪魔》を道連れにできるように。
しかし加齢にともなう肉体の衰弱と、長きにわたる闘病生活の二重苦が、老人から手術に耐えうるだけの体力を奪っていた。兵器を埋め込む手術が無事に完了しても、麻酔から目覚めることができなくては意味がない。つまり老人にはもう、少女を滅ぼす手段がなかった。生涯を賭けた悲願が潰えるのは、何とも呆気ないものだった。
「……貴様の名を、聞かせてもらおうか」
「ソロモン72柱。序列第十三位の大悪魔ベレト。それがあんたを殺したやつの真名さ」
「ふ、ふふ、そうか……なるほどな」
老人は笑った。真名さえ分かっていれば、死んでも呪うことぐらいならできるかもしれないから。
そうして彼の生涯は幕を閉じる。走って走って走り抜けて、振り返った先に残っているものは空虚な過去だけ。そこに救いはない。
だが彼は後悔していなかった。他人から見れば不幸すぎる人生でも、彼から見ればそう捨てたものではない。なぜなら最後に、自分を殺した悪魔の名を抱いて、ともに地獄に堕ちることができるのだから。自分さえ満足できれば、それでいい。
狂信者の末路など、得てしてそういうものだ。
北欧の北大西洋上に位置するこの国は、独自の軍事力を保有していない。ゆえに安全保障の大部分は、北大西洋条約機構の協力およびアメリカとの防衛協定によって確保している。だが対テロなどの組織的な危機に対抗する手段は持たずとも、治安維持を目的とした国家警察は設置されている。
さりとて凶悪犯罪が数年に一度起きるかどうかの田舎町に勤める彼らに、迫り来る害悪を取り除く力などあるはずもなかった。
「なぁ。ビールが飲みたいとは思わないか?」
「いいですね、それ。今夜にでも一杯引っ掛けますか」
立派な街路樹の立ち並ぶ大通り。青い制服を着込んだ二人の警官が、道路の中央に停めた警察車両をバリケードにして、雨に濡れた路面に直接しゃがみこんでいる。
住人の避難が終わり厳重警戒態勢が敷かれた町からは、元から薄かった活気が完全に消えうせていた。ずっと向こうのほうから鳴り響く警報が、ひどく危機感を煽る。耳を澄ましても人の息吹は聞こえず、ただ、ざあざあと降り注ぐ冷たい雨が耳朶を打つだけ。
「なんで俺、こんな仕事を選んだんだろうなぁ。勤務時間は不規則だし、忙しいわりにゃ給料も低いしよぉ。俺みたいないい男に嫁さんがいないのは、きっと仕事のせいだろ」
「まーた先輩の言い訳が始まった。そんなに嫌なら辞めたらいいじゃないですか。言っときますけど、俺は引き止めたりなんかしませんよ」
「バカ。いまさら再就職する気力なんかあるかよ。それに俺、この仕事嫌いじゃないからな」
「どっちなんですか、いったい」
「いまだから告白するけどよ。実は俺、ガキの頃から正義の味方ってやつに憧れてたんだ。そんで気付いたら、この仕事を選んでた。単純だろ? 笑いたけりゃ笑っていいぞ」
「あはははは!」
「マジに笑うなよ……」
警官の男は、腹を抱えて笑い転げる部下をねめつけた。そろそろ数年近い付き合いになるが、いまだに上司を敬おうとしない態度には困ったものだった。
あまり緊張感がない会話を続ける二人だが、その実、彼らの胸中には不安や不満が濃霧のごとく立ち込めている。そもそもの発端は、十数分ほど前にもたらされた無線連絡。肝心の内容は、ひとまず現場指揮官の正気を疑ってしまう程度にはお粗末なものだった。
”そちらにテロリズムの容疑者が向かっている。相手は単犯である。発見次第、無力化せよ。もちろんのこと生死は問わない。第四警戒態勢が発令された現在、厳重警戒圏内においてのみ携行した拳銃の使用も全面的に許可される。諸君の健闘を祈る。”
いま思い返しても、それは冗談としか思えない指令だった。まずテロが単独犯によって引き起こされるなど聞いたことがない。こんな辺境のド田舎に暴力をもたらしたところで、政治的利益など微々たるものだろうし、実際、犯行声明の類は一切出ていないようだった。
第一、テロを収めるのは軍隊や専門の訓練を積んだ特殊部隊の仕事だろう。人手の多くが住人の避難に当てられているせいで、町を襲う危機を沈静化するだけの手が足りないのは理解できる。だから手が空いていた自分たちが現場に回されるのも仕方ないとは思うが、拳銃を撃つことさえ滅多にない末端の構成員に、いったい何が出来るというのか。
「……言い忘れていたが、おまえ、逃げたければ逃げてもいいぞ。今回だけは仕事をサボっても文句は言わん。だれだって命は惜しいだろうからな」
「はあ? なに言ってんですか。いつも俺のことを鬼みたいに叱るくせに」
「まぁ、おまえ若いからな。それに綺麗な彼女いるじゃないか。こんな馬鹿げた仕事に付き合う暇があるんなら、その子、幸せにしてやれよ」
「先輩には似合いませんって、そんな格好いい台詞。あと彼女とは先週別れちまいました。だからつれないこと言わないで、いつもみたいに俺を口うるさく叱ってくださいよ。いまだから言いますけど、実は俺も……っ!?」
ぞくり、と肌が泡立つ。背後に不気味な気配を感じて、二人は振り返った。そこには様々な武器を持った狂信者の群れがじっと佇立している。その生気のない風貌からは、悪霊や幽鬼といったネガティブなものを連想させる。
「こ、この人たち、いつの間に……?」
部下が狼狽しながら言う。だが警官の男は、もっと他のことが気になっていた。黒尽くめの集団は、一心不乱に前方を、バリケードにした警察車両の向こう側を見据えている。見つめる先には何があるのか。好奇心をくすぐられた警官の男はわずかに腰を浮かし、彼らの視線を辿ってみた。
「――何年、何十年、何百年と経っても変わんねぇなぁ」
数十メートルほど向こうから、紅い髪の男が紙巻き煙草を咥えながら歩いてくる。色男と言って差し支えない、どこか浮世離れした容姿だった。何かに飢えた鋭い目が、雨露のなかで炯々と輝いている。それは荒々しい威圧を撒き散らしながら、踏み出す一歩ごとに静まり返った大通りを支配していく。風が止んでいるにも関わらず、街路樹が激しくざわめいた。
「てめぇらはいつでも、いつまでも愚かなままだ。いい加減、理解しろや。てめぇら人間に、オレたち《悪魔》は殺せねぇよ」
深紅の男と、漆黒の集団が対峙する。彼我の距離は三十メートルほどだろうか。素人目にも明らかな殺気が張り詰める。眼球の動き、呼吸の強弱、そして唾液を飲み込むことですら気を遣うような緊張感。
「……まぁ、クソみてぇな妄念に囚われた莫迦どもに言っても無駄か。いつでもいいぜ。死にに来いや」
多分に嘲りの交じった笑みを口端に刻み、紅い男は短くなった煙草を宙に向けて弾いた。灰を散らしながら、くるくると舞い上がる紙巻き。それが路面の水溜りに落下し、ジュッと音を立てた瞬間、闇色の群れが奇声を上げながら紅い男に突撃していった。
「せ、先輩。あの紅い男、何だと思いますっ?」
「知るか! 大方、あいつが例のテロの容疑者なんだろうよ! それよりも問題は、この黒いヘンテコな格好をした集団だろ! なんだ、こいつらは丘の上の教会で新手のミサでもやるつもりなのかっ!?」
「俺に聞かれても知るわけないでしょう! こっちが聞きたいぐらいっすよ!」
彼らは蚊帳の外だった。あらかじめこの場に陣取っていたのに、紅い男も、そして邪宗門の徒も、警官二人には目もくれない。そうこうしている間にも、漆黒を象る亡者の群れは、紅い男に捨て身の特攻を仕掛けていく。絶え間なくこだまする争いの音、悲鳴と断末魔、正気を失ったような笑い声。この場に長く留まるだけで、間違いなく気が狂う。
「くそっ、さすがに二人じゃ何もできんぞ! おい、帳場のお偉いさんに連絡を取るから無線をよこせ! まずは、うおっ!?」
立て続けに爆発が起こった。通りに立っている街路樹が勢いよく燃えながら倒れる。熱風が吹き荒れ、警官の男の前髪をちりちりと焦がしていく。彼は制帽が飛ばないようにと手で押さえた。
「なにが起こった!?」
「分かりません。たぶん、手榴弾かなにかを使ったんじゃないでしょうかね。でもこれであの紅い髪の男も……」
部下の希望的観測を打ち砕くように、火炎のなかから悠然とした足取りで紅い男が出てきた。口元に、笑みを貼り付けて。
「いいねぇ! その見境のねぇとこは好きだぜ! おらっ、どんどんかかってこいや! 悪魔祓いの信者さんたちよぉ!」
血に飢えた獣が狂奔する。銃弾すらもかわす常軌を逸した運動能力。紅い男は、なんの道具も使わず素手で人間の身体を切り裂いていた。まるでワインのコルク栓が跳ぶように、人の頭が宙を舞う。街に降る雨が、この一瞬だけ赤くなった。
「先輩、正義の味方に憧れてたんでしょう? だったらあの怪物、どうにかしてくださいよ!」
「バカ言うな! 小便チビるの我慢するのが精一杯だ!」
正直な話、警官の男は”逃げようか”と迷っていた。ここで半端な正義感を振りかざしても命を無駄にするだけだ。それは勇気ではなく無謀だろう。
彼らに与えられた最初の指令は、大まかに言って特定地域を哨戒しながら逃げ遅れた住人を捜索し、発見次第保護することだ。しかし今のところ街にいるのは黒い外套をまとった集団と、人の理を外れたバケモノだけ。
警察とは、治安を守り、困っている人に手を差し伸べるのが仕事なのだ。人間としての矜持や常識を捨てた連中をどうこうするために、ひとつしかない命を捨てるのも馬鹿げている。
「……逃げる、か?」
深く思考に没頭していた彼は、無意識のうちに小さな声で呟いていた。それはとなりに座っている部下にも聞こえないような、か細い声だったにも関わらず。
「おもしれえ。逃げてみな。十秒待ってやるよ」
警察車両を隔てた向こう側から、ありえないはずの返事があった。ふと気付けば、もう銃声はしない。悲鳴も、哄笑も響かない。警官の男が十数秒ほど自己の世界に没頭している間に、あたりは不気味なまでの静寂に支配されていた。この場で生きているのは、たった三人だけになっていた。
「よぉ。てめぇらに言ってんだぜ?」
低く押し殺した声が耳朶を打つ。それで確信した。この男は、あれだけ大量の殺人を犯したのに、まだ殺したりないと言っている。自分たちに死ねと、とっととオレに殺されろと、そう言っている。
「……ちくしょう。ジョークにしても笑えんぞ」
「まったくもって同感ですね……」
不思議と恐怖に取り乱すようなことも、無様に命乞いをすることもなかった。きっと彼らは漠然と理解していたのだ。ああ、もう俺たちは助からないなと。尻尾巻いて逃げても追いつかれて殺されるだろうなと。警官二人は観念して尻を浮かし、警察車両の陰から出た。
「手段は問わねえ。面白けりゃ何でもいい。万物の霊長を自認する人間様の底力を見せてくれや」
言って、悪魔が示威的にゆっくりと歩いてくる。ほとばしる波動が、路面に溜まった水溜りに力強い波紋を起こす。衣服の下に眠る四肢は、いかなる肉食獣の追随も許さぬほどの性能を生み出し、有象無象を蹂躙する。動物としての究極を体現した、生粋の狩猟者。この紅い髪の男からすれば、人間など喰らうだけの獲物に過ぎないだろう。
そのとき、一発の銃声が、通りに反響した。
警官の男が我に返ると、となりにいる部下が構えた拳銃を発砲していた。銃口からもうもうと立ち上る硝煙。放たれた弾丸は雨を切り裂き、紅い男の顔面にあやまたず命中していた。大きく仰け反った顔が、銃弾の威力を物語っている。さすがのバケモノも、現代兵器が急所に直撃してはひとたまりもあるまい。
「……ぬりぃな。度胸はあっても殺意が足りねえ。”殺してやる”じゃなくて”死にたくない”だ、そりゃ」
嘲笑する。歯と歯のあいだに鉛弾を挟んだまま。
「ば、バケモノが……!」
「うぜぇよ劣等。寝言こいてる暇があんなら、とっとと殺り合おうじゃねぇか。それともオレから行ってやろうか。あぁ、安心しろ。ちゃんと手加減してやっからよぉっ!」
紅の悪魔が疾走する。踏み込みの衝撃でコンクリートが陥没していた。ただ直進するのではなく、周囲の建物の壁を蹴りつけて空間を三次元的に駆けてくる。
「先輩っ!」
部下の声がした。反射的に大きく横に跳ぶ。かたわらにあった警察車両が、紅い男に薙ぎ払われて、きりもみしながら吹き飛んでいく。人間にとっての乗り物は、紅い男にとって障害物にすらならなかった。
「こんの……!」
でたらめに拳銃を撃ってみるが当然のように当たらない。暴力を備えた風を、人間が捉えられるわけがない。
逃げろ。警官の男は、部下に向けてそう叫ぼうとした。この正体不明の怪物には抵抗など無意味だ。まだ逃げたほうが生き延びる可能性はある。恥だとしても、警官失格だとしても、正義の味方にあるまじき行為だとしても、ここは逃げたほうが絶対に賢い。事実、このとき男は逃げようとした。
「……あのバカ!」
しかし部下は、果敢にも立ち向かっていく。違うだろう、と警官の男は思った。お前はそんな格好いい奴じゃない。俺の目を逃れて仕事をサボるのが得意技だったじゃないか。そのあと二人で、仕事の愚痴を言い合いながら酒を呑むのが日課だったじゃないか。
「先輩」
部下がこちらに振り向く。その顔には、確かな勇気が宿っていた。警官の男が幼いときに見たヒーローショーの主役にも負けない、どこまでも格好いい漢の顔だった。
「いまだから言いますよ。べつに俺は、先輩の夢を笑ったんじゃないっす。ただ可笑しかったんです。だって……」
彼は照れくさそうな顔でつぶやいた。
「俺の夢も、正義の味方だったんですから」
そんな恥ずかしい告白が、部下の最期の言葉だった。いつも怠惰で、仕事の手際も悪くて、でも困ってるやつは放っておけないようなお人よしで。そうか。おまえが警察の仕事に愚痴を言いながらも退職しようとしなかった理由がようやく分かった。俺と一緒だったんだな。
「なるほど、悪くねえ。腕はからっきしだが、久しぶりに殺し甲斐のある野郎だった。こういう莫迦は嫌いじゃねぇぜ」
新たな血が流れる。心臓を抉り取られ、ガラス細工のように虚ろな目をした部下が、紅い男の足元に倒れていた。
「……俺は」
「あん?」
俯きながら、歯噛みしながら言葉を搾り出す。なによりも許せないことがあったから。我ながら単純だとは思うが、市民を護る警官として、正義の味方に憧れた男として、もう退くことはできなくなったから。
「俺は、そいつの上司だ」
拳銃を構える。震える手で。恐怖ではなく、怒りによって震える手で。
「知らねぇよ。無駄口たたく暇があんなら、その手にあるオモチャをぶっ放してみな。一発でも当てることができりゃ楽に殺してやるよ」
気に入らなかった。このクソ野郎が。笑ってんじゃねえよ。いまおまえの足元にいる、そいつは。
「俺の大切な部下なんだよぉ!」
銃声が轟く。ざあざあと冷たい雨が降っていた。制帽を被っているのに、警官の男の顔は確かに濡れていた。悪魔の顔は、確かに哂っていた。
近くの路地から新たに涅色の衣をまとった者たちが現れ、紅い男を認めるや否や病的な笑みを浮かべる。大勢の足音に混じって、ぼそぼそと囁くように「悪魔は殺せ悪魔は殺せ悪魔は殺せ」と抑揚のない合唱が聞こえる。それは聞く者の心を蝕む、醜悪なコーラスだった。
「ゴキブリみてぇな連中だな。殺しても殺してもキリがねえ」
新たな掃討を始める直前に、紅い男は――大悪魔フォルネウスは告げた。
「よぉ、ポリ公ども。てめぇらの根性と気迫は見事なもんだったぜ。機会がありゃあ、また生まれ変わって挑みに来な。いつでも待ってるぜ、正義の味方さんよ」
それはフォルネウスなりの賞賛だった。旧来の友に向けるような笑みを口端に刻み、深紅の大悪魔は踵を返した。
通りの隅には、青い制服を着た男が二人、並んで眠っていた。
豊富な若緑に囲まれた丘の上からは、戦火に包まれる町が一望できる。原型を留めないほどに破壊された教会の跡地には、黒衣をまとった老人の亡骸が雨に打たれていた。その冷たい骸を、ひとりの少女がじっと見つめている。
乱暴な風になびく亜麻色の髪は、華奢な肩口よりも少しだけ長く、活発でありながらも清楚なイメージを抱かせる。滑らかな肌は、雨に濡れて生来の白さがより顕著となっていた。ピンと吊り上がった目が、儚げな美貌に力強い芯のようなものを加えている。
ソロモンの序列第十三位に数えられる少女は、名をベレトという。
物言わぬ屍と化した《悪魔祓い》の指導者を前にして、ベレトの胸中には哀れみにも似た感情が渦巻いていた。いつの時代も人間は愚かなままだ。自分たち《悪魔》を排除したところで世界はなにも変わらないというのに。これではあの子が、自分たちを捨ててまで王として生きようとしたあの子が、報われない。
「……ソロモン。あんたは」
「よぉベレト。もう終わったのかよ」
彼女の呟きを、荒々しい声が遮る。ベレトが振り向くと、そこには全身に返り血を浴びたフォルネウスが立っていた。紅い髪が、さらに濃厚な深紅に染まっている。吐き気を催すぐらい、彼は血の臭いを帯びていた。
すでに街は大変な騒ぎになっていた。多くの人間が殺され、建物からは火の手が上がっている。どこかで警報が壊れたように鳴り続け、至るところには凄惨たる破壊の爪痕が刻まれ、そこで起こった惨劇の度合いを物語っている。
「いやぁ、スッキリしたぜ。やっぱりフラストレーションってのは溜めに溜めて、一気に発散するのが一番だなぁ」
悪魔祓いを率いていた指導者を先に殺す。それがこのゲームのルールだったはずだが、勝利したベレトは不機嫌に、そして敗北したはずのフォルネウスは上機嫌な顔をしている。
「……あんた、初めからやる気なかっただろ? 街で好き勝手に暴れる時間を作るために、あんな勝負を持ちかけたんだね。あたしがこいつらのリーダーを見つけるまでの間、あんたは自由に殺しができたと」
「おいおい、そりゃ下衆の勘繰りってもんだぜ? オレは全力で殺ったさ。んで、おまえさんに負けた。それでいいじゃねえか。いまからオレは、おまえに従ってやるんだからよ」
「もう遅いね。ここまで騒ぎが大きくなったんだ。情報は海の向こうにまで流れるだろうし、法王庁の連中なら、あたしらがここにいたってことにも気付くはずだよ」
「べつにいいだろうさ。悪魔祓いに比べりゃあ法王庁なんざ可愛いもんだぜ」
「ま、半分だけ同意するけどね」
彼らが戦闘の余韻に浸っていると、ベレトの携帯電話に着信があった。それと同時に、フォルネウスの顔が曇る。
「なぁオイ。そんな人間が作った気色悪い機械なんざ捨てちまえよ」
彼は携帯が、というか便利すぎる機械があまり好きではなかった。
「便利だけどね、これ。そういうあんたも、人間が作ったタバコや酒を楽しむだろ。それと似たようなものさ」
「……そんなもんかねえ」
フォルネウスはそれ以上なにも言わず、小さく鼻を鳴らして、新たな紙巻き煙草を取り出した。
「あたしだよ。用件は?」
相手も確認せずにベレトは問いかける。この携帯に電話をかけてくる者は限られているからだ。
「……分かった。フォルネウスにも伝えるよ」
時間にして三十秒もなかった。ベレトは電話を切ると、犬猿の仲と言っても過言ではない同胞に声をかけた。
「よかったね。あんたの大嫌いな、このネズミみたいな生活は終わりだよ。《アスタロト》から連絡がきた」
「……ほぉう」
フォルネウスの動きがぴたりと止まる。次いで、その唇が不気味に歪んだ。血に飢えた紅い獣は、待ち望んでいた時が来たことを歓喜した。
「もうすぐ法王庁のやつらが、正式な手続きを踏んでくだんの国に入るらしい。あたしらも行くよ。もちろん、こっちも正式な手続きを踏んでね」
「……くっくっくっ、そうかよ、そりゃいいじゃねえか! 《グシオン》の野郎、ずいぶんと待たせやがったなぁ!」
「あたしも嬉しいよ。やっとあんたの子守から解放されるからね。ただ、あたしらは別に暴れに行くわけじゃない。むしろ今回みたいに好き放題に暴れることはできなくなるだろうね。そこんとこは忘れないでよ」
こうして二柱の大悪魔は、その場からひっそりと姿を消した。
「それじゃあ行こうか。日本へ」
北欧の片田舎に、未曾有の混乱だけを残して。
のどかな昼下がり、アルベルト・マールス・ライゼンシュタインは多忙な執務の合間に、愛飲している葉巻を楽しんでいた。
彫りの深い顔立ちと、白いものが混じった灰色の髪。目は鷹のように鋭く、筋骨隆々とした体は略式の軍服に包まれている。四十を過ぎたばかりの彼は、巌のような大きな存在感を持った人物だった。
彼のつかの間の休憩は、扉をノックする音によって終了した。アルベルトが執務机のうえにある灰皿に葉巻を置くと、書類や本棚で埋め尽くされた将校室の空気が引き締まった。
「入れ」
短く告げると、まだ若い下士官がきびきびと入室してきた。下士官は左の脇に書類の束を抱えたまま、右手で敬礼した。
「失礼します。戦隊長殿。第二セクションより報告書と、シュナイダー枢機卿より令状を預かって参りました」
差し出された二枚の書類を受け取り、ざっと目を通す。どちらも予想していた内容が記述されていた。
情報処理を専門とする諜報部……組織内部の者からは第二セクションと呼ばれる……からは、北欧で起きた《悪魔》が関わっていると見られる戦闘に関する詳細な調査報告。そしてシュナイダー枢機卿からは、極東の島国に入国する正式な認可が下りたという事実報告。
それらの重要な情報を咀嚼したアルベルトは、書類を机のうえに置いたあと、下士官に問いかけた。
「ファーレンハイト室長はどうしているね」
「はっ。室長は現在……その、ローマ市内にて必要物資の調達を行っています」
「率直に言いたまえ。室長はどうしているのかね」
繰り返し問うと、下士官は苦々しい表情を浮かべて訥々と言った。
「……室長は現在、ローマ市内にて買い物を楽しんでいます。かの地に合う衣服や小物を探すと」
「そうか」
アルベルトの胸中に、かすかな安堵が訪れた。それでいい。自分たちは間もなく欧州を離れ、くだんの国に入る。数週間前から水面下で進めていた手続きも無事に終わった。馴染みのある土地でゆっくりできる時間はもう幾許もないのだ。せめて彼女には、いまの間だけでも平穏を満喫して欲しかった。
やがて下士官が退出すると、アルベルトは窓のそとを眺めて、静かに呟いた。
「……日本か。あの男が死んだ地だったな。室長に深刻な影響が出ねばよいが」
法王庁異端審問会特務分室。彼らが日本の土を踏むのは、これより十日後のことであった。